2012 05/13 20:56
……とある蛙
岡井隆さんは詩と韻律との関係を次のように考えているようです。
現代詩は文字言語として目の前に現れる。したがって一般的にはそれを目で追って読む。詩がその発生史的には肉声として提供されていたことがあり、文字言語として読むこと自体は詩の本性とは異なる。したっがって、詩を読むことでも肉声に近いものが聴きとれねば詩としてのある要素が欠落している。
現代詩を文字言語として読んで、意味を遂っても(慣用語法からの超越も含めて)知的悦びのみで感覚的な美は見いだせない。意味と言ったところで言葉である以上韻律と共に展開する。音韻に担われた感覚的な美も詩に求められるべきである。
※参考 岡井隆著「韻律とモチーフ」大和書房刊1977年4月発行
前述の考えを前提として、谷川雁の証人や吉岡実の僧侶あるいは萩原朔太郎の詩などを意味論も含めて音数律の分析も合わせてしています。
韻文の音数律に関しては菅谷規矩雄「詩的リズム」が詳しいですが/日本語のリズムを音数ではなく拍数で捉えて四拍四小節と捉えています。基本そのように考えると分かり易いですが(笑)。ただそれだけでは何の結論も出ません。
七五調と言ったところで奇数の音数は二と三あるいは四と五など異なる音数の組み合わせとなり、言葉数の増減による動的イメージが発生するようです。それに対して偶数の音数は同じ音数の組み合わせが可能で静的なイメージが発生するようです。
そうであれば奇数音数の組み合わせのリフレーンで展開部 の連で偶数音数のフレーズをいれれば変化を持たせることは可能です。その後、奇数音数の組み合わせを続け最終連の最後の一行を同一音数のリフレーンで落ち着いた終わり方ができます。
岡井さんは奇数音偶数音の音数の組み合わせの効果には言及していませんが、展開部の連で音数律が変わることは吉岡実の「僧侶」でのは音数分析で述べています。
実際どんな音数の組み合わせでも自由口語詩ですのでセオリーってことはないのですが、独断ですが詩による感覚的な美は音楽的なものを考えざるを得ないと思っています。
※よく言葉を並べて絵を描こうとしている詩人もいますがしゃれにもならず感動も覚えず美しくもなくその創作意図が理解できません。ちょっと言い過ぎかも知れませんが(笑)。