2011 12/05 21:08
深水遊脚
>>94 中川さん
(コピペにマジレス@笑)
案外、恋愛のすべてが個人的なわけでなく、「会いたい」気持ちが人と人との関係によって満たされたり満たされなかったり、満たされたとしても会うごとに何かが違うと感じるようになったり、そうした気持ちの浮き沈みの裏にあるのは社会です。西野カナのリスナーの裏にも社会はあります。不自由がないようで思うように行かない、時々すごくつらい目にあう、そんな社会が「会いたい」を盛り上げる。
曲の一つ一つは知りませんが、「会いたい」という言葉に自分を重ねたかったり、「会いたい」と言われたかったり、そんな人が「会いたい」と歌う曲を聴くのでしょう。一人ひとりのリスナーの奥に「会いたい」を盛り上げる何かが存在する。
そんな状況で何を詩にするか。瞬間の「会いたい」気持ちの強さを閉じ込めるか、「会いたい」を期待させる心地よさを歌うか、「会いたい」を妨げるものに怒りをこめたり悲しみを書いたりするか。突き放して醒めた抽象的な書き方をするか。いろいろでしょう。
題材に対する向き合い方を探るなら、西野カナも天沢退二郎も丸山圭三郎も同じ要素は持っている。その現れ方が違うだけで、根底にあるのは人間のあり方に対する視線です。違いを強調することは誰にでも出来る。縄張りを主張することも。でも、それぞれに書くパッションを与えたのは何だろうか。私が「恋愛」をぶちあげたのはそれを探るのもいいんじゃないかと思ったからです。
もちろん、隠喩も技法も言語学も、題材や主題とは縦糸と横糸のような関係です。いつ展開されてもいいとは思います。きりのない話なので気長にやるのがいいと思いますよ。