06/17 19:39
……とある蛙
読者について考えてみることの意味を理解されなくて残念です。まぁ私の書き方の問題もあるかな(笑)。
もちろん現代詩フォーラム内のみでの読者について考えることはまったく無意味です。その意味ではKETIPAさんの言っていることは間違ってはいないのですが、読者論ではないですね。ほとんど参考にならない散文です。
自分が書いているものが仮にも文芸という物だと意識している以上、その享受する側を無視することは傲慢過ぎると思います。
一般的に読者の意味を考える際、読者側(受け手)からの意味と、作品側からの意味の両面から考えるのは当然想定される前提です。これまであまり繋げて論じられていない受容理論と批評理論が裏表で意外と密接な関係にあるのでないかと考えられます。そのあたりも問題提起した動機なのですが(笑)。
エミリー・ディキンソン除き、みな想定される読者を意識して書いています。ポオにしろ、その影響を受けた詩人はみな。ランボーですら詩人が責任を負うべき対象として受け手側(人類及び動物という規定の仕方ですが)を意識しています。
考える意味はあると思います。日本の詩論でほとんど欠落している部分ではないかと思います(全くないとは言いませんが)。山本太郎さんが半ば自嘲気味に詩人の独善についてその趣旨のことを書いていたと安藤元雄さんがエッセイで書いていましたが(笑)。