生贄合評スレ[406]
2016 06/29 12:52
nemaru

1は理屈というより、理念が書かれていて、2で「僕」が建屋を読めちゃうのは実験室で放射線を浴びて、マトリックスの人みたいになんでも言葉に見える能力を得てしまったのか??とSFに思いました。実験中にガウディ建築のことを考えてたら、デーモン・コアの実験みたいに手元を滑らせて危険だとも思いました。3の合評会の風景として、年老いた方に対する若者の容赦のなさは以前見て、敬えよと思ったのですが、やっと今はそう思わない日が来る(そして、僕の歩く道がその人のシワになる)のは深く共感できるなと思いました。

ちとずれますが、鈴木志郎康さんの詩

流れる水を見たい、という思いの訪れ。
わたしは「爺さん」として、
川原に立って、
足元の小石を見る。
一つ二つと数えても、五つ六つと数えられない、足元の石、
目移りして。

(鈴木志郎康『冷たく、通り過ぎるわたし』)

数えると読むはまた違うことですが、砂浜が詩として読めないこともないことに対して、理屈はわかるのですが、実際には「五つ六つと数えられない」と切り捨てるほうが肌に合うというか、それも個人差があって十とか十一まで追える人もいるけれども、ここの「五つ六つと数えられない」という言葉には、十とか十一まで数えられることも含んで書いてあるんじゃないかなと思います。「僕」はもっと漠然と、全体をいっきに把握するように「読める」のかも。砂一粒が一文字という捉え方だとうんざりしちゃうので、もっとザクーッと読むのかもしれないですね。

合評会当時が最低15歳(高校生)だとしても、今はそう思わない「僕」は最低30歳ラインなので、30歳なら仕事で疲れて歩いていると風景がしゅんできたりするもので、それを「読む」としてるのかというと、おそらくそうじゃないのかなと。

風景が入ってくるのと、読んでみるっていうのは真逆かもしれないし、まったく同じことかもしれない。フィフティー・フィフティーかもしれないし、思い違いかもしれない。昨日ゴーヤでセックスしたのですが、「ゴーヤ オナニー」「ゴーヤ セックス」 で検索すると女性が入れる話がほとんどで、男が入れる話は上位には来てませんでした。どっちも入れるですけど、わたしはゴーヤに入れて、女の人はゴーヤを入れるんですね。読んでみるっていう言葉にも、そういう側面があるのかなとふと思いました。流入する部分と、こっちから向かおうとする部分があって、向かおうとしなくても、もともとあることにはあったっていうことを3を読んでいて思いました。でも、それをいちいち気づいていたら前にすすめないよ、という気持ちがあって、精孔を閉じないと人間は生きていかれないと反発もおぼえました。割り切る前の情景というか。それで、わたしは「僕」はかなりロマンチッカーで、ちょっと嘘つきなんじゃないか(無理してるんじゃないか)って、思います。「感じ方」を「読む」と言い換えているわけではないのは、「読んでみる」とことわっているからで、最後の抒情から受ける印象を素直に読もうとすると、その前に錯綜してる伏線をうっちゃらないと読み切れない気がして、それで何度か読み返していると、かもしれない運転とできないこともない運転の箇所を、私自身がかなり断定して恣意的に読んでしまってるな、と反省もします。
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