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批評しましょ (創作系)スレッドオペレーター:白糸雅樹
 えっと、ひとの批評に対して、別の読みを書きたくても、スレッドタイプで書きこめる場所、あまりねーなー、感想スレで議論しづらいなー、と思ったのでスレッド立てました。議論OK。よっぽどの誹謗中傷でない限り、削除はしません。晒しもんにしますので注意してください。「未詩・独白」および他のスレッド会議室の発言で、作者が批評を期待していない発言への批評はなるべくご遠慮ください。
 一つの読みに対して、他の多くの異論が交わされることを願って。。。。。。
 評を書く際は、該当発言(または作品)のURLを明記してください。

[338]一番絞り[2004 11/22 00:30]
>>337

おまえよ、おれにもう関わるなよ、ほんと。もううんざりだ。
おまえ、あたま悪すぎるよ。ほんと。
おまえなんか相手にしているとこっちまでおかしく思われる。
とにかく今後は一切、返事したくないからね。おたくには。
 

[336]一番絞り[2004 11/22 00:20]
>>335

あいかわらずわけのわからんことを言ってるね。
もう、おたく、おれに関わるなよ。

有井さんの詩の批評、発言の批評があなたの詩の批評に関わって
出てきてなにがおかしいの?
いったいぜんたい他人の批評の仕方のどこをどう制限したいの?
おまえ、ほんとうのバカか?

たとえばさ、わたしの詩が「立派な詩」だというのなら
「どこがどのように」そう思うのかはっきり指摘すること。
それが最低限の礼儀だろう。
田代さんでもわたしに言われる前にさ、
どうして有井さんの名前をだすことがいけないか論理的に説明する
そういう努力ひとつせず、つっかかてくる。
いまのおたくもそうだ。
ひとの詩が「立派」だのどうの、
それこそ乞食に銭を投げ入れるみたいに簡単にいってのける。
おい、ふざけるなよ。
おまえのクソみたいな詩を評するにもそれなりの時間と精力を
費やしたうえでおれは言ってるんだ。
そういう努力も吟味もしないで、なにをとぼけたこと言ってるんだ。

てめえ、二度とおれに関わるな!
こっちが汚れるわい。
 

[334]一番絞り[2004 11/21 20:34]
>>323

>そういう堅い話を抜きにして、>>322 をあなたの自由な言論活動と読んだうえで、ひとつ指摘したいことがあります。
>つまり詩についての真面目で対等な議論として。
>それは「と言う一日だった」と言う言葉を私の詩につけてもそのテクストは日記にはならない、
>という事です。あなたの詩につければ日記になるけど。

ボルカさんはなにか誤解されてますよ。
わたしはあなたの「車」という詩をとても面白く思っているんです。
詩の評価としてはそれほどではありませんが、
あの詩のおかげで、とくにオノマトペ(擬声語)について考えさせられました。
例の「ぶーっと走る」というやつです。
そのためにかなりの詩論や言語論、脳科学の先端理論を読み込みました。そのために一ヶ月も
掲示板への書き込みができないくらいに集中しました。
おかげでひとつ詩のたまごも書きました。(今日投稿した「ちんちん」)
これはすべてオノマトペで書いています。一度読んでみてください。
そういうったことを、これから詩論の続きのなかでふれようと思っていた矢先だったんです。
その矢先にヘンないちゃもんがついた。で、話の腰穂を折られた。

面白いデーターがありまして、(これは何も上から教えを説いているのではないですよ)
オノマトペというのは頭の発達には非常に有効だと。
左右の側頭葉が「ぶーぶー」だとか「わんわん」だとかいうオノマトペを聞いたときに活発に働くのだそうです。
これは擬態語ですから、比ゆと動物や車の音声の両方の意味を含んでいる。
だからそのどちらであるかを聞き分けようとしてたくさんの脳細胞が働くそうです。
ひょっとしたら人間のもっとも最初に語った言葉はオノマトペだったかもしれない。
孤独な原始人はオノマトペでなにかを語っていたかも。
そう思って今日投稿した詩を書きました。
ほかにもね、あなたのあの詩を批評するためにたくさんの本を読んでとても収穫を得ました。
たとえば「詩の短さ」の問題。
どこまで詩は短くてもいいのか、というアホのような問題提起ですが
そのために秋山基夫の『詩行論』から山田美沙なんかの近代の定型論の論文へとわけいりました。
ここでもかなりの収穫がありました。
せっかく、ゆっくり本論を展開していこうと思っていたのに、とても残念です。
ちょっといやになった。もうやめます。
いやになったけど、あなたの詩に感謝していることはまちがいありません。
 

[333]一番絞り[2004 11/21 20:14]
>>330
佐々さん、教えてくれてありがとうございます。
その点に関してはわたしに誤解があったかもしれない。
謝ります。

が、それはわたしが問題にしていることでいえば枝葉のことです。
わたしの指摘している問題の要旨ではありません。
この板の管理人である片野さんの「とるに足らない者」への蔑み、差別、不公平発言を
問題にしているのですよ。
それをパッパラパーなアホが茶化す。冗談ではない。こちらは真面目にいかっているのだぁー。
なーにが「明快に批判してくれるわよ」だ。
明快に批判するのなら何も問題はないのだ。てめーの個人的好悪、嗜好、差別意識を管理人であることを利用してだな
投稿者につきつけているじゃないか。あるいは陰湿ないやがらせを容認しているではないか。
いったいわたしのぶんしょうのどこを読んでいるのだぁー、といかっているのですよ。
うん? アホリーナさんよ。
 

[332]佐々宝砂[2004 11/21 15:39]
「詩の定義」に関する私の意見として、URLを示しておきます。

「詩の境界線」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=5738

今年の一月時点で更新が滞っていますが、現時点で考えはまだそれほど変わりません。
つーか考えるヒマがあんまりないのです。
 

[331]一番絞り[2004 11/21 15:21]
>>323

ボルカさん、ちょっと冷静に考えてみると、いかにわたしがあなたのことを
頭からバカにして書いてないと言い張っても、現にあなたがそう感じている
ことは事実ですから、わたしはなんらかの態度の変更を迫られるとおもいます。
で、どうすればいいでしょう?
わたしにはその気持ち(上から見下したアドバイス)がなくても、わたしが書くとそう感じる
あなたがいる以上、わたしはこの掲示板に書き込むのをやめればいいのでしょうか?
あるいはこのフォーラムを退会すればいいのでしょうか?
 

[330]佐々宝砂[2004 11/21 14:07]ピッピ
同じ文章を違う板にコピペするのは、その文章がいかなるものであれ、あまりよろしくないことではないかと思われます。マルチペーストと呼ばれてネチケットに反します(どうでもいいけど私個人は「ネチケット」という言葉が嫌いです)。

で、同一人物が続けて投稿すると、その板はトップにあがりません。誰が投稿しても同じ仕組みです。それから、sageと入力すると、その板はトップにあがりません。なのでこの発言を投稿してもこの板はトップにあがりません。批判はよろしいかと思いますが、サイトの仕組みはきちんと覚えておくべきでしょう。

sage
 

[329]一番絞り[2004 11/21 13:15]
何度も言う。
ここの管理人は「とるに足らないもの」への差別、偏見、侮蔑に満ちている。
そのことを具体的事実をもとに取り上げている。
しかるにそのことに目をつむってきみたちは一体何をつまらん言いがかり
ばかりつけてくるのかね?
目に見える口の悪さより、慇懃な冷笑、粉飾された罵倒の構造こそ
ことばに親しむものの嫌悪すべきものではないのか!
恥を知れ!
 

[328]一番絞り[2004 11/21 11:25]
>>327

はいはい。

あ、そうだ、例によって評論コーナーにお宅の文章、移したらどうですか?
ついでに。

このコーナーはわたしが書き込んでもトップに移動しない差別的なコーナーでね。(笑)
しかし、アホみたいないちゃもんは、すぐにトップに移動する。

感心して見ているんだけどね、自称詩人のそういう芸当を。
 

[327]田代深子[2004 11/21 10:12]
>325
これはこれは当方の不見識たいへん失礼いたしました
有井さんに関わる批評の途上とは まったくもって 気づきませんでしたので
理解力のなさも甚だしいものですねぇ お恥ずかしい限りでございます
当方が傲慢にも差し出口をいたしましたのは
当方も有井ファンでございまして あの方のお名前が出てくると神経質になってしまい
現在このフォーラムに1編も作品を置いておられない有井氏の発言について
まるで さも 俺は完全に理解している と ゆーよーな
固有名詞とそれに伴うイメージの私物化 を感じてしまったわけです
ええ 当方の不見識により
いやいや ほんとうに失礼いたしました
ふかぶかと陳謝いたしまして 差し出口の始末とさせていただきます
重ねて申し訳ございませんでした
 

[326]一番絞り[2004 11/21 07:11]
>私にはあなたの「上からの」アドバイスは不用です。

また、おかしなことを言ってるね。
わたしの文章のどこが「上からのアドバイス」と受け取ったのか指摘してください。
話はそれからです。
 

[325]一番絞り[2004 11/21 07:07]
>324]田代深子[2004 11/21 01:56] 
>>一番絞りさん
>どのような意味合いがあるのかはわかりませんが
>ことあるごとに有井さんのお名前を引き合いに出すのはどうかと思われます

それはどう意味でしょうか?
わたしは目下、有井さんの詩も発言も批評の途上にあります。
わたしは彼女のファンですからね。
そして作者─作品─読者(わたし)という直線的ラインで評するのがわたしの
批評の仕方です。
テクストなんていう概念はわたしにはない。
それにあなたの口の挟み方は失礼ですよ。
わたしは方法としてことあるごとに作者「有井」さんを出さなきゃ批評にならないから
だしているわけだけども、
それがいけないなら、その理由を添付してこれこれだからいけないと言うべきでしょう。
自分の思うことは
相手も思って当然だという傲慢さには
あきれかえりますね。
これはアメリカなんかがタリバンの文化を野蛮としてアフガンを爆撃した感性と同じだ。
そもそもお宅の批評にたとえばわたしが
いかにも大学出たての修辞的な批評の仕方が鼻につくから「やめろ」といったら
お宅どーすんの?
おたくは「どう? わたしって批評うまいでしょ」と悦に入っているかもしれないけどね。
そういう失礼なことをおたくは平気でわたしに言ってるわけだよ。
ったく。
どこぞの口うるさいばあさんみたく横から余計なお世話だ。

有井さんが注文をつけられるならやめますがね。、
 

[324]田代深子[2004 11/21 01:56]佐々宝砂
>一番絞りさん
どのような意味合いがあるのかはわかりませんが
ことあるごとに有井さんのお名前を引き合いに出すのはどうかと思われます
 

[322]一番絞り[2004 11/16 21:59]
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=4402



4つタイヤがあって

ぶうっと、
走る


これはボルカさんの作品です。
ボルカさんがこのフォーラムに投稿されたさいしょの詩です。
べつにこれといってどーってこともない、衒いも気取りもない詩です。
読んでおもしろいかと問われれば、
うーん、....
わたしが鈍いせいかもしれませんが
とくにおもいきり感嘆するほどの詩ではない、でしょう。
ただ、この作品は、わたしにとって「いいところ」が、ふたつばかりあります。
それは「短い」ことと、「わかりやすい」ことです。
ごかいしないでもらいたいのですが、わたしが「わかりやすい」というのは
表面上書かれてある事がらを
字面とおり理解するのにそれほど苦労しないですむというていどの意味です。
でも、短くてわかりやすいのに、この詩を批評するとなると、とても難しいものを感じてしまう。
どうしてだろう。
たぶん、作者がある作品を「詩」として押し出すことのなかに、その難しさのみなもとがあるのではないか。
と、わたしはにらんでいます。(にらむほどのことではないですが)
たとえばどこにでもある道路の標識をもってきて、フォーラムに発表してもいいのです。
「題名:標識/作者:一番絞り/内容:横断注意」。
道を歩いていて「横断注意」という垂れ幕なり標識なりをみても、それを「詩」ではないと断定するのはたやすい。
(いや、ちがうな。まれに詩人はそれを「詩」と感じるかもしれない。それは一応棚上げということで)
しかし、フォーラムに発表された、たった一行の「横断注意」という作品を「それは詩でない」と決定するのは
なかなか骨の折れることだ。
まずもって作者によって「選択」が行われ、発表するという「決断」が行われている。
そして発表された「場」が時代の最先端をゆく「現代詩フォーラム」であるとすると....。
ひとこと。「あ」でも、やはり現代詩ではないか? ということになる。
あ、こんなことを言っていると、おまえは、なにをごちゃごちゃいうとんのやと叱られるかもしれないな。
そんなたわごとをいうてるひまがあったら、さっさと詩を吟味せんかいと。
「テクスト」を解読せんかいと。
このさいはっきりいっておくけど、わたしは「テクスト」なんていうコトバは決して知らないのです。
いまのところ決して知る必要にも、せまられていないようなんです。
「シニフェ」だの「シニファン」だの「エクリチュール」にも興味なし。
わたしはあくまでも詩の作者と詩作品と詩の読者(わたし)を直線でつないだ批評しかしたくないし、それ以外のやりかたは
いまのところわたしには考えられていませんのです。ご容赦。
で、なにをくどくどしゃべっているのかというと、じつは有井泉さんが詩について、こういうものは詩とは認めませんという発言をした。

《詩の最終行に「と思う今日この頃でった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。》>>163

この発言に、少なからずはんぱつがあった。
>別に詩である、と他者に認められようが認められまいが
>いっさい気にする必要はないと思います。
というような怒りの声もかえってきた。また、
>誤解を受けやすい言い方をしているとは思いますが、
>これが詩でこれが詩じゃないと区分して非難するのが発言の本意ではなく、
>詩の言葉、というものをもっと大切に扱いましょうという、提言であると、
>俺自身は把握してます。
と有井発言をフォローすることばもあった。

しかし、果たして、そうだろうか?
「題名:標識/作者:一番絞り/内容:横断注意」。
という詩がべつに他人に認められようが認められまいがいっさい気にする必要はないのだろうか。
詩でないとか詩であるとかいう区分はないのだろうか。
わたしたちが詩を書くとき、素朴に「詩とは何か」なんてことを考えていないのだろうか?
いや、そもそも「詩」を書こうとして「机にむかう」ときにすでにしてそれは考えられているからわたしたちは
「詩」を書けるのじゃなかろうか?
詩を書く行為のなかに、すでにして「詩とは何か」があるはずだ。
べつのことばでいえば「詩でないものとは何か」が必ずあるはずだ。


(ビールの酔いがまわってきたので、《つづく》)

だから、みなそれぞれ「おれは詩ってものをこう考える」
「あなたはそういうものを詩とおもわないけど、おえはこういうものを詩とは思わない」
そいう議論になればよかったのだろう。
ところが「なんでも本人が詩といえば詩なんだ」みたいな感情的なところに走った。
冗談ではないでしょう。
なんでも詩だと言えば詩なら、詩はそこで水溜りのように死んでしまいますよ。
成長も発展もない。べつに成長も発展もなくてもいいけど、詩の新鮮さというものは確実になくなる。
有井さんはあえて、勇気を出して詩でないものに言及した。それは大事なことです。
 

[321]一番絞り[2004 11/13 00:42]
詩の批評といっても、直感批評だけに頼ってきた。
で、ここは一発、改心して、それに接するのが死ぬほど気持ち悪かった、テ...ああいやだ「てクスト批評論」ってものに
生まれて初めてあたってみた。読んでみた。
なんかねー、どうみてもお百姓さんが革靴をはいて歩いているようなちぐはぐさだね。だれかが
「テクスト」とか、なんだっけ「エクチュエール」?とかいうたびに、正直、お尻がむずがゆくって
うへーっとしていた。もう、なんていうか、西洋かぶれの田舎者って感じでね、おすぎとピー子の世界じゃない。
「まあ、おたくデリダで攻めてるの。でもね、少しフーコをまぜてみたら?」
「あら、バルトをちょっと拝借しているの、わからない? いやだわ」

さて、詩の批評のためにずいぶん本を読んだが、結局、いままでの「批評」ってのがなんとつまらないか
なんとつまらない批評をしてきたか、骨のずいまで思い知らされた。
なーにが「作者の死」だ。
なーにが、テクストだ。
原点に帰ります。原点でものを考えます。
とにかく作者、大いに結構。作者に還元しても結構。しなくても結構。
出てきても結構。でなくても結構。「作者」なんてところに批評の重点は、ない。
「読者」なんてところにも、ない。もともとなかった。わたしには。
迷う必要はなかったんだ。
 

[320]一番絞り[2004 10/15 14:48]
みなさま、近日中に詩の批評再開します。
予定ではボルカさんの詩を材料にして「短い詩」とは何なのか?
詩の長さ、短さ、その意味するところのものを、書きながら即興で考えていきたいと思っています。
あ、それから★は結構ですよ、またしても異常なストーカーから五月蝿くつきまとわれるでしょうから。
読み流してください。では、乞うご期待。
 

[318]一番絞り[2004 09/29 12:08]
[316]ボルカ
>私の言うべきことはすでに言ったし、私へのあなたの意見は、<私のことはあなたの
>念頭にはなかった>ということも含めて、それできちんと示されたわけです。
>これ以上、距離を縮める為の作業(=議論)はいらないと私は思います。

なにを仰ってるんですか、ボルカさん。
わたしが漫談形式の批評を書くにあたって「あなたのことは念頭になかった」というのは当たり前であって
特定個人への人格攻撃が問題意識としてあったわけじゃないからです。
それにしても、
あなたは最後までわたしの提起した問題に付き合う気はなかったわけですよ。
わかりませんか?
そもそもわたしの提起した問題意識を共有できないのであれば、それをめぐっての批判的なやりとりはできないはずです。
語られたことを批判するには、内容を読み取る必要があり、それにはその文章が何を問題にしているのかということを
太いラインで読み込む姿勢が必要ですしね。
だがあなたはわたしの問題意識を共有し、それをめぐってわたしに批判的に対応するという気はなかった。
レスを読む限り
わたしという腹立たしい存在への嫌悪感だけだったということを、あなたはここで公に公表された。
ボルカさん。あなたや石川さんのやり口を見ていると、わたしの提起した「内閉」というコトバの意味が
具体的・現実的好サンプルとしてわかってくるのですよ。
あなたがたが「内閉」のいい見本です。
少しは自分自身を外から見て、いったいどんなことを書き込んだか、自分の文章をよく吟味してみてください。
他者の目で。

ところで、あなたがどうしてそうしつこく「人格攻撃」に終始されたのか。
これは、わたしも一緒に考えてみる値打ちがあると思っています。
ひとつ想像できるのは、ぜんぜん正反対の言い草になりますが、あなたがわたしの問題提起を
真正面から受け取っていたのかもしれない、とも思えるのです。
わたしの一連の書き込みから、
「おまえはダメだ」とわたしから宣告されたと思い込んだのではないか。
もしそうならばあなたの内閉的な空回りの情念にわたしも責任があることになります。
しかし、いままでのあなたの文章を読んだ限りでは、いまのところ、[やはりダメだ]
と思います。悪いですけどウソはつけません。
ただね、ほとんどのひとは「ダメ」だといわれても平気なんです。ましてわたしごときに言われてもね。
しかし、どうしてあなたの場合はそこまで気になるのか。ほとんど憎しみに近い感情を抱き、
できればこのサイトから追放したいくらいに嫌悪感を抱いているとしか思えない偏執。
その理由はわたしにはわたしなりにわかっているつもりですが、ここでは言いかねます。
それこそ吉本の『ボケ異論』じゃなかった『母型論』でも読んでみると面白いでしょう。
偏執的妄想や憎しみの起源をとてもわかりやすく説得的に解き明かしています。
そういう意味で、吉本はまだまだ自分のことばで語っている日本では数えるほどしかいない思想家の一人であることは
間違いないでしょう。

ご自分を外に立たせて、少しは内省してみてはいかがでしょうか。
 

[315]一番絞り[2004 09/28 19:58]
ボルカさん、わたしにあの「対談」もどきを書かせたモチーフは
世界中で大量虐殺の犠牲になっているこどもたちへの同情と、そのようなところへこどもたちを
追いやったもの(わたしも含め)への怒りですよ。
それはいったい何なのか、あなた、考えたことありますか?
あるのならそれを聞かせてください。
ないのなら、それを考えている人のことばにできるだけ真摯に耳を澄ますことです。
どういうわけかあなたは前回のいざこざを持ち出してきましたがあなたのことはまるで念頭にありませんよ。
とにかく外のことを考えてないのならよく考えてください。
岩成という詩人だって自分のことをいっているのではないこともわかってくるでしょう。


石川さん、わたしが漫談で槍玉にあげていた内部(健全さ)と外部(極悪)の構造というのはね、
ふつうに読めばその指弾する内容がだれにでもわかるものであって
あなたがいうような大衆社会批判なんてのんきなものではありませんよ。
>「ただ生きている人」への視点が見失われがちになり
ってあなたはいうけど、「ただ生きている人」ということを、わたしたちができなくしてしまったことに気がつきませんか?
「ただ生きている人」は素晴らしいですよ。それはとくに無辜なこどもがそうです。そういうものを
そのようにあるように、あーた何か考えましたか?
わたしたちの内閉性が、生物レベルでの生き様が、逆にそのようなものを奪ってしまった皮肉に言及しておいたはずです。
ふー子、いや違った、フーコだのオルテガ・イ・ガセットだのマルクスだのご大層な思想家の名前をいくら振り回しても考えたことにはなりません。
「ただ生きている人」を守ることにもなりません。あーた「他者のことば」を撒き散らしているだけじゃないの。
ここでも、よそでも。そんなことで、
あなたご自身の内閉性も国家的な世界の内閉性もびくともしないわけですから、できれば、あなたご自身のことばで語ってくださいな。
どんな難解な書物を読破しょうと、わたしが取り上げている問題とはあまり関係ないとおもいますよ。
むしろ小中学生のための政治入門とかね、『高校生のための実践演劇入門』(あ、これはこないだおれが読んだんだ)
とかのほうがよほどいいでしょう。
ちゃんと読んでくだされば、かなり突出した問題を提起しているわけで、自分のことば、自分の手、
自分の足でなければだれも手探りできない、そういう問題を提起しているつもりです。

*それから余談ですが、
わざわざ否定するのもおかしいんだけど、わたしはサーフィンとラグビーが趣味で、自閉どころか
、家にいるのが小さい頃から何より苦手ですよ。
読書も苦手。
自閉というか、『方丈記』の隠居のようなものには憧れているのですが、性格的にいまだできません。
わたしが自閉だなんてね、だれかが聞いたら、泡を吹いて転げまわるでしょうな。
 

[314]石川和広[2004 09/26 20:51]
>ですから僕も、谷川がお父さんの死に触発されて書いた詩集・「世間シラズ」は読んでいて、その深い自己批判の痛みを僕なりに受け取っています。

わかりました。私も、自分なりにこの間、まとめて考えたことを書いたわけで、世間批判の危険性に注意を促しつつ、もちろん、以前の文脈とは、重なるところもありますが、あえて、誤解を招きやすい「世間」という語彙の難しさを感じながら、市井、や大衆という言葉を使いました。オルテガを出したのもその為。

フーコーが、吉本の対談で言っていて、印象深かったのは、様々なイデオロギーに覆い隠されてしまった(ある種の反体制思想の犠牲者も含まれると思いますが、彼はマルクスだけではなくマルクス主義批判も行ったので)死者や、たくさんの人々の声が世界に響いて欲しいと願っていたところです。

夜の様々な爆音や、車の音の蔭に、そういう指弾したりするだけではない、様々な声が響いていると感じるのは、私の妄想でしょうか?失敗もしながら、たくさんの声を聴く、上手くいえないが、そのことも詩を豊かにすると考えます。sage
 

[311]石川和広[2004 09/26 10:22]エズミ
一番絞り氏の、308〜310に渡る労作拝読しました。

ずっと、書き込むのを迷っていました。
私は、辺見庸氏の三部作は、読んでないので…
だから、辺見さんの論点には、さしあたり一番絞りさんには、あなたなりの読み方があるだろうし、危機の表明だとして、読みます。私は、辺見さんのものを読んでない。ただ、「架空」という言葉を使っているので、独立した批評作品として、読んでみたいと思います。
>他の多くの異論が交わされることを願って。。。。。。

というのが、このサイトの趣旨でもあることですし

さて、私が注目したのは、辺見さんの見解は、それなりに、世界の現状を危惧していることが、伝わり、辺見さんをあまり、読んでいないものとしては、単純に勉強になりました。「座談会」には、そういうことをより広く発信したいという一番絞りさんの切実な思いがこもってると感じました。

ひとつ気になったのは、大衆社会批判と云っていいのだろうか、その扱い方のようなものです。
吉本が、ダイエーに関して、現地を見てもないのに、なにを云うとか、筑紫哲也も、震災の現地に行って、「まるで温泉場のようです」云々の発言をした時には、正直ふつうに、何云うてんのと腹立ちました。うちも兵庫ではないが、大分揺れたし、知り合いも兵庫の奴がいたからね。

だけど、それと、あなたの文に大衆が共犯関係に立っているというニュアンスがあり、もう少し、そのあたりを、丁寧に解かないと、一番絞りさんも、市井の人から、どんどん遊離して、危機を唱えて回る危険がありやなしやと、こうお節介ながらも思ったわけです。
どれだけ、あなたが、正当であるとしても、それが伝わらなくて、かなりきつくなりそうな予感がする。

というのはね、僕も、以前「世間」という言葉がでてきたりした時に、嫌な思いをしたですよ。ぼくは、世間でも、大衆でもない、まあ別に、純粋無垢でもない、ただのおっさんとか、にいさんがいて、巨大な資本主義社会にまぎれて、生きていて、この巨大な条件は
なかなか変わらないし、いまのところ、有効な代替システムも見つかってない。だから

>辺見庸がこの本で描いて見せた、いまの国家世界の有り様てのはとてもグロテスクなイメージだよね.外部に向かって毒針のようなものを伸ばし、さかんに小生物を攻撃して栄養を吸いとっている強固な殻があって、その中に、痛覚を麻痺された卵の黄身のように柔らかい液状の「健全なる」モノが、へその緒のように養分を補給されながらかろうじて息をしている。これがわたしたちなんだけど、そういうイメージなんだよ。もう、これだけでも鬱陶しいかぎりなんだけどね。

これは、わかるの、あんまり気持ちいいと思ってないしね、なんかドグマ的な教説を持ち出しても、かなり無効だよな。だから、そういう中で、特権的な位置があると思ってる人を見るとイライラするのもわからないではない。

しかし、少し忠言しときたいわけです。

?大衆社会批判は、ファシズムや、スターリニズム、アメリカの大量消費社会への、危機意識から、生まれたが、いうた人、例、オルテガ・イ・ガセットに見られるように、「たくう、大衆は馬鹿だ」という、それ自体、貴族主義的な位置に立ってしまい、大衆をただのかたまりや、危機意識のない馬鹿どもにしか、みられなくなり、「ただ生きている人」
への視点が見失われがちになり、それほど、批判相手と変わらない、硬直度合いを示してしまいがちなこと。でも、最後の方で、そういう危険を一番絞りさんが、きずきかけているから、僕の杞憂なのかなということ。
>(一) ぼくがこんな架空座談会を開いたのは、有井さんの「詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。」という言葉の意味をいまだに探っているからなんです。
(辺) しつこいね、きみも。

この突込みには、なにか健全なものと、自己破壊的なもの両方があるなと感じました。ぼくは、ここに傷ましい魂を読み、また、傷つきやすい魂は、ぼくもそうかはわからないが、「和やかな」自閉とは別の、荒れ狂う苛立ちの通じなさからくる頑なさを持つだろうと歴史から、「身の回り」から学びます。オルテガも誇り高き立派な学者でした。
全く、違う水準から、自閉症の人と三年ほど関わったときも、彼らが、感覚が過剰に鋭敏な余り混乱して、暴れたり、常同行動に走ったりすると、大変でした。もちろん一番絞りさんが自閉症だというのでなく、私は、彼らに人間の傷ましいヒリヒリした魂の極限形を
見たわけです。

私が大変感動するのは、かれらの意図せざるユーモアです。暴れているのを止めて、落ち着くように体の力を抜くように、肩を揉んだりさすったりしたら、一時間くらいで、寝ました。
ある方が、「人といるのがこころよい体験だということもあること、それを少しずつ感じること」これが、様々な世界に対する感覚の痛みを持つ最大の処方箋だというような話を読んだとき、ここから、世界のルールに出会う以前の、世をただ、遠ざけるのではなく、
参加し自分でせかいを変えていく手がかりを得ていくのかなと思いました。これは、自分に深く刺さって抜けない棘です。だから、他に実作を試みる方々も、一見歩みは遅くとも
世界に参加する、自分の感受の仕方でそうしようとしている方もいる予感がするので、「外」とか「今日この頃であった」は、「詩」ではない、とかは、それ自体理があると感じるけれども、この世界で起こってる事柄に果たして届いてるのかな、届いているとしたら、良かったけど、もう、そこから少しずつ書き始めようとしているのではないか、そういう予感を感じたりもするわけです。

?最後に、今の吉本は、というか、あの人の世界観はもう何かについて行けてない気がするけど、初期の吉本の「マチウ書試論」の関係の絶対性の提示は、一番絞りさんの、自閉からの突破という問題系と近いものを感じます。違ったらごめんなさい。
初期吉本は、張ったりも多く、花田清輝の倒し方も、花田のスターリニズム体質は許せないとしても、独自な批評家の良い部分まで、壊そうとした気がする、でも、先の大戦で、何が市井の人を戦争に動員させたのか、そして、何故、高村光太郎も含め、急に手のひらを変え反省したのか、これらの知識人の変節の時代迎合振りを問うたのも吉本でした。
そういう吉本もあるし、今の弛緩した吉本は、なんなのか大いに問題なので、そこは、なかなか、知らせてくれてありがとうという感でした。

ちなみに、エリアンの手記は好きです。

長文失敬!
 

[310]一番絞り[2004 09/24 14:57]川村 透
辺見庸 抗暴三部作(『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論』)
【読後架空批評座談会】3

(一) えーと、最後になりましたが、この三部作で辺見庸が問題としていた現在の文学状況ですね。コトバの在り様といいますか。こんな状況でコトバは可能性なのかというか。そのへんですが。

(辺) 辺見庸がこの本で描いて見せた、いまの国家世界の有り様てのはとてもグロテスクなイメージだよね。
外部に向かって毒針のようなものを伸ばし、さかんに小生物を攻撃して栄養を吸いとっている強固な殻があって、その中に、痛覚を麻痺された卵の黄身のように柔らかい液状の「健全なる」モノが、へその緒のように養分を補給されながらかろうじて息をしている。これがわたしたちなんだけど、
そういうイメージなんだよ。もう、これだけでも鬱陶しいかぎりなんだけどね。
この卵の黄身のようにふわふわしたもの、辺見の言い方を借りるなら「透明なぼうふら」のどこまでも内に向かった意識はね、「半径十メートルほどの 生活圏における精神の自閉を綴った」コトバばかり吐き出している。
たしかに詩と現実世界とは何の関係もないけどさ、
どんなものにでも影はあるのだよ。、その影を見ようとしないで、つまり外部に向かって黒々と伸びた己の影を見ないで、「健全」で「和やか」で「無垢」なものをどこまでも自閉的にもとめているわけだよ。
影の無い透明なぼうふらの世界が、いま文学をやっているヒトの世界状況だよ。
どうしても自分たちを包んでいる邪悪な殻を正視できないでいる。あるいは正視できないように痛覚を麻痺させられている。
それはもう、文学の作り手だけじゃなくて、ちょっとビデオレンタル屋に言ってみれば、ここ三、四年の日本映画新作の気の抜けそうなヒューマン自閉映画のラッシュをみれば、もうほんとうに、甘い甘い砂糖漬けという感じで、こんなことでこいつら大丈夫かと思ってしまう。大丈夫じゃなくてほとんど脳みそのないロボットなんだけど、そういう状況なんだよ。

(一) ぼくがこんな架空座談会を開いたのは、有井さんの「詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。」という言葉の意味をいまだに探っているからなんです。

(辺) しつこいね、きみも。

(一) 受験システムでならされた精神というのは即効性のある答えを求めるのでしょうが、ぼくは、わからないならわからないでいつまでも池の周りを会得行くまで回っていたいのです。何年かかろうともね。そういう意味ではまだ例の「一房の乳房を」の批評途中でもあるんです。これもその一環です。十年後にまだここがあれば、急に続きをやりだすかもしれませんよ、ぼくは。

(辺) おれは詩は皆目なんだけど、なんかこの、内側にばかり向いたコトバ、こういうところから抜け出ていこうという気配はいまのところ、まるで感じられないね。逆に、どんどん自閉していっているような気がする。

(一)岩成達也という人が、こんなことを言っているそうです。
 -詩作品めいたものを書く人はいまでも数多いが、 「詩人」 に巡り会うのはいまやかなり希有のことになりつつある。詩作品を書く人と詩人との差──それは最近私が気づいた言い方で言うなら、前者が世界内でただ言葉を転がしているのに対して、後者は世界の外に身をさらして 「他者」 という烈風に八つ裂きにされている。-

(辺) なるほどね、きみにはとても励みになることばだよね。

(一) 今日はありがとうございました。
 

[309]一番絞り[2004 09/24 11:04]川村 透
辺見庸 抗暴三部作(『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論』)
【読後架空批評座談会】2

(一)(308のつづき)...こんなことをいうと「お前は善良な人々が頭から川に飛び込むようなことを望んでいるのか!」と、尊敬する詩人からきついお叱りをうけましたがね、違うんです。
ぼくは今回のロシア小学校襲撃事件にはもうほんとうに腹が立ってるんです。いままで黙ってたけど、こんなことは金輪際やめさせなきゃならないと。そのためには、鍋の底を逆さにぶちまけてね、それこそほんとうのことを、洗いざらいぶちまけなくちゃと思うんです。それで世界が凍ろうが、世界の底が抜けようが知ったことじゃない。
9.11事件のときもそうですよ。キャンドル持って死者の追悼なんかしてる場合じゃないだろうってんです、ぼくは。
お前ら、こんなこと、ほんとうに二度と繰り返したくないのかよ、それならどうしてまずブッシュに怒りをぶっつけないのか? どうして自分たちの国が外国で行っている有様の全貌を知ろうとしないのか? どうして「なぜ」の一言がでてこないのか? キャンドルで追悼なんていう情緒的なパフォーマンスってのは、結局、殺戮の再生産のための儀式にしかなってないんだよって。ほんとうは、それって、また、人を殺す思想的態度だよ、って。
...それがわからないんだな。
どうしてこうも人間てのは、類としては爬虫類以下の脳みそになってしまったのか。

(辺) まあ、おさえて、おさえて。(笑)
    気持ちはわかるがね、ま、落ち着きなさい。...シュポッ!o*-(ー.ー) ¨_)y-~~~プカプカ〜...きみが冒頭に引用した吉本のことばだけど、あれは吉本が太宰治の『黄金風景』という小説について論じた一節なんだよね。季刊『リテレール』の1993年夏号所載ってことになっている。
「もともと人間の大部分の振る舞いは、善でもなければ悪でもないことから出来上がっている。だから大部分の人たちは、自分を善でもなければ悪でもない存在だとみなすことで、健常さを維持している」と。
で、吉本はそう語った後、太宰の倫理観を取り上げて、太宰は「人間は善でなければ悪であるしかほかならない存在」のように思い込んでいたと書き、吉本はそんな太宰が「倫理に敏感になっていた」といっている、と。
うーん。人間じゃなくて生物一般だったらね、そりゃたしかに悪も善もないよ。非善・非悪だよ。そりゃ当たり前だ。強い猫が弱いネズミを殺して食うのは自然の摂理さ。だけど人間だから善悪の意識が働くのであってね、いまわれわれの政府やわれわれの政府が支援している国のやっていることを吉本のいう非善・非悪としてわれわれが意識処理できるとすれば、それは犬や猫らの生物レベルの行いだわな。ヒト科ニンゲンのすることではない。
やっぱりそれぞれが、それぞれの善・悪をきちっと立てて、ものを言わなければもうどうしょうもない時代なんだよね。非善・非悪なんて都合のいい場所はもうないんだよって。
こういう言い方に反発して、非善・非悪でも、それでもわたしたちは十分に人間なんだというのならね、アフガンやチベットやチェチェンやイラクやでの、大国の民族浄化殲滅戦略という非人間的な殺戮行為にたいして猛烈な抗議行動の渦が世界規模で自然発生的に沸き起こらなきゃ。
それがないということは、キャンドルで犠牲者の追悼なんていう、どうしょうもなく情緒的なふわふらムードしか起こらないのなら、これはもう人類が生物のレベルに堕ち込んだということにほかならないわけだ。

(一) 非常に不気味です。世界のこの静けさは。ただ、デモといってもね、それは自発的に、世界規模で湧き上がらなければ意味がない。でないとぼくなんかは喜べない。
主催者のあるデモなんて結局はいつのまにか党派性に溶解されてしまう。だからぼくは一人でデモをしょうと思ってね。プラカードを作ってゼッケンをシャツに張って、ある集会(浄土真宗僧侶の仏教研究会)に出かけていきました。大国の小国に対する大量虐殺に反対することをそれぞれ書き、一人一人が自分のことばを表明しょうと書いてね。ところが集会場でも坊主からは何の反応もないんです。まるで醒めているというかね。がっくりしました。病人扱いです。カスミに顔をつっこんでいるみたいな気分。ま、いまどきの坊主なんてのはまったくあてにするもんじゃないですが。

(辺) 辺見庸も三部作で小さなデモに参加したことを書いていたけど、あれは辺見がいけないんだ。焦燥感、無力感、脱落感、退屈さにさいなまれてがっかりして帰途についたということだけど、デモをやるんだったら一人でやらなけりゃね。それこそピエロだけど、いまはそういうことしかできないし、それがぼくたちメディアをもたない者の唯一の、ほんとうの政治行動なんだ。
ところが辺見庸は一人で銀座でも日比谷でもいいけど手製のプラカードをもって練り歩くことが恥ずかしくてできなかった。そりゃあダメだよ。後ろめたさにさいなまれるさ。

(一) キャスターの筑紫哲也批判がありましたね。

(辺) ああ。辺見庸はよく言ってくれたよ。筑紫のようなソフトなスターリン、ああいう手合いが一番いけない。人間性としてはブッシュやプーチンよりも恐ろしいね。 

(一) どうしてあんなのが進歩的文化人なのか。『週刊金曜日』みたいなのを好んで読んでいるような奴らが、もっとも卑しい人種だとぼくも思いますよ。その理由は面倒くさいのでここでは今回は展開しませんが。

(辺) いや、そんな断定だけではあまりにも乱暴だから、ちょっと付け加えておくとね、『週刊金曜日』的文化人の言説というのは「彼らのファッシズム」を攻撃する視座ばかりで、自分たちもその「彼ら」の一部であり、ゆえに辺見庸のいうところの「私のファシズム」を見つめる目が決定的に欠けているんだよ。
自分たちだけは「彼ら」とは違う特別の存在だと最初から決め付けている。自分たちの内部にもファシズムがあるとは夢にも思わない。自己批判がないという構造。これは、規模こそ違うけども、中国共産党やロシア恐怖政府やアメリカ狂人政権とまったく同じ構造なんだ。つまり、かれらの言説は「思索」ではなくて「党派的な闘争行為」なんだ。そんなところから深い洞察が生まれるわけでもあるまい。それどころか、自己正義の闘争に勝つためにはどんな論理のねじ曲げでもやりかねないし、自己欺瞞など屁とも思わなくなる。
そういう連中がうようよしている。そういうことです。

(一) それにしても、ことばを扱う特権にある立場の人たちが何も言えなくなっていますね。

(辺) いまの日本やアメリカで物を書いてメシを食うということは、それだけ大変なことになっているということだよね。文学だけじゃなくてジャーナリストだってね。ちょっと反体制的な、アメリカ批判的なことを書いたらもう病人扱い、すぐにとばされてメシが食えなくなる。
かと思うと、うまくできたもので抑圧を抱えている庶民のガス抜き専門文化人がいて、筑紫のようなね、けっこう体制を支えている。いくらなんでもこんなところに落ち込むぐらなら正規の御家人のほうがいいということで、もはや権力に対抗するような物書きは存在しなくなるという寸法だ。
(つづく)
 

[308]一番絞り[2004 09/23 13:07]川村 透
辺見庸 抗暴三部作(『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論』)
【読後架空批評座談会】
 出席者
辺見酔宇 せんせい(辺)
一番搾りくん(一)

(一) せんせい、今日は忙しいところ、ようこそおいでくださいました。
(辺) うん、そりゃいいけどさ、どこなんだい? ここ?
(一) 現代詩フォーラムの『批評しましょ』掲示板です。
(辺) 現代詩か。(渋い顔をする)。ぼくは現代詩はからっきしだよ。
(一) 詩人というのはたしかに難解な文学理論をあやつるのは巧みですが党派性と政治性の違いもわからず、ごっちゃにしているような政治的見識の持ち主が多いもので。
ここはひとつ、せんせいの辛口発言で腐った脳みそを叩き直してやってください。
(辺) いやぁ、お宅、ハッキリいうね。
(一) ところで本論に入りますが、抗暴三部作。中心テーマというか、辺見庸がこれを書いたモチーフにもつながるかと思うのですけど、単なる政治的アジテーションでは当然なくて、けっきょく一つの文学的というか人間的というか、永遠のテーマに収斂してますよね。
(辺) うん、うん。
(一) 『抵抗論』にも『いま、抗暴のときに』にも引用されているのが詩人で評論家の吉本隆明の発言です。「もともと人間の大部分の振る舞いは、善でもなければ悪でもないことからできている」「だから大部分の人たちは、自分を善でもなければ悪でもない存在とみなすことで、健常さを維持している」。あいもかわらず吉本らしい、自分を棚にあげたというか、なんかいらいらするような発言なんですが、作者の辺見庸はここにこだわっている。つまり人間の究極的なテーマである善・悪の問題。
(辺) そこなんだよね。戦争とか暴力とかいった重い問題を取り上げる場合にね、吉本のそのような態度でいいのかって。善でも悪でもない人間意識の中間領域を設定して、それを健常とする精神はどこかおかしいと思うな。というか、もう通用する時代じゃないと思うんだよ。
(一) はい、はい。おっしゃることはとてもよくわかります。そこはとても大事なところですよね。もともとぼくがこの三部作を読む気になったのはロシアの北オセチア共和国
で起こった小学校襲撃事件なんです。居てもたってもいられない憤りと焦りが、過激にいまの状況を批判しているこの本を読ませました。
この本が執筆されたころにはまだこの事件は起こっていませんでしたが、どうしてわざわざロシアの外れにある小さな「平和」な町の、入学式という「和やかな」場所で「罪もない」子供たちが殺されなければならなかったか。
これは偶然ではありませんよね。
(辺) ああ、うん、うん。
(一) こうういうシチュエーションが現代史の必然によって、選ばれるべくして選ばれたんですね。
(辺)  うん、うん。あんな事件、考えたくもない。思考停止にしたいという人が多いんだけど、じつはそれがね、大きな意味を含んでいるんだよ。
(一) 吉本の言う「善・悪」の中間領域という意識、大国のほとんどの人たちはこの意識によって実際、健常に生活しているんでしょうけど、じつは「健常」でもなんでもなくて、とんでもない悪の本質と同値なんだぞということを知らしめる必要があった。
 ブッシュやプーチンやシャロンや江沢民や小泉、...いま気がつきましたが、どうして現在の大国の指導者ってこんなに貧相な顔してんですか(笑)
 こういう連中の為している悪、それこそ巨大な底知れぬ悪ですよね、それによって世界中に大量虐殺が蔓延しているわけですが、じつは、それに見合うだけの質的に凝縮した中間領域の「健常」なるもの、いや、「健常」といわれている「善でも悪でもない」ものが天びんの片方に分銅のようにぶらさがっているのですよ。
ただ、国家の巨大悪だけが暴走しているわけではない。二輪車なんです。国家悪と「健常さ」(平和、のどか、罪のない無垢さ)は。
だから、「何の罪もない」子供たちは、「襲われなければならなかった」。
(辺) たとえばチェチェンでもチベットでもイラクでもアフガンでもいいけど、大きな国の強大な軍事力によって、何万という人たちが生命やら財産やら身体の一部やらを失い、精神的にも八つ裂きにあっているちょうどそのときにね、その大きな国の中では、野球観戦するなごやかな親子がおり、デートを楽しむ恋人たちがおり、また、たとえばきみの読んだ辺見庸のような反体制的檄文を消費して反体制的憤懣をガス抜きして日常を支えている人たちも居る。
(一) あらら、これは一本とられました。たしかにそうですよね。辺見庸までが大きな国では「消費材」にすぎず、これを読んで反体制的な抗暴気分をガス抜きさせるのに役立っている。(笑)
(辺) 資本主義ってのはどこまでもしたたかだよ。
でもだな、米国でも日本でも良いが、この平和な、吉本のいう「健常」意識の支配する日常がそれを維持するために、それに見合うだけの殺戮(さつりく)を必要としていることも事実だと思うんだ。とんでもないカラクリであり、システムだよ。人類はとうとう自らの手を汚さないで他者を殺戮し収奪することによって、それでも「健常」でいられる装置を作り上げたといえる。
それによって逆に、いまや世界中に「罪のない子ども」も「平和な村」も「善男善女」も居なくなったといってよいだろう。そういうコトバはとほうもないウソだ。ということを指摘することは、それこそ「世界を凍らせる」所業かもしれないけどね。
(一)「健常さ」だなんてね、吉本って人は、なんていうのかな、どーしょうもなくダメですね。
わたしはあの人、まったく信用してないんです。阪神大震災のとき吉本は「ダイエー」を持ち上げましたよね。唯一、店を開いていて被災者を援けた、なんて。出鱈目もいいところです。わたしは震災の直後、大阪から神戸まで歩いていったんです。たしかに、もぬけの殻のなかでダイエーだけは店を開いてました。たいしたものだと思いました。しかし翌日、買い物に行ってみると、買えないのです。特定の金持ちしか。たった一晩で会員制になってしまい一般の人、会員になるための金のない人はシャットアウトでした。そういう現実をね、何も知らないで勝手なことを言っている、そういうところがとても嫌です。文学理論には素晴らしいものがあるんですけど、政治的状況的な発言は幼稚そのものです。
(辺) あはは。小沢一郎を持ち上げたりね、ま、自由だけど。(笑)
(一) だから詩人って奴らの政治意識はダメだっていったんです。
ま、それはともかく、9.11にしても「罪のない人々が」って言われましたよね。
でも、もはやアメリカに在住しているだけで、赤ん坊だろうが、外国人観光客だろうが、アメリカが大量虐殺している相手の国によって反抗を受け、殺されてもしようがないという責を負っていると考えるべきなんですよね。
「悪でも善でもない中間領域にいるんだ」なんていう詐欺はもう通用する時代ではないですよ。生まれたばかりの赤ん坊でもそこにいるだけで悪であり、罪になる時代に突入しているのだということですよね。
                              (つづく)
 

[307]白糸雅樹[2004 09/22 13:52]
>>304

 このスレッドの発言を「批評・散文・エッセイ」に移動することに問題はないと私は考えます。

 評をきっちり書けば長文になるというのはしばしば起こることなので、長文の発言だからといってスレッド会議室を遠慮する必要はありませんが、移動は自由だと思います。

 また、田代さんの今回の件とは違うことですが、やや関連するので書き添えておけば、スレッドに埋もれさせず長く自分の作品として残したい評なので批評散文カテゴリーに書いたけれども、他の人の評も聞いてみたいという場合は、批評散文カテゴリーに投稿し、そのurlとともにここに一言書き添えておくというスレッドの使い方もありだと思っています。
 

[306]田代深子[2004 09/22 07:07]
まことに勝手ながら、発言304はカテゴリー「批評・散文・エッセイ」に
単独で移動させていただきます。(これってありなのかなー?)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=20024&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5
を、ご参照ください。
ポイントを入れてくださった方、続けてくださった一番絞りさん、
申し訳ありません。
しかし一番絞りさんの発言は304がなくても成立するかと思います。
何卒ご容赦ください。
なにしろ304は長いんで......(笑)
もし問題があるようでしたら、ご指摘くださいませ。復帰させます。
 

[305]一番絞り[2004 09/21 09:17]
山田せばすちゃん『ハンバーグをめぐる冒険』について
 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=18777&from=listbytitle.php%3Fenctt%3D%25A5%25CF%25A5%25F3%25A5%25D0%25A1%25BC%25A5%25B0%25A4%25F2%25A4%25E1%25A4%25B0%25A4%25EB%25CB%25C1%25B8%25B1

 【ちょっぴし長い前座】
>詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。(有井いずみ)

このことばの意味をちょっと考えつづけていたのだけど、それはつまり
「事前」と「事後」の差ってことではなかろうか。
「事前」と「事後」って何か整形前と整形後、あるいはやせ薬の使用前と使用後っていう女性週刊誌巻末のあやしげな広告の文句みたいだけど
状況(権力や権威、体制といってもいいが)に飲み込まれる前と後の発話行為の違いってことではなかろうか。
つまり体制や権威や権力に立ち向かわないで(積極的にあるいは無意識あるいは消極的にであれ)飲み込まれてしまった後の
悲哀とか孤独とか不安を歌っている。
それは権威や権力のみならず〈恋愛〉でもいいし〈受験〉でも〈障害〉でも同じことだが。
そういう意味では現在、あまりにも「事後」の歌が多い。そういう歌には末尾に「と思う今日この頃であった」という一行が
不思議にぴったりとおさまるのだ。
たしか瀬尾育生が吉本隆明『母型論』の解説文で1960年末〜70年代にかけての時代状況をさし
「あたりを強迫的な命令形が埋め尽くしていた」と書いていたが、いまはそうじゃない。
あたりは「事後」の、「受動的な自発的命令形」で埋め尽くされているといってもよい。
「教育ひとつを考えても一切が反人間的な時間に組み込まれており、いわば他人を蹴落とす方法を研修する受験教育のシステムを軸にして
構成されている」(井上光晴)。そういう時代だ。
当然のことながら既成知識人によるウソと出鱈目な言説が吹き荒れている。
たとえば60年、70年アンポ闘争が「挫折」だったというウソ。この政治的に仕組まれた言説はまさにその後につづく若者たちの意気込みを
完璧に粉砕してしまったといえる。
実際、最近になって米国の元高官はテレビ・インタビューに答えて、あのアンポ闘争があったからベトナムへの協調介入を日本に要請できなかったと
吐露している。
ほんとうは、あの「アンポ闘争」は日本の軍国化を抑え、何万人もを人たちの命を救い、ベトナムの勝利につなげているのだ。
そういう闘争が無意味だという迷妄を垂れ流したのはだれか。責任の一端はことばを扱える立場の者にある。
その結果はどうであるか、いまの日本の際限なき出鱈目さを見れば一目瞭然だろう。

現代詩というものが、事が成り、終わった後の、状況への従属の悲哀や不安や違和を歌うのなら、それはやはり歌でしかない。
ぼくたちは事を始めなければならないし、事を成さねばならない。それが現代詩というコトバではないか。
うまくいえないけれど、有井さんの批判からそんなことを考えたな。

 【ちょっぴし短い本論】
さて、セバスちゃんさんの詩の批評の本論。
のっけからもう言っちゃおう、あーやだ。

何がやだといって、ファミリーレストランという現場自体がやだ。
それってまるで奴隷市場みたいなもんでさ、レストランで働かされているロボットのようなウエィトレスたちが
それぞれの用途にどれほどふさわしいかを語らされるように、ウエイトレスたちは自らのマニュアル言語について語っている/あるいは語らされているわけで、
それは資本主義効率化のための奴隷としてのファミレス・ウエィトレスたちには至極当たり前のことではあるのかもしれないけれど、
その「商品」としての美点であるそれぞれの属性、つまりはマニュアル言語だとかは、実は彼女たちが
生活のためにやむを得ずロボットとして自己を疎外しているのだという背後の苦痛にはごうも想像がいたらず、
ほんとうは己が身に備えていると信じている彼女たちの人間性とロボット言語を発話させられていることの相克に思いも寄せず、ときには性的な対象として
ときにはマニュアル言語を話すロボットとして、その虚構性をいちいちこの詩の語り手はさも得意げに突っ込んで見せているわけだ。
でも実はこのマニュアル言語を話す「ロボット」の持つ虚構性は、「ウエィトレスの姉ちゃん」たちが自らそう思い込んでいる、
あるいは自らを商品にしてしまうことでそう言わされている、というだけの問題ではなく、
それらの属性がウエィトレスにふさわしいとされている事自体にあるのだけれど、狂言回したる語り手の
体制にへこまされてしまった「事後」としてのオヤジが、ウエィトレスの複雑な分断された存在の点にまで思いが至ってないことは明白だったりするので
そこで俺はがっかりしちゃうんだよなあ。

【ちょっぴしのあとがき】
本論は山田せばすちゃんさんのチアーヌさんへの批評、その第一連目の文脈をそのまんま使わせてもらいました。
 

[303]一番絞り[2004 09/20 08:17]
いちおう、ここ、「批評しましょ」ってことになってるんだが。
 

[302]石川和広[2004 09/20 07:50]
>>300 チャオさん、どうも。

>ちなみに、石川さんが書いて、一助になったというのはほんとうに偶然だと思う。でも、偶然の半分は意志によって決められることなのだから、もちろん自慢すべきものだと思う。だから、山田さんの批評と石川さんの批評は第三者から見れば全く同一のものに過ぎないのです


たぶん、そうだと思います。ただ、ぼくの考えでは、批評は、作品や作者と時には、真剣勝負をしながら、お互いを高めあおうとしているとも、考えるので、山田さんと僕は、チャオさんの言うところの、同一に見える存在だと思う。作者からの反応は素直にうれしい


>単純に言葉への不信って感じたことありますか?

不信というか、どういうたらええか、どんな僕の言葉も、世界に対して無効とか、、単純に、本当に何を語って良いかわからない時期がしばらくあったりして。ちょっと、その時は、少し病的だったと思います。

今は、死んだ爺さんに、言うことはいわなあかんと言ってもらい、間違えてもいいし、でも妙なお節介も入り、思いは、少し語れるように、、とはいえ、自分の気持ちから、離れたりすることが、いつもいつもあるように思え、しゃべり過ぎたりそこいらは、考えなならんなと。

語りにくさを噛み締めるのは、誠実さです。そして、語る誠実さもあると思います、チャオさんの言うように。

追記、ちなみに拙いものかもしれないけど、僕も詩作を試みています。
 

[301]一番絞り[2004 09/20 06:36]
このところ、『批評しましょ』で取り上げられた二作品を振り返ってみると、いわゆる戯曲の中からモノローグだけを取り出したようなものだったように感じられる。
べつに詩なんだからどのような形式だろうとかまわない。
ただ、テーマがあって、ストーリがあって、モチーフがあるようなものを詩として書き込むなら、最低限そのような書き方について
しかるべき敬意というものを払ってもいいのじゃないかと思う。
散文だって斬れば血が流れるのだ。
そういう詩の場合、テーマ、モチーフ、ストーリーが同じであるという単調なものは賞味するには退屈なのである。
しかもそのうえ、この二作品、発話者のキャラクター(性格)とシチュエーション(場面の特性)が、作者を越え、勝手に動き出す気配さえないというていたらくだった。
何度もいうが散文だからってバカにしてはいけない。
標識やスローガンじゃあるまいし、
ことばを使って書かれたものは斬れば血が流れるべきだ。そういう詩を書いて欲しいものだ。
と、北村想『高校生のための実践劇作入門』を読みながら考えたのだけど、じゃあおまえはどうなんだ、とおのれを振り返れば情けない限りだ。
批評するひとをさして実作者のほうから「ひょーろん家」という揶揄の仕方がある。しかし、そうだろうか?
ちょっと早急に結論だけをいうけれど、
批評というのも作品=詩ではなかろうか。わたしの場合はまだまだ「もどき」だが、斬られれば血の流れ出るような詩や批評を書きたいものだと神様にお祈りする日々であります。
 

[300]チャオ[2004 09/20 01:53]
≫298
石川さん早速のお言葉ありがとうございます。
もしかしたら、石川さんはすごい才能がある人なのかもしれない、けど、ない人なのかもしれない。だから、きっと、勉強するんですよね。
評論家は嫌われるってのはちょっと言い過ぎかもしれないですが、でも、それは、少なくとも、あたらずとも遠からずです。たぶん。
ただ、僕が言いたいのは、評論家は創作が出来ない(簡単にという意味を込めて)人たちだと思うんですよ。もちろん例外的な人もいますけど。

単純に言葉への不信って感じたことありますか?
僕は、すごくあるんです。で、何で、僕の感じる思いは「愛」なんだろうとか「憎しみ」なんだろうって。まあ、普通に感じますよね。で、そこを乗り越える経験、もしくは、放棄してしまう人もいるだろうし、とにかく、今の現状がどうなのかってことが問題だとは思うんです。

才能があるってのはやっぱり、感性が鋭い分いろんな痛みを生じるとは思うんです。だからこそ、その痛みと富に言葉が生まれて、そこへ言葉への不信が消えていく。単純に考えればそんな感じだと思うんです。

でも、批評家は違う。彼らは才能がない。だが、彼らには、根気と、熱意がある。不信感を抱いたままの言葉の群れを、彼らは用いて、表現する行為を好んで選び、その言葉たちが、真実であるように示さなければいけなかったとき、やっぱり、個人的な感情は、極力排除してやろうと思うんです。

僕が好きな言葉なんですが、「文学のゼロ度地点」。そこへ、意識が向かうんです。ただの記号としての言葉、そこに、何らかの意味が入る。っていう作業。そうすることで、ようやく、彼らは、ことばを作り出していくのです。
(というよりも、言葉だけに限らず、その人自身もそんな感じだったりするとは思うんですが。)そうやって作り上げた言葉を、なぜ簡単に使うのか?それが批判ですよね。本当にそうだったのか考えてみた?っていいたくなって当然です。でも、それが僕には才能だと思う。

個飛べの意味を、自分の体ひとつで受け入れられるってのはすごい。それが出来ないから、やっぱり批評家は作品がなかなか出来ない。僕もそう。言葉への畏敬が強すぎて、引っ込み思案になってしまう。

そこが、物足りなさを感じたところだと思います。
はっきりいって、臆病な人間でも、何とか一歩を踏み出す意志はあるのです。気持ちが強い弱いは、才能の問題だと思う。気持ちの問題こそが決して敗れぬ問題でもある。
そうみていけば、僕には、山田さんのあのちゃかした言い方は嫌悪を覚えるが同時に、尊敬さえも抱く。

弱い犬ほどよくほえる。
だから、僕は、いつまでもほえ続けたいのです。強い犬と戦いたいけど、臆病な心が邪魔する。だから、強い犬をいらだたせようとしていっぱいほえる。

ちなみに、石川さんが書いて、一助になったというのはほんとうに偶然だと思う。でも、偶然の半分は意志によって決められることなのだから、もちろん自慢すべきものだと思う。だから、山田さんの批評と石川さんの批評は第三者から見れば全く同一のものに過ぎないのです。だけど、それらの行為はすべて、結果が判断してしまう。
僕は、それだけで世の中が動くのはいやだ。だから、どうしても、批評という形で言葉を発し続ける人たちに同情してしまう。

絶対に、感情論へ走りたいはずなのだから。だとしたら、結構、違う見方も出来るような気がする。
嫌な事スパって言う評論家だけじゃなく、とりあえず、命令する上司だったり、いうことの聞かない部下だったり。
 

[299]一番絞り[2004 09/19 17:58]
「チャームポイント全調査」(チアーヌ)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=19252&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D764

山田さんが、この詩をそれこそ「オヤジの心性・倫理」丸出しで、(でなければどうしてこの「上司」のオヤジ性=それもかなりステレオタイプの、を感受し反発憤慨できるのかわからない)批評されたわけですが
わたしはこのステレオタイプなオヤジの心性(ということはかなり観念的な、現実には、ほんとうには在り得ない=なんとなればいまどきの審査員(会社員)は、もっと仕事上のプレッシャーがあり、それぞれ必死で点検、審査に余念がないのだろうから)に「違和」をぶちまけるほどの感受性が欠けておりますので
主に作文技術面で気のついたところを取り上げてみたいと思います。

まず、『チャームポイント全調査』という表題。
これはあきらかに詩の内容・場面とはそぐわない表題です。
「全」というのはこの詩の広がりの範囲からみて大げさに思えますし
「調査」というのも合わないような気がする。
ここは「調査」というより「審査」でしょう。
「調査」という語感には、隠されたものを積極的に暴き出し、あらわにするという意味がありますが
「審査」は、自己申告されたものをそのまま受容し、その範囲で評価するという響きがありますから、むしろこのほうがこの詩には、しっくりすると思います。

「チャームポイント審査」のほうがこの詩の表題には、しっくりするとは言っても、詩の批評というのは、表題が作文的にはしっくりしないにもかかわらず
『チャームポイント全調査』という腰の座りの悪い表題がなぜ選ばれたかというところに着眼し、それが意味するところを明らかにすることでもありますので
ここは、この表題のつけ方自体が詩全体を不安定にさせている要因としてあることをとりあえず指摘しておきます。

次に一連目。の、第一行。

 当たり前だけど
 「性格がいい」なんてことや
 「思いやりがある」なんてことは
 二の次三の次

この冒頭一行目「当たり前だけど」って句の使い方が、まったく不用意に思えます。
つまり「彼女」の思想傾向がこれでまったく「当たり前」だってことがはっきりわかるほどに最初にどーんと「あたりまえ」が強要されて押し出されてしまい
その後を読む気力を無くしてしまいます。
自分のこれから語ろうとすることが「当たり前」なら、書くことはあまり必要ないような気がしてしまうものですから。

この不用意さは六連目の第四行にも続いています。

 チャームポイントってなんだろう
 とりあえず
 調べたりするもんじゃないだろう
 ふつうは

「ふつう」のことを書くのなら書くことはないと思うのです。
いや、というより、「彼女」にとっては「ふつう」として世間に流通している思想(大げさにいえば)が問題なのか?
わたしなど、この「彼女」の世界観の扁平さに、まずもって読む気力をなくしてしまいます。「違和」どころの騒ぎじゃないのです。
「違和」なんか感じている人はほんと、やさしいというか、ドンカンというか。いわゆる「いい人」なんでしょう。(マジ)

二連目。

 目の前にズラーっと並ぶ
 モデルのお姉ちゃんたち
 さあ始まるよ
 審査審査オーディション

やや、投げやりな「大根の叩き売り」というニュアンスで書いてますね。
なんか、怠惰な情感さえ漂う。「やってらんねーよ、こんなの」っていう雰囲気と劇画的なセリフ回しはキライじゃないです。
これが最後まで「大根の叩き売り」的べらんめー調 &「やってらんねーよ」だったらとても面白い詩になる可能性があったと思います。
ま、オーデションが終わってからの検討会議とかの描写もその雰囲気でいってますが。
ひょっとしてそういう無為な男女の営為を描いているのか! おお! これは目からウロコだ! って感じもないでもありませんな。う〜む。ずずずーっ(鼻水をすする音)

あらら七連目。また「ふつうは」だ。これはイケナイような、あるいはなんらかの罠!か。

 「お前のチャームポイントはどこだろう?」
 不意に話しかけてくる上司の声に、
 「見えないところにあるんですよ」
 と笑って答えてみた

 上司も笑った

この会話はたぶん、実際にあったのでしょう。で、この会話を思い出して作者は即席にこの詩をつくられたのでしょう。
わたしは別にこの会話、悪いとは思わないな。ほんとうの美は内面に隠されている。これは、こんな怠惰で無為な営為を続けている、うっとおいしい日常にあって、それを知るものが冗談めかして、かすかに確認しあう素晴らしいひと時ですよ。
「オヤジの倫理」だなんて、とんでもないと思うな。ぼかあ。
 

[298]石川和広[2004 09/19 15:45]
>>297チャオさん、こんにちは。
これは山田さんのことを置いといてなのですが、
>単純に、批評する人は嫌われるのだ。なぜならば、大体そういう人は人の倍も本を読んで、あらゆる角度から、物事を見ようとして、そのあらゆる角度から見た結果で、(個人的なアンケート調査ですよね)物事を述べるから。やっぱり、物書きは批評家と戦うには想像力が邪魔しすぎて、本を読まなさ過ぎるのだ。「僕はそれでいい」と思うなら、罵倒されることを良しとしなければいけない。「僕はこうじゃない」と思うならば、書く事をやめて、本を読み始めるしかない。

>文化論とか、トリックスター論とか、この世にある本が何冊、文章が何億存在するというのだろう。だとしたら、山田さんの鼻をくじける、本と出会える可能性は高いのだ。たとえ、ニーチェやバジュラール、孔子みたいな、有名な人を読まずとも。

ぼくは、知識の問題でないと思っている。そして、批評家は、物知りで、嫌われるということも思いません。なぜなら、たくさんの作家を、読み込んで、勉強は本を読まずとも、
色んな形でして、語り合い、育てあう批評家も、いるだろうし。後者の発言は、ケースバイケースだろうと

ぼくは、山田さんを感じ悪いとは、思えない。むしろ、もっともっと、気持ちを出せば、感情論から、潜り抜けて、より、挑発的な批評を書けると思う。

僕が、チアーヌさんから、感じたものは、初期に書いて、本人の創作の一助になったらしいし、ぼくは、それ以上の世間的に技巧的な問題が、あまりに無さ過ぎて、奥主さんとそこは、同じで、かの作品に対しては物足りなさすら感じた。そこは確かに山田さんの発掘が無かったら、そもそも出会えてなかったもので、その点に山田さんの慧眼は見た。しかし、そこからが、少しずつ濁ったような。

しかし、チアーヌさんは、少し、あの作を見る限り、ある生きる、現場、感情の描写であり、スケッチしたものかと思う。彼女には、深い無力感からにじみ出る抒情を書こうとする他作での試行も認められる。

少なくとも、僕のような世界のくくり方より、生活の匂いがするという僕からの感想はあり、それは、とりあえずは、長いタイムスパンで変わっていくだろうと思われる。

ま、そんなところです。
 

[297]チャオ[2004 09/19 13:22]木葉 揺(このは ゆり)
皆さんこんにちは!

ざっとここのスレ読ませてもらいました。すごく長くて疲れました。
で、今って、山田さんは悪か善かみたいな論議されてますよね。個人的な解釈ですが。
おそらく、批評をするということはその作品自体に魅力があることだから、その時点でほめられてるんですけどね。山田さんくらいの人が批評するときって。たぶん。読んでて思いました。

その書き方が、乱暴だとかどうとかってことですよね?
自分の意見から言わせてもらえば、乱暴ですね。でも、礼儀正しいと思いますよ。すごく。言葉を書くという行為に当たって、僕はへらへらしてるのが好きだからなんとも言わないけど、まじめな人になればなるほど、礼儀がない人って許せなくなるもんじゃないですかね。
言葉書く上で、どこまで覚悟してんの?みたいな感じ。僕でさえ、持ってしまったりするときがある。でも、そう思うって、単純に何か引っかかるものがあるからで。

「世界の中心で愛を叫ぶ」が売れたのって、少なからず誰かがすごい好きだったからだと思う。でも、誰かの好きは誰かの嫌いであって、売れれば売れるほど批判したくなるでしょ。嫌いな人って。その時点ですでに僕は感情論だと思う。

で、山田さんの場合はその感情論をさらに逸脱しようとして、結局転んじゃったみたいな感じかなあ。奥主さんの文章読んで、僕はそう思いました。それを、反対派の人たちは非難するわけで、そりゃおかしいぞ!って僕は思いますね。確か発端はチアーヌさんの詩だったと思いますが、そこで、やっぱり話さないと。

そして、山田さんの書き方がまずいのは、丸裸なことですね。たぶん。愛する二人じゃないんだからさすがに、丸裸の山田さんを抱くことは出来ないんじゃないですかね?でも、そういうところも、僕は、礼儀正しいとは思うんですけど、いきなり、素っ裸で現れたら、強姦ですからね。たとえ愛の告白をしようとしていたとしても。

言葉のマナーを守りすぎると、社会のマナーがおっつかないみたいな。いっそ、ヒッピーみたいに同じ思想の人だけ集まっちゃえばいいのかもしれないけど、それじゃ意味ないですからね。混濁した社会でしか批評は意味を成しえない。てか、批判が生まれないし。

話を戻します。
単純に、批評する人は嫌われるのだ。なぜならば、大体そういう人は人の倍も本を読んで、あらゆる角度から、物事を見ようとして、そのあらゆる角度から見た結果で、(個人的なアンケート調査ですよね)物事を述べるから。やっぱり、物書きは批評家と戦うには想像力が邪魔しすぎて、本を読まなさ過ぎるのだ。「僕はそれでいい」と思うなら、罵倒されることを良しとしなければいけない。「僕はこうじゃない」と思うならば、書く事をやめて、本を読み始めるしかない。

文化論とか、トリックスター論とか、この世にある本が何冊、文章が何億存在するというのだろう。だとしたら、山田さんの鼻をくじける、本と出会える可能性は高いのだ。たとえ、ニーチェやバジュラール、孔子みたいな、有名な人を読まずとも。

結局、僕は、山田さんの批評見て「うわ、こいつ感じわりいなあ」って思ったけど、いえてるし、なにより、反撃できない。それこそ、自分を甘えさせてしまうようなそんな文章になってしまう。いつか、俺は、山田さんを根本からひっくり返したいと思うのです。
 

[296]石川和広[2004 09/19 12:45]チアーヌ
>>295

他の他人の書くものをそれだけ、乱暴にカテゴライズして、さあも、奥主さんだけの言葉だけが通る、あなたの繊細な感受性には、誰もうかつにタッチできないな。奥主さんにゆっくり話をしてもらってくださいね。残念ながら、僕は、あなたの高尚さを理解できない

あなただけが、注文に答えることをしてる、いっしょうけんめい批評をしてる、さくしゃとはなしてるんだと思うなら、あなたのスレッドがせっかくあるんだから、そこでやってもよかったけど、そうできない深い理由があったんでしょうか?
 

[295]山田せばすちゃん[2004 09/19 03:45]
>奥主さん
面白い、まったく面白いです。
退屈であくびが出そうに凡庸な共同体の倫理でも、そろそろ賞味期限も切れそうな息絶え絶えの文化論的なトリックスター論でもない、読者としての邪悪なまでの貪欲さから俺に注文いれたのはあなたが初めてなのでした。
 

[292]石川和広[2004 09/19 01:12]チアーヌ
僕は、他の方のように、うまくは書けないのですが、なんか、話がずれてはいまいかな。

もちろん、書き手に、作品の著作権はあるが、占有はできない。読みは自由だからね。

ぼくは、それと、山田さんとちがうタイプなのかもしれないけど、「違和の分析」って、そういう言葉で語れる作業を、人間の脳みそは、やれるのか疑問です。
「言語化」は、あたりまえだよ。わかるよ。

それと、人間は、デカルトも言うように、情念があるのね。しかし、それをそのまま語ると、「ばか」とかになりかねない。でも、分析言語より、批評は、なにか、記述というか
作品の核をたどることカナと思うわけ。

それと、未分化に近いが、チアーヌさんは、人格攻撃だとおもってかいてるとは、あまり思えない。

それと、政治性とか、汚れ役とか、もちろん、そういうのも、プロレスとかではあるかも。でも、山田さんは、ネットでのフィクションの扱い方が、うまくいえんが、うまくいってない。パフォーマンスに意識をすり減らしている気がする。
人格を気にし、自分の発言に対する批判を、気にしすぎているのは、山田さんで、山田さんは、ナイーブで、素敵過ぎるのかもしれない。

チアーヌさんに、もっと自覚的に良い作品を書いて欲しいという期待があるなら、もう少し、じっくり、話しかけた方が良いと思うよ。

批評は、読み書きを相互に、切磋することで、ぼくは、残念ながら、奥主さんのように丁寧に、また、他スレだけど、よく批評を書いているあをのさんみたいに、ある種の目の細かい文章はかけないのだ。しかし、ネットだから、誤解を与えないように書くのは、大切だと思うが、あまりに、パフォーマテイブな言説は、素朴な批評への入口を閉ざすかもしれないと危惧する。洗練しすぎると、素人は、書きにくくなる。

僕は、山田さんの批評はまずいと思うが、もう少し洗練されていない批評があっても、それが丁寧に、詩表現の核にたどり着こうとするなら、それは、いい批評だとも思う。
 

[290]山田せばすちゃん[2004 09/18 22:23]ピッピ
>ボルカさん
俺は少なくともチアーヌさんの二作品に関してはそこをきちんと峻別して書いてるつもりだけどなぁ、語り手としての「彼女」は「ドトール〜」においては「バカ」と言い、「チャームポイント〜」では「鈍感」言ってはいるけれど、俺は批評内においては「チアーヌさん」が「バカ」だとか「鈍感」だとか決して言ってないもの。
それをわざわざ、「語り手としての彼女」=「私」だ、みたいなことをチアーヌさんが言ったりするものだから、話がややこしくなってるわけでね。まあ、そう思ってるんだから、俺の批評にも不愉快な思いを抱いたりするんだろうけれどね。
いっそ、「こんな女が実際にいるわけないじゃないの、釣られてやがんの、やーい」みたいなところまで突き抜けてくれれば、それはそれで俺としては却って爽快な気分になれると思うんだけど、どうだろう?
 

[287]石川和広[09/18 01:41]
emotionて、情念て訳すな。パッションは、何か垂直的なイメージかも。情念は、揺れてるけど、燃えつきても残るもの。消尽したもの。ドゥルーズは、その灰からも始まるものがあると云ってるね。解体したひと欠片の逆襲が、断片を融合させて詩が始まる。詩は死んだ、詩作せよと瀬尾育生はいったが、解体した断片を、寄生獣みたいに変形させ、複雑な変形態を構成させる。むずかしね。でも僕は北園克衛も好きだから、あんなデザイン詩を書いてみたいなと憧れはある。でも、なんか人生の事を書きたい今である。でも欠片の繋がりは僕のテーマかな。
 

[285]片野晃司[2004 09/17 12:20]山内緋呂子木葉 揺(このは ゆり)まんぼうピッピふく
前のほうに「emotion過ぎるスレ」という意見があったけどまさにそのとおりで、情緒的、感情的なコトバのぶつかり合になってしまっている気がする。
もともと最初の切り口から違っているんじゃないだろうか。書いてある内容について咎めていくと、結局、詩の良し悪しの話から離れていってしまう気がする。たとえば、ある詩が面白い感じ、その理由が単に、書いてある内容によってであって、詩の表現によって特段にそれが際立っているわけでもない場合、「これって別に詩として書かなくても、エッセイでも短編小説でもよかったんじゃないの」と感じることもあります。そうした時、その違和感(ある意味、不満感か)を内容のほうへぶつけてもしょうがないのであって、むしろ、詩表現に注目するほうが前向きかな、と思います。
 

[284]山田せばすちゃん[2004 09/17 11:09]山内緋呂子
>>たもつさん
簡単なことですよ、「俺が作者だから、この作品に関しては俺の言うことが正しいのだ、何せ作者だもんね」ってな根拠のない特権振りかざして批評の場に乱入するなってことです。すっこんでろ、とはいってない、自分の意見が他の「読者」のそれと等価であるという自覚を持って参入していただく分にはなんら問題はないと思いますよ、それこそオープンな場所なんだし。

>>いとうさん
うはははははは、ちょっと耳に痛いコメントだな、それは。せいぜいポケットからゴキブリ出しておいて、「なんだよ、料理にこんなゴキブリが!」などとやらかすことのないよう、それだけは自戒いたします。
 

[283]石川和広[09/17 10:45]木葉 揺(このは ゆり)チアーヌ
>>280 いとうさん巻き込んでごめんね。でも僕の「感受」ていう固い言葉を、簡単に云うとうまい、まずいだな。何と云うか僕は女の子好きだしね。それと批評が全く別かと云うとそうでもない。 そういう点で云うとチアーヌ氏のオヤジに同調する点を批評をしながら、男でフェミニストと云いつつ、騎乗位が好きとオヤジネタ的なことを云う山田氏のスタンスはかなりに複雑怪奇だ。僕が馬鹿なだけ?僕は女の子に甘えすぎるところがあり、だが今は鬱なので足腰もガタガタ。うつは体にくる!デートもしんどいと。ともかく山田氏の位置は不明だ。
 

[282]いとう[2004 09/17 09:51]木葉 揺(このは ゆり)山内緋呂子
すまん、追記。

ただ、個人的には、彼が何故敢えてこんな憎まれるようなこと(笑)やってるかってのも、
わかるので、少し、痛し痒しって気分もあります。
つぶやくのなら、「もうちょっと上手くやりゃーいいのに」ってところか?

(痛し痒しってこういう使い方でよかったんだっけ?)
 

[281]石川和広[09/17 09:09]チアーヌ木葉 揺(このは ゆり)
まずは、かのさんに賛成。でも人としてというより僕は文章を書く人としてなんだな。それは、やはり初動での山田氏の書き方は自分の枠でさばきやすい相手を見つけてるようにしか見えんかった。批評形成過程という人もいるが、スタートで滑ってるわな。後、奥主さんは和らげていってるが後の文章も人の言葉を継ぎはぎして、まずいね。だから感受を自分の言葉で云ってと云うたのよ。作者の出現に批判を云う人もいるね。確かにチアーヌ氏の反応は批評から逃げてる部分はある。だけど不当だと感じたことを云って何が悪い?喧嘩に誘てたの山田氏に見えたしね
 

[280]いとう[2004 09/17 08:54]チアーヌピッピ木葉 揺(このは ゆり)
「この料理は美味しくないなあ」ではなく、
「あー。やだやだ。この店はこんなくそまずいもん食わせんのか。料理人は何考えてんだ? こんな食材をこんなふうに扱うなんて、鈍感なんじゃねーの?」みたいに、店の中で大声でわめきちらされたら、やっぱイヤだなぁ(笑)。
それは、美味しくない、と言われたことに対してではなく、ね。

昔、吉野家で、「この牛丼まずいよ? タイ米でも使ってるんじゃない?」と、ネチネチ店員に絡んでる人がいて、
それを見て、すごくイヤな気分になったことを思い出した。
流れとは全然関係ありませんが。
 

[279]たもつ[2004 09/17 08:45]チアーヌピッピ木葉 揺(このは ゆり)石川和広
>>275
>作品の批評の現場に作者自身が入り込むことは、論じられていることがたとえどんな
>ことであろうと、やってはならんことなのです。

「やってはならんこと」と言う意味がよくわかりません。
ここはオープンな場所ですよね。
オープンな場所には作者だっていますよ。
俺たちは好き勝手言うけど、お前はすっこんでろ、というのはどうかと思いますが。
その辺のところをすっかり無視して、書き手の心得論を振りかざすのはいかがなものか。
それがしたいのら、そういうルールを作ってからにしましょうよ。
たしか、そういうスレッドがあるはずです。
 

[278]角田寿星[2004 09/17 07:03]いとうチアーヌピッピ木葉 揺(このは ゆり)AB砂木
あのさあ…。
批評とは何かとか、詩書きとしての姿勢とかよりも、一連の発言が「ヒトとして」どう
か、もう一回さ、胸にあてて考えてみようや。主に山田さんのこと言ってんだけど。
 

[277]サダアイカ (aika)[2004 09/17 04:40]チアーヌ
>>275
oldsoupさんへ
こんにちは。よくわからなかったので質問です。『批評そのものの完成』とはどういった状態を示しているのでしょうか?ここ批評しましょのスレッドにおいての場合で結構ですので教えていただけますと幸いです。
 

[275]黒川排除 (oldsoup)[2004 09/17 02:38]山田せばすちゃん田代深子山内緋呂子
作者が作者自身の作品を解説する、このことはまったく信用のおけないこと、うしろめたいことですが、それから導いてみれば、作品の批評の現場に作者自身が入り込むことは、論じられていることがたとえどんなことであろうと、やってはならんことなのです。固まっていない生コンに足を踏み入れるようなものです。批評形成段階において批評の的となる本人が現れる、つまりそこに信憑性の欠落を招き入れることは、批評そのものの完成には害だと考える訳ですよ。いいとか、わるいとか、そういうことではなく、間違っていると言いたい訳ですな。
 

[274]田代深子[2004 09/17 02:18]
>チアーヌさん
私はチアーヌさんの「痛み」をほとんど理解していません。
私は酷評に慣れすぎていますし、またそれを「反応」として考えることに慣らしてもきました。
私は私の作品の書き手ですが、権利者ではありません。
作品は、私が他者に向けて放った瞬間から、他者との間に違う世界(像)を結ぶものであって、
そこに私は介在しないのです。
それにたえるだけの強度を、私は作品に与えたいと願い、書いています。
まあ、これは批評ではなく、書き手としての私の意見なので、
これまでの話とは切り離して考えていただきたいのですが(笑)
とりあえず「気に入らないなら読むな」は絶対やばいと思いますよ、本当に。
 

[273]山田せばすちゃん[2004 09/17 01:43]
次に>>266について、ですが。
別にいちいち意図なんて考えてやってやしません、奥主さんへの返信>>255に書いたとおり「俺があくまでもやりたかったのは「違和」の分析と言語化」ですから。強いて言うなれば「俺の世界観」から見たときに「違和」でしかないことがチアーヌさんの「作品世界」には比較的たくさんあった、というだけのことで、別にチアーヌさん個人には好悪の感情も、もっと言えば興味すらありません。チアーヌさんの詩を酷評したから俺がこの世界でなんか立場がよくなるとかそういう政治的意図もないです、ないですというかそんなもんあるわけないでしょ(笑)
「違和の分析と言語化」についてもう少し説明が要るでしょうか?要る、という答えを想定して説明を続けます。
俺はその詩を読んだときに一番最初に口をついてでた言葉を、できるだけ批評の冒頭におくことにしています。チアーヌさんの作品の場合だとそれが「何だ?このバカ女」だとか「あ、なんかすげーいや、この女、鈍感」だったりするのが困りもんですけど(苦笑)それがつまりは「違和」の発見です。で、次に何でこの女がバカだと思ったんだろう、とか、なんでこの女のどこが鈍感なんだろうと改めて作品の中から「違和」の根拠を見つけ出すべく精読します。見つかるときもあれば見つからないときもありますし、勘違いだったりすることもたまにはありますが、さすがに最近はほとんどそれはなくなってきました。見つけ出したらそれは俺以外の他者にも理解可能な違和なのかどうかについて考えてみます、「それはそうだよね」といってもらえれば「僕らは友達」なので一番うれしいですがもしかしたら「そういうのもわからないではないけれども」という反応で終わるかも知れません。ともかくそこから違和の言語化が始まり、印象批評がスタートするのです、とか言うとまるで手順を追ってシステマティックに脳内作業が粛々と行われているかのような印象ですが、実は最初の違和を、まずメモ帳なりノートパッドに「この女バカ」とか書いて、「だって」とか書きながらすでにその作業の帰結は見えていたりもします、見えなかったら書きません。
そうやってこれらの批評は書かれていますが、その時点まで俺には誰が作者かは関係がないのです。書いたあとで「これ投稿しちゃっていいかなあ」などと一応ネット詩業界における政治性みたいなものもちょろっと脳裏をよぎりますが、すでに立場なんてないに等しいヨゴレなので、大概はそのまま投稿しております。

で次に
>>山田さんは、わたしだけでなく、過去の同人仲間まで侮辱してくれたのですよ。
についてですが、それは誤読です。多様な解釈とかいったそう言った問題ではなく、明らかに事実関係の誤読です。この文章>>12>>11の大村浩一氏へのレスですが、問題の箇所を前後も含めて引用します。
>>少なくとも俺が顔出してる同人誌の合評会だって、ここまでこの詩に豊かな内実を吹き込んで見せる試みができたかどうかは疑問だし(いや、大体、俺が出入りしてる同人誌のレベルがどうだ、とか、こんな詩が同人誌に載ってるのだとしたらその同人間の見識がどうなんだとか、いろいろ突っ込みどころもあるでしょうがね)

ここで俺はチアーヌさんの詩に関してこのスレッド内で行われたさまざまな「読み」が、俺の出入りしている同人誌ネット21の合評会よりも高いレベルで展開されている、ということを述べています。( )内で書かれていることは

その1 俺の同人誌よりレベルが高いとは言っても肝心の俺の同人誌のレベルが低かったら、相対的にレベルが高い、といっても絶対的には現代詩フォーラムの批評はレベルが低いんじゃないか、という突っ込み
その2 こんな=大村氏言うところの「扱いやすい」詩ばかりをのっけちゃうような同人誌があったら、その同人のレベルも絶対的に低いので、同じように相対的にその同人誌より現代詩フォーラムの批評のほうがレベルが上だといっても絶対的にはどうなのか疑問が残るじゃないかという突っ込み

が、大村氏の側からあるかもしれませんけれど、という付記でしかありません。決してチアーヌさんが前に属されていた同人誌とその同人を誹謗しているものではありません。大体、俺はこの文章書いた時点ではチアーヌさんのパーソナルな履歴などまるで知らないのですから、あなたがどこかの同人誌に属していたなんてことはまったく知らないわけで、いったいどうやったらその存在すら知るべくもない同人誌とその同人を俺が侮辱できるというのでしょうか?
 

[272]田代深子[2004 09/17 01:04]石川和広
>石川さん
 ニヒリズムというものを、私は実に通俗的な意味でしか理解していません(勉強不足で
すみません)。ニーチェも読んでいない。それで石川さんの「生きている虚しさ」という
最初の発言にムっとしたわけです。それはチアーヌさんの作品に対する評としてよりは、
ここで起きている〈出来事〉への、石川さんの嘲笑に感じられたからです。
 しかし少しずつ書いていただいたことで、わかってきました。だが、さらにやっかいだ
と思うわけです。そこへいってしまったら抜け出すのは困難だということしか今はわから
ない。それを持ち出されてしまったら、もう何も言えない、という最終的態度でもある。
しかしニーチェは「よしわかった、もう一度!」と書きもした人ではなかったでしょうか

 私は現在、岡真理の『記憶/物語』という本を読んでいます。彼女が模索しているのは、
物語の(不)可能性−語ること、表現することの〈出来事〉からの乖離−を自覚しつつ、
いかにその〈出来事〉を当事者と分有し、語っていくことができるのか、ということです。
物書きとしては、まさに歩くだけで血まみれになる針の山を進んでいる。(この私の書き
方もあまりにいい加減な物語ですが。)
 かつて岡真理の『彼女の「正しい」名前とは何か』を読んだとき、こうした態度に、私
は目から鱗が落ちたような気がしたし、同時に、それはあまりに困難で、自分を縛り、必
要な行動をすることすらおぼつかなくなるのではないかとも思ったものです。が、その自
覚は彼女を動けなくしてはいないわけです。彼女がひとかたならぬ強さを持っている、と
いう個性にのみ依拠することがらなのでしょうか? あるいは私が、彼女に対し「物語」
を勝手に作っている? そうかもしれない。しかし諦めている場合ではない、ということ
は、これは切らなくてもいい気がしている…これが物語であったとしてもです。
 だから「わかんないから無視しとこう」とは思えませんでした。いまだとて、石川さん
の苦痛を、私は何一つ理解していない。しかし、書いていただけたことは本当によかった
と思います。
 

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