2004 11/20 21:48
一番絞り
>>832
風さん、長い書き込みご苦労様でした。
壁のような圧倒的な文字の集積をやっと読めました。
とりあえず読めただけですが。
ただ、あなたは何かとてつもない思い違いをされているのでは
ありませんか?
曰く、
哲学的思考においての意味と..
哲学的にはそういう意味では使いません...
哲学が難しいと言われる理由に...
哲学的に言えば...
哲学の基本的条件は...
哲学的考察のみがそのことを...
云々。あなたの、この哲学への独特の思い込みがわたしにはとても奇妙に思えるのです。
「哲学者」ってなんでしょう。
だれがこんな堅苦しい、当を得ない翻訳語をあてたかしりませんが真の意味は
「ものを考える人」です。
カントもキルケゴールもマルクスもニーチェも「ものを考える人」です。
ならば、哲学とは「ものを考えること」です。
伝統的な西洋哲学的思考のみを「哲学」というのならフッサールは厳密にはこの範疇に入りません。
他にも入らない人がいっぱいいます。
でも「ものを考える人」ならフッサールも入ります。親鸞もはいります。
だから仏教「哲学」として成り立つわけです。
要する「哲学」とは、べつにあなたのいうような特殊なことではなくて
「ものを考えること」です。
「ものを考える人」はだからわたしに言わせるとすべて哲学者です。
あまりにも平易な定義かもしれませんが、この定義だとすべての「ものを考える人」を
ひとしなみに掬い取ることができるのです。
マルクスの『資本論』でなされている「疎外」ということばの定義をあなたは
ことこまかに示してくれましたが、
わたしたちひとりひとりがじつはそのことはよくわかっているのです。でもうまく表現できないだけです。
マルクスはマルクスのために「疎外」の定義を下しているのでしょう。
わたしはわたしでそれを言い当てているつもりです。
あなたはあなたでそれを言い当てればいいと思います。
すべてにズレがあってあたりまえですし、また、なければいけません。
でないと世界解釈が一義的になる危険があるし、異見や異論が成り立たないわけです。
でも、あくまでもあなたがマルクスの定義に従ってマルクスの意図する語彙を用い、論を展開したければ
それもいいでしょう。
というより、いわゆる哲学論議というのはそういうものです。
が、それは〈一般言語表象〉という一種の言語ゲームなのだとわたしは考えています。
あなたが努力されていかにマルクスから難解な思意を読み取ったとしても
それは現実には反映できるものではないのです。
抽象的な言語ゲームの世界のデキゴトなんです。
「疎外」なら「疎外」という感じをさまざまなひとたちがさまざまなかたちで表現するとき
はじめて現実が起動するのです。
まして、あなたが最後に書かれた箴言などは現実にはまったく意味のないことだと
わたしは考えています。
ちょっとビール飲みすぎてふらふらしてますので、もう寝ます。