2011 11/28 11:03
深水遊脚
前の話題で書きそびれているかな、と感じることを書いておきます。
散文に書く、という約束をいつも守れない私なのであまりこれを言いたくないのですが、隠喩のことは一度きちんとした散文にまとめたほうが良いので、取り組んでみたいです。詩とは切っても切れないことなので、それについて書かれた書籍も莫大な量でしょう。私がいま読んでいるのは下記書籍です。
『レトリック感覚』 佐藤信夫著 講談社学術文庫
このフォーラムでも、広田修さんが書かれた散文がとても参考になります(「現代詩の記号論」1〜2、「隠喩と論理形式」など)。
特に難解な詩でなくても隠喩は使われています。当たり前すぎて注目されないだけです。ここでの議論を振り返ると、隠喩の複雑さの度合いと、詩の良し悪しの問題が一定の関係(比例、あるいは反比例)として結び付けられてしまうような危うさを感じます。両者は全く別のものとして考えないと、詩を見る前、詩を書く前の先入観の部分を強化する方向にしかレトリック論は働きません。この意味でレトリック論には毒があります。先入観を抱く前に、その言葉を用いてしか言い表せないものが何なのかをまず探ることが、読むことであり、書くことでもあるのだと思うのです。
読者の問題は興味深いのですが、「読者に届く詩を」との主張がヒステリックであればあるほど、「読者」と呼ばれる、年齢も性別も職業も住む場所も多種多様で、それぞれに日々の生活を営んでいる人たちに対して目配りができているのか不安になることが多いです。結局自分に都合の良い読者(自分の嫌いな詩を嫌い、自分の好きな詩を好む、ともに居て心地のよい人たち)を想定してしか「読者」という言葉を使えないなら、読者論は無意味です。他者をまきこまずに自分の詩論を自分の責任で堂々と述べれば良いのだと思います。