詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α[141]
2013 02/26 00:32
中川達矢

最近読んだ、野家啓一『物語の哲学』において、森有正さんの論が紹介されていたような気がします。
N.K.さんがご指摘なさるように、ただ単に経験を積むことがいいのではなく、それが活用され、詩論・理論の理解に繋がるのは盲点でした。
おそらく循環されていくものでしょう。
経験が主観的、詩論・理論が客観的(一概に分類はできませんが…)が、循環的に影響を及ぼすような気がします。

森さんのおっしゃるのは、体験が点で、経験が線のようなものであり、体験は出来事、一瞬一瞬であり、それを蓄積していくことで経験になっていく。
そして、その蓄積していく主体が必要であり、その主体こそが、「いま・ここ」で体験を語りうる「私」である、といった論旨だったように思えます。
(一部、僕による勝手な改ざんがあるかもしれません…)
そして、そこに付け加えるならば、「私」が「私」たりうるのは、その経験を語るからこそであり、つまり、たとえば、「死」はその人のものであり、他者の「死」を私が死ぬことはできないように、他者の経験も私が経験することはできないのです。
ただ、「死」は経験として、語りうることができないのに比べ、過去の体験は経験として語ることができる。
無論、「あの人は昔、こうで、ああで」と他者の経験を語りうることはできるかもしれないですが、それは、「私」が見た他者の経験に過ぎず、観測点としての「私」、そして、語る者としての「私」からは逸脱できないように思えます。


少し、思いつきで書いてみました。
スレッドへ