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[161]……とある蛙[2013 07/24 13:22]
うんとMEMO
文学と言語機能1
言語とは何かという問いに対して
その機能面から考察すると、
まず、言語は事実や思想の表現・伝達の手段であると定義づけうる。
しかしながら、言語は伝えるべき情報の伝達手段、媒体の機能を持っているだけではない。
それ以上のナニカである。
そのナニカとは言語自体に内在する創造的意味作用の可能性
→美的あるいは詩的な機能とでも呼べるものがある。
言語が、伝達手段つまり客体ではなく、言語それ自体が主体となる機能も担っている。
(メモ)
1文学作品の記号性
?文学は言語を素材とする→絵画や彫刻とは異なる...
[160]こひもともひこ[2013 05/22 00:06]
>>157
ツさんへ:
紹介された映像『□□□(クチロロ)/あたらしいたましい feat. 金田朋子』は面白かったです。ボーカロイドのことはほとんど知りませんが、裏表ラバーズ「歌ってみた」の秋赤音さんの作品などは、文字の見せ方においては、現代詩を完全に追い抜いちゃってると思います。
・【たまには遊びたくなる】裏表ラバーズ、歌ってみた【秋赤音】.mp4
→http://www.youtube.com/watch?v=XoTUNtSw2ek
他に、歌ではありませんが、これに言葉が加わったら面白いだろうな、と思う作品を紹介。
・Kettel - Pinch of P...
[159]深水遊脚[05/20 07:24]
中川さん、蛙さん、お久し振りです。はなもとあおさん、はじめまして。ツさん、こひもともひこさん、こちらでははじめまして。
プロフィールのBBSでいろいろ呟いていましたが、引用するほどではないので、箇条書きでここにも記しておこうと思いました。
〇公に誠実なありかたと、私に誠実なあり方
詩は私に誠実なあり方を追求したものかもしれません。ただ、私的な誠実さを正しさだと錯覚してしまえば、主観的なもの(たとえばポエジー)を普遍的なものとして押し付けるような、おかしなことになります。ゆるい例えですが、普通に「これ面白いね」といえばいいところ、「え、面白いでしょ。なんで笑わないの?」と思わずと...
[158]ツ[2013 05/20 01:43]★1
(>詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので、やはり自分個人としての見解は持っていたいと思います。
と、はなもとさんがおっしゃるように、また僕のガクセー時代、ゼロ年代(笑)にもやはりこのもんだい意識はあって、ナニがゲー術で、ナニがゲー術ではないのか? そのへんをクリアにしないと何をやっても空虚(根拠のないゲー術つくること、関わること)だし、そーいうことを考えている人は多かったです。
そして、ごく個人的な話ではありますが、、そのことに対するぼくの周りのアクションのとり方としては、カオスラウンジ(http://www.youtube.com/watch?v=HpueFRzx0P...
[157]ツ[2013 05/20 01:15]★2
(はなもとさんへ
挨拶がおくれました。
えと、あらめまして、はじめまして、ツと申します。
ほとんど難クセのよーな文を寄越したのにもかかわらず、しっかりとお読みいただた上でのていねいな返信をどうもありがとうざいます。はなもとさんのゆってることはスゴクわかるとゆーか、心情としては近いきもしますが、そんな自分のキモチはカッコ入れにして、、引き続きややラジカルな立場からモノをゆってみたいと思います(いつか、あなたの前に、こーゆーことを言うひとが現れないとも限らないので)。
さて、まず、なぜ先日のよーな話をしたかとゆえば、僕は、
>詩は芸術か。
>詩を詩でかえす、返歌のよ...
[156]はなもとあお[05/19 12:04]
思考メモ。客観的な「歴史history」と主観的な「物語story」の間の区分について、考えなくてはならないかもしれない。『現代思想入門』参照。2013.5.18twitterにて
わたしは、歴史から勉強はじめないと、って感じ。歴史と物語の違いについてもさらに勉強、考察、思考が必要かと。
個人的テーマをもとに、思考メモを加えながら、少しずつゆっくり進めるつもり。
[155]はなもとあお[05/17 16:00]
……とある蛙さん
こんにちは。
いやいや、誤解を招く文章を書いてすみません。まだ勉強中ですし、自分の中である程度の見解を持とうとしている段階に過ぎません。はっきりわかってたら、このスレッドに書き込みしないし、もうとっくにどこかの詩壇でバリバリやってるんじゃないでしょうか。
ポエジーとか歌物語とかには自分自身向いていないと思うので、詩人ではないかもしれない、と常に思ってます。
それでも、「詩のようなもの」の付近にいることも、自分自身の不思議のひとつです。
誰かに弟子入りしたりする気持ちもまだなく、自分で納得のいくものを試行錯誤して書いていきたいなあと思ったりしています。
なので自己満足、自己完結の域を出ていないとも思われ、ポイントのたくさん入る詩の作り方も知らなければ、歌のようにみんなに親しまれるような作品を書ける訳でもないので、これからもこのスレッドにはお世話になると思います。
稚拙な文章で偉そうなこと言っているようにうつっていたら、ごめんなさい。そのイメージは出来れば訂正しておいてください。
今後ともよろしくお願いします。
[154]……とある蛙[2013 05/17 15:01]
はなもとあおさん はじめまして。
>詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので
ふ〜ん分かっているのですか。たいしたものですねぇ。
みんな悩みつつ、あーでもないこうでも無いと言って書いているのではないかと思っていましたが。自分だけですか。こんなこと考えているのは。
ところでちょいと思いついたことが出来たのでメモ風に書いておきます。
詩と散文の区別はどこでするのかという話で、分けのわからんポエジーと言うことを言う人がいます。ポエジーと言ったところでその定義が人それぞれで他人には意味不明です。勝手に自分でああだこうだ言って悦に入っています。ある意味馬鹿馬鹿しい。
結局、根底に歌があるのが詩で、根底に語りがあるのが小説を中心とした散文ではないでしょうか。そう考えた場合、混合したものも可能で、かつ詩人と呼ばれる碌でなしどもは歌物語みたいなものをもっと書くべきではないかと考えます。私はやらないですが(笑)
[153]中川達矢[2013 05/16 19:30]
皆さん、それぞれのスタンスを表明(?)してくださって、ありがとうございます。
詩に対するスタンスも様々であり、このような表明、外形化することによって初めてわかることもあるかと思います。
無責任なことを言えば、「その人にとって、その時、詩とはこういうものである」というものがあれば、その姿勢が、詩にもあらわれると僕は思っています。
それはつまり、人が異なれば、詩が異なるのと同様、時が異なれば、同じ人であろうと、詩が異なっていくように。
ただ、時を隔てたとしても、同じ人が書いた作品には、どことなく、共通性なるものがあると思うんです。
それこそが、その人の揺るがない詩への姿勢なのかな、と思い...
[152]はなもとあお[05/16 11:22]
ツさん、はじめまして。
……とある蛙さん、はじめまして。
詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので、やはり自分個人としての見解は持っていたいと思います。それによって、結果としてわたしに同人ができなくても、それも仕方ないのかな、とも思います。詩への見解はまだまだ勉強中でいまはっきり述べることは出来ませんが、……とある蛙さんが話されていた抽象画を書くのとはやはり違うのではないか、と思うのです。ひとつの詩のありかたとして、抽象画的な試みがあっても良い気はしますが、やはり絵は絵、詩は詩であることの理由はあって欲しいものだと思っています。それが作家性にしろ、選択した表現方法が、読者との...
[151]ツ[2013 05/13 22:03]★2
(んー。キホン的にはぼくもこひもともひこさんに近い立場から話します。
そうですね、えーと、、、コドモのころの話ですが、週刊少年コミック雑誌なんかをぺらぺら捲りながら、よくこんなことを考えたりしました。
美術の教科書に載っているような絵画にはフェラーリが何台も買えちゃうよーな値段が付けらていたりするのに、どーしてジョジョの、、荒木飛呂彦センセーの原画(直筆原稿1ページ分)とか、富樫センセーが描いた1ページ分のゾクゾクする絵には、、フェラーリが何百台も買えるよな天文学的な値段が付けられてナインだろう、、、と(荒木センセーはゲー術家に負けてないのにッ!ゼッタイ!!みたいな、、)。
で、じつは今でも...
[150]はなもとあお[05/13 20:25]
こひもともひこさん
細やかな返信ありがとうございます。
詩は詩なんですね。
芸術でも芸術じゃなくても。
詩を詩でかえすのが詩人を潰す、と思ったのは、発想の、着眼点の優先性からの発言だったのですが、これは個人的にちからのなさからくる負け惜しみだったかもしれません。
その後のこひもともひこさんの文章にある、リスペクト作品への見解につながりますが、いいものはいい、と言えるように、わたしも詩作をがんばりたいなぁって思いました。
なかなかこういった話をできる機会がないので、貴重なご意見が伺えて、よかったです。
詩作を続けて、詩人のお友達もできたらいいなと思いました。
家のパソコンからなぜかフォーラムにログイン出来なくて、携帯からの投稿なので、引用など出来なくてすみません。返信し忘れがありましたら、また、書き込みさせていただくかもしれません。
ひとまずご返信まで。
ありがとうございました。
[149]こひもともひこ[2013 05/13 18:31]
http://po-m.com/forum/thres.php?did=241016&did2=147
はなもとあおさんへ
『模倣と擬態』というお題を出したのは私なので、ここに書かれたことに対する個人的見解を書きます。
>詩は芸術か
私は、詩は芸術の一つだと思っています。ですが、仮に詩が芸術じゃなかったとしても、だから何かが変わるというようなこともないという考え方をします。
>詩の感想が詩になるような『模倣と擬態』のような現象が起こってしまえば、詩人としての確立が難しく、ひとりの詩人を潰していくことになるんじゃないか
「詩の感想が詩になる」ことが何故、ひとりの詩...
[148]……とある蛙[2013 05/13 13:17]
最近詩って奴が分からない。ギンズバーグは「主観的真実が読者あるいは鑑賞する者を得て客観化して初めて詩という名に値する芸術が成立する」としている。
そのように考えたとしても客観化啜るには何人鑑賞者が必要か不明である。結局、鑑賞する者は一人でも良いのか、極端な話、読む側としての自分一人ではどうかという話にもなりかねない。結局不明である。
言葉というやっかいなものを扱う詩という文芸は、素材自体に意味があるため問題なのである。
素材自体意味を持たない たとえば 粘土、絵の具、音あるいは空気の振動に意味を持たせるのはなんであろうか。創作者の表現対象、モチーフなどとその構成であると考えられる...
[147]はなもとあお[05/12 09:07]★1
詩は芸術か。
某所で『模倣と擬態』というテーマで詩を書いていますが、実際問題として、個人がオリジナリティを持って作品を発表したとして、それを読んで、評価せず、批評という形で話される訳でもなく、以前話にのぼった、詩の感想が詩になるような『模倣と擬態』のような現象が起こってしまえば、詩人としての確立が難しく、ひとりの詩人を潰していくことになるんじゃないか、と思うのですが、どうでしょうか?
詩を詩でかえす、返歌のようなシステムは、詩をコミュニケーションにしてしまうことにもつながらないか、そういう楽しみは、個人間で納得しあってするもののであって、公共として蔓延してしまえば、文化の冒涜というか、...
[145]はなもとあお[04/25 22:50]★1
奥主さん、丁寧な返信ありがとうございます。
中川さん、はじめまして。
昨日返信を考えて、文章をまとめていたのですが、ちょっと何かが足りない気がして、いちにち考えるともなく考えていました。
怖れや暴力的側面については、奥主さんが分かりやすく説明してくださっているので、概ね、共感です。
付け加えるとするなら、詩はひとつの主張ととらえることで、そこにコミュニケーション性をつないでしまうと、簡単に言えば、賛成反対というか敵と味方をつくるものになりえる、という事でしょうか。
奥主さんの、作品を上手く仕上げたということがごまかして嘘をついているようなもの、というのと、思考・思...
[144]中川達矢[2013 04/25 11:15]★3
はなもとあおさん
書き込み、ありがとうございます。
率直な感想として、詩は勉強するものなのか、楽しむものなのか、その点からの議論も必要になってくる気がしました。
僕自身、ついつい難しい言葉を使って、詩を語ったりしてしまうことがあるのですが、詩の感想を述べる時、難しい言葉をつらつら並べると、その批評の言葉に妥当性があろうとも、胡散臭さなるものが出てきてしまうんじゃないか、とも思ってしまいます。
極端なことを言えば、詩に対する感想もまた詩になりうる、と考え、その感想もまた、人の目にさらされるものであることを意識しなければならないのかな、と。
もしよろしければ…、はなもとあおさんが仰った、「創作の暴力的側面」ということについて、もう少しご説明いただけたら…、と思います。
あと直感的になりますが、揺らぐ自分がいなければ、詩を書き続けることはできない気がします。詩は一瞬一瞬の記録になりうるかもしれないですが、書き上げて、その詩および自分に満足してしまったら、書き続けることはできないような…。
[142]はなもとあお[04/23 23:30]★2
はじめまして。
過去レス60まで読みましたが、わかるところとそうじゃないところがありました。
詩について全然不勉強ですし、理解力がある訳でもないのですが、いま疑問に思っていることを書いてみたいと思って、お邪魔しました。参加の仕方がこれで良いかもわかりませんが……。
書くにしろ、読むにしろ、詩と対峙するとして、まず、咀嚼する自分を持っているだろうか?と、考えました。
自分はこういう理由で、自分である、と主張できる自己個性を持つには、さらされる強さを持たなければならないということだと思います。
そして、それが何であれ、書く理由、書く目的を持つということ。伝えるために書...
[141]中川達矢[2013 02/26 00:32]
最近読んだ、野家啓一『物語の哲学』において、森有正さんの論が紹介されていたような気がします。
N.K.さんがご指摘なさるように、ただ単に経験を積むことがいいのではなく、それが活用され、詩論・理論の理解に繋がるのは盲点でした。
おそらく循環されていくものでしょう。
経験が主観的、詩論・理論が客観的(一概に分類はできませんが…)が、循環的に影響を及ぼすような気がします。
森さんのおっしゃるのは、体験が点で、経験が線のようなものであり、体験は出来事、一瞬一瞬であり、それを蓄積していくことで経験になっていく。
そして、その蓄積していく主体が必要であり、その主体こそが、「いま・ここ」で体験を語...
[140]N.K.[2013 02/25 21:41]
経験を積むことと詩論や理論を読むことについて、詩論や理論の理解とい
うものが、経験を積むことにより深まるように思えます。
唐突かもしれませんが、森有正の体験と経験という枠組みでいえば、体験
が経験になることに比せられるでしょうか?(森有正については随分と昔の
記憶に頼っていますので、正確ではないかもしれません・・・。体験が経験
になるという言い回しは、森有正の文脈で意味をなすのかさえ良く思い出せ
ていません・・・。)
[139]中川達矢[2013 02/25 18:54]
放置癖がある中川です、ごめんなさい。
ひとまず、久々に、このスレをあげてみます。
詩作、思索メモとしてお使いいただけたら、と。
出来る限り、僕もコメントできるようにしていきます。
最近は、現象学・解釈学を学んでいるのですが、
(ずいぶんと話が飛躍…)
詩論や理論を学ぶことが、果たして、読書を豊かにするのか、ということを常々考えます。
現段階で意見を述べさせていただくなら、それはNOで、豊かにしないような気がします。
じゃあ、何が豊かにしてくれるかって、
敢えて、根拠を示さずに、結論だけ投げときますが、
経験を積む
および
他人の話を聞く
この二つが根本的に大事なのではないか、と思っています。
というわけで、議論の余地を残し、
これに即さなくても、皆様のご自由な「しさくメモ」をお書き下さい。
[138]吉田DVD[2013 01/21 21:25]
電子書籍にマッチする、新しい現代詩。
現代詩は、散文になりがちです。
わたくしは、文体や韻律よりも「他の現代詩とのつながり」こそ現代詩の特徴だと思いました。
電子書籍に適した、常に更新できるExcel(SkyDrive)のレイアウト。
タイトルと本文(散文)以外にも2つ、表現対象のある形態。
プラレールのように他の詩とつなげて作品を追加できる形式。
まだ改良の余地を感じさせる、キャラクター・ブック(笑)。
わたくしの「クロノ・メビウス」は、そんな新しい電子書籍(html、常時更新)向け現代詩のプロトタイプ(叩き台)だと自負しています。
現代詩フォーラム発の新しい現代詩を作るため、みなさんのご意見ご感想をいただきたく存じます。
現代詩「クロノ・メビウス」
http://space.geocities.jp/cornorposts/index.html
[137]……とある蛙[06/17 19:39]★2
読者について考えてみることの意味を理解されなくて残念です。まぁ私の書き方の問題もあるかな(笑)。
もちろん現代詩フォーラム内のみでの読者について考えることはまったく無意味です。その意味ではKETIPAさんの言っていることは間違ってはいないのですが、読者論ではないですね。ほとんど参考にならない散文です。
自分が書いているものが仮にも文芸という物だと意識している以上、その享受する側を無視することは傲慢過ぎると思います。
一般的に読者の意味を考える際、読者側(受け手)からの意味と、作品側からの意味の両面から考えるのは当然想定される前提です。これまであまり繋げて論じられていない受容理論と批評理...
[136]……とある蛙[2012 06/11 11:40]
読者論は非常に難しいテーマなので余り深入りしなくとも良いとは思います。私自身が考えたのは、単純に詩を余り読まないというか授業以外で読まなかった人の視点が完全に欠落している。それが今の詩でそれを補っているのがはやり歌などの世界ではないかとふと思ったからです。
古本屋で入手した現代詩手帖の「松本隆の世界」という特集号を読んだとき北川透が馬鹿馬鹿しいくらいくだらない視点でしかも偏見だらけで書いていたので(彼の「私的レトリック入門」や評論集など読んでいたので)ちょっとがっかりしたからです。
つまるところ、面白い、つまらない、感動したしかいいようのない読者でも良いかという問題(物言わぬ読者ですね)そ...
[135]深水遊脚[06/10 07:52]
題名検索で出てきたこのサイトの読者論を「会議室向け」と書いたのは完全に気分ですが、これらの読者論と、このところ話題になっている読者像とで共通しているのは、言葉そのものではなく言葉の背後の人を見ているのではないか、ということです。過去にこのスレで中川さんが「私小説的」と評したものの見方があるような気がします。作者についての情報を重視する考え方があるのを感じます。加えて、ネットは距離感がつかみにくい分、他者に対する安易な決め付けが簡単にされてしまう。
私小説的なものの見方と安易な決め付けが、自分のなかに「不快な物言う読者という怪物」を作ってしまっている。ここだけの話ではなく、10年くらい変わっていない現象として、そういうものが多分あります。
読むということも、書くということも、もっと個人的なものでいい気がしますよ。そして、自分で生み出した「不快な物言う読者という怪物」の始末は、自分でするしかありません。それもまた個人的な行為です。
[134]深水遊脚[06/09 23:42]
題名検索で「読者」といれて検索すれば、会議室向けの読者論はたくさんでてきますよ。現フォも捨てたものではないです。ななひとさんのとか、かなり痛いところをついています。KETIPAさんのも興味深いです。例の人の話ですが。
この手の話、私はあまり意味を感じないんですよね。強いて言えば最近おすすめリンクに投稿した文章のコーヒーの味の話、苦味と酸味が美味に転換する体験が、どこまでも個人的なものでしかないという部分、苦味と酸味を誰もが美味に感じる必要がないという部分が、詩についても言えるかもしれない、とは思います。誰もが試行錯誤の最中で、言葉を吐き出すことが必要な人もいる。それだけのことですよ、きっと。
[133]花形新次[06/09 08:13]
つづき
要は、自分を無謬化しちゃいけないってことでさあ。
死んじまった吉本の旦那は
批評する際には、最高綱領と最低綱領が必要なんだって言ってた。それを使い分けるんだって。
いきなり、最高綱領ぶんまわしたら、聖書以外はろくなもんじゃねえとかって話になるし、勿論そういわなければならない場合もあるんだけれど、それじゃ批評自体がなりたたないし、自分の書いたものもぶったぎられちゃうんだから、やっぱり根気強く最低綱領で評価するんだって。その場合の最低綱領ってのは、自分が書けていること、書けていないことになると思うんですよ、未熟者の俺は。
それで、最初に戻るわけ。無謬化しているわけではないんだろうけれど、そう思わせる文体。言葉遣い。
それが問題だと思うんですよ。
[132]深水遊脚[06/08 20:46]
「作品を読む」ということと関連して。
言葉にできることはごくわずかです。言葉にしようとする読者もごくわずかですし、彼は勇者です。作品そっちのけで喧嘩を始めたりしなければ、勇気はたたえるべきです。レベルとか資格の話はよくわからないのでノーコメント。
[131]花形新次[2012 06/08 18:33]
「作品を読む」ということとは関係ないです。流れに乗らずにすみません。
よくコメントでいっぱしの批評をしようとしてる人で、その本人の書いたものを見ると、とんでもないクソだったりすることがあります。
クソを書いてはいけないとは言わないんです。俺のもこれ以上ないほどクソだから。
でも、俺の場合、自分の書いたもんがクソだということが分かっているから、他人を批評する勇気がない。(喧嘩売られたときは別です。)自分をクソだと分かっていないのだとしたら、そのセンスは、批評してはいけないレベルで、そんな人に批評されるほうはいい迷惑だ。
まあ、クソ書いてるくせに、他人を批評するのが悪いといってるんでもないんだよな・・・。そうね、その場合は、それなりの言葉遣いがあるってことなんだと思うんですよ。批評においては、言葉遣いが問われるんだと思うんです。
それが分かんない人は、黙っていたほうがいいと思います。
俺も黙ります。
[130]……とある蛙[2012 06/05 10:45]
ノースロップフライなど「文学作品は読者と作者の共同作業によって成立する」などと言っております。読者概念自体曖昧ですが(笑)。ところでこのサイトの訳の分からない他人非難の方法として、ろくに詩を読んでいないとか詩をきちんと読んでいないとか言う人たちもいます(もっともその人たちが何を読んでいるかは不明ですが)。作品を読むとはどのようなことか忌憚のない意見を述べてくれる人がいると良いのですが(まぁ結論が出るわけでもないのですが……)。読まれなくとも良いなどと豪語してわざわざ投稿してくる人もいますが、結局作品を読まれることとはどういうことなのか考えてみませんか??
[129]……とある蛙[2012 05/22 16:36]
最近読んだ本で考えたこと。
最近俳句関連の本ばかり読んでいます。
それらに度々出てくる芭蕉の「軽み」について
俳句についての考え方は古くからいろいろ俳論という形で議論されているようですが、詩作にも参考になると思い(というか,最近自分自身が詩が書けない、読めないという状態が続き)ちょっと考えたことをざっくりまとめました。
まず芭蕉の考え方について
芭蕉の俳句あるいは芸術に対する基本的考え方は不易流行と呼ばれる。
不易とは句体の基本であり、芸術の根源である。
芭蕉は中国の詩人や茶道などの芸術感を基礎として室町以来のわびさびの境地を五七五に載せて著していた。しかし、そのま...
[128]……とある蛙[05/19 23:22]
神保町の古本屋街で読みきれないのにとりあえず本を買って読んでいます。八木書店は評論、詩集は安い長島書店一律500円。沢口書店は品揃えがよい。などなど穴場行っていませんが、ランダムに買うので、愉しいです。
[127]深水遊脚[05/19 13:00]
本に囲まれているのが好きです。図書館はいつまでいても飽きないです。書店でも立ち読みで時間をつぶしたり、新刊本の背表紙やポップをチェックしたりしています。
家の本棚の本は、常備薬みたいなものかもしれません。この気分のときはこれを読む、この状況を明日から乗り切らなければいけないからこれ、などなど。
腰を据えて読むことは、かつて苦手でしたが、哲学書で鍛えました。まだ鍛練の途中ですが、たいていの難解な書物にはひるまなくなりました。
いまの愛読書
『陽だまりの彼女』越谷オサム著
いま読んでいる。ところどころ違和感あり。世代のズレかな。逆にそれが楽しい。不穏な伏線が出すざらつく感じも。
『プロレゴメナ』カント著
純粋理性批判のエッセンスにたどり着くための架け橋的な本。ほどよい長さだけれど読み応えはかなりある。
『中勘助詩集』中勘助著
「塩鮭」が気に入っていて、探した末に手にいれたもの。「塩鮭」をどんなふうに読むかが、私にとって自分自身の状態を知る、体温計のようなものかもしれない。
[126]伊藤透雪[2012 05/15 13:51]
こんにちは。お久しぶりです。
私はいい読者ではないのですが、やはり「音」「リズム感」があるものは、入り込みやすく
文字で読んでも朗読しても世界に入りやすいと思っています。
この間、谷川俊太郎さんが出演されたコンサートで売られていた本「私の胸は小さすぎる」
恋愛に関する詩集と思えば分かりやすいです。
恋愛詩はありふれていると思われがちなのですが、歳を経ていくとどんどん磨かれていくものを感じます。
言葉が研がれて美しく無駄なく、冗長でない。
私心だけでない客観性というか、そういうこともあるなあ、と思いつつ表現の言葉が
うまい。さすが大先輩と思いました。
心を書こうとするとき、恋愛...
[125]中川達矢[2012 05/15 08:21]
戻りました。
朗読については、蛙さんのおっしゃる通り、テクニックが存在してしまいます。
そうすると、一つの不安としては、朗読によってむしろ解釈が狭くなる恐れがあるということ。
ただ、それはあくまでも広義の音が目の前にあり、それを踏まえてどう解釈するか、はテクニックと別のものかもしれません。
昔の和歌・俳句は文語。
古典の授業でもそうですが、古語の理解でよくなされるのが、現代語訳、そして、なんといっても助詞の役割。
ここで疑問が生じるのは、果たして日常会話において、助詞の正当性をどれだけ疑っているのか。
仮に、習慣的な違和感と名付けますが、「〜は〜した」「〜を〜した」では動作の...
[124]小池房枝[2012 05/14 23:49]
sage
#こんにちは、小池と申します。スレッド、折々に拝見させていただいています。
#No.120のかのっぴさん発言、「黙読の歴史自体が浅いみたい」に関して、それはもう人類が文字を発明する以前に言語があり、言語があった以上、部族ごとの創世神話や物語や詩は暗唱という形で伝承されていたわけだし、などと言わずもがなのことを考えておりました。
#小さな子でも、人間の脳の何ゆえの都合からか最初は音読、ですよね。大人になっても、ヒトはパソコンが文字情報を読み込むように詩を含めた文学作品等々を読み込んでいるわけではなく、声には出さないだけで脳内のどこかで音声化して味わっているようなふしがある。気に入りの...
[123]深水遊脚[2012 05/14 22:01]
>>122 ・・・・・・とある蛙さん
>現に書かれた詩を朗読する場合のテクニックの問題と肉声による感動を前提とした詩作の試作との関係とは別の問題をはらんでいる気がします。
これについては朗読にさして真剣に取り組んでいない私の手には余ります。テクストが朗読を目的に作られる場合と、朗読のために最初からあるテクストを利用する場合、それぞれに取り組む問題がでてくるということですね。岡井隆さんの言葉のなかで詩の本性は肉声、というのが出てきたので、120-121で歴史的に掘り下げるための布石を打ってみました。詩の本性は肉声、ということを吟味なく無批判に受け入れることは、私にはできそう...
[122]……とある蛙[2012 05/14 12:40]
現に書かれた詩を朗読する場合のテクニックの問題と肉声による感動を前提とした詩作の試作との関係とは別の問題をはらんでいる気がします。
さらに言えば読み方の分からない和歌だとか俳句について今風の解釈で音を付けても良いと思いますが、どのように考えますか??必ずしも昔を再現しなくとも良いのではと思いますが。
[121]深水遊脚[05/14 11:52]
声に出さなければ始まらない時代
話し言葉は記憶に残してなんぼだったかもしれないです。
[120]深水遊脚[05/14 09:48]
黙読の歴史それ自体が浅いみたいですね。ネットでさっと見た感じでは、信頼できる情報はなさそうですが。
Wikipediaの「読書」という項目をみましたが、検証可能性に疑義か出ていました。考えてみれば何百年も前に人が書物を声に出して読んでいたか黙って読んでいたかなんてわかりっこないです。まあでも声に出さなければ始まらないという時代は確かにあって、弁論術なんていうものも発達したこともあって、そこではリズムも追求されていたのでしょう。
知的な営みのなかでさえ感動が追求されたのでは。弁論術でのレトリックはオーディエンスを感動させるために発達したものでもあったのではないか、と考えます。韻を踏...
[119]……とある蛙[2012 05/13 20:56]
岡井隆さんは詩と韻律との関係を次のように考えているようです。
現代詩は文字言語として目の前に現れる。したがって一般的にはそれを目で追って読む。詩がその発生史的には肉声として提供されていたことがあり、文字言語として読むこと自体は詩の本性とは異なる。したっがって、詩を読むことでも肉声に近いものが聴きとれねば詩としてのある要素が欠落している。
現代詩を文字言語として読んで、意味を遂っても(慣用語法からの超越も含めて)知的悦びのみで感覚的な美は見いだせない。意味と言ったところで言葉である以上韻律と共に展開する。音韻に担われた感覚的な美も詩に求められるべきである。
※参考 岡井隆著「韻...
[118]……とある蛙[05/12 00:26]
たしか、岡井隆さんが歌人らしく音数律と言葉の意味を絡めて谷川雁と吉岡実の代表的な詩を分析した文章がありましたね。今日眠いので明日詳しく書きます。
[117]中川達矢[2012 05/11 23:51]
詩の解釈や雰囲気を壊す、のではなく、それがあくまでも現存しているのであって、それを含めて解釈するのではないでしょうか。
と、先ず目に入ったことから返信をして…、
#疲労とお酒でまともではない、いいわけ
詩と散文の違いを語るのもめんどそうなので…、
#詩はこういうものだ、と、こういうものだから詩だ、という二つの語り方があるとして、ひとまず、黙読、音読の側面から詩を見てみようと。頭から詩はこういうものだ、と決めていては、それ以上も、それ以下もない。
何となく皆さんの詩作の方向が見えたような気がするのです。
頭でっかちに語るならば、詩にはリズムが必然的に伴っている。
それは和歌・俳句→文語...
[115]深水遊脚[2012 05/11 18:26]
散文で済むものは散文で書こう、という考えなのでなかなか自由詩を書くことに前向きになりにくい私ですが、ここ1年くらい少しずつ書けてきました。「かなしみ」「塔」はかなり散文に近いですが。それでも私なりに言葉の間合いのようなものには納得して、詩作品として世に出しているつもりではいます。
私が気づかっているのは、ひらがなを多く含ませて柔らかさを出したり、あるいは逆に漢字を使うことで引き締まった印象を出したりする効果です。ある意味、リズムかもしれませんが、視覚的に詩を眺めないと成立しないものです。
他には、あまり意識してこなかったのですが、自分の作品を読み返すと体言止めを多用しているようです。言葉...
[114]……とある蛙[05/10 23:59]
黙読だけの韻文ねぇ???散文じゃないの?という素朴な疑問。自白だな(笑)。散文も朗読するけど意味が違うよな。散文の朗読はまさにみんなに聞かせるためだよね。詩が韻文である以上基本朗読します。
[112]中川達矢[2012 05/10 20:29]
なんか疲れてしまって、書こうと言ったからには何かしら書かないといけないのですが…。
まあ、皆さんって詩を書く時に、声に出してますか?
僕は書き終わったら声に出しています。
なぜって、声に出して、リズムのチェックをするんです。
自分が気持よく読めたからといって、他の方が気持よく読めるとは限らないですが、最低限、自分ですら気持ちよく読めないものは出したくないかな、って自分の表明ですね。
書き言葉と話し言葉の一致、(言文一致)は明治時代、二葉亭四迷の『浮雲』によってなされたとされ、詩の歴史で言えば、もう少し遅く、川路柳江が元祖とされながらも、文語定型詩(新体詩)から口語自由詩の変遷は、...
[111]中川達矢[2012 05/10 11:31]
蛙さんに退屈だから面白いテーマを設定してくれ、とケツを叩かれました。
そこで、先ずは、何故退屈かと思われたのかを蛙さんに説明していただき…、ということはせず、とりあえず近況報告でもしてみます。
4月から大学院に入り、「現代詩の受容体系」について研究しようなどと意気込んだ青年中川は、この1カ月でぼこぼこにされます。
「詩ってなんですか〜?」という質問が絶えず飛び込む。
僕は答えられません。
考えたことがないからです。
というか、そんなこと考えなくても詩は書けます。
だけど、詩を読むにあたっては若干必要な気もするのです。
改めて新体詩から現代詩までの流れを抑え、また、吉本隆明の詩論を読んだりしています。
そろそろ大学に向かわねばならないのですが、僕がこの1カ月で考えてきた、「詩の朗読」について、帰宅したらまとめてみます。
[110]深水遊脚[05/10 11:23]
いろは歌は、極上の言葉遊び。
[109]深水遊脚[04/23 16:22]
遊び、戯れ、楽しむこと、といったことが、何か快いことを受動的に経験することであれば、詩作は遊びじゃないとのお叱りは受けるかもしれませんね。
本当に遊びに熱中すると、その人のこだわりが段々でてきて、譲れないものもたくさん出てきます。多分創作はそれくらいの情熱が自然と沸き起こるものではあるとおもうのです。大河ドラマの「遊びをせんとや…」の解釈は、人生についてこれと同様に考えたものでしたね。我が身を振り返ってそれくらい夢中になれるなにかがあるのかと聞かれれば答えに詰まってしまいます。願望として、それくらい楽しんで何かを生み出したい。それくらいの楽しみを作品にしたい、という気持ちはあります。
[108]中川達矢[2012 04/22 10:40]
お久しぶりです。
また何か語りましょうか。
詩が遊びかどうかは、僕は干渉してはいけないような気がして触れられないのです。
ただ、楽しんでいるかどうかは重要な気がして、僕は一体詩を楽しんでいるのかどうか。
芸術、という観点におけば、楽しみといった概念から遠いような気もしますが、詩は芸術なのかどうか、そして、やはり偉大な画家やら作家やらは根底に楽しみがあって、それをきっかけに芸術をつくったのではないか、なんて。
とりあえずネタふりとしてそんなことを言っておきます。
[107]深水遊脚[04/21 18:02]★1
詩作も遊びや戯れのひとつ。まあ他の遊び方があるっちゃああるけれど、ここでアカウントをとろうとした時点で、皆かなり積極的にこの遊びを選んでいる。このサイトでのあらゆる言葉のやりとり、作品の投稿やコメントや会議室でのボヤキを、遊びだと捉えれば、心穏やかに読んだり書いたりできるというもの。でも遊びだからと舐めてかかれば痛い目にも会う。遊びはどこか別の場所にある何かではない。きっと。
[106]N.K.[2012 01/31 22:35]
寒中お見舞い申し上げます。
いつもロムって勉強させていただいております。
ちょっと前には、RTで中川さんに石原吉郎について
教えていただきました。ありがとうございました。
おかげさまで、柴崎聡著の本を買い込んで読んでいます。
話の流れを絶ち切ってしまうのは、意図とするところ
ではありませんので、遊びをせんとや生まれけんの話に
コメントいたします。
小西甚一(なんか辞書の編者で名前を見た覚えが・・・。)
先生の解釈、勉強になりました。
他方で、自分の身近なところで梁塵秘抄が引用されたのを
視たことがあり、それは確か、子の親を対象として子どもた
ちに「よく遊び、よ...
[105]……とある蛙[2012 01/04 12:44]
明けましておめでとうございます。
ちょっと書きたくなったことを書いてみます。
梁塵秘抄にある有名な今様についてです。
梁塵秘抄 359番め
1 遊びをせんとや生まれけむ
2 戯れせんとや生まれけむ
3 遊ぶ子供の声聞けば
4 我身さへこそゆるがるれ
一番有名な歌です。
梁塵秘抄考 小西甚一
「平成罪深い生活を送っている遊女がみづからの沈倫に対して身をゆるがす悔恨をうたったものであらう」とする。仏教の邪淫戒→僧侶の遊女罪業視からくるもの。法然の遊女救済の道などの前提的な考え方。
素直に読むと罪悪感とは別物。つまり「我身… ゆるがるれ」はあそびに戻ろうと...
[104]深水遊脚[2011 12/15 10:56]
『智恵子抄』に関する肯定的な評価をあまり聞かない。たまにみる雑誌でのたまたま目にした評価でありちゃんと調べたわけではないけれど、高村光太郎の名前を目にしたとき、悪くかかれたものしかなかった気がする。その一つは、うろ覚えだけれど「あなたはだんだんきれいになる」が書かれたときの智恵子の年齢を詮索して、その年齢の女性に美辞麗句を並べ立てても嘘くさいとする、何とも失礼な内容だった。対談のなかでうっかり喋られた内容であり、何かの例に出したのがたまたまこの詩であり、他の詩でもよかったのだろう。おそらく詩行の一つ一つの記憶も曖昧だろう。この詩にまっすぐ向き合って出た言葉ではないのだろう。そう思って軽視しようと...
[103]深水遊脚[2011 12/09 22:13]
うーん、前スレか〜。ほかに絶対代わりのいないあのメンツだからあの雰囲気だったというのもあるから、前スレをあまり求めないほうが良いかもしれないよ。ここの色はまだ作られている最中で、これからどんどん人が来ると思うから、気長に育てたら?語りたいことがあって順番待ちの人がすでに2人(蛙さん=発話者の視点(言語学も?)、伊藤さん=寓意)いるから大事にしてあげてね。
図書館で『深海魚摩訶ふしぎ図鑑』(北村雄一著 保育社)という本に手が伸びて面白かったから借りてしまったけれど、これを見たら男らしさ、女らしさ、美しさなどについての認識がぶっ飛びます。見た目グロテスクだけど、だからといって彼らは悪ではない...
[102]中川達矢[2011 12/08 15:12]
かのっぴさん、ありがとうございます!
更新いたしました。
前のスレッドの時みたいに、
一人の人が語りたいことを語る方式でもいいのかもしれないなー。
話題提供だけじゃなく、その後も一定期間の間、その方を中心に何かを語っていただけないでしょうかー。
[101]深水遊脚[2011 12/08 10:38]
新たなテーマ別レスマップを作成しました。投稿したレスマップをそのままレスマップの過去ログとして活用するので、私信はやめてここに投稿することにします。中川さん、トップの更新をお願いします。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
テーマ別レスマップ 63番から100番まで
下記アドレスの右側に番号を付ければレスを開くことが出来ます。
http://po-m.com/forum/thres.php?did=241016&did2=
<トピック1(詩に直結すること)>
普遍性(75...
[100]中川達矢[2011 12/07 19:19]
意外と反応があり、
そして、
ただのあほうさん、ようこそ。
ジェンダー論を出してしまうと、いわゆる「恋愛」とは離れてしまうおそれがあったのですが、それでも何かしらの発話が生まれてよかった。
やじさん、きたさんの物語を全く知らない…。
東海道中膝栗毛ですよね、十返舎一九でしたっけ。
動物における同性愛。
動物ってなんだか、本能的だと人間が規定してしまっているようでいて、いや、人間も十分本能的だろうと思うのです。
今日も授業の中でジェンダー論なんかをならったのですが、100%の男、100%の女なんているんだろうか、なんてことがトピックの一つでした。
性行為だけが全てなわけでは...
[99]伊藤透雪[2011 12/06 12:33]
私は中性、ジェンダークィアを表明しているので、明確に男女を規定した作品もあっていいと思うし、
どちらにも取れる作品でもいいと思います。
要は差別感がなく、そこに人としての豊かな情感が流れていればいいと思うんです。
ノンケの女性を好きになって悩む女性とか、その逆もあっていいと思うし、それはそれで人として情感溢れ、読み応えがあるでしょう。
世の中がどうであれ、存在することを書くことに誠実であればいいと思うだけです。
ジェンダーについては以前よりも複雑になってきていることを、理解する必要はあるかと思います。
[98]只野亜峰[2011 12/06 05:50]
なんか面白そうな話してるのでホモについて調べてたら真夜中の弥次さん喜多さん見たくなってきた。真夜中だけに。
人間だけじゃなくて他の動物にも同性愛があるという前提を踏まえると色々面白い思索になりそうですな。
動物の場合は異性との繁殖が前提にあるケースとか異性がいない環境に適応したケースとかもあるみたいですが、
なんかそれだけだとロマンが無いですし学術的に動物の同性愛を目的とした同性愛論が確立されたら良いなとか。
そうなったら人間社会の同性愛ももっと深く認知されるようになって日の目が当たるんじゃないかなとか。
その過程でセックスやジェンダーを取り巻く論調に新しい波が訪れて世の価値観が一変したら面白いなとか思ったり。
[97]中川達矢[2011 12/05 23:53]
反応ありがとうございます。
恋愛、とは違いますが、ジェンダー論、フェミニズムの問題なんかも男女関係の問題として、文学とは切り離せない関係になりました。
ここで、こういった性別問題の関する一つのトピックを置いておきます。
ゲイが否定される。
その行為の特徴の一つに、いくら性交しても子どもを産めない環境であることを指摘できる。
しかし、男女の性交だって、生殖を目的とした性交がどれだけあることか。
つまり、コンドームをつけたカップルの性交なんて、ゲイの性交と同じである。
異性を愛する自分が正常であり、同性を愛する人が異常であると考える人は、この点において言えば同類である。
(女性の肉体的な環境については、この場合、考えておりませんが…。それに端的に申し上げており、この意見が全てではないと思います。ジェンダー、セックス、セクシュアリティの一つの問題として例を挙げました。気分を悪くされる方がいたら申し訳ありません)
[96]深水遊脚[2011 12/05 21:08]
>>94 中川さん
(コピペにマジレス@笑)
案外、恋愛のすべてが個人的なわけでなく、「会いたい」気持ちが人と人との関係によって満たされたり満たされなかったり、満たされたとしても会うごとに何かが違うと感じるようになったり、そうした気持ちの浮き沈みの裏にあるのは社会です。西野カナのリスナーの裏にも社会はあります。不自由がないようで思うように行かない、時々すごくつらい目にあう、そんな社会が「会いたい」を盛り上げる。
曲の一つ一つは知りませんが、「会いたい」という言葉に自分を重ねたかったり、「会いたい」と言われたかったり、そんな人が「会いたい」と歌う曲を聴くのでしょう。一人ひとりの...
[95]……とある蛙[2011 12/05 16:15]
隠喩に関して、読んだ本の一部のメモ書き
「言葉・狂気・エロス」丸山圭三郎著 講談社学術文庫
ー第四章 深層の言葉と言語芸術ー MEMO
? 言語芸術の目的→日常の表層世界
一義化され合理化された制度
画一化された価値観
等の否定及び再構築
※深層意識の言葉の流動性こそ言語芸術の源
? 言語における多義性の回復
目的 デノテーション(外示ー最大公約数的意味)
↓
コノテーション(含意ー一回的??アウラ)
方法 ?隠喩(メタファー)類似性→語の多義性
...
[94]中川達矢[2011 12/03 14:38]
若者らしい話題として、2chのコピペの中にこんなのがあります。
西野カナという歌手が歌詞の中でどれだけ会いたがってんねん!というものです。
西野カナ
『君に会いたくなるから』 ♪会いたかった〜君に会いたくなるから〜いつか会おう
『遠くても』 ♪会いたくて会えなくて〜会いたいの私だけなの?会えなくて切なくなる〜会いたい会いたくて仕方ないよ
『会いたくて 会いたくて』 ♪会いたくて 会いたくて 震える〜会いたいって願っても会えない
『love & smile』 ♪君の笑顔に会いたいから〜会えない日も見守って
『もっと…』 ...
[93]中川達矢[2011 12/03 14:37]
この名前、呼びかけにくいと本当によく言われます。
ふつうに中川の方でかまいません。
小田和正さんの歌は好きです。
あまり歌詞に注目したことがないですが…。
そういえば、合唱曲で歌う詞に恋愛ものってあるのでしょうか。
複数の人が個人のことを歌うっていう奇妙な現象がおきそうで、なかなかないんじゃないでしょうか。
気のせいですかね。
伊藤さんへ
せっかくですので、話題が少ないと言えども、もう少しこの話題を続けていきましょう。
今変えてしまうところころ変わっているように感じてしまいます。
申し訳ないです。
[92]伊藤透雪[12/02 22:19]
話の腰を折るようで申し訳ないけど、「寓意」についてのトピックは必要ないですか?
[91]……とある蛙[2011 12/02 14:43]
>>86
木下牧子さんが曲をつけた合唱曲ですが、私の入っている団は混声と男声なので、歌ったことはありません。ママさんコーラスで良くうたわれる曲なので先入観としては母親と子供というイーメージがあります。ちょっと男女間だと気持ちの持ち方が少し……字面は男女のすれ違いという感じはしますが、自分には不自然に感じてしまいます。私がおかしいのかも知れませんが。
[90]深水遊脚[2011 12/01 12:12]
ファンの方がいれば申し訳ないのですが、私は小田和正さんの歌詞に作者のエゴのにおいを感じてしまいます。直接それを感じるのは「秋の気配」「夏の日」「ラブストーリーは突然に」ですが、何となく全体的にという感じです。理想像をラッピングしてどこかに大切にしまっておくような感覚。「君」「あなた」と呼びかけられている実際の人は、実はそこに参加できないような世界を作っているような気がします。
でも、大ヒットしているし、しかも歌詞を大事にして聴いている方も多いでしょうから、普遍性がないとはいえません。好き嫌いはともかく、歌詞としての完成度は私も否定できません。
[89]深水遊脚[2011 12/01 11:54]
>>88 中川さん
その呼びかけにくい(笑)ハンドルネームは茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」から来ていたのですね!私の大好きな詩人の一人です。「汲む-YYに-」について2回も熱く語っていますし、『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)は何回読んだかわからないくらいです。その茨木さんや新川和江さん、石垣りんさんは、平易な言葉の中に奥深さを感じさせる作風が私も好きです。白石かずこさんの作り出す調子外れの混沌もまた好きです。ジャズを聴いているような読み心地で。
新川さんの言葉に品のよさを感じます。明示せずに男性像、女性像を描き出せたのは、示された言葉の奥にきめ細やかなものの見方、考え方があるからなのでしょう。いっぽんの木に求める様々なかたちのひとつひとつもお見通しで、そっと見守っているような感じもしないではないです。妄想といってしまえばそれまでですが、それくらい他者に対するまなざしの深みを感じます。
この作者が二人称で呼びかけても暴力やエゴは感じない。でも、
[88]中川達矢[2011 11/29 13:43]
題材をありがとうございます。
>「わたし」が女性で、「あのひと」が男性と解釈するのが一応は自然かもしれません。
というのはすんなり納得できたのです。
その要因を探るとしたら、それはやはり「いっぽんの木」とか掴まされる存在であるからだと思うんですね。
ここに一つの男性像を植え付けてしまうような気もするのですが、なぜそれが男性像なのか、ということを探ればジェンダー論になってめんどくさいことになります。
中には、逆のケースもあり得るよ!なんて言う人もいると思います。
男性が女性にしがみつくこともあると思います。
それでも、この詩のいいところは、自然的に、流れの上でそのような像を描...
[87]伊藤透雪[11/29 00:39]
うーん、恋愛詩に先入観があると読めないのかしら。
私は人間の内面が露わになる題材として、架空の私や俺、僕、彼女などを使います。
1つの物語性を作って、そこに漂う情感を、掘り起こしているんですね。
「大きな猫」はこきおろされましたが、架空と捉えて貰えなかったようでした(汗
隠喩の使い方、少しずつ勉強してみます。
[86]深水遊脚[11/28 23:46]
http://kanoppi.seesaa.net/pages/user/iphone/article?article_id=4770740
蔵出しします。材料に使ってください。新川和江さんの『鬼ごっこ』という詩について書いた文章です。すがりついて泣くにしても、刈り倒すにしても、関係性、それも空想のなかで満たしたい願望のかたちです。時代とともにこういう願望のかたちも変わってきているかもしれないですね。男と女がこの2パターンで語れる時代ではないかもしれない。
[85]中川達矢[2011 11/28 22:25]
そして、伊藤さんにはあえて隠喩を多用してみてほしいですね。
使いこなすぐらいに隠喩を使ったら何か見えるもの、わかるものがあるかもしれません。
悩むぐらいなら使いまくるか、全く使わないか。
ちょっと端的に述べてしまいました。
僕だっていろいろと悩むことがあるのですが、
今のようなことを自分に言ってやりたいですね。
[84]中川達矢[2011 11/28 22:24]
名ばかりスレオペです。
かのっぴさんの働きには感謝するばかりです。
レスのまとめについては、とことん甘えさせていただきます。
蛙さんも新しい議題を提案してくださいましたが、今はひとまず、かのっぴさんの出した「恋愛」について扱いましょうか。
現代詩フォーラムでも恋愛を扱った詩って多いと思うんです。
僕は好意的に読まないだけで、「あなた・きみをおもう」なんていう詩は何気に多いですよね。
「きみ」って詩の中に出た時って意外と作者の暴力だと僕は考えていて…、「そのきみってだれ?」ってことはわからないわけです。
それをこえて何かを思わせてくれる詩ももちろんあるのですが…。
そのよ...
[83]伊藤透雪[2011 11/28 15:03]
隠喩のことを持ち出した当人としてちょっとだけ。
隠喩が無いように見える、淡々と書かれている、一見つまらない。
そういうのってありなのかなあと悩んでいたんですね。
視点の流れや焦点の合わせ、自分で無い性からの感覚、等々、
描写にはいろいろ使って来たのですけれども。
包まれた情感を読み込んで欲しいなあと思いつつ、なかなか伝わらなくて、
動画よりか写真の見せ方の方が様々に読めていいのかしら、とも思いました。
気を遣っているのは視線が錯綜しすぎると乱雑になるので、気をつけること、です。
言葉の言い換え程度の比喩表現しかできないと、面白くないかなと思って投げかけたのでした。
[82]……とある蛙[2011 11/28 13:17]
隠喩の問題は重要な問題だと思います。かのっぴさんに議論の展開を期待します。
ところで、詩作品と視点という問題はどうでしょうか。この問題も面白いと思いますが。
詩について発話者という視点及び概念を導入して、その構造を説明することが多い(入沢康夫など)。実際には視点が変化する場合が多々あり、、その点散文とは基本的に異なる部分がある、散文は語の意味を限定して作者が意図する作品世界を構築する。もちろん視点があり、その変化することはあるが、明確に視点の変化が場面の変化のようになされていて混乱はしない。
詩に関しては次の通り多様な変化がある。
?微妙に視点をずらす。
?主観と客観を入れ替える。
?客観の裏側から眺める世界という視点を設定する。
?主観的な視点ではあるがいろいろな視点を設定する。
?記号あるいは単純化した世界の視点
?客観的視点の中の物体などに入れ子式に主観的視点をいれる。
ex宮沢賢治など青森挽歌はリンゴの内側からの視点?
ほか
まぁ余裕があったらということで。
[81]深水遊脚[2011 11/28 11:03]
前の話題で書きそびれているかな、と感じることを書いておきます。
散文に書く、という約束をいつも守れない私なのであまりこれを言いたくないのですが、隠喩のことは一度きちんとした散文にまとめたほうが良いので、取り組んでみたいです。詩とは切っても切れないことなので、それについて書かれた書籍も莫大な量でしょう。私がいま読んでいるのは下記書籍です。
『レトリック感覚』 佐藤信夫著 講談社学術文庫
このフォーラムでも、広田修さんが書かれた散文がとても参考になります(「現代詩の記号論」1〜2、「隠喩と論理形式」など)。
特に難解な詩でなくても隠喩は使われています。当たり前すぎて注目さ...
[80]深水遊脚[2011 11/26 23:03]
>>79 中川さん
いや、気にする必要も無理する必要もないっす。週3は努力目標にしてもハードル高すぎますよっ。ここ最近の話題って、詩と絡める限りずっとつきまとう問題じゃないですか。たとえば恋文なんて比喩のオンパレードになるし、ニュースの発信主体のマスコミもニュースの対象になる政治や経済もレトリックで溢れかえっている。非詩と詩の境は本当に紙一重です。だから折に触れて中川さんの得意な話を語ってもらって全然かまわないと思います。それも好きなときに好きなペースで。じっくり煮つめたほうが美味になるトピックばかりなのですから。私も好きにやるので。たまたま今回、気まぐれで恋愛をぶち上げましたが、...
[79]中川達矢[2011 11/26 22:28]
毎回同じ展開になってしまってますね、ごめんなさい。
来週からは最低でも週に3回現れることを約束…、目指したいと思います。
伊藤さんから投げていただいた隠喩の話は、僕のせいか、次第に読者の存在について語られてしまいましたね…。
とりあえず今後の流れをかのっぴさんにお任せします。
もちろん、自分も参加していきますが。
恋愛。
自分は長くお付き合いをしている方がいますが、
今まで詩を書いてきた中で本当に1度ぐらいしか詩のネタにしたことがありません。
書けないと言えばそうなのかもしれませんが、書こうとも思わないですね。
多分、個人的すぎることをあまり書きたくないという僕の信念が邪魔をしているのでしょう。
[78]深水遊脚[11/26 21:04]
抒情といえば恋愛を思い浮かべる私は単純かもしれませんが。テキスト論やレトリックについて濃く深くやるのもいいけれど、少し殺伐としてしまうので、こんな要素も入れてみたいです。
いまどきの恋に稀薄になってしまった情が、古い恋愛の詩には濃厚に残っていたりし
ます。そういう詩について語るのもいいし、いまのかたちについても知りたい気がする。なんだかんだで、詩を書くきっかけが恋愛の人はけっこういるのでは?
#中川さーん、話題変えていいかーい?
#ダメならもう少しの間静かにしてまーす。
[77]……とある蛙[2011 11/22 10:09]
>>75
「落ち込み」「持ち直し」「足踏み」の用例は比喩ではなく可能な意味の範囲であるような気がします。輸出→輸出量(額)とすべき記事ではありますが。
[76]深水遊脚[2011 11/21 18:01]★1
下記は詩のなかで使われる比喩とは、おそらく全く違います。新聞には公のことを誰にでもわかりやすく書くという目的があります。ミスリードの危険性というのを書きましたが、本当にミスリードしてしまうようなダメな記者は一面記事は書かないだろうし、万一書いてしまったら各方面からものすごく叱られます。社会的責任の重さが全く違います。
公に誠実であるべき新聞に対し、文学は私に誠実であろうとするのでしょう。そこには別の切実さが現れます。私は、目の前の作品を理解できるか、楽しめるかは別にして、作者の切実さは疑わないようにしています。作者にとってその言葉でなければならなかった、ということは前提に詩を読みます。用...
[75]深水遊脚[2011 11/21 17:32]
隠喩にしても直喩にしても、当たり前のものとして我々は使っています。詩ではなくても。新聞が使うのは、わかりやすく伝える比喩ですね(ここで新聞をひっくり返してさあ比喩を捜そうとした瞬間、目に飛び込んできた文が下記です。びっくりしました@笑)。
「東日本大震災後の落ち込みから持ち直し傾向にあった輸出が足踏みしている。」
本日付の日経新聞夕刊一面トップ記事本文の一文目がこれです。「落ち込み」は輸出の減少を指し、「持ち直し傾向」は減少した輸出が再び増加しつつあることを指し、「足踏みしている」は再び減少したことを指しています。2文目以下で本文中に出てきた輸出が「輸出額の前年同月比」を指すことが...
[74]……とある蛙[2011 11/17 12:32]
少し読者サイドと創作者のサイドの問題について、書き方の混同があったかも知れません。読者がどう解釈するかは自由です。しかし創作者側が何の意図もなく文章を創作することはあり得ないし、当然それに対する配慮も必要だと思います。これは姿勢だけではなく技術的に当然必要なことだと思います。
語の多義性と隠喩とはほとんど別物であるにも拘らず混同して議論してしまった気もしますが(笑)。
[73]深水遊脚[2011 11/17 09:43]
限定、無限定の話でもうひとつ。
たしかに作者は詩の言葉を発するごとに限定をかけて行きますね。複数の意味を含ませる場合も(その実力のある作者がいたとすれば)作者が含ませた意味のオプションの範囲で読者が選び取るという構図も生まれてしまいそうです。私が読者であれば、そういったあからさまな選択肢を嫌います。
あくまでこれは詩を書いたり読んだりの話。お笑いの場合、ある程度の「お約束」は嫌うところか、むしろそれを期待してしまうし、気分の浮き沈みの激しいときに、即効性のあるJポップを聴くこともあります。ごく個人的な話で恐縮ですが、刑事ドラマ「相棒」が大好きなのですが半分以上は「お約束」の展開で...
[72]深水遊脚[2011 11/17 09:10]
>>67 中川さん
ありがとうございます。
美意識というのも何だかおこがましく、私はまだ目指しているものを実現する力を持たない段階です。その段階では読者のことを云々するより以前に私自身の表と裏を隅々までつぶさに観察すること、ごまかさず言葉にすることが私にとっては先決です。余裕がない、というのはそういうことです。
つい数年前までは私も現代詩に対する違和感をもっていました。でも、時に励まされ、時に完膚なきまでに打ちのめされる、そんな詩に出会って以来、何か分からないことに対し、先入観をもとに安易な結論を出すことをやめました。分からないまま名前だけ覚えておいて、その名前を目にするご...
[71]……とある蛙[2011 11/15 13:00]
語の多義性について
ビルエバンストリオのポートレイトオブジャズを聴きながら、電車の中で書き始めました。スコットラファロ良いなぁ。天才です。ビルエバンスとの掛け合いがすごい。完全にソロ楽器的なものとしてベースを扱っています。
それはそれとして、語の多義性について少し思うところを述べます。
参考文献がないので記憶に基づいて書きます。
詩が言葉というそれ自体意味を持つ素材を扱う創作物であることがいろいろことを難しくしているようです。
もともと言葉は多義性を有しています(文章語に限定して書きます)。しかし、社会あるいは国家(近代においては国家が人工的に統一言語を作っているようです...
[70]伊藤透雪[2011 11/14 19:55]
>>5 こんな感じで良いのかな?
私らしくというと、型が付いてしまいそうなのですが、叙情性は気にしている方だと思っています。
それは時に美しくなく、ざらざらした嫌悪感を思い起こさせるものも含みます。
人の心を書こう、特に恋愛詩が多くなるとそういう感じですね。
淡々と言葉を連ねながら、一つ一つの言葉、並び、音に注意しています。
SF的な世界観にも叙情性を持ち込んで見ると、面白いです。
#スレッドの付け方間違っていたら直します。
[69]伊藤透雪[2011 11/14 19:52]
中川さん、レスは好きなときでいいと思いますよ。
体の方が参ったら書けませんし(^_^;
必ずしも全員にレスは必要ないんです。一人として書けば楽になりますよ^^
[68]中川達矢[2011 11/14 17:35]
僕なんか、まじめすぎる、ってか、あたまがかたいから、こう、僕のレスに負けじと、簡単で、やわらかいレスしてくれる人がいて、中和してほしいなあ、なんて。
[67]中川達矢[2011 11/14 17:34]
かのっぴさん
かのっぴさんのレスと詩を読み、考えたのは…、
読者は作品を読む上で、作品の言葉からイメージを限定していくのでしょう。
読者自体はもともと広がりを持った存在であり、詩の言葉が持つイメージが読者を限定していく、って同じことを2回言ってますね。
多義性のまま、放り込む、というのは賛同できます。
自分もそんな感じで書こうとは意識しています。
その上で、どう書いていくかとなると難しい。
さきほどの伊藤さんへのレスでいえば、「多義性のまま」というのはかのっぴさんの作者としての美意識であって、読者がそこに辿りつくことはない。
それよりも最初に述べた、詩の言葉によってイメージが限...
[66]深水遊脚[11/14 17:32]
合いの手
[65]中川達矢[2011 11/14 16:52]
蛙さん
蛙ワールド炸裂ですね。
現代詩への嫌悪感は前々から感じていました。
現代詩の閉鎖性は同意できます。
詩が当たり前に読まれる時代(ソースなし)からマイナー文学へと陥ったという風に感じてしまうのです。
「結局中身の無い人間が、中身のあることが書けないのは当たり前だというのが結論です」
というのも一時期、僕は考えていました。
ただ、この考えって実に私小説的な考えだと思うんですね。
作者と作品の関係性が強く、僕自身、作品を書く上で、経験していないことを具体的に書く時に苦しむものだと思っております。
書けないことはないとも思うのですが、果たして、とある作者が経験していないこと、つまり、フィクション全体を読者が読んだ時に、その作品の価値基準がそこにあるのかどうか、と問われた時に、作者の人間性が疑われるものなのか。
作品が読者を選ぶのかどうか。
その一つとして、伊藤さんが投げかけてくださったメタファーの問題は、一つの問題としてつきものだと思います。
[64]中川達矢[2011 11/14 16:46]
伊藤さん
「そういう学びは必要ない、自分のやり方で良い」
という言葉、僕もそうだとは思います。
ただ、「自分らしく書く」ということが当たり前のようでいて難しい。
そのことを具体的に言語化するならば、
「自分の美意識を書く」ということでしょうか。
これはあくまでも一つの例です。
自分らしく書くというのは、自分が思考した、もしくは、感じた何かを書くということ。
それを踏まえた上で、他者の作品からの影響はないと言えども、無意識にでも自分が何かを美しいと感じるものがあるかもしれません。
別に美しくなくても、汚くても詩は書けますね。
あくまでも「自分らしく」を言語化した一つの事例にすぎませんが、「自分の美意識を書く」など、「自分らしく」の中にもある程度の方向性は持っているものだと思います。
そのようなものが、伊藤さんの創作の糧であったり、メタファーの問題にも繋がっているのではないでしょうか。
[63]中川達矢[2011 11/14 16:38]
かのっぴさん、ありがとうございます!
ご丁寧な分類ですね。
これ、今後もやっていくとなると相当手間がかかるような…。
ちょっと体調が悪く、おとといときのうと泊まりがあったりしてレスが遅れました。
今からちょっとずつですが、レスしていきたいと思います。
[62]深水遊脚[2011 11/14 09:45]★1
初期みたいにこんなものがあるといいんじゃないかと思って作ってみました。よかったらスレッドのトップに貼ってください。分類に関しての異論、もれの指摘などありましたらお知らせください。
ひとつの事象がひとつの価値観とべったり結びついたままの状態だと、「情報のタネローン」としての使い勝手は悪いと思うので、こうすることで使いやすく、参加しやすくなるのではないかとも思います。
<トピック1(詩に直結すること)>
詩の仕組み、構造、成立条件
>>4 >>6 >>7 >>56 >>57
普遍性
>>5
詩情、抒情性
...
[61]伊藤透雪[2011 11/13 11:15]
>>60
かのっぴさん、何の意識もせずに読みました。
たぶんあなたのご心配は全然当たりませんです。
人は風景のように意識される「清浄な」「水」の外縁にしか読み取れませんでした。
だから、満たされながら揺れる心が浮かび上がって感じました。
読み手というのはわからないから、書き手は心配性になるのでしょうか。
具体的な例を挙げていただけて、とてもわかりやすいです。
[60]深水遊脚[2011 11/12 22:31]
隠喩の意味するところが、なにか「ひとつのこと」を別の言葉でほのめかすことであれば、それは私の目指すところではありません。たとえば私が書いた下記の詩ですが、
http://po-m.com/forum/thres.php?did=239442&did2=90
スレッドのルール上、直前の詩からの連想で書く必要があり、「じゅうしい」からの連想で清潔な、水で満たされたあるものを想像して書き上げました。これを「何か閉鎖的な集団におとなしく属している私」というひとつのイメージにしか行き着かないとしたら、私としては失敗作です。そして、4連目に「人」という文字を使ってしまったことで、意味が限定されて...
[59]深水遊脚[2011 11/12 22:11]
>>54 中川さん
下記にだけお答えしておきます。
>自分では平易なつもりでも読者には難しい、とありますが、これは批判でもなく、かのっぴさんが書く時は、読者の存在を意識しますか?
(この表現は伝わらないだろうな〜、とかそんな想定のことですね)
読者を意識しません。これは尊大に振舞うわけではなく、その余裕がないだけです。平易で正確な主張を誰かに伝えるときは、詩以外の手段を選びます。それでは伝えられないものが確かにあると感じるときに、私は詩を書きます。多義性のまま投げ出すのは私の追求するスタイルです。禁じられても変えません。
2011.11.14 10:00追記
正確にいえば、内なる読者との自己内対話で詩を作っている部分があります。日によって気分によって自分の書いた言葉でも感じ方が違ってきます。ものを書くときはそれを利用します。
[58]伊藤透雪[2011 11/12 20:18]
「自称詩人」とは如何なる者なのか、その境目を私は知りません。
ただ、普遍性や非普遍性を超えて世界観を表現し、それを灯台として
読み手を引き込んで行こうとする書き手の努力は必要だと思います。
自分の作品をより発展させたいと思う者として「手段」「手法」を
論題にして言いっ放しで言い合うことに、それほど無駄とは私は思いません。
誰かがこう言った、ということには興味も意味も感じないのと同時に。
#喧嘩をふっかけてるみたいで申し訳ないです。