批評しましょ[142]
2004 08/20 01:26
山田せばすちゃん

>>140
うわぁ、えらいところにまで落とされてるぞ、イシハタ氏(笑)
男は君のこと一人前の人間だと思ってなくって「物神」「人形」として「しか」愛してないのに、それを愛だと感じたいほど絶望的に愛されたいのか、と来たもんだ(笑)それってほとんど中島みゆき「捨てるほどの愛でいいから」じゃん(苦笑)

「足を洗う」という行為の解釈の多様性といってしまえばそれまでだろうが、俺はイシハタ氏の足を洗ったことはないけれど、うちの愛人ちゃんとお風呂に入って、愛人ちゃんの足を洗うことはあるよ。うちの愛人ちゃんも俺の足洗うの好きみたいだし。んでもって俺たちはそういう時にはそれこそこの詩のようにボディソープの泡を丁寧に立てて足の指の間まで丹念に洗ったり洗われたりしてるんだけれど、そこに石川氏の言うような「フェティッシュ」=「物神化」みたいな感覚は少なくとも俺にはないな。もちろんキリストが弟子の足を洗ったり、マグダラのマリアがキリストの足を洗ったりという聖書の出来事をもじっているほどに、俺たちはクリスチャンでもなんでもないのだけれど。やはりそこにあるのは「いとおしさ」という感覚で、俺は自身のその「いとおしい」感情をこの詩に呼び起こされながら読んでいて、
なかなかお互い時間が取れなくってそれこそ
>二ヶ月ぶりに会って
>しばらく動けなくなるくらいのセックスをした
なんていう冒頭フレーズなんて、泣くほど身につまされちゃったりしているのだけどね。
(今月末に会うのよー、なんて俺の近況はこの際どうでもいいけれど)

で、だ。
この詩に出てくる「あなた」と「私」が俺と愛人ちゃんの関係に準じているのかどうかはアレなんだけれども、あくまでも俺はその線で読み込んじゃってるので、どうしても最終連が邪魔なのだ。ごめんね、愛人ちゃん、一緒に歩くのは君と一緒にいるわずかな時間だけなのよ、それ以外の時間って俺は夏休みの宿題を見てやって、工作なんか半分以上俺が作っちゃうような三児の父だし、お布団干し組み立てて頂戴といわれたら二つ返事で庭に出て夏の日差しの下でステンレスパイプ製の布団干しを汗だくになって組み立ててる夫だし、そういうの全部かなぐり捨ててきみと一緒に歩いていくわけにはいかないのだよ、もちろんきみだって、家に帰れば貞淑な人妻なんだろうしさ。ずっと一緒には歩けないから、今こうやって一緒にいられるときだけは互いのいとおしさで精一杯愛し合う二人でいようね、なんて、そろそろ誰に向かってなに書いてんだかあやしくなってきちゃったぞ、おい(笑)

石川氏も川元氏もそれぞれがそれぞれの理由で、この最終連に引っかかっているみたいだけれど、それってつまりはこの最終連がそれまでの一連の詩の構造から突出してしまっているってことの証明だと、俺は思う。一連の構造があるからこそ、読者はそれぞれの解釈を一連のものとして成立させている=それぞれの充填したい内実を作品の空隙に充填していくのだろうけれど、どうしてもみんな最終連でひっかかってる=一連の内実をそこに充填できていないってことは、この最終連がそれまでの一連のこの詩の構造とは違うってことなのじゃないかな?
俺は、だから、あえてこの最終連は不要だ、なんて思い切ってしまいたいところではあるのだけれど。
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