雑談スレッド5[803]
2004 11/11 00:00
斗宿

>やさしい習慣の積み重ね
 この言葉は非常に魅力的だ。俺にとって詩を目指すことは「やさしい習慣の積み重ね」なのだろう。芸術に盛んであれと願うのは人間を育てることであり、美しい風景を創りあげることに他ならない。

 俺はここで、そしてまた別の場所で探し続けている。かつて捨てた信念を、思想を。新しく育てるべき種を、もう一度育てたいと願う芽を。恐怖を取り去る方法を、根付いた憎しみや恨み、負の遺産を墓にだけ持っていく方法を。あるいは、負の遺産を清算する方法を。

 ああ、そうだ。真実の平和があったなら、俺にとって大切なものも、他の誰かにとって大切なものも無為に失われることはなかった。そして、これからも失われることはない。それは異論をはさむ余地のないことだ。究極の理想、すなわち戦争に対する平和だ。

 俺は平和それ自身が虚しいものだと考えているわけではない。俺が虚しいと感じるのは、回避する方法がありながら回避されずに戦争が引き起こされた事実。回避する努力をする前に引かれてしまった引き金。それによって現実に失われたものが、傷ついたものが目を向けられることすらなく忘れ去られていくことだ。真に平和を願い、祈り、そのために魂を捧げ、信じ続けた人々がその信頼を裏切られることだ。

 俺は願っている。こうしてここで俺なんぞの言葉に応えて、自分の信じる戦争について、平和について語ってくれた人たちが裏切られることがないことを祈っている。戦争なんぞ、知らずにすむなら知らなくていいのだ。憎むことも恨むことも知らない者ならばこそ、戦争の極限状態など知らない者なればこそ、どこまでも弛むことなく疑うことなく平和への道を進むことが出来るのではないかとも思う。それもまた希望だ。

 俺は自分に問いかけている。風さんたちが仰っていることが正道であることを感じながら、反発を覚えてしまうのは何故なのか? 望むのは戦争ではなく平和だと言い切れるのに、それを虚しく思うのは何故なのか?
 今ふと思い至ったことがある。
 俺がなにより虚しく思うのは、反発を覚えているのは、平和を願い祈りながら戦争への道を転がり落ちようとしている自らの姿なのだ。

 俺は今こうして日本に暮らしていて、極限の状態からは開放されているけれど、真実自分が今の平和を感受して良いのだと思えていない。強いて言うなら、地雷原を歩いている気分だ。今、目の前にテロリスト達が現れて破壊と殺戮を宣言した時、和解は可能なのだろうか? とてもそうは思えない。戦争という名の爆弾の導火線に既に火はついており、俺たちはそれが縮んでいくのを眺めている 日本列島という名の前線基地が利用されることを、ただただ黙って眺めている。眺めているだけならばまだ良い。俺たちは導火線を縮めることに加担しているのではないか? それが故意であれ、過失であれ、無意識であれ。
 俺たちは米国の武力に護られている。俺たちは他国の民の富を搾取して日々を生きている。俺たちはインターネットという戦争の道具を使用し、今もWWWの中を飛び交う数知れぬ暗号文は、砲火とテロのトリガーとなっている。例えば大人たちが子ども達に、そして自らに夢と感動をと買い求めるディズニーの商品もまた、人を殺すための武器に変わっているのだ。

 平和を現実にする困難や、現実にする過程で失われていくであろうものを考えるのは心が重い。平和を導くにも力が要る(この場合、力とは武力を意味しているわけではない)。力を持つ統率者も必要だろう。今、無為に殺されようとしている者たちをどうすれば護ることが出来るのか? 国庫を空にしても武器の全てを灰にするには足りないとき、どのような手段がその代わりとなりえるのか? 今現実に起きている憎悪の連鎖をどこで、どのように断ち切ればよいのか?
 問いかけは尽きず、俺は未だに俺自身の心の戦場を彷徨っている。

 過去を断ち切れない弱い俺の悲哀なんぞ、俺が独りで墓場にもって行けばよい。
最終的に、それは実に正しいことだ。憎悪は連鎖させるべきではない。
Liberate te ex inferis. 己を救うのは神ではない、己自身なのである。
 だが、事実を事実として語ることすら許されないのか?
少なくとも俺は、ドラマの中の不幸をみて涙を流そうなどと考えているような人々には、その台詞を吐いて欲しくない。

 戦いで何かを護ろうとすることは野生の思考だというが、野生もまた人の一部なのだ。骨の欠片すら残さず吹き飛んだある人は、俺の友人達は、恩人は、恋人は、間違いなく人であった。彼らは人として、自らの信じるものの為に闘った。死や戦いを美化するつもりはないが、彼らを獣と呼ばれて喜ぶ気は到底しない。
 どうか、この場で語られた言葉たちを不用意には用いないで欲しい。言葉は立派な刃になりえることを詩を紡ぐ人間ならば知っているはずだ。そんなつもりはなかったのであろうが、戦場に生きる者たちを、そこで命を懸けて戦う兵士達を無為に冒涜する数々の言葉が発せられた事実に気づいているだろうか?

 戦争をゲームと同列に扱うとはどういうことなのだ?
 女は政に関わらなくてよいとはどのような理由からなのだ?
 武力を行使しないなら、政治という手段を用いずにどのように破壊を止めるのだ?
 今軍部に身を置いていること=命の簒奪者であることを選んでいるという等式はどこで成立するのだ?
 自衛隊員も含めた各国軍の全ての人間が自ら命を弄ぼうとその職についたのか?

 そうではないだろう。
 正しいことなら人の心を抉っても良い訳ではない。 

 戦争が起こるもっとも多くの理由は、思想や宗教や民族の違いではなく現実的な理由がある。が、思想・宗教・民族の違いもまた、おおむね現実的な理由によって分かれてきたのである。人間が精神的な生き物でもある以上、それらを一つのファクターとして忘れてはならない。自らの思想を信念を貫き、護り通す事を、確かに世界の人々は実行している。けれど、その道はけしてけして平坦などではないのだと知っていて欲しい。正道を貫こうとするとき、時として非道な道を通らねばならない現実を心の片隅にでかまわない、置いておいて欲しい。
 それらを背負う覚悟をもって平和を語るなら、俺などにもう言うことはない。

 最後に、平和について、戦争について、この場所で必死に問いかけ、語ってくれた人たちに俺は心からの感謝を捧げる。
 ありがとう。
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