2016 04/17 08:15
nemaru
おはようございます。この深水さんの詩を読んでつらつら思ったことを書かせていただきます。
しかし「この深水さんの詩」にするか「深水さんのこの詩」にするかって問題で(『この深水さん』だと、玄関の置物みたいでちょっと感じ悪いですね、スミマセン)、一読してしんどいと思ったのは、言葉の並び方がおかしいからかな…。いやいやそんなの個人の自由じゃねーかと思いつつ、特に5連の親父の描写「体格が似ていて眼鏡をかけた…」から遡ると、ちょいちょい「少ない駅の利用客」「ほぼ聞き取れない泣きながらの声」などなど、これ自体狙いなのか、ふつうに書いていったら頭の中でツイスターゲームやらせるような文体が発動しちゃう心理の持ち主なのか(話者が)って話になりますが。それとは独立して「ママは子供を待っているだろうか」は堪えちゃいますね。待ってなかったらやだな。疑問形のとこはクリアに読めるのに、それ以外はほとんどねじねじしてある中尾彬の胸元のあれみたいな…。頭の中でシャッフル&スキップ機能駆使して読めますけど、並んでる順番でちゃんと読むと、けっこう気持ち悪いです。あと「誰か」が多すぎて、ちょっと怖いっす。
駅員の行動が「清掃」「保線作業」「なにか」の三択だったり、わからないなら最初から「なにか」でいいのでは?と思いますが、駅員だって仕事してますから「なにか」だけだとバツが悪いし、そしてこの「私」も推理マニアなのか、途中まで作業名を挙げて最後に「なにか」って言うし、日常会話でもそりゃ確かに「ポテトチップとさきいかとなにか」とか言うような気もするしな…。駅員って保線作業するのか?そういう駅もあんのかな?保線っていうのを絆ってニュアンスに読み替えてもなんかありそうだし…と、タイトルに目を移すと「線路を隔てた迷子」こういうタイトルだったのか。とすると、腑に落ちる部分もありますね。線路を「時間」に置き換えちゃったら、もう解決のしようがねえな、とか。のっけから心の中みたいに読むと半分読めて、また半分はちょっと読みにくくなる。
最終連、責める声はいない「親」に対する、井戸端みたいな怒りが募ってくるところをすりぬけて「私」は電車に乗って行ってしまう。誰かが責めるところの「親」と、子供の会う「ママ」は違うんだよなぁ…ってところでも、改めて何か気づくような所がありますが、全体的にもよ〜っとしていますね。「もよ〜っ」は、人の少ない駅で迷子になって親が見つからないってことは、電車に乗っちゃってる可能性が非常に高いし、そんなことする親が実在するのかっていう部分が全体に反映されて、心の内なのか現実的な光景なのかわからないような綱引きを読者にやらせてるんじゃないか。そういう作用があるんじゃないのかな。
自分にぐいっと引きつけて読んだら、やっぱり欠損というか、昔こうされた(から ・のに)、今こうできない(なんで?)、という部分はありますね。昔お祭りで知らないカップルの男のほうを親父だと思って袖つかんだら「なんえこいつ」と言われたのはショックでしたけど、今思えば急に隠し子がでてきたら男は焦るよな。「なんえこいつ」はそれ以上でもそれ以下でもない当たり前のセリフだったなーって、一応の整理はつくけど、今も続いてるっちゃ続いてますね。その時はすぐに親父が見つかって安堵して激怒して腰パンして終わった話ですけど。
読み返すと「乗客の少ない」「不在のことも多い」っていう部分おもしろいですね。端的にいないことが多いってできる人間の、「数字のゼロ発明しました!」って感じの、定量化?できる言葉のおもしろさ(喜び)を感じます。そのぶんほじくれすぎちゃうきらいもあるんじゃないのかっていう、それで人間は随分ナイーブになっちゃったんじゃないのかっていう、そういう側面についても思いをはせたり。
あてずっぽで言うと、やっぱり語順自体の何が何を包含するのかって関係があって、それを自分の順番で書いていった心象風景、というふうに捉えることができるのではないか。それが人に合うかっていうと、表向き内容はおぼろげに了解できるが、じっさいきっちり読むと変なところがいっぱいある。大人だけど子供の部分を残して何かに共鳴するときがあって、ナイーブだけど、ないとは言えない部分が刺激される、そんな詩でした!
いや〜、読めば読むほど考えることが増えてきて、楽しいですね! 「子供=私、子供(渡し)私」とか、私って、そういう語源なんじゃないか!?とか、勝手にいろんなこと考えちゃいますね。ありがとうございました!