詩の境界線(最終更新9/16.2008)
佐々宝砂

2002年に詩人ギルドレビュウに発表した文章をもとに、雑談スレでの「詩の定義」議論に、私なりのレスポンスをしたい。下の文章は、あちこちの詩の掲示板で何かと問題にされることの多い「詩の定義」議論に私なりの結論を出したものであって、発表当時、「これに何かつけくわえることはあっても根本的なものはもう絶対に変更してやらない、以後詩の定義について問われたらこれをコピペして済ませる」と決意したので、そのときの決意通りに変更しないでコピペする。


*** ここより ***


散文と詩の境は、考えれば考えるほど曖昧になる。詩には思想があるとか、行分けすれば詩だとか、メタファなどレトリックが駆使されてれば詩だとか、読者の多様な解釈を許すのが詩だとか、心にあふれたものをそのまま書けば詩だとか、実に多様な意見があるが、それらは、少なくとも現代の日本においては、詩を散文から区別するものにはなりえないのではないか。星新一のショート・ショートは、軽いよーに見えてあれでなかなかペシミスティックで虚無的な思想を匂わせているし、夢枕獏の古い小説なんて行分け詩と見分けがつかないし、たいていの小説にはメタファのみならずたくさんのレトリックが使用されている。多様な解釈を許す小説は、そんなに数多いわけではないがないわけではない(有名なのをあげると芥川龍之介の「薮の中」)。心にあふれたものをそのまま書いたと作者が主張するものは、詩でなくてもある、特にエッセイにはけっこう多いのではないかと思う。自分の言葉で書いた「本物」が詩か。もちろんそうでない、そんなことを言ったら、引用・再話・パロディ・パスティーシュの手法で書かれた詩は詩ではないということになってしまう。詩として書かれた感情吐露的な文章は、行分けして書かれた個人的なメールと大きな隔たりを持たない。読者は、見た目でも内容でも、それが詩だと断言することができない(「詩的」な文章だと感想を述べることはできる)。

詳しくは知らないが、英語の詩は音の強弱に基づいている。中国の詩はきっちりした起承転結の構成と脚韻を持つ。古典ギリシア詩は音の長短に基づくリズムを持つ。ならば、日本語の詩を詩たらしめているものは何か。明治以前は話が簡単だった。詩と言えば五と七のリズムを持ったものに決まっていた。考えてみりゃ1000年以上の年月、日本人は「五と七のリズムからなるもの」が詩だと考えて疑わず、それで特に不便はなかったのだ。正しく言うなら「五と七」だけではないけれど、古来日本語の詩を詩たらしめてきたものは、間違いなく音の数(ないしリズム、正しく言えば「拍」)だった。


定型詩の典型的なものと言えば俳句だ。俳句は、一応、五七五の十七文字で書かれ季語があるもの、ということになっている。しかし世間は広いので、中にはこんな俳句もある……

谷風・銭苔
鶏鳴
石神
水無限 (高柳重信)

行分け詩ならぬ行分け俳句(余談だがこの俳句は「しりとり」になっている)。季語もなけりゃ定型にもなっていない、しかし確かにリズムと詩情を持っているこの漢字ばかりの4行は、いったいなにゆえ俳句なのだろうか。あっさり答を書くと、それは、作者自身が「これは俳句だ」と主張しているからに他ならない。作者が俳句という形式を愛し、俳句の世界に棲息してゆこうと決意し、他にもいろいろ表現方法はあるだろうにわざわざ俳句を選んだからこそ、この4行は俳句なのだ。今だって、普通の俳句結社で、これを俳句だと主張するには勇気がいる。しかし、高柳重信は、それまで試みた人のいない行分け俳句というものを創始し、行分けしてたって俳句は俳句なのだ、と主張した。私はその主張を美しいと思う。

高柳重信の俳句のように、定義を逸脱してゆこうとする詩がある。逸脱しながら「それでもこれは詩だ」と主張する声があがるたびに、詩というジャンルは新たな可能性を広げ、発展してきたのではないか。最初の口語詩だって、最初の散文詩だって、逸脱の結果生まれたものなのではないか。


私は、「詩でなければならない」という要請のもとに表現された一連の言葉が詩なのだと考える。要請といっても依頼を受けて書いた詩が詩だというのではない。書いた当人の意識の問題だ。上手下手の問題ではないし、手法の問題でも、内容の問題でもない。書いた当人が「これは詩だ」と主張していること。書いた当人が「詩でなければ表現できない」または「詩以外でも表現できないことはないが何がなんでも詩で表現したい」と考えていること。書いた当人に「表現方法として詩を選んだ」という自覚があること。要は書いた当人が「詩」にこだわっていること。

詩の目的がコミュニケーションにあっても構わない(もともと詩はコミュニケーションの一手段かもしれないんだから)。書かれた詩がつまらない感情吐露のオナニー詩であっても構わない(私の詩だってそんなときがあるんだから)。イメージを想起させない、ありがちで抽象的で退屈な警句だけでできている詩であってもいい。音楽的でなくてもいい。深さがなくてもいい。思想なんかなくていい。詩じゃないように見えてもいい。私は譲歩しまくることにする。それでもどうしても譲れない、私なりにギリギリの線引き、それ以上は一歩も退けないところに引いたラインが、『「詩でなければならない」という要請』なのである。

恋をするとたくさん詩ができる。詩以外の悩みで苦しむとどわどわ詩が湧いてくる。私だってそんなもんである(笑)。それはそれでよい。しかし、問題はその先だ。恋が成就し(コミュニケーションの手段としての詩の目的を全うし)、悩み事も解決し(ストレス解消の手段としての詩の目的を全うし)、それでもなおかつ詩を書き続けるか? もはや何を言ってもムダなのだと諦念しつつ、日の下に新しいものはないと嘯きつつ、それでもなおかつ詩の可能性を探ろうとして詩を書き続けるか? 『「詩でなければならない」という要請』が、切迫したものとしてあるかどうか? 私は、あなたにではなく、自分自身に問うている。
(2002.8/23)


*** ここまで ***


これを書いて以後私の考えに変更があったか? と問われたら、多少はあったと答えなければならない。上の定義は、いわば「最低限のスタンダード」に過ぎない。そして「最低限のスタンダード」だけでは片手落ちなのだ。もうひとつの「スタンダード」が必要だ。私は、詩の定義をダブル・スタンダードとして考えたほうがいいのではないかと思っている。

そうしたことを私が考え始めたのは、昨日今日のことではない(つまりいとうさんの「つれづれ」に反応して「ダブル・スタンダード」を考え始めたのではない)。私がネットに参入したばかりのころ、私はネットのあちこちで散見する「詩」を読みながら「えええっ、こ、こ、これが詩なの?」と叫んでばかりいた。私が考えていたところの「詩」とはあまりにも違う作品が、ネットにはたくさんあった。でもそれらの作者の一部は、あくまでもそれが詩であると主張した。それとは別な一派は、ネットにある他者の作品が詩であることを認めず、それどころか自分の作品が詩であることすら認めず、あたかも触れることのできない「詩」という崇高な唯一神が存在するかのようにふるまった。どちらが正しいのか私にはよくわからなかった。ただひとつ私にわかったことは、「詩の定義はひとつではない」ということだった。

そこで私は、まず「最低限のスタンダード」を考えた。2002年当時はそこまでで精一杯だった。しかしそこでとどまっていてはいけないと思っている。私が読者として他の作者に課すスタンダードは『「詩でなければならない」という要請』でいいとしても、私が実作者として自分自身に課すスタンダードはもっと厳しいものでなくてはならない。
(2004.1/18.2:18)

***


しかし、自分自身に課すスタンダードを考える前に、ひとつ解決しておかなくてはならない問題がある。私は、以前書いた「最低限のスタンダード」に大きな穴があることを認めざるを得ないのだ。

『「詩でなければならない」という要請のもとに表現された一連の言葉』が詩であるとして、それはそれでいいとしても、それだけが詩なのではない。作者が全然詩だと意識しないでほいほい書いた言葉の連なりが「詩になってる!」ということが、また、作者すら存在しない偶然の言葉の群が「詩にみえる!」ということが、現実にある。つまり詩というものは、「たまたまできてしまう」ことがある。この場合、「詩」という何かを生じさせているのは、読者の意識か、言葉そのものであって、作者ではない。

たとえば、「趣味に生きる方も 資格をとる方も やさしく始めるならユーキャンです」という文章は短歌だろうか、どうだろうか。これは今私のテーブルにある新聞の広告からとった文章だが、偶然かどうか「六・七・五・八・八」のリズムを持つように読むことができ、多少字余りだがこれよりもっと崩れた短歌はたくさんある。かたちとしては短歌といってよい。しかしこれはどうも短歌ではない、詩ではない気がする。では、「朝起きてごはんを食べて歯を磨く」という五七五は? それは俳句じゃない、どうも詩ではない気がする、ということは、たいていの人が認めてくれるだろう。

ということを認めてもらったという前提で、次の例文。

「どらかせんの先にせんこらで火をつけると火花をたしながらぢぬんの上をぐろぐろ回転する花火です。あぶないのてい、はなわてさかずかないていくだちい」
(SFマガジン2003年12月号掲載 唐沢俊一「猿たちの迷い道」より引用)

このなんともいえないシロモノ、唐沢の言によれば中国製ネズミ花火の使用説明書き、であるらしい。どうしてこのような誤植が起きたか予想ができないではないけど、このシロモノ、まあ偶然の産物といってよいだろう。しかし偶然にしてもものすごい。特に後半部の「はなわてさかずかないていくだちい」が放つシュールさは、鬼気迫るような気がしてくるほどではないか。私は、これが詩だと言い切りはしない、しかしこのでたらめな音の連なりは、確かに詩の匂いがすると思う。

「朝起きてごはんを食べて歯を磨く」になくて、高柳重信の行分けしりとり俳句にはあるもの、「はなわてさかずかないていくだちい」がかすかに放っている匂い、いまのところそれが何であるかはわからないが、ともかくそれが詩を詩たらしめているものなのだろうと私は思う。
(2004.1/18.4:20)

***


上までの文章を書いたあと風呂に入って布団にもぐって、はた、と気づいたことがある。あまりにも簡単なことだ。でも忘れていた。無意識には気づいていたらしいが、はっきりと意識には上せなかった。バカバカしいくらい単純なことだけど、書いておかなくちゃならない。詩の定義、ではなくて、詩が成立するための必要条件。

○詩は、言語でできている。

映像詩なんてものがこの世にはある。言葉のない絵画やマンガがやけに詩的にみえることがある。映像・絵画・マンガ・彫刻などの視覚的芸術は、自然を写し取ろうとしているのではなく、何らかの約束のもと自然に似た何かを再現している。視覚芸術というものは、私たちが思う以上に個々の文化に依存しているのだ。横顔を描いた絵を横顔と認識できるかどうか、そんなことさえ文化に依存する。そうした、絵を成り立たせるコード、さまざまなレベルでのさまざまな「約束」が、いろいろな視覚芸術を詩的にしているのではないか。

ところで、世界最強の「約束」ごとは、言語ではないだろうか。ある特定の音がある特定の意味を持つ、どうしてそうなのか、理由なんかない。そういうことになっている。そういう決まりになっている。詩は、非常に恣意的な「約束」のもとに成り立っている。

私は、詩というものがあくまで言語、言葉でできていると信じる。言葉のない詩は、絵のない絵本ぐらいにおかしいと思う。でも、言葉ならなんでもいいし、なんなら表現しないで頭の中で考えるだけでもいい。頭の中の考えは、全部が全部とはいわないけど、一部は確実に言葉でできている。表現されないまま消えた詩が、これまでいくつあったことか。

「表現しなくてもいい」というところまで譲歩したのだから、当然、表現方法は問わないし、何語でもいい。朗読でも人文字でも点字でも手話でもヒエログリフでもC言語でもいい。私はやったことないけど、手話の詩というのはありえるだろうし、豊かな可能性を持っているのではないかと思う。

で、次にもうひとつきわめて当たり前な詩の必要条件。

○詩は、二つ以上の成分から成る。

「二つ以上の成分」というのは「二つ以上の単語」にした方がわかりやすいのだけれど、長たらしいひとつの造語を示して「これが詩だ!」と言われた場合に対処できない。造語というものは、たいてい、二つ以上の成分(意味)をひとつの単語に押しこみ(ルイス・キャロル言うところの「かばん語」)、すでに存在している単語を合成して成り立つ。なので、「二つ以上の成分」という言葉で逃げてみた。

詩は、ふたつ以上の意味が衝突してきしむところに生まれるのではないかと思う。

このへん深く追求すると、テキスト論とか記号論とかゆーものに首をつっこまなきゃならない(すでに首をつっこみかけているが)。そうなると説明がめんどくさくなるし、専門用語も使わねばならなくなるので、私の主義に反する。というわけで、基本的で単純な「詩の必要条件」については、これでいちおうおわり。
(2004.1/18.17:15)

***


と、ここまで書いて「決定」を押して雑談スレッドをみたら、なんか脱力してしまった…まあ、いいんだけど。めんどくせーめんどくせーとほえ猛りながらも私が「詩の定義」「テクスト論」「批評論」「レトリック入門」だのを書いてきたのは、その手のことを質問する人が絶えないからだ。いちいち個別にレスしてるとめんどくさいから、論考を書く。ある程度まとまった論考を書いておけば、URLを示すかコピペするだけで済む。私は、だいたいそういう理由で作品・作者論以外の論考を書いてきた。私はきわめて横着なのだ。

「批評ってなんだ」という問いに対して、私は「Cry For The Moon」で答えたつもりである。今んとこ、あれを変更する予定はない。考えが変わったら書き足すかもしれないけれと、現時点では、あれが私にできる最良の回答だ。「テクスト論」はまだ不勉強でうまく書けない。「ポエム派宣言」も勉強不足のせいで中絶。「レトリック入門」は、発表場所を失ったまま宙に浮いている。でも投げ出したわけじゃない、いつか書き上げてやるつもりだ。誰が何を訊ねてきても、URLを示すかコピペするだけで済ませることができるように(笑)。

つまり私が「詩の定義」について書いているのは、いちど書いときゃあとあと自分のために役立つ、と思ってるからで、「詩の定義」議論が実りあるものになるために、とかなんとかそんな有意義で殊勝なことを考えているからではない。私はとにかくコミュニケーションしたくねえのだ。めんどくさいのだ。

この手の仕事が一通り片づいたら、ゆっくりゆっくり好きな詩を読んで、書いて、好きなだけだらだらしたいな、誰にも邪魔されず、茶々なんか無視して、のほほんと。
(2004.1/18.17:40)

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いま私の頭を占めているのは、「詩は読み手が見い出すものだ」という考えである。もう一年以上前から考えてたことなんだが、今日、やっと腑に落ちた。作者はいちばん最初の読者だけれど、一読者にすぎない。

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たとえばコラージュ詩みたいなシュルレアリズムの手法の詩のことです。エルンスト曰く「XとYを自分が主観的に結びつけたというのではなく、それらがおたがいに結びついてくる状況を自分が観客のように見た」。まあようするに「こうもり傘とミシン」の出会いみたいなもんを、作者自身がオドロキとともに見出すわけです。この場合、作者というより作業者と呼ぶべき人が作品を呼び出した、とゆーことになるかもしれません。

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まだ詩の定義について考えている。もう10年くらい考えている。考えは常に変化するものなので、自分自身で納得できたと思ってもしばらく経つと「うーんなんか違うぞ」と考え直してしまう。数年前の私は「詩でなくてはならないという要請のもとに書かれたものであること」を詩の定義としていたが、いま思えばこりゃ大間違いである。あまりにも作者寄りに偏った考えであったのだ。ランダムに並べた音が詩にみえてしまうことがあるっていう現象がある以上、詩とは作者を必要とするものではない。つまり、作者に「詩でなくてはならないという要請」が切実なものであろうとなかろうと、詩の存在には関係ない。作者すら必要じゃなんだから、作者の志なんかどうでもいいのだ。

というわけで詩は読み手が発見するものである、とここまではいいんだが、じゃあ、読み手は、なにをもって言葉の羅列を詩だと認識するのだろうか。

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必ずしも言葉の意味に寄りかからず、言葉本来の持つ力を読者に再認識させ、言葉そのものに立ち返らせる力のあるもの、が詩ではないかなと思うが、これはまだ定義ではない。

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詩は常に定義から逸脱する。逸脱そのものは忌避すべきものではない。詩は逸脱することによって詩の幅を広げてきたし、これからも広げてゆくだろう。

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まだ断片的に過ぎるなあ。

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で、散文と韻文との違いに「言語、言葉そのものの力に立ち返らせる」かどうかつーのがあると思うんです。小説はあくまでも散文を用いた芸術です。じゃあ詩はなにかというと韻文です。それじゃあ散文詩はなんなのか、そもそも韻文とはなにか。そこんところが私にはまだよくわからない。デジタルな跳躍は詩のひとつの特徴ではあるけど専売特許ではなくて、映画でも小説でも可能なんだよね。でも、「言葉そのものに立ち返らせる」力は、あくまでも詩、韻文のもののような気がするのですが、まだ考えまとまらず。

(2008.9.16追記)


散文(批評随筆小説等) 詩の境界線(最終更新9/16.2008) Copyright 佐々宝砂 2004-01-18 02:52:39
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