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生贄合評スレ (創作系)スレッドオペレーター:いとう
試験的に作ってみます。上手く回らなかったら消します。

やり方。
1.作者が合評して欲しい作品のURLを貼り付ける。合評開始。
2.誰でも好きなことを好きなように。基本的に何でもあり。
3.なんとなく場が収まったら、次の生贄を待つ(笑)。

注1
合評される作品の作者は、合評内容に対してどのような発言権も持ちません。
つまり、自分の作品に対する発言は禁止。最初にURLを晒すだけ。
作者が特定の発言に星を入れるのも禁止します。

注2
合評中は、新たな作品のURL貼り付けを認めません。
合評は1作品に対してのみ、行っていきます。

[438]梓ゆい[2017 01/06 03:30]鵜飼千代子st
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=324598
本年もよろしくお願い致します。
ようやくかけた違うテーマのものを出しました。
 

[436]るるりら[2016 11/19 15:31]
こんにちは
『孤独な友に』
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=323979
について書かせていただきます。

まず 一連目だけで、おかずぬきで ご飯が三杯はいけそうです。
しかし、二連目以降が、いざ批評しようとすると しどろもどろとなりました。
人名が たくさんでてきており、批評をしようとすると
あらぬ方向から 狙撃されそうな 嫌な予感がします。
人物名というのは 人によって 知っている事柄に相違がでます。
したがって、蛾兆さんと 同じ物をどの程度読んできたかも 試されてしまう気もしました。なんだかそこらへんのせいで、批評する気持ちが、萎えぎみだったのですが、一連目には魅力を感じました。

≫俺の詩に3回以上出てきたひとは
俺の友だちみたいなもんだ
と、君はいう

私の場合は、これと似た感情を 読書に対して もっています。
読書というもは、書き手の感受性を読者は、追体験する感じを体験することがありますので、
読書をするのは 友達を増やすみたいなもののような気がしています。
詩作と読書との違いは、詩作は 作者からのアプローチだから、
読書よりも 詩作のほうが 友達感が強いかもしれないなと、思いました。

がんもどきは、雁の似せてあるから がんもどきだとすると、
この詩の友達のようなものは ともだちもどきかもしれず
この「君」という人物にとって 詩とはなんだろう?
極端に生き方をした様々な人名の人々のことを、ともだちもどきとして包括しようとする瞬間。
この「君」の場合は 他人を他人とは思わない時間が 詩なのかもしれない。

孤独な夜に 大勢の ともだちもどきをひきつれて
まっすぐに飛ぶ雁の群れみたいな心の飛行をしている感じがしました。
わたしには 飛行の目的はわからないけれど、
分かるようでわからない飛行、それが トリスの飛行かもしれない。

ふわりと お酒で おさめたところが こ憎いと思いました。
そして、人名を読み返して やっぱり 怖いです。なにを批評させたがっておもっておられるやら
と、思いました。ひぃ
「君」「君」というてはるけれど、蛾兆さんご自身のことを「君」というてはる気がしました。

詩の主体性を ぼんやりとさせたいのは 孤独だからかしら?
逆に、ひとりではないという詩なのかもしれないです。
 

[434]るるりら[2016 11/01 12:32]
梓ゆいさん、蛾兆ボルカさん
貴重なご意見ありがとうございます。

るるりらは スランプに悩んでおりました。
余談になりますが、いま童話を書こうとしております。
モチーフがこの詩に関係するので この詩をたたいていただくと
打開策が見えると思い こちらにあげさせていただいていた次第です。
大変、たすかりました。ありがとうございます。

十一月となりました。どうぞ
次の方、どうぞ このスレッドをお使いくださいませ。
 

[432]梓ゆい[10/24 17:43]
(わたし)という一言を、もう少し削った方が読みやすくなると感じました。

最後の二行部分をひとつ削る
ふたくくり目の物をひとつ削る等。
 

[431]るるりら[2016 10/24 10:09]

[430]梓ゆい[10/24 09:49]
一括書き込み失礼致します。返答ありがとうございます。父が亡くなってから時間が経過して少しずつではありますが、受け入れる事ができつつあります。今回のご意見を拝見し、身内とは言え人の事を織り混ぜて書くことの難しさを改めて痛感しました。宮沢賢治などお名前が出てきた方の作品再度拝見してみます。最後に、投稿することが中心で他の方の作品のご意見を中々書けず申し訳ありません。お時間を見つけて、できうるかぎり私も感想やご意見を書き込みさせて頂きたく思います。

次の方、作品の書き込み宜しくお願い致します。
 

[429]るるりら[2016 10/17 08:57]
>>427梓ゆいさんの作品【対話】についてです。

おはようございます。おひさしぶりです。(梓ゆいさんにとって、わたしが おひさしぶりかどうか わかないのですが、私にとって現代詩フォーラム自体が おひさしぶりなのです。)
いつだったか、梓ゆいさんは コメントで 仏壇に手を合わせてから
詩に向かうと言っておられた気がしています。今朝は、私も そうしてみました。
切ないですね。なにが 切ないかといいますと
生きてるということは、おおいに悲しいことに出会うものだし おおいにおいしいものを食べることもあれば おおいに笑うこともあるのですが、それらの激しい感情は 過去に体験した事よりも たいした感情の起伏ではない様子。そこが 切ないと 思いました。ベースにある感情の起伏は 常に あまり大きくないから この書き方をしておられる。それって いかばかりの悲しみだろうかなあと 想うのです。

生きていて、もっとも激しい感情に 突き動かされるときは、だれしも やはり 愛する人の死に向き合うときが 一番 激しい気持ちに向き合うのでははないでしようか?
わたしも父を亡くしておりますので、この詩を読んで 父の臨終のときのことや 幼い自分に遊んでくれたこと それから御馳走を喜んでいっしょに食べたこととかを 思いました。(そして、それらのことは なにげに 私も 拙詩として書いてきた事柄でもありますよ。)

ただ、梓ゆいさんのお父さまの 遺されたものって、あるいは 私の父が私に遺したものって
思い出だけだろうか?違うと思うのです。

お父さまが遺されたのは思い出ではなくて、本当は
梓ゆいさん ご自身だと思うのです。

私の文章は、詩に対する批評には なってないと思います。最近、詩と向き合う時間が少なくなっているからなのか批評なんてできません。今日は ひとりの人として書かせていただきました。
梓ゆいさんに なにかしら われをわすれてしまうくらいの とっても素敵なことが起こることを祈っています。
 

[427]梓ゆい[2016 10/13 04:55]
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=322835
よろしくお願い致します。
 

[424]ハァモニィベル[2016 09/16 21:34]高橋良幸


『シロツメグサ』蛾兆ボルカ作
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=8287&from=threadshow.php%3Fdid%3D22726
について


 まず、題名がカタカナであるのが、内容と相合わない印象を持った。
冒頭の羅列で、開始早々フェイクを宣言している本作の場合、カタカナ表記の植物図鑑的なニュアンスによってずっと読者を信じこませておきながら終盤で虚構を明かしてひっくり返すという味付けにもならならないので、却って雰囲気を混乱させるだけのような気がする。(私なら『薄紅爪草』にする)

>昔、昔は詰草ではなく、爪草と書いた

 詰草と爪草は、別の植物だからここは誤記に見えるが、この文に従えば、今の「詰草」(クローバー)を、ここでは、「爪草」と言っています、という固有の定義として読める。なので辛うじて架空談義として成立している。(同時に、敢えてクローバーに絞った意味が本来は焦点化される筈なのではあるが・・・)
# クローバーの方だと豊富な象徴すぎる為に、逸話をもっと濃くする必要がある。本作の逸話を活かすのは、すっきりとした「日本の真珠草」(爪草)の方ではないかという気がする。(女の爪と鷹の爪という形状の齟齬は本作では心配に及ばない)


 この作品の核になっている「平安時代ぐらいのこと」という逸話の語り部分は、無駄がなくて読み易いが、
極限状態とはいえ、男が、〈女の指〉を食べてしまう経緯が簡単過ぎる。人間の弱さに対しての苦悩にも無駄がなくて、かえって共感が薄れてしまうように(私は)感じた。
 同様に、奇跡的に生きながらえた男が、今度は〈自分の指〉を切り取って塚にする、回心の部分もあっさりしていて、簡単に許されすぎてしまっている印象がある。
 この作品では、ふたつの男の心理の掘り下げが腑に落ちるかどうかが作品の質を決める。それは、言葉での掘り下げではなく、掘り下げの深さを滲ませた凝縮した言葉がのぞましい。
 そこがあっさりしすぎている為に、やがて塚の周りに折角生えてきて「萌えた」「見慣れぬ草花」が、「静かに揺れる」シーンに、ただ物語のしめくくり以上の意味を感じられない味気無さへと繋がっている。

>女の小さな爪に似た、
>静かに揺れるその草は
>白爪草と呼ばれるようになった

 女の爪―→〈白〉爪草 という繋がりが充分腑に落ちるように書かれていない(指を食べた時、女の爪だけは残った。その後、男は自分の指と一緒にそれを塚に埋めた。そこから爪草がはえてきた、のようにきめ細かく書いてあればまだ緩和するが)ので、重要なラストで読者は違和感を残されてしまうことになる。作者自身も漠然とそれを感じて、そのあと、最終の二連を置いてはみても、面白く誤魔化しきれていないことも、(丁寧に読んだ以上は)指摘しなければならない。


(以上です)

 

[423]るるりら[2016 09/15 10:32]
シロツメグサ
URL:
http://po-m.com/forum/i_doc.php?did=321670
 

まず、冒頭に出てくる彩色なのですが、
しろつめぐさと あかつめぐさは 私も知っているなあと思いきや

「白、赤、青、黄、黒、緑、茶、銀、金、虹色、水玉」

銀がでてきたときに ちょっと うれしい
金がでてきたときに さらに うれしい
そして そのあとの彩色を見たときに、童心になりました。
なんでだろうか?あ。これって、折り紙の彩色じゃん!と思いました。

わたしは、植物のことが好きな 読者なので
≫ツメグサってのがあるのさ
≫昔、昔は詰草ではなく、爪草と書いた

という詩文を読んだときに この詩は記憶に とどめたくない詩かもしれないと感じました。
爪草(花が爪に似ているから)という植物も実際にはあるし、詰草(むかし花を集めて梱包材としため)という植物も実際にある。植物好きにとって ややこしいのです。

失敗をおそれず果敢に言葉に いどまれる自由さが、 すごいです。
ウソにつぐウソを書いておられるのだけど 
この詩文には 悲しさと哀れみと それを浄化する
カタルシスがあります。

ただ。記憶には とどめたくないです。全力で忘れたいと思っています。
だって、花を観察するときに ややこしいんです。ごめんなさい。
 

[421]梓ゆい[2016 09/13 23:11]
書き込みありがとうございます。拝見するのが遅くなって申し訳ありません。ぜひとも参考に致します。
本当に感謝しています。
次の方、書き込みお願い致します。
 

[420]st[2016 08/24 11:41]
ここでの"風呂上り。"とは風呂から上がる妹二人の動作のことで、それにより
沈みそうになり、父の腕に支えられながら、小さな身体を湯船に沈めた
という出来事が、記憶にのこっているということなのでは。タイトルの最後に
わざわざ"。"を入れてあるのは、それを意味するのでは。

一般的に"風呂上り"とは入浴が終わって浴室を出ることですよね。"。"をつける
必要はありません。ちょっとまぎらわしいですね。
 

[419]るるりら[2016 08/23 08:51]
>>417 蛾兆ボルカさんの批評を 読んで、たしかに三人姉妹にだわ。と 誤読だったなあと 思い返しているところです。


ラスト2連について、もうすこし読んでみます。

>>水の抵抗を受けて【沈み】そうになる。
>>慌てないでゆっくりと出なさい。
>>父の腕に支えられ
嵐に呑まれた小船のように
>>小さな身体を湯船に【沈め】た。

蛾兆さんのいうところの 二回の沈没の不可解な余韻について、考えてみました。
語り手は腕を捕まれて、沈没から免れて、大きな安心を得て、
つぎに 湯船に身を沈めているときは、とても安心しているのだろうなあ
そして、湯から上がっても 安心して湯船に心は つかっているままのかもしれないなあ。と思いました。

実際には、語り手は もう大人になっておられるので、
この詩を作者は 読み返すたびに、安心という湯船を追体験しておられるような気がました。
つまり、永遠の湯上りな心を 詩で獲得しようとしているような気もしました。

********
追記です。上記の記述より一日たちました。さらに
ラスト2連について、もうすこし読んでみます。

>>水の抵抗を受けて沈みそうになる。
>>慌てないでゆっくりと出なさい。
>>父の腕に支えられ
嵐に呑まれた小船のように
>>小さな身体を湯船に沈めた。

最後の
一。>>小さな身体を湯船に沈めた。と
二。>>水の抵抗を受けて沈みそうになる。とは、心情的には 逆だと思いました。

湯船というものは、言葉が示しているように
ひとつの船であるかもしれないと 思いました。
つまり、
一。は、おぼれそうな心境で
二。 湯船という舟に 乗船して 心が救わていた。みたいな……。

すみません。私の亡くなった父親は造船が仕事だったものでこの発見?が、
わたしには 嬉しかったもので 追記させていただきました。
 

[416]るるりら[2016 08/22 09:56]
>>414 梓ゆいさま

おはようございます。お父さまとご姉妹の子供のころの入浴の思い出ですね。
わたしも百まで数えるように言われて育ったので、とても懐かしい気持ちになりました。
ただ、いろいろと違和感を感じました。
姉妹と父だけど、四人の声ということは 母もいるみたいだけど、弟でも おかしくはないなー。とか。

語り手は、こどものころを回想しておられる雰囲気なのだけど、
こどもの頃のこころは 思い出せておられない気がしました。

≫熱を帯びて赤く染まる肌、
 ↑いろっぽい気がしました。

≫出窓から出てゆく湯気が
夜空の星に食べられているかのようにも見えた。

すてきです。でも、大人の心で書いている感じが全体的にあるので、魅力が半減していると思います。わたしなら、「」をつかって、こどもの言葉として書きたいです。

≫電球の太陽にきらっと反射をして

こどものころ 電球を太陽みたいだと お思いになったことが きっとおありだったんだろうなあとは思いました。でも、なんだか太陽って 唐突に 思えました。

≫ 父の腕に支えられ
嵐に呑まれた小船のように
小さな身体を湯船に沈めた。

ここも、こどもが「わたしって おふねみたいだなー」って いっているなら愛らしいんですけど
嵐にのまれた小舟って、ほんとうなら命がけですよね。この表現は やめたほうが良いと思いました。

そして、湯船に沈めた。で、終わったら「風呂上り。」って詩にならないですよー。
お風呂からでてないでよお。と、思いました。題名がこの題名なので、この詩の一番 いいたかったのは、「父の腕に支えられ 」ってところで 父に包まれている感じなんだろうなあ。とは、思いました。

ひとのことはあまり言えない私自身の詩のですが、子供の頃に大人に すごく つつまれた感じがしたのを 大人の言葉で書くのって、なんだか 大げさになっちゃいがちです。でも、ほんとうは もっと 着飾らない はだかんぼうの気持ちだったのではないでしょうか?

最後に、ほっかぽか というドラマの曲が楽しいので 紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=JpjI8wE36qE
 

[415]st[2016 08/21 11:38]
>>414 梓ゆいさま

私なら
>しゃこっ。しゃこっ。と響くスポンジの音。
スポンジの音が、しゃこっ、しゃこっ、と響く。
>少しずつ汗を滴らせる。
少しずつ汗を落とす。
>途中上半身を出して空気に当たる瞬間は
上半身を出して空気に当たる瞬間は
>風呂釜の中も楽しい遊び場に早変わり。
風呂釜とは据え風呂の焚(た)き口のことで、その中とい
のはおかしい。従って下記のほうがよいと思います。
"浴槽の中も楽しい遊び場に早変わり。"
>出窓から出てゆく湯気が
>夜空の星に食べられているかのようにも見えた。
出窓から出てゆく湯気に
星ぼしのきらめきはかすんでいる。
>電球の太陽にきらっと反射をして
電球にきらっと反射をして
>嵐に呑まれた小船のように
これはすべて削除
 

[414]梓ゆい[2016 08/20 21:22]
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=318170 よろしくお願い致します。
 

[410]るるりら[2016 07/04 10:03]
追記です。ここは、レスに対する作者の対応は禁止ですので、
疑問の箇所は 投稿板のレス欄に書かせていただきました。
 

[409]るるりら[2016 07/04 09:57]
おはようございます。
有名な詩を 知らない者と知る人がいます。そのレベルは さまざまなです。
まず、私は あまり多くは知らない読み手であることをことわっておいてから、書かせていただきます。そこのところ、よろしくです。実直を旨とし、連組順序を辿る形で書いてみます。

●一連目。まず、冒頭の一連目です。わたしは、ここで躓いたのです。


>『、』だけで書かれた有名な詩もあるし、
    re:具体的には どのような題名の詩だろ?
> 『○』だけの名作もある
    re:草野心平は「冬眠」という詩の中で
    ●とだけ表記した詩を書いたけど、ソレのこと?
>遺伝暗号のATGCだって、
> 見つめていると
>泣けてくる配列だってある
    re:遺伝子配列で泣けるとは、どういうこと?
     その涙は、遺伝子の学者の涙なの?それとも、父親が判明したの?
     この行だけで 妄想が止まらないのですけれど、どうしましょ。
     「泣ける配列」という抒情詩が、書けそう!

●一、の章の冒頭連以外について

ガウディは「発明でない発見しているだけ」「自然を真似ているだけ」と言ったそうです。
人はあらゆる事象に配列を見出し、理解を深めようとする。それは、つまり読書のときに使う頭の使い方と同じかもしれない。

砂浜は ある意味で砂でできた詩【うつくしい(泣ける)点(ポイント)、および配列】でしょうし
帽子の金糸の縁飾りの模様も(その繰り返しも)、ある意味で詩【うつくしい(泣ける)点(ポイント)、および配列】なのかもしれないです。

>ガウディの建築について僕は考えていた
>(窓の無い実験室で、放射能を測りながら)
>ガウディの建築は
>詩としても読めるのかも知れない、と。


この詩の冒頭への私の感想は、この詩を読んでいると試験されている気分になると感じていました。そこに、やっと筆者がでてきてくださいました。筆者(話者)は、キュリー夫人なはずはないでしょうけど、放射線技師、学者、被爆に関する調査員?
放射能を測定しながら、なぜ ガウディを思いついたのでしょう?
個人的には 別所で 蛾兆さんとガウディの勉強をさせていただいていたことがあるので
なんだか 思い出したくなりましたが、思い出せませんでしたが、元素をも読み解こうとするとき
あらゆるものは 本のようなものかもしれません。

●三について、

そのひとは、
「いろはの、い」
「いろはの、ろ」
「いろはの、は」って、
その詩を読み上げた

ふと、この老夫人の絵画にいろはの字を見ておられた現象って、ゲシュタルト崩壊という現象のことじゃあないかしらと思いました。違うものに見える心理が動機づけになって湧いてでてくるモノが詩だとすると、老夫人の示唆は 開眼かもしれないです。 

あらゆるものは詩であるという 気づきに、拝読して 私も胸がいっぱいになりました。
それにしても 私のオツムの中では、詩としておさまりきれない
たくさんの疑問が飽和しているのです。どうしても批評文として結晶化できなくて、
泣ける配列をテーマに 自習しようと思っています。拝読できて楽しかったです。ありがとうございました。
 

[408]るるりら[2016 06/30 11:56]
もうすこし まってください。途中まで書いたのですが
煮えてしまいました。
 

[406]nemaru[2016 06/29 12:52]高橋良幸
1は理屈というより、理念が書かれていて、2で「僕」が建屋を読めちゃうのは実験室で放射線を浴びて、マトリックスの人みたいになんでも言葉に見える能力を得てしまったのか??とSFに思いました。実験中にガウディ建築のことを考えてたら、デーモン・コアの実験みたいに手元を滑らせて危険だとも思いました。3の合評会の風景として、年老いた方に対する若者の容赦のなさは以前見て、敬えよと思ったのですが、やっと今はそう思わない日が来る(そして、僕の歩く道がその人のシワになる)のは深く共感できるなと思いました。

ちとずれますが、鈴木志郎康さんの詩

流れる水を見たい、という思いの訪れ。
わたしは「爺さん」として、
川原に立って、
足元の小石を見る。
一つ二つと数えても、五つ六つと数えられない、足元の石、
目移りして。

(鈴木志郎康『冷たく、通り過ぎるわたし』)

数えると読むはまた違うことですが、砂浜が詩として読めないこともないことに対して、理屈はわかるのですが、実際には「五つ六つと数えられない」と切り捨てるほうが肌に合うというか、それも個人差があって十とか十一まで追える人もいるけれども、ここの「五つ六つと数えられない」という言葉には、十とか十一まで数えられることも含んで書いてあるんじゃないかなと思います。「僕」はもっと漠然と、全体をいっきに把握するように「読める」のかも。砂一粒が一文字という捉え方だとうんざりしちゃうので、もっとザクーッと読むのかもしれないですね。

合評会当時が最低15歳(高校生)だとしても、今はそう思わない「僕」は最低30歳ラインなので、30歳なら仕事で疲れて歩いていると風景がしゅんできたりするもので、それを「読む」としてるのかというと、おそらくそうじゃないのかなと。

風景が入ってくるのと、読んでみるっていうのは真逆かもしれないし、まったく同じことかもしれない。フィフティー・フィフティーかもしれないし、思い違いかもしれない。昨日ゴーヤでセックスしたのですが、「ゴーヤ オナニー」「ゴーヤ セックス」 で検索すると女性が入れる話がほとんどで、男が入れる話は上位には来てませんでした。どっちも入れるですけど、わたしはゴーヤに入れて、女の人はゴーヤを入れるんですね。読んでみるっていう言葉にも、そういう側面があるのかなとふと思いました。流入する部分と、こっちから向かおうとする部分があって、向かおうとしなくても、もともとあることにはあったっていうことを3を読んでいて思いました。でも、それをいちいち気づいていたら前にすすめないよ、という気持ちがあって、精孔を閉じないと人間は生きていかれないと反発もおぼえました。割り切る前の情景というか。それで、わたしは「僕」はかなりロマンチッカーで、ちょっと嘘つきなんじゃないか(無理してるんじゃないか)って、思います。「感じ方」を「読む」と言い換えているわけではないのは、「読んでみる」とことわっているからで、最後の抒情から受ける印象を素直に読もうとすると、その前に錯綜してる伏線をうっちゃらないと読み切れない気がして、それで何度か読み返していると、かもしれない運転とできないこともない運転の箇所を、私自身がかなり断定して恣意的に読んでしまってるな、と反省もします。
 

[404]高橋良幸[2016 06/15 19:04]
蛾兆ボルカさん、ありがとうございます。
大変参考になりました。おっしゃっていることはよくわかります。

それでは次の方どうぞ。
 

[402]高橋良幸[2016 05/28 19:42]あおば
「一日中雨の日にバイクが過ぎる」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=318868

即興ゴルコンダ(仮) http://golconda.bbs.fc2.com に投稿したものを手直ししたものです。
よろしくお願い致します。

────────────
「秘密だよ」はわたしも書こうと思っていましたが、考えているうちに取り下げられてそれきり考えるのをやめたため、どうしてねまるさんが書かれているように書きづらいのかは自分の中で不明なままです。暇なときにゆっくり考えようと思いますが。花の名前を覚えたのでそれが良かったなと思いました。近所に一軒だけ植えられている家がありましたよ。
 

[401]るるりら[2016 05/23 07:40]nemaru
「秘密だよ」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=38708&from=listbytitle.php%3Fenctt%3D%25E7%25A7%2598%25E5%25AF%2586%25E3%2581%25A0%25E3%2582%2588

ねまるさん、ありがとうごさいます。
「あーっ! きえてる」by ねまるさん
はーい。一時は、けしてしまったです。汗。だって、停滞させるには おしいコーナーだと思ったのですよ。

でも、批評していただいたので
わたしとしては、とても参考になりました。この詩を 人様の目をとおして
叩いていただくと、みえてくるものがあると思った私なのです。
おかげさまで、見えてきました。ありがとうございます。

では、次の方 どうぞ
 

[400]nemaru[2016 05/22 21:23]
あーっ! きえてる
多分みなさん書きづらかったのでは、と思います。
原因は投稿日時ではなく、ストレートな感じだからかな
けっこう書いてて悩みました。
「デートスポットを地でやっているような花」うーむ、って感じです
でも多分そのままで、どうしよう…ってなる感じがして…。
次から「書いてます」って合図しといたほうがいいのかな
スイカズラは探しますよ〜 ライフワークだ わっふる
つぎのかたどうぞー!
 

[399]nemaru[2016 05/22 21:16]
昨日通勤途中に寄り道してスイカズラを探したんですけど、遂に見つかりませんでした。
なぜ探そうと思ったかというと、デートスポットを地でやる花ってなんだろうと
考えあぐねたので、実物を見たら閃くかも?と思ったんですけど…
6連目は特に、うーむ…と唸ってしまって。

a(b+c)みたいにできるところをa*b+a*cみたいに書かれているところが多くて、
それを「うた」っていうか、親近感と呼べばいいのかわからないですが、
それぐらい言いたいことなのかな と思いながら
教えてくれてる感じだから、ふんふん聞いていく感じで読めました。
4連目あたりからぐっとハードルが上がっている気はしますが
書いてあるとおりに読んで思いをめぐらすと
なんだか「そうなのかなあ」っておもっちゃいますね。

子供に花の習性を教えつつ、(いつかできる)心の拠り所についても教えている
と書いてみたものの、そこまで釈然と腑に落ちる感触はなくて、
なんだろうなあ、といつまでも考え続けちゃいそうな感じです。

たぶん子供で、いま言ってもわからない事だから
ちょっと最後ポーンとしてて、さびしいんだか、あったかいんだか、いいことなんだか
わたしはなんだかさびしく思ってしまう派でした。
さびしいのは「強くなっちゃうんだなあ」ってことで、わたし依存心強いのかも?とか
疑心暗鬼モードに突入しちゃいそうなんですが。

テーマ化すると1〜3連「習性」、4〜5連「夫婦、人生」、6連「少しエロい」、7連「心」

なんかこんなふうに読んでるように思います、乱暴に聞こえたらスミマセンですが…
耳打ちっぽく読むと、さーっと馬耳東風、かとおもいきや流れて後から後から思い返す
外で毎年見えるものに託すって、いいもんだなと思いました。
 

[398]るるりら[2016 05/19 11:09]
「秘密だよ」という わたしが現フォに投稿した最古の作品をあげさせていただいていたのですが、とりさげます。最古のもののほうが 良くおもえたので、叩いていただきたくなったというのが、その理由です。
そうだとしても、しょうがない気もいたしますので 次の方に権利をお渡ししようと思います。

一度、あげてしまったので 論じていただいても わたしは嬉しいのですが、
旧作すぎて、どなたもお書きになれないと思いますので、
次の生贄の方、どうぞ 立候補をお願いします。
 

[397]梓ゆい[05/18 18:00]
皆様ご意見ありがとうございます。沢山の感想と共に大変戸惑いながらも嬉しく拝見致しました。書き込みが遅くなって申し訳ありません。これは、幼い頃から見ていたものを書きました。本当にありがとうございます。次のかた宜しくお願い致します。
 

[394]媒体[2016 05/12 15:36]
作者の作品がどのような物だというのは人により相違点に成りうるだけの情報。一定の情報化から導き出される物が、同じであるという事は考えられない。ですが、読者の目に映る作品が、同じ情報を導き出せる可能性がある作品だったりするなーと思って読ませていただきました。

作品というよりも作者の思い出であると思わされます。記憶に残されている情景。その情景の中には、慣れ親しんだ風景が、作品に表現されている。そう思います。作品に付けくわえられる視点という物は、物によって支えられる部分が有って。その部分はとても揺らぎやすいです。その為、思いを籠める場合、どうするのかが作者の表現であると思います。

表現するという事は、取り立てて必要で無い情報だと、作者が認識して書かない場合にも、作品、作風に現れます。その中で浮き彫りになっているなーと思わされたのは、家族の姿です。この家族の姿に何を思うのかが、ミソのような気がしてなら無いです。それだけの思いを抱えている作品であると思います。

作品がどうあるべきというよりも、伝えたい事が伝わるかどうかだとも、思えます。伝えたい事が有るのなら、それは身近な家族に見せても、なんら問題がない。作品だと認識しました。私の家族に見せたいくらいです。私が大事にしている風景とは違うけれど。日常にあった風景が、切れ端がとても、胸に迫ってきました。

作品に何を込めるのかを期待しているのではない、気もしています。

違った風景を思い起こさせてくれる作品でもあります。私が経験した家族との思い出を思いださせてくれる作品でした。物悲しさはないのですが、私がいる環境に今、父、母がいないので。物悲しく感じました。

作品自体が大事にされている物であればあるほど、私は何を言えばいいのかな? そう思わされます。それだけ触れて良いのかな? この作品になにが言えるんだろう? そう考えていて思ったのは。

この作品以外に家族の風景があるようなきがしてなりません。これからも作品に込められるであろう思い出の、その総量は計り知れないエネルギーを必要とします。

私が家族の事を思い出す時、幸せだった頃の事を思いだします。私だけでなく、そう感じさせてくれる作品であるような気がしています。それはふと思いだす事も有れば。

次々に思い出してしまう事象がそこにあるのでしょう。私はその何故思いだしたのか? という所が個人的に知りたくなりました。その部分は、誰もが持っている財産ですし。表現の幅にもなりえます。ただし、ぶつりと作品が切れてしまう可能性もあって。読んでいると必要かどうかなー? そう思えましたので、これは全て私の独り言だと思っていただければと、思います。

この作品に書きださないとしても、作者の大事にされている風景は変わらないのだろう。そう思います。
 

[393]高橋良幸[2016 05/12 08:31]
田植えの季節。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=318169

<1>
 私はこの情景は良いと思います。読後感として情景が良いなあと思うのですが、このままでは散文として書いたほうがより情景が深く現れてくる気がしました。散文で書いたほうが良い一つの理由は、時系列に沿って丁寧な説明が可能であることです。特に4連目は何を言おうとされていたのか(何の小ささを何に比べて特筆したかったのか)この3行だけでは不十分ではないでしょうか。全体的に主語がわかる文章のため、ここだけ主語が不明なのもあまりいい効果ではないと思います(母だと推測はできますが)。3、4、5連目はそういった、行分けの詩に押し込むための無理がたたっているように見えました。ねまるさんの指摘されている、「ながら」の多さもそこに関係していそうな気がします。散文でなくとも、行分けをやめて文の長さにこだわらず、散文詩として書いてみたらより良くなるのではないでしょうか。
 情景を想起させるキーワード自体は文の総量に占める割合は少ないので、それに関してはバランスの良い、要点をついた言葉が選ばれているのだと思います。6連目に一旦遠景を描写し、7連目に近景の父が遠くを見る表現は映像的な印象を受けました。欲を言えば、「遠く」が2回連続して出てきているので片方は別の言葉で遠くを表現したほうが深みが出たと思います。
 いわば、写真のような詩だと思いました。作者のアルバムにある大事な風景。この詩は読者のアルバムにしまわれるでしょうか。作者はそうしたいと思っているでしょうか。私が受けた印象は、そのちょうど境界ぐらいにある詩だろうな、というものでした。5連目がこの詩の肝になりうる部分だと思うのですが、その部分と他の連との連携が詩に深みを持たせるためには足りていないと思います。田植えをしたことのない個人の感想ですが、田植えの労働、汗、願いのほうが神様向けの物ではないでしょうか。その延長にいただきますがあって・・・というながれを予感させる構成だと、「いい情景」以上の読後感があると思いました。
 散文詩として情景に深みを持たせるか、行分け詩として神様と家族の有りようを繋いでいくか、より良くするには2通りの方法があるのではないでしょうか。後者の場合は、うまく組み込めなければ4連目は不要な気もします。

<2>
前回有った鉤括弧問題について、今回は7連目には鉤括弧があったほうが良いように思います。理由としては、
1.主語がはっきりしていること
2.
・私も「よろしくお願いいたします。」 なのか、
・「私もよろしくお願いいたします。」 なのか、
読みにつまづきを与える可能性があるためです。(ねまるさんは読みの冗長さの有用性を指摘されていますが)

また、るるりらさんが指摘されている
>都心へと続く田んぼの中の線路。
は私はこのままでも良いと思いました。「線路」の体言止めが何を想起するかは人それぞれだと思いますが、「続く〜線路。」の組み合わせは私には消失点を想起させ、この表現のほうが広がりがあるように感じます。その後の父の動作との間に、もう一行視点を遠景から近景へ移行させる何かが欲しい気がしましたが。
以上です。
 

[392]nemaru[2016 05/11 20:39]
>るるりらさん
ありがとうございます。今苗床や苗箱というのを検索してどんなかなとやっております。わたしもやいのやいの書きましたが
>批評なんかしたくないと思いました。
同意です。読めば読むほどもうここにあるといった感じです。
でもみんな読んでみて、それぞれ感じたこと書いて欲しいですね、それも読んでみたいです
 

[391]るるりら[2016 05/11 11:42]nemaru
梓ゆいさんが このコーナーに批評を依頼させた作品の中で、もっとも 素晴らしい作品であると思います。私は この作品が好きです。できることなら、もっと多くの方に この作品の批評を書いていただきたいです。なのでスレッドのアドレスを 作品の置かれているスレッドに 貼り付けていただきたいなあと、おもいます。

私には、欠点が あまり見つからないのです。しかし、ここの板に投稿させたからには きっと 欠点の指摘も期待しておられるに違いないと
目を皿のようにして弱点を捜してみます。わたしが見つけた点は一点のみです。

冒頭の箇所の表現が疑問でした。
>都心へと続く田んぼの中の線路。

線路という体言止めで一行目を終了させると
線路にフォーカスのピントがあってしまいます。
それよりも たとえばの話ですが、
?田んぼの中の線路は 都心へと続いている
というように 遠景を描いたほうが良いと感じました。


ねまるさんの御批評から思ったことが、二点あります。

一、苗の中
>汗を拭いて腰を曲げながら
>苗の中に身体を沈めると
>小さな身体がより小さく見えるのだ。

ねまるさんには 苗の中という状況が想像しにくかったとのことなので、私の想像を書かせていただきます。
わたしは数年前に、ある村の村おこしイベントで 早乙女の役をやらせていただいたことがあるのと、子どもの頃に田んぼが身近にあったこと経験からですが、水田に苗を植えたすぐは 水田自体に植えられた苗は まだ ひょろひょろとしており、ぜんぜん身体が苗で隠れることは無いと 思われます。
ただ、水田に植える前段階で お百姓さんは苗床で苗を育て、それを水田の近くの畔などに苗を運んでからそのあとで 苗を水田に植えます。苗床で作業するときや、昼食をとるときは畔の近くに座ることとなり すると、水田の片隅にまとめて置かれているであろう たくさんの苗で、身体が隠れるはずです。

二、「」の有る無し。
>父が立ち上がり遠くを見ながら
>今年もよろしくお願いいたします。と言ったので
>一口分のおにぎりを食べながら
>私もよろしくお願いいたします。と
>手を合わせた。

5連の「いただきます。」と
7連、閉じないセリフである⇔ よろしくお願いいたします。は、なにかしらが違うのでしようねぇ。
一連目でいきなり 

>父がおにぎりを頬張った。
とありしかも おにぎりの中身まで 一連目で解ります。
> 梅・おかか・こんぶ。
 
読者としては、いきなり、すごく美味しそうなおにぎりの中身が知らさせた後で、「いただきます」という声を知らされる。

これは、たぶん 話者の脳内で 話者がおにぎりを食べている間も それから食べ終わったあとも、父の音声が再生されているということではないかと、私は感じました。

「いただきます。」は、たぶん前年とかの収穫への田んぼが産みだした結果を、貰う 挨拶で 見えている事柄に挨拶しているけれど、
よろしくお願いいたします。は、未来への挨拶で 見えない事柄に声をかけている。その違いによる表記のようにも 私には 思えて、おもしろいなあと 味わっているところです。

最後の連も さわやかで 心地よく 妹さんたちのように 寝てしまいたい。批評なんかしたくないと思いました。そんなかんだで、私は いままで拝読した梓ゆいさんの作品の中で 本作品が
もっとも好きです。良い詩が拝読でき 幸せです。
ぜひ、もっと多くの方に この詩が目にとまることを祈っています。
 

[390]nemaru[2016 05/10 22:16]
以前ポイントを入れさせていただいた詩は短く、「」や。や…の使い方が独特で変わった雰囲気がしたので「参考になるなあ」と思って入れさせていただいて、そういう感じかと思ったらすごくリアル(?)で

>汗を拭いて腰を曲げながら
>苗の中に身体を沈めると
>小さな身体がより小さく見えるのだ。

わたしはこの光景が少しわかりづらかったです。苗の中というのは、はじめ田んぼの真ん中かな?と思い、いやいや、これはお昼を食べるため、あぜ道に腰を落ち着けるためだろうと思ったのですが、これは少し遠くから苗越しに見るとそう見えるのかな…と。苗の丈の具合をわたしは見たことがないので、周りの田んぼの長けた苗から見て沈むのか、父が植えたばかりの苗から見てそうなのか、小さく見えるどころか、見えなくなっちゃうんじゃないか、などなど。

>「いただきます。」の一言が
>神様への貢物にも見える。

「ほんとかな?」と。 「にも」の「も」で、神様への貢物以外は何に見えるのだろうか? ふつうの「いただきます」に見えるのだろうか。

>一粒残しただけで
>厳しくとがめた母の気持ちが
>額の汗と重なった。

すげー! 一粒と汗のサイズ感とスムーズに入りますね! すげー! わたしもこんなの書きたい!と思っちゃいました。すごいですね。

>父が立ち上がり遠くを見ながら
>今年もよろしくお願いいたします。と言ったので
>一口分のおにぎりを食べながら
>私もよろしくお願いいたします。と
>手を合わせた。

5連の「」で閉じる「いただきます。」と
7連、閉じない よろしくお願いいたします。はまた違うのだろうな、と。
それは流れとしてか見た目としてか事実としてか、
どういう線引でそうなるのかは不明ですけど
なんらかのルールが含まれてるわけですから、
と思いながら、また読みなおすと

>母が麦茶と重箱を差し出しながら
>にっこりと笑っている。

「にっこり」は少し不用意なのかな、とか。
物、物、景色、ようす、にっこり(なんでやねん!)みたいな。
たぶんそこ(差し出しながら)で改行して「笑っている」だけだと
すわりが悪いので出ちゃったのかな、っていう、
なんというか、体裁を気にしちゃってるような感じをこちらがわが受ける面もあると思います

>一息つきながら
>差し出しながら
>腰を曲げながら
>見ながら
>食べながら

ちょっと「ながら」が多いかもしれません
でも
父「見ながら」
私「食べながら」の差ですね
ここは何か、さりげなく決定的なものがあるように思います
信仰の差というのか、「風」に対する反射速度、生命力? いろいろ考えられますが、
「私」は、ちょっと遅れた、でも一口食べた。「風」という言葉はないですけど
何か、前後の文脈や「苗」で、そうかなあって。
列車も走るし、森もざわめいているし。
あんまり象徴的に捉えるより、そのままがいいのかなあって。

もう一度読むと、

>父が立ち上がり遠くを見ながら
>今年もよろしくお願いいたします。と言ったので

>一口分のおにぎりを食べながら
>私もよろしくお願いいたします。と
>手を合わせた。

「私」は「手を合わせた。」なんですね。
前の行に「と(言って)」が含まれているか。
もしくは「手を合わせた。」で無言か。
一口なら、口ごもりながら「言える」可能性もある。

あと、今思ったのが、ここに「」が入らないのは、もしかすると
私も「よろしくお願いいたします。」ではなく、
「私もよろしくお願いいたします。」にするためである可能性も出てきますね。

>さわさわと揺れる苗の深緑。
>少し大きくなった入道雲の影。
>母のひざでは
>二人の妹が寝息を立てている。

最終連は不思議な印象でした。
少し時間が飛んでいるようでもあるし、ゆっくりと流れる時間、外のようでも縁側のようでもある感じ。



今朝ねぼけまなこの初読でしゅむ(おでんにだし汁がよく染みてるような感じです)なあと思いながら何度も読んでましたが、いろいろ意外な発見があって楽しかったです。ありがとうございました!
 

[389]梓ゆい[2016 05/10 01:13]あおば
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=318169
よろしくお願いします。ちょうど今からの時期を思い出しながら書きました。
 

[387]nemaru[2016 04/23 20:41]
おまそまそが序盤から出てきて、なんとなく沈痛な面持ちになり、これがもし朗読だったら、わたしはさり気なく皆どんな顔で聞いているのか確認すると思います。ああこういうスタンスなのね…と安心したくなると思います。そして、高橋さんの評を読んで安心しました。ホッ

おまそまその次が「太陽」ですから、最初の答えとあんまり変わらないじゃないか。落書きにしたらほとんど太陽じゃないか。私が普段からおまそまそのことしか考えていないからかもしれないが、300人が太陽と応える理由がわからない以上、わたしなりに太陽が2位になる理由を深く考えねばなりません…。

おまそまそから太陽へのスライドは「おまそまそ→おまそまその落書き→太陽」となり、おまそまその落書きも分割=splitされた太陽みたいですが、おまそまそはslitであり、裂け目かつ割れ目でありまして、つまりsplitからとったp(ピー音)をなぜちゃんとおまそまそにかけてやらなかったのか!?という怒りが日本全土を覆い、不穏な空気と混じりあって読むにつれボルテージが上がっていきます…

気をとりなおして、とりあえずクイズの答えと順位を並べるとこうなります…

1位 ?
2位 太陽
3位 身体障害者
4位 キス
12位 ブラジャー
はずれ:おまそまそ、ショーツ、ペッティング
パス:右翼

ボクちゃんが見て窘められるものって、スカートの中じゃないかな。でもスカートの中にあるものはランキングから斥けられており、身体障害者は3位にランクイン。身体障害者はスカートの中に入っていないからかもしれない。ブラ、キス、太陽までは目線的にあがる(ここでなんとなく陰唇期(そんなのない)とか肛門期とかいうのも挙がってくる。自己→他者的なもの)が、身体障害者がこの路線阻む。ということは、なにか違う「あるある」で連なっているのかもしれない。よく考えて見れば、ペッティングも上でも下でもない。不謹慎で打線を組んだようでもあるが、単純にそうでもないのでイーッ!となる。陰唇はクレバスと考えるとあんがい腑に落ちる。あとインシンと書いて音信と変換されるのも偶然今発見して、符号を感じる。陰唇不通とか。なんじゃそりゃ。あとこれ生放送なのか、生なのかって問題ですね。終末だから生なのか、生で言っちゃったから終末なのか。

ボク=日本人と考えて政治的な暗・陰部、あるいは逆に日向だけど無関心な部位? 政治的無関心? 地質学的無関心? いや、それにしてもすっごい恣意的なクイズ番組だよなあ、こんなの、多数派想像するの難しいなあ。番組のあっけらかんとした進行と臨時ニュースに決壊のようすをみてとりながら、ハラハラ読みつつも、これで不穏になったら若干負けな気もしつつ。脳みその、みっつ点があったら顔に見えてしまうところで、臨時ニュースが同時多発したら緊張してしまう自分が悔しい。でも掻き消されるって怖いことですね。ホワイトノイズ、砂嵐と捉えるが、ホワイトってしゅわっと消えちゃいそうでおそろしい。そういう意味では(拍手)(嬉しそうに)(笑)は(ホワイトノイズ)と同等に表現されてて、そこもちょっとこわい

糸魚川静岡構造線というのはえらく具体的だなと思ってWikipediaで読んだら新潟の親不知(崖のところらしい)から安倍川あたりまで続くの大断層。浜岡原発は御前崎で安倍川はそのちょっと東に位置する。もんじゅは福井県の敦賀。北朝鮮は西のほう。キューバは太平洋挟んで遠く東に位置する。たぶん

南海トラフと駿河トラフそれから糸魚川静岡構造線を線で結ぶと日本は真ん中で離断するような感じになる。わたしの中ではブラックジャックの傷みたいなラインが日本の真ん中に走るイメージ。その上富士山(ブラックジャックでいえば鼻あたり)は噴火寸前、アメリカの潜水艦と北朝鮮が頭の上でドンパチし始める(設定)。真ん中のほうがシッチャカメッチャカになるイメージと南海トラフの影響考えるとそこに四国・近畿圏も入ってくる。

津々浦々=いたるところの津や浦。全国いたるところ。(Weblio辞書より)この津々浦々をほとんど恣意的に解釈し、端っこだけ見れば確かに田舎者1000人かもしれないし、日本人全員が田舎者の解釈も可能かもしれない。もし抽象的な津々浦々であれば、それで単純にど真ん中は避けられている。津々浦々を47都道府県(範囲内)と考えてもいいけど、選択線のように字義通り地方在住者と津々浦々(崖とか岬とか入江)をオーバーラップさせると端っこだけって感じがする。でもこの広範囲で何かが起こったとすると、みんな無傷で済むわけがない。というところで抽象的に助かる部分と文面上での被害想定範囲の乖離から、これは日本壊滅するのか田舎者は助かるのかリアルな崩壊の序曲を想定したものなのかっていうところでまたイーッとなる。

あまり詩で「何がどこにあるか」って意識しないですけど、調べてみるとリアリティというか、導火線に引火していくような空恐ろしさを感じることができました。何がどう引火したのかはあんまりわかりませんが…。もっと身近に、あっけらかんとなんでもかんでも云う人に対する異議申し立てとマジェスティックな感情の分裂といいますか、ちょっと不謹慎で倫理的に理解しがたいものを生み出してるといった感じで、終始不穏に、かなり腫れ物のような感覚で読ませていただきました!ありがとうございました!
 

[385]高橋良幸[2016 04/22 08:25]
テレビ
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=314727

<1>
既存のステロタイプで構成されている、そんな印象です。が、それは作者が書きたいことではないのでしょう。「テレビ」というタイトルの成り行き上、偏見と無思慮を持って書かなければならない。なので、ステロタイプ、偏見、無思慮はこの詩の基礎の部分と考え、そこをうんぬんする必要はないかもしれません。とはいえ、そうすると書くことも少なくなるので気になった点だけ述べますと、放送の途中で数度ある”大本営発表”は、2種類(大々的に広報すべきものとなるべく秘匿しておくべきもの)に分けられると思うのですが、その扱いが一律なのでステロタイプの面白みが半減しているように思いました。

<2>
>『いやあね、ボクちゃん。そんなとこ、あんまり見ないで。』
この熟女口調で世の中の男が思い浮かべることといえば大抵下ネタだろうし、口調から行ってシミーズが19位ぐらいに入っていてもよさそうですが、「マンコ」が圏外であるらしく、意外性があります。しかし、その次に「太陽」が2位に挙がっていてこれは太陽に縦スジが入ったものだ、と了解することができる。それなのに、司会者はそれをすっと流してしまう。ステロタイプ、偏見、無思慮、隠語、看過。これらを並べて簡単に導かれる教訓といえば、なにかリテラシーに関することになるのでしょう。
しかし、それを今の時代にこのような形態で、わざわざ詩に書く必要があるだろうか。書いてもいいかもしれません。でも、できれば予測範囲内のものではなくて、既視感の少ない詩を読みたかったと思いました。既視感もこの手の詩には必要なのかもしれませんが、もう十分に実物のテレビで行われている(と思われている)ことだと思いますし、巷には権力の不正や世の中の不条理を描くエンターテイメント作品が多数あり、これよりもひどいことがネットにごまんと書かれている中で、そのまま詩に再構築する必要があるのか疑問だ、というのが正直なところです。何か新しい観点を付加することができなかったのか、と思います。この詩は先に挙げたエンターテイメント作品のように対岸の火事と受け取られるか、もしくはネットに溢れる言説のように誇大広告だ、と受け取られる可能性があると思いました。せっかく詩なのだから、もっと個人の実感に引きつけるような文章だったらよかったのではないでしょうか。
「太陽」のくだりから、実は民衆は賢く隠語を使えている、というメッセージなのかとも思いましたが、そうでもないかなあ。以上です。
 

[383]深水遊脚[2016 04/19 21:59]
深く読み込まれるのはいいものですね。次はそんな読みに耐える作品を差し出そうと思います。ありがとうございます。次の生け贄の方をお招きします。
 

[382]るるりら[2016 04/19 09:33]
題名が まず 好きでした。たまたま オフラインでつなげている時間が長かった私だったことあり、題名だけでも 結構 楽しめました。

詩の本文を一読したときの 率直な感想は、状況はとりあえず理解できたぞ。
けれど、感情移入をすべきピントが解らないぞ。
読者として迷う時間が長かったので、感動ポイントにも辿りつきにくかったのですが、
作品の備考欄に (子供が幸せにみえた)と、あったので
ああ すくなくとも作者の感動ポイントは こどもの極上の笑顔がほんとうはあったのだろうなあ。と、いう感じで 追いかけたのですが、いかんせん 追いかけたという感じだったのです。なにかが 足りて無い。それが、私の率直な感想でした。

そんな中で、
>ほぼ聞き取れない泣きながらの声は
受けとるもう一人の声がないままに
モノクロームの静寂を裂く

この連だけが ほかの詩文と空気感が違って感じられました。
この連にヒントがある気がしました。すると、クロスオーバーイレブンという番組のエンディングのに事が 私の頭に浮かんだので、ユーチューブで再生してみました。それで解ったことがあります。https://www.youtube.com/watch?v=-qoRKEZw190

クロスオーバーイレブンという番組自体は、ミニラジオドラマ番組で 最後に男性声優さんのゆったりとした声で、「もうすぐ時計の針が十二時をしめそうとしています。今日と昨日が出会う時、
クロスオーバーイレブン...」でフェイドアウトし その日一日とともに番組が終わるという構成になっていました。

この番組とこの詩の共通点は、色の無いモノクロームな(ラジオですから)番組だったのと「出会い」で終わっていること。そして、時系列を尊重したミニドラマで構成されている点が共通していました。色の無い静寂の中で どのように読者(リスナー)の心をつかむのかが どちらにもポイントとなってきます。

深水遊脚さんの「線路を隔てた迷子」の場合  モノクロームの静寂が足りてないのだと思います。だから出会いの感動が響いてこなかったのではないでしようか?

三連目までで 人が少ないことを示す言葉がたくさんあります。でも問題なのは人の数と質ではないような気がします。

一連目
>乗客の少ない
>駅員不在
三連目
>少ない駅の利用客

けれど、人間が多いか少すくないかではなく静寂が描かれてないからだと感じます。
たとえば、駅の場面のドラマで 列車が通過して登場人物のセリフや雑踏の音が失われて なにも考えることの時間が存在するようなことが 必要だった気がします。
たとえば、【薄暮】を描くとか。ようは人間の思惑とは関係のない背景描写が足りてない気がします。

静寂を介して はじめて、話者と 今まさに迷子になっているのであろう子供とが、
読者にも融合して思えるようになるのではないだろうか?
ラジオでしたら音楽や実際の放送時間帯が深夜ということで 読者を感動に惹きこみやすいのですが、 この詩の場合は読者に もっと モノクローム(色がない)状況と 音のない空間を与えることが必須だったのではないかという気が私はしました。
しかし、とても可能性を秘めたことに挑んでおられて それに感化された他の方の評を拝見するのも楽しかったです。
 

[380]nemaru[2016 04/17 08:23]
訂正:
>特に5連の親父の描写
いやいや、親父じゃなかった、勘違いした「別の誰か」ですね、スミマセン
 

[379]nemaru[2016 04/17 08:15]高橋良幸
おはようございます。この深水さんの詩を読んでつらつら思ったことを書かせていただきます。

しかし「この深水さんの詩」にするか「深水さんのこの詩」にするかって問題で(『この深水さん』だと、玄関の置物みたいでちょっと感じ悪いですね、スミマセン)、一読してしんどいと思ったのは、言葉の並び方がおかしいからかな…。いやいやそんなの個人の自由じゃねーかと思いつつ、特に5連の親父の描写「体格が似ていて眼鏡をかけた…」から遡ると、ちょいちょい「少ない駅の利用客」「ほぼ聞き取れない泣きながらの声」などなど、これ自体狙いなのか、ふつうに書いていったら頭の中でツイスターゲームやらせるような文体が発動しちゃう心理の持ち主なのか(話者が)って話になりますが。それとは独立して「ママは子供を待っているだろうか」は堪えちゃいますね。待ってなかったらやだな。疑問形のとこはクリアに読めるのに、それ以外はほとんどねじねじしてある中尾彬の胸元のあれみたいな…。頭の中でシャッフル&スキップ機能駆使して読めますけど、並んでる順番でちゃんと読むと、けっこう気持ち悪いです。あと「誰か」が多すぎて、ちょっと怖いっす。

駅員の行動が「清掃」「保線作業」「なにか」の三択だったり、わからないなら最初から「なにか」でいいのでは?と思いますが、駅員だって仕事してますから「なにか」だけだとバツが悪いし、そしてこの「私」も推理マニアなのか、途中まで作業名を挙げて最後に「なにか」って言うし、日常会話でもそりゃ確かに「ポテトチップとさきいかとなにか」とか言うような気もするしな…。駅員って保線作業するのか?そういう駅もあんのかな?保線っていうのを絆ってニュアンスに読み替えてもなんかありそうだし…と、タイトルに目を移すと「線路を隔てた迷子」こういうタイトルだったのか。とすると、腑に落ちる部分もありますね。線路を「時間」に置き換えちゃったら、もう解決のしようがねえな、とか。のっけから心の中みたいに読むと半分読めて、また半分はちょっと読みにくくなる。

最終連、責める声はいない「親」に対する、井戸端みたいな怒りが募ってくるところをすりぬけて「私」は電車に乗って行ってしまう。誰かが責めるところの「親」と、子供の会う「ママ」は違うんだよなぁ…ってところでも、改めて何か気づくような所がありますが、全体的にもよ〜っとしていますね。「もよ〜っ」は、人の少ない駅で迷子になって親が見つからないってことは、電車に乗っちゃってる可能性が非常に高いし、そんなことする親が実在するのかっていう部分が全体に反映されて、心の内なのか現実的な光景なのかわからないような綱引きを読者にやらせてるんじゃないか。そういう作用があるんじゃないのかな。

自分にぐいっと引きつけて読んだら、やっぱり欠損というか、昔こうされた(から ・のに)、今こうできない(なんで?)、という部分はありますね。昔お祭りで知らないカップルの男のほうを親父だと思って袖つかんだら「なんえこいつ」と言われたのはショックでしたけど、今思えば急に隠し子がでてきたら男は焦るよな。「なんえこいつ」はそれ以上でもそれ以下でもない当たり前のセリフだったなーって、一応の整理はつくけど、今も続いてるっちゃ続いてますね。その時はすぐに親父が見つかって安堵して激怒して腰パンして終わった話ですけど。

読み返すと「乗客の少ない」「不在のことも多い」っていう部分おもしろいですね。端的にいないことが多いってできる人間の、「数字のゼロ発明しました!」って感じの、定量化?できる言葉のおもしろさ(喜び)を感じます。そのぶんほじくれすぎちゃうきらいもあるんじゃないのかっていう、それで人間は随分ナイーブになっちゃったんじゃないのかっていう、そういう側面についても思いをはせたり。

あてずっぽで言うと、やっぱり語順自体の何が何を包含するのかって関係があって、それを自分の順番で書いていった心象風景、というふうに捉えることができるのではないか。それが人に合うかっていうと、表向き内容はおぼろげに了解できるが、じっさいきっちり読むと変なところがいっぱいある。大人だけど子供の部分を残して何かに共鳴するときがあって、ナイーブだけど、ないとは言えない部分が刺激される、そんな詩でした!

いや〜、読めば読むほど考えることが増えてきて、楽しいですね! 「子供=私、子供(渡し)私」とか、私って、そういう語源なんじゃないか!?とか、勝手にいろんなこと考えちゃいますね。ありがとうございました!
 

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