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[852]一番絞り[2004 11/20 23:20]
ちょっと付け足し。
心の病と現象学について。
http://www.asahi-net.or.jp/~rt8s-ymtk/shohyou_essey/yamu.html
参考にしてください。
 

[851]汰介[2004 11/20 21:52]
>使う筋肉が違うんですね。

それは痛切に感じましたね。筋肉の使い方次第で、
そこまで疲れないコツがあるんでしょう。

まあ、それを差し引いても決定的に運動神経と体力はないですが。

>三日間も全身の筋肉が痛んで寝込みました。(笑)

私も暫くはまともに歩けませんでしたね(笑)
と言うか、最低限の筋肉が無いと、やったら駄目ですね。
他の人の仕事の邪魔になるだけですし。
まあ、もっと運動神経あったら出来る仕事の幅も広がって、色々出来て良いんでしょうけど。

>これがまた「自閉症」の集中力ですかね、耳元の三十センチ近くで大声で名前を
>呼ばれているのに
>気がつかないくらい読書に集中できました。

これはなんとなく分かります。
私も場合によっては「自閉」状態になりますね。
ただ、終始では無くて、
最近はそれでも、一時に比べてコントロール出来つつありますが。

一番絞りさんの表現を借りるならば、
「自閉」状態に入ると、
複数の人間が、肉感的に自分の身体に訴えてくるような状態になって、
窒息しそうな苦しい状態になりますね。
なにか、自分でも気付いていない、自己暗示にでもかかってるんでしょうかね。

まあ、昔足立区に住んでいたことがあったので、
某教祖の怨念でも乗り移ったのかも知れません。
冗談ですが。
 

[850]一番絞り[2004 11/20 21:48]
>>832

風さん、長い書き込みご苦労様でした。
壁のような圧倒的な文字の集積をやっと読めました。
とりあえず読めただけですが。
ただ、あなたは何かとてつもない思い違いをされているのでは
ありませんか?
曰く、

哲学的思考においての意味と..
哲学的にはそういう意味では使いません...
哲学が難しいと言われる理由に...
哲学的に言えば...
哲学の基本的条件は...
哲学的考察のみがそのことを...

云々。あなたの、この哲学への独特の思い込みがわたしにはとても奇妙に思えるのです。
「哲学者」ってなんでしょう。
だれがこんな堅苦しい、当を得ない翻訳語をあてたかしりませんが真の意味は
「ものを考える人」です。
カントもキルケゴールもマルクスもニーチェも「ものを考える人」です。
ならば、哲学とは「ものを考えること」です。
伝統的な西洋哲学的思考のみを「哲学」というのならフッサールは厳密にはこの範疇に入りません。
他にも入らない人がいっぱいいます。
でも「ものを考える人」ならフッサールも入ります。親鸞もはいります。
だから仏教「哲学」として成り立つわけです。
要する「哲学」とは、べつにあなたのいうような特殊なことではなくて
「ものを考えること」です。
「ものを考える人」はだからわたしに言わせるとすべて哲学者です。
あまりにも平易な定義かもしれませんが、この定義だとすべての「ものを考える人」を
ひとしなみに掬い取ることができるのです。
マルクスの『資本論』でなされている「疎外」ということばの定義をあなたは
ことこまかに示してくれましたが、
わたしたちひとりひとりがじつはそのことはよくわかっているのです。でもうまく表現できないだけです。
マルクスはマルクスのために「疎外」の定義を下しているのでしょう。
わたしはわたしでそれを言い当てているつもりです。
あなたはあなたでそれを言い当てればいいと思います。
すべてにズレがあってあたりまえですし、また、なければいけません。
でないと世界解釈が一義的になる危険があるし、異見や異論が成り立たないわけです。
でも、あくまでもあなたがマルクスの定義に従ってマルクスの意図する語彙を用い、論を展開したければ
それもいいでしょう。
というより、いわゆる哲学論議というのはそういうものです。
が、それは〈一般言語表象〉という一種の言語ゲームなのだとわたしは考えています。
あなたが努力されていかにマルクスから難解な思意を読み取ったとしても
それは現実には反映できるものではないのです。
抽象的な言語ゲームの世界のデキゴトなんです。
「疎外」なら「疎外」という感じをさまざまなひとたちがさまざまなかたちで表現するとき
はじめて現実が起動するのです。

まして、あなたが最後に書かれた箴言などは現実にはまったく意味のないことだと
わたしは考えています。


ちょっとビール飲みすぎてふらふらしてますので、もう寝ます。
 

[849]一番絞り[2004 11/20 21:11]ピッピ不老産兄弟
>>847
ああ、
そういう経験ならわたしにもありますよ。
冷凍倉庫へ大型冷凍車の荷物の積下ろしのバイトへいったことがあります。
零下何度という車内で動いているとすごい汗で
仕事を終えるまでにシャツを三枚も着替えました。
着替えなければ仕事にならないほど、下着が汗でどぼどぼになるんです。
重いくらいにね。
使う筋肉が違うんですね。
六十歳のベテランの日雇い老人がひょいひょいと積みおろしていました。
でもわたしはそれから三日間も全身の筋肉が痛んで寝込みました。(笑)
二度と行かなかったですね、あのバイトだけは。


>>848
仰ることはよくわかります。
ただ、わたしは「ひきこもり」も「自閉症」も〈病気〉だとは思ってないんです。
「自閉症」ってのはかってに周囲が名づけたものでしょう。
こどもたちにとっては生まれたままのそれが自然だし、ふつうのはずなのに、社会が在るから
〈病気〉になる。
わたしも幼いころは「自閉症」(かってに「自閉」なんてコトバ学者に使われちゃ自閉症の子も
かなわんよな)に近いような状態でした。
でも、わたしが育ったのは大きなお寺ですから周囲がかなり勝手にさせてくれた。
幼いころから大きな暗い書庫で本ばかり読んでました。
これがまた「自閉症」の集中力ですかね、耳元の三十センチ近くで大声で名前を
呼ばれているのに
気がつかないくらい読書に集中できました。
でも、知能知数が低いことやコミニケーション能力が劣っているということで
当時の言い方で言うと「白痴」「低脳児」扱いされました。
じっさい「低脳」だったのかもしれません。
当時の小学校、中学校の通信簿をみると1〜5評価で1と2ばかりです。
3がただひとつ。社会科にのみ。
自閉症と呼ばれているこどもが、自閉という差別的なことばをそのまま受け入れることはないし、
親もそのような呼称を抗議すべきだったでしょうね。いまも平気で使われているようですが。
いずれにせよ「低脳」のわたしがそのとき考えたのは
コペルニクス的発想の転換で、むしろ「低脳」っていいところがあるんじゃないか
てことです。
知能優秀な人にわからないことがわかるんじゃないかということです。
逆に、知能優秀な人間の本人たちが永久に気がつかない間違いを
唯一指摘できる存在なんじゃないか
そういうことを漠然と考えました。
わたしが知的なものに直感で反発やうそを感じるのはそのせいかもしれません。
いずれにせよ、
目下、あなたの書いた壁のようなマルクスについての書き込みを読むのに四苦八苦です。
圧倒的な字の壁ですね、あれは。読む前に疲れてしまいますよ。(笑)
 

[847]汰介[2004 11/20 20:21]
>金さんによると、一緒に大阪の工廠跡に鉄を掘りに行ったら
>一日で穴割り(けつわり:しんどいので逃げること)
>したやつだよ本当はと笑っていました。

何年か前、体力も無いのに、何を血迷ったか、
牡蠣の梱包のバイトに行って、
ラクチンだと勘違いして、思いきり肉体労働で悲惨な目に会いましたね。
一日で、逃げ帰りました。恥ずかしくてその日分の給料すら放置ですね。

まあ、関係ないですけど、こち亀を思い出しましたね。関係ないですけど。
 

[846]一番絞り[2004 11/20 20:01]
あー、あー。風さんに謝ってソンしたっと。(笑)
風さんの指摘を受けて、そうか「自閉症」なんて使ったかとすぐ謝り、
いま、その部分を削除しょうかと自分の書き込みにあたっていたら
「自閉」ということばは使ったが「自閉症」を比ゆとしても
形容としても使ってないんだな、これが。
なんだ、これは。風さん、「自閉」と「自閉症」では大違いですよ。
もし「自閉」というコトバを「自閉症」と結びつけることがふつうなら
もはや何もいえなくなる。
「肥満」もいえない。「肥満症」があるしね。(笑)
「自閉」とは病気でなくともだれだってやっていることです。
 

[844]一番絞り[2004 11/20 19:47]
>>843

「石原寛子」ってあたらしい呼び名、かっこいーですね。
なんか芸能アイドルっぽくて、ちょっと良すぎるかもしれないけど、
かわいいですよ。

いやね、ちょっとした悪ふざけでいってみただけでして。
気をつかわせてごめんなさい。盛会になるでしょうね。
いい供養になると思います。
 

[843]山内緋呂子[11/20 19:41]
>>838
あれ?一番絞りさん、ドジさん、あれ?石原大介追悼及び生誕記念祭に来てくださらないのですか?あら。ぬかよろこびかしら。

>さんざんかんぐりした方に分担してもらいますよ

これ?どうなんでしょう。そんなに皆様懐暖かくないですよー。ご冗談ですよね。

というより皆様大勢集まると思ってらっしゃるらしく先日も私信いただきましたが人がたくさん集まる所は苦手、という方が多いようです。少人数ですよ。ご心配なく。ご遠慮なく是非石原大介や、詩を愛する方々皆様いらしてください。
 

[842]一番絞り[2004 11/20 19:25]
>>840

あれ? Fiorinaさんは行かれないのですか?
東京に在住の方ではなかったのか。
それならわたしもやめとくかな。(笑)

そうだ、今月の29日に大阪文学学校でだれでも入れる特別講座があります。
金時鐘(キム・シジュン)さんの講座です。おもしろい人でね、とても楽しい詩人、ゆかいな講座です。
今映画化されている「血と骨」の裏話もしてくれるでしょう。
あの小説の作者は金さんを兄貴と慕っている方ですが、
金さんによると、一緒に大阪の工廠跡に鉄を掘りに行ったら
一日で穴割り(けつわり:しんどいので逃げること)
したやつだよ本当はと笑っていました。
わたしも久しぶりに出席してみようと思います。
では、みなさん、そこでお会いできたらいっぱいやりましょう。
でわ。でわ。
 

[841]一番絞り[2004 11/20 19:17]
>>839
>ネットの何か不透明生を、幾分かでも解消できますもんね。

まったくそのとおりで、ほんというとわたしは掲示板はどこも写真つき
住所、経歴などオープンにすべきで、そうでないと書き込めないぐらいのほうが
いいとつねづね思っています。
ま、いずれにせよ、東京は一度いかなければと思っていたので、行く予定ですが。
 

[838]一番絞り[2004 11/20 19:10]
しょうがない、身の潔白を証明するために

[石原大介さん追悼飲み会及び生誕記念祭]

にドジさんとわたし一番搾りふたりで出席することにしました。
いま、電話でドジさんの了解もとりました。
そのかわり二人の新幹線代金、ホテル代、飲み代、いままでさんざん下衆のかんぐりした方々に
分担して払ってもらいますよ。
ドジさんも久しぶりに東京に行ける(それも銀座)と、とても喜んでいます。
 

[837]一番絞り[2004 11/20 18:48]
>>835
あら、一番絞りさんて、やっぱりドジさんでしたね。


??? どうして?
ドジさんも彼女の共通の友人ですよ?
たくさんの人たちが彼女には関わって、みなで支えてきたんです。

ま、ときどきドジさんも書き込みしているかも、ですが。
 

[835]一番絞り[2004 11/20 18:15]
>共同性少し固い表現なんで、つながりと付けました。
>友達や恋の気持、思い出大切なものの事です。

石川さん、ありがとう。
わたし、鈍いもので、このことばが孤独なわたしを心配してくれて
語っていることばだと、いまやっと気がつきました。
大切な友達や思い出、そういうものは大切だと仰っているのだと思います。

姿のみえない掲示板でなにをいっても信用してもらえないかもしれませんが
そういう人やものなら、ほんのすこし、このわたしにもあります。

というか、女の人にはよくモテます。

年下のかわいい女性から熟年の金持ちの有閑マダムまで。
信用できないでしょうけどね。こんな怒りんぼうがと。(笑)
でも、だめなんですね。続かない。
こないだも若い女の子から小雨の降るなかビニールの雨傘の柄が折れるまで
公衆の面前で頭や背を叩かれました。
わたしはじっと叩かれていました。そして、彼女の怒りがおさまるのを待って
自転車の後ろに乗せて家まで送ってやりました。
この子は過食、不眠、人格障害、「ひきこもり」などの複合症で精神病院に通っていましたが
やっと薬中毒の桎梏から開放させたばかりでした。
それこそ死ぬ気で付き合っていました。

余計なことですが、セックスはしておりません。
今朝の早朝の某テレビ局でこの女性の特集をやっていたのでご存知かもしれませんが
ある映画の主演をして、やっと立ち直りました。
その上映会のあとでわたしに結婚してくれといってきました。
わたしはこれで彼女が完全に回復したなと確認しました。
もうわたしは必要ないと。
その上で、いままで我慢していたうらみつらみ、怒りをぶっつけて出入り停止にしました。
自分を殺して徹底的にやさしくつくすけれど、相手が立ち直ったら
ぼろくそに批判して、てめーがどういう人間か思い知らす口です。
金持ちの有閑マダムも旦那がいるのに通ってきますが門前払いします。
他人からみれば、もったいないほどの女性ですが...。
どういうわけか、わたしは結局、女性に限らず友達を冷たく拒絶してしまいます。
相手が立ち直るまでは一所懸命つくすのですけどね。
もう大丈夫となると、きちっと線を引く。

こんなそんなで、わたしはいつもひとりですけど、
案外、こころのなかでは「よくやっているな」と自己採点して満足している部分もあります。
ふふふ。ちょっとカッコいいこと書きすぎましたかね。
でも、すべてほんとうのことです。

>>834
風さん、ご指摘ありがとうございます。
そうですね、かなり不適切な発言でした。
気分を害した方がおられましたら謝罪します。
すみません。
 

[833]汰介[2004 11/20 17:37]
>戦争への想像力を被害妄想と決め付けて、

被害妄想とはいかなくても、的を外れた捉え方はするし、し得ると思います。
本当の本質とは関係ないでしょうが。

>ほめられるどころかこういうガキに「バカ」といわれるのだろうね。

むしろ、この逆に作者さんが、突発的にイラクに行きそうな危うさを、
持っているのでは、と思いました。
そう言う衝動的な事をした人に、
衝動的に「なんでそんなことしたんだ、バカ!」と言ってしまいそうな自分も正直いる訳です。

要するに団体行動が嫌いな人にとっては、
団体行動に縛られると感じる事自体が、すでに内なる「戦争」であり「恐怖」であって、
その中身が「戦争反対」であろうが「戦争擁護」であろうがどうでもいい訳です。
それだけ身近な人間関係に疲弊している訳です。
それは心の中で葛藤している訳です。

自分の言葉で語るだけでも既に「戦い」です。
イラク戦争だって、宗教と言う見ようによっては、
単なる言葉の羅列の意味合いの違いだけの為に戦争してる訳です。
それが地面に根を張っているだけに、ややこしいんですし。

武器を使わなければ良いと言う問題でもないと思います。
確かに武器は話し合いの場すら無くしますが、
じゃあ、話し合いによって、武器ほどの即効性は無くても、
ジワジワと追い詰めて、結局飢え死にする者を出してるんでは、
しょうがないと思います。
しかもそのジワジワが戦争をするのか?と急ぎ足で突きつけられた時に、
反対と言えなくしてしまうんでしょうね。

まあ確かに、戦争は反対です。
が、イラクの事についても分からないし、
もう、もつれにもつれて、考えるのもおっくうである事は間違いないです。

結局、専門性に委ねるしかない。
突き詰めれば、どっちが悪いのか?と言う問題でしょうし。

人の痴話喧嘩に割って入る位、メンドクサイ問題です。
「ケンカは止めようよ」と言って
わざわざ止めに行けるのはそれこそ、喧嘩の当事者よりも腕力が強いか、
それとも弱みでも握っているかで無いと、
そのケンカは表面上穏やかに終らないでしょうし。皮肉な事ですけど。

当事者よりも腕力が無かったらぶん殴られて終わりでしょうし、
下手すれば刺されるでしょうね。
それで何とかできればそれはその人は「英雄」かも知れませんが。
稀ですよ。そんな人は。
そんな人がいないから武器だってできるんですし、
腕力を正義に使えないから、武器ができるんです。
そこまで行くと、結局は「金」の問題に行き着くでしょうね。
自分が思う以上に、見えない力が働くでしょうね、金の力は。
一切を平均化しますからね。
主義以前に、金をどうするか、と言う問題でしょうね。
金自体が常に天下の回り物でないといけないのに、
どこかにいつまでも滞ると、絶対バランスがくずれるでしょうし。
重油にこびり付いて取れないのかもしれませんが。
まあ、精々言えるのは金の上に乗っかりすぎた生活をしすぎて、
何時の間にか空高く上がっていて、
気付いたらそのまままっさかさまと言う事にならない事を願うだけですね。
落ちた時の衝撃は、それは凄まじいでしょうし。
それだけデモーニッシュで不気味なものですね。
横道それましたが。

多分そう言う実際の現実の出来事や経験を通して、戦争も見る事もあるでしょうし。
まあ、これだけの事を書くだけでも、もう疲れますし。
粘土で顔を洗ってるかのようですね。
 

[831]一番絞り[2004 11/20 14:54]
>戦争反対とか反ブッシュとか、ぼくあれって本質的でないなぁと思います。
>時代の風潮に流されてそんなこと言ってる人ってのは
>同じように時代の風潮に流されていざ日本がどこかと戦争はじまったら
>実はまっさきにその現場にいたりするかも知れませんねえ。
>(にんげんのげんじつと未来:ミキ改め馬野幹(本年で変更)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=24012&from=menu_d.php?start=0

上の馬野さんの意見に星を付けているひともいるので、いちおう批判しておきます。
反戦という理念は、
たしかにほとんどの人の胸にあるでしょうね。しかし、それは「風潮」なんていう問題ではないでしょう。
大昔から、たとえば主婦なんかは戦争なんて大嫌いだと思ってきたでしょうしね。どうして男はそんなに戦いが好きなのかと。
風潮や流行ではなく「戦争反対」は大昔から人々のこころに住み着いた素朴な理念ですよ。
それから反ブッシュはたしかに世界的な風潮ですよ。しかし、それがどういう風に何に「本質的でない」と言っているのかが
よくわからない。
理念的に素朴に戦争反対を念じてきたわたしなんかは「反戦」を叫ぶこと自体が「本質的」でないことはよくわかるんです。
どう「本質的」でないかというと、それは畢竟、戦争反対「行為」ではなく、単なる戦争に反対するという「発話」行為にすぎないと。
発話行為だけじゃ、「本質的な戦争反対行為」にはなってないと。むしろわたしは戦争に反対している善人です
という自己宣伝効果はあるかもしれないけどね。
でも、この文章の作者は戦争反対という立場から、その問題を真剣に考え込んだ上で「本質的」でない
と言ってるのではない。そういうことなら、うなずけない意見でもない。ところが、この方は
戦争反対という理念から言っているのではなく戦争反対と叫んでいる連中というのは「被害妄想」だ
というところに収斂させたいがための揶揄だということが、前段のお話でわかる。
世界から被害がなくなるかどうかは別にして被害妄想がなくなることはないという。
つまりニホンはこんだけ安全で平和じゃないか。食い物は山ほどあるし、人々は楽しく贅沢放題に暮らしているじゃないか。
何を心配しているのだ? いい加減にその被害妄想をなんとかしろと。
この方はそういっているわけだ。

こういう子どもに、戦争反対と叫ぶことの意義を、どうやって説明すればいいのか真剣に悩んでしまうな。
たしかに戦争反対と叫びながら、いざ戦争が始まれば戦時体制にいともやすやすと組み込まれてしまう文学者はいるでしょう。
でもわたしはそういう局面で生きるために仕方なく体制に屈してしまう、そういう人たちを責める気はあまりないな。
それより、反戦を叫べる自由がまだある今、叫ばない人をこそ責めたいな。
戦争への想像力を被害妄想と決め付けて、現状にやすやすと安泰しているこどもさんが

>体現のない理論はもう意味ないとこまで来てると思います

といったところで、いったいそれなんなの? おたくこそ、体言どころか妄想すらないじゃない? のとお聞きしたくなるが、
ま、お子さまのことば遊びに何もこんなに目くじら立てることはないのだろうけど、詩を書いている人が
こんな幼児な発言に何人も星をつけるなんてね。信じられないよ。
 

[830]一番絞り[2004 11/20 07:13]
パチンコは無心に台面に向かってひとりでマスをかいているようなものです。
カラオケもそうですね。
わたし自身はカラオケボックスにいって歌ったことはなく、
いつも飲み屋や立ち飲み屋で歌ってますが、
あれもマスですね。ひとりで悦にはいっている。
こういう「マスかき文化」はわたしも嫌いじゃないですよ。
カラオケもパチンコもこの国の風俗文化ですがある意味、
ニホンという国全体が「ひきこもり」つづけてきたということでしょうね。
癒しとしての「ひきこもり」じゃなく、ほんとうの自閉。
いまその自閉空間でニホンコクミンはサルのようにマスをかいている
という構図ですな。
このサルのマスカキ集団には目がない。というか、目が腐っている。
外界の有様をそのまま伝える機能がなく、極度の乱視と斜視がかかっている。
イラクのファルージャでは戦後復興の調査のために入ったアメリカの技術視察団
でさえ、あまりの破壊のすさまじさに
「どこから手をつけていいのかわからない」と、工兵たちがほとんど泣き出した
というのに、日本のマスコミはくわしいことをなにも伝えない。
だいたい酷民の税金を使って送った自衛隊の活動状況を日々伝えてこそ
マスコミであるのに、いったいどんな活動をしているのか
酷民にはなにも知らされない。また、知らされなくても文句もいわないマスかき酷民がいる。
で、たいへんだぁ〜、海外ではこんなことになってんだぞー、少しは外も見ろよー
なんてことをわたしのように言うものがいたら「被害妄想」だんなんて
これっぽっちも世間をしらないガキにかたづけられる。

戦争反対とか反ブッシュとか、ぼくあれって本質的でないなぁと思います。
時代の風潮に流されてそんなこと言ってる人ってのは
同じように時代の風潮に流されていざ日本がどこかと戦争はじまったら
実はまっさきにその現場にいたりするかも知れませんねえ。
にんげんのげんじつと未来:ミキ改め馬野幹(本年で変更)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=24012&from=menu_d.php?start=0

こういう批評に対して「このバカ」と一言で畳んでしまうのは簡単だけど、
これも「ひきこもり」のなせる所業とおもえば哀れすら催す。
自分の目で見ようとそこへ行くだけで劣化ウラン弾の影響をうけるバクダッド
に勇敢にも単身入るようなことをすれば
ほめられるどころかこういうガキに「バカ」といわれるのだろうね。
 

[829]石川和広[11/19 18:39]
僕はパチンコは何かすぐ金がなくなるのと音がうるさいので少しだけやったけど、あっさりヤメました。
カラオケは、歌は好きなので、体調が良いときは行ってました。

ほんまは、あんな狭いとこはキライなんだけど、デートとかの時は二人になれるので、ありきたりだけども、行ってた時期もあるよ
河原を自転車で走りつつタミオさんなどを歌い狂ったりしました。河原は気持ちいい。体がガタガタなんで、もう少し元気になれば行きたい思います
共同性少し固い表現なんで、つながりと付けました。友達や恋の気持、思い出大切なものの事です
 

[828]一番絞り[2004 11/19 16:57]
>>827

>一番絞りさんは、他者の視線を己自信の中にくりこんで、しまう
>といったらいいのかな?
>そういう形で、精神の病が起こると。そういうことで、
>僕として、理解してよろしいのでしょうか。

あ、こちらこそ、どうも。
素人が生意気なことをいってしまったようですが、
いちおう弁明しておきますと、
わたしが「内なる他者の視線」といったのは意図的に
〈他者の視線を己自信の中にくりこんで、しまう〉
という意味ではなくて、人間誰しも社会的動物である以上、
幼児から大人になるにつれて自然にくりこまれくる意識、つまり
社会的な規範や価値観という意味です。

そういう社会的共同体的な規範や価値観で自分自身を差別してしまう。
それが精神の病いのもとにあるのじゃないかと自分ではおもっています。
ですからこのような社会規範、共同体的な価値観に意識を占領されている
人が自らを差別し痛めつけ自分で自分を排除しようとするのじゃないか。
そこを断ち切るにはあらゆる意味で自由にならなければならないと。
つまり、赤ん坊の無垢な意識にもどれれば、いいのですがね。
たとえば自分が「暗い顔をしている」という意識があれば
赤ん坊だったらそれが当たり前、ちっとも「暗い顔」ではないとおもうでしょうね。
それが生まれつきのふつうだと。
暗いとか陰湿だとか、シツコイだとか、ケチだとか、ブスだとか
あらゆるマイナーな言語とそれの意味するところは
所詮、だれかに押し付けられたものに過ぎず、たいした意味はないのですけどね。


>一番絞りさんのいうひとりは、共同性を何らかの形で必要とするだろう。
>つながりといってもいいかもしれない。

共同性というものが、なんらかのアイデンティティ=同一性のもとに、
ともにある状態をさしているのなら
わたしはそのような「共同性」=アイデンティティというものを否定します。
それこそ、そのような共同性は、あらゆる精神の病の源だと理解していますし
差別、排除、暴力の源泉だとおもっています。
家族、会社、宗教・政治団体、国家といった単一の集団に同化することは
自らを疎外することにつながると考えています。

さまざまな価値を整序化する中心的・支配的な価値が欠けていることは
いわゆる「アイデンテイィティクライシス」ではなくて、逆に、そのような
あるひとつの価値観が自己を支配するような状態を、たとえばハンナアーレントは
「アイデンティティの危機」といっているようです。
自己の中に複数の価値観をもてば、そこに対話がはじまり、決して自らを
自らが差別するような事態にはいたらないのじゃないかと、やや図式的ですが
そんなふうに考えてみたりします。
他者論ではそれを内なる他者というような言い方をしているようですが
わたしにとってそれは他者ではなく、内なる複数の自己とでもいうべきものです。
アイデンテイィティなんてだれがつくった語彙かしりませんがクソくらえです。
ひとりの状態を恐れることはまったくないのであって、
月並みな言い方ですが、内的な宇宙は外部と同じ構造だし、外部と同じほど広いし
そこで複数の自己を築き上げることも容易だとおもうのですが
どうして社会はそれを異常扱いするのか、わたしにはわかりません。

もっともわたしは「ひきこもり」というものを知りませんが。
中年になってからもサーフィンを楽しみ、ラグビーに夢中になってます。
ただ、カラオケとかパチンコって、あれどうみても「ひきこもり」ですよね。
日本人って、本来、ひきこもり好きなんじゃないのかな。
 

[827]石川和広[11/19 13:07]
今日前働いてた心身障害者施設のメンバーのおっちゃんが結婚したという知らせが来ました。長い間ひとりぼっちだった。人から馬鹿にされたり障害者の知友と葛藤したり。僕は職員だった時発作が元でなくなった方がいて列席して話したり。
僕はひとりになれてるか怪しいけど、ひとりぼっちから、出てくる中で自己とのそして社会との葛藤にさいなまれるトバ口か渦中にあります。
そこで差別か他者との妥当な距離からくる言葉かわからない言葉も出てしまう時もある。しかし他に普通に助けられて自己を知ることも多い。その意味で共同性といいました。
 

[826]石川和広[11/19 12:19]
あっ、どうも。

一番絞りさんは、他者の視線を己自信の中にくりこんで、しまうといったらいいのかな?そういう形で、精神の病が起こると。そういうことで、僕として、理解してよろしいのでしょうか。

大体、自分の実感にも当てはまる部分はあります。
そうして、僕は精神を強く病む人たち、僕もふくめていいのかな、生活にかなりの支障をきたす場合は、ひとりぼっちという感覚がかなりの威力で立ち現れてくる。たぶん、一番絞りさんのいうひとりは、共同性を何らかの形で必要とするだろう。つながりといってもいいかもしれない。
 

[825]一番絞り[2004 11/19 12:03]佐々宝砂不老産兄弟
石川さん、こんにちわ。一番絞りです。

いまどきの社会・世界情勢で、ある種の不安、精神的異常性を抱えていない人は
ほとんどいないとおもいます。
わたしだってかなり危ないところにいます。
いわゆる突発性のパニック症候群には再三襲われています。
人間が精神を病むのはこれは人間だけのものだと思います。
たしかに猫や犬もそれに似た症状を示すことはあるようですが
それは心身症=ストレスが身体にあらわれるとでもいうべき症状のもので
精神の悩みではないだろうと推測します。
生まれたての赤ん坊が脳外科的な疾患はともかく、だれひとりとして
精神に病いをもって生まれてこないのでもわかるとおり
あるいは、生まれたての赤ん坊が成長して周囲がデブばかりだったら
デブということになんの痛痒も感じないのと同じように
精神を不安定にさせ悩ませるのは自らの中にある他者の視線がそうさせるのだと思います。
そういう意味で自分の中からそういう「差別意識」=一種の社会意識を払拭し、
ほんとうの意味での孤独を選択し、「一人」になれたらそういう障害は
どこかに吹っ飛んでしまうものでしょう。
「ひきこもり」というのはまさしくそういう擬似的な癒しのスタイルであって
むやみにそこから引きこもる人を引き出そうとする社会の論理には
腹立たしいものを感じます。

わたしはマルクスの唯物論だとかそういった「論」がいくら
論理的であっても、その「論」によって世界を一義的に説明したり、一義的に現象を解読する
ようなことはどこかおかしいと思っているのです。
むしろフッサールの提唱する「現象学的還元」「本質直感」によって
個々人が世界をそのときそのときの状況をかんがみて自在に読み解くことが
好ましいと思います。
わたしの唯一尊敬する日本の哲学者、今村仁司によると
「現象学的還元」とは
「あたりまえのことに驚く能力」の由だそうです。

サルトルは文学はアフリカの子供たちを救えるかといったということですが
それはやはり哲学者の陥る罠であって、そんな言い方でなにほどかのものを
言い当てていると思うのが間違いなのです。
フッサールならこういっていたでしょう。
「アフリカの飢えた子どもたちは文学を救えるか?」
 

[824]石川和広[11/19 10:34]
昔サルトルが文学はアフリカの子供たちを救えるのか?といったことがあるそうな。彼は真摯に、且つ植民地的感性の自覚より、他人への批判がたぶん先行していたかも。だから他の思想家は豊かさの享受を、彼等はキリスト教を背景としながらだから原罪として感じながら、しかし、サルトルの批判は、直感的に、何かゼータクと感じたかも。他の方のその後にも問題があるのかも。
ある種の豊かさの中で育つ苦があり、で個人差はある。感じ方も。これから僕らは個人の負う責任は苦しくも何とか受け止めえても社会保障国防に関して過超な負担を負うだろう。
 

[823]石川和広[11/19 10:06]
卒業時に、精神を重篤に病んだ知り合いがいて、もしかして自分ももう少し且つ決定的にひとりぼっちだったら、似た状態にいたかもしれない、と戦慄しました。

今でも、家にいてつよい不安に襲われますが、卒業後、何度も面接に落ちたり、なぜかというと、暗い顔だからそんなでは世間を生きていけないと説教とか。デイケアにも通ったりして、統合失調症の若い子の家に遊び行ったりしました。
僕もしんどいけど、何となく苦の質的な違いを感じた。
但し自らの差別的と云うか先入観もあると感じながら。何か運命の違いを友情と同時に感じた。
 

[822]石川和広[11/19 09:42]
おはようございます。風さんの、大学のお話、年齢が上の方のようなので、僕は30代なので、ちょっと緊張しながら書いてます。
でも、僕も編入学を検討したり、退学届けを取りに行ったり、を思い出した。
直感的に今の自分の行いが自分自身の気持ちを裏切っていると強く感じるときでした。叫びのような?
僕の場合は、そのシビアな時をゼミの先生に何とか助けられしかし大学を出た後も、しばらく河原で強い焦りと重さを感じて日がな何もできなかった。淀川べりで段ボール建築の人をよく見た。死にそうな気分の中
帰る家がまだあると想った
 

[821]一番絞り[2004 11/19 08:55]
風さんの意見にはおおむね賛成だけど、唯物論をやってればいいというのには、
ちょっと抵抗があるなあ。

〈疎外〉という手垢のついたアカデミックな概念に組みしたくはないけれど、
あえて〈疎外〉ということばの意味を、なんらかの原因によって自分で自分自身を軽蔑したり、
疎んじたり、批判したりし、その結果、過食とかひきこもりとか不眠とか人格障害に陥ることだと自分風に解釈し、
それを「自己疎外」と呼べば、その原因はフォイエルバッハの唯物的疎外論にもとめられるものでもなければ、
その延長線上にあるマルクスの、人間の商品化という形での人間からの「人間の自己疎外」が原因であるともわたしはおもわれないな。
(たしかにそのような人間の商品化という側面はあるかもしれないが、人間はそういう面ではかなりタフな存在だろうとおもう。
その程度のことで人間は毀れるものではない)
たしかにこのような世界認識で何かがわかったような気になるかもしれないが、このような世界の捉え方がでは現実生活で有効であるかというと、単に知識として頭にしまわれるだけのものでしかないような気もする。
そしてときにそれを取り出し、現象にそれをあてはめる体のものであり、そういう人が多いような気がする。
わたしにいわせると自己疎外の原理は非常に単純なものであって、(単純だからこそとてもむつかしい問題でもあるのだけど)一言でいうならば

自己疎外は自分の中の〈他者〉がそうさせている

と昔から直感的にそうおもってきた。
ひきこもりも自殺も過食もすべて根本的な原因は自分の中の〈他者〉がそうさせているのだろう。
自分を信じられないで、自分の中の他者の価値観に重きをおくことがすべての悩みの根本にあるんじゃないかと。
自分の中の他者(の価値観)が自分を痛め、自分を非難し、自分をいたたまれなくさせ、自殺やひきこもりや精神の均衡を失わせる。
逆にいうと、ひきこもりや自殺や精神病に陥る人たちは人並み以上に感性が鋭いところもあるが、非常に差別的であるということでもある。その差別的な社会的な眼差しが内に向かっているにすぎない。
ただ、自分の中の他者=あるいは内なる社会というのはまさしく自分以外の他人が存在したときから
人々の心の中に生じたものであって、そのようなものの価値観から自由になることはむつかしい。
多大な犠牲を必要とする。しかし、詩を書くことは、
ひとつの手立てかもしれない、と漠然とおもっている。
 

[818]一番絞り[2004 11/18 22:20]
詩人というものの、ほんとふの資質のひとつに「豫言能力」があるべきだとわたしは常々考へている。
また、哲學者や思想家あるいは社會科學の學者が數千ページを費やして語る内容を、
詩人は數行のことばで傳へる能力もあるべきだし、
ほんとふの詩人にはそれがあるとわたしは信じている。
たとへばわたしが

 きみの目の前のコップも61億三千萬人の手が觸れてできている
 うそじゃない

と書いたとしよう。
これは詩的な比ゆでもなんでもなくて、ある意味、嚴然たる事實をあらわしてゐる。
簡單なことだ。コップはガラスでできている。その原材料の産出、運搬の過程から販賣にいたる順路に
どれだけ多くのひとたちが關わるかを想像してみればいい。順に辿っていけばいひだろう。販賣まで考慮しなくていい。
運搬の時點ですでに地球上の全人口61億三千萬人がかかわってゐる。ガラスの原材料である珪砂(けいしゃ)は
原産國からおそらくタンカーで海外に運ばれるのだろう。このタンカーをつくるのにも鋼鐵の掘り出し、
運搬、溶鑛爐の建設がある。
鋼材の運搬に運送會社がかかわり、トラックの運轉手の晝飯をくわせる食堂のおじさんもかかわり、
食堂の肉じゃがなら肉じゃがのジャガイモをつくった農家の人たちも關わり、その農家の鍬や
、農藥を作ったひとたちも關わる。
あるいはタンカーをつくる造船工塲の溶接工、その溶接工のバーナーをつくる會社、工塲と辿っていくだけでも、
すでにして地球上のすべての人類がコップひとつに關わっていることは容易に想像できる。
したがって、地球上の61億三千萬人ひとりでも缺けてはこの目の前のコップは存在しなかった。
と過去形で言える。そういうことを詩人は直感で感じて、ことばでしたためるのだ。
同じことを事實關係をもとに資料を驅使して社會學者が論文として發表しようとすれば
どれほどの紙數が必要かわからない。
詩人にはそういふことを直感で書き込む能力があると信じている。
最近、つくづく驚いたのはつぎの詩篇の冒頭のことばだった。

  われわれの魂は 時が来るまで 薄黝い麻袋に入れて
 壁にか懸け並べられてゐる われわれは肉を喰ふが それ
 は われわれの仲間の─遠い仲間の 肉である 喰は
 ねば生きられない それは百数十万年生きのびて来た迷
 信の最後のこだまでもあらうか 小舎の上に大枝をさしか
 けてゐる橡の梢で いま 蝉が神に変わり 神が蝉に変わる

           『漂う舟 わが地獄くだり』入沢康夫

この詩はアフガンやイラクの地獄繪卷のはるか十年前に書かれている。
遠い仲間の肉を喰らわねば生きられない現代の桎梏、
 蝉が神に變わり 神が蝉に變わる
ときがくることを豫言していた。(冒頭の章は「到来まで」となっている)
さすがに詩人てぇ人種は、つくづくすげーやとおもわざるをえない。
そしてまた、この詩人はいまのわたしのかすかな、かすかな、幻のごとき
「のぞみ」についても最後に言及してくれてゐる。

 こんなにも 荒れてゐるのに
 こんなにも まつ暗なのに
 私の
 もう祈ることも忘れ果てた視界を
 白く
 あまりにも白く
 かすめたものよ
 鴎よ
 本当に
 おまへは鴎なのだらうか
 

[816]一番絞り[2004 11/18 17:43]
〈帝国〉への対抗言語はどこにあるか。あるいは〈帝国〉から定義されることへの抵抗。
そういったものを漠然と考えている。

たとえば〈帝国〉は「テロを撲滅」するという。「撲滅するまで〈テロとの戦い〉をやめない」という。
しかし国際司法裁判所から世界で唯一、「テロ国家」と名指しで非難され、有罪の判決を受けたのが当のその〈帝国〉であるという奇態。
そのテロ国家が「テロ撲滅」を叫ぶという究極の言語暴力。言葉とその意味を根底から踏みにじるのだ。
あるいは「低強度紛争戦略」http://www.h6.dion.ne.jp/~kazu-t/LIC/Lic.htm(テロ活動)をいち早く国是として数十年も前から世界中に適応していたのがその〈帝国〉であるという奇態。
またその究極の言語侮蔑・破壊を常態としてテンと知らぬふりを決め込んでいる言論人。
奇態が、定義することによって「正義」に変わる...という言語の死滅。
そういったものに対抗し、抵抗するためには、残念ながら相手方の〈帝国〉の土俵で
相撲をとらねばならない現実がある。
それは大手書店や図書館へ行って、既存の思想書や哲学書、あるいは、それとは切っても切れない最近の流行性言語論を
ひもといてみればわかる。
これがまたとてつもなく矛盾した行為なのである。
たとえばデリダならデリダの書物を開く。すると、難解な定義の山があふれ出てくる。読み込みにくい独特の語り口が門戸に立ちふさがる。
知識人にとってはあたりまえの語彙であり表現かもしれないが、
その語彙の定義を確かめるためには永遠ともいえる書物の森に分け入らねばならない。
たとえばデリダの『声と現象』なら、フッサールの書物に戻ってひとつひとつの語彙にあたり、
フッサールを読めば読んだで、さらにマルクスへと引き戻され。マルクスを読めば、読んだでまたまた、そこからモンテニュー、ヘーゲルなどに戻らなければならない。
ヘーゲルを読めばカントということになり、ついにはギリシャ時代の哲学者にまでさかのぼる。
読めば読むほど、固有に定義された語彙の「へその緒」のつづきはずるずると引けども引けどもきりがない。
哲学思想書というのは、いわば、特権的な知的階級によって意味づけされた「定義」集の山にわけいり、そのなかにはいりこんで
身も心も一体にならなければ理解できない代物だ。
高校、大学から社会人へと長い時間をかけてそれらの語彙の世界に埋没し、一体化した人はそれでいいだろうが
ふつうの人にとってはたまらなく特殊で狭い、共同体の世界である。
フーコにしたって日常のなかにひそむ権力構造を暴くといいながら、自分自身はテンと疑いもなく
こういった知識人の特権的言語を平然と使っている。
そういう点を鑑みれば、日本の吉本隆明が平易なことばで思想を伝えようとしている態度にはさすがに見るべきものがある。
なに、一見難解とはいえ、中身はとんでもなくあたりまえのことを言ってるにすぎないのだ。
ただただ、知的特権性を守護するための意味づけされた語法、用法、表現法をもちいるにすぎない。
構造主義などという流行性の言語論などもばかばかしいほど単純であたりまえのことをわざわざひねくって言っているにすぎない。
しかしわたしのような素人、庶民にはとてつもなく偉大な思索がそこに理解不能なことばで書かれているようにみえる。
こういうものとどう戦うのか、がいまのわたしの課題であり、そのひとつのヒントが「ハウルの動く城」だった。

詩の批評専門のサイトがある。
正直言って、一見さまざまに意匠がこらされ、念入りに修辞の糸が職人芸のようにそれぞれ織られているが、退屈だった。
おおざっぱにいうと、それは結局、知的特権階級の過剰で余剰なサロン言語にしかすぎない。
そのようなものが「程度が高い」「詩的な香りのする」批評というものだろう。いや、まさにそうでなければならないのだろう。
 

[814]一番絞り[2004 11/17 18:43]川村 透
>>813

ぼくは中年になってはじめて詩(とくに現代詩)に興味をもち、それで
日本で唯一の詩の専門学校(小説部門もありますが)へ三年間通った。
現代詩のどこがおもしろかったかというとそれはもう当然、「わからない」ところ。
ぜんぜん読めないし、意味不明だし、ちんぷんかんぷんだった。
そこがとても魅力的で、腹立たしいような、くやしいような、不思議な気分だった。
「わからない」ということがある意味、新鮮なことだとはそれまで考えもつかなかった。
でも、一見難解だった現代詩が、学校に通いはじめて数ヶ月もたつと
一行目をとらえた瞬間に何かがすっとこころに届くようになる。
意味を追いさえしなければ、これほどわかりやすいものもないのだと了解した。
すると、とても退屈になった。
あ、ここで作者は書いている途中でちょっと迷ったな、というところまでわかる。
書き手が、どんな詩人の系譜のフォームを踏襲しているのかも一目瞭然になる。
どんな心情の宗教にハマっているかも。
そうすると、どれを読んでも鼻につき、詩が読めなくなった。
これは初心者のハマる傲慢病かもしれない。
あるとき、
このフォーラムを立ち上げた片野さんに「ほんとうは詩が嫌いなんじゃないの」
と掲示板で指摘されたことがある。そのとき、あ、とおもった。
いつのまにか詩がわたしの中で楽しくなくなっている。
あまり好きでなくなっていることに気づいた。
正直いって、わたしはこのフォーラムに投稿されている詩の忠実な読者ではない。
ほとんどまるっきり読んでないのじゃないかな。
迷惑をかける前に退会するべきかもしれない。
しかし、詩が退屈になるのと平行して、いままでまったく興味のなかった「建築」に少し
関心がいくようになった。
あらら、「建築」というのはこれほど面白いものだったのか、という感じ。
というか退屈な現代詩の代りを「建築」にもとめたのかもしれないな。

たとえば宮崎駿監督の最新作「ハウルの動く城」というアニメにヘンな城がでてくる。
これがなにかとてもわたしのこころを打った。この城を見ているだけで理由もなく愉快で
こころが温まる。
いったいあれは何だろう、と無意識にぼんやり考えていたのか。
ある日、淀川の大きな、長い長い橋梁を自転車でよいしょよいしょと渡っていて何気なく下を見下ろし、
「あ、これだ!」と内心声をあげた。
たぶん間違いなく「ハウルの動く城」のヒントになっているはずのものがそこにあった。
葦の茂った河川敷に、ぽつんとひとつホームレスの人がつくった「家」があった。
それがまあ、なんと、すべての部品が、拾い集めた廃品でできている。
壊れたテレビの側面だけだとか、コタツの脚一本だとか、花瓶のかけらだとか、どれもこれもが
もはや製作物・製品として意味を付与されることのなくなった、ほんとうのゴミばかり。
それらが集ってひとつの「小屋」ないしは「家」を作っている。
小屋の主には失礼だが、それはみごとな傑作だった。まったく非対称なデザイン。
予想を裏切る物品の配置。建築の常識を完全に覆す構成。でありながらかろうじて屋根と四角い壁だけは
なんとか成り立たせているのだ。
万歳! と叫びたくなるような爽快感と開放感があった。
それは何ものによっても規定されたり意味を付与されることのない建築物なのだ。
「意味のあるもの」によって固められた最近の詩にまつわる思想や批評。
それらは結局、「意味を付与し、付与されたもの」による強固な、固定的な、権力的な、体制的な構築物でしかないのではないか?
そういう思いがあった。
そのような息苦しさを宮崎駿のアニメ(思想)は意識してか無意識にかこの「ゴミの城」によって吹き飛ばしている。
わたしも詩の批評を、もはや意味を付与されなくなった、ゴミのようなことばをかき集めて書いてみたかった。
しかし、それはどうも叶わないことのようだ。
どう考えてもそれは「低レベル」の作品とみなされる。実際そうだから、みなされてもいいけどね。
フォーラムのレベルを疑わせしめるとまで言われれば、続けるわけにはいかないしね。
ま、そんなことはどうでもいいことだ。

で、短い本題。

イラクやアフガンの死者のことに思いを奪われ、建築物のことには気がつきませんでした。
日本の伝統的な建築物は移動や建て替えなど自在にできることを前提にしてつくられているもののようですが
西洋の場合は半永久的にパーマネントにそこに建てるものらしいです。
それを破壊されるということは、まさに自らの魂や歴史を壊されるという思いがあるでしょうね。
アメリカというのは、うーん、まさにブルドーザーですね。世界中を平坦にして、そこに、みな同じかたちの
カマボコ兵舎のような家をつくらせるのが夢なのでしょう。
 

[812]一番絞り[2004 11/17 12:13]石畑由紀子川村 透
>>810
>ちょっとアメリカの、自分の国が持たないものへのジェラシーを感じてしまいます

ご存知かもしれませんが、
太平洋戦争で古都、京都が空襲を逃れることができたのは歴史ある美しい町並みを破壊することを
米国の学者が強く反対したからだという〈神話〉がまことしとやかに伝えられていますが、事実はそうじゃなかったみたいですね。
広島・長崎への原爆投下までには、いかにもアングロサクソンらしい徹底した用意周到さがあったわけで、まず、
「原爆投下目標選定委員会」なるものが開かれている。
その選定委員会とそれにつづく科学者や軍高官、陸軍大臣などの暫定委員会で満場一致で採択された投下候補地の
一番に選ばれたのが京都でした。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/gennbakutoukaiinnkai.htm
上記のURLの記述はかなりおおまかで、他の資料とは食い違いもありますが、おおむね、
京都以外には広島・小倉・新潟の各都市が候補だったといわれています。
で、そのためにさまざまなテストをしなければならない。いわゆる「模擬原爆」パンプキンの投下テストです。
そのため統合作戦本部は四都市へのあらゆる爆撃、攻撃を禁止し、よって、これらの都市は空襲に会わなかった。
というのが真相のようです。
さまざまな資料によると京都への原爆投下は必至だったようですが、一説によるとスチムソン陸軍大臣と
統合作戦本部との確執の結果、京都は原爆投下をまぬがれたといわれています。
 

[811]斗宿[2004 11/16 22:21]
>まあ、できるだけ楽しく話しましょうよ。
まったくもってその通りで、どうも俺はこの手の話題になると短気でいけない。
俺の短慮から発せられた言葉に傷ついた人達すべてに、この場を借りてお詫び申し上げる。

最終形態に向かって、今実現可能な物事を追求することと、
大局的にみた物事の最終形態を追求することは話の次元が違う。
そこは勘違いしてはいけないポイントだった。

理念として平和を追求し続けることに対して、俺がなんのかんのと文句を言う気はないし、言うべきではない。
それは個人個人の、尊重すべき思想の元に行われていることだから。


……。
ここから先はほとんど独白なのだが。
冷静になってみれば、どうやったって帰ってこないものに手を伸ばしたいだけなのだと気づいてみる。
失くしたもんは失くしたし、奪ったものは奪ったのだ。
それらの事実は厳粛に受け止め、背負っていかねばならない。
そして、背負うことの重さに歩みを止めてはならない。
それが結果として生きているものの務めだろう。
(情けないことに、しょっちゅう立ち止まっているという事実があったりして
俺がまず戦うべきは己自身となんだろうと思ったりする)

「信じようよ」と語りかけてくれた言葉たちは素直に嬉しい。

今朝、子ども達が笑っていた。
明日も当たり前に子ども達が笑えて、そして育つことの出来る未来を目指して
一歩一歩、前を向いて歩いていこうと、まずは己に語る。


最後に考えたのは、命の価値についてだ。
そんなことは、一生考えたって答えなど出ないものなのかもしれないが
ここに限らずフォーラムの幾つかのスレッドをみて、かくも命とは(人に限らず)重いものなのかと感じた。
これらの話題の元になった香田さんの死が無意味に終わらないこと、
香田さんの魂が迷わず、安らかにあることを心から祈る。
 

[808]斗宿[2004 11/11 22:41]
ボルカさんへ

 突然色々まくしたてたことについてはお詫び申しあげます。
 自分でも短慮を起こしていると思いつつ、そう見えてしまう人間もいるのだと、
その人にとって、単純な言葉一つが刃になってしまうのだということだけ言いたくて、
例に挙げさせていただいてしまった。その点もお詫び申し上げる。
 ボルカさん自身が女性の政治参加を否定なさっていないことなどは、
前の文面からでも読み取ることが出来ました。

 これはすごく私的な見解で人に押し付けることではありませんが、
俺は女性・男性を問わず、政治に積極的に参加して欲しいと考えています。
もはや、国際問題は外交官だけが扱うものではなく、我々全てにとって身近な問題であるからです。
そして、そうしていくことが、いずれ来る未来に有益かもしれないと考えているからです。
他人事のようにみえる仰り方はして欲しくなかった。それだけでした。
 ただ、個人個人の思想は押し付けるものではないので、その点はお気になさらないでいただきたい。

 俺も現在ファルージャで起こっている戦いが、戦士のものだとは思えません。
イラクに派遣された自衛隊がなんのためにあの場にいるのかも、正直謎です。
 真の国際貢献とはなんなのか? どういう形で実現されるべきか?
 今も考えています。
 

[805]汰介[2004 11/11 21:05]
>>804

>普通名詞というのは、すべての人に公平に開かれているものだとしたら、それを用いて詩を書いたことが、すぐに特定の誰かに結びつく状態、というものは、自由な表現の場として少し問題があるのではないでしょうか?

ああ、それ分かります。
私もたいして深い意味も無く、固有名詞使って、よく考えたら失敗だったなと思いましたもん。
一般普遍色が強い名詞を個人が使うと、物凄いプレッシャーになりますね。

私の場合、もう遅いと言わんばかりに、強引にゴーイングマイウェイで行きましたが、
あんまり、と言うかかなり良い気分ではなかったですね。私の場合は。
それだけ霊感と言うんじゃないですけど、力の強い言葉だと思いますね。
公で、個人が使うには。
それなりの意図があって使うのは良いでしょうけど、
あんまり考えが無いのならば、使わないほうが無難ですね。
自分の思っている以上に振り回されると思います。
と言うか、個人的には、だれかが依然使っていたその固有名詞を再び使って、
その個人色を塗りつぶして欲しいと思いますし(笑)。

まあ、お陰で見える事もありましたが。
 

[803]斗宿[2004 11/11 00:00]
>やさしい習慣の積み重ね
 この言葉は非常に魅力的だ。俺にとって詩を目指すことは「やさしい習慣の積み重ね」なのだろう。芸術に盛んであれと願うのは人間を育てることであり、美しい風景を創りあげることに他ならない。

 俺はここで、そしてまた別の場所で探し続けている。かつて捨てた信念を、思想を。新しく育てるべき種を、もう一度育てたいと願う芽を。恐怖を取り去る方法を、根付いた憎しみや恨み、負の遺産を墓にだけ持っていく方法を。あるいは、負の遺産を清算する方法を。

 ああ、そうだ。真実の平和があったなら、俺にとって大切なものも、他の誰かにとって大切なものも無為に失われることはなかった。そして、これからも失われることはない。それは異論をはさむ余地のないことだ。究極の理想、すなわち戦争に対する平和だ。

 俺は平和それ自身が虚しいものだと考えているわけではない。俺が虚しいと感じるのは、回避する方法がありながら回避されずに戦争が引き起こされた事実。回避する努力をする前に引かれてしまった引き金。それによって現実に失われたものが、傷ついたものが目を向けられることすらなく忘れ去られていくことだ。真に平和を願い、祈り、そのために魂を捧げ、信じ続けた人々がその信頼を裏切られることだ。

 俺は願っている。こうしてここで俺なんぞの言葉に応えて、自分の信じる戦争について、平和について語ってくれた人たちが裏切られることがないことを祈っている。戦争なんぞ、知らずにすむなら知らなくていいのだ。憎むことも恨むことも知らない者ならばこそ、戦争の極限状態など知らない者なればこそ、どこまでも弛むことなく疑うことなく平和への道を進むことが出来るのではないかとも思う。それもまた希望だ。

 俺は自分に問いかけている。風さんたちが仰っていることが正道であることを感じながら、反発を覚えてしまうのは何故なのか? 望むのは戦争ではなく平和だと言い切れるのに、それを虚しく思うのは何故なのか?
 今ふと思い至ったことがある。
 俺がなにより虚しく思うのは、反発を覚えているのは、平和を願い祈りながら戦争への道を転がり落ちようとしている自らの姿なのだ。

 俺は今こうして日本に暮らしていて、極限の状態からは開放されているけれど、真実自分が今の平和を感受して良いのだと思えていない。強いて言うなら、地雷原を歩いている気分だ。今、目の前にテロリスト達が現れて破壊と殺戮を宣言した時、和解は可能なのだろうか? とてもそうは思えない。戦争という名の爆弾の導火線に既に火はついており、俺たちはそれが縮んでいくのを眺めている 日本列島という名の前線基地が利用されることを、ただただ黙って眺めている。眺めているだけならばまだ良い。俺たちは導火線を縮めることに加担しているのではないか? それが故意であれ、過失であれ、無意識であれ。
 俺たちは米国の武力に護られている。俺たちは他国の民の富を搾取して日々を生きている。俺たちはインターネットという戦争の道具を使用し、今もWWWの中を飛び交う数知れぬ暗号文は、砲火とテロのトリガーとなっている。例えば大人たちが子ども達に、そして自らに夢と感動をと買い求めるディズニーの商品もまた、人を殺すための武器に変わっているのだ。

 平和を現実にする困難や、現実にする過程で失われていくであろうものを考えるのは心が重い。平和を導くにも力が要る(この場合、力とは武力を意味しているわけではない)。力を持つ統率者も必要だろう。今、無為に殺されようとしている者たちをどうすれば護ることが出来るのか? 国庫を空にしても武器の全てを灰にするには足りないとき、どのような手段がその代わりとなりえるのか? 今現実に起きている憎悪の連鎖をどこで、どのように断ち切ればよいのか?
 問いかけは尽きず、俺は未だに俺自身の心の戦場を彷徨っている。

 過去を断ち切れない弱い俺の悲哀なんぞ、俺が独りで墓場にもって行けばよい。
最終的に、それは実に正しいことだ。憎悪は連鎖させるべきではない。
Liberate te ex inferis. 己を救うのは神ではない、己自身なのである。
 だが、事実を事実として語ることすら許されないのか?
少なくとも俺は、ドラマの中の不幸をみて涙を流そうなどと考えているような人々には、その台詞を吐いて欲しくない。

 戦いで何かを護ろうとすることは野生の思考だというが、野生もまた人の一部なのだ。骨の欠片すら残さず吹き飛んだある人は、俺の友人達は、恩人は、恋人は、間違いなく人であった。彼らは人として、自らの信じるものの為に闘った。死や戦いを美化するつもりはないが、彼らを獣と呼ばれて喜ぶ気は到底しない。
 どうか、この場で語られた言葉たちを不用意には用いないで欲しい。言葉は立派な刃になりえることを詩を紡ぐ人間ならば知っているはずだ。そんなつもりはなかったのであろうが、戦場に生きる者たちを、そこで命を懸けて戦う兵士達を無為に冒涜する数々の言葉が発せられた事実に気づいているだろうか?

 戦争をゲームと同列に扱うとはどういうことなのだ?
 女は政に関わらなくてよいとはどのような理由からなのだ?
 武力を行使しないなら、政治という手段を用いずにどのように破壊を止めるのだ?
 今軍部に身を置いていること=命の簒奪者であることを選んでいるという等式はどこで成立するのだ?
 自衛隊員も含めた各国軍の全ての人間が自ら命を弄ぼうとその職についたのか?

 そうではないだろう。
 正しいことなら人の心を抉っても良い訳ではない。 

 戦争が起こるもっとも多くの理由は、思想や宗教や民族の違いではなく現実的な理由がある。が、思想・宗教・民族の違いもまた、おおむね現実的な理由によって分かれてきたのである。人間が精神的な生き物でもある以上、それらを一つのファクターとして忘れてはならない。自らの思想を信念を貫き、護り通す事を、確かに世界の人々は実行している。けれど、その道はけしてけして平坦などではないのだと知っていて欲しい。正道を貫こうとするとき、時として非道な道を通らねばならない現実を心の片隅にでかまわない、置いておいて欲しい。
 それらを背負う覚悟をもって平和を語るなら、俺などにもう言うことはない。

 最後に、平和について、戦争について、この場所で必死に問いかけ、語ってくれた人たちに俺は心からの感謝を捧げる。
 ありがとう。
 

[796]佐々宝砂[2004 11/09 21:39]斗宿石川和広
辻まことによれば、「防衛」は甲虫で、「この不潔な甲虫は恐怖からわいた」のだそうですよ。
 

[793]石川和広[11/09 12:43]
そういえば音楽も絵本スレもあるけど、絵とか写真のスレはないな…
僕、実はパソコンなくて近所にただで使える施設のを利用したり、携帯からやってるんだよね。
だから、というかスレが多いしさ、パソはないし、鬱でからだがめんどくさいから買いに行かないし、優柔不断だし…
その割に作品は多作だわ口はあちこちだすはオレは少し軽躁なんかも。
軽躁の一言

フォーラムで国民投票してみたら、だれが首相になるのかな?

なんか川柳というか笑点みたいだ。こないだ清野さんのサイトを見たら、ブッシュの小噺サイトリンク在り
 

[791]ダーザイン[2004 11/09 03:12]斗宿
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041109-00000008-mai-int
硝煙のファルージャ

このたびのイラク戦争では10万を越える一般市民が死んだ。
家族友人、100万の恨みを買って、石油利権強奪とイスラエル支援の為の侵略戦争を米帝は展開しているわけだが、

人口30万のファルージャではこのたびの米軍突入の前に、既に700人の一般人(女子供)が虐殺されている。
米軍と傀儡政権によるファルージャ突入で、またどれだけの市民が死ぬのだろう。
ファルージャはアルカイダ゙系など、外国から来たテロリストの巣になっているというが、
家族を殺された多くの市民も、救いようのない怒りを胸に、武装蜂起の列に加わっているようだ。

開放の虎アラファトが死のうとしている今、
ファルージャで米帝に異議申し立てをした者たちが圧殺されようとしている。
指をくわえて見ているしかないのか?
俺は今、東アジア反日武闘戦線の闘争を思い出している。
真っ黒な心で。テロリストの心で。

米国領事館はその辺にもある
 

[790]石川和広[11/09 02:41]斗宿
僕は斗宿さんの云うこと、慎重に考えてみた自分なりに
平和ボケは?だが、かなり傷付いてると感じた
ヘミングウェイの小説にも出ますが、帰還兵は鬱状態を持つことが書かれ、帰った国の雰囲気に戻り難くなると。だから、戦争ボケと呼ぶのは、ちと。僕の祖父は招集され死線をさ迷い帰ってきたので彼が帝国の戦に加担していたけど、先の大戦は拒んでも処刑されるから、どちらを選んでも罰の中死んだかも。故今の僕いなかったかも
斗宿さん正義を武器に変えた。友救う為。大切な日常が更に壊れる事。が貴方が選んだ事。竹内浩三の詩を読んでみて
 

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