雑談スレッド5[816]
2004 11/18 17:43
一番絞り

〈帝国〉への対抗言語はどこにあるか。あるいは〈帝国〉から定義されることへの抵抗。
そういったものを漠然と考えている。

たとえば〈帝国〉は「テロを撲滅」するという。「撲滅するまで〈テロとの戦い〉をやめない」という。
しかし国際司法裁判所から世界で唯一、「テロ国家」と名指しで非難され、有罪の判決を受けたのが当のその〈帝国〉であるという奇態。
そのテロ国家が「テロ撲滅」を叫ぶという究極の言語暴力。言葉とその意味を根底から踏みにじるのだ。
あるいは「低強度紛争戦略」http://www.h6.dion.ne.jp/~kazu-t/LIC/Lic.htm(テロ活動)をいち早く国是として数十年も前から世界中に適応していたのがその〈帝国〉であるという奇態。
またその究極の言語侮蔑・破壊を常態としてテンと知らぬふりを決め込んでいる言論人。
奇態が、定義することによって「正義」に変わる...という言語の死滅。
そういったものに対抗し、抵抗するためには、残念ながら相手方の〈帝国〉の土俵で
相撲をとらねばならない現実がある。
それは大手書店や図書館へ行って、既存の思想書や哲学書、あるいは、それとは切っても切れない最近の流行性言語論を
ひもといてみればわかる。
これがまたとてつもなく矛盾した行為なのである。
たとえばデリダならデリダの書物を開く。すると、難解な定義の山があふれ出てくる。読み込みにくい独特の語り口が門戸に立ちふさがる。
知識人にとってはあたりまえの語彙であり表現かもしれないが、
その語彙の定義を確かめるためには永遠ともいえる書物の森に分け入らねばならない。
たとえばデリダの『声と現象』なら、フッサールの書物に戻ってひとつひとつの語彙にあたり、
フッサールを読めば読んだで、さらにマルクスへと引き戻され。マルクスを読めば、読んだでまたまた、そこからモンテニュー、ヘーゲルなどに戻らなければならない。
ヘーゲルを読めばカントということになり、ついにはギリシャ時代の哲学者にまでさかのぼる。
読めば読むほど、固有に定義された語彙の「へその緒」のつづきはずるずると引けども引けどもきりがない。
哲学思想書というのは、いわば、特権的な知的階級によって意味づけされた「定義」集の山にわけいり、そのなかにはいりこんで
身も心も一体にならなければ理解できない代物だ。
高校、大学から社会人へと長い時間をかけてそれらの語彙の世界に埋没し、一体化した人はそれでいいだろうが
ふつうの人にとってはたまらなく特殊で狭い、共同体の世界である。
フーコにしたって日常のなかにひそむ権力構造を暴くといいながら、自分自身はテンと疑いもなく
こういった知識人の特権的言語を平然と使っている。
そういう点を鑑みれば、日本の吉本隆明が平易なことばで思想を伝えようとしている態度にはさすがに見るべきものがある。
なに、一見難解とはいえ、中身はとんでもなくあたりまえのことを言ってるにすぎないのだ。
ただただ、知的特権性を守護するための意味づけされた語法、用法、表現法をもちいるにすぎない。
構造主義などという流行性の言語論などもばかばかしいほど単純であたりまえのことをわざわざひねくって言っているにすぎない。
しかしわたしのような素人、庶民にはとてつもなく偉大な思索がそこに理解不能なことばで書かれているようにみえる。
こういうものとどう戦うのか、がいまのわたしの課題であり、そのひとつのヒントが「ハウルの動く城」だった。

詩の批評専門のサイトがある。
正直言って、一見さまざまに意匠がこらされ、念入りに修辞の糸が職人芸のようにそれぞれ織られているが、退屈だった。
おおざっぱにいうと、それは結局、知的特権階級の過剰で余剰なサロン言語にしかすぎない。
そのようなものが「程度が高い」「詩的な香りのする」批評というものだろう。いや、まさにそうでなければならないのだろう。
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