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生贄合評スレ (創作系)スレッドオペレーター:いとう
試験的に作ってみます。上手く回らなかったら消します。

やり方。
1.作者が合評して欲しい作品のURLを貼り付ける。合評開始。
2.誰でも好きなことを好きなように。基本的に何でもあり。
3.なんとなく場が収まったら、次の生贄を待つ(笑)。

注1
合評される作品の作者は、合評内容に対してどのような発言権も持ちません。
つまり、自分の作品に対する発言は禁止。最初にURLを晒すだけ。
作者が特定の発言に星を入れるのも禁止します。

注2
合評中は、新たな作品のURL貼り付けを認めません。
合評は1作品に対してのみ、行っていきます。

[378]高橋良幸[2016 04/17 08:12]
コーヒースレッド密かに読んでます。所用で東京にいるのですが、なかなか好みのコーヒー豆を置いてる店に出会えずにいます。札幌では近所にとてもいい匂いのするエチオピアを売っている店があるのですが(あと、函館にもあるのですが・・・)。

それと、鈴木海飛さんのアイデアいいですね。
>>369
そういう構成の場合、(臭い)はそのまま5連目にかかると思うのですが、
・いい香りのするもの、ラップをして臭わないものを「臭い」と言うこと
・亡くなってしまった人間の存在を「在る」と感じること
これらを対比して書けそうな気もしました。

線路を隔てた迷子
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=314313

<1>
一読して、全体的に説明的すぎると思いました。そして、頭の中だけで組み立てられているように思いました。

「駅員不在のことも多い駅」と言った時点で利用客が少ないのは明らかではないでしょうか。「乗客の少ない」「駅員不在のことも多い」「少ない駅の利用客の全員」、これらは言葉を余計に費やしているように思いました。また、詩の情景描写にも寄与していないと感じました。迷子の孤独にとっては、知らない人がいくらいてもいなくても、さほど変わらないのではないでしょうか(これは5連目から推測されることです)。人の疎さはあまり詳述せず、できれば別の無機質なものなどで利用客の少なさを表していた方が良かったのではないかと思います。大きな駅と小さな駅を比較して、小さな駅にしか無いものなどで。
説明的すぎることはイメージを硬直させてしまうことにもなりかねないと思います。「モノクロームの静寂」は例えば「黄色いバナナ」と言っているのに等しくはないでしょうか。「静寂」だけの方がむしろ静寂な感じを受けると思いました。「黄色いバナナ」が実際には青い部分も黒い部分もあるバナナを単一色のイメージで想起させようとするように、「モノクローム」で修飾された「静寂」は静寂のしんとした音もなくしてしまう気がしました。
また、
・「所々『ママ』『ママ』の混じった」声
・「ほぼ聞き取れない」声
・泣きながらの声
これらは正確な描写になるのかもしれませんが、一息に言ってしまう必要はないと思います。上記3つを順に感じたのならその順を追って書くべきだと思いますし、一度に感じたのならそれを簡単に言える言葉を探すべきだと思います。さらに言えば、何かが「モノクロームの静寂を裂」いてきてからこれらを認識するのだと思うのですが、その観察の過程が不明のまま「モノクロームの静寂を裂く」につながるため、この描写が作り物である感じを受けてしまいます。
詩の後半にある駅員の作業内容にしても、この詩の主題にとっては些細なことではないでしょうか。ほかにも、電車が私の乗るべきものならそのことを書かなくてもいいと思います。枝葉はあるが幹が無い、といった印象でした。枝葉を書くよりも、幹の影が枝葉に投影された言葉が多い方が良かったのではないかと思いました。その言葉は説明的でなくて良いはずです。
私は作者コメントに書かれている「子供が幸せにみえた」という作者の印象をこの詩から感じることができませんでした。

<2>
迷子の子が静寂を裂くことで、それまでとその後とでは周囲のあり方はかなり変わっているはずだと思います。いかがでしょうか。それまでは「静寂」で「乗客の少ない」イメージだった駅が、静寂が裂かれたあと、迷子の子をかばう乗客の「ざわめき」と、また、気にかける乗客それぞれの「存在」とで、異なるイメージのものに変わっているはずです。迷子側から見た安心を与えてくれる人間の数にも変化があるはずです。しかしそれが詩に明確に現れることなく、淡々と書いてしまっているところも私には頭の中だけで組み立てられているように見えました。その点がもったいないと思いました。<1>で情景描写に寄与していない、と思った理由の一つかもしれません。
そして、一番悪い部分は「言葉を 声を 私は持てただろうか」という自問です。この自問自体が悪いわけでは無いですが、置かれている場所が非常に悪いと思います。なぜなら、ここまで読んできて頭の中だけで組み立てられている印象が強まっているところに置かれているこの自問は、ただ飾りとして置かれていて、本当に自分には問いかけていないように見えてしまうからです。その次の連にある回想がその自問に対する考察を含んだものであればその印象は和らぐのですが、回想で終わっており「安心させるような言葉」もでてこないため、自問が宙に浮いてしまっているように思えました。
以上です。
 

[377]梓ゆい[2016 04/17 02:52]
全体的に、語りすぎているような印象を受けました。
所々もう少し文章を削っても良いような気がします。

私の考えではありますが

所々「ママ」「ママ」の混じった
泣きながらの声は
モノクロームの静寂を裂く

このくらいにしても伝わるなと考えました。
 

[376]深水遊脚[2016 04/15 15:20]
よろしくお願い致します。

「線路を隔てた迷子」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=314313
 

[375]るるりら[2016 04/14 21:12]
丁寧に味わつてくださってありがとうございました。では、つぎの
生け贄の方、どうぞ。
 

[374]梓ゆい[2016 04/10 23:58]
「あさがおは かさ みたい」
くるくるたたんでいる花は かさみたい
雨の日にひらくと かさみたい


小学校低学年の頃、クラスの子が横で似たようなことを言っていたのを
思い出しました。
それがどこかに残っていて、この作品をきっかけにほかの事も思い出しました。
「こめる」このくくりだけでも、読んでいて心が軽くなりました。
 

[373]るるりら[2016 04/07 21:32]
ご意見がほしいのは、やまやまなのですが、一番ご意見をいただきたい方が、投稿数制限を受けておられるため、すでに多くのレスをいただいている身ですので、次の方。

どうぞ、批判希望を提出してくださいませ。
 

[372]るるりら[2016 04/07 18:14]
ちいさな 三つの声 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=317127&filter=date&from=listbyday.php%3Fday%3D

おかげさまで 今日現在、週間ベストである作品ではありますが忌憚のない批評がいただけましたらと思い投稿させていただきます。
 

[371]梓ゆい[04/07 17:28]
続けての書き込み失礼致します。真摯なご意見ありがとうございました。一括でのお返事大変申し訳ありません。
最初の書き込みを頂いたあと、再度読み直して書き直しを致しましたのでアドバイスを頂いたことで、より冷静に文章を見つめ直すきっかけが出来ました。逆に、気を負わせてしまいすみません。書き込み頂いたこと感謝しています。また、これまでの詩作品に対しても、書き込みを頂けたこと本当にありがたいです。
励みになります。新たにお二人にも書き込みを頂けたこと、驚くと共に嬉しく思っております。このスレッドを立てて頂いたことも含めて感謝しています。また書き込みを致しますので、そのさいは宜しくお願い致します。皆様からの書き込みをいただくのが、楽しみな今日この頃です。

次の方、書き込みお願い致します。
 

[370]ハァモニィベル[2016 04/07 02:20]
梓ゆいさんの作品
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=316622

二連目を例に寸評すると、
「のだが」と、「抵抗するわけにも行かず」
は要りませんね。

全体についてこうした点を挙げるときりがないので以上を
「例え」ば、として指摘させて頂きます。
あくまで、(わたしは)そう感じました、というだけです。
 

[369]たこすけ[2016 04/07 01:04]高橋良幸
梓 ゆい様


(冷たい・硬い・重たい・臭い)
別れを告げた父の姿だ。

私は離れたくは無かったのだが
参列者の手前
抵抗するわけにも行かず
黙って棺のあとを追う。

山のへりに並ぶ猿たちの群れ
まるで行列を見守るかのように
大きな瞳をこちらへと向ける。

「余計な一言はいらない。」
最後に交わした父との会話は
また帰っておいで。
ベッドの上に腰を下ろし手を振る様は
もうそろそろ行くよ。と
言っているかのように見えた。

皺一つ無く敷いた新しい布団
ラップに包んだ少し厚めの刺身数切れ
綺麗に飾りつけた季節の花

「父はもう、嬉しそうに笑わない。」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


冒頭に

冷たい、硬い、重たい、臭い。

外側からの視点でみたかぎりの、お父様の御姿ですが、

以後続く情景に、偶発的なのか、意図的なのか、それぞれの段落にかかっているようなきがします。

冷たい

参列者の手前、抵抗、黙って、の、くだり、
現実と擦り合わせた冷たさ。

硬い

猿達はじっとしている。緊張感をもって、行列を眺めているらしい。猿の瞳は、貴方の幼少の時の瞳とリンクしているのか、さておき、大きな瞳がなぜ、でてきたのか。そこが無視できない疑問。いっそ、猿の親子や兄弟の瞳が、貴方の中にある親子を見つめてくれるのかもしれません。


重たい。

ベットからの最後のお別れの言葉をいう父の姿
お父様の体もけして軽くはなかったけど、こどもに優しさを込めた言葉をかける情景。


臭い。

偶発的だったと思ったのは、臭い。がどういう風にかかっているのか分からなかった。

ただ、うれしそうに笑わないという言葉を遠くの方から引き立てているのを感じます。


やり過ぎず、4つのテーマ、 冷たい、硬い、重たい、臭い。に偶発的にかかってしまった段落を割りきってテーマごとに、
仕上げて

親しい人がなくなったとき特有の、死んでもそばにいるんだなぁという感覚がもし、貴方にもあるならば、どのような姿でも取り入れても、この作品壊すことはなく、捧げる花になるような気がいたします。

駄文、失礼いたしまして。
 

[368]高橋良幸[2016 04/06 19:09]あおば
あおばさんの「表現がどうのこうのは、」の部分に全面的に賛成です。向き合って出てきた言葉は(一般的に言って誤字等のミスで無い限り)誰に何を言われようとそのままでいいと思います(あまり長々とレスを書きすぎると物量に押されてなんだか修正しなければならない、と思われてしまう場合ももしかしたらあるかもしれないと思ったので、念のため書いておきます)。
他者の意見が役に立つことがあるとすればそれは時は次の詩作のときかなあと思います。自分の中で雰囲気だけで繋がっていた言葉など、もう繋がってしまっているものについてはなかなか動かし難いですが、次作の言葉を繋げていくときにはそこにわずかにでも意識的になれるかもしれないからです。独りよがりの領域が少し広がるというか、独りよがりのバリエーションが増えるというか。言われて直すのは後から自分で考えてやっぱり直さなければ良かったな、と思う可能性もあるかもしれませんし。もちろん、(一般的に言って)言われたことについて腑に落ちて修正する場合は、その限りでは無いと思います。

梓ゆいさん修正されたのですね。そのような修正も大変なことなのかもしれません。私の書いたことでお気に障る部分があったらすみません。

追記)
修正すべきと言っていた私が上のように書くとせっかく修正していただいたのに悪い気がしてきました。しかし、上の考えも、修正すべきと思ったことも私の中では矛盾はしないので、そのまま書いておきます。
それと、意見を取り入れていただいたのにお礼を忘れていました。大変失礼いたしました。梓ゆいさん、私の指摘について考慮いただきありがとうございました。
 

[367]あおば[2016 04/06 02:07]高橋良幸
梓ゆいさんの作品
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=316622

肉親と別れた後は、魂が抜けたようになり、なかなか、細部を言葉で表現しようと思ってもいざ書こうとするとなかなか具体的に書けず、気持ちが余って言葉が追いつきません。作者はその厳しいところを克服してたくさんの作品を投稿なされております。なんか恋愛詩がいくらでもかける心理状態に似ているような気がして、肉親への情が深かったのだなと感じるばかりです。
表現がどうのこうのは、他人がなにを言おうが気にせずに、言葉が出てくるのをそのまま記せば良いと思います。自由詩なのだから、自由に書く、それが肝心です。独りよがりでも構わない。
作者の作品を読むと忘れてしまった自分の肉親を亡くしたときの細部が鮮明に思い出されて、非常に有り難いとつぬづね思っております。
 

[366]梓ゆい[2016 04/06 01:03]
一括の返答失礼いたします。
真摯な書き込みありがとうございました。
また、お二人ともお気遣い本当に感謝をしています。
一部アドバイスを元にタイトルを含め、書き直しを致しました。
題名を中々つけることが出来ず悩んだ末につけたものでしたが、客観的に観ていただいた分納得できました。

別れを告げた父の姿だ。
このように一文を変更しました。自分で言うのもなんですが
より実直にあらわすことが出来たと思います。
また書き込みますので、その際はよろしくお願い致します。

次の方どうぞ。 
 

[365]高橋良幸[2016 04/04 20:14]
 自分がどれくらいの日程感で書いていたか思い出そうとして過去ログを見ていたら、丘 光平さんが退会されていたことに気づきました。丘さんのスタイルは好みだったので残念です。

例え話。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=316622
 このような詩について述べることについて思うことはありますが、私もそこは割り切って書いている旨ご承知おきください。

<1>
 一読後にまず考える必要があるのはタイトルの「例え話。」とこの詩の内容の関係性だと思います。このタイトルはこの詩に暗喩がある、というメッセージだと思ったので私はそれを探しました。可能性の大きなパターンとして2つあるのではないかと思います。それは「猿たちの群れ」が何かの例えである場合とこの詩全体(父が死んだこと)が何かの例えである場合です。しかし、「猿たちの群れ」は「猿」になっている以上は割とどうでもいい存在でしょう。ステージに上がった時に観客をジャガイモだと思うのと同じことで、何かが「猿」になっていても大したことではない。そうするとこの詩全体が例え話である(そうではなく見えても)ということを考えざるをえません。しかし、そうは読めない。「例えば父が死んだとして、」ということが書かれているわけではない。なので、私はここで関係性を考えることを諦めました。

<2>
気になる言葉について述べたいと思います。
◆1連目
>(冷たい・硬い・重たい・臭い)
>別れを告げた父を表す
>最後の姿だ。
「姿」は名詞で、()内はいずれも形容詞です。この連を簡単に言うと「冷たい」=「父を表す姿だ。」となり、形容詞が「姿」だ、と読めますので違和感がありました。この表現が意図的なもので無いのであれば修正するべきだと思います。
「表す」という言葉が余計なので、

*(冷たい・硬い・重たい・臭い)
*別れを告げた最後の父の姿だ。

のように形容詞が全て「父の姿」にかかる構成にするべきだと思います。

◆2連目
>私は離れたくは無かったのだが
>参列者の手前
>抵抗するわけにも行かず
>黙って棺のあとを追う。

「離れたくは無かったのだが」->「棺のあとを追う」という表現に若干混乱しました。離れることと追うことは逆の方向に向かう言葉だからですが、それを効果的に言うのであれば「追っても離れてしまう」というふうに書いた方がいいのではないでしょうか。
たとえば、

*あとを追っても父は大きな瞳の向こう側に行ってしまう、私は離れたくなかったのに参列者のところまで引き返した

のように書いた方が親切ではないかと思います。ちなみにここで「大きな瞳」をだしたのは、これが火葬場の扉が並んでることの形容だったのではないか、とふと思ったからです。そうすると<1>で探していた例え話はここで見つけたような気がしますが、それだけでタイトルにまでするには弱い気もします。「火葬場の猿」のようなタイトルでもいいのかもしれません。

◆3連目
山のへりは、あの世に続く火葬場の壁の麓で、立ち並ぶ火葬場の扉の丸い印が猿の目玉のようだ、という表現に受け取りました。もしそうであれば、山と猿について少しそうとわかる(猿が死者の言葉を話すのでも、なんでも)説明を加えればいい表現だと思いました。

◆4連目
会話文に鉤括弧を使っているのが流れを悪くしていると思います。鉤括弧はとってしまってもいいのではないでしょうか。鉤括弧が流れを悪くする原因の一つは、読んでいるときに鉤括弧の話者を無意識に同定する必要があるためだと思います。それが効果的な場合もあるとは思いますが、ここでは回想での会話であることを考えると効果的でないように思います。ただし、父の実体をそこに表したいのであれば鉤括弧の置き方をもう少し工夫してもいいのかなと思います。
句点をとるだけでも流れがある程度すっきりするかもしれません。肉声感が薄れると思うからです。
前回の「麦藁帽子。」で使用されているぐらいの量であればそれほど気になりませんでした。

◆5、6連目
>「父はもう、嬉しそうに笑わない。」
自分への言い聞かせ、もしくは事実を自分から引き離した定義文として書かれているのでしょうか。詩の地の文は作者の言葉であることがほとんどであると思いますが、ここはその地の文に作者の言葉と思われる台詞が鉤括弧で上乗せされています。それはここだけ作者の言葉が構造的に厚みを持つということになりますが、どうもこの書き方はこの台詞を言わされているようで私は好みではありませんでした。そうであるからこそこの文は表現として効果を持っているのかもしれませんが、その厚みに至る5連目の駆け上がりが足りないように感じました。
以上です。
 

[364]るるりら[2016 04/04 09:29]
この作品は どこをどのように読んでも実際にお父様を亡くされた梓ゆいさんの実体験に もとずくものであることは間違えないだろうと思いながら読みました。
わたし自身も 父を亡くしておりまして わたしもその時に詩を書いています。わたしのときは 拙詩へ感想をくれた心ある詩友に対して あろうことか 良くない感情のぶつけ方をしてしまいました。その後 大変後悔し、私の感情の激しさに 耐えてくれた その詩友に対して 今も言葉ではいえない尊敬を感じているところです。
 さて、このスレットのルールは 投稿者が批評者に対して意見を述べないというルールです。
わたし自身の不幸の際にしてしまった詩友に対する失礼を想うと、書いて良いものかどうかと迷いました。わたしだったら些細な反応がとても嫌でした。だから、つい梓ゆいさんは 大丈夫なのだろうかと心配せずにはいられません。
 ただ作品投稿者は何も言えないという通常のネットコミュニケーションルールではない場所である このスレットに投稿したお気持ちは、詩に対する真摯なお気持ちだからこそであり、ただただ参加者の意見を受け取るお気持ちだと思います。だから私も私のできるかぎりの批評をもって応えさせていただこうと思います。

まずは、【題名について】(題名:例え話。)
題名が詩文と 合ってないと思いました。
たとえ話とは、複雑で分かりにくい内容を、比喩 によって具体的なものの話に置き換えたりして分かりやすく説明するお話のことですが、この詩は例え話なのだろうかと 首をひねりました。
例え話というからには、事実ではない表現で なにかを比喩しているはずなのですが、詩文のすべてが事実を列挙しておられるように 私には読めてしまうのです。
 唯一、ここは比喩であろうと思えるのは 三連目の猿の群れの部分のみです。その箇所が、作者のもっとも言いたいことであるとは 思えないのです。だから、題名にこの題名を選んでおられるお気持ちが私には解りませんでした。

 では この詩にふさわしい題名は、どのような題名かを考えてみました。「父の顔」という題名はいかがでしょうか?というのは高村光太郎も父の死に際しての詩を書いているのです。高村光太郎のその詩は梓ゆいさんの心の もっとも深くナイーブな部分に寄り添える友となりえるような詩のような気がします。



 父の顔  高村光太郎

父の顔を粘土(どろ)にてつくれば
かはたれ時の窓の下に
父の顔の悲しくさびしや

どこか似てゐるわが顔のおもかげは
うす気味わろきまでに理法のおそろしく
わが魂の老いさき、まざまざと
姿に出でし思ひもかけぬおどろき
わがこころは怖いもの見たさに
その眼を見、その額の皺を見る
つくられし父の顔は
魚類のごとくふかく黙すれど
あはれ痛ましき過ぎし日を語る
そは鋼鉄の暗き叫びにして
又西の国にて見たる「ハムレット」の亡霊の声か
怨嗟(ゑんさ)なけれど身をきるひびきは
爪にしみ入りて瘭疽(ひやうそう)の如くうづく

父の顔を粘土にて作れば
かはたれ時の窓の下に
あやしき血すぢのささやく声……

**********
以上で引用終わり
**********
光太郎は、彫刻家でもあるので造形物を造る人独自の感覚があるのですが、
梓ゆいさんのこの詩の場合は 「匂い」に対する気づきがあるところが、凄いと一連目を読んだときに感じました。とても動物的な感覚で死を捉えようとしておられる。
だからこの詩には猿がでてくるのでしょうか?
この詩の題名は「例え話。」です。猿でたとえで なにを表現されようとしておられるのだろう。
お父さまは 亡くなられ 身体が失われたので笑顔も見せてはくれないかもしれない。
けれど、人が笑うとき 梓ゆいさんが笑顔になっておられるとき、お父さまも笑っておられる気が私は します。
 

[363]梓ゆい[2016 04/02 00:55]
2回目の投稿になります。
皆様よろしくお願いいたします。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=316622
 

[360]るるりら[2016 02/04 15:58]高橋良幸
暗くなるまで待って/蛾兆ボルカ
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=313439




まず第一に感じたのは、これは映画を元にした二次創作物なので、当然のことながら 
オードリー・ヘップバーンが主演した この映画を観たことがある人と そうでない人とでは
蛾兆さんの本作品の理解度が大幅に違うと思われます。

本作品を作者の意味している通りに読む適切なターゲットと そうでない人が読む前から しぼられるという特性のある作品だと言えます。
わたしの場合は、大昔にみたことがあるようなないような気がするという なんともはがゆい立場なのでレンタルビデオ屋に行って該当の映画をさがしたのですが、ありませんでした。
オードリー・ヘップバーンが天使であることは知っているだけに、残念です。

映画は知らないのですが、この詩を一言で まとめるて言うならば、本作品は 詩作の授業だと思いました。
●引用> 夢の中で映画を観ながら、僕は詩について考えていた。
僕の回りには象徴があり、それを僕は詩に留めようとして詩を書く。

↑このような書き方から、映画を例にとりあげ 詩というものを考えさせる授業と判断しました。
もっと絞るなら、この作品は 詩作についての啓蒙だとも思いました。
啓蒙とは、「啓」はひらく、「蒙」はくらいの意味からきているので 思い出したのですが、
啓蒙の漢字的意味は 映画及び本作品題名と なんと良く響きあうことでしょう。

詩作作業も 実際のところ ゼロの状態から詩を立ち上げる作業は 
あたかも なにも見えない状態から事物を感じていくようなものとも言えます。
盲人が手さぐりでを自身にとりいれて 世界の様子を脳内で再構成する様子は
詩人が現実世界をまさぐり、脳内でひとつの世界を再構成する様と似ています。 
この詩は、おそらく詩人あての詩であり
見えないものを観る力を 触発させ詩人のしての目を開眼ようとしている詩だと私は読みました。


それと、この詩は わたしにとって べつの効用がありました。
それは蛾兆さんご自身は おそらく意図しておられない効用です。
わたしは 常日頃、目の不自由な母とすごすことの多い読者なのですが、
私の特異な立場での気づきがありました。
私の母は目が悪いだけでなく耳も悪いのですが、スージーが世界を構成する、もろもろの伝説の中の、ひとつの伝説としての皿のような事柄が 母と私の間にも いつも立ちはだかっていて、母の伝説を読み解くのに私は いつも苦労しているところだったのだと気がつきました。
不理解からくるストレスに対しての あらゆる努力は、地球と繋がるための努力だったと 本作品より思えたことが 私には貴重な体験でした。 

スージーが世界を構成しているように
私の母も世界を構成しているのだということに この作品で 気がつきました。
ありがとうございました。
母が世界をどう構成しているのかに 私が興味をもてたということは、私の世界も大きく変わるに違いありません。この詩を拝見できてよかったです。ありがとうございました。
 

[358]高橋良幸[2016 02/02 08:27]
暗くなるまで待って
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=313439

<1>
詩だと提出されているものに対して、これは詩ではないとあまり言いたくはないですが、以前読んだときの印象もそうでしたし、今回再読してもこれは(私にとっては)詩ではないと思えるので、今回はなぜ詩ではないのかを述べたいと思います。

<2>
これは詩ではないと言うときには、詩の定義が必要です。
「批評の生理/谷川俊太郎・大岡信著(思潮社)」p24に大岡氏の発言で、
>詩というものは単に或る瞬間の感情の定着ではなくて、多くの体験をずうっと蒸留していった末に一行だけ書かれるような種類のものだ、ということをリルケが言ってるもんで、
とあります。この定義は結構好きなので、これを使いたいと思います。
「暗くなるまで待って」はこの言葉を借りるならば「単に或る瞬間の感情の定着」が羅列されているだけに思えます。なぜなら、作者の視点のままで、時間の次元に沿ってことがらが述べられており、日記やエッセイの域を出ていないと思うからです。(これは蛇足ですが、日記やエッセイ【だから】詩ではないと言っているのではありません。ミスプリントにでさえ詩を見ることもあるようですし(KETIPAさん「【HHM2参加作品】すべてはネット詩に回収され、しかしここはまだ砂漠だ」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288298 )、日記が詩になることもあると思います。)
博物館の場面、夢の場面、夜を歩く場面。これらは一見だんだんと蒸留されていくように見えますが、それぞれの場面での思いが述べられているだけで、前後の因果関係はあっても、記述されているものそれ自体は蒸留されたそのものではないように思えました。

しかし、そんなことは散文詩全般に言えてしまうのではないか、という気も少ししてきます。そこで、そうではない、という点についても述べておきたいと思います。散文調の詩で、私が詩だと思ったものは例えば
馬野ミキさん「金(キム)」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62375
吉岡ペペロさん「放課後の家族」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=311622
などです。「金(キム)」は行わけで書いてありますが「なぜ散文カテゴリに投稿しなかったのか」というコメントがあります。つまり、これらを詩ではないと判定する読者もいる、ということでしょう。そのような人にはこれらの詩が、私が「暗くなるまで待って」に対して思ったのと同じように、「或る瞬間の感情の定着」が羅列されているようにみえるかもしれません。しかし詩である、と受け取る人間にとっては、そこに記述されている「体験」は「多くの体験」を蒸留させたもの、言い換えれば多世界解釈的に重ね合わされた叙述可能なあらゆるバージョンの場面を、詩を目指して収束させたように見えるのではないかと思います。そして、その中には読者の日常体験が蒸留された時におなじ記述となる場面も含まれており、それが読者に詩情をもたらすはずだと思います。
翻って、「暗くなるまで待って」は「詩と象徴」と題された散文をもとに構成されており、先にそれを読んだ印象もあるかもしれませんが、作者のペースで作者の語りがなされている印象が強く、これが共感を呼びづらい原因になっていると思います。以上です。
 

[355]高橋良幸[2016 01/21 21:31]
ちゃんと詩を通して批評されてる。私も最初はまさに
>四行目 鳥がいるのですね。
>五連目 つまり 何かに触れているのですね。
という気持ちだったので6、7連目から頼りに進んで2−5連目はちょっとそこからの想像に任せて勝手に読んだんですけど、俺はこれは別れ話の詩なのかと思いました。まあそれは死でもどっちでもいいんですが、その終わりを残しておきたいんだと思ったなあ。それをわざわざ静物と呼ぶのは、絵画を想起させたいからで、とっておくのなら写真でもいいのだろうけど、言葉と同意と、舞台装置の中間部があるので、その残す作業に時間をかけたいのだなと。終わりまでに、それぐらいの猶予はあったのじゃ無いでしょうか。

舞台と演者というイメージは、私もなんか漠然とあって、るるりらさんの評を見てなるほどそうだなと思った。演者はもう一つのバージョンの方にいるのでしょうかね。他の詩を参照して批評するのはダメだみたいなことが、このスレだったかどのスレだっかわからないけど書いてありましたが、でももう一つのバージョンを読むと、このバージョンの描写と対応付けできるところが多いと思います。でもそれは演者と装置としての対応づけなんですね(と他者の批評を繰り返す)。

両方のバージョンを統一することはできないのかな?こういうときに作者が発言できたらいいのにな、とちょっと思う。

#(追記)終わりを残しておきたい、というよりは終わりが残っている様を描いているという感じかしら
 

[354]るるりら[2016 01/21 12:01]高橋良幸
タイトル:静物 -nature morte-
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=310904




副題の- nature morte -についてですが、フランスでは静物画のことをnature morteというようですね、直訳すると「死んでいる自然」と検索ではでてきました。

この詩の構成についてですが、最後の連以外すすべての連の冒頭は かならず否定形で書かれています。
一連目 ぼくが告げるまで 言葉はなかった
二連目 あれは雨ではなく
三連目 きみの手で受けとるまで 目を閉じてはいけない
四連目 あれは小鳥たちではなく
五連目 おそれが失せるまで 触れなかったのだ
六連目  これは銀のピストルではなく


ほとんど全文にわたって否定の形で強調する形をとっておられます。
特に なにも詩文のない冒頭の一行から、否定形です。そのことによって
読者は下記のように 思うことでしょう。

一行目 つまり この一行目以降は 言葉が有るということですよね。
二行目 否定するけど つまり雨であることを表現していますよね。
三連目 目は開けられているので、生きているということですよね。
四行目 鳥がいるのですね。
五連目 つまり 何かに触れているのですね。
六連目 ピストルがあるのですね。

おそらく、これらの表現によって作者は 話者の動揺を表現しようとしていると 思いました。
静物画で良く用いられる果物や死んだ生き物のイメージやナイフやこの詩の場合はピストルなどのガジェットは 中世以降静物画で良く描かれてきたモノです。それらのガジェットによって 中世でも もののあわれを表現されてきました。ヨーロッパでも日本でも 飽食のあとの時代くらいに もののあわれとも言えそうな一種の感慨のこのような芸術が 流行したようです。

この詩は、そのころに 絵画や劇が行おうとしたことを 辿っているような気が 私は いたしました。
最後の締め方も 詩という枠の中で行われた劇中劇のような印象を持ちました。
ほぼ全行にわたる否定表現によって 読者に映像をみせようという方法も 
劇ではありそうです。

たとえば、ベルサイユの薔薇という名作がありますが、あの内容を アレンジした劇などのセリフとして、
この詩は ふさわしいように個人的には感じました。
別の言い方をするなら この詩には演者がほしいと思いました。

>ぼくのひかりが奪われるまで 冬を開けてはいけない 
つまり、話者は 瀕死の状態を示している。
おそらく瀕死だから 冒頭で ながい沈黙があったのでありましょう。
たぶん死ぬ前になって はじめて 美しいものを観ようとする心境を得たということなのでありましょう。
この詩は  瀕死の状態の話者が誰かに やさしく看取られて やっと とても美しい心境を得るという詩だと思いました。

だれかが死に接することと向き合う人間の心境は、あらんかぎりの情報 つまりほんとうに死にそうなのか
顔色はどうかとか まわりの人間は 切なる おもいで情報収集するのが普通だと思います。
ところが この詩編は 題名からして静物画という形骸化された形です。

一遍の詩編として独立して 人々の心をうごかすには、リアリティが無くて共感をよびにくいと感じました。
最後の連の赤い実は、血液を比喩していると思いました。そう考えるとなおのこと劇みたいです。
なので、演じ者が もしおれば この詩は魅力的だろうなと思います。
 

[353]るるりら[2016 01/21 10:29]
あなるほど、 つまり夜中の初読で解らなかったのは
私が やっぱり 寝ぼけていたのだわ。

とはいえ 目覚めていても 頭脳明晰とはいかないけど、頑張ってみます。
 

[352]高橋良幸[2016 01/20 18:38]
>> 351
(るるりらさん、異なるバージョンが同じ題名で2つあるのです。私も一瞬混乱しましたが)
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=310904
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=313959
 

[351]るるりら[2016 01/20 11:44]
昨夜の初読時には 正直、さっぱり意味がわからなかったです。なので
ほかの方の批評を拝見してからにしよーっと などと考えていたのですが、
今朝読んでみると、格段に 意味が通るようになっています。
昨日は どんだけ寝ぼけていたのだと 思いましたが、
改編されたのですね。安心しました。

提案なのですが、
このコーナーに提出している間は 改編はしないルールにいたしましよう。
批評については 少々 お時間をくださいませ
 

[350]高橋良幸[2016 01/20 08:25]
タイトル:静物 -nature morte-
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=310904

<一>
静物画を描くために誰かが静物を配置する。その静物はもともと何処にあったものか。静物は描かれた後、元あった場所に仕舞われるのだろうか。それとも、どこか別の場所に置かれているのか。いずれにせよ、静物画だけがその配置をいつまでも残している。この詩の静物画は最終連の「白い皿のうえ」の「紅い実」で、その手前までは静物のありかと配置のされ方が書かれている。

一連目で、朝を迎える。朝は希望の朝だが、夜のあとの朝でもある。それは、闇の解決としての朝だ。言葉と同意が迎える朝。夜は暗く寂しい。でもその中を「ぼく」と「きみ」は二人で居る。だから「ぼく」と「きみ」が寂しく無いのかというと、違う。
なぜなら、朝を迎えたけれど、これから来る季節は冬だからである。赦される必要があり、悲しみが鎮まる必要がある。静物画が仕上がるまでに。

静物画が仕上がるまでに、春はまだ来ない。けれど朝は来る。花は咲く。けれど、それは秋の花だ。そして、花からは(解決としての)「朝」がこぼれる。配置されたもの(「その最期をもっとも正しく迎え」たもの)は、いまはきっとあるべき場所に戻されている。そして、静物がその場所に収まったころ、春が来て、春の花が咲くのだろう。春の花からは、たぶん朝も夜もこぼれる。そのときに静物画がどうなっているのか(それも、どこかに仕舞われているかもしれない)わからないが、静物画を描き終えた後はその絵が正しく、永遠に見えることだろうと思う。それは、とても正しいことだと思う。

<二>
そんな感想を持った中で、少し物足りなさも感じました。その物足りなさは例えば次に書くようなところからきていると私は思いましたが、じつは全然物足りなくも無いのかもしれないし、他の方の意見も聞いてみたいなと思います。
まず、2連目冒頭3行、4連目冒頭3行が急ごしらえの描写のように見えました。雨、小鳥、木々という単語だけで庭を描写するのはかえって庭の奥行きを狭めてしまう気がします。例えば「雨」を「水さし」に変更する。そして、「小鳥」を「鳥かご」にする。すると、タイトルと相まって言葉の必然性が高まると思います。しかし、そのまま変更しただけでは静物画的な単語が詩の中に増えて、文全体がタイトルに寄り過ぎてしまい、そのことで静物画から遠いイメージの「庭」のすわりが悪くなってしまうので、それらの単語に庭と関連づける修飾語は必要になると思います。例えば、「 あれは雨にさらされたままの水さしではなく」、など(しかしこうすると長くて収まりが悪くなるか。あと、水さしは次に出てくる花の器とイメージが重複するから使えないかもしれませんね。)。それと3連目、「目を閉じて」に対する「冬を開けて」もただ閉じるという言葉に対する開けるという言葉が反射的に書かれている(そして効果を発揮していない)ように見えました。
あとこれは物足りなさと別の部分ですが、「 あれ(これ)は〜ではなく」の構成が繰り返されている箇所において、その着地点(「〜ではなく〜だ」の、「〜だ(または体言止め)」の部分。6連目でいうと、「ピストルではなく〜指先」)がばらばら、または見つからないのがリズムを崩しており、2行あけの構成が生きていないように思えました。以上です。

<三>
と、書いて投稿しようとしたところでもう一度詩の内容をみようと思って作者ページからリンクを辿ったら、一晩のうちに書き換えられてしまったようでびっくりしたのだが、それは同題の詩だった。
静物 - nature morte -
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=313959

前にこれを読んだときはあまりピンとこなかったが(といってもあまり時間をかけて読んでいませんが)did=310904の詩を読んだ今では、did=313959の詩もああなるほど、と思う。上で書いた物足りないものが、ここにある気もする。構成的にはdid=310904の方がいいと思います。
 

[348]梓ゆい[2016 01/17 18:41]
るるりら様・高橋様書き込みありがとうございます。とても真摯な文章何度も拝見しました。私にとっても今書き続けていることは、もっとも辛い事で向き合わなければならないことです。それでも詩を書くことと詩を読むことはその瞬間と時間はお父さんとの語らいの時間になっています。

次の方、作品の書き込みお願いします。
 

[347]高橋良幸[2016 01/15 08:13]
タイトル:麦藁帽子
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=305915

故人を偲ぶ気持ちを傍らにおいて推敲するのは難しそうですよね。そういう点で、このような詩は作者にとって挑戦である部分が大きいと思います。

<1>
■1連目
「眼鏡が光を取り込む」「反射をした淡い粒子」という言葉の連なりに、うまく馴染めませんでした。

* 父の眼鏡が初夏の光を天井に映して
* 「帰ってきたよ。」と呼びかけたある日の午前中。

のようにシンプルに書いたほうが良いのではないでしょうか。その方が、光がすっと差すイメージに近いと思うからです。また、「光を取り込む」ということはおそらくレンズを通しているのであって、その光は粒子というほど小さなものでしょうか。「淡い楕円」などの方が良いのではないですか。

■3連目
2連目までで読者が初夏の情景を掴みかけたころに、3連目が「うっすらと積もる雪の中」で始まるのはすこし読者を混乱させてしまうと思います。

* 父が遠くへと逝ったあの日は
* うっすらと雪が積もっていたのに
* いま、母と娘はうっすら汗をかいている。

などのように、まず「あの日」と言うなどして、雪が今は降っていないことを示したほうが良いと思います。
逆に、「うっすらと積もる雪の中」で始めるのであれば、1、2連目は父が亡くなっていることを書かずにおいた方が、その混乱の効果が生きてくるかもしれません。

■4連目
細かい部分をあげつらっているようですが続けます。「猫たち」「花達」の漢字とひらがなの混在は余計なノイズとなりそうです。どちらかに統一するか、「猫たち」「草花」のように、「たち」が繰り返されないようにした方が良いのではないでしょうか。
また、「花達が(中略)花びらを差し出す」という表現も馴染めませんでした。花の構成要素として花、茎、葉、根があったときに「花」の部分はよく「顔」に形容される気がしますが、「差し出す」という表現は「手」に形容されているようで、若干グロテスクな印象を持ちました。差し出す、が適切な表現なのでしょうか。

■5連目
「(午後からは、雨が降った。)」を括弧付きにする必要があるでしょうか。雨もまた気遣いなのではないのでしょうか。だからこそ、後の連で水たまりの中にさえ父は姿をあらわすのだと思います。その気遣いは「時折吹く涼しい風」と同列なのですから、括弧の中に入れる必要は無いと思います。(次の連がまだ日差しのある風景を描写しているのであれば括弧付きにする理由はあると思いますが。)

■8連目
「慎ましい営みの中(改行)懸命に生きようとする」は、言葉の順序が逆ではないですか?言葉を補うと分かりやすいです。

* (母と娘の)慎ましい営みの中
* 懸命に生きようとする妻と娘たちを見守りながら。

これだとまどろっこしいですよね。

* 懸命に生きようとする妻と娘の
* 慎ましい生活を見守りながら。

この方が連なりが自然だと思います。もし主語が草木ならば、

* 家々の草木や花の慎ましい営みの中

と、「の」を補った方が良いと思いますが、この前の連で花達は「空へ空へと伸びて」ゆき、慎ましくは思えないので、慎ましい営みの主語は母娘だと思いました。それとも「家々」と書かれているので、慎ましい営みの主語は隣近所の人々、でしょうか。

また、妻と母も統一したほうが良いのではないでしょうか。「母」と呼ぶ娘の目線と、「妻」と呼ぶ父の目線が混じってしまい、すっきりしない印象です。父が汗をぬぐったのは母だったのに、見守るのは妻なんですね。書き分けるのも面白いと思いますが、その場合はなぜ書き分けてあるのか、違いを明示(または暗示)すべきだと思います。

<2>
構成の面から言えば、1連目の眼鏡のくだりが置き去りにされているのがもったいないと思いました。言葉に引っかかったことを別にすればいい導入だと思うので。
例えば1連目と同じ形容で、詩の中盤において

* 朝露が光を取り込んで
* 花に反射した淡い粒子が
* 「庭の手入れをありがとう。」と呼びかける

のようなことが書けると思います(これは分かりやすく元の文体にそのまま当てはめて書いているのであって、そのまま書いたのではいけないとは思います)。そうすれば父が花を愛でるくだりも書けたはずです。そこまでせずとも、父が現れる現象を光を主軸に置くだけでも(風も雨も、光の作用として書く)、眼鏡が1連目にある意味が増すし、るるりらさんが書いた「お父さまの近景の視線」を詩の中を通して感じさせることができそうだと思いました。
さらにもっと言えば、なぜ眼鏡なのでしょう。麦藁帽子でもよかったはずです。

* 父の麦藁帽子が初夏の光を浴びて
* 壁に透かされた淡い光の粒子が
* 「帰ってきたよ。」と呼びかけた日の午前中
* あの粒はきっとあの夏の光だ、
* そしてこの粒は来るべきこの夏の光。

などとすれば、光の粒子、という言葉も生きてくるでしょう。タイトルとの関連も強くなります。さらにいいことは、父が庭いじりをしていた事実が1連目から読者に暗示されることです。元の構成のままでは、最終連に行くまでわかりません。父のことを知っている人なら良いでしょうが、父のことを知らない人にこの詩を読ませるのであればこのような暗示をしておいても良いのではないでしょうか。梓さんが実際に見たのは眼鏡だったのかもしれませんが、見えない事象が詩に書いてあるのと同様、詩に書くのは肉眼で見たものでなくても良いのではないでしょうか。
以上です。
 

[346]るるりら[2016 01/14 17:23]
タイトル:麦藁帽子
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=305915

実は わたしも ごくごくごーーーーく最近に
故人を偲ぶ自身の詩を 読み返していたところでした。
私も修正できる点があればと思い 複数のサイトに投稿しているところです。
そういう訳で このような批評の場に 投稿されるお気持ちは、他人事とはおもえないです。

わたしの拙詩の場合は 初夏の梅雨時の詩でした。
この詩も 初夏の詩なので この偶然は必然のような気がしています。
シンパシィを感じさせていただいているものの
わたしも おなじことを他のサイトにしているという立場なので
上手に批評できる自信がないのですが、頑張ってみます。

まず構図を丁寧に扱っておられると思いました。
冒頭に メガネを置いて 読者に お父さまの近景の視線を読者に感じさせて
ぜんたいを まるく包みこむような構図をとっておられて、麦藁帽子というその人との距離が遠くであっても解りやすい物を お父様の象徴として 置いておられるのも にくい表現方法だと思いました。

それらのことが功をそうして、この詩は 全体的になだらかにうつくしい詩情と なっています。
この詩のお父様は 山川草木と同体となって みなさんを見守っておられるに違いないと思えました。

個人的なお話を つけくわえますと、私の叔母が叔父の死の一周忌に語っていたことを
思い出しました。
「不思議よねえ。人が死ぬと、その家の植物は 活気づくのよ」
と 見えない力を 完全に見ることのできる人になったかのような表情で 叔母は私にそのようなことを言ったことがあります。

それにしても どうして私は あなたの詩を拝見するにあたって
私自身も故人の詩を反芻していたのかしら?
たまたま手元にある本を ぱかっと開いたページに 興味深い詩が掲載されていたので照会させていただきます。中桐雅夫という方のお書きになった「会社の人事」という題名の詩集の「きようはあすに」という題名の詩です。

*******************************

きようはあすに



新年は、死んだ人をしのぶためにある。

心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、

おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ。

でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?

人をしのんでいると、独り言が独り言でなくなる。

きょうはきのうに、きのうはあすになる。

どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる。

でなければ、どうしてこの一年を生きていける?

************

わたしは 詩集を読んでいたわけじゃないのですが、
たまたま この詩を引用しておられる文章を読みました。
なにか わたしたちに 必要な詩だから このような偶然がおきたのだと
私は感じているところです。
 

[345]梓ゆい[2016 01/13 21:19]
ようやく投稿できました。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=305915
タイトルは麦藁帽子です。
よろしくお願いします。
 

[344]高橋良幸[2016 01/04 21:58]
るるりらさん、ありがとうございました。
締め切ったというかあまり放置してもなと思ったのですが、追記いただけてありがたいです。
読ませていただきました。

次の方、頃合いを見計らってどうぞ。
 

[343]るるりら[2016 01/04 13:45]
締切ったようですが、まあそういわず おおめにみてくださいませ
**********************

タイトル: 爆買いの世紀
URL: http://po-m.com/forum/i_doc.php?did=314056

●詩編全体について
まず、題名に インパクトがあります。
「爆買い」という言葉は2015年の流行語大賞に選ばれた言葉です。
爆買いといえば、中国の方による日本での大量消費を意味することは言うまでも無いことです。
ですが、この詩編では 中国の人々についてを 書いておられるのでは どうも なさそうです。
なにか おっしゃりたいことが判然としない印象を持ちました。

インダス文明の人々も 黄河文明の人々も してきた。
それは、
湯水のように 排水溝に 大量な無駄な生産物を捨てるかのように暮らしてきたという示唆ですよね。
詩編にとって最後の行は もっとも大切な行であることが多いのですが、この詩編の場合は
どうでしようか?

>文明は一度、終わったのではなかったか

この詩で この終わり方では、おっしゃりたいことが拡散してしまっていると 私は思います。
理由は いまでは亡くなっている古代文明であるインダス文明と黄河文明を 二つも例としてあげておられるからです。
二大文明を詩編に取り込んだことで この詩編の中では はるか紀元前何千年もの時間のダイナミクスが発生しています。そのような長いスパンの時間ので考える様々な文明は、なんども さまざまな場所で 発生しては終わるということを繰り返しているので、文明は一度ではなく 何度も終わり続けてきたことを想いました。

題名は、【爆買いの世紀】なので 詩の示しているベクトルがせっかく明瞭なのですから
前の世紀と関連づけるとか 時間の単位を生かすともっと おっしゃりたいことが明確になると思いました。

●詩編の細部について
私は詩編の全体についての箇所で、「この詩編では 中国の人々についてを 書いておられるのでは どうも なさそう」なんて言いましたが、細部を読むと 同じ漢字圏の文化を意識しておられると思いました。

>静かな冷媒の音
誰かの企画が売買されている音
主張された封止のデザイン

冷房を 冷媒。風刺を封止。
この二つの言葉を 中国の方なら どのように感じられるのかは 解りませんが、
この詩自体が 風刺でデザインしておられて興味深く拝見いたしました。
 

[342]高橋良幸[2016 01/03 22:25]
蛾兆ボルカさん、年末年始お忙しい中丁寧に批評いただき、ありがとうございました。
次の生贄の方どうぞ。
 

[340]高橋良幸[2015 12/26 12:17]
年末ですが。。宜しくお願い致します。
タイトル: 爆買いの世紀
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=314056
 

[339]るるりら[2015 12/24 08:20]高橋良幸あおば
高橋良幸[さん 蛾兆ボルカさん ご批評をありがとうございました。
この作品は、わたしの詩群の中でも多くの方のコメントをいただいている作品ではありますが、
他のサイトでは管理の方の御都合により 削除対象となった経緯がございます。
ステージによって両極端な反応をいただいたので、正直言うと、とまどいが ありました。
そこで おもいきって こちらに参加して この作品に対する忌憚のない ご意見を 期待いたしました。

実際に参加させていただいてみると、このコーナーはいただいた批評に対して 作者が個別にレスをつけないというルールであることも、わたしにとって 大変 意味のあることでした。これからの詩生活で おりにふれて いただいたご意見を私の思いをできるだるけ排して反芻させることができるからです。

本日は、イブです。わたしの詩の内容を想うと 批評していただく時期として どうなのかという ためらいがありました。それで、短期間の時間設定とさせていただきました。しかし今後の生贄の方は もうすこし ゆったりとした合評期間を おとりになることを お勧めいたします。

今回は、短い期間設定だったにもかかわらず 真摯な批評をいただけました。
こころから感謝しています。ありがとうございました。

★では、どうぞ次の生贄の方にバトンを うけとってくださいませ
 

[336]高橋良幸[2015 12/23 09:42]
みなさん一堂に会しているわけではないのですから、もっと締め切りは長くてもよいのではないでしょうか?場が収まったら、合評終わり、というやり方らしいので。(ただ、実質スレオペ不在なので自己コントロールも必要でしょうね)

うつくしい うんこ
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=310883

<一>
 何度か読み返して、『うつくしい うんこ』の詩的機能は「感動の伝達」なのだと思いました。その上でポイントの数を見る限り伝達の役目がよく果たされていることがわかるため、もうそれでいいではないか、批評するべきことはないのではないかと思いました。

<二>
 ただ、ひとつ私がもったいないなと思ったのは、せっかく見えない世界に触れられる機会だったのに、この詩では見える世界と聞こえる世界しか描写されていないことです。5連目が見えない世界に少しはみ出しているのかもしれませんが、あくまで見えないものを作者が見た(感じた)のであって、見えていない世界に踏み込んだわけではないですよね?盲の方が見えていないのと同じ体験を「私にも 確かに見えたんだ(改行)うつくしい うんこ が」と表現するのであれば、見えない世界の描写がその前にあったほうが良いのではないかと思いました(5連目冒頭3行がそうなのかもしれませんが、表現が視覚的で目が見えている描写に感じました)。そのほうが、「うつくしいうんこ」という、そんなものはないだろう、と思わせる「否定を含む語句」の「否定」の部分が、「見えたんだ」を論理記号的に否定する表現(それは<見えなかった>、という否定ではなくて、<見えるという現象ではない仕方で見えた>、という否定)の形を、より効果的にすると思うからです。

<三>
 <二>のような頭で「見えたんだ(改行)うつくしい うんこ が」見えないことを隠喩しているのだと思うと、その先にある「それにしても(改行) うつくしい ほほえみ が」も形が同じなので、作者がここに隠喩を込めようと思えば込められると思います。そしてこれが隠喩だと思うとこの詩が不穏に見えてきますが(その方が私の好みですが)、作者のコメントを見る限りは純粋に感動したというお話らしいので、最終2行は何も隠喩していない、と思うことにします(どうなの、るるりらさん!)。

<四>
 隠喩は5連目にしか無いという前提で話を進めます。
 詩は作者と読者がいて、初めて生まれるという意見をこのサイトを見ていると時々目にするし、私もその意見はそのようだ、と思っています。蛾兆ボルカさんの、"読詩エンジン”の回転数を上げないといけない、掘ったら詩がある『穴』と違って、るるりらさんのこの詩は読みやすく読者に優しい詩だと思いました(読みにくいのが悪いと言っているわけでは無いです。面白さがあるし)。しかし、作者と読者と詩の関係を考える時に、『うつくしい うんこ』は詩が問答無用であるとも思いました。極論すれば、作者と読者が居なくても詩が成立してしまっている。もしかしたら私が<二>で書いたことを実行してしまえば、問答無用の詩を汚してしまうのかもしれません。そう思うと、変な欲を出さずに見聞の描写に徹したこの詩の直喩主体の構成も必然的なものかもしれません。以上です。
 

[335]るるりら[2015 12/22 18:22]
23日に締め切りとさせていただきます。
 

[334]るるりら[2015 12/22 09:45]

[333]るるりら[2015 12/22 09:38]
よろしく おねがいします。

http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=951
 

[330]高橋良幸[2015 12/16 08:20]
はじめまして。合評初参加です。こんなに長く書くつもりではなかったのですが。。。ご一読いただければ幸いです。

<1>
私は以前この作品を読みましたが、ポイントは入れませんでした。今改めて読むと、詩としては企画倒れな印象を受けました。言いたいことはわかる気もしますが、そこに核となるような心の動きがないように感じました。しかし、そう言ってしまっては「読んでも私は特に心が動かなかった」と言うのとほぼ同じなので、企画倒れに終わっていると思った理由をまず書きます。

1. 穴が「穴」である必然性が詩を通して感じられない
 穴が何回も出てくる割には、穴のイメージが散乱しすぎている。庭で、役人が、会議室の、学校の、野原が。穴の遍在を言いたいのだろうか?しかし、それらの具体的な場所と穴との関係は希薄にしか読み取れない。おそらく、その場で実際に「穴」を見た人にしかこの書き方では通じないのではないか、と思う(ここがるるりらさんとの違いかもしれません)。私は穴が意味しているものをイメージすることができなかった(もちろん、穴の意味を明確に決める、という意味ではないです。言葉の意味がわからなくてもわかる詩はあるので)し、どうして母親だけが穴を掘っているのかも疑問でした。

2. 「私」が分裂している
 小さな子供の「私」が、母親をあなたとよぶだろうか。そして、「私」は役人の前にいたのに、誰かにすがりついて訊こうとして、さらに野原に立っている。しかも、「私」はいつ何の判断を迫られていたのか?それらが読み進めるごとに唐突に現れる。
 その上、「私」は家に帰ったら妻に埋めるのか掘り出すのかを聞こうとしている。これは・・・中盤の「私」の心理状態から見るとデリカシーが無いように思えるし、そんな簡単に聞けることを最終連まで書いてきたのかと思うと、並べ立てられ、寝かしつけられた穴の意味がわからなくなる。

3. 広く浅いイメージ
 前述の1、2と関連するが、場面が展開しすぎ、「私」の居る場所もはっきりしない。読者は拠り所が無いまま、穴について読み進めることになる。しかも所々で「巨大な会議室」「年若くて少女みたいなお母さん」「絵が緑で本体が赤いプラスチックのおもちゃのシャベル」と具体的なものが出てくるため、イメージがハリボテのような印象を与える。

 しかし、これは現代詩で、詩に関して考えのある作者が書いているということを踏まえると、上記に書いたことは意図的であると考えることができます。その意図が見えすぎて肝心の「詩」の部分が見えなくなってしまっているのが企画倒れだと思いました。
 では、詩を感じた場合はどう思うのか。<2>に書くことは私の本心ではありません。本心では無いことを感想として書くのもどうかという気がしますが、詩の可能性の一つとして書く次第です。

<2>
 私は、この詩はモラハラ(家)、パワハラ(会議室)、いじめ(廊下)、虐待(庭の穴)は地続きであり、しかも見過ごされている、というテーマに関する詩なのだと思いました。それらが「穴」の正体で、作中で穴が同定されないように書かれているのは、「見過ごし」を暗に示しているのだと思います。さらに、埋められている。そして、「私」も忘れようとしている。
 しかし、終盤の「私」は穴を顕在化させようとしています。それは中盤の(回想されたまだ穴を覚えている「私」の)叫びと(穴を埋めて忘れた「私」の)「判断」とは対照的です。最終連において、私が忘れた穴と同じ穴を開けようとしている(妻に穴の存在を訊ねようとしている)。「私」は妻の様子がおかしい(妻も穴を開けようとしている)のはわかっている(それは1連目に比べ描写が細かくなったシャベルからもよみとれる)。でも「私」は手軽に(「私」が掘る側の)穴を表出させようとしている。ここに穴の深刻さと手軽さが表裏一体で描かれていると思います。
 加害者側の日常の中で、「穴」は希薄に思えるほど私たちから無視されている。また、いまの私たちの行いと、過去の私たちの行いの間には私たちが思っているほど一貫性がない。この詩の形はそれらと相似であり、日常にいる読者に「穴」を明示せずにただ読ませ、分裂した「私」が最終連の軽さで嫌な感じを読者に覚えさせる。
 潜在意識に訴える薄気味悪さがこの作品の詩の部分で、あわよくばその効果によって穴の連鎖を断ち切りたいという作者の意図が見えるように思いました。

<3>
 <2>の感想は「なぜ母親だけが穴を掘っているのか」という問いには答えていません。他にも読み捨てていて再度詩と比べると破堤している箇所もあるでしょう。しかし、母性の虚無みたいなことを表す詩だと思うと、会議室や廊下に出現する穴や、「私」の妻に対する態度が私の中では(イメージ的に)説明がつきませんでした。道標が少ない分、読者の経験への依存がかなり大きい詩だと思います。以上です。
 

[329]るるりら[2015 12/14 16:59]媒体
こちらの初めての参加となります。タイトル:
今回は「穴」ということですね。
URL:
http://po-m.com/forum/i_doc.php?did=311702&hid=8287&from=20

たまたま私もポイントをいれさせていただいていた作品なので、批評と呼べるものにはならないかもしれませんが、書いてみようと思います。

わたし(るるりら)は、過去に読んだことのある この穴ぼこの詩を
掘ろうとしているのだろうか この詩を取り出そうとしているのだろうか
この穴ぼこ(詩)の中に なにがあるのか 再読してみました。

詩を引用します。
>「穴を掘っているのよ。」と、お母さんは答える
そうして三十年が過ぎたのでした

こどものスコップで、穴を掘る。経験は、わたしにもあります。
人を分け隔てる言葉の一つに、おんなこども という表現がありますが、
こどものスコップで、大人が穴を掘る。という作業自体は どこか社会からはぐれた作業のような気がします。なにをしているのかわからなくなっているような所在なさを感じたものです。

穴とは、母親自身では どうしようもない虚無の心のことのように思いました。
すべての人が 母親の持つ穴からでてきたからでしようか。
母親の掘った穴を回想しているこの詩は、母体回帰のような気もします。

あらゆる事柄は、時間的なすきま、人間関係のすきまが あらゆる場所に存在
していて わたしたちは虚空へと繋がっている穴の輪郭をいつもなぞるように生きているような気もします。
埋めるでもなく掘り起こすでもなく 寝かしつけながら生きているのかもしれないです。

ふれられると 眠る穴。この詩にあいた穴も コメントを返すと眠ってくれるのでしょうか。
お昼寝用の子守歌のような詩が書きたくなりました。批評になってないですね。すみません。
初参加ということで、おおめにみてやってくださいませ。
 

[326]あおば[2015 10/18 10:05]
始めまして。
つたない感想ですが、こあやさんの作品、四季を。

>また私が一人 死んでいった
この最終行で詩が立ち上がった感じもします。

確かにタイトルどおりで、言うところが無いのですが、展開がやや平凡。
行間を一行開ける必要性が有るのか、疑問が有ります。和歌の時代のようにゆっくり鑑賞しない現代では、却って緊迫感を失うような気がします。
欲を言えば、全く破綻していないのがつまらない。これは私の嗜好なので、一般性は無いと思いますので無視して下さい。
100点満点で評価すると75点くらいかなと思いました。良い作品ですが、イマイチ印象が弱いと思いました。表現がやや甘くあまりダイレクトに感じられない行が多すぎる。
よいところを挙げませんでしたが、よいところがたくさん有るのでこの点数です。
基本、減点法で生きているので、悪しからず。
 

[323]佐藤伊織[2011 10/10 05:18]
はじめて参加します。完全に自分の感想ですが良いですか。ルール間違ってないかな。

「夜」 /蛾兆ボルカ氏
最初のラブ&スリープの部分がなんともまの抜けた感じがしました。
でも、そんなまの抜けた感じが、眠っている感じでちょうど良いのかな。

痛ましい
一日の命

が唐突すぎてちょっとだめだな(自分的に)と思いました。

光井 新
まず、長すぎます(個人的にね)。長いのなら最初のつかみで人を
読ませるものにするべきかなと思いました。
詩のコンセプト自体は否定しません。
 

[321]光井 新[2011 04/25 14:43]
よろしくお願いします。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=182688
こんな感じの作品をまた書きたいと思っています。
 

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