2012 05/15 08:21
中川達矢
戻りました。
朗読については、蛙さんのおっしゃる通り、テクニックが存在してしまいます。
そうすると、一つの不安としては、朗読によってむしろ解釈が狭くなる恐れがあるということ。
ただ、それはあくまでも広義の音が目の前にあり、それを踏まえてどう解釈するか、はテクニックと別のものかもしれません。
昔の和歌・俳句は文語。
古典の授業でもそうですが、古語の理解でよくなされるのが、現代語訳、そして、なんといっても助詞の役割。
ここで疑問が生じるのは、果たして日常会話において、助詞の正当性をどれだけ疑っているのか。
仮に、習慣的な違和感と名付けますが、「〜は〜した」「〜を〜した」では動作の方向性が異なり、こういった場合、その違和感はすぐに気づけるものですが、もはや習慣化された日常言語としては、意味内容から判断するより、記号表現、つまり音によって判断するレベルにあるのではないか。
俳句を読む時に検討されるのは、助詞の良し悪しよりも語と語の並びや衝突が主ではないでしょうか。
#この読みを強要するとイデオロギーになる。そもそも文学において「こう読むべきだ」から発展した「解釈は多様である」という考えすらもイデオロギーに感じる。
岡井さんは短歌作者であるだけあって、詩の読解には必ず音数を用いて分析しますね。
その徹底ぶりは、むしろ引いてしまう部分があるのですが…。
それはさておき、何となく皆様の意見が出尽くした感がありますね。
書くことから少しだけ離れて「読書」について何かあればどうぞ。
果たして「影響」なんてものが存在するのか。
好きで読む作家はいますが、それを書こうとするかどうかもまた別な話な気がします。
気楽に読書遍歴なども語ってみてはいかがでしょう。