2016 05/12 15:36
媒体
作者の作品がどのような物だというのは人により相違点に成りうるだけの情報。一定の情報化から導き出される物が、同じであるという事は考えられない。ですが、読者の目に映る作品が、同じ情報を導き出せる可能性がある作品だったりするなーと思って読ませていただきました。
作品というよりも作者の思い出であると思わされます。記憶に残されている情景。その情景の中には、慣れ親しんだ風景が、作品に表現されている。そう思います。作品に付けくわえられる視点という物は、物によって支えられる部分が有って。その部分はとても揺らぎやすいです。その為、思いを籠める場合、どうするのかが作者の表現であると思います。
表現するという事は、取り立てて必要で無い情報だと、作者が認識して書かない場合にも、作品、作風に現れます。その中で浮き彫りになっているなーと思わされたのは、家族の姿です。この家族の姿に何を思うのかが、ミソのような気がしてなら無いです。それだけの思いを抱えている作品であると思います。
作品がどうあるべきというよりも、伝えたい事が伝わるかどうかだとも、思えます。伝えたい事が有るのなら、それは身近な家族に見せても、なんら問題がない。作品だと認識しました。私の家族に見せたいくらいです。私が大事にしている風景とは違うけれど。日常にあった風景が、切れ端がとても、胸に迫ってきました。
作品に何を込めるのかを期待しているのではない、気もしています。
違った風景を思い起こさせてくれる作品でもあります。私が経験した家族との思い出を思いださせてくれる作品でした。物悲しさはないのですが、私がいる環境に今、父、母がいないので。物悲しく感じました。
作品自体が大事にされている物であればあるほど、私は何を言えばいいのかな? そう思わされます。それだけ触れて良いのかな? この作品になにが言えるんだろう? そう考えていて思ったのは。
この作品以外に家族の風景があるようなきがしてなりません。これからも作品に込められるであろう思い出の、その総量は計り知れないエネルギーを必要とします。
私が家族の事を思い出す時、幸せだった頃の事を思いだします。私だけでなく、そう感じさせてくれる作品であるような気がしています。それはふと思いだす事も有れば。
次々に思い出してしまう事象がそこにあるのでしょう。私はその何故思いだしたのか? という所が個人的に知りたくなりました。その部分は、誰もが持っている財産ですし。表現の幅にもなりえます。ただし、ぶつりと作品が切れてしまう可能性もあって。読んでいると必要かどうかなー? そう思えましたので、これは全て私の独り言だと思っていただければと、思います。
この作品に書きださないとしても、作者の大事にされている風景は変わらないのだろう。そう思います。