詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α[157]
2013 05/20 01:15


(はなもとさんへ

挨拶がおくれました。
えと、あらめまして、はじめまして、ツと申します。
ほとんど難クセのよーな文を寄越したのにもかかわらず、しっかりとお読みいただた上でのていねいな返信をどうもありがとうざいます。はなもとさんのゆってることはスゴクわかるとゆーか、心情としては近いきもしますが、そんな自分のキモチはカッコ入れにして、、引き続きややラジカルな立場からモノをゆってみたいと思います(いつか、あなたの前に、こーゆーことを言うひとが現れないとも限らないので)。

さて、まず、なぜ先日のよーな話をしたかとゆえば、僕は、

>詩は芸術か。
>詩を詩でかえす、返歌のようなシステムは、詩をコミュニケーションにしてしまうことにもつながらないか、そういう楽しみは、個人間で納得しあってするもののであって、公共として蔓延してしまえば、文化の冒涜というか、発表の場を占めてしまう可能性があるのじゃないか、

はなもとさんのこの発言の背景に、?ゲー術?と?個人の楽しみ?との間にある階級差、ヒエラルキみたいなものを読みとってしまったからです。勝手に読みとりましたごめんなさい。そしてそれがいいとか悪いとかゆーのではなく、そのこと自体についてナニカ語ってみたくなったのです。

で。えと。端的にゆって、?ゲー術?とは、重たいことばです。近年では、ネイル?アート?とか、銭湯の壁絵のFUJIYAMAは?アート?だね! 俺達の足元からわき出て俺達をほっこりさせてくれるこのラドン湯だって?アート?さ!! なんてゆーよーなニチジョー会話が飛び交うくらいに軽くはなっていますが、、やはり依然として?ゲー術?とはとても重いことばです。
たとえばブンガクならブンガク、ビ術ならビ術、えー画にはえー画の、固有の歴史があります。ゲー術作品である、とゆーことはその気が遠くなるほど重たいレキシに参入し、そこで新しいものを生み出す、とゆーよりも、連綿と続けられてきたそのレキシの突端部分で微細なアップデートを行う(行おうとする)ものに他なりません。「見て! あたし今日、すごい線のタッチをあみ出したわ!!」「どれどれ、、君、たしかにこのタッチは素晴らしいけど、、、(カリグラフィーのモデル画集をパラパラしながら..)これは、150年以上前にある絵描きが発明したタッチとまったく同じじゃねーか..!」 ...。「し、知るか!!」
とゆーのでは、もちろん通りません。たとえどれだけの情熱を注ぎ込もうが、どれほど胸に響く作品をつくろうが、あるいはすさまじく珍妙奇天烈なものだろうと、、二番煎じ三番煎じ、過去に誰かがやった手法や方法論では、レキシにその名を残せません。
また、ぼくのガクセー時代、たとえば周りで映像なんかやってる人たちは、じぶん達がつくろうとしているゲー術作品と比べて、宇多田ヒカルのPVがどんだけスゴイかってことを皆しっていました。インタラクティブ系とかデジタル・アートとかやってる人は、じぶん達の周囲にある高尚なゲー術(公共スペースを利用したり、国から助成金をもらったりしている)よりも、ふざけたB級ゲームクリエーターの作品のスゴさを肌で体感していました。しかし、現代アートの外にある(歴史に参入していない)、宇多田ヒカルのPVはけっして国立近代ビ○館に収蔵されることはありません。
ゲー術の根幹を支えるものは連綿と営まれてきた長い固有の歴史であり、がゆえに、それがないもの、その外にあるもので?ゲー術?が成立するのだとすれば、それはそもそも前提としておかしい。ゲー術とはそーいうものです。
(そいえば、タイプライターの登場がブンガクを変えた(正確な記憶ではありません)、とかゆった作家がいましたね。ええと、それ(タイプライター)によって思考速度を超えた高速自動筆記でkeyを叩くことが可能になった、、とかじゃなくて、や、もちろんそゆトンガッタ表現も?含めて?そーなんですけど、、?テクノロジー?がそれまであったソレそのものの営みを、在り様を大きく変容をさせることはありますよね。で、ぼくなんかはコレ(つ http://www.youtube.com/watch?v=ZwGpF9hOdSQ *フルスクリーン推奨)をみて、21世紀、視覚詩もついにここまでキタかー!、、としみじみ思ったのですが、、いえ、ぼくが思ったとゆーよりもコレ、明らかに詩の歴史のどこかの突端をアップデートするものであり、ひとつひとつのも字列が、も字が、記号が、いみ(記号表象は創発的に非記号表象を成し、動きやじかんの伸縮とともに意味は生成されてゆく)が、、線レベルで絶え間なく解体/結合(再組織化)をくり返してゆくときの、意識(≒線と線)のスリットから覗ける空白がそら怖ろしいほどですが、、、でも、、この視覚詩がたとえば現代詩手帖賞とかをとることはけしてないんですよね。なぜなら、、そもそもこのPVは詩として(データなり、パラパラ漫画にして..)現代詩手帖には投稿されないし、たぶん、おそらく、選考の人もこの動画を見ないから、、。またその必要もないし、世の中そゆものだと思いますが、だったら改めて?ゲー術?や?詩?て、ナニ? もう、その概念自体がうまく機能してないじゃん!! てことになりますよね。)

つづく。)
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