批評しましょ[311]
2004 09/26 10:22
石川和広

一番絞り氏の、308〜310に渡る労作拝読しました。

ずっと、書き込むのを迷っていました。
私は、辺見庸氏の三部作は、読んでないので…
だから、辺見さんの論点には、さしあたり一番絞りさんには、あなたなりの読み方があるだろうし、危機の表明だとして、読みます。私は、辺見さんのものを読んでない。ただ、「架空」という言葉を使っているので、独立した批評作品として、読んでみたいと思います。
>他の多くの異論が交わされることを願って。。。。。。

というのが、このサイトの趣旨でもあることですし

さて、私が注目したのは、辺見さんの見解は、それなりに、世界の現状を危惧していることが、伝わり、辺見さんをあまり、読んでいないものとしては、単純に勉強になりました。「座談会」には、そういうことをより広く発信したいという一番絞りさんの切実な思いがこもってると感じました。

ひとつ気になったのは、大衆社会批判と云っていいのだろうか、その扱い方のようなものです。
吉本が、ダイエーに関して、現地を見てもないのに、なにを云うとか、筑紫哲也も、震災の現地に行って、「まるで温泉場のようです」云々の発言をした時には、正直ふつうに、何云うてんのと腹立ちました。うちも兵庫ではないが、大分揺れたし、知り合いも兵庫の奴がいたからね。

だけど、それと、あなたの文に大衆が共犯関係に立っているというニュアンスがあり、もう少し、そのあたりを、丁寧に解かないと、一番絞りさんも、市井の人から、どんどん遊離して、危機を唱えて回る危険がありやなしやと、こうお節介ながらも思ったわけです。
どれだけ、あなたが、正当であるとしても、それが伝わらなくて、かなりきつくなりそうな予感がする。

というのはね、僕も、以前「世間」という言葉がでてきたりした時に、嫌な思いをしたですよ。ぼくは、世間でも、大衆でもない、まあ別に、純粋無垢でもない、ただのおっさんとか、にいさんがいて、巨大な資本主義社会にまぎれて、生きていて、この巨大な条件は
なかなか変わらないし、いまのところ、有効な代替システムも見つかってない。だから

>辺見庸がこの本で描いて見せた、いまの国家世界の有り様てのはとてもグロテスクなイメージだよね.外部に向かって毒針のようなものを伸ばし、さかんに小生物を攻撃して栄養を吸いとっている強固な殻があって、その中に、痛覚を麻痺された卵の黄身のように柔らかい液状の「健全なる」モノが、へその緒のように養分を補給されながらかろうじて息をしている。これがわたしたちなんだけど、そういうイメージなんだよ。もう、これだけでも鬱陶しいかぎりなんだけどね。

これは、わかるの、あんまり気持ちいいと思ってないしね、なんかドグマ的な教説を持ち出しても、かなり無効だよな。だから、そういう中で、特権的な位置があると思ってる人を見るとイライラするのもわからないではない。

しかし、少し忠言しときたいわけです。

?大衆社会批判は、ファシズムや、スターリニズム、アメリカの大量消費社会への、危機意識から、生まれたが、いうた人、例、オルテガ・イ・ガセットに見られるように、「たくう、大衆は馬鹿だ」という、それ自体、貴族主義的な位置に立ってしまい、大衆をただのかたまりや、危機意識のない馬鹿どもにしか、みられなくなり、「ただ生きている人」
への視点が見失われがちになり、それほど、批判相手と変わらない、硬直度合いを示してしまいがちなこと。でも、最後の方で、そういう危険を一番絞りさんが、きずきかけているから、僕の杞憂なのかなということ。
>(一) ぼくがこんな架空座談会を開いたのは、有井さんの「詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。」という言葉の意味をいまだに探っているからなんです。
(辺) しつこいね、きみも。

この突込みには、なにか健全なものと、自己破壊的なもの両方があるなと感じました。ぼくは、ここに傷ましい魂を読み、また、傷つきやすい魂は、ぼくもそうかはわからないが、「和やかな」自閉とは別の、荒れ狂う苛立ちの通じなさからくる頑なさを持つだろうと歴史から、「身の回り」から学びます。オルテガも誇り高き立派な学者でした。
全く、違う水準から、自閉症の人と三年ほど関わったときも、彼らが、感覚が過剰に鋭敏な余り混乱して、暴れたり、常同行動に走ったりすると、大変でした。もちろん一番絞りさんが自閉症だというのでなく、私は、彼らに人間の傷ましいヒリヒリした魂の極限形を
見たわけです。

私が大変感動するのは、かれらの意図せざるユーモアです。暴れているのを止めて、落ち着くように体の力を抜くように、肩を揉んだりさすったりしたら、一時間くらいで、寝ました。
ある方が、「人といるのがこころよい体験だということもあること、それを少しずつ感じること」これが、様々な世界に対する感覚の痛みを持つ最大の処方箋だというような話を読んだとき、ここから、世界のルールに出会う以前の、世をただ、遠ざけるのではなく、
参加し自分でせかいを変えていく手がかりを得ていくのかなと思いました。これは、自分に深く刺さって抜けない棘です。だから、他に実作を試みる方々も、一見歩みは遅くとも
世界に参加する、自分の感受の仕方でそうしようとしている方もいる予感がするので、「外」とか「今日この頃であった」は、「詩」ではない、とかは、それ自体理があると感じるけれども、この世界で起こってる事柄に果たして届いてるのかな、届いているとしたら、良かったけど、もう、そこから少しずつ書き始めようとしているのではないか、そういう予感を感じたりもするわけです。

?最後に、今の吉本は、というか、あの人の世界観はもう何かについて行けてない気がするけど、初期の吉本の「マチウ書試論」の関係の絶対性の提示は、一番絞りさんの、自閉からの突破という問題系と近いものを感じます。違ったらごめんなさい。
初期吉本は、張ったりも多く、花田清輝の倒し方も、花田のスターリニズム体質は許せないとしても、独自な批評家の良い部分まで、壊そうとした気がする、でも、先の大戦で、何が市井の人を戦争に動員させたのか、そして、何故、高村光太郎も含め、急に手のひらを変え反省したのか、これらの知識人の変節の時代迎合振りを問うたのも吉本でした。
そういう吉本もあるし、今の弛緩した吉本は、なんなのか大いに問題なので、そこは、なかなか、知らせてくれてありがとうという感でした。

ちなみに、エリアンの手記は好きです。

長文失敬!
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