詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α[151]
2013 05/13 22:03


(んー。キホン的にはぼくもこひもともひこさんに近い立場から話します。
そうですね、えーと、、、コドモのころの話ですが、週刊少年コミック雑誌なんかをぺらぺら捲りながら、よくこんなことを考えたりしました。
美術の教科書に載っているような絵画にはフェラーリが何台も買えちゃうよーな値段が付けらていたりするのに、どーしてジョジョの、、荒木飛呂彦センセーの原画(直筆原稿1ページ分)とか、富樫センセーが描いた1ページ分のゾクゾクする絵には、、フェラーリが何百台も買えるよな天文学的な値段が付けられてナインだろう、、、と(荒木センセーはゲー術家に負けてないのにッ!ゼッタイ!!みたいな、、)。
で、じつは今でも、?ゲー術 以上に ゲー術?な少年ジャンプの巻頭カラーページとか、?詩 以上に 詩?的な140文字のツイートとか、日記やコピー(そいえば糸井重里の?今日のダーリン?という日々の日記みたいな文をまとめた本が谷川俊太郎賞を貰ったことは、お二人の友情を超えて素晴らしいとおもいます)、?ポエトリー・リーディング 以上に ポエトリー・リーディング?しているラッパーとか、、考えればいるし、いくらでも思い当たるんですよね。逆に?ロック 以上 にロック?な現代美術とか詩とかも。。また、どーしようもなく?作家性?をもってしまうヒヒョー家なんかもいますし、大学時代のゼミの知り合いの中には、社会学者(宮台真司)のしかしエモーショナルな文体を、完全に?ブンガク作品?として消費していると公言している人もいました(そいえば、かつて社会現象になったエヴァンゲリオン、?そのエヴァにこそ芥川賞を与えるべきだった?とかゆっていた評論家さえいましたが、、その是非はおいとくしても、キモチはわかるきがします。)。
なんで、?詩 以上 に詩?的な感想やコメントとゆーものはありうるし、あっていいと、ぼくはおもっています。
お察しの通り、僕はソレが、そのゲー術がもしも、?ゲー術と大衆文化?、?ハイアートとサブカルチャー?とゆーよーな、なんらかの?階級差?を利用して成立しているよーなものなら滅んじゃえ! みたいな、ややラジカルな立場から書いています(もちろん僕の発言はフォーラム全体の意思を代弁するものではありません)。それは、ゲー術(詩)がニンゲンがする他のあらゆる表現(ex,ツイート文とかコメント文とか)よりも詩的で優れている、とゆー考えはやはりフィクションだし、その根拠がどこにも見出せないからです。
前フリが長すぎますが、、

はなもとさんへ

なので、仮に、ある詩にたくさんの返歌や詩的なコメントが付き、いったい?ナニ?が?詩?なのか、判別できなくなるよーな状況が生まれているのだとしてもOK(や、ぼくは現在詩フォーラム以外の詩サイトをよくしらないのですが)、だと考えます^-^。

蛙さんへ

あらゆる作品は鑑賞者、つまりそれを?見る?人がいてはじめて成立します。
裏返せば、どく者なんていらない、てさく者の作品も、?見られる?ことまでは否定できない(さく者自身がそれを見るはじめの一人、最初で最後のヒヒョー家として現れる場合も含めて)。
、、神様が死んじゃってからこっち、あらゆる作品は、いかなる超越的な視点からもその身分を保証されない。?じぶん?が?ナニ?であるか?判らない?。だとすれば、こんどはそれ自身が自己反省的に自らを?見る?しかない。作品が自己ブンレツ的に?自分自身を見る?とゆープロセスを通してしか、?自ら?を存立させることが出来ない。?ツクル(作家)?ことと?見る(ヒヒョー家)?ことは鏡像であり、作品においてそれらはその成り立ちからして切り離すことができない、、ぼくは近代以降の?作品?の概念をそんなふうに理解しています。
そしてビ術ならビ術、詩なら詩の内部では、たとえばその?正しさ?を証明することができない(?正しい?とされていることの?正しさ?を証明することができない)。いっしゅのゲーデル問題ですよね。だから、?じぶん?を?知る?ためには?外部?が参照されなければならないし、その?外部?が?超越的?なものであってはいけない。たまたま隣接するものとのカンケー性の中で自分の素顔を垣間見るしかない、、、とこんなふうに。

長々としつれいいたしました。。)
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