詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α[71]
2011 11/15 13:00
……とある蛙

語の多義性について

ビルエバンストリオのポートレイトオブジャズを聴きながら、電車の中で書き始めました。スコットラファロ良いなぁ。天才です。ビルエバンスとの掛け合いがすごい。完全にソロ楽器的なものとしてベースを扱っています。

それはそれとして、語の多義性について少し思うところを述べます。
参考文献がないので記憶に基づいて書きます。

 詩が言葉というそれ自体意味を持つ素材を扱う創作物であることがいろいろことを難しくしているようです。
 もともと言葉は多義性を有しています(文章語に限定して書きます)。しかし、社会あるいは国家(近代においては国家が人工的に統一言語を作っているようです。ー実は日本語における国語が典型のようです)が言葉における可能な意味を与えています。これを習得してそれぞれあまり意識せず会話したり文章を書いたりしています。もちろん言葉はもともと多義性を有しているのですから、実用的に用いようとすればその意味を限定するためには言葉それ自体の外の要素,
 受け手との関係性、文脈の中の言葉の位置などが斟酌され意味が限定されて行きます。しかし、あくまでも実用性を考えれば可能な意味(社会的)での拡張のみが言葉の機能の限界です。それ以上ごく狭い世界での符牒などは言語というよりは記号として言葉を使いますが、これは別の問題です。

 かかる言葉のとしての理解を前提とした場合、詩における言葉の多義性はどのように考えるべきでしょうか。ただ放り投げて読者の解釈に委ねるというのはあまりにも乱暴な議論だと思えます。極端な話「石」と一文字書いても詩になりえます。石という字は可能な意味では路傍に転がる鉱物及びその周縁部の物質。あるいは堅い固まり状の物体。ある人には堅いことの譬え、ある人には何ものにも影響されない(その前提が正しいかは別)こと。等どこからかは隠喩いや換喩になっておりますが(笑)。

 先ほども述べた実用的な言語の世界では、意味の限定が重要なので、可能な意味の拡張までは認められても類推解釈は強い合理性と文脈の中で慣例化されていて初めて例外的に認められるだけで基本的には認められません。

 詩の世界では多義性が要求されるとまでは言えなくとも多義性が必要だとも考えもありますが、本当に詩の語として多義性が必要なのかは疑問です(受け手側が苦痛を感じる場合もあります)。可能な意味の拡張であればある程度は放り投げて使われても十分詩作品になるでしょうが、ある程度イメージの関連性の中で他の意味を持たせないととばし読みしてしまいます(あくまでも私ですが)。
 また、明らかにインチキなことを前提にして気取って書かれてもしらけます。詩でも絶対的に取材あるいは観察は必要です。それを指摘しても普通でいられる人はどうかと思います。
 結局、言葉の意味を越えてその言葉に違う意味を持たせるためには、その語以外の要素が必要と成らざるを得ません。
 読者との関係性に依存することは余りよい方法ではないと考えます(このあたり結社ないでの評価が少し世間ズレするのはやむを得ないと思いますが)。
 また、読者に期待するのはお門違いと言わざるを得ません。自分と同じような頭脳構造している人間は世間的にはごく少数です。
 詩も含めて文章を書く場合はモチーフなり言いたいことは大事にしたいので。
 やはり、文脈の中で作られたイメージとの関連性あるいは意味を規定するテキストの存在が必要だと思います。イメージというのは便利な言葉で、私が考えるに写生の積み重ねによってイメージというのは表現できるものと考えています。イメージ自体が浮かばない詩もありますが、その場合は論理性があれば救われます。イメージを上手に作れない詩はやはり受け入れられないし、ごくごく私的な物と言わざるを得ません。それが悪いと言ってはいませんが、自分では読む気はしません。まぁランダムに書き過ぎかも知れませんごめんなさいね。
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