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批評しましょ (創作系)スレッドオペレーター:白糸雅樹
 えっと、ひとの批評に対して、別の読みを書きたくても、スレッドタイプで書きこめる場所、あまりねーなー、感想スレで議論しづらいなー、と思ったのでスレッド立てました。議論OK。よっぽどの誹謗中傷でない限り、削除はしません。晒しもんにしますので注意してください。「未詩・独白」および他のスレッド会議室の発言で、作者が批評を期待していない発言への批評はなるべくご遠慮ください。
 一つの読みに対して、他の多くの異論が交わされることを願って。。。。。。
 評を書く際は、該当発言(または作品)のURLを明記してください。

[149]山内緋呂子[2004 08/20 12:12]白糸雅樹
ちょっといいですか?
>147 そういわれると思ってすぐに消しましたよ。ご発言の前に。

一番絞りさんはそれがいけないんだと思いますよ。消してばっかり。そう言われると思ったから消したってどういういいわけですか。不毛。
 

[148]山田せばすちゃん[2004 08/20 10:12]
>どうして詩を書く人というのはそういう観念的なもの(たとえば聖書)へと目線がいくのかな。
いや、そりゃ、俺と俺の愛人ちゃんの話だけしたって格好つかないからだろうよ(苦笑)
俺は別に格好なんかつかなくったって、今更失うものは何もないけどよ(笑)それでもこういうこと書いてると「奥さんと子供がいるのにあーたらこうたら」となんだか知らないが倫理的に人を断罪しようって手合いが多くってよ、余計なお世話だって言うんだよな、まったく(笑)
そういう手合いを黙らせるのに聖書は有効だったりもするんだよ。もっとも、これとてあなたの疑問に真に答えてるわけではなくって、じゃあ、どうして詩を書く人でそういう「人の作品を内容の倫理性で判断しようとか言う連中」は観念的なものに目がいくのかという疑問は相も変わらず残ってるわけだが、そんなやつらのことは俺の知ったこっちゃねえや。
 

[147]一番絞り[2004 08/20 09:58]
はは。そういわれると思ってすぐに消しましたよ。ご発言の前に。
山田さん、どうして詩を書く人というのはそういう観念的なもの(たとえば聖書)へと目線がいくのかな。
ほとんど病いといってよいかもしれませんな→足を洗う叙述が出てくれば「愛の証」。
「足を洗う」。これはヤクザの隠語にだってありますよ。
まさか、昭和前期の博徒が聖書を知っていたのかともおもうんだけどね。
ま、あなたが「足を洗う」をどう解釈しようがあなたのご自由です。
しかし、それじゃあたりまえすぎて面白くないんです、わたしは。
それだけのことです。
 

[146]山田せばすちゃん[2004 08/20 09:42]
>>145
痴人の愛とはまた、老人性というてめえの土俵に引っ張り上げやすい映画出してきたもんだ、さすがに喧嘩慣れしてるわ(笑)
ところで、今「足を洗う」で映画がなんか引っかかってこないかググってたんだが「犯罪、組織、やくざ、ギャング、マフィア、稼業」を除くとか言う検索条件でがんばってみたんだが、足を洗う恋人同士の映画はとうとう一件も引っかかってこなかったぞ、くそ、時間の無駄だった。

話は余談だが、>>139書くのに、「足を洗う 聖書」でググって見たんだが(俺って誠実だなあ、どうでもいいけど)キリストが弟子たちの足を自ら洗ったというヨハネ伝13章の解釈は
>この教えの解釈としては、人に対して、何かをしてあげることだけでなく、されることも考えよ、ということであろう。たとえば、介護が問題になっている。我々は介護をする側ことを主に考えがちである。しかし、介護をすることだけでなく、介護をされることも考えよ、ということではないだろうか。

・・・なんかスカタン(笑)
 

[145]一番絞り[2004 08/20 09:20]
>144

そおか〜? もう少し映画を沢山見ることだな。仕事に精を出すのもいいが。(笑)
最近ではちょっと気取った映画やドラマにはこの手のシーンは枚挙にいとまがないほど
出てくるぜ。
スケベ男が女の足を洗うシーンを別にすれば。(笑)
 

[144]山田せばすちゃん[2004 08/20 09:18]
>>143
どっちの解釈が妥当だ、なんて俺は言い争う気はさらさらないけれどさ。
>セックスのあと、風呂に入って足を洗い向かい合って簡単な食事をとり、無言で微笑みあう。
俺はこんな映画見たことねえや(笑)
 

[143]一番絞り[2004 08/20 09:13]
>142

えっ、
愛の証として洗われたのかい? 書き手の足は。
たんなる相手の男のスケベの発露としか思われないな〜、おれには。
それも
幼児返り的老人性の。
足を洗うくらいで、かんたんに愛の証なんて安っぽい解釈は、おれはそんなワンパターンはとらない。
それより、ここにあるわざとらしい演技性のほうが注目だし、面白いと思うがな。
映画なんかでも必ずあるパターンだしね。フランス映画あたりで。最近は日本の映画も真似しだしたか。
セックスのあと、風呂に入って足を洗い、向かい合って簡単な食事をとり、無言で微笑みあう。
どこにでもみかける映画的光景だし、これをかっこいいと思えば現実にそれを
なぞってみるだろう。
でも、こういう演技の裏にあるものってとてもさびしいものだろうと思うよ。

最終の連が余計というより、それまでの雰囲気を台無しにしているのは、やはり、倫理スローガンのなかに
中規模の演技性を埋没させちまったてことだろう。
最後にしめくくるというのは、あまりにNHK青年の主張コンクール的で興ざめてこと。
 

[142]山田せばすちゃん[2004 08/20 01:26]ボッコ
>>140
うわぁ、えらいところにまで落とされてるぞ、イシハタ氏(笑)
男は君のこと一人前の人間だと思ってなくって「物神」「人形」として「しか」愛してないのに、それを愛だと感じたいほど絶望的に愛されたいのか、と来たもんだ(笑)それってほとんど中島みゆき「捨てるほどの愛でいいから」じゃん(苦笑)

「足を洗う」という行為の解釈の多様性といってしまえばそれまでだろうが、俺はイシハタ氏の足を洗ったことはないけれど、うちの愛人ちゃんとお風呂に入って、愛人ちゃんの足を洗うことはあるよ。うちの愛人ちゃんも俺の足洗うの好きみたいだし。んでもって俺たちはそういう時にはそれこそこの詩のようにボディソープの泡を丁寧に立てて足の指の間まで丹念に洗ったり洗われたりしてるんだけれど、そこに石川氏の言うような「フェティッシュ」=「物神化」みたいな感覚は少なくとも俺にはないな。もちろんキリストが弟子の足を洗ったり、マグダラのマリアがキリストの足を洗ったりという聖書の出来事をもじっているほどに、俺たちはクリスチャンでもなんでもないのだけれど。やはりそこにあるのは「いとおしさ」という感覚で、俺は自身のその「いとおしい」感情をこの詩に呼び起こされながら読んでいて、
なかなかお互い時間が取れなくってそれこそ
>二ヶ月ぶりに会って
>しばらく動けなくなるくらいのセックスをした
なんていう冒頭フレーズなんて、泣くほど身につまされちゃったりしているのだけどね。
(今月末に会うのよー、なんて俺の近況はこの際どうでもいいけれど)

で、だ。
この詩に出てくる「あなた」と「私」が俺と愛人ちゃんの関係に準じているのかどうかはアレなんだけれども、あくまでも俺はその線で読み込んじゃってるので、どうしても最終連が邪魔なのだ。ごめんね、愛人ちゃん、一緒に歩くのは君と一緒にいるわずかな時間だけなのよ、それ以外の時間って俺は夏休みの宿題を見てやって、工作なんか半分以上俺が作っちゃうような三児の父だし、お布団干し組み立てて頂戴といわれたら二つ返事で庭に出て夏の日差しの下でステンレスパイプ製の布団干しを汗だくになって組み立ててる夫だし、そういうの全部かなぐり捨ててきみと一緒に歩いていくわけにはいかないのだよ、もちろんきみだって、家に帰れば貞淑な人妻なんだろうしさ。ずっと一緒には歩けないから、今こうやって一緒にいられるときだけは互いのいとおしさで精一杯愛し合う二人でいようね、なんて、そろそろ誰に向かってなに書いてんだかあやしくなってきちゃったぞ、おい(笑)

石川氏も川元氏もそれぞれがそれぞれの理由で、この最終連に引っかかっているみたいだけれど、それってつまりはこの最終連がそれまでの一連の詩の構造から突出してしまっているってことの証明だと、俺は思う。一連の構造があるからこそ、読者はそれぞれの解釈を一連のものとして成立させている=それぞれの充填したい内実を作品の空隙に充填していくのだろうけれど、どうしてもみんな最終連でひっかかってる=一連の内実をそこに充填できていないってことは、この最終連がそれまでの一連のこの詩の構造とは違うってことなのじゃないかな?
俺は、だから、あえてこの最終連は不要だ、なんて思い切ってしまいたいところではあるのだけれど。
 

[141]山内緋呂子[08/20 01:08]nm6
お三人さんに大体共通しているのは、「静謐」「抑制」であって、最終連が、飛躍していたり、詩的だ、と。なるほど自分の考える「言葉の跳躍」が、そう捉えると不要なのかもしれません。でも私には、ラストに意外性が感じられないというか、女ごころだなあ、と少し共感します。それ、恋人の男性に言ってそれで終わっていいのでは?と。そういう意味で言葉の跳躍が感じられないと。
そして、静謐や抑制を見せるにしても、作者独特のものを書かれる方の詩はあるので、石畑さん、これはどう考えてらっしゃるのか、と。
#せばさん、批評って書きなれてなくて、紙媒体なら作者、と言ったかもしれないけど、何だかネットだと近しい気がして、「さん」つけた気がします。いや、その前に「作者」なんて言葉用いて批評みたいなこと言ってる自分に違和感。ほんのすこし自責。「さん」つけてもつけなくても同じだ!
 

[140]石川和広[08/20 00:26]
石畑由起子「足」 [http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12200]について。最後の連が鍵だと思った。私はこういうのもありふれた関係の一コマだと感じ、あるフェテイシュも感じた。男にとり、多分この女体は物神だが、つまり人形だが、それを愛の時と感じる所に絶望的に愛されたいのかと感じた。しかし人形になり愛撫される感覚も快楽なのかも。ただ、そういうツルツル滑る愛の行為の後奇妙に生活がある。だが、最後でいきなり飛躍。胸が熱くなるのが、妙に迫る。多分こんな幸せもあるだろう。
 

[139]山田せばすちゃん[2004 08/19 23:25]いとうボッコ
>>138
いんや、そういう「地に足をつける」風なリアリティならいらない。
タイトルが「足」で、男が「私」の足を洗うという行為を詩の中心に据えるのなら、繰り返しになるけれど、その「愛の証」として洗われた足はけして地に触れてはならない。マグダラのマリアに足を洗われ、香油で清められたイエスキリストの足は、湖を渡ってもけして濡れることはなかったのだから。

川元緋呂子の指摘する(どうでもいいけど川元よ、作者に「さん」をつけるのはやめてくれ、いやそれは単なる個人的な好みだけれども)「脚本的」「淡々とした描写」は、俺としては「足を洗う」行為を象徴として描くために意識的に抑制しているのだ、と捉えたい。「足を洗う」行為は、「二ヶ月ぶり」の「しばらく動けなくなるほどのセックス」に勝るのだ。いや、勝っているからこそこれは「詩」なのだ。
 

[138]一番絞り[2004 08/19 22:36]
石畑由紀子「足」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12200

これにリアリティをもたせるため、ぜひ、お風呂から上がったあと
男の血圧を測ってほしかった。
「ケ、ケツ圧、きょうはな、なんぼあったぁ〜?」
と男にいわせてほしかった。
せっかく静謐な香り漂う詩篇に、無粋なしちゅえーしょんは興ざめかもしれないけれど、
そもそも女の足を洗うというのは、これは、この男性の精神はかなり幼児化していることを
ぼくなんかにはうかがわせるものでして。
人の足、とくに足の裏というのはこれはもっとも身体で敏感なところでして、
ゴマ粒ほどのものでも、すぐにわかるほど感受性が強い。
そこは本来なら大地といつも接触している。そういう器官です。
いわば地球的な生命を感じる器官です。
こういうところに女体への関心が下がっていくというのは、これは、もう〈老人〉といってよい。
〈若い〉ときには、むしろ関心は上へ上へとあがってゆくのじゃないかな。
ま、いつまでもヘソの下あたりにとどまっている者もいるようだが。
この男性は、ほんとうに老人かもしれない。だからセックスのあと夕方まで腰が立たなかったのかもしれない。
とすると男の血圧はかなり上がっていて、最後の見納めに相手の女性の足に関心がいったのかもしれない。
にしても夕食がカルピス入りの牛乳とは、歯の悪い老人とはいえ遠慮しすぎだ。
もっとも、このようにしめやかなセックスと休息とお風呂のあとで老人が牛丼など食らえば
この書き手がつくり上げようとした静謐なふたりの世界はだいなしだろう。
しかし、「みつめあって笑う」のは、だれかが書いていたようにあまりに映画のシーンを意識しているので
この二人の演技性がかえって将来、危うく思えるしね。
きれいきれいにしてもらった足で、きれいきれいに歩いていってもらいたいのだが。
どーかなー。うーん。血圧だな、モンダイは。
 

[137]石川和広[08/19 20:31]
こんばんは。136の発言のような回答が、帰ってくるのではないかなと考えてたところでした。 一番絞りさん、こんばんは。僕も知人や様々な人たちと、合評をしたり、そこなどで朗読を聞いたりしました。ただ、僕は貴方とは感覚が違うのでしょう優劣ではなく。戦後詩も、面白いものは散見されるなと感じてます。だから少なくとも私には、生きてるものもあろうなと。死体紹介も僕には少しタメになりました。朗読は自分の生の感覚からしか生まれないけど何かのコツはあるなと。それを普遍性としか今の僕には呼べないけど
 

[136]一番絞り[2004 08/19 15:28]ボッコ
石川さん、わたしの>>117の発言は講師の授業方法を否定しているのではなく
そのやり方が単にわたしにとって苦痛であったことを、次の何故? につなげる
ために事実を叙述しているだけであって、どこにもあの講師のやり方を批判した
部分はありません。
また、有名な過去の詩人の作品が「すでに書かれてそこにあるもの」「死体」と
比ゆしたのは、その「場」での、有名過去作家の作品の位置づけです。
その「場」というのは、せっかく呼吸をして今、ぼくの目の前に生きている
他者という不思議な存在があるのに、それを無視する手はないという意味です。
それに比べれば有名過去作家の作品が「死体」にみえるといったのです。
ちゃんと読み込んでいけばわかるはずで、あとでこんな解説をするのは
つまらんのですが、またぞろ、だれかから逃げたとかいわれないようにと
思いまして。もっともなんといわれても構いませんが。しつこいのは困る。
家に帰って、暇なときに個々人が好きな詩を読めばいいと思ったのですよ。
あの学校は、そこらの大学や専門学校みたいに受験のためのチシキをえるため
あるいは、卒業してどこかに就職するため集まるところではないのですから。
血の流れている見知らぬ他者と面付きあわして「生きること」を交換できる、
そういう時間と場がたもたれている、
わたしにとっては大事で貴重な「場」だったということです。

そういう固有の時間と場においての有名過去作家の作品の位置づけです。

いつも「死体」と、とらえているわけではありません。
たとえば、ふだん、暇なときには山本太郎なんかを読みますしね。
ただ、あなたがあの文章を読んで講師批判だと解釈するのは自由です。
自由ですが、あなたには単調な読み取り方が目立つような気がします。
 

[135]山田せばすちゃん[2004 08/19 15:15]
>>133
洗われた足は歩くためのものではないのだ。
つか俺が洗った足ではないけれど(笑)その足で、「歩く」なんて当たり前のこと、実用的なことをしてほしくない、と俺ならばそう思う。
 

[133]山内緋呂子[08/19 06:24]佐伯
雑談スレッド5の540からこっちへ移ってきました。石畑由紀子さん「足」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12200


起こっていることの、ずっと描写だなあ、と思いました。淡々と描写、それも作者さんのオリジナリティだ、と考えれば、そうなんでしょうけれども、言葉の跳躍が見られないというか。
途中、「飛ばした思いが~かえってくる」と、話手の気持ちに戻りますがそこにも話手の考えがあまり私には伝わらなくて、私から見て、脚本ぽいと。

批評と言うより作者さんに質問なんですが、脚本?と見られることは狙いかなあ?と。もし、「恋人とこの先歩いていく」ことを言いたかったのであれば、一般的考えとして、「恋人」ならいずれいなくなるものであって、存在が。夫でもいなくなりますが。その存在と、これからも歩いていくのであれば、その難しさや、そう宣言する理由、それでも歩いていく、と読む側を納得させること、がここには見られなくて、それもどうして書かれないのかなあ、と。もしここで、それが問題ではないのなら、やはり、気持ちが私には伝わらなくて、日記ぽく見えます。

他の作品についてもおききしたいことがたくさんあって、また書かせてください。
 

[132]石川和広[08/18 23:47]
内容はともかく、とは、一番絞りさん 内容が、問題だと思いますよ。 僕は、一番絞りさん。やはり、手もつけてないのに、吉増を批判した後、買うのも変だなと思う。 まあ、僕は、あなたに、詩をかくものとしての資質を疑われたわけですが、 あと、詩の言葉の生きてる感じを大切にする旨は、賛同しますが、詩の言葉も歴史をもつこと。例えば八十や白秋の歌は、今も歌われてますが、あれらも死んでいますか?どうですか?
 

[130]一番絞り[2004 08/18 21:36]
つくづく批評するというのは怖いものだ。
おのれのアホさ加減がぜーんぶ出てしまう。
等身大のおのれが、すっぽんぽんになって、あらわになる。
そこが詩や詩論と違うところじゃなかろうか。
薄みっともない裸をさらし、人さまに笑ってもらう覚悟がいる。
わたしの場合は、批評なんてものじゃない、批評もどきだが
恥じ知らずに書いている。
それでも、ときに赤面することしきり。穴に入ることしきりだった。
そういう意味で批評をしたOhatuさんやボルカさんは勇気があると思った。
内容はともかく、その度胸には心底、賞賛を禁じえない。

小生は吉増剛造、読んだことがなかったので今日のお昼買ってきた。
『吉増剛造詩集』(ハルキ文庫)。760円也。ブックカバーは付けてもらわなかった。
「付けますか?」なんていわないで「できれば付けたくないんですけど」と言えばいいのに。
おれはやさしいのだ。相手のいわんとするところを酌んであげる。
「頭脳の塔」の「朝狂って」を一読。「合わない!」と思った。
ぼくの趣向とはまるで合わない。ぜんぜんつまんない。意味もわからん。
味もそっけもない。これを批評するとすれば、これは大変だぜ。
うっとおしいぜ。
ただ、あれだな、すぐにピンときたのはこの人の孤独は精巧にできた
作り物の孤独だなってこと。
それこそ詩篇の表題とおり「頭脳の塔」だ。頭によって精密につくられた孤独だ。
こんなものは、もう、うんざり。
戦後、偏差値教育、受験システムの申し子たちによって量産されてきた詩に
表現を競いあった作り物の孤独や絶望や夢や反戦などがある。
もう、いいよ、って感じだ。
これに比べると中原中也なんか、ほんとうの孤独の中にいて、
シュールだけど人の心をつかむ詩を書き、それゆえに、ふつうの読者を獲得したのじゃなかろうか。
よくわからんが、そんなことを思った。

吉増剛造詩集、ひとつ効果があった。数ページも読まないうちにうとうとして
ぐっすり昼寝したことだ。いや、夕寝か。
 

[129]一番絞り[2004 08/18 11:43]白糸雅樹
お盆休みも終わった。
それにしてもくそ暑かった。
ひとつ発見したのは「ダイエットビール」という発泡酒。
ロング缶でわずか25?カロリーしかないのだが、どうやら個人的にかもしれないが
便秘効果がある。てか、排便効果というべきか。
前の晩、ビールのあとに食ったものが翌日の朝あたりにぜーんぶ、出てしまう。
これは快調なり、快腸なり! 団扇ぱたぱたと、これまで一番搾り一本やりだったのを
発泡酒に転換。
安くて、快腸で、お味もさっぱり爽やかとくれば、たまらない発見でし。

*ほかのひとにも同じような効果があるかどうか。
たぶん、小生だけだと思う。買って、飲んで、騙されたとの
苦情を受けても
関知せずである。
 

[124]いとう[2004 08/15 09:19]たかぼボッコ
谷川俊太郎について知っていること。

朗読が巧い。
どういう巧さかというと、「定義」を読んで客を笑わせることができる。

インタビューや対談で、テープ起こしの後の原稿にほとんど直しが入らない。
つまり、喋っているときに無駄な発話が入らない。
話し言葉と書き言葉がほぼイコールになっている。

「朗読巧いですねぇ」と言ったら、
「好きと言われるより巧いと言われたほうがうれしいねぇ」と言ってた。
 

[121]汰介[2004 08/14 21:03]
要するに、珍味は本当に通の味なのか、その珍味はその味が分らん人間にとっては不味いだけだし、だから珍味は不味いとわめくのか、実は珍味と勘違いしているだけで、その実本当に不味いのか、、、、
一筋縄で行く問題ではない、と。

後、その珍味も初めは美味いと思わなくても段々美味くなるのか、
その珍味を無理矢理進められて、もう二度と食べたくなくなるのか、
だったらその珍味を食べやすくアレンジしたら食べやすくなって珍味のみでも食べられるようになることもあるだろうし、
そうしていたらその珍味自体も微妙に味自体が変わっていって、元の味が変わった、と嘆くのか、嘆く人自体の味覚が変わっていってしまったのか、、、、
 

[120]汰介[2004 08/14 20:58]
つまり、自分の素性を見せないで、
世間の、自分とはなるべく遠い様な所へ行って、
いきなり前もっての知識なく詩を読んで、
何らかの感動を与えられるか?と言う事なんですかね?

そう言った意味では、物凄い地に足の着いていない頼り無さを感じるのも、
確かに無理は無い、と思います。

言葉で難しげな事を言っていてもそれが分らん人にとってみれば、
何が言いたいんや、この人は!と言うのも仕方ない、と。

が、前も言った覚えがあるんですが、
例えば、勝負事、将棋なら、素人(私もですが)がどんなにその手が訳分らなくても、
勝負がつくので、強い弱いは分る訳です。

一方詩は、それが考え抜かれた故に訳が分らないのか、何も考えていなくて訳が分らないのか、何も考えていないのにも関わらず、訳が分る(?)人間から見ればとんでもなく深い事を言っているのか、訳が分らない、と言うのが、私にとって正直な所なのですが。
 

[119]石川和広[2004 08/14 20:55]たかぼ木葉 揺(このは ゆり)
>>117
一番絞りさん、こんばんは。僕も、大阪文学学校出身で、細見クラスに、いました。
あんまり、川上明日夫さんとか、日高先生とか、有井さんとか、固有名詞、しかも、あれは、九十九年くらいかな、細見さんが、海外での研究を終えて帰ってきたのは。
 ぼくは、細見さんの名誉も、あるので、それに自分の出たところの、講師の、誹謗とも取れる発言を垂れ流すのもおかしいと感じました。
 僕が感じるに、細見さんは、別に「権威」として、黒田喜夫や、谷川雁や、鮎川を出したのでなくて、細見さんが、詩人として自己形成した過程で読んで、感銘を受けた詩人を紹介したり、今は、知ることの少ない戦後詩の解説で、僕は、ただ、ふーん、そんな人もいたんだなあと思いました。
 僕にとってはツマンナイ詩を、細見さんが熱を込めて、語ったこともありましたが、単純に、もう一番絞りさんの言うとおり、昔、死んだ人も多かったし、特定の時代にしか、通用しなかった人もいた。

 だから、ツマンナイというのは、ふつうだと思いますが、別に、細見さんだって、その後、きちんとやっていたし、皆のことも、ふつうに、丁寧に見ていたと思う。さらに、作品も、おもしろい方もいたし、、、、、、
 それと、リーデイングの話が、何故関係するのかわかりません。

別に、谷川の話と、細見さんの話も、繋がり不明やし、、、、、

失礼ですが、何でも、権威に見えてしまうのは何故かなと。

それと、特定の人を、しかも、関係者しか知らないことを、というか、そんなに、細見さんも、押し付けてなかったし、、

やはり、これは、中傷にしか、とれませんね。

ちゃんと、その場で細見さんにいうのが、よかったのを、ここで、細見さんの見えないところで、批判するのは、変だと思います。

あとは、>>118の方のいうとおりだと思います。それは、権威からではなく、発言者としての最低限のマナーを守れていない恐れがあるということかなと思います。
 

[117]一番絞り[2004 08/14 18:14]たかぼボッコ
佐々宝砂さん、吉増はわたしも嫌いです。
てか、既成の詩人はすべて全否定してます。(笑)

ぼくは大阪の某、詩の学校に三年ほど通ったんですけど、
一年目は若手哲学者で詩人の細見和之が講師でした。
で、この学校は、もともと合評主体の授業なんです。毎回、生徒が
書いた詩を持ち寄って、批評して欲しい人が提出し、全員に配る。
それを批評したいものが批評する。そういうシステムでした。
ところがこの人は、他の講師と違ってその前に三十分ほど、
有名詩人の詩を読んで、それを解説するんです。
これがわたしには苦痛で苦痛で仕方がなかった。いらいらした。
どれほど凄い詩だ、凄い詩人だといわれても全然面白くない。
全然ピンとこない。
べつに反発しているのでもなければ、ひがんでいるのでもない。
ほんとうに面白くないのです、既成の有名詩人の詩が。
これは何故だろうと思いました。
ひとつには既成の詩人の詩は「もうすでに書かれそこにある」ということ、
それがなぜか「死体」のように思われたんです。
ぜんぜん新鮮じゃないんです。
そういう意味では、同じ教室の数十人の素人玄人入り混じった「目の前の」
人たちの、「今書かれた」詩がとても新鮮で、
それがいくら稚拙でも巧妙でも、上手さに関係なく、すべてに、
ドキドキするほどの興奮を感じました。
その興奮に比べれば既成の詩人たちの詩のなんと色褪せたことか、とぼくには映ったのです。
それはポエトリーリーディングというやつの否定にもつながってます。
すでにして書かれたものを舞台に持ち寄って朗読したって、それは演劇行為以外のなにものでも
ないよ、という考えです。
ポエトリーリーディングというのなら、ぼくが「マンドリンのスネカジリ」を書いた
ように、
その場で、即興で書かなきゃ。即興で頭に描いたものを舞台上で朗読しなきゃと思います。
だからそういう演劇行為をポエトリーなにがしといって「闘わせて」いる
谷川らの姿勢が気に入らないことも「エセ詩人」発言のなかにあったのです。
(*そういえば数年前、谷川がアメリカの詩人たちを前に演台上から「ポエトリーリーディング」した映像を見ましたが
これはまさに強烈に印象に残っているほんものの「ポエトリーリーディング」でした。
谷川は突然、演台上で即興詩の朗読を求められ、即興で詩を作りつつ謳いあげたんですが、
まるでそれは知能障害者のように
「かー。か・か・か・かっか、かー、かー」というひどくテンションの高い吃音の繰り返しでした。
ひとまとまりの詩句になってないのです。
ぼくは、「やった!」と思いました。初めて谷川が詩人をあらわにした瞬間でした。
満座は谷川が緊張のあまり気が狂ったのかと、シーンと静まりかえりました。
でも、これが谷川のほんとうの姿なんです。
書斎で気の利いた台詞ばかり書いていたひとが、即興で詩をその場で謳えと要請されて出てくるのは
ほんとうに押し迫ったぎりぎりの「圧力」だけなんです)
ともかくも、
あいや、おまえのような素人には詩がわからんのだよ、と言われれば
それまでですが、ぼくには、ぼくの詩に対する姿勢があってしかるべきだと
いまでも思っているのです。

そうですね、近々、吉増のパロディでも上梓しましょうか。
批評詩ってことで。
 

[116]一番絞り[2004 08/14 17:39]
>内容はなんでもいいですが、自分で「もうやめよう」と言ったテーマで
>発言をさらにするのは、いかがと思います。

また発言内容・態度への規制と強要かい? いい加減にしてくれよ。
どんなテーマであれ自由に発言するよ、おれは。
昼寝くんとの対話は
これ以上やっても不毛だからやめようといったんだ。
新しい内容もないし、新しい展開もないし、退屈なだけだということ。
おまえさんの出る幕ではないよ。
しかし、「世間」と「個人」の問題についてはだれがなんといおうとおれは
いつでもすきなときに自由に発言するよ。
いい加減、その世知辛いお節介くせはやめたらどうだ?
ここだから、きみのお仲間たちからそういうしつこい態度が
許容されているんだろうけど、いい加減、醜(みにくい)ぜ。

みなさん! とはね。笑っちゃうぜ。
「世間」に訴えて、ええ? 何人の人がきみの意見に同意してくれている?
こないだからずっと同一の面子ばかりじゃないか?
星を付けるのは。
山田スレでもそうだ。
要するにきみのお仲間だよ。
そういう特定のお仲間同士でだれか気に入らない相手を
しつこく、交代で文句をつけるような真似はいい加減にしてはどうだ?
恥というものを知れよ。
 

[114]佐々宝砂[2004 08/14 16:27]ABたかぼ田島オスカー
一番絞りさんに言いたいことは、もう、あんまりありません。
議論する気もあんまりないです。むしろ例の詩がいちばん面白かったです。

権威に対するおちょくり、ぼろくそ、貶し、悪口雑言罵詈誹謗のたぐいは、読み手をおもしろがらせないとだめだめですよ。内容の問題でなくて、おそらく技巧の問題として、内容がどうあれ、読者を愉しませないとだめです。たとえどんなに礼儀正しかろうと、どんなに言葉が汚かろうと、面白いものは読まれるし、つまらんものは無視されます。ところで世間には、礼儀正しいうえに中身も興味深い、なのに恐ろしくつまらん書物が存在します。ちなみにそれはキョーカショですよ。フォーラムの散文にもいくらかそういう文章があるけれども、ともあれ私の役には立つので、私はそうした文章を非難する気にはなりません。それでもここでちょこっとくすぐりをいれたくはなります。私はそのてーどには人が悪いのです。

それでも私は一番絞りさんを弾圧する気には、今んとこ別にならないし、ここの管理人とゆーかオーナーである片野さんも弾圧はしてないと思います。

私からの個人的な、一番搾りさんへのお願いは、一番搾りさん自身のぶっとんだ詩作品でもって権威を叩きまくることです。そういうわけで、議論を一時お休みして詩を書いてみたらいかがかしら。たとえばですが、みなさまが褒めちぎる吉増に私は感動できないので、そのへんをくそみそにした詩なんてあったら楽しいぞと思うのです。谷川俊太郎でも我が師と仰ぐ寺山修司でも私のアイドルであるジム・モリソンでもけっこうですし、安西均なんぞを叩くのも楽しいかもです。金子光晴を叩いて、面白い詩作品として成立したら、私、一番絞りさんを真剣に尊敬します。ま、そうした詩を書くにはある程度の敵に対する愛がないとできないのかもしれず、ある意味逆オマージュとでもいうべきものかもしれません。
 

[112]一番絞り[2004 08/14 14:33]
にしても権威をからかい、おちょくり、ぼろくそに貶すというのは
江戸時代じゃ庶民にとってあたりまえの行為だったのだが
いまじゃ、谷川俊太郎を「エセ」「まがい」と口端にすべらせてだけで
これだけ風圧を受ける時代になったか。
しかも「現代詩フォーラム」の掲示板で。
うーむ。感慨深いものがあるなぁ-。
これも受験システムが生んだ(権威への畏怖を示す)感性なのかもしれないが
まっこと、これじゃあー、どう転んでも粒のそろったものしか生産されまい。
どれもこれも似たり寄ったりのドングリ...。
たしか『ドングリと山猫』では、そのなかで一番こんまい、つまらないのが
ナンバーワンなんだということになった。
賢治は、天才だ。

ただ、あれだな、これしきの「世間」の風圧
(本人たちは気がついてないだろけど、いずれ人を殺す思想につながり
戦争を容認する風潮につながるだろう風圧に)
おれが参ったと思っていたのなら大間違いだと言っておく。
これからも谷川は「エセ詩人」だし「クソ詩人」であることを
どこででも、いつでも公言してはばからないことを宣言しておくし、
また、どのような社会的評価であれ、個人の評価を弾圧できないことを
念を押して宣言しておく!
 

[111]一番絞り[2004 08/14 06:57]
昼寝くん(これは愛情をこめて山田さんもあなたに言ってたよね)
いずれにせよ、もうやめないか?
つまんないよ。

わたしには、なんであれ説明を「忌避」する理由は必要ないし
「逃げる」必要も、気持ちもない。
もともとあなたが納得するまでの「説明義務」などないからだし
「逃げ」なければならないようなどんな事態にも遭遇していないからです。

あなたの偏執的な妄想のお付き合いは誠意をもって、もう十分したつもりです。
これでお開きにしましょう。
 

[110]ボッコ[2004 08/13 21:41]一番絞り
議論って難しいですよね。

全部分からせようとしますと、どんどん紛糾しますし。

議論に即効性を期待してしまうことも多いですけど、実際そんなわけにも行かないでしょうし。

ほんの少し、1割でも2割でも、言いたいことが伝われば大成功だと思います。

伝わらなくても仕方ない、もとより全然違った生き方をしてきた他人同士なんですから、

(同じ人間だから、分かり合えるはずだ、と、そういうわけにはいかないかと)

と私は思っています。(たまたま通りすがっただけの、何億分の1なんですから。)


いろんな人が居ます。


なんだろう、なんか上手くかけませんけれど、

どこまで説明するか、説明できるかは、その人、その時々で、本当にさまざまでしょうし。

意見っていうのは多分、

大抵の場合統一する必要のあるものじゃない、のかなとも思いますし、

思い思い論じたいことを論じればいい、

思い思い、それぞれの思いを交換すればいい、

そんな感じかなと、

私は勝手に思っています。



ところで、私は谷川俊太郎、これまであまり興味をもってこなかったので、

どの辺が面白いのか、素敵なのか、

いいところや作品を引き合いに出して、評論してくれる方がいたら、

嬉しいなぁとか、思います。
 

[108]一番絞り[2004 08/13 17:01]
#いろいろ書き直しましたがこれで完了です。(笑)

>107
午睡機械さん、やはり何を仰っているのか支離滅裂で、読むのに苦労しますよ。
こちらでひとつひとつ納得するのに、つまり読み込むのに時間がかかりました。

>?私は、あなたがその「説明」をなんらかの理由で忌避しているように思いました。

説明を忌避しているかどうかはともかく、
「なんらかの理由」で「思いました」とはまた、曖昧な言い回しではないでしょうか。
どうして「なんらかの理由で忌避している」と思うのか、ちゃんと説明するのが最低限の議論の礼儀でしょう。
直感からですか? 偏見からですか? 侮蔑からですか?

>?発言をするからには、説明を求められればできる限り答える、そうでなければ納得は得られない、というのは、当たり前のことではありませんか。

説明を求められれば得とくできるまで答える、そのような関係が、あなたとわたしの間にあるとは思えません。
わたしが谷川俊太郎を「エセ詩人」と感じることについて、あなたが得とくするまで答える義務も、
あなたがわたしに答えさせる関係もあなたとの間にはない。例に挙げたような上司と部下の関係でもなければ
あなたは谷川本人でもない。互いに顔も見知らぬ間柄だからというわけではなく答えるレベルには
おのずと限界があります。
それは、ほら、あなたご自身がわたしの発言に介入してきた、みずからの限界を仰っているじゃないですか。
>対外的に、マニフェスト的な主張を批判の根拠にしたところで、それでは「説明」を求めているひとにとっては
>納得のできないものなのだ、ということを述べようとしていました
のなら、むしろ一般論として、わたしの主張を例に挙げながら、あなたの論旨を展開すればいいのですよ。
そうではなく、すべてを、都合よく、自分の主張のために、わたしに語らせようというのですか?


>?、「何故その立場からなら太いラインで読み込む必要がないのか」ということのほうをいうべきだったのではありませんか

あなたがどのような立場からわたしの主張に反論をくわえるのであれ、まずわたしの主張の論旨を
大筋で読み取る誠意なしには話は進展しません。あたりまえのことです。
それはわたしの意見を「共有しろ」ということではなく、論旨と文章の組み立てとは一体のものだから
論旨を無視してことば使いの不整合性(たとえば語尾の使い方)だけを非難しても意味がないということです。
言語学の問題を扱っているのではないのですから。
 

[105]一番絞り[2004 08/12 10:19]
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9786「ひとふさの乳房を」
[37]のつづき
 
   ひとふさの乳房を浮かべるしぐさで
   てのひらからはなれてゆこうとする浮力をもつ
   やわらかなコトバの重さの、かぐわしい

コトバには小さな抵抗が必要だといったのはだれだったか。
扉を出ようとして、上着のすそをひっかける釘のようなもの。
伸びきった裾の長さ、立ち止まった静止の姿に、外へ出る勢いが示される。
あるいは、恋人同士が噴水の傍で語り合うとき、それをさえぎろうとする車の喧騒。
それによって恋人たちが、声を聞き取ろうとしてより肩を寄せ合うことになるような抵抗。
そういうものなしには、「このわたしのコトバ」は立ち上がらないものだ。

コトバの劇性は互いに引き合う力の均衡にあるといったのはだれだったか。
そのとき、コトバはただ止っているように見えるけれども
まさにその均衡の瞬間において、
コトバは激しいドラマの只中にあるのだと。

さて、
てのひらで抱えるような重さをもつオッパイ。
その乳房のもつ重力にも逆らって、
コトバは「手のひらから離れていこうとする」。
その「重さ」は「やわらか」く「かぐわしい」。
わずか数行のあいだに転換はつぎつぎと生じ、しかも、コトバを引きとめようとする
オッパイの重力と、オッパイのために離れていこうとするコトバの浮力がある均衡をもって
引き合い、押し合い、立ち止まり、逡巡しつ書き手から離れていこうとしている。
そのようにして離れていこうとする詩のコトバへの愛着と戸惑いと未練が爽やかに綴られている。

   もちろん、意思の向かう先にではなく
   わたしをはなれ、たぶん
   雲のように、見上げる場所へ
   見上げられない場所へ
   あるいは見上げない場所へ

この詩の表題が、改稿前は『雲の城』であったことを考えれば、
近寄れば手に掴むことも見ることもできない水蒸気のかたちつくる城のような、
そのような遠い遥かな場所へコトバは離れていこうとしているのだ。

ま、ここまでは何の問題もない。ただ、目を閉じてさわやかに味わえばよいのだ。
どこにもないことばの魔術に酔えばいいのだ。
とにかくこの一、二連、これまで読んだどんな詩のなかでも
一番好きなフレーズですねんのねん。
(つづく)
 

[104]一番絞り[2004 08/12 09:45]
>この人の発言は
>「みんな」読んでないと思うよ。反応してる人たちって優しいな。見習わなきゃ。
>いつまでもお利口なお子ちゃまですみません。
[99]クリ

ひまだから、このコメントに含まれている「いやったらしさ」の本質を分析してみよう。
結論から先に言うと、
「みんな」が読んでいるか、いないかが重要だと思う感性には、かなり危ないものがあると
わたしは「思う」(笑)
もちろん、できれば自分の主張は「みんな」が読んでくれるほうがいいだろう。ぜんぜんだれも読まないよりは
できるだけ多くのひとに読んでもらったほうがいい。
しかし、たとえ一人でも読んでくれる人がいてくれるなら、そのために書くということも大事だ。
「みんな」に同化させようという空気は、それに同化できないものを排除するという点において
異者・異形排除の論理につながる。
しかし、いまの世の中では同化しない者の排除は表立ってやりにくい。
そこで「みんな」が読んではいけない奴のレスを、読んでいる人に向かってこう恫喝するのだ。
>反応してる人たちって優しいな。見習わなきゃ。いつまでもお利口なお子ちゃまですみません。
「いつまでもお利口なお子ちゃまですみません」←これは、言い換えると、
「読んでいる奴はお利口でない」=「バカだ」と言っているのだ。
暗に「読むな」といっている。
つまり最初の「〈みんな〉読んでないと思うよ」につながることばだ。
この、いやったらしい「村八分の論理」はどこかで見聞きしたことがあるだろう。
わたしは幸いガキ大将だったからイジメに会ったことはないが、いま学校で行われているイジメの
異者排除の幼稚なテクニックのひとつと相似形である。
もっといえばここで使われた「みんな」は、まさに、(偶然としても異様なのだが)
「世間」のことなのだ。

最近の自称「詩人」の方々は「世間」なしでは生きられないのかね〜?
金鐘時ともこないだ会って話をしてきたが、つくづく嘆いていたよ、最近の自称詩人には。
 

[103]一番絞り[2004 08/12 07:13]
[102]石川和広[
>別のスレッドの話を乱入させる、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、なんて。
>[102]石川和広


別スレッドOKなんでしょ、ここは。
そういうひとのためのものでもあるんでしょうに。
たとえば山田スレではそこでの批評への反論は認められていないわけで
別の場所で反論するしかない。
そういうことで開かれているんですよ。
 

[102]石川和広[2004 08/12 07:08]
>>98
私も、もう読んでないよ。けれど、優しいから、書き込んでるのでもないです。

nm6さんは、えらいというより、あまりに、ひどいから、普通に注意したのだと思う。

それと、まず、僕は、今この場で使われている、えせ、という言葉は意味不明だと感じます。
だからといって、それを論及するのも、何だかなあという気がする。
だって、何か、終わっているもの。
別のスレッドの話を乱入させる、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、なんて。

怖いなあ
 

[101]一番絞り[2004 08/12 07:06]
>「みんな」読んでないと思うよ。
[99]クリ

いや、「みんな」読んでくれてます。はい。
ここには何も書かないでもお手紙もいただいてます。
おのれの視点を「みんな」と同置させるクセは
できればやめたほうがいいね。
おそらくきみのいう「みんな」というのはこの板で馴れ合っている
「みんな」のことだろうけど、
きみの知り合いだけが「みんな」というのなら
この板、特別会員制にすればいいのだよ。
不特定多数の匿名の方々が何百人と閲覧している。
そういう人たちに向けて、恥ずかしながらコトバを発信しているのだよ。
愚にも付かないことをいって
おのれがどういう狭い料簡でものをみているか晒すこともなかろう。
 

[100]一番絞り[2004 08/12 07:00]
>一番絞りさん、あの、何であれ、もう少しことばに気をつけませんか。
[98]nm6

そりゃお互い様だと、何度も何度もいってますよ。
ガキじゃあるまいし、わたしがどんなひでえコトバを吐きかけられたかいちいち
言いませんがね。ちゃんと相手の発言も読んでから批判してくださいな。
 

[99]クリ[2004 08/12 02:00]
>>nm6さん
えらいな〜。僕、この人の発言はまったく読んでないから…。
「みんな」読んでないと思うよ。反応してる人たちって優しいな。見習わなきゃ。
いつまでもお利口なお子ちゃまですみません。

似非詩人の定義、簡単です。
「詩わない詩人」
そういう人、いるでしょ。
 

[98]nm6[2004 08/12 00:06]クローバー石川和広AB
横からすみません。こういうところでは基本的にはROMな自分ですが、さすがに酷いと思ったので。

一番絞りさん、あの、何であれ、もう少しことばに気をつけませんか。
ネットだから許されると思われているのか、リアルでもそういう方なのかは存じ上げませんが、
「ボケ!」と連呼してみたり、人の名前を呼び捨てるのみならず名前や作品名のもじりで呼びつけてみたり、
プロフィールを茶化してみたり、などなど、挙げればキリがありませんが、
正直、気分のよいものではありません。
少しなら面白いかもしれませんが、さすがに、やりすぎです。

あなたは、自分が言いたいように言うだけだ、とか、お前の気分を良くするために書いている
わけじゃない、とか、仰るかもしれませんが(勝手な想像ですので違ったらスルーしてください)、
なんだかコミュニケーションとして、あまりに幼稚な感じがします。
どんなに素晴らしい内容のことを書かれていても、
「太い線で」以前に、それでは読む気がおこりません。
キャラとして敢えてやられているのかもしれませんが、
山田さんのような(勝手に引き合いに出してすみません)スマートさもないため、
あまり成功しているとは思えません。

多分、同じように感じられている方も多いと思いますので。
すこしだけ気に留めていただければ幸いです。
 

[97]一番絞り[2004 08/11 19:31]
あらら、またしても珍妙極まりないご意見がみつかりました!
しかし、これは酷い! これに星印つけた方、あなた方は超天才です!

>二点目。私には谷川を擁護するつもりはありませんから、あなたと同じレヴェルで議論
>するつもりも初めからありませんでした。
>つまりどういうことかというと、互いに対立意見を述べ合うわけではないのですから、
>互いの論拠を確認する必要はないということです。
>言い換えれば、私はそもそも谷川批判or擁護の土俵には立っていません。
>ですからあなたが私について、「まずわたしの意見の大筋を理解しようとし」ていない、
>議論に望む際の最低限の条件である「相互理解」の姿勢に欠けると言ったところで、
>それは的外れな批判です。
(>93:下から5行目 午睡機械)


なんだ、こりゃ! 三段論法にすらなっていないではないか!
この程度の出鱈目なごまかし論法、恥ずかしくないのか?
このご文章の結論部分は
>?、議論に望む際の最低限の条件である「相互理解」の姿勢に欠けると言ったところで、それは的外れな批判です。

わたしの意見の大筋を理解する必要はない。的外れな意見だというのが結論。
で、その根拠はというと、

>?私には谷川を擁護するつもりはありませんから、あなたと同じレヴェルで議論するつもりも初めからありませんでした。

つまりどういうことかというと

>?互いに対立意見を述べ合うわけではないのですから、互いの論拠を確認する必要はないということです。

あらら、谷川の評価についての対立意見は述べ合ってませんけどね、確かに。
そんなことはあたりまえのことじゃないの。最初から。
わたしの主張に反論しているわけでしょう? 谷川擁護ではなく、わたしの主張が論理的におかしいといってるんでしょ。
わたしの主張に対する立派な対立意見じゃないですか?

>?い換えれば、私はそもそも谷川批判or擁護の土俵には立っていません。ですから...→?につづく。

「ですから」もくそもないでしょう。???はまったく同じ内容の同語反復じゃないですか。
三段論法でいえば
結論:?
前提:???
てことは前提から結論に至る述部がすっとんでんじゃないの!
あえていえば?に根拠らしきものがあるが、主張の非論理性を付くことは立派な「対立意見」であることは指摘したとおり。
にしても、なんという誤魔化しを平気でやる方なんでしょう!
ちみには良心というものがあるのか!

*午睡君、昼寝はほどほどにしておきなさいよ。

-----------------------------------------

>あなたのおっしゃった「詩はこういうものだと思う」「哲学はこういうものだと
>思う」……論証もないいわゆる「極私見」を展開しておいて、そのあとでこのような
>断言的批判がくるのですか。ここにも「……と思う」と何故付け加えないのですか。
(>93:22行目 午睡機械)

う〜ん、これはもう話にならんな。
なにほどかの主張を行う前に、まず自分が使う用語(今回の場合なら「詩とは」や「哲学とは」)を
自分がどのように考えているか明らかにしておかないと
あとで用語をめぐって延々と枝葉の議論がつづくことはみなさんよく体験することでしょう。
だから、まず自分の使う市販の道具(用語)の意図を限定する。
このわたしは、これをこのように思っていると。
これはみなが色々な用途に使っている道具だから、自分はどのように使うつもりか説明するわけだ。
それが「〜と思う」の語尾の意味です。
しかしその道具(一般用語)を使って生産されたものは、わたしの生産物であって一般的な道具(用語)ではない。
もちろん、わたしが「思っているもの」に違いない。だが、いちいち「〜と思う」と注釈しなければならないほど
一般的なものではない。
道具とわたしが作り出した生成物をいっしょにされてはかなわない。

> しかし、谷川は詩の形式を借りて哲学的な洞察を書くことにより、
> 哲学的にも中途半端、かといって詩も中途半端なものを書き続けてきた。
> その詩の構造はある意味で「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい。

↑これがわたしの生成物(結論)。だから、「〜と思う」という語尾はわざわざ付けなかった。
もちろん、このように「思っている」のですがね。

*この比ゆがわからなければ、午睡君、きみとはもう議論しないよ。
あ、そうか、きみが相手にしてないんだったな。じゃあ、面倒はいらない。

#再度、書き直しました
 

[96]一番絞り[2004 08/11 16:33]
>94

ボッコさん、こんなつまらない雑文をていねいに読んで下さりありがとう。
書き込むのもたいへんだったと思います。
 

[95]一番絞り[2004 08/11 16:19]
掲示板という機能には限界があって
まとまった谷川論を展開しろと強要されてもなかなかむつかしい。
「エセ詩人」というのは心の中でぼんやり思っていたことを吐き出してしまったもので
主張というほどのものではありません。
谷川のひとつふたつの詩を挙げて詩論を展開すれば、それはまさしく谷川の固有の詩の作品論になり
かれの作家としての位置づけから逸脱してしまうことになるかと思い、
あえて具体的作品は出しませんでした。
それなら何もわからんぜ、というのならそれこそ掲示板の与太話の延長と受け止めて軽くスルーなさればいいのです。
たしかに精密な論証プロセスを欠いたものであり、正当性がないといわれればそうであることを認めざるをえない
雑なものです。しかし、
「谷川はエセ詩人」「谷川のような詩人もどき」という与太発言について大雑把すぎるかもしれませんが、
わたしなりにデッサン的な感想は書きました。
これを一読して、感じる人もいれば感じない人もいる。
その程度のものでしょう。
ピンと感じる人はああ、なるほどなと受け取って自分の知見の中で吟味するでしょうし
感じない人は「何をいってやがる」で十分でしょう。
わたしはこのような限られた板のなかで相手に完璧を強要するその姿勢が気に入りません。
もちろん、力不足もあるかもしれませんが、掲示板における感想や論理の展開というのはそれこそゆっくり、
じわーっと広がってゆくものなんです、わたしの場合は。
一週間あるいは二ヶ月かかるかもしれません。
そのとき書けるものができれば書くし、書くにはまだ熟していなければ書きません。
まえの谷川についての感想は確かに雑ですが、いわば覚書のような断片です。
これから発展してゆくところの端緒です。
それをいちいち重箱のすみをつっつくような反論を返してくるようでは応答すらできません。
まず太いラインで読み、ぼんやりした主張の要点の核心を突いた質問が欲しかった。
そうすればわたし自身にとっても勉強になったわけです。
罵声はお互いさまでしょう。ボルカが、一番絞りがどれほど酷いことを言ったか、なんてことを
いちいち持ち込んでいれば書くことそのものができません。
よって、今後とも谷川のことをここで書くとしても、山田スレの延長ではなくあくまでの自分の気分で書きます。
また、書かないかもしれない。
こういう形式で書け! と己のスタイルで書くことを強要する相手には今後とも一切関与する気はないことを申し上げておきます。

#追加

ただし、谷川俊太郎の名誉のためにも、ちゃんとした谷川エセ詩人論は書くつもりです。
 

[94]ボッコ[2004 08/11 15:23]一番絞り
横レスですみませんが。
>>93
ついでの部分を読んでいて少々気になったこと。

> 谷川が、哲学的な断章を詩の形式を借りて書くこことにより、ある意味、
> 戦後日本人に共通の
> ものごと全般に対する姿勢や態度の「あいまいさ」を
> 詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ。
> なんとなれば詩とはそもそも行と行の間に「未だ見ざるもの・あらざるもの」を創り上げる作業であり
> 行間から「未だ見ざるもの・あらざるもの」を読みとる作業だと思うからだ。
> 哲学とは、「いまだ見えざるもの」をだれにでもわかるコトバ(指示表出)によって
> 現前化させることだとわたしは思っている。                             …ここまで(1)
> 哲学は行間に言葉を埋め込むような作業ではあってはならない。
> それらは明らかにだれにでも理解できるかたちで「すでにあるもの」として現前化させねばならない。   …ここまで(2)
> しかし、谷川は詩の形式を借りて哲学的な洞察を書くことにより、
> 哲学的にも中途半端、かといって詩も中途半端なものを書き続けてきた。
> その詩の構造はある意味で「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい。               
曖昧で大雑把ではあるんだろうけど、この文章自体はそれほど無論証的なものではないですよね。全体として、論証の形式を取っています。小前提等の部分を立証する証拠を、事細かに提出してはいないというだけの話です。

この(1)とか(2)は少しきり方が変で、引用文だけから言えば、
「詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ」までが(A)
「なんとなれば詩とは」から「読み取る作業だと思うからだ」までが(B)
「哲学とは」から、「現前化させねばならない」までが(C)
「しかし、」から、「「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい」までが(D)
と区分した方がいいんじゃないかと私は思います。

(A)までは、谷川俊太郎が「哲学的断章を詩の形式を用いて書いた」という(一番絞りさんの思うところの)「事実」が指摘されている部分。
(B)までは、「詩」とはどのようなものであるか、という、一番絞りさんなりの「定義」が示されている部分。
(C)までは、「哲学」とはどのようなものであるか、という、一番絞りさんなりの「定義」が示されている部分。
(D)までは、(B)(C)の定義に照らして、どっちから見ても谷川俊太郎の書いたものは中途半端であり、それゆえに何れの側面からも「ある意味で非論理的」であるという「結論」を示している部分。


(B)(C)の定義に、(A)の事実を当てはめると、(D)という結論が導かれると言うわけで、論証として形式上おかしいということはないように思います。


(B)とか(C)の、詩や哲学の定義の部分について、争いが生じうることは確かですが、この辺は個々人の相違が当然に大きいところです。一番絞りさんはその点この部分について自分なりの定義をはっきりさせているわけで、議論を提起するにあたって最低限必要な誠実さは(暴言等指摘されていることは措いて、この部分に限定した「議論」としてみた場合には)示されているのではないでしょうか。それに、(B)の方は分かりませんが、(C)の方は結構普通の認識だと思います(存在と無とか、普通だったら全然気にしないようなほんの少しの単語の意味をよく見えるようにするために、何百ページもの大著を書いたりするわけですからね、哲学では)。


ということで、これに反論するには、(A)の事実認識、もしくは(B)か(C)の定義の両方或いはいずれか片方、を、論駁しなければならないわけですが、午睡機械さんの反論はそうではなくて、
「これでは谷川俊太郎の全体像は捕まえられない」という反論です。けれどもこれは少し公平を欠いているかなとも私は思います。ある詩人の全てを追及することなど、大抵のアマチュア読者には、かなり困難な仕事だからです。どんな批評をするにせよ、大抵の場合、自分が切り取った一断面を前提に、論述を進めざるを得ないはずです。そして、一番絞りさんは、(A)の事実認識において、谷川俊太郎の「どの側面」を取り上げるかを、ある意味最初から限定しているともいえるわけです。

(A)が谷川俊太郎の全ての側面ではない、という批判は勿論可能でしょう。けれども、(A)を取り上げるトピックの前提として規定し、(B)(C)の自分なりの定義が示されている限り、(D)という結論は、「論理的な」「論証」だと私は思います(哲学としても詩としても中途半端だから、良くない、というのは成立可能な批判でしょう。勿論反論は可能ですが。このどっちつかずさこそがいいんだ、とか。けれどもそれを主張するならそれにも「論証」が必要でしょう)。谷川俊太郎の他の側面もある、この他の側面について議論してくれ、というのなら、それがどのような部分なのかは、反論を提起するほうがある程度具体的に限定して、指摘する方が良い(議論をスムーズにするものでもあるでしょうし、その方が親切でしょう)と私は感じます。漠然と、「谷川俊太郎はそれだけじゃない」と言われても、それでは谷川俊太郎の全てを論じ尽くさない限り一番絞りさんは何も主張ができないことになるわけで、それはちょっと不公平かなと。何となく思いました。
 

[92]一番絞り[2004 08/11 09:13]
えーと。
あまりに幼稚で、ひどい反論なので放置しておいたら、たぶんわたしが「逃げた」と
思ったのでしょう、
答えろ! 卑怯だ! 怯んだか! などとさまざまな揶揄が跳んできた午睡機械さんの問題のレスを
ちょっと暇つぶしに、どこが「ひどい」か指摘して、わたしの議論に対する基本姿勢をみなさま
(山田スレでワンワンうるさかった方々)にこの機会にお伝えしておこうと思います。

わたしのこの基本姿勢はニューススレにもURLを示して、そこを参照し、議論の基本姿勢をご勉強くださいるよう
広くご伝達申し上げているのですが、午睡機械さんや、あほの過程、いや、あおの過程さん、ボルカさんは
ご存知なかったのでしょう。
さて、わたしの意見と午睡機械さんの反論を山田スレから引用して以下にコピーさせていただきます。
*
これほど曖昧なかたちで書かれた批判はない。こんな文章なら私にもすぐに書けま
すよ(いやな気持ちを抑えつつ、という条件つきですが
あなたは

> 谷川が、哲学的な断章を詩の形式を借りて書くこことにより、ある意味、
> 戦後日本人に共通の
> ものごと全般に対する姿勢や態度の「あいまいさ」を
> 詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ。
> なんとなれば詩とはそもそも行と行の間に「未だ見ざるもの・あらざるもの」を創り上げる作業であり
> 行間から「未だ見ざるもの・あらざるもの」を読みとる作業だと思うからだ。
> 哲学とは、「いまだ見えざるもの」をだれにでもわかるコトバ(指示表出)によって
> 現前化させることだとわたしは思っている。                             …ここまで(1)
> 哲学は行間に言葉を埋め込むような作業ではあってはならない。
> それらは明らかにだれにでも理解できるかたちで「すでにあるもの」として現前化させねばならない。   …ここまで(2)
> しかし、谷川は詩の形式を借りて哲学的な洞察を書くことにより、
> 哲学的にも中途半端、かといって詩も中途半端なものを書き続けてきた。
> その詩の構造はある意味で「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい。               …ここまで(3)

  と、まず初めに「〜と思うからだ」「〜とわたしは思っている」というような語尾
を く用いていますね(1)。そして次に「ならない」
  「ねばならない」というマニフェストめいた断言否定命題がくる(2)。最後にそこ  を踏み台にして谷川批判を行う(3)。
  しかし(1)はその語尾からも察しがつくようにあくまであなたの主観でしかないも  のです。そしてまた(2)の断言否定もただ語勢が強
  くなっただけで、(1)で示された主観の(あるいはマニフェストの)域を出ていな  い(というか、あなたが、哲学を語るのですか?)。
  したがって、文章の核であるはずの(3)などは、その論理の土台(1)(2)において  まったく説得力がないばかりか、谷川の詩の具体的な一
  部分(あるいは詩集の題名)の引用すらないため、読者はその批判の正当性を判断す  ることができない。
  あなたの文章はそういうものになっている。私はあなたがそれを確信犯でやっている  のかどうかお伺いをたてようとして、前レス>>56
  おいて「むしろ、説得しようというおつもりはもとよりさらさらないのかも知れませ  んが、そのあたり、どうですか。」と書いたのです。

  だが、あなたはそれに答えず(というよりは私の文意がわからなかったのでしょ    う)、あまつさえ私を谷川のファンと決めつけ、まともに
  取り合わなかった。
  「あーたが腹が立とうが知ったことではありません」とのことですが、私は腹も立っ て いません。あなたに対して立てる腹などありませ
  ん。そうではなく、私はあなたの、批評における態度を問うているのです。もしもあ ら かじめ説得力を持たせようという気があなたにない
  のなら、私は今後あなたの全発言をスルーするつもりですが、もしあなたの周りがそ  んな読者ばかりになってごらんなさい、そうなればあ
  なたの批評は機能不全なものになるのではありませんか。
  (というわけで、きちんと書かれた谷川批判をお待ちします。)
*

この反論を読んで、わたしは改めて、本気で、「アホか!」と怒鳴りつけてやりたい気分なのです。実は。
しかしdisgustingなその気持ちをあえて抑えて、取り上げたくもないこの愚劣な反論をあえて取り上げ、わたしが
なぜこの反論に反応することを拒否したか説明しておこうと思います。
まずわたしは、午睡機械さんのこの反論を一瞥して、すぐにいやーな気持ちになった。
どうして人の意見を
「太い線で」読もうとしないのか?
ということだった。わたしはわたしなりにこの発言にかなり重い意味をこめている。いろいろ個人的不満がわたしにあろうと
そこを抑えて、わたしのその考え方の核をなんとか読み取ってやろうという姿勢を見せずして、
この方は最初から! 形式論理的な揚げ足取りに終始している!
曰く。
>(1)はその語尾からも察しがつくようにあくまであなたの主観でしかないものです。
あたりまえだろうボケ! おのれの主観でなくして何を言えというのだ! 犬ころみたいにおたくの気に入った
芸当をしろというのか! とわたしは内心あきれ返った。
>(2)の断言否定もただ語勢が強くなっただけ
>3)などは、その論理の土台(1)(2)において  まったく説得力がない
こういうった形式論理的な揶揄がつづく。
ニューススレで「議論のモデル」を示したように、議論というのはあくまでもその主張の妥当性を巡って
争われるものだ。日常の議論、公の場での議論、科学的議論と三つの段階があるとして
前二者は科学的議論のように数式を用いて完全な結論なり結果が実証できるタイプのものではないのだ。
〜と思う。〜と思わないレベルのものでしかない。しかしこのお方はこうのたわまく。
>読者はその批判の正当性を判断することができない。
正当性の是非? ふざけるな! と内心叫んでいたね、わたしゃ。
午睡機械さんは、まずわたしの意見の大筋を理解しようとしなかったか、出来なかった。
そのことによって、まずツールミンの議論モデルでいうところの「論拠」をわたしと共有できていない
ことがわかる。
いままで、このトビでなされた議論の文脈であえていうとわたしとは「世間」を共有していないということがわかる。
ということは、まず議論がこのままでは成り立たないから、互いの論拠の、つまりは
「世間」の確認作業から始めるという
時間のかかる対話からはじめなければ成らないということを示していた。
また、かれがどういうレベルの議論をしているか本人に自覚がないことから、議論そのものについて
懇切丁寧に教えてあげるところから始めねば成らない面倒くささがあった。
だからわたしはかれの反論を無視したのだ。
相手の意見の「大筋を理解しよう」という姿勢が見えなかったし、そのような不誠実なやからが、
わたしの不誠実をなじっているという戯画もうっとうしかった。
それを「逃げた」ととったのか
ワンワンとうるさくなったので、たまらなく、ほんとうに逃げ出した。
これらの方々に改めて言っておきます。
わたしは相手の意見を「太いラインで」読もうとしない連中から、議論を強要されるのも、返答を強要されるのも
今後とも完全にお断りします。はい。
 

[91]汰介[2004 08/10 23:23]
でも、詩はやはり、紙媒体で読んだ時でも違和感無い様に想定してなければならないのかなあ、とも思います。

紙媒体を想定した時に、なんじゃこりゃと言うのは、何かに依存し過ぎなのではないかと。
紙媒体を想定した時点で何か冷めた視点、と言う物を与えられ、
その中で通じる物が出来やすいのかなあ、とも思ってみたりします。

んな事必要無い、と言う人はそれはそれで良いんでしょうけども。

ただ、紙媒体を想定した時点で、手抜きはばれるでしょうね。
何せそれは自分の時間の中で一対一で対峙しますし。

と、言う事は、プリントアウトして見たい、と言うのが、
魅力のある詩、と言う事になりますね。私の場合。

なんで、今更こんな事を言うのか自分でも分りませんが(笑)。

それでは、オヤスミナサイ。俺はさすらい人か(笑)。菩提樹は何処だ?
 

[90]汰介[2004 08/10 22:30]石川和広
>この作品を安易に、詩だと思うなという、概念化するなという
>変な詩読み?たち、への警告と。

>そして、いろんな人に、もっと詩は、詩よりすごいもの、ここでは、自然とか
>家族への、自虐スレスレの賛歌が語られている。

しかしここをよく読むと、詩なんか読むより、生の自然や家族の方が良い、
自分はごく自然に普通に書いているのに、斜め読みするな、とも取れなくは無い。

が、でもそれでも矛盾します。
まあ、理屈で読むな、と言う事でしょうかね。
読んだ事が無いので(スイミーはあの人の作品でしたっけ?)
いまいち意図が見えにくいのですが、即物的解釈で考えて見ました。
 

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