詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α[158]
2013 05/20 01:43


(>詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので、やはり自分個人としての見解は持っていたいと思います。

と、はなもとさんがおっしゃるように、また僕のガクセー時代、ゼロ年代(笑)にもやはりこのもんだい意識はあって、ナニがゲー術で、ナニがゲー術ではないのか? そのへんをクリアにしないと何をやっても空虚(根拠のないゲー術つくること、関わること)だし、そーいうことを考えている人は多かったです。
そして、ごく個人的な話ではありますが、、そのことに対するぼくの周りのアクションのとり方としては、カオスラウンジ(http://www.youtube.com/watch?v=HpueFRzx0PY)的な方向(明治期に輸入されたゲー術という概念は、ついに、この国に根付かなかった。やめにしよう。も、ゲー術は終わりにしよう。オレたちはゲー術を滅ぼして、新しいフェーズに入るべきだ。)に流れた人(カオスラは今のところゲー術に取り込まれてますが、、)と、ゲー術を明治からの文科省の呪縛から解放して、その?意味?をスライドさせよう(近年地方でゲー術祭(http://www.youtube.com/watch?v=HAPx9B-a2u8)とかやってるよーな、、てかぼくはモロこっちに行った、、(もちろん何もかもがうまくいったわけではない、、))みたいな人がいた。。
たとえばヌーヴェルヴァーグにおける作家主義とゆーことばには、作者が作家意識をもって作品をつくるみたいなイミとそれから流通している商業作品の中から?作家性?を見出すことみたいな複数の含みがあったとおもいますが、それともちょっと違って、も、ほんとにナニがゲー術かわからないところまできてた。
(詩やゲー術に限らず、○○とはナニか?とゆーギロンをするとき、たんなる定義論争をこえて領土問題になりがちですが、、すぃ〜と線引いて、
こっからここまでが○○で、あっちが○な、、みたいな、?純粋ゲー術?とか?純粋詩?とか?ニチジョー言語?と?詩的言語?とか、あいや、ぼくヤコブソン嫌いじゃないしポーとかマラルメとか好きですし、そゆギロン自体は興味深くもありますが、、結局は、広田修さん つ http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269456 が指摘されているよーな問題、あるいは哲学者のライルがいうところの?カテゴリ エラー?の問題に突き当たるだけだとぼくは思います。カンタンにいうと、?大学?の事務室や講義棟や体育館や食堂をあちこち見て回った人が、「で、大学はいったいどににあるの?」と質問する、みたいなやつです。逆にゆーと、?ニホン政府?は?コレ?だ! とゆって?国会議事堂?を指さしてしまう、みたいな([日本政府]の部分に[心]や[カレー]や[詩]を、[国会議事堂]の代わりに[頭部(脳)]や[ボンカレーorインド人が作ったカレー]や[根底に歌があるものor規範的な意味作用をズラしたことば]を当て嵌めても可)。広田さんがいうよに?詩?の概念は家族的類似性の観点からとらえるべきだし、勝手に付け加えるなら、詩は、領土区分的に 詩が?アル? とゆーよりも、 詩を?なす? といったほうがより真実に近いきがします。)。

ながくなりました。。〆に入ろーとおもいます。
ほんとはもっともっと書かなきゃいけないこと、拾い切れていないこと、たくさんあります。
ナニも僕は、ナニがゲー術かわからないからといって、価値相対主義的な、なしくずしに価値破壊的なことをいいたいのではありません。そうではなく、ナニがゲー術がわからない、とゆー状況的(或いは根源的)なアリエナサ!そのものに対しての緊張感を常に持ちづづけること。そして、そーするならば、ビ術や詩がガラパゴス化することさえ悪いことばかりではない、と僕は考えます。ただ、そーした?固有のフレーム?の内部でのいっそう先鋭化した問題が、そこでの極めて特異な成果が、外に、世の中に対してどれだけ翻訳可能な汎用性を持ちうるか、つまり、どれだけ外に対しての緊張感を持ち、他者を説得しようしているか、、とゆーことが、その態度が大事だと考えます(そのいみでは、もし、はなもとさんが言うように、返歌、返詩、連詩の以前に、その詩投稿サイトでの?詩を詩でかえす、返歌のようなシステム?が?発表の場を占めてしまう可能性があ?り、結果的に新しい?詩人を潰していく?ことにもなりかねない仲間内だけで完結しているよーなものとして機能しているなら、それはどうかとはおもいます。僕は現在詩フォーラム以外の詩サイトあまりよく知らないのナンともいえませんが。)。

、、もちろん、僕がここまで書いたようなスタンスは、?個人で楽しむような詩やビ術?とはどこか相入れません。つまり、ゲー術であるとかどーかの前に、それ以前に、個人の内面(感動とか感情移入)の問題をまったくあつかい切れていません。そして、小学生が書くよーな詩や絵と違って、ゲー術としての詩や絵は訓練と学習と高度な抽象化によって行為されるものですが、ぼくは?個人で楽しむような詩やビ術?も、小学生の詩も、おじいさんが描いた印象派のまねごとに過ぎない(ように見える)絵も、その人にとって掛け値のないものである限り、それをヒヒョー的に見たり、序列をつけられないのです(J-POPのPVを現代アート的な文脈から語ることはできても)。
そう、、ぼく自身が多くの様々な矛盾を孕んでいます、、、。

、、いぜん、愛媛の佐多岬という場所で岬あじとゆーアジの刺身を食べたことがあります。ちょっと人生観が変わるほど、、とまではいいませんが、とてもおいしい魚です。このあじは、四国と九州の間、関さばなどが獲れることで知られる(や、それだけじゃないでしょーけど、、)豊予海峡という海域で獲れるあじです。そしてこの海域で獲れたあじは、大分側で水揚げされたものが関あじ、愛媛側で水揚げされたものが岬あじ、とゆーべつべつの名前で呼ばれています。岬あじと関あじは同じ海域で獲れる同じ魚ですが、岬あじはブランディングがうまくゆかず、関あじの数分の一の値段で取引されているとゆーのが現状です。、、ちなみに、どちらのあじも、同じくらい、おいしい(どっちも食べました)。ぼくはただ、関あじも岬あじも、おいしい、といいたいだけなのです。(もちろんぼくはメバチやキハダのネギトロ丼で十分な人間ですが。。)

では、失礼ます。)
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