批評しましょ[184]
2004 08/20 22:56
有井いずみ

>別に詩である、と他者に認められようが認められまいが
>いっさい気にする必要はないと思います。

おっしゃる通りね。
みなさんが書かれたものが、良いとか悪いとかを
書いたのではありません。また、これは詩で、これは詩では
ないというようなことを不遜にも決めつけているのでもありません。
わたしもみなさんと同じく、書くことに精進している一人です。
もう少し、わたしは親切に書かなければなりませんね。少し
反省して、少し丁寧に、できる限り分かりやすく
書きましょうか。
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作品において、ほんとうに心に残ったり居座ったりするコトバと、
出会うということは実に幸せなことです。ぜいたくを言えば、
日々、生きる上においても、浮かんでくるようなコトバはもっと
ステキね。それだけのことです。

現代詩の将来が明るいとか暗いとかは、まったく別問題なので
あって、それほどに難しい話ではないでしょう。
谷川さんがダメとかいいとか、さぁ、どうなんでしょう?わたしは
わたしの詩的な空間を広げてくれた詩人として、その仕事は
尊敬するものがありました。大阪文学学校近くの「すかんぽ」や、
東京のある集まりで、何度か真正面から議論したこともあるけれど、
大した詩人です。詩のコトバの広がりを確実に広げた、詩史に残る
お一人なんでしょうかね?否、そんなことも恐らく関係している
のですが、否、そうかな、やはり真剣に考えれば、大いに関係の
あることではないかしら。まぁいいや、長い話になるもん。
誰をも責めるものでもないのに結局、
わたしを憎っき「酷評おばちゃん」のように思う人もいたりして、
それは、冗談じゃないわって思う。
詩に、何らかの「レベル」や「基準」のようなものがあると
勘違いしているのは、ひょっとして実は、
貴方たち(ここで誰とは言いません)なのではないかしら?
わたしはコトバで世界の実相に出会いたいと思って読む。
それだけなのに。

「自閉の地平で、世界と当たって、触ってみて、コトバにならない
ものをコトバにしてゆく格闘や思考を続ける姿勢がみられないわ。
その姿勢がない限り(詩)詩人とは言いません。」と書きました。
それが言いたかったのに、「と思う今日この頃」のところばかり
話題になって、そんなもんかしらね。

誰もが、それぞれの人生をこの世界に生きている。
ある人は平平凡凡に生きていると言うかもしれない。またある人は
辛く、苦しくそれこそ生死をかけて日々を生きるのが精一杯かも
しれない。いろんな人が生きている。どこかでは泣いてる人が
いる、またどこかでは笑う人がいる、いろんな人が生きている。
あの空の下や、あの窓の部屋。
そんな中で人は、コトバにしたい。コトバにせざるを得ない。
コトバを発する唯一の生き物です。で、本題。
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どうしてこうも似たような箱庭を不用意に作ってしまうのだろうか
と思う。閉じられた箱庭の中で、コトバをのっぺらと平らかに、
あるいは予定調和的に納めてしまう理由はどうしてなんだろう?
類型的な意味と、文脈で、無理矢理継いで押し込んで、
何をそんなに急いでいるのでしょう?ステレオタイプとも言いがたい。
説明描写ばかりに力が入るのね。あるいは過剰な情緒を額縁のように
提示して、退屈やメランコリを、少しだけ神経症的・人格障害的に
(わたしも精神疾患や人格障害の傾向を多少持っていますが)に
書くと、それらしいコピーライティングの平面に定着できると
思うのでしょうか?それに誰もが安易に共感できると思うので
しょうか?如何なんでしょう?いえ、共感できるなら、それは
それでいいじゃないですか。それはあなたの共感ですね。
ただ、この複雑で巨大な現実世界に、この厳しい現代社会に耐えうる
コトバとして誰のこころにも居座るようなコトバに成り得るので
しょうか?大袈裟な話を持ち出せば、飢餓に苦しむアフリカの人や、
不条理なエイズの感染者や、イラクで死んで行く、イラク人の子供
たちやアメリカ人の若者たちの中で、脳天気に歌える詩のコトバ
なのでしょうか。戦争反対の詩を書けなんて云ってないのよ。
いえいえ、リアルに感じられないならば、もっと身近で、隣にいる
苦しみや喜びの渦中にある人のこころを揺さぶるようなコトバなの
でしょうか?
わたしの詩のコトバは、到底、それらの人たちにとっては読むに
耐えないヘタレ詩です。けれどもわたしは数十年来の自分のこころを
圧してきた何か分からないものの姿を、または越えることのでき
ないわたしの世界の壁を、手探り、まさぐり、コトバに表わさざる
を得ない何かを拾い集めるようにして、コトバを叫び、コダマする
コトバをまた紡いで、投壜のように押し込めて流してきました。
その結果、見ての通り、屈折して、さっぱり分からないものに
なってしまうわけね。有井の書くものは、なんだかさっぱり
わからんから、放っておけてなことで、だれもその投壜を拾うもの
さえいないじゃないか?ってコトバも聴こえますが、ま、そういう
こともあるのね。(一人ツッコミのお笑いね。負け惜しみ言ってる)
でも、わたしはありふれたコトバや借り物のコトバで書けません
でした。わたし自身の苦しみや喜びや、ことあるごとに頭を
ぶつける世界は、ありふれたコトバではわたしの中で不満ばかり
募るんです。
でもそれって、誰もがそうじゃないの?誰もがそれぞれの生を
コトバにするのに、それぞれにぶつかる世界をコトバにするのにさ、
ありふれたアユの歌のような一節で満足できるのかしら?
(アユでもなんでもいいんだけど。)
ご自分の生やアイデンティティーを獲得するのに精一杯の中で、
一人一人が、自分のコトバで世界をあたり世界に表さざるを得ない
ことがあるものよ。
それで歌っていていいのでしょうか?それじゃわたしたちの生や
世界が、すなわちコトバが、不自由で仕方ないでしょうに。。。
既成の、商業メディアの、トレンドに乗るのは全て悪いとは言わ
ないけれども、その中に溢れかえるコトバのコピー的なコトバと
なんら変わるところのない、既視感をおぼえずにはいられない。
それらは、現代の複雑で巨大なシステムに対して、力強い詩の
コトバになり得ない。そうした意味で、
お手軽な「現代詩」(多分、批判され易いキツイ言い方?)は
痛々しい。それを「詩手帖」風に批評するのもなんだかね。
余程、規範や体制に無頓着か従順なんでしょう。あなたのコトバを
解き放ってみたいとは思いませんか?思考されないから薄っぺらで
ぺちゃんこで、貧しく、品がなくなるのかもしれない。打ち破って、
もっと立体にひねり出したいと思うの。じゃあどうしたら良いの
だろう?時には、ひん曲げてみるのもいんじゃない?屈折はないの
でしょうか?逆立ちしてみたり、男の人だったら大きくて勃起する
ばかりで、行かせられると思ってたら大間違いよ!足の踝を後頭の
窪みとショートさせるとかさぁ。コトバのアクロバットが良いなんて
思っちゃいないけどさ。そうしてみたら外の見え方も、そのコトバ
を当たる手つきも変わるんじゃないかしら。って思うのです。
これがもっと切実に圧し出されて切羽詰ってくると、
ひん曲がらざるを得ない、多少なりとも複雑ではないでしょうか、
わたしたちの生きる世界は。あるいは世界の実相とよばれるものは。
ご免なさいね、好き勝手云って。

芸術の高踏なんかじゃないわよ、批評も、理論も、読む行為も、
詩作も、みんな【書くこと】に関わる切っても切れないこと。
【書くこと】と【生きること】の連続に生きること、その思考へと
牽引する【生きる日常】なんだと思う。たぶん、
詩のコトバは幅広い。言い換えるとポエジーは歌の中にも、ある。
それを否定するものではありません。けれども近代以降の現代詩へ
の歩みは、わたし今、お勉強中なの。
生きる中で、幅広く、深く読んで、書く、生きる、読む、
若い詩の書き手のみなさんたち、
ここの片野さんたちが、どんな思いをして、どんな努力をして、
あのFPOからNIFTY現代詩フォーラムを経て、そしてこの
サイトづくりに尽力されてこられたのか、思いを至らせたことが
おありでしょうか?
わたしも、どんな詩も一編一編の詩を、たいせつに、たいせつに
扱い、読ませていただいて、育てられ、連なってきた一人です。

このフォーラムで「批評」している人たちへ、感じることを
書き手として、書いてみただけ。
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