雑談スレッド5[821]
2004 11/19 08:55
一番絞り

風さんの意見にはおおむね賛成だけど、唯物論をやってればいいというのには、
ちょっと抵抗があるなあ。

〈疎外〉という手垢のついたアカデミックな概念に組みしたくはないけれど、
あえて〈疎外〉ということばの意味を、なんらかの原因によって自分で自分自身を軽蔑したり、
疎んじたり、批判したりし、その結果、過食とかひきこもりとか不眠とか人格障害に陥ることだと自分風に解釈し、
それを「自己疎外」と呼べば、その原因はフォイエルバッハの唯物的疎外論にもとめられるものでもなければ、
その延長線上にあるマルクスの、人間の商品化という形での人間からの「人間の自己疎外」が原因であるともわたしはおもわれないな。
(たしかにそのような人間の商品化という側面はあるかもしれないが、人間はそういう面ではかなりタフな存在だろうとおもう。
その程度のことで人間は毀れるものではない)
たしかにこのような世界認識で何かがわかったような気になるかもしれないが、このような世界の捉え方がでは現実生活で有効であるかというと、単に知識として頭にしまわれるだけのものでしかないような気もする。
そしてときにそれを取り出し、現象にそれをあてはめる体のものであり、そういう人が多いような気がする。
わたしにいわせると自己疎外の原理は非常に単純なものであって、(単純だからこそとてもむつかしい問題でもあるのだけど)一言でいうならば

自己疎外は自分の中の〈他者〉がそうさせている

と昔から直感的にそうおもってきた。
ひきこもりも自殺も過食もすべて根本的な原因は自分の中の〈他者〉がそうさせているのだろう。
自分を信じられないで、自分の中の他者の価値観に重きをおくことがすべての悩みの根本にあるんじゃないかと。
自分の中の他者(の価値観)が自分を痛め、自分を非難し、自分をいたたまれなくさせ、自殺やひきこもりや精神の均衡を失わせる。
逆にいうと、ひきこもりや自殺や精神病に陥る人たちは人並み以上に感性が鋭いところもあるが、非常に差別的であるということでもある。その差別的な社会的な眼差しが内に向かっているにすぎない。
ただ、自分の中の他者=あるいは内なる社会というのはまさしく自分以外の他人が存在したときから
人々の心の中に生じたものであって、そのようなものの価値観から自由になることはむつかしい。
多大な犠牲を必要とする。しかし、詩を書くことは、
ひとつの手立てかもしれない、と漠然とおもっている。
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