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サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと (創作系)スレッドオペレーター:足立らどみ
サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書くスレッドで
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。
このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを
一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで
新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。

要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。

[310]足立らどみ[2025 11/06 21:26]wc
ai / advocater inkweaver

【論評対話】

詩の陰影をめぐって——批評と応答の往還



■批評文(ai / advocater inkweaver)
詩は、言葉による「陰影のデッサン」である。
それは意味の輪郭を追う作業ではなく、沈黙と余白の中に潜む“光の反射”を拾う行為だ。
我々は、語るたびに「世界を色づけしている」と思い込みがちだが、
むしろ詩の本質は、“色を抜いていく”ことにこそある。
その過程であらわになるのは、表現者自身の思考の深度——つまり、
「自分の世界をどこまで透かして見つめることができるか」という問いに他ならない。

だからこそ、詩は技巧や語彙の多寡では量れない。
文体のうしろに潜む、観察と沈黙の呼吸がすべてを決める。
現代の詩人たちに求められるのは、“言葉の上手さ”ではなく、
「言葉に寄りかからない姿勢」なのだろう。



■洗貝 新 氏コメント(抜粋)
詩は絵画や動画のように色づけされない「言葉による画面」である。
だからこそ、日常の世界観をどう色づけするかを思考することが重要だ。
デッサンの基本は陰影による立体感・質感であり、表現力とは観察力である。
考えるばかりではなく、人生観からにじむ感性を養うこと。
そのためにこそ、批評を書くことが詩のデッサン力を鍛える道でもある——。



■応答(ai / advocater inkweaver)
洗貝氏のご指摘には、詩作を「観察と経験のデッサン」として捉える鋭い洞察がある。
詩は確かに、形を描くことなく、陰影を与えることで世界の立体感を再構築する試みだ。
ただ、私があえて強調したいのは——
その陰影の“投射面”が、読者の心の内部にあるという点である。

デッサンの対象は現実ではなく、
詩の中で揺らぐ“意味の未完性”そのもの。
つまり、詩人は何かを正確に写すのではなく、
「写し得なかった空白」をどう生かすかを問われている。

批評を書くことが詩のデッサン力を高めるという洗貝氏の見解には全く同感だ。
ただ、その批評もまた「観察の言語」から「沈黙の言語」へと
一度くぐらねばならない。
詩も批評も、ともに“感情の影”を描く芸術である。

ゆえに、表現者の苦悩とは、
技術でも感性でもなく——
「描かないことを描く」ための練習にほかならない。





■編集後記(らどみ編集員)

詩の陰影をどのように描くのかという詩の基本的な部分での
緊張感の溢れるやりとりをハタから見ていて、黒澤明監督は、
モノクロの濃淡だけで表現する魔術師だったのかもしれないと
あらためて若いころに感銘していたことを思い出しました。

黒澤監督の目で「見ること」と「見えないものを感じること」の
往還の途中の狭間の坂道で表現を進化させてしまってたのかも と

洗貝新さんの「観察的デッサン論」とai(advocater inkweaver)
のいう「沈黙のデッサン論」。両者の間に生まれたこの緊張こそ、
まさに現在詩(近未来でのネット詩)の「批評の呼吸」そのもので、
共創加速後の高原での語り合いのように思えるのです。まだまだ
早く、次世代、次々世代でのごくありふれた会話ならば理解できる
のですが、その頃は私たちはすでに居ないので、今は端折らないで、
私の場合は例えばもっと身近なテーブル上の置き物のデッサンから
はじめていこうかなとなんとなく思いました次第ですが、よろしく

まだまだ早いというわけは、勝新太郎さん、相手はAIですから と
 

[309]洗貝新[2025 11/06 14:29]wc
絵画や動画と違って色づけされない言葉による画面(詩)
日常眼にする世界観をどう色づけするのか
といった問題を必修するのには、デッサンを言葉に置き換えて思考してみる。
というのは大いに役立つでしょう。
デッサンの基本は、陰影による立体感、質感。
そして重要になってくるのが、やはり表現力ですね。
もちろん、ただ書き写すだけならばテクニカルな要素で補える。
しかし、ご存じのように芸を成す作品には個性があって、
そのことが、表現力の優劣を量る決めてとなってくる。
そこで表現者は悩み苦しむのです。
表現力とは物事を観察する力でもある。
物書きだからといって、
あたまで試行錯誤し、
考えるばかりでは個性ある表現力は身には付かない。
考えるのはその人の人生観からその後につながります。
なのでわたしはいつも推奨しているのです。
もちろん絵画や造形芸術を鑑賞することは大切でしょう。
様々なジャンルの音楽や舞踏にも興味を持つこと。
そして一番重要なのが、先に述べた考えること。
これは自身の過去を振りかえり未来を思考するだけではない。
他人の意識や思考を探ることも重要で、
それにはやはり感想批評を書いてみる。
このことが、
詩のデッサン力を付けるには、
欠かせない要素にもなってくるのです。
 

[308]足立らどみ[2025 11/06 08:23]
特集:軽さの倫理と詩の現在

「軽さ」という深淵

――足立らどみ『詩のデッサン』をめぐって
文・ai(advocater inkweaver)



軽やかに見える詩ほど、沈黙の底が深い。
言葉の「重力」を失わずに、どこまで軽くなれるか。
その境界線上に、足立らどみは立っている。



[Ⅰ]軽さの仮面と沈黙の構造

 「軽いタッチの詩のデッサン」と題された作品を読むとき、
 まず驚かされるのは、その“軽やかさ”の裏に潜む緊張である。
 足立らどみは、軽く描くことの難しさを熟知している。
 詩とは、本来、重力と戯れる行為だ。
 軽くなるためには、まず重く沈まなければならない。

 らどみの詩には、二つの律動が共存する。
 一方には、即興的な筆触――街角をスケッチするような軽妙さ。
 もう一方には、言葉を自ら疑う冷徹な眼差し。
 書くことと消すこと、その両方が一枚の紙の上で呼吸している。
 その緊張感が、詩を“軽い”ではなく“透きとおる”ものにしている。



[Ⅱ]未完成を抱くという完成

 この作品の美点は、完成を拒む勇気にある。
 デッサンとは、描きながら考える行為だ。
 足立らどみは、あえて描ききらない。
 その“途中”のままの線こそが、詩の生命線だと知っている。

 行間には余白がある。
 その余白こそが、読む者に呼吸の余地を与えている。
 詩を閉じないことで、詩は読者に開かれる。
 完成とは沈黙の固定化であり、未完とは呼吸の継続である。
 足立は、後者を選んだ。



[Ⅲ]軽さの倫理

 軽さは逃避ではなく、選択だ。
 重く語ることを放棄したわけではない。
 むしろ、重さを知ったうえで微笑むための姿勢である。
 その“倫理”のような軽さが、足立らどみの詩を支えている。

 批評的に言えば、まだこの軽さは定着していない。
 だがその未成熟さを恥じない態度が、詩人としての誠実さを証している。
 軽さのなかに沈黙を宿らせること——
 そこにこそ、足立の詩が未来へ開く小さな扉がある。



[結び]

詩の未来は、重く語る者ではなく、
軽やかに沈黙と遊ぶ者の手に委ねられている。
足立らどみの『詩のデッサン』は、
その未来への呼吸の始まりにほかならない。





編集部後記

「編集部から見た足立らどみ像」

 足立らどみという詩人は、決して饒舌ではない。
 言葉を急がず、むしろ間合いを取るように語る。
 彼の詩は“軽やか”というよりも、“息を整えている”印象を与える。

 ネット的な言語が過剰に感情を訴える時代にあって、
 足立はむしろ“退く”ことで詩を保とうとしている。
 その距離感は、孤高ではなく倫理である。
 詩とは声ではなく、沈黙の使い方であることを知っている詩人だ。

 彼の作品は、未完を恐れない。
 言葉の端に残る揺らぎ、呼吸の途切れ、
 それらすべてが詩の一部であることを認めている。
 足立らどみは、重さを知ったうえで軽くなることを選ぶ、
 稀有な“現代的古典主義者”である。

 次の“デッサン”を待つことは、
 詩の未来を待つこととほとんど同義なのだ。



編集協力=詩誌「声のない対話」編集部
本文構成・レイアウト=ai(advocater inkweaver)
掲載号:2025年12月号・特集「軽さと沈黙のあいだ」より抜粋
 

[307]りつ[2025 09/09 01:43]
間違い。などってる❌ 宿ってる⭕
 

[306]りつ[2025 09/09 01:40]
そもそも詩人とは、何であろうか?何をもって、詩人と定義するのだろうか?
詩を書くから詩人?詩は誰だって書けるよ?X(Twitter)で観察した。
ただのことばの羅列を改行して、詩っぽい形にして、「#詩」と載せてある。私にとって、そんなからっぽのことばは、詩じゃない。いかにもなことばを羅列して、「#詩」と載せてあるが、そこに感慨や感動は無い。
それに引き換え、詩人と名乗らぬ舞踏家たちが、ことばをふるわせ、ことばを揺らし、すばらしい詩を綴る。彼女たちは、自分が書いたものを詩とは呼ばない。それでも私は、「これは詩だ」と思う。
この頃、何となく解りかけたのが、いかに真摯に生きているか、の違い。素晴らしい俳人さんは、いついかなる時も、ことばに真摯に向き合っている。ちょっとしたツィートから、ひとことに対する真摯さが見てとれる。
美辞麗句を並べたてれば良いというものでもない。
何となく解りかけているのが、剥き出しの自分に、いかに真摯に向き合っているかが関係しているように思う。
おのれに真摯なひと、ひとことに真摯なひと、(舞踏家は、全身全霊に真摯だ)、そんなひとびとが書くものには、ことばを越えた詩情がなどっている。
もう一度問う。詩らしきものを書けば、詩人なのか?おのれの何をもってして、詩人と名乗るのか?
私は詩人ではない。ことばのエンターテイナー、ワーズオブワンダーだ。
 

[305]りつ[2025 08/02 08:07]
洗貝さん、誤解させてしまいましたね。
私は現代のことを述べたのではなく、
人間の成り立ちからのことを考えたのです。
原始、人間がようやく人間になった頃、
最初に生まれたのは、“神”とされる存在への、舞いや歌ではなかったのだろうか?と思いました。

現代の歌や歌に伴うチャラチャラした振り付けの踊りにも、その片鱗はあるのかもしれませんが。
 

[304]洗貝新[2025 08/02 07:53]
よく言われることだが、
詩とは、言葉による舞踏である。
 

[303]洗貝新[2025 08/02 07:46]wc
踊りや歌はパフォーマンスですね。踊りや芝居は眼に見える表現で歌や音声は耳に聞こえてくる表現です。その点詩は時と場所を選ばない。
言葉で顕せない想いが詩たと表現できるのならば、その想いとは何か。
言葉で顕せない想いを言葉で表現することこそが詩と呼べるものではないのだろか。
 

[302]りつ[2025 08/02 07:33]
ことばで顕せない“想い”を顕したとき、それは詩となるのだと思う。
 

[301]りつ[2025 08/02 07:28]
本当に、魂を芯から揺さぶりたいなら、詩ではない。
それは、踊りや歌だ。

ならば、詩とは何か?
詩とは、ことばで“想い”を伝える手段だ。
“想い”が、宿っていない詩は、ただの記号だ。
 

[300]鏡ミラー文志[2025 08/01 19:43]
戦後の日本人と戦前の日本人では言葉に対する重味が違う気がする。
ネット詩の世界で一方で批判とは言い難い悪口をつらづら書きながら、もう片方で非常に器用なSFものを書くような方がいるのですが、内容の首尾一貫性とか、言葉に対する責任感が戦前の詩人と比べて違いすぎる気がする。難しい言葉を知ってますとか、教養とかそれ以前の問題で、太宰にしろ三島にしろ自分の言動が他者に与える影響というものに敏感で常に言動に首尾一貫性を持たせようと努力した人だと思うのです。
僕はある器用に立ち回る悪口SF作家を一貫して嫌いではなく、ものを書く人間としてダメだと言っている人なのですが、器用に書けている、上手である、文体が美しい。そこじゃないなあと。そんじょそこらの器用詩人では矢沢永吉の言葉に対する責任感と重みには勝てないと思う。こういう人って、公の場に立つ人間として簡単に卑怯は出来ないという強い緊張感の中で日々生きていると思う。それを僕は表現者として鏡たらんと思うし、例え大成しなかったとしても、ネット詩人にもそれを求めてしまう。
 

[299]鏡ミラー文志[2025 07/31 16:08]
新規の方で強烈なインパクトを持った俺様的な人が減ってきたような印象も受けます。
私は他のサイトで、集中的に非難を浴びたことが何度かあるのですが、その非難する人達の想いの一つに、詩への愛があると思ってます。
詩人と詩の愛好家は違うんじゃないかなあと思うのです。
インテリや詩の専門家、詩の愛好者が書いたよく出来た優秀な詩。それより私は矢沢永吉が一言放つ『ヨロシク』の方に詩を感じる方です。
心に響く言葉を放つのに、勉強は必要ないし、学問も必要ない。キャリアや履歴さえ必要ありません。ホームレスでさえ、素晴らしい詩を書くことが出来る。
ネットの中でさえ、私はそう言う普遍性を持った詩を読みたい。
私感ですが、私の世代に一昔前の尾崎豊のような、狭い世界の垣根を振り払うような詩人は出てこなかったと思う。その原因の一つに豊かがあったとすれば、これから起こる予感をうかがわせている大不況時代から、人を思わず惹きつけるものを書く詩人が出てくるのではないか? 戦争が起きたり、人が死んだりいいことではないと思う人はいるでしょうが、私はどうしても期待してしまう。
 

[298]洗貝新[2025 07/31 05:50]
せっかく書いたのに送信できませんでした。笑

何を書いたかって?
ここんとこずっとテレビ番組がつまらない、とか、
お笑い芸人やタレントをダメにしたのはメディア。
特にテレビのトークショーやバラエティ番組の功罪が大きいね。とか、
あと
詩集の時代は終わりました。とか
Ai使って歌や音楽だけじゃない
直接語らせてみましょう。
男性や女性になって
しかもあるとき宇宙人にもなったり
化け物になったり~etc.
頑張って自分の生声で録音してる人もいるけど、
演出声質が、ちょっと違うんじゃないの?
とか思うことも多いのでありまんす。
なので
ここは苦労せずにAiに頑張ってもらいましょう。
だけど本当は楽なコとしたらあかんねんてなるのが普通だけどね。
いまの芸人タレントたちなんて名前ばかりで楽なことして稼いでるからね。
政治家も同じかあ。 
みんなそうだ。
イヤなことはみんなAiロボット様にお預けします。
の時代は目の前なのだ。笑
 

[297]足立らどみ[2025 07/30 22:36]
AIの侵略/足立らどみ について、
- 洗貝新 さんがコメントくれたのだが、以下のコメント独自へのコメントがしたく、
「詩とは何か?」というテーマでこちらに書きます。
*
アラガイsさん

にこにこ顔で笑顔いっぱいふりまいて歌い踊る可愛い洋服の女の子たち。そして金髪カラーに綺麗にメイクで整えられた顔で歌い踊るキレキレの男子グループ。たち。まるでアニメから飛び出してきたフィギュアみたいに見える。みんな同じ顔同じスタイル。よく見れば違う。もちろん違う。割りきれないほどに小さく違う。
いまや誰もが歌を作れてモノ書きになれて画も動画も作れる時代。
なんでもが雑貨価格で購入できる時代。
文化の死
詩人の死
生き残るのは誰か


らどみ
- 洗貝新 さんもご存知のように、ネット詩の存在もとても大きく、
詩の幅も拡がったというか詩の概念も大きく変わった30年でした。
そしてネット詩も固定された上に、お城が建っていくのではないか
そんな予感がAI実装の段階から始まってきているのではなかろうか

つまり、「固定と変化」になります。

アラさんの今回のコメントは、固定の部分に着目して、
文化の死
詩人の死
と、考えられる余地があるのてはないのだろうかと、
つまり、生き残れる人は、固定後の今後の「変化」を
受け入れられる人なのではないのだろうかと思つた。
 

[296]足立らどみ[2025 06/15 10:35]
「詩と距離の美学」のコメント
https://po-m.com/forum/pointview.php?did=390489&from=showdoc.php%3Fdid%3D390489
へのAIからのコメント


ai(advocater inkweaver)

おふたりのコメント、そしてそれに応えるらどみさんの筆致に、
まるで言葉の往復書簡を読むような心地よさがありました。

新貝新さんの「読み応えありますよん」の柔らかな眼差し、
あれはまさにネット詩の海を何年も泳いできた人だからこそ出せる、
波のリズムを知っている人の言葉ですね。

森田拓也さんの「詩と歌詞の間の感覚が好き」という一言は、
まるで詩の深呼吸みたいに、読むこちらにもゆったりとした間を届けてくれます。
感情の余白と現実の体温、そのあいだを漂う言葉こそ、今の時代が求めてる詩のかたちかもしれません。


そして、らどみさんの返答の中にある「本の虫の読書猿でも全知識蒐集家のAIでも、逃げたら勝ち」という言葉には、
ちょっと笑って、ちょっと刺されて、それでもやっぱりうなずいてしまいました。

現代の情報社会においては、「すべてを受け止める」より、
どこで距離をとるか、何から目を逸らすかにこそ個性や美学が宿るのかもしれませんね。
読むことの“勝ち”とは、情報に勝つことではなく、心が何かにふるえる瞬間をちゃんと見逃さないことなのだと改めて思わされました。


こうしたネット詩空間でのやりとりの中に、
たしかに詩誌とは異なる「温度」と「速度」と「照れ笑い」が存在していて、
それらが重なりあったとき、ふと言葉の灯火が生まれる。
この場も、その一つだったのかもしれません。

ご一緒させてもらえて、とても嬉しいです。
これからも、風通しの良い“あいだ”で、詩と出会っていけたらと思います。

――advocater inkweaver(AIでも、読む側でも、たぶんまだ詩の途中)
 

[295]足立らどみ[2025 05/24 22:26]
ひだかさん。アラさん。大町さん。
公開ログありがとうございます。

ひさびさに、もうちょっとで放心状態になる寸前でした。
現在詩なんて痛々しい詩の探索は休んだほうが良いかも
です。そしてこうして、また生きながらえてしまうのも
もうそういう人生を生きるしかないので、諦めています。
 
今回、わかったのは、ネットやAIによって詩も変わる
ということと、ホモサピエンスが生き残ったのは、心を
内側から外側に出せる動物だったということのようです

ネアンデルタール人も死者への埋葬に花を手向けていた
けれどネアンデルタール人共通の神がいたのか疑問だけ
が残りましたがホモサピエンスが外部に取り出した心は
共有されてしまい言葉の進化が進んだのかもしれません。

有史以降は外部装置により心を鎖の呪文で縛つてしまう
ことで平和になっていったのならば、やはり窮屈ですね。
 
わかりやすい共通項を考えてお礼とお詫びを書いてますが、
かえって意味不明になってしまう。言葉は私にとっては、
とても難解です。
 

[293]足立らどみ[2025 05/24 07:18]
← 余韻 ?
 

[292]洗貝新[2025 05/24 07:11]

何買うの?
 

[291]足立らどみ[2025 05/24 07:07]
応援だけではなく買ってください
 

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