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と奥くり 蜚かりするながら ひとたび<最い始>、想いへ佇りいて、超えりゆく 聴し、ことり、みはく博ち、聴する億 怪かしり、かすくか檄よする破か 撼しながら 裂する訝か著し鵠しながら 悉り、識り、閃らり内らり越え、方すくかり 時創りなし、 透おり 流り 流り 握くり 思すくわ悛り 翔すかりー想すかり充り 放り、 見すわ充(み)り 慄るり 慄るり 慄るり 黙はく黙はく拍ち 搏すらり、搏すらり、み、はく黙搏ち 翔くり、みいり 翔すかすくり霜すかみりするながら 怡らり みいり震るわみりするながら 哭し、堪し、悲切し、創りする想い 交り越え 覚り 自らするな がら/ 交くり超えり把くり 翔すかり 自ら 覚くりするながら ? 溢ふり、こぼり、……(以下省略) ┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼ 言葉の意味と構文の全壊=言葉の未聞の韻流 ということなのですが、どのように感じますか。 ある種の規則性があり、山本陽子語のような物が発生しているようです。 音韻と視覚で詩を成立させることが出来るでしょうか?? 少なくとも 実験としての評価はともかく、何の感動もなく成功とはいえないと思いますが。 無意味な記号と言うのはそれ自体記号論では自己矛盾ですので、私の論述は間違いです。 記号ではなく、線描の図形と言うべきでした。言葉も厳密な意味では口頭で発語される言葉なのか、文章化された中での言葉なのかという問題があり、厳密に言えばかなり不正確なのでその点もご容赦ください。 by ……とある蛙 写生論に関するメモ ※しゃ‐せい【写生】 [名](スル)景色や事物のありさまを見たままに写し取ること。絵のほかに、短歌・俳句・文章についてもいう。スケッチ。「梅の花を―する」「―旅行」 しゃせいせつ【写生説】 正岡子規の唱えた俳句・短歌の方法論。絵画の理論を移入し、実物・実景をありのままに具象的に写し取ること。子規以後、俳句では河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)・高浜虚子ら、短歌では伊藤左千夫・長塚節(ながつかたかし)・斎藤茂吉らによって理論的追求が行われ、散文では写生文として適応された。 客覿の景色でも主観の感情でも、単純なる叙写の内部に広ごつてゐるものでなければならぬと思ふのである。即ち句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味へば味ふ程内部に複雑な光景なり感情なりが寓されてゐるといふやうな句がいゝ (ホトトギス」大正13年3月号) 客観写生は花鳥諷詠とあいまって自然を詠うものと考えられるが、その自然(対象)には「人間界」も含まれている。 客観写生は高浜虚子の造語 「まず観察することが基本ですが、それを繰り返していると、対象が自分の心の中に溶け込んできて心と一つになる。そうなると心が自由になり、最も心が動くようになる」 「万葉集」にある「寄物陳思」(きぶつちんし)つまり「ものによせて思いを述べる」と理解してもいい。 写生といい客観写生といい、それは現代でも有効な創作方法である。 正岡子規は、「写生」の重要性を終始、一貫強調した。 月並俳句の知識や教養にもたれた「ひねり」「くすぐり」を、子規は嫌った。ひねり、くすぐりは一種の暗喩や隠喩のはたらきによりかかり、頭の体操のような「お遊び」となる。知識をベースにした句は「分かる」レベルを特定し、レベルに達しない人々を拒否する傾きが生じる。 写生は、対象を自分の感覚で捉え、感性に触れたものを掬いあげる営みに他ならない。対象との触れあい語り合いのなかから生まれる表現行為である 茂吉 「実相観入」。「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。」これらの言葉に「汎神論」的性格を見出すことは容易であろう。 写生とはsketchという意味ではい、生を写す、神を伝えるという意味だ。この言葉の伝統をだんだん辿って行くと、宋の書論につき当る。つまり禅の観法につき当るのであります。だから、斎藤(茂吉)氏は写生を説いて実相観入という様な言葉を使っている。空海なら目撃というところかも知れない、空海は詩を論じ、「須らく心を凝らして其物を目撃すべし、便ち心を以て之を撃ち、深く其境を穿れ」と教えている。心を物に入れる、心で物を撃つ、それは現実の体験に関する工夫なのである。 (小林秀雄) 朔太郎の詩の象徴様式に関する一視点 長野隆 ?詩の形象(観念を具象化した像)の可視化→鑑賞する側の心的な一つの機能 可視的形象を現実の定立(提出された判断主張)→写生詩、叙景詩(風景を描いた詩)可視性にとらわれる。 ?自然感情に多感な民族性???では限定された自然→感情そのものの発露を約束(日本の詩歌) 自然の具象による象徴庁の有限域 竹という詩 上段部は竹の印象のみ→現実の竹の写生 異様な情調(雰囲気)象徴の有限域が自然可視化とは詩的現実???の求め方 およぐ人という詩 行為としての現実ではなく行為者そのものの現実 現に泳いでいるものを書いた詩ではない。 ?象徴を意識すればするほど詩の形象は奇妙にリアリティを持ってくる。 by ……とある蛙 参照先不明 参照先不明 参照先不明 >>13 どうぞ、お好きになさってください! 気負いは捨てて、しゃべりたいことをしゃべってください。 それに反応があるかどうかは別ですが…。 そして、時には聞いてください。 インプット+アウトプットですね。 by 中川達矢 >>14 どうぞ、どうぞ、お願いいたします。 ニュースと言えば3月11日のこともあり、「真の情報」を求め、人はさまよっていたのではないかと思います。 それは、今もか…。 公表される情報は既に距離感がうまれてしまったものであり、数ヶ月前に盛んに聞いたベクレル・シーベルトといった庶民の新発見の感覚は鈍ってしまい、本当に危ない状態が何であるか、その判断ができなくなってしまっていますね。 誰がおかしいとか、そういった問題ではないでしょうが、ホットスポットなどと呼ばれる場所に住み続ける人は住み続けるわけです。 3月11日ということよりも原発の方に走ってしまいましたが…、たまたま今回はこの素材にそって話をしただけで、ニュースはもっと幅広いものですね。 自分は、大学院の入試勉強でちょっとやった映像とか写真の効果についてだったらほんの少し話せそうなので、機会をうかがって登場したいと思います。 by 中川達矢 >>20 久々なのと、スレオペってこともあり、どうしたらいいんでしょうね、へこへこ。 以前のように爆弾キャラになってればいいんすかね、へこへこ。 新境地としてのウザキャラはいかがでしょう、へへっ。 by 中川達矢 …っで、テーマはNewsそれ自体の扱い方について?、それとも最近話題となっているNewsについて?いずれにしても現フォの投稿された物はほとんどが会議室のレス程度が多いけど(笑)。井戸端会議というか(笑)。 by ……とある蛙 ダメだ、今はどんなキャラでも駄目だ。 蛙さんはガチにやりたい感じなんですかね。 井戸端会議はお嫌いなんですかね。 お酒は好きですよね。 みなさん、自分の持てる言葉を駆使して語り合えればいいんじゃないかなー。 先ずは、顔文字さんが賽を投げてくださった「ニュース」についてですが、顔文字さん的には話題となっているニュースを取り上げたかったのだと思いますが、自分としては、先ず、ニュースそれ自体の扱い方を考えつつ、それを考えるために話題になっているニュースの事例を利用すればいいと思いますが、いかがでしょう。 いろんなことが起きた中で、おそらく言葉にしようと思ってもできなかった人が多かったのではないでしょうか。 今だから感じることやらなんやらを知りたいですね。 自分は、あの大地震で何だか体の中が空っぽになった感覚になってしまい、しばらく詩を書けなかったような記憶があります。 とか言って、ただ単に大地震の話になってしまいましたが…、ニュースについて語りましょうか。 あ、何となく詩と絡められたらいいですね。 by 中川達矢 温めた牛乳に酢を混ぜると分離して チーズのようなものができる。 これを私たちデブ業界では「乳酢(にゅうす)」と呼ぶ。 #わきゃねえだろう! by 花形新次 参照先不明 >>22 井戸端会議大好きですよ。それを自覚していればね(笑)。 中川さん うざキャラでOKです。 >>27 放射線量の問題はなんか政府も含め胡散臭くて仕方がない。なんか意味が分からない。 広島や長崎はどんなデータ残しているのだろうか?農産品や水産物への影響のない原爆だったのだろうか?あっという間に半減してしまう放射能だったのだろうか? またモンスターペアレンツのようにヒステリックに携帯線量測定器持って、うろうろしている人たちがなにか楽しげに見えるのはなぜだろうか? by ……とある蛙 なんかこの雑談っぽいノリがいい感じでやんす。 僕はサッカー・野球・相撲・なんやら・かんやらといったスポーツが大好きで、もちろん大迫君も高校生時代から知ってました。 それだけです。 ニュースの都市伝説として North East West Southの4つの方角の頭文字を合わせて、ありとあらゆる方面からの情報という語源という説がありますね。 ところで、ニュースを耳に、もしくは、目にする機会の媒体は何が多いんでしょう。 なんだかんだ言ってテレビが一番多いような気がします。 もちろん最近ではネットも多くなってきているのでしょう。 「現代詩フォーラム」という場で語る場合、どうしてもネットを使っているユーザーが集まっているため、ここには自然とネットで情報を集めている人がつどいそうですが…。 無意味なアンケート、「Yahoo!を使っている人に聞きました。あなたは一日どれくらいネットを使いますか?」みたいな。 それって前提条件おかしいじゃん、みたいな。 あれ、なんだか話がそれてるじゃん、みたいな。 by 中川達矢 参照先不明 >>35 正直なところ、情報が錯綜というより基準が不明なのでますます被害者意識だけが拡大して不安だと叫んでいるのでしょうね。 ただニュースってこの程度だと自分では考えています。 新聞記事を始めとする報道記事は単なる詳しめの目次だということです。 真実の報道なんて言葉を使いますが、報道記事は所詮一つの視点から見た粗雑なノンフィクション文章と考えるべきだということです。興味があることは多数の視点で書かれた何冊かの書籍あるいは記事を読まなければ理解できません。そもそも定義すらイイ加減な記事が多いのには閉口します。興味のないことは読み飛ばしますが、興味のある記事、あるいはある程度詳しく真相を知っている事件については憤りすら感じます。注意しましょう(笑)。 by ……とある蛙 パパハドレイ首相よ、古代ギリシャの少年愛について俺は聞きたいことがあるんだ! #これでいいかな、とりあえず #と言って気付いた #ヤバイ、俺単なるアホだ #まあいいか、事実アホだし by 花形新次 あ、スレオペ降格の危機、;( どうしましょ。 ニュースって、実は記事を書く人の裁量も反映されていて…、 ○○新聞は右だ、左だ、など、そんなこと僕にはわからない。 ニュース自体そのものが思想と切り離せないんじゃないかなって。 それは歴史も同様。 [hi]storyはstoryとしての物語。 これはギャグとかじゃなくて、一時期哲学だか文芸批評だかでそういう見方がされた。 ある意味、歴史も受容の仕方次第で書き換えが可能なんですよね。 WW?という出来事は、一つしかないはずなのに それに対する歴史の捉え方は国や地域の数ほどある。 正しい歴史なんてないんじゃ。 by 中川達矢 イタリアも大変みたいだ。夕刊フジに載ってたぞ。 ベルトハズスーニ首相が自慰表明だって。さすが、エロ首相! それにしてもナポリターノ大統領って美味そうだ。 by 花形新次 今これをやっておけば、今は苦しくても後が楽、ということが人はなかなか出来ないみたいだ。ギリシャやイタリアは増税なり公費の削減なりをもっと早くやっておくべきだった。難しいことだけれど先送りすればするほどもっと難しくなる。日本は大丈夫かな? オリンパスの損失隠しも、損失が生じたその場で明らかにしたほうが、そのときはダメになるようにみえても長い目で見てはるかに良い結果になっただろうと思う。膿みを出し切って経営に臨めば、製品に対する信頼は絶大なのだから必ず立ち直れたと思うし。逆にいまから信用を取り戻すのは難しいかもしれない。 これは結果論だから、本当に膿みだししておいたほうがよかったかどうかはわからない。口に苦い良薬をあえて飲む人たちに、マスコミも投資家もかなり冷たいのが本当のところかも知れない。ここぞとばかりに貶めてしまう傾向があるように見える。でも長い目で見てそれが良いことならば、それを見抜いて評価してこそ資本主義はいいシステムであることができると思う。 TPPは口に苦い良薬なのか、ただの毒なのか。正直今はよく分からない。 (スレオペに必要な条件は多分、消えないこと。中川さん、頑張れ!) by 深水遊脚 なかなか現れなくて、ごめんなさい…。 そして、顔文字さんがいなくなってしまわれた…。 いずれ戻ってくると信じて、ちゃんとオペレートしないとだめですね。 ニュースについて様々考えさせられることがあったと思います。 僕なんかが気になるのは、 ちょっと前にも述べましたが、ニュースが思想を伴うということ。 それを踏まえて、その受容者(視聴者)が ニュースを鵜呑みにするのか ニュースを思考・解釈するのか ニュースは一方的に伝えられるもので それ自身に反論はできません。 デモという形で反論するころ、そのニュースの出来事はとっくの前に起きていること。 それを事前に防げるかどうか、それは視聴者にはできないですよね。 要は情報を持っているマスコミが動くどうか。 いや、マスコミは動く媒体ではなく、伝える媒体。 何か、思うがままにすらすらと書いてみましたが ニュースを鵜呑みにするのか 解釈するのか ニュースを見て、詩を書くという一連の流れを考えるならば ニュースは解釈されるものだろう。 ニュース自体は視聴者に対して画一的に伝わるはずなのに それにまつわる詩は多様的になる。 それは解釈が多様であることと切り離せない関係でしょう。 こんな感じでニュースの受容を考えました。 レスも50ぐらい来たので、次の話題に行ってもいいのかと思っています。 どうでしょう。 あと、自分が言う資格がないのも重々承知ですが、 リアクションがあることが勢いづけるのだと思います。 リアクションをしていこうと思います、ごめんなさい…。 by 中川達矢 真面目に悩んでいます。 隠喩を散りばめて作品とするか、平易な使い古した言葉を使って 作品を作るか、どちらがいいのかと。 評価されるのが素晴らしいとは思いませんが、 納得できるにはどちらだろうと詩作するときいつも考えます。 皆さんはいかがでしょう。 by 伊藤透雪 目指すところは納得できる詩。そこはシンプルです。言葉の使い方は自分で思うのと他人が見るのとでは印象が違います。私の書くものは自分では平易なつもりですが、人にはひどく難しいようです。それでも、納得できる詩を目指すことは変わりません。 説明するよりは言葉の感じかたを読み手に委ねる部分を残すこと、謎は謎のまま残すことは多いです。難しがられるのはそのせいかもしれません。 by 深水遊脚 大学の先生も含めて仲間同士で受ける詩を一生懸命書いているからしょうがないのです。何たら賞の詩の詰まらんこと、(>?<)?*もない(笑)。書きたいように書くしかない。最低限のスキルを持って。ばかばかしいけど。そんなもんだと割り切っています。ただ、上目線で芸術などと言って欲しくないとは思っています。仲間ではない人から見ると意味不明。はっきり言えばゴミみたいな物で。まぁそんな物だとおもいながら、何とか良いものを書こうと努力するしかなでしょう。自分はそんな水準では無いこと勿論です。 by ……とある蛙 >50 伊藤透雪さん 投げかけありがとうございます。 隠喩(メタファー)については僕も頭を悩ませる議題です。 単純に詩のわかりやすさを失わせるものではありますが、メタファーに対しての嫌悪感は、もしかしたらうまいメタファーに出会っていないことから起きるのかもしれません。 それはおそらく僕にもあてはまることでしょう。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=236940 これは「めだまやき」というメタファーについて書いた僕の詩です。 新書で 瀬戸賢一『メタファー思考』(講談社、1995)を読み、そこから着想をいただきました。 思えば、世の中には無意識のメタファーが転がっています。 「あの人と私は距離が近い」 たとえば、北海道と沖縄にいる人がネットで繋がり、性格や趣味が合うことから、物理的に距離は近くなくとも、その相性を表す言葉として用いれば、これはこれでメタファー。 メタファー自体は、本来は物の見方を問われるべき修辞ではありますが、伊藤さんが悩んでいることは、それをどう詩に昇華させるかということ。 自分の作品が読者の読みによって左右されてしまう、ぶれてしまう。 メタファーを用いようか、簡単な言葉にしようか…。 どちらに美学を感じるかは、人の価値観に左右されますが、伊藤さんがどのような詩が好きなのか、もしくは、どのような詩人が好きなのかによって、その趣向が決まってくるのではないでしょうか。 by 中川達矢 >51 かのっぴさん 表現の受け取り方の差異は、読者のコンテクストに委ねられているのでは、と僕は考えています。 ロラン・バルトの「作者の死」以降、読者の数だけ作品が存在するなどと言われ、しかし、スタンリー・フィッシュは「解釈共同体」という概念によって、無責任な読書体系を読者の集合体によって解決しようとしました。 ただ、それは、個人的な読みの排除にも繋がりそうなことです。 自分では平易なつもりでも読者には難しい、とありますが、これは批判でもなく、かのっぴさんが書く時は、読者の存在を意識しますか? (この表現は伝わらないだろうな〜、とかそんな想定のことですね) >52 蛙さん 出た、蛙さんの嫌悪感! あ、いや、悪いとかじゃなくて、蛙さんの姿勢らしいな、と思います。 僕なんかは嫌なことを嫌だという勇気もなく、しかも、大学で詩をやっている人間だから自分のことを言われた感じですね。 まあ、それも踏まえて、作品がそのような背景があるかないかで判断されてしまってはむなしいのです。 大学で内輪でやって褒められている作品の中にもいいものはいいものとしてあるのではないでしょうか。 詩の賞がつまらないのは、はっきり言ってしょうがないです。 (それでも、自分は、実力がなければ賞は取れないとかんがえていますが…) なぜなら、選考委員の手によって委ねられているからです。 単に選考委員の趣向と合わなければそれまでです。 ただ、詩の賞のおもしろさ(詩だけに限らず)は、選考委員が違えば、全く違う作品が評価されるということです。 もちろん、一つの詩集が二つの賞を獲得することはありますが、そんなことはめったにありません。 (今年は、福間健二『青い家』(思潮社、2011)が歴程賞、萩原朔太郎賞を受賞しましたが、福間さんは賞を取るのが遅すぎたというか、なんというか、取るべくして取った存在ですね) その中でも、なぜその作品が評価されるのかどうか、そういったことを書評を読み解くことから、作品を読み解くこともおもしろいかもしれません。 #議題が「メタファー(表現)による詩作品の評価」なのか「詩そのものの評価のされ方」なのか #もう少し、皆様の反応を見てから方向づけたいと思います。 by 中川達矢 メタファーの扱いを、たくさん使うか平易な言葉に隠すか。 私は後者を使っていますが、気づく人は少ないのですよね(^_^; 作風については、誰かに影響されたことはありません、 ネットでリアルで、お知り合いになった人の作品に発憤はしますが、 ある詩人さんに 「そういう学びは必要ない、自分のやり方で良い」と言われたこともあります。 読解が難しくても、音として美しい詩だと引き込まれますし、 何度も読んで考えることもできると思うので、 だからこそ悩むのですね(^_^; でもうまい表現の言葉、暗喩とも言えないけど柔らかく着地する言葉、 私は石畑さんの言葉にいつも感嘆するんですが、 そういう引き込める何かを探している所です。 あーこういう討論でさえ上手く言えない所も悔しい。 by 伊藤透雪 現代詩フォーラムに投稿したての頃は他の人の詩が面白くなくてもすばらしい物と思っていました。しばらくして、なぜ現代詩は自称詩人も含めて、詩人と呼ばれる人たちにしか読まれないだろうかという疑問が生じました。今では詩人にしか読まれないのが当たり前と思えて来ました。読むことより書くことの楽しさで書いていてよいのだと思うようになりました。結局中身の無い人間が、中身のあることが書けないのは当たり前だというのが結論です。書くのを楽しんでしまえと思っています。ただ書くのではつまらないからネットで公開しているのです。 文字言語と口語言語との区別、特質の理解は文学創作者に必要な資質だと思います。 ※メタファーについてのひとこと 大体、文字言語のメタファーは誰に向かって発せられているか 不明ないかがわしさを感じるます。 デリダに言わせると文字言語の特質は?距離?遅延?不透明さ?両義性のあいまいさだとしています。 この辺を曖昧な理解のまま作っているので現代詩は分かりづらく、つまらないのではないだろうか? 等と考えていた時期もありましたが、どうでもいいこってす(笑)。 つまらないもの書いて、誰も理解されないで、かまわないとは思います。狭い世界ですもの。 ただ他人と議論するとき、基礎的概念のいい加減さ、両義性どころか多義性のまま垂れ流した議論するのは何とかして欲しい。自称詩人達さんにありがちな部分です。議論になるわけ無いので、そのあたりが夜郎自大です。エクスキューズだらけで人と議論しようとするので創造的な議論にならないのではないかと思います。 これもどうでもいいことですが、たまにフラストレーションがたまるのです(笑)。 by ……とある蛙 基本的な考え方は去年考えていたことと変わらず、次のとおりです。 何となく最近書く気がしないので、改めてに最近詩について考えていることをアトランダムにかつ文体において統一性無く書いてみます。 飯島耕一の詩集「バルセロナ」を読んで 題材は身辺の見聞、私的個人的な記憶→語法も日常的 伝達性のみの日常的な散文に近い形で書かれています。 日常に対する感想を 詩を形成する素材としています。 詩的な素材 非詩的な素材という区別がそもそも無いと思います。 詩的な言語 詩的で無い言語という区別も無いと考えます。 そんな区別が存在する訳も無い。 日常的な出来事こそ、 たとえば夫婦兄弟など親族間の出来事は普遍性をもちます。 ロバートブライも普遍性に関して親族間の出来事を述べているが当たり前のことです。また、日常接する風景、自然などに普遍性はあります。芸術と呼ばれるためには時間的普遍性と空間的普遍性が必要だとさうれば日常想起する出来事、日常接する自然風景こそ題材とすべきでは無いかという考えに行き着きます。 詩における飛躍した言語など 天澤退二郎など執拗なリフレインによるリズムなどによって言葉の伝達性の希薄化を図ろうとしているようです。 独りよがりのメタファはごく例外を除けば、詩のもつ普遍性を抹殺するもので、詩を第二芸術にしてしまう元です。 口語の中に文章語が既に成立しています。 文章語とは書き言葉→近代になって発達して来た第二言語 本質的に実証的な言葉で「自然主義者、学者、法律家、自然科学者など」によって開拓され、科学的、社会学的な文章又は政府や報道機関などが用いる散文などがこの言葉で書かれている。 日本語もこのような傾向にある。現代詩は現代死語と呼ぶべき一連の文章語を屈指している。物事の外面を書くのには適していて内面を書くには適さない事は自明である。 しかし、文章語で内面を書こうとするので無理なレトリックというか造語にすらならない暗喩に彩られるのではないか。詩人以外興味を示さないような言い回しのオンパレード。そのような詩は詩ではなく、独白以下である ポオのように緻密に組み立てるのも一つの手であろうし、構成を考え上、一気に感性に委ねて書くのも一つの手だろうとはおもいますが。 ロジックの裏付けの無いメタファもどきは単なる独りよがりであることを留意すべきです。 安藤元雄の「詩の初心」をめぐって と題するエッセイの中で 山本太郎ー「スサノオ」などで有名ーの東京新聞に書いた現代詩に対する批判、山本は現代詩の病弊としているが「詩壇の詩、同人誌の詩にはびこる三悪ーワカラナサ、オモシロクナサ。ナガッタラシサーつまりヒトリヨガリ」を指摘している。この方法でしか表現できないというものもあるかも知れないという理屈もなりたつ。しかし、」それはその表現のための語法書法用語の選択など根底から見直さずに怠惰にしているものの屁理屈に過ぎないとも言えよう。 決して自己正当化には成らないと安藤は指摘するが、他方別の怠惰を正当化する可能性もある。 としています。 読み手を選ぶなどというよまい言をいっている人もいるようです。 しかし、読み手を小ばかにしたものに何の芸術性があるでしょうか。 音楽において聴衆を小ばかにしたものは120パーセントあり得ないし、絵画も同様である。一部下劣な評論家がうぬぼれて芸術の受け手をばかにしているだけです(芸術作品を発掘、紹介するのが批評家の役割だ)。そんな批評を前提とすれば芸術何ぞは一握りの知ったかぶりの持ち物になり、普遍性は獲得できない。詩は宗教上の神に対する特殊言語ではないし、秘密結社の暗号では無いのだから。 ※詩作する者は自らを過去の基準で評価してはならない。評論論評など過去の基準で論評するものです。創造的評論家が出れば別です。 芸術としての詩を標榜する以上ね 私は常々反詩的な平明さの中に anti-poeticにより内面的な深みを表現することが課題と考えてきました。つまり、芸術に要求されるのは 時間的普遍性と空間的普遍性をもち かつ感動を与えることだと考えてきました(感銘力ある詩)。全く普遍性のないものは独り言だと考えているわけです。 少ない言葉によって言葉の外側にある感動を人に与えなければならないと思ている。(感動とはいっていますが、感心する程度のモノも含みます) そのためには 現段階では何でもないような情景を詩にすることが必要であり、そのための修練も必要です。 単純さと平明さの中に(もちろん言葉も語法も含めて)内面の世界と現実世界の自分との合一が一瞬でも出来れば と思って書く必要があります。 と考えています。 ※一つの目安としての目標はロバート・ブライの「トウモロコシ畑にキジを撃ちにきて」の世界です。 by ……とある蛙 「自称詩人」とは如何なる者なのか、その境目を私は知りません。 ただ、普遍性や非普遍性を超えて世界観を表現し、それを灯台として 読み手を引き込んで行こうとする書き手の努力は必要だと思います。 自分の作品をより発展させたいと思う者として「手段」「手法」を 論題にして言いっ放しで言い合うことに、それほど無駄とは私は思いません。 誰かがこう言った、ということには興味も意味も感じないのと同時に。 #喧嘩をふっかけてるみたいで申し訳ないです。 by 伊藤透雪 >>54 中川さん 下記にだけお答えしておきます。 >自分では平易なつもりでも読者には難しい、とありますが、これは批判でもなく、かのっぴさんが書く時は、読者の存在を意識しますか? (この表現は伝わらないだろうな〜、とかそんな想定のことですね) 読者を意識しません。これは尊大に振舞うわけではなく、その余裕がないだけです。平易で正確な主張を誰かに伝えるときは、詩以外の手段を選びます。それでは伝えられないものが確かにあると感じるときに、私は詩を書きます。多義性のまま投げ出すのは私の追求するスタイルです。禁じられても変えません。 2011.11.14 10:00追記 正確にいえば、内なる読者との自己内対話で詩を作っている部分があります。日によって気分によって自分の書いた言葉でも感じ方が違ってきます。ものを書くときはそれを利用します。 by 深水遊脚 隠喩の意味するところが、なにか「ひとつのこと」を別の言葉でほのめかすことであれば、それは私の目指すところではありません。たとえば私が書いた下記の詩ですが、 http://po-m.com/forum/thres.php?did=239442&did2=90 スレッドのルール上、直前の詩からの連想で書く必要があり、「じゅうしい」からの連想で清潔な、水で満たされたあるものを想像して書き上げました。これを「何か閉鎖的な集団におとなしく属している私」というひとつのイメージにしか行き着かないとしたら、私としては失敗作です。そして、4連目に「人」という文字を使ってしまったことで、意味が限定されてしまい、失敗したと私は考えています。湖の深いところのイメージは、表現したい対象そのものであり、何かを訴えるための手段ではありません。 2011.11.14 10:00追記 >>61 伊藤透雪さん 感想ありがとうございます。丁寧に読んで下さったのが伝わり嬉しかったです。言葉の受け取り方については、口に出るものと出ないものがあり、出ないものが大部分だと思うのです。出ないものをどう見つめるかは、それこそ様々なものに対する自分のものの見方をみつめたり、時には自分と異なる考え方、振る舞い、言動について何故そうなのかを考えてみたり、そんなことを繰り返して、積み重ねることで見つめる目を養い、心を耕して行くしかないと思うのです。詩読みは自分にとってそんな営みの一つです。詩作は多分その延長上にあります。 by 深水遊脚 >>60 かのっぴさん、何の意識もせずに読みました。 たぶんあなたのご心配は全然当たりませんです。 人は風景のように意識される「清浄な」「水」の外縁にしか読み取れませんでした。 だから、満たされながら揺れる心が浮かび上がって感じました。 読み手というのはわからないから、書き手は心配性になるのでしょうか。 具体的な例を挙げていただけて、とてもわかりやすいです。 by 伊藤透雪 かのっぴさん かのっぴさんのレスと詩を読み、考えたのは…、 読者は作品を読む上で、作品の言葉からイメージを限定していくのでしょう。 読者自体はもともと広がりを持った存在であり、詩の言葉が持つイメージが読者を限定していく、って同じことを2回言ってますね。 多義性のまま、放り込む、というのは賛同できます。 自分もそんな感じで書こうとは意識しています。 その上で、どう書いていくかとなると難しい。 さきほどの伊藤さんへのレスでいえば、「多義性のまま」というのはかのっぴさんの作者としての美意識であって、読者がそこに辿りつくことはない。 それよりも最初に述べた、詩の言葉によってイメージが限定されていく方向に近いのでは。 一つの作品に対して、多様な解釈ができることを証明するために、簡単にできることは、数多の読者を用意して、その作品について感想を述べさせれば、その作品は必然的に多様な作品なんだということがわかるでしょう。 しかし、一つの作品に対して、一人しか読者がつかないのだとしたら、その作品は果たして多様的であると言えるのかどうか。 その場合、鍵を握っているのは、作品であるより、その読者ではないでしょうか。 つまり、作者の方向性が問われるのではなく、読者の方向性(読み方)も問われているように思います。 #合いの手、ありがとうございます! by 中川達矢 隠喩にしても直喩にしても、当たり前のものとして我々は使っています。詩ではなくても。新聞が使うのは、わかりやすく伝える比喩ですね(ここで新聞をひっくり返してさあ比喩を捜そうとした瞬間、目に飛び込んできた文が下記です。びっくりしました@笑)。 「東日本大震災後の落ち込みから持ち直し傾向にあった輸出が足踏みしている。」 本日付の日経新聞夕刊一面トップ記事本文の一文目がこれです。「落ち込み」は輸出の減少を指し、「持ち直し傾向」は減少した輸出が再び増加しつつあることを指し、「足踏みしている」は再び減少したことを指しています。2文目以下で本文中に出てきた輸出が「輸出額の前年同月比」を指すことが明らかになります。前年と比較することが妥当か?という疑問を挟む余地はあると思います。でも「輸出3ヶ月ぶり減」という見出しと、「落ち込み」「持ち直し」「足踏み」の3つの比喩で何となく皆が納得してしまうような輸出額の変化を読む人にイメージさせてしまう力は持っています。これは正確さを犠牲にして経済がどうなっているかをわかりやすく伝えるレトリックです。ちゃんと勉強するときは、数字の意味を正確に読み取って、イメージは払拭しないと、いま起きている経済現象を正確に理解することはできません。でも専門外の人にはあたらずとも遠からずの雰囲気が伝わればよいのだと思います。 わかりやすく、というのはこういう構造をもっていると思います。予備知識がない人にも感覚的に受け入れられやすい代わりに、ミスリードの危険が伴います。2文目以下に正確な数字の説明は確かにあるし、記事に差し込まれたグラフの目盛が「%」だし、よく見れば「前年同月比」とグラフにも書いてあります。でも「落ち込み」「持ち直し」「足踏み」がイメージさせるのは今年の動きだけです。増加か減少か?増加又は減少の幅はどれくらいか?そもそも何に対する増加又は減少か?そういったことを確かめる方向には、この新聞記事は人を促さないでしょう。 >>77 可能な意味の範囲であることと、比喩であることは矛盾しません。もっとも、すでに辞書に登録されてしまったような比喩(「衛星都市」「猫の手も借りたいくらい」「星の数ほどある」「反故にする」「年貢の納め時」などなど)は慣用句など比喩とは別の名前で呼ぶでしょう。でもその生成過程は比喩をひねり出すのと同じ心の動きがあったのではないでしょうか。そして、定着した比喩は可能な意味の範囲だからこそ定着したといえるかもしれません。蛙さんの言葉でいえば普遍性があったから受け入れられ、気の利いた表現として重宝されたのでしょう。 by 深水遊脚 毎回同じ展開になってしまってますね、ごめんなさい。 来週からは最低でも週に3回現れることを約束…、目指したいと思います。 伊藤さんから投げていただいた隠喩の話は、僕のせいか、次第に読者の存在について語られてしまいましたね…。 とりあえず今後の流れをかのっぴさんにお任せします。 もちろん、自分も参加していきますが。 恋愛。 自分は長くお付き合いをしている方がいますが、 今まで詩を書いてきた中で本当に1度ぐらいしか詩のネタにしたことがありません。 書けないと言えばそうなのかもしれませんが、書こうとも思わないですね。 多分、個人的すぎることをあまり書きたくないという僕の信念が邪魔をしているのでしょう。 by 中川達矢 http://kanoppi.seesaa.net/pages/user/iphone/article?article_id=4770740 蔵出しします。材料に使ってください。新川和江さんの『鬼ごっこ』という詩について書いた文章です。すがりついて泣くにしても、刈り倒すにしても、関係性、それも空想のなかで満たしたい願望のかたちです。時代とともにこういう願望のかたちも変わってきているかもしれないですね。男と女がこの2パターンで語れる時代ではないかもしれない。 by 深水遊脚 題材をありがとうございます。 >「わたし」が女性で、「あのひと」が男性と解釈するのが一応は自然かもしれません。 というのはすんなり納得できたのです。 その要因を探るとしたら、それはやはり「いっぽんの木」とか掴まされる存在であるからだと思うんですね。 ここに一つの男性像を植え付けてしまうような気もするのですが、なぜそれが男性像なのか、ということを探ればジェンダー論になってめんどくさいことになります。 中には、逆のケースもあり得るよ!なんて言う人もいると思います。 男性が女性にしがみつくこともあると思います。 それでも、この詩のいいところは、自然的に、流れの上でそのような像を描き出してくれたことです。 (作者が新川和江という女性であるという背景を抜きにしても、その像を描くことができる) 全然関係ないですが、「らめーる」という80年代に女性詩人が中心となった詩誌が話題になっていて、そこで新川さんや石垣さんや白石さんやらが活躍していましたね。 僕の「ばかもの」という名前も茨木さんの詩から拝借したものですが、僕はあの女性たちの詩がストレートながらパワフルで好きなのです。 と言っても、僕は生まれてませんでした、はは。 #というわけで、顔を出す頻度があがってますね。 by 中川達矢 若者らしい話題として、2chのコピペの中にこんなのがあります。 西野カナという歌手が歌詞の中でどれだけ会いたがってんねん!というものです。 西野カナ 『君に会いたくなるから』 ♪会いたかった〜君に会いたくなるから〜いつか会おう 『遠くても』 ♪会いたくて会えなくて〜会いたいの私だけなの?会えなくて切なくなる〜会いたい会いたくて仕方ないよ 『会いたくて 会いたくて』 ♪会いたくて 会いたくて 震える〜会いたいって願っても会えない 『love & smile』 ♪君の笑顔に会いたいから〜会えない日も見守って 『もっと…』 ♪今すぐ会いたい〜今日も会えないの?いつ会えるの?会いに来て 『celtic』 ♪週末会いに行くね〜会えない時会いたいよ〜今すぐ会いにきて 『September 1st』 ♪またバイトなの?いつ会えるの? 『ONE WAY LOVE』 ♪やっと会える 『Yami Yami Day』 ♪『ゴメン今日やっぱ会えない』 『Dear…』 ♪すぐに会いたくて〜会えない時間にも愛しすぎて 『LOVE IS BLIND』 ♪考えてたらもう会いたいよ やっと会えたのはいいけど 『Saturday☆Night』 ♪会った気がしない…出会いから数秒で〜君と会ったdayz 『GIRLS JUST WANT TO HAVE FUN』 ♪出会いにMake me fun 『Sherie』 ♪君に出会いそして輝き出して 『You are the one』 ♪君に出会いたい〜会えますように 『Kirari』 ♪また会えますように 『Dear My Friends』 ♪みんなと笑って会えますように 『Just a friend』 ♪会いたいとき会えるのに 『君の声を』 ♪会いたくても会えない 『missing you』 ♪会いたい 胸が痛いよ 『失恋モード』 ♪夢ではいつでもキミに会える〜「会いたい」のメッセージ〜会えなくなった 『MAKE』 ♪早く会いたくて 『Yours Only』 ♪いつかめぐり会うその日まで… 『会えなくても』 ♪会いたくても会えない〜すぐ会えない君…今は会えなくても〜会いたくて仕方ないよ by 中川達矢 現に書かれた詩を朗読する場合のテクニックの問題と肉声による感動を前提とした詩作の試作との関係とは別の問題をはらんでいる気がします。 さらに言えば読み方の分からない和歌だとか俳句について今風の解釈で音を付けても良いと思いますが、どのように考えますか??必ずしも昔を再現しなくとも良いのではと思いますが。 by ……とある蛙 はじめまして。 過去レス60まで読みましたが、わかるところとそうじゃないところがありました。 詩について全然不勉強ですし、理解力がある訳でもないのですが、いま疑問に思っていることを書いてみたいと思って、お邪魔しました。参加の仕方がこれで良いかもわかりませんが……。 書くにしろ、読むにしろ、詩と対峙するとして、まず、咀嚼する自分を持っているだろうか?と、考えました。 自分はこういう理由で、自分である、と主張できる自己個性を持つには、さらされる強さを持たなければならないということだと思います。 そして、それが何であれ、書く理由、書く目的を持つということ。伝えるために書くということ。 そこからすら現代詩は、外れている部分もあると思うのです。 とりあえず読んだところまでの過去レスで気になったのは、読者の在り方についてと、遊びとしての詩の在り方についてでした。フォーラムにいるすべての詩作者、読者の価値観に統一制をもたらしたりできないことはわかっていますが、芸術作品と大衆文学としてある詩の解離を見過ごしたまま放っておくのも、せっかくフォーラムのような場所があるので、現代詩について、Wikipediaにある以上の意見交換がされてもいいように思い、初参加してみました。 よくわかっていもしないのに、語って、すみません。 要は、感動する作品を書けばいいのかもしれませんが、詩を書くこと、読むことでフォーラムに参加するだけでうまれる創作の暴力的側面に疑問を持ちました。 確固として、詩人であることを肯定して、詩作されたり、読んだり批評したりされているのでしょうか? わたしは自己が揺らぐので、時々、怖くなります。 by はなもとあお 奥主さん、丁寧な返信ありがとうございます。 中川さん、はじめまして。 昨日返信を考えて、文章をまとめていたのですが、ちょっと何かが足りない気がして、いちにち考えるともなく考えていました。 怖れや暴力的側面については、奥主さんが分かりやすく説明してくださっているので、概ね、共感です。 付け加えるとするなら、詩はひとつの主張ととらえることで、そこにコミュニケーション性をつないでしまうと、簡単に言えば、賛成反対というか敵と味方をつくるものになりえる、という事でしょうか。 奥主さんの、作品を上手く仕上げたということがごまかして嘘をついているようなもの、というのと、思考・思想とのつながりについて知りたいと思い、図書館に行って、吉本隆明さんの「思想とはなにか」という本を読みはじめたところです。 中川さんがお話されていた、詩は楽しむものか、勉強するものかは、わたしも考えました。 詩はコミュニケーションではない、というのは誰の言葉だったか忘れましたが、詩はコミュニケーションではなく、思考・思想だと思うのです。 だから、「思想とはなにか」の項目にも、詩歌についての記述がなされているのだと思います。 思想を持って詩を書く、というと、ちょっとやはり楽しむからは外れてしまうのかな、と思ったりします。 でも、楽しいからいいんだ、という側面からだけで書かれてしまう、というところに、わたしは暴力性を感じてしまうのだと思っています。 自分が書いていることに、背景をつけていくと、勉強したり歴史を調べたり、に、個人的にはなっていってしまうのですが、それ以前の無意識の期間の、昔カテゴリとしてあった未詩・独白のような、自分を消さない書き方のデトックス効果は詩を楽しむ時期として、有ってもいいのかな、と思います。 詩を誰のために書くのか、何のために書くのか、というのも、思想や暴力性とつながりそうです。 なにかひとつの主張をすれば、そこに良し悪しというか、賛成反対はうまれる訳で、それを越えるのに、芸術性があるのかな、とも思ったりします。 とりあえず、いま言えそうなことはこれくらい、かな。 by はなもとあお (はなもとさんへ 挨拶がおくれました。 えと、あらめまして、はじめまして、ツと申します。 ほとんど難クセのよーな文を寄越したのにもかかわらず、しっかりとお読みいただた上でのていねいな返信をどうもありがとうざいます。はなもとさんのゆってることはスゴクわかるとゆーか、心情としては近いきもしますが、そんな自分のキモチはカッコ入れにして、、引き続きややラジカルな立場からモノをゆってみたいと思います(いつか、あなたの前に、こーゆーことを言うひとが現れないとも限らないので)。 さて、まず、なぜ先日のよーな話をしたかとゆえば、僕は、 >詩は芸術か。 >詩を詩でかえす、返歌のようなシステムは、詩をコミュニケーションにしてしまうことにもつながらないか、そういう楽しみは、個人間で納得しあってするもののであって、公共として蔓延してしまえば、文化の冒涜というか、発表の場を占めてしまう可能性があるのじゃないか、 はなもとさんのこの発言の背景に、?ゲー術?と?個人の楽しみ?との間にある階級差、ヒエラルキみたいなものを読みとってしまったからです。勝手に読みとりましたごめんなさい。そしてそれがいいとか悪いとかゆーのではなく、そのこと自体についてナニカ語ってみたくなったのです。 で。えと。端的にゆって、?ゲー術?とは、重たいことばです。近年では、ネイル?アート?とか、銭湯の壁絵のFUJIYAMAは?アート?だね! 俺達の足元からわき出て俺達をほっこりさせてくれるこのラドン湯だって?アート?さ!! なんてゆーよーなニチジョー会話が飛び交うくらいに軽くはなっていますが、、やはり依然として?ゲー術?とはとても重いことばです。 たとえばブンガクならブンガク、ビ術ならビ術、えー画にはえー画の、固有の歴史があります。ゲー術作品である、とゆーことはその気が遠くなるほど重たいレキシに参入し、そこで新しいものを生み出す、とゆーよりも、連綿と続けられてきたそのレキシの突端部分で微細なアップデートを行う(行おうとする)ものに他なりません。「見て! あたし今日、すごい線のタッチをあみ出したわ!!」「どれどれ、、君、たしかにこのタッチは素晴らしいけど、、、(カリグラフィーのモデル画集をパラパラしながら..)これは、150年以上前にある絵描きが発明したタッチとまったく同じじゃねーか..!」 ...。「し、知るか!!」 とゆーのでは、もちろん通りません。たとえどれだけの情熱を注ぎ込もうが、どれほど胸に響く作品をつくろうが、あるいはすさまじく珍妙奇天烈なものだろうと、、二番煎じ三番煎じ、過去に誰かがやった手法や方法論では、レキシにその名を残せません。 また、ぼくのガクセー時代、たとえば周りで映像なんかやってる人たちは、じぶん達がつくろうとしているゲー術作品と比べて、宇多田ヒカルのPVがどんだけスゴイかってことを皆しっていました。インタラクティブ系とかデジタル・アートとかやってる人は、じぶん達の周囲にある高尚なゲー術(公共スペースを利用したり、国から助成金をもらったりしている)よりも、ふざけたB級ゲームクリエーターの作品のスゴさを肌で体感していました。しかし、現代アートの外にある(歴史に参入していない)、宇多田ヒカルのPVはけっして国立近代ビ○館に収蔵されることはありません。 ゲー術の根幹を支えるものは連綿と営まれてきた長い固有の歴史であり、がゆえに、それがないもの、その外にあるもので?ゲー術?が成立するのだとすれば、それはそもそも前提としておかしい。ゲー術とはそーいうものです。 (そいえば、タイプライターの登場がブンガクを変えた(正確な記憶ではありません)、とかゆった作家がいましたね。ええと、それ(タイプライター)によって思考速度を超えた高速自動筆記でkeyを叩くことが可能になった、、とかじゃなくて、や、もちろんそゆトンガッタ表現も?含めて?そーなんですけど、、?テクノロジー?がそれまであったソレそのものの営みを、在り様を大きく変容をさせることはありますよね。で、ぼくなんかはコレ(つ http://www.youtube.com/watch?v=ZwGpF9hOdSQ *フルスクリーン推奨)をみて、21世紀、視覚詩もついにここまでキタかー!、、としみじみ思ったのですが、、いえ、ぼくが思ったとゆーよりもコレ、明らかに詩の歴史のどこかの突端をアップデートするものであり、ひとつひとつのも字列が、も字が、記号が、いみ(記号表象は創発的に非記号表象を成し、動きやじかんの伸縮とともに意味は生成されてゆく)が、、線レベルで絶え間なく解体/結合(再組織化)をくり返してゆくときの、意識(≒線と線)のスリットから覗ける空白がそら怖ろしいほどですが、、、でも、、この視覚詩がたとえば現代詩手帖賞とかをとることはけしてないんですよね。なぜなら、、そもそもこのPVは詩として(データなり、パラパラ漫画にして..)現代詩手帖には投稿されないし、たぶん、おそらく、選考の人もこの動画を見ないから、、。またその必要もないし、世の中そゆものだと思いますが、だったら改めて?ゲー術?や?詩?て、ナニ? もう、その概念自体がうまく機能してないじゃん!! てことになりますよね。) つづく。) by ツ
part1はこちら http://po-m.com/forum/threadshow.php?did=217908 このスレッドのテーマは詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換です。 テーマ別レスマップ 下記アドレスの右側に番号を付ければレスを開くことが出来ます。 http://po-m.com/forum/thres.php?did=241016&did2= <トピック1(詩に直結すること)> 普遍性(75 90) 詩情・抒情性(70 84) 記号・意味(の解体)(71 95) イメージ・メタファ・象徴(67 71 75 81 83 95) レトリック(65 71 73 81) 読者との関係性(65 71 73 81) 詩作・推敲(64 67 70 72 83 96 99) <トピック2(フリートピック 巡りめぐって詩に?)> 恋愛(79 80 84 86-90 94 96 97 98 99 100) ジェンダー(97 99 100) 同性愛(97 98) <人名> 尾崎亜美(80)、小田和正(90)、西野カナ(94 96)、木下牧子(91) 入沢康夫(82)、宮沢賢治(82)、新川和江(86 88 89 91)、石垣りん(88 89) 白石かずこ(88 89)、茨木のり子(88 89) <キーワード> 美意識(64 67)、作者と作品の関係性(65)、現代詩の閉鎖性(65)、多義性(67 71 72) 限定・無限定(67 71 73)、わかりやすさ(75)、慣用句(75)、発話者の視点(82) 二人称(84 90)、物語性(87)、ラ・メール(88)、寓意(92) デノテーション(95)、コノテーション(95)、マナ識(95)、アラヤ識(95) 『真夜中の野次さん喜多さん』(しりあがり寿)(98) 『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)(100) ジェンダークィア(99) <書籍> 『レトリック感覚』佐藤信夫著 講談社学術文庫(81) 『詩のこころを読む』茨木のり子著 岩波ジュニア新書(89) 『言葉・狂気・エロス』丸山圭三郎著 講談社学術文庫(95) <過去のレスマップ> 1番から61番まで(62) 63番から100番まで(101) うんとMEMO 文学と言語機能1 言語とは何かという問いに対して その機能面から考察すると、 まず、言語は事実や思想の表現・伝達の手段であると定義づけうる。 しかしながら、言語は伝えるべき情報の伝達手段、媒体の機能を持っているだけではない。 それ以上のナニカである。 そのナニカとは言語自体に内在する創造的意味作用の可能性 →美的あるいは詩的な機能とでも呼べるものがある。 言語が、伝達手段つまり客体ではなく、言語それ自体が主体となる機能も担っている。 (メモ) 1文学作品の記号性 ?文学は言語を素材とする→絵画や彫刻とは異なる (言語活動の一タイプといえる) ?人生に対する指針を与えるもの→文学固有のものではない。 キすぐれた文学作品 →哲学や倫理学とは異なる ?内容は文学性とは無関係である。 WhatではなくHow である 結論→ものに対する新しい見方を提供するもの 2 文学作品の構造 ?特定の語の結び付き→階層性→構造体 ?韻律 頭韻 脚韻 パターン構造 ?起承転結 意味的パターン構造 ?Ex 太郎を眠らせ…雪降りつむ 次郎を眠らせ…雪降りつむ 三好達治の有名な詩から(笑) 構造の平行性→無限の繰返しの暗示 3 記述的アプローチ ?言葉は必ずしも一義的ではなく、その点単純な記号とは異なる。 同じことを言うのにいろいろな表現の仕方が出来る。 ?表現上の選択の結果としての文体→ 言葉の選択の結果「ふつう」からずれた選択も可能 ※「ふつう」からずれるとは意味の範囲の拡張というより ?言葉の使われ方の視点のズレではないかと考える ?詩で使われる言葉>日常で使われる言葉 ずれても許される詩の言葉 4 機能的アプローチ ?感情的意味の表現が可能 ?一つは音韻リズムなど繰り返しによって感情を喚起させる ?一つは表現が主として用いられる環境を連想させる。Ex方言、専門用語 ?内包的記号性→共通認識として→隠喩 詩学と文化記号論 池上嘉彦著 ちくま書房 >>157 ツさんへ: 紹介された映像『□□□(クチロロ)/あたらしいたましい feat. 金田朋子』は面白かったです。ボーカロイドのことはほとんど知りませんが、裏表ラバーズ「歌ってみた」の秋赤音さんの作品などは、文字の見せ方においては、現代詩を完全に追い抜いちゃってると思います。 ・【たまには遊びたくなる】裏表ラバーズ、歌ってみた【秋赤音】.mp4 →http://www.youtube.com/watch?v=XoTUNtSw2ek 他に、歌ではありませんが、これに言葉が加わったら面白いだろうな、と思う作品を紹介。 ・Kettel - Pinch of Peer official music video →http://www.youtube.com/watch?v=cgAm9U-1Qkc ・Debussy, Prelude to \'The Afternoon of a Faun\' (animation) →http://www.youtube.com/watch?v=-YazhxBA7oo ・Beethoven -- Moonlight Sonata →http://www.youtube.com/watch?v=yojDu3E9jls 詩のことについてちょっと触れると、これだけ情報過多な時代にもかかわらず、相変わらず短詩ばかりが目に付くというのはヘンテコリンな気がします。短詩だから駄目というのではなくて、詩は言葉を削るものだから、削って削って言葉を研ぎ澄ませるべきだ! というようなものの考え方自体が古くなっているように私は思います。 中川さん、蛙さん、お久し振りです。はなもとあおさん、はじめまして。ツさん、こひもともひこさん、こちらでははじめまして。 プロフィールのBBSでいろいろ呟いていましたが、引用するほどではないので、箇条書きでここにも記しておこうと思いました。 〇公に誠実なありかたと、私に誠実なあり方 詩は私に誠実なあり方を追求したものかもしれません。ただ、私的な誠実さを正しさだと錯覚してしまえば、主観的なもの(たとえばポエジー)を普遍的なものとして押し付けるような、おかしなことになります。ゆるい例えですが、普通に「これ面白いね」といえばいいところ、「え、面白いでしょ。なんで笑わないの?」と思わずとんがってイヤがられるようなおかしさ。 はなもとあおさんが書かれていた、history と story ということや、ツさんが書かれた外部に対する緊張感(よそ行きと普段着ということがふと浮かびました)とも関連しそうです。 〇平安朝の和歌 返歌や本歌取りの名作がなぜ語り継がれたか。そこいらのポエムサイトの、感想の代用品みたいな返詩では歴史に残らなかったでしょう。それぞれの歌人に個としての深さがあり、なおかつ相互に了解しあえる教養や美意識があった、のかもしれません。 〇自己模倣 模倣の何が怖いか、それは自分でものをつくるという志をくじいてしまうことです。自己模倣は法的、経済的な問題は発生しませんし、誰にも迷惑はかけません。たぶん志の喪失ということが、模倣をやらかした人の評価を下げるのかもしれません。 最近は短歌を書いています。形式的な約束事が決まっていて、そのなかで言葉そのものの活力みたいなものを生かしきって、そのために多少のルール違反はするけれど、根本的なルールは尊重する、という書き方でいまのところは行っています。あくまで口語で書くことにもこだわっています。自由詩を また書くとしたら何を書くか、いまは想像できません。だからここでなにかを語ることを遠慮していたのですが、愉しそうなのでつい首を突っ込んでしまいました。これにて失礼します。 (>詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので、やはり自分個人としての見解は持っていたいと思います。 と、はなもとさんがおっしゃるように、また僕のガクセー時代、ゼロ年代(笑)にもやはりこのもんだい意識はあって、ナニがゲー術で、ナニがゲー術ではないのか? そのへんをクリアにしないと何をやっても空虚(根拠のないゲー術つくること、関わること)だし、そーいうことを考えている人は多かったです。 そして、ごく個人的な話ではありますが、、そのことに対するぼくの周りのアクションのとり方としては、カオスラウンジ(http://www.youtube.com/watch?v=HpueFRzx0PY)的な方向(明治期に輸入されたゲー術という概念は、ついに、この国に根付かなかった。やめにしよう。も、ゲー術は終わりにしよう。オレたちはゲー術を滅ぼして、新しいフェーズに入るべきだ。)に流れた人(カオスラは今のところゲー術に取り込まれてますが、、)と、ゲー術を明治からの文科省の呪縛から解放して、その?意味?をスライドさせよう(近年地方でゲー術祭(http://www.youtube.com/watch?v=HAPx9B-a2u8)とかやってるよーな、、てかぼくはモロこっちに行った、、(もちろん何もかもがうまくいったわけではない、、))みたいな人がいた。。 たとえばヌーヴェルヴァーグにおける作家主義とゆーことばには、作者が作家意識をもって作品をつくるみたいなイミとそれから流通している商業作品の中から?作家性?を見出すことみたいな複数の含みがあったとおもいますが、それともちょっと違って、も、ほんとにナニがゲー術かわからないところまできてた。 (詩やゲー術に限らず、○○とはナニか?とゆーギロンをするとき、たんなる定義論争をこえて領土問題になりがちですが、、すぃ〜と線引いて、 こっからここまでが○○で、あっちが○な、、みたいな、?純粋ゲー術?とか?純粋詩?とか?ニチジョー言語?と?詩的言語?とか、あいや、ぼくヤコブソン嫌いじゃないしポーとかマラルメとか好きですし、そゆギロン自体は興味深くもありますが、、結局は、広田修さん つ http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=269456 が指摘されているよーな問題、あるいは哲学者のライルがいうところの?カテゴリ エラー?の問題に突き当たるだけだとぼくは思います。カンタンにいうと、?大学?の事務室や講義棟や体育館や食堂をあちこち見て回った人が、「で、大学はいったいどににあるの?」と質問する、みたいなやつです。逆にゆーと、?ニホン政府?は?コレ?だ! とゆって?国会議事堂?を指さしてしまう、みたいな([日本政府]の部分に[心]や[カレー]や[詩]を、[国会議事堂]の代わりに[頭部(脳)]や[ボンカレーorインド人が作ったカレー]や[根底に歌があるものor規範的な意味作用をズラしたことば]を当て嵌めても可)。広田さんがいうよに?詩?の概念は家族的類似性の観点からとらえるべきだし、勝手に付け加えるなら、詩は、領土区分的に 詩が?アル? とゆーよりも、 詩を?なす? といったほうがより真実に近いきがします。)。 ながくなりました。。〆に入ろーとおもいます。 ほんとはもっともっと書かなきゃいけないこと、拾い切れていないこと、たくさんあります。 ナニも僕は、ナニがゲー術かわからないからといって、価値相対主義的な、なしくずしに価値破壊的なことをいいたいのではありません。そうではなく、ナニがゲー術がわからない、とゆー状況的(或いは根源的)なアリエナサ!そのものに対しての緊張感を常に持ちづづけること。そして、そーするならば、ビ術や詩がガラパゴス化することさえ悪いことばかりではない、と僕は考えます。ただ、そーした?固有のフレーム?の内部でのいっそう先鋭化した問題が、そこでの極めて特異な成果が、外に、世の中に対してどれだけ翻訳可能な汎用性を持ちうるか、つまり、どれだけ外に対しての緊張感を持ち、他者を説得しようしているか、、とゆーことが、その態度が大事だと考えます(そのいみでは、もし、はなもとさんが言うように、返歌、返詩、連詩の以前に、その詩投稿サイトでの?詩を詩でかえす、返歌のようなシステム?が?発表の場を占めてしまう可能性があ?り、結果的に新しい?詩人を潰していく?ことにもなりかねない仲間内だけで完結しているよーなものとして機能しているなら、それはどうかとはおもいます。僕は現在詩フォーラム以外の詩サイトあまりよく知らないのナンともいえませんが。)。 、、もちろん、僕がここまで書いたようなスタンスは、?個人で楽しむような詩やビ術?とはどこか相入れません。つまり、ゲー術であるとかどーかの前に、それ以前に、個人の内面(感動とか感情移入)の問題をまったくあつかい切れていません。そして、小学生が書くよーな詩や絵と違って、ゲー術としての詩や絵は訓練と学習と高度な抽象化によって行為されるものですが、ぼくは?個人で楽しむような詩やビ術?も、小学生の詩も、おじいさんが描いた印象派のまねごとに過ぎない(ように見える)絵も、その人にとって掛け値のないものである限り、それをヒヒョー的に見たり、序列をつけられないのです(J-POPのPVを現代アート的な文脈から語ることはできても)。 そう、、ぼく自身が多くの様々な矛盾を孕んでいます、、、。 、、いぜん、愛媛の佐多岬という場所で岬あじとゆーアジの刺身を食べたことがあります。ちょっと人生観が変わるほど、、とまではいいませんが、とてもおいしい魚です。このあじは、四国と九州の間、関さばなどが獲れることで知られる(や、それだけじゃないでしょーけど、、)豊予海峡という海域で獲れるあじです。そしてこの海域で獲れたあじは、大分側で水揚げされたものが関あじ、愛媛側で水揚げされたものが岬あじ、とゆーべつべつの名前で呼ばれています。岬あじと関あじは同じ海域で獲れる同じ魚ですが、岬あじはブランディングがうまくゆかず、関あじの数分の一の値段で取引されているとゆーのが現状です。、、ちなみに、どちらのあじも、同じくらい、おいしい(どっちも食べました)。ぼくはただ、関あじも岬あじも、おいしい、といいたいだけなのです。(もちろんぼくはメバチやキハダのネギトロ丼で十分な人間ですが。。) では、失礼ます。) (はなもとさんへ 挨拶がおくれました。 えと、あらめまして、はじめまして、ツと申します。 ほとんど難クセのよーな文を寄越したのにもかかわらず、しっかりとお読みいただた上でのていねいな返信をどうもありがとうざいます。はなもとさんのゆってることはスゴクわかるとゆーか、心情としては近いきもしますが、そんな自分のキモチはカッコ入れにして、、引き続きややラジカルな立場からモノをゆってみたいと思います(いつか、あなたの前に、こーゆーことを言うひとが現れないとも限らないので)。 さて、まず、なぜ先日のよーな話をしたかとゆえば、僕は、 >詩は芸術か。 >詩を詩でかえす、返歌のようなシステムは、詩をコミュニケーションにしてしまうことにもつながらないか、そういう楽しみは、個人間で納得しあってするもののであって、公共として蔓延してしまえば、文化の冒涜というか、発表の場を占めてしまう可能性があるのじゃないか、 はなもとさんのこの発言の背景に、?ゲー術?と?個人の楽しみ?との間にある階級差、ヒエラルキみたいなものを読みとってしまったからです。勝手に読みとりましたごめんなさい。そしてそれがいいとか悪いとかゆーのではなく、そのこと自体についてナニカ語ってみたくなったのです。 で。えと。端的にゆって、?ゲー術?とは、重たいことばです。近年では、ネイル?アート?とか、銭湯の壁絵のFUJIYAMAは?アート?だね! 俺達の足元からわき出て俺達をほっこりさせてくれるこのラドン湯だって?アート?さ!! なんてゆーよーなニチジョー会話が飛び交うくらいに軽くはなっていますが、、やはり依然として?ゲー術?とはとても重いことばです。 たとえばブンガクならブンガク、ビ術ならビ術、えー画にはえー画の、固有の歴史があります。ゲー術作品である、とゆーことはその気が遠くなるほど重たいレキシに参入し、そこで新しいものを生み出す、とゆーよりも、連綿と続けられてきたそのレキシの突端部分で微細なアップデートを行う(行おうとする)ものに他なりません。「見て! あたし今日、すごい線のタッチをあみ出したわ!!」「どれどれ、、君、たしかにこのタッチは素晴らしいけど、、、(カリグラフィーのモデル画集をパラパラしながら..)これは、150年以上前にある絵描きが発明したタッチとまったく同じじゃねーか..!」 ...。「し、知るか!!」 とゆーのでは、もちろん通りません。たとえどれだけの情熱を注ぎ込もうが、どれほど胸に響く作品をつくろうが、あるいはすさまじく珍妙奇天烈なものだろうと、、二番煎じ三番煎じ、過去に誰かがやった手法や方法論では、レキシにその名を残せません。 また、ぼくのガクセー時代、たとえば周りで映像なんかやってる人たちは、じぶん達がつくろうとしているゲー術作品と比べて、宇多田ヒカルのPVがどんだけスゴイかってことを皆しっていました。インタラクティブ系とかデジタル・アートとかやってる人は、じぶん達の周囲にある高尚なゲー術(公共スペースを利用したり、国から助成金をもらったりしている)よりも、ふざけたB級ゲームクリエーターの作品のスゴさを肌で体感していました。しかし、現代アートの外にある(歴史に参入していない)、宇多田ヒカルのPVはけっして国立近代ビ○館に収蔵されることはありません。 ゲー術の根幹を支えるものは連綿と営まれてきた長い固有の歴史であり、がゆえに、それがないもの、その外にあるもので?ゲー術?が成立するのだとすれば、それはそもそも前提としておかしい。ゲー術とはそーいうものです。 (そいえば、タイプライターの登場がブンガクを変えた(正確な記憶ではありません)、とかゆった作家がいましたね。ええと、それ(タイプライター)によって思考速度を超えた高速自動筆記でkeyを叩くことが可能になった、、とかじゃなくて、や、もちろんそゆトンガッタ表現も?含めて?そーなんですけど、、?テクノロジー?がそれまであったソレそのものの営みを、在り様を大きく変容をさせることはありますよね。で、ぼくなんかはコレ(つ http://www.youtube.com/watch?v=ZwGpF9hOdSQ *フルスクリーン推奨)をみて、21世紀、視覚詩もついにここまでキタかー!、、としみじみ思ったのですが、、いえ、ぼくが思ったとゆーよりもコレ、明らかに詩の歴史のどこかの突端をアップデートするものであり、ひとつひとつのも字列が、も字が、記号が、いみ(記号表象は創発的に非記号表象を成し、動きやじかんの伸縮とともに意味は生成されてゆく)が、、線レベルで絶え間なく解体/結合(再組織化)をくり返してゆくときの、意識(≒線と線)のスリットから覗ける空白がそら怖ろしいほどですが、、、でも、、この視覚詩がたとえば現代詩手帖賞とかをとることはけしてないんですよね。なぜなら、、そもそもこのPVは詩として(データなり、パラパラ漫画にして..)現代詩手帖には投稿されないし、たぶん、おそらく、選考の人もこの動画を見ないから、、。またその必要もないし、世の中そゆものだと思いますが、だったら改めて?ゲー術?や?詩?て、ナニ? もう、その概念自体がうまく機能してないじゃん!! てことになりますよね。) つづく。) 思考メモ。客観的な「歴史history」と主観的な「物語story」の間の区分について、考えなくてはならないかもしれない。『現代思想入門』参照。2013.5.18twitterにて わたしは、歴史から勉強はじめないと、って感じ。歴史と物語の違いについてもさらに勉強、考察、思考が必要かと。 個人的テーマをもとに、思考メモを加えながら、少しずつゆっくり進めるつもり。 ……とある蛙さん こんにちは。 いやいや、誤解を招く文章を書いてすみません。まだ勉強中ですし、自分の中である程度の見解を持とうとしている段階に過ぎません。はっきりわかってたら、このスレッドに書き込みしないし、もうとっくにどこかの詩壇でバリバリやってるんじゃないでしょうか。 ポエジーとか歌物語とかには自分自身向いていないと思うので、詩人ではないかもしれない、と常に思ってます。 それでも、「詩のようなもの」の付近にいることも、自分自身の不思議のひとつです。 誰かに弟子入りしたりする気持ちもまだなく、自分で納得のいくものを試行錯誤して書いていきたいなあと思ったりしています。 なので自己満足、自己完結の域を出ていないとも思われ、ポイントのたくさん入る詩の作り方も知らなければ、歌のようにみんなに親しまれるような作品を書ける訳でもないので、これからもこのスレッドにはお世話になると思います。 稚拙な文章で偉そうなこと言っているようにうつっていたら、ごめんなさい。そのイメージは出来れば訂正しておいてください。 今後ともよろしくお願いします。 はなもとあおさん はじめまして。 >詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので ふ〜ん分かっているのですか。たいしたものですねぇ。 みんな悩みつつ、あーでもないこうでも無いと言って書いているのではないかと思っていましたが。自分だけですか。こんなこと考えているのは。 ところでちょいと思いついたことが出来たのでメモ風に書いておきます。 詩と散文の区別はどこでするのかという話で、分けのわからんポエジーと言うことを言う人がいます。ポエジーと言ったところでその定義が人それぞれで他人には意味不明です。勝手に自分でああだこうだ言って悦に入っています。ある意味馬鹿馬鹿しい。 結局、根底に歌があるのが詩で、根底に語りがあるのが小説を中心とした散文ではないでしょうか。そう考えた場合、混合したものも可能で、かつ詩人と呼ばれる碌でなしどもは歌物語みたいなものをもっと書くべきではないかと考えます。私はやらないですが(笑) 皆さん、それぞれのスタンスを表明(?)してくださって、ありがとうございます。 詩に対するスタンスも様々であり、このような表明、外形化することによって初めてわかることもあるかと思います。 無責任なことを言えば、「その人にとって、その時、詩とはこういうものである」というものがあれば、その姿勢が、詩にもあらわれると僕は思っています。 それはつまり、人が異なれば、詩が異なるのと同様、時が異なれば、同じ人であろうと、詩が異なっていくように。 ただ、時を隔てたとしても、同じ人が書いた作品には、どことなく、共通性なるものがあると思うんです。 それこそが、その人の揺るがない詩への姿勢なのかな、と思います。 詩には、レトリック、テクニックなどがあると思いますが、これらは、その時その場で自在に使えるものだと思います。 ただ、何かを言葉で書きあげる、という作業は、選択が伴われます。 その選択こそが、人によって異なってくる。 僕は、他人の作品を読む時、このようなことを念頭に置いています。 作品はできあがったものとして、不動の位置にありますが、他の選択可能性を思うことであったり、その人がその時に書いたのだということを思ったりすることで、見方が広がるのではないか、と思っています。 少し雑感として書いてみました。 ツさん、はじめまして。 ……とある蛙さん、はじめまして。 詩が何かわからないで詩を続けるのもどうかと思うので、やはり自分個人としての見解は持っていたいと思います。それによって、結果としてわたしに同人ができなくても、それも仕方ないのかな、とも思います。詩への見解はまだまだ勉強中でいまはっきり述べることは出来ませんが、……とある蛙さんが話されていた抽象画を書くのとはやはり違うのではないか、と思うのです。ひとつの詩のありかたとして、抽象画的な試みがあっても良い気はしますが、やはり絵は絵、詩は詩であることの理由はあって欲しいものだと思っています。それが作家性にしろ、選択した表現方法が、読者との鏡像だけで語られてしまうには、表現者の主張性を否定してしまうことになると思います。 読者として、受け手としての楽しみ方はある程度個人の投影を楽しむありかたでもいい気はします。その点において正しさ、正しくなさは、作者としてこれは伝えたかったけど、違う受け止め方をされた、ということはあり得る話だと思います。何が正しいかは、置かれている立場によって変わるのだと思います。 わたしは詩を書くひとだけが詩を読むもの、と限定したくない気持ちが強いです。詩を詩でかえすことに違和感があるのはそんなこともあってかもしれません。 わたしは絵も描きますが、わたしの場合、絵はわりと無意識的です。詩も昔は無意識的でしたが、いまは意識的に伝えたいことを持っているつもりでいます。 自分自身作り手として持っている問題はありますが、それはわたしの詩作のテーマであり、まだ同人ももたないわたしは、他の作者からも読者からも左右されることのないものだと思っています。 もちろん、何かに影響されて、ということもありますが、それがメインとはならないものだと思っています。 作り手あり、受け手ありの世界であることはどんな芸術でも変わらないと思います。そこに異議はないです。 文章がうまくまとまらず、おふたりに返信するかたちになり、すみません。 読解力のなさで、うまく話せていないかもしれません。すみません。 詩の生きる道という、とある蛙さんの言葉がとても気になったのでした。それはやはりジャズに例えられたりじゃない、音楽とは別のものでありたい、と個人的には思っています。 朗読する作者は、また違う見解であって、音楽と比較されて語られてもいいものなのかもしれません。 個人的には、自分のテーマを持って詩作を続けることに答えを置きたいと思っています。 (んー。キホン的にはぼくもこひもともひこさんに近い立場から話します。 そうですね、えーと、、、コドモのころの話ですが、週刊少年コミック雑誌なんかをぺらぺら捲りながら、よくこんなことを考えたりしました。 美術の教科書に載っているような絵画にはフェラーリが何台も買えちゃうよーな値段が付けらていたりするのに、どーしてジョジョの、、荒木飛呂彦センセーの原画(直筆原稿1ページ分)とか、富樫センセーが描いた1ページ分のゾクゾクする絵には、、フェラーリが何百台も買えるよな天文学的な値段が付けられてナインだろう、、、と(荒木センセーはゲー術家に負けてないのにッ!ゼッタイ!!みたいな、、)。 で、じつは今でも、?ゲー術 以上に ゲー術?な少年ジャンプの巻頭カラーページとか、?詩 以上に 詩?的な140文字のツイートとか、日記やコピー(そいえば糸井重里の?今日のダーリン?という日々の日記みたいな文をまとめた本が谷川俊太郎賞を貰ったことは、お二人の友情を超えて素晴らしいとおもいます)、?ポエトリー・リーディング 以上に ポエトリー・リーディング?しているラッパーとか、、考えればいるし、いくらでも思い当たるんですよね。逆に?ロック 以上 にロック?な現代美術とか詩とかも。。また、どーしようもなく?作家性?をもってしまうヒヒョー家なんかもいますし、大学時代のゼミの知り合いの中には、社会学者(宮台真司)のしかしエモーショナルな文体を、完全に?ブンガク作品?として消費していると公言している人もいました(そいえば、かつて社会現象になったエヴァンゲリオン、?そのエヴァにこそ芥川賞を与えるべきだった?とかゆっていた評論家さえいましたが、、その是非はおいとくしても、キモチはわかるきがします。)。 なんで、?詩 以上 に詩?的な感想やコメントとゆーものはありうるし、あっていいと、ぼくはおもっています。 お察しの通り、僕はソレが、そのゲー術がもしも、?ゲー術と大衆文化?、?ハイアートとサブカルチャー?とゆーよーな、なんらかの?階級差?を利用して成立しているよーなものなら滅んじゃえ! みたいな、ややラジカルな立場から書いています(もちろん僕の発言はフォーラム全体の意思を代弁するものではありません)。それは、ゲー術(詩)がニンゲンがする他のあらゆる表現(ex,ツイート文とかコメント文とか)よりも詩的で優れている、とゆー考えはやはりフィクションだし、その根拠がどこにも見出せないからです。 前フリが長すぎますが、、 はなもとさんへ なので、仮に、ある詩にたくさんの返歌や詩的なコメントが付き、いったい?ナニ?が?詩?なのか、判別できなくなるよーな状況が生まれているのだとしてもOK(や、ぼくは現在詩フォーラム以外の詩サイトをよくしらないのですが)、だと考えます^-^。 蛙さんへ あらゆる作品は鑑賞者、つまりそれを?見る?人がいてはじめて成立します。 裏返せば、どく者なんていらない、てさく者の作品も、?見られる?ことまでは否定できない(さく者自身がそれを見るはじめの一人、最初で最後のヒヒョー家として現れる場合も含めて)。 、、神様が死んじゃってからこっち、あらゆる作品は、いかなる超越的な視点からもその身分を保証されない。?じぶん?が?ナニ?であるか?判らない?。だとすれば、こんどはそれ自身が自己反省的に自らを?見る?しかない。作品が自己ブンレツ的に?自分自身を見る?とゆープロセスを通してしか、?自ら?を存立させることが出来ない。?ツクル(作家)?ことと?見る(ヒヒョー家)?ことは鏡像であり、作品においてそれらはその成り立ちからして切り離すことができない、、ぼくは近代以降の?作品?の概念をそんなふうに理解しています。 そしてビ術ならビ術、詩なら詩の内部では、たとえばその?正しさ?を証明することができない(?正しい?とされていることの?正しさ?を証明することができない)。いっしゅのゲーデル問題ですよね。だから、?じぶん?を?知る?ためには?外部?が参照されなければならないし、その?外部?が?超越的?なものであってはいけない。たまたま隣接するものとのカンケー性の中で自分の素顔を垣間見るしかない、、、とこんなふうに。 長々としつれいいたしました。。) こひもともひこさん 細やかな返信ありがとうございます。 詩は詩なんですね。 芸術でも芸術じゃなくても。 詩を詩でかえすのが詩人を潰す、と思ったのは、発想の、着眼点の優先性からの発言だったのですが、これは個人的にちからのなさからくる負け惜しみだったかもしれません。 その後のこひもともひこさんの文章にある、リスペクト作品への見解につながりますが、いいものはいい、と言えるように、わたしも詩作をがんばりたいなぁって思いました。 なかなかこういった話をできる機会がないので、貴重なご意見が伺えて、よかったです。 詩作を続けて、詩人のお友達もできたらいいなと思いました。 家のパソコンからなぜかフォーラムにログイン出来なくて、携帯からの投稿なので、引用など出来なくてすみません。返信し忘れがありましたら、また、書き込みさせていただくかもしれません。 ひとまずご返信まで。 ありがとうございました。 http://po-m.com/forum/thres.php?did=241016&did2=147 はなもとあおさんへ 『模倣と擬態』というお題を出したのは私なので、ここに書かれたことに対する個人的見解を書きます。 >詩は芸術か 私は、詩は芸術の一つだと思っています。ですが、仮に詩が芸術じゃなかったとしても、だから何かが変わるというようなこともないという考え方をします。 >詩の感想が詩になるような『模倣と擬態』のような現象が起こってしまえば、詩人としての確立が難しく、ひとりの詩人を潰していくことになるんじゃないか 「詩の感想が詩になる」ことが何故、ひとりの詩人をつぶしていくことになるのかが分かりませんが、作品の感想欄に書かれたもののほうが、作品そのものよりも優れた内容であったから凹まされるということはあると思います。 >詩をコミュニケーションにしてしまうことにもつながらないか〜文化の冒涜というか、発表の場を占めてしまう可能性があるのじゃないか 短歌・俳句は、返歌という形で「コミュニケーションとして詩をやり取りすること」を創作動機の一つとして取り込んでいるので、なんら問題はないのではないでしょうか。 >詩誌に詩壇があって、ネットにそれがない訳 これは個人個人が繋がれば解決することなので、場の問題ではないように思います。 >詩作において、リスペクトしての詩作はどの程度みとめられるものなのか、知りたいです。 引用・コラージュ・その人の手法を真似た書き方など、なんでもありだと私は思っています。 問題が発生するとすれば、それは金銭が絡む状況になってからのことだろうなと。 >どのような動機で、なぜ詩を書いていますか? 他人に読んでもらいたくて、文章を書く。 読んでくれた人を楽しませたくて、内容を練る。 言葉を組み立てていくことがおもしろいので、言葉を綴る。 やり続けていると自分が上達していくのが分かるので、書き続ける。 誰かに「おもしろかったです」と言われたら嬉しいので、作品を発表する。 動機は、こんな感じです。 最近詩って奴が分からない。ギンズバーグは「主観的真実が読者あるいは鑑賞する者を得て客観化して初めて詩という名に値する芸術が成立する」としている。 そのように考えたとしても客観化啜るには何人鑑賞者が必要か不明である。結局、鑑賞する者は一人でも良いのか、極端な話、読む側としての自分一人ではどうかという話にもなりかねない。結局不明である。 言葉というやっかいなものを扱う詩という文芸は、素材自体に意味があるため問題なのである。 素材自体意味を持たない たとえば 粘土、絵の具、音あるいは空気の振動に意味を持たせるのはなんであろうか。創作者の表現対象、モチーフなどとその構成であると考えられる。しかし対象の模倣(写実)自体はやり尽くされており、新しい芸術は結局人間の根源的なものに訴えるものでは無かろうか、たとえば、リフレインを中心とした規則性の性癖。それに基づく再構成による意味の構築もあり得る。 そうであるならば、究極の芸術の一つは規則性を自覚した無規則なリフレインであって、フリージャズ辺りだったのだろうか。良く分からない(笑)。 言葉という固まりは解体できない。それを前提とすれば、言葉の意味の範疇あるいはその組み合わせで鑑賞者との関係性を構築して行くしか無い。それすら解体していれば無意味な記号を並べての曼陀羅模様みたいな抽象画にするしかないかもしれない。 しかし、それなら抽象画を書けばよい訳で、中途半端な絵画擬(もどき)は、鑑賞に値しない。表意文字の漢字は書によって絵画的な感銘を与えることができるかも知れないが、そのことと曼荼羅模様の文字遊びとは別である。 結局、言葉の意味を抱いたまま言葉による感銘可能なイメージを再構築せざるを得ない。キーワードは言葉の意味の範疇のズレ、つまり並べられた言葉を見る視点ではないだろうか。 詩の生きる道はそのあたりか。 ちょっと粗雑かも知れない。素材としての言葉と文芸との関係についてはまたきちんと考えようかな。 詩は芸術か。 某所で『模倣と擬態』というテーマで詩を書いていますが、実際問題として、個人がオリジナリティを持って作品を発表したとして、それを読んで、評価せず、批評という形で話される訳でもなく、以前話にのぼった、詩の感想が詩になるような『模倣と擬態』のような現象が起こってしまえば、詩人としての確立が難しく、ひとりの詩人を潰していくことになるんじゃないか、と思うのですが、どうでしょうか? 詩を詩でかえす、返歌のようなシステムは、詩をコミュニケーションにしてしまうことにもつながらないか、そういう楽しみは、個人間で納得しあってするもののであって、公共として蔓延してしまえば、文化の冒涜というか、発表の場を占めてしまう可能性があるのじゃないか、 詩作において、 リスペクトしての詩作はどの程度みとめられるものなのか、知りたいです。 わたしの場合、血肉を削って、詩作します。 発表の場所として、フォーラムがどういう姿で詩をとらえていくのかが知りたいです。 ネットで詩を発表することは、能力や便利さであちこちで活用されていることだと思いますが、詩誌に詩壇があって、ネットにそれがない訳が、どこかにあって、それは詩を本当に大切に思っているのではなくて、どこかで詩を嘲笑やばかにしている面があるのじゃないか、と思ったりします。 楽しさも必要かもしれませんが、 どのような動機で、 なぜ詩を書いていますか?そんなスレッドもあったような気もしますが、訊いてみたいです。 奥主さん、丁寧な返信ありがとうございます。 中川さん、はじめまして。 昨日返信を考えて、文章をまとめていたのですが、ちょっと何かが足りない気がして、いちにち考えるともなく考えていました。 怖れや暴力的側面については、奥主さんが分かりやすく説明してくださっているので、概ね、共感です。 付け加えるとするなら、詩はひとつの主張ととらえることで、そこにコミュニケーション性をつないでしまうと、簡単に言えば、賛成反対というか敵と味方をつくるものになりえる、という事でしょうか。 奥主さんの、作品を上手く仕上げたということがごまかして嘘をついているようなもの、というのと、思考・思想とのつながりについて知りたいと思い、図書館に行って、吉本隆明さんの「思想とはなにか」という本を読みはじめたところです。 中川さんがお話されていた、詩は楽しむものか、勉強するものかは、わたしも考えました。 詩はコミュニケーションではない、というのは誰の言葉だったか忘れましたが、詩はコミュニケーションではなく、思考・思想だと思うのです。 だから、「思想とはなにか」の項目にも、詩歌についての記述がなされているのだと思います。 思想を持って詩を書く、というと、ちょっとやはり楽しむからは外れてしまうのかな、と思ったりします。 でも、楽しいからいいんだ、という側面からだけで書かれてしまう、というところに、わたしは暴力性を感じてしまうのだと思っています。 自分が書いていることに、背景をつけていくと、勉強したり歴史を調べたり、に、個人的にはなっていってしまうのですが、それ以前の無意識の期間の、昔カテゴリとしてあった未詩・独白のような、自分を消さない書き方のデトックス効果は詩を楽しむ時期として、有ってもいいのかな、と思います。 詩を誰のために書くのか、何のために書くのか、というのも、思想や暴力性とつながりそうです。 なにかひとつの主張をすれば、そこに良し悪しというか、賛成反対はうまれる訳で、それを越えるのに、芸術性があるのかな、とも思ったりします。 とりあえず、いま言えそうなことはこれくらい、かな。 はなもとあおさん 書き込み、ありがとうございます。 率直な感想として、詩は勉強するものなのか、楽しむものなのか、その点からの議論も必要になってくる気がしました。 僕自身、ついつい難しい言葉を使って、詩を語ったりしてしまうことがあるのですが、詩の感想を述べる時、難しい言葉をつらつら並べると、その批評の言葉に妥当性があろうとも、胡散臭さなるものが出てきてしまうんじゃないか、とも思ってしまいます。 極端なことを言えば、詩に対する感想もまた詩になりうる、と考え、その感想もまた、人の目にさらされるものであることを意識しなければならないのかな、と。 もしよろしければ…、はなもとあおさんが仰った、「創作の暴力的側面」ということについて、もう少しご説明いただけたら…、と思います。 あと直感的になりますが、揺らぐ自分がいなければ、詩を書き続けることはできない気がします。詩は一瞬一瞬の記録になりうるかもしれないですが、書き上げて、その詩および自分に満足してしまったら、書き続けることはできないような…。 1 2 3 4 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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