2004 11/17 18:43
一番絞り
>>813
ぼくは中年になってはじめて詩(とくに現代詩)に興味をもち、それで
日本で唯一の詩の専門学校(小説部門もありますが)へ三年間通った。
現代詩のどこがおもしろかったかというとそれはもう当然、「わからない」ところ。
ぜんぜん読めないし、意味不明だし、ちんぷんかんぷんだった。
そこがとても魅力的で、腹立たしいような、くやしいような、不思議な気分だった。
「わからない」ということがある意味、新鮮なことだとはそれまで考えもつかなかった。
でも、一見難解だった現代詩が、学校に通いはじめて数ヶ月もたつと
一行目をとらえた瞬間に何かがすっとこころに届くようになる。
意味を追いさえしなければ、これほどわかりやすいものもないのだと了解した。
すると、とても退屈になった。
あ、ここで作者は書いている途中でちょっと迷ったな、というところまでわかる。
書き手が、どんな詩人の系譜のフォームを踏襲しているのかも一目瞭然になる。
どんな心情の宗教にハマっているかも。
そうすると、どれを読んでも鼻につき、詩が読めなくなった。
これは初心者のハマる傲慢病かもしれない。
あるとき、
このフォーラムを立ち上げた片野さんに「ほんとうは詩が嫌いなんじゃないの」
と掲示板で指摘されたことがある。そのとき、あ、とおもった。
いつのまにか詩がわたしの中で楽しくなくなっている。
あまり好きでなくなっていることに気づいた。
正直いって、わたしはこのフォーラムに投稿されている詩の忠実な読者ではない。
ほとんどまるっきり読んでないのじゃないかな。
迷惑をかける前に退会するべきかもしれない。
しかし、詩が退屈になるのと平行して、いままでまったく興味のなかった「建築」に少し
関心がいくようになった。
あらら、「建築」というのはこれほど面白いものだったのか、という感じ。
というか退屈な現代詩の代りを「建築」にもとめたのかもしれないな。
たとえば宮崎駿監督の最新作「ハウルの動く城」というアニメにヘンな城がでてくる。
これがなにかとてもわたしのこころを打った。この城を見ているだけで理由もなく愉快で
こころが温まる。
いったいあれは何だろう、と無意識にぼんやり考えていたのか。
ある日、淀川の大きな、長い長い橋梁を自転車でよいしょよいしょと渡っていて何気なく下を見下ろし、
「あ、これだ!」と内心声をあげた。
たぶん間違いなく「ハウルの動く城」のヒントになっているはずのものがそこにあった。
葦の茂った河川敷に、ぽつんとひとつホームレスの人がつくった「家」があった。
それがまあ、なんと、すべての部品が、拾い集めた廃品でできている。
壊れたテレビの側面だけだとか、コタツの脚一本だとか、花瓶のかけらだとか、どれもこれもが
もはや製作物・製品として意味を付与されることのなくなった、ほんとうのゴミばかり。
それらが集ってひとつの「小屋」ないしは「家」を作っている。
小屋の主には失礼だが、それはみごとな傑作だった。まったく非対称なデザイン。
予想を裏切る物品の配置。建築の常識を完全に覆す構成。でありながらかろうじて屋根と四角い壁だけは
なんとか成り立たせているのだ。
万歳! と叫びたくなるような爽快感と開放感があった。
それは何ものによっても規定されたり意味を付与されることのない建築物なのだ。
「意味のあるもの」によって固められた最近の詩にまつわる思想や批評。
それらは結局、「意味を付与し、付与されたもの」による強固な、固定的な、権力的な、体制的な構築物でしかないのではないか?
そういう思いがあった。
そのような息苦しさを宮崎駿のアニメ(思想)は意識してか無意識にかこの「ゴミの城」によって吹き飛ばしている。
わたしも詩の批評を、もはや意味を付与されなくなった、ゴミのようなことばをかき集めて書いてみたかった。
しかし、それはどうも叶わないことのようだ。
どう考えてもそれは「低レベル」の作品とみなされる。実際そうだから、みなされてもいいけどね。
フォーラムのレベルを疑わせしめるとまで言われれば、続けるわけにはいかないしね。
ま、そんなことはどうでもいいことだ。
で、短い本題。
イラクやアフガンの死者のことに思いを奪われ、建築物のことには気がつきませんでした。
日本の伝統的な建築物は移動や建て替えなど自在にできることを前提にしてつくられているもののようですが
西洋の場合は半永久的にパーマネントにそこに建てるものらしいです。
それを破壊されるということは、まさに自らの魂や歴史を壊されるという思いがあるでしょうね。
アメリカというのは、うーん、まさにブルドーザーですね。世界中を平坦にして、そこに、みな同じかたちの
カマボコ兵舎のような家をつくらせるのが夢なのでしょう。