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大村です。いとうさんへ横レス。批評でもなんでも無いんですが。 #俺って結構まじめなんだよ オレ、キャバクラでこのセリフ言った事あります。(悶) 説得力全くナシ。(悶々) 向こうにすりゃ「帰ってくれ」だったんだろーなー。(汗) 男が口にする以上に、女はいつだってマジメだと思う。相手に対しては。 だってしまいにゃ入れなきゃなんないんだから。(もろ) ま、「冷める」ってな現場としては、こういうもんでしょう。 内田春菊がよくやるイヤ〜な描写を、連想してみたりして。(笑) あと発言の流れを見ていて思ったのは、得点するにしろ批評するにしろ、 ネットでは扱い易い作品のほうにコメントが集まるものだという事。 なんだか皆んなラクしてるなァ、と思う。 でなきゃ「樽の中の魚を撃つようなもんね」みたいな。(<ルーシー・ヴァンペルト) 下向きに撃ってる奴ばっかって感じがする。 薄っぺらになるのは、作品の本質に沿った批評が出来てないからで、 それはむしろ批評する側の能力不足だと思うよ。 それに批評するなら大向こうを相手にしなきゃ。詩の世界の問題解決にゃなるまい。 それで説得力あるものが書けたなら、その人は大したもんだと思うけどね。 by 大村 浩一 斯界の最後の希望の星と敬愛するポエム王子こと大村兄。 兄が別段このスレッドのこれまでの展開のみを指して「ラクしてる」と賜っておられるのではないことを、敢えて承知の上で申し上げます。 これまでの展開ですが、言いだしっぺの俺としてはまさかここまで「豊かな」議論になろうとは、想像だにしてませんでしたぜ?少なくとも俺が顔出してる同人誌の合評会だって、ここまでこの詩に豊かな内実を吹き込んで見せる試みができたかどうかは疑問だし(いや、大体、俺が出入りしてる同人誌のレベルがどうだ、とか、こんな詩が同人誌に載ってるのだとしたらその同人間の見識がどうなんだとか、いろいろ突っ込みどころもあるでしょうがね)確かに「扱いやすい」詩であったことは認めるし、ここで今まさに展開されてるのが「大向こう」を唸らせたり「詩の世界の問題」を解決するにはそもそもの構造上から無理のある「印象批評」であることも承知の上で、それでも俺は兄に申し上げたい、俺たちは別段「大向こう」のためだとか、「詩の世界の問題」のためにここにいて、詩を書いたり読んだりしているのではないのです。そりゃあ確かにそういう問題が重大じゃないとは申し上げますまい。フォーラムに身を置かれながらもそれらの問題のために日夜心を砕かれている御仁もまったくいませんとも申し上げますまい。はたまた、正直に申し上げれば俺自身が投稿される一つ一つの詩に苛立つことも、フォーラム内で得票が集まる詩の傾向からそれが決して大向こうを唸らせるベクトルを持ちえていないことに舌打ちすることも、まま、あるのはまごうかたなき事実ではありますが、それでも、現象としてのネット詩、相対としてのネット詩に、かくあるべきだという箍をはめ込む気には、俺はどうしてもなれないのです。 by 山田せばすちゃん >※くん ・・・ったく、俺が自スレで「白糸スレッド行け」って連呼してるのなんて誰が見たって冗談に決まってるだろうが(苦笑) そんなもん真に受けて俺のスレッドのごたごたを人様の立てたスレッドまで持ち込むんじゃないよ、公私の区別のつかないやつだな、まったく。みっともないからやめなさいよ、こういうの。 俺は、大根斬りスレッド上で、「この手の書き込み」=「論理的に回答する気がない書き逃げ」に関しては適宜削除すること「も」ありますと書いただけで、お前さんみたいに人の発言徹頭徹尾削除=排除するつもりはないんだ、なにが「禁止されています」だ、禁止してるのは君自身なのに、まるで公平な第三者がそうしているかのような書き方だよな。 俺は逃げも隠れもしないから文句があるなら大根斬りスレッドに来い。二度とこの手の書き込みで人様に迷惑かけるような真似はするな。 >白糸様、ならびに当スレッドにお立ち寄りの皆様 俺の不徳のいたすところとはいえ、スレッド趣旨になんら関わりのない書き込みでお目を汚しましたこと、深く深くお詫び申し上げます。まことに申し訳ありませんでした。 by 山田せばすちゃん ※くんへ いい加減にしないと本当に信用失うぞ、俺のスレッドだと書き込み削除されるからいやだ、というんなら、雑談スレッド来いよ。このスレッドは実際批評が行われるべき現場であって批評そのものの総論をやるべき場ではないんだから。 by 山田せばすちゃん >23 >ここから具体的な作品分析に入るにしてもこの前振りだけで読む >気がなくなっちゃいますよ。 いや、それはそうでしょう。あなたのご指摘のとおりです。 わたしも昨夜はビールを相当数飲んでいてちょっとつまらないことを書いたと 反省している。 でも、 べつに弁解するわけじゃなくてね、わたしのようなズブの素人が現代詩の最先端と渡り合える可能性を しこしこ試みるってのが、他のズブの素人のひとにとっても大事なんであって、 現代詩が一握りの言語ゲームに達者な人たちのものである限り 現代詩はますます狭い場所に嵌ってゆくんじゃないかという思いがあるわけだ。 だから、ズブの素人であるわたしがこのような最先端の作品を批評する場合、数学で言えば 高等数学を微分積分みたいなレベルに解体し、 さらにそれを連立方程式に変換してから、いわゆる掛け算足し算のレベルに広げて語る ということが大事だし、それによってズブの素人であるわたしには得るものもあるわけだ。 わたしにとっては批評とは、どこぞのえらい人がやるような高等数学的なやり方がすべてではなくて ズブの素人にもできるさまざまな可能性を試してみたいと思ってやっている。 高等数学の公式で、さっと解ける問題を、 足し算引き算レベルで長々とやられると見苦しい点もあるかもしれない。 それは申し訳ないが、ま、ここはスレッドオペさんもいうように様々な試みを許してくれているので 長い目でなんとかよろしく頼みます。 by 一番絞り ボルカさん、僕は、実際かつて有井さん見たこともしゃべったこともあるけど、作品に対する姿勢はきびしかったー! 一番搾りさんのいうように、かっこいいかった。でもガハハしたりもして不思議な人だった。 ここは、批評をするところだから、これぐらいにして。 一見肉感的にみえて、タッチは繊細で淡い。抽象と具体の微妙なあわいを描いてるけど、実は、一貫して、分裂よりは、葛藤や対象への戸惑いを痛みを描く、関係性の詩ではないだろうか?彼の生を賭けた… by 石川和広 石川和広さん >同じ穴の狢なので、平行線をたどるの当たり前だよ。対話不成立! ぼくはこういう断定がよくわからんのですよ。 あなたとだれとの間の対話が不成立なんですか? 他人のあいだに対話が成立しているかどうか、そんなことを第三者が断定するのは 余計なことじゃないでしょうか。 というのは、じつはわたしは※さんと山田さんの間には、なごやかな対話はそりゃ無いけど 底流には関係修復を求めて対話を交わしているのだなと思えるところがあるのです。 確かに、山田さんは「つばをかけてやる」と※さんに発言し、※さんはそれに対して当然の 感情的反応を返した。 しかし、もしもほんとうに山田さんが※さんを相手にしたくないのなら、詩の批評をしたりしない。 それも※さんにとって一番程度の悪い詩をわざわざ選んで批評するというのは、逆に言えば 相手の感情を逆撫でして関心を向けさせる所業でしょう。関心があるのですよ。 また※さんも、もう山田さんに関心がないのならいちはやくその批評に反応はしたりしない。 そこには底流になんらかの修復を求める動きがあったのだと思う。 だから、なんだかんだといいながら、わたしは両者のやりとりを微笑ましく眺めていた。 対話というのはなあなあムードで、予定調和的になごやかに進むものばかりが対話とは限らない。 現にわたしは山田の大根斬りでしつこくボルカさんらに、からまれている。 わたしもそれなりに、からみ返している。 傍目から見ればなんて低劣なやり取りをしているんだろう、と見えるだろう。 しかし、わたしは内心、考えている。 ボルカさんはわたしをクソみそに言いながら、どうしてこうもしつこく関わってくるのだろうか? と。 そこで、じつはかれがわたしにとても関心をもっていることがわかる。 おそらくかれは憎しみと同じくらいにわたしに一種の愛情を抱いているのだろう。 それがわかるから、わたしもそれなりに対応している。これは決して「対話不成立」ではないと思っているからですよ。 対話なんてのはそんな奇麗事ばかりでは済まない事もある。 もしも、和やかムードの対話ばかりが要求されるのだとすれば、そこにはうそが混じることになるだろうと 思う。 話は変わるが、私憤としての批評があるのなら、私憤としての詩作ってのもあるだろう。 一度、そういう詩を書いてみようと思っている。 by 一番絞り >でも、わざわざ喧嘩腰になる必要もないのでは、と思います。[55]ミント ミントさん、このご発言、よく承りました。 たしか羊羹なんか作るときにも、少し塩を入れますよね。 でも、塩が多すぎると不味い。 隠し味は、ほんの少しがいいのですよね。 ハンセイ。 by 一番絞り さて、詩による批評というものを試みてみよう。それも私憤にもとづく批評詩というものを。(笑) そうだな...表題は「マンドリンのスネカジリ」。(爆笑 マンドリンのスネカジリ 舞台裏からマンドリンのスネカジリ登場 ぽろん〜と楽器を爪弾く ご大! ご大さま! どこにおいでですか、ご大さま! ああ、昏くてよくみえませぬ 昏くてよくみえませぬ 蛍光灯もこれだけ暗ければ世も末 いや、もはや法滅 何も見えませぬ 何も感じられませぬ そうだ! ...テツガクせねば! マンドリンのスネカジリ、ポケットからハイデガーの 『存在と無』を取り出し、膝の上において マンドリンを 「ぽろ〜ん」 谷川シュン太郎 天幕の上より (顔面神経痛に耐えながら) 親のスネカジリ、いや七光りでこの壇上に出現したおれは おまえらミツバチもどきどもの運ぶ養分を食らって もはや単純に詩人なんかぁーじゃないのだ だれにも届かぬところへ押し上げられ変容してしまった このおれを それでもけなすものがこの世ににいるとは おもしろい! おもしろいことだ! マンドリンのスネカジリのマンドリン、舞台の板張りに落ち マンドリンのスネカジリの頭が天に向かって仰がれるや ぼるカ、四輪車のオモチャに乗って横手より現れる 「ぶー」 黙らせたいんだ 夜もおちおち眠れんのよ 許せないなんだ あんな愚劣な詩論の持ち主がぬけぬけとあなた様の悪口をいい ぬけぬけと詩の批評なんかするなんて どうしても許せないんだ これは 詩への冒涜です だからつきまとってやるんだ 消してやる きっと ぼくのディスプレイの液晶画面上から あいつを ぼるカ 「ぶー」と去る 一番絞りを捕まえた〜♪ 一番絞りを捕まえた〜♪ お初、舞台右手より登場。 《シュン太郎さま、詩に神さま、ついにこのアホを捕まえました》 マンドリンのスネカジリ、瞠目する さっそくマンドリンを構えて 「ぽろ〜ん」 《ハイデッガーも理解できぬ無学なアホが〜 ご大さまの悪口をいいふらすなんて〜 気の利いた返事のひとつも〜 返せぬ間ぬけが! 一番絞りにやにやしている お初、にじりより、にじりより、一番絞りのほおをハッシと打ち 《世間様に歯向かって 世間様に背を向けて 世間様を嘲笑って それでおまえはまだ詩を書こうってのかい! このトウヘンボク! この成り上がり! この世間知らず! この大甘ちゃん! 詩はおまえのような 詩はおまえのような ノータリンのアホがやるもんじゃーないのよっ! さあ世間様にお詫びしな さあ世間様に頭を垂れな 世間様がみとめるご大さまにひれ伏しな 一番絞りにやにやしている 谷川シュン太郎突如顔面神経痛激しく、天井より顔しかめて あいたいたいたー あいたたたたー おれは詩人だ あいたたたたー おれは詩人に間違いないのだー あいたたたー どうしておまえはそれを認めぬ 世間が怖くないのか 世間に媚びる甘味な快楽をしらぬか 権威だぞ 権力だぞ あー、なんだその目は なんだその目は おまえ、ゆるせぬ 殺す たたき出すぞっ! この世から! マンドリンのスネカジリ! こやつにスネをカジる愉悦を説いてやれ! 親のありがたさを説いてやれ! 権威のすごさを説いてやれ! その上でまだわからねば 「まだわからねば?」 追放だ 一番絞り 「あー、つまんねー。出演者がつまらなさすぎる」 「おれはこの舞台、途中で降りるぜ」 谷川シュン太郎 「や〜んぺだと? おいおい、けなすお前がいなければおれはどうなる」 by 一番絞り だから痴話喧嘩だって言ってるじゃん、あ、ここは嘘専用スレッドではなかったか(笑) by 山田せばすちゃん 参照先不明 参照先不明 >>78及び>>82の方、失礼します の引用の二行の間に「詩人のふりはしているが」 という行が入ってました。 あんまり、谷川について、こだわる方がいて、僕もそうかな。 で、議論になっているんだけど、既に、谷川や、それを取り巻く世界 について、語られていて、谷川について、これだけ、「現代詩フオーラム」 で語られているのは、すごいなあと。 谷川はすごいなあ!まだまだ、詩人だねえ。 「詩人のふり」して、「詩人ではない」という作品を書く。 この作品を安易に、詩だと思うなという、概念化するなという 変な詩読み?たち、への警告と。 そして、いろんな人に、もっと詩は、詩よりすごいもの、ここでは、自然とか 家族への、自虐スレスレの賛歌が語られている。 谷川は、詩に敬意を払っていて、暗いけど、きもちいい。 でも、そんなこともどうでもいいやって感じにさせる力が怖い。 by 石川和広 えーと。 あまりに幼稚で、ひどい反論なので放置しておいたら、たぶんわたしが「逃げた」と 思ったのでしょう、 答えろ! 卑怯だ! 怯んだか! などとさまざまな揶揄が跳んできた午睡機械さんの問題のレスを ちょっと暇つぶしに、どこが「ひどい」か指摘して、わたしの議論に対する基本姿勢をみなさま (山田スレでワンワンうるさかった方々)にこの機会にお伝えしておこうと思います。 わたしのこの基本姿勢はニューススレにもURLを示して、そこを参照し、議論の基本姿勢をご勉強くださいるよう 広くご伝達申し上げているのですが、午睡機械さんや、あほの過程、いや、あおの過程さん、ボルカさんは ご存知なかったのでしょう。 さて、わたしの意見と午睡機械さんの反論を山田スレから引用して以下にコピーさせていただきます。 * これほど曖昧なかたちで書かれた批判はない。こんな文章なら私にもすぐに書けま すよ(いやな気持ちを抑えつつ、という条件つきですが あなたは > 谷川が、哲学的な断章を詩の形式を借りて書くこことにより、ある意味、 > 戦後日本人に共通の > ものごと全般に対する姿勢や態度の「あいまいさ」を > 詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ。 > なんとなれば詩とはそもそも行と行の間に「未だ見ざるもの・あらざるもの」を創り上げる作業であり > 行間から「未だ見ざるもの・あらざるもの」を読みとる作業だと思うからだ。 > 哲学とは、「いまだ見えざるもの」をだれにでもわかるコトバ(指示表出)によって > 現前化させることだとわたしは思っている。 …ここまで(1) > 哲学は行間に言葉を埋め込むような作業ではあってはならない。 > それらは明らかにだれにでも理解できるかたちで「すでにあるもの」として現前化させねばならない。 …ここまで(2) > しかし、谷川は詩の形式を借りて哲学的な洞察を書くことにより、 > 哲学的にも中途半端、かといって詩も中途半端なものを書き続けてきた。 > その詩の構造はある意味で「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい。 …ここまで(3) と、まず初めに「〜と思うからだ」「〜とわたしは思っている」というような語尾 を く用いていますね(1)。そして次に「ならない」 「ねばならない」というマニフェストめいた断言否定命題がくる(2)。最後にそこ を踏み台にして谷川批判を行う(3)。 しかし(1)はその語尾からも察しがつくようにあくまであなたの主観でしかないも のです。そしてまた(2)の断言否定もただ語勢が強 くなっただけで、(1)で示された主観の(あるいはマニフェストの)域を出ていな い(というか、あなたが、哲学を語るのですか?)。 したがって、文章の核であるはずの(3)などは、その論理の土台(1)(2)において まったく説得力がないばかりか、谷川の詩の具体的な一 部分(あるいは詩集の題名)の引用すらないため、読者はその批判の正当性を判断す ることができない。 あなたの文章はそういうものになっている。私はあなたがそれを確信犯でやっている のかどうかお伺いをたてようとして、前レス>>56に おいて「むしろ、説得しようというおつもりはもとよりさらさらないのかも知れませ んが、そのあたり、どうですか。」と書いたのです。 だが、あなたはそれに答えず(というよりは私の文意がわからなかったのでしょ う)、あまつさえ私を谷川のファンと決めつけ、まともに 取り合わなかった。 「あーたが腹が立とうが知ったことではありません」とのことですが、私は腹も立っ て いません。あなたに対して立てる腹などありませ ん。そうではなく、私はあなたの、批評における態度を問うているのです。もしもあ ら かじめ説得力を持たせようという気があなたにない のなら、私は今後あなたの全発言をスルーするつもりですが、もしあなたの周りがそ んな読者ばかりになってごらんなさい、そうなればあ なたの批評は機能不全なものになるのではありませんか。 (というわけで、きちんと書かれた谷川批判をお待ちします。) * この反論を読んで、わたしは改めて、本気で、「アホか!」と怒鳴りつけてやりたい気分なのです。実は。 しかしdisgustingなその気持ちをあえて抑えて、取り上げたくもないこの愚劣な反論をあえて取り上げ、わたしが なぜこの反論に反応することを拒否したか説明しておこうと思います。 まずわたしは、午睡機械さんのこの反論を一瞥して、すぐにいやーな気持ちになった。 どうして人の意見を 「太い線で」読もうとしないのか? ということだった。わたしはわたしなりにこの発言にかなり重い意味をこめている。いろいろ個人的不満がわたしにあろうと そこを抑えて、わたしのその考え方の核をなんとか読み取ってやろうという姿勢を見せずして、 この方は最初から! 形式論理的な揚げ足取りに終始している! 曰く。 >(1)はその語尾からも察しがつくようにあくまであなたの主観でしかないものです。 あたりまえだろうボケ! おのれの主観でなくして何を言えというのだ! 犬ころみたいにおたくの気に入った 芸当をしろというのか! とわたしは内心あきれ返った。 >(2)の断言否定もただ語勢が強くなっただけ >3)などは、その論理の土台(1)(2)において まったく説得力がない こういうった形式論理的な揶揄がつづく。 ニューススレで「議論のモデル」を示したように、議論というのはあくまでもその主張の妥当性を巡って 争われるものだ。日常の議論、公の場での議論、科学的議論と三つの段階があるとして 前二者は科学的議論のように数式を用いて完全な結論なり結果が実証できるタイプのものではないのだ。 〜と思う。〜と思わないレベルのものでしかない。しかしこのお方はこうのたわまく。 >読者はその批判の正当性を判断することができない。 正当性の是非? ふざけるな! と内心叫んでいたね、わたしゃ。 午睡機械さんは、まずわたしの意見の大筋を理解しようとしなかったか、出来なかった。 そのことによって、まずツールミンの議論モデルでいうところの「論拠」をわたしと共有できていない ことがわかる。 いままで、このトビでなされた議論の文脈であえていうとわたしとは「世間」を共有していないということがわかる。 ということは、まず議論がこのままでは成り立たないから、互いの論拠の、つまりは 「世間」の確認作業から始めるという 時間のかかる対話からはじめなければ成らないということを示していた。 また、かれがどういうレベルの議論をしているか本人に自覚がないことから、議論そのものについて 懇切丁寧に教えてあげるところから始めねば成らない面倒くささがあった。 だからわたしはかれの反論を無視したのだ。 相手の意見の「大筋を理解しよう」という姿勢が見えなかったし、そのような不誠実なやからが、 わたしの不誠実をなじっているという戯画もうっとうしかった。 それを「逃げた」ととったのか ワンワンとうるさくなったので、たまらなく、ほんとうに逃げ出した。 これらの方々に改めて言っておきます。 わたしは相手の意見を「太いラインで」読もうとしない連中から、議論を強要されるのも、返答を強要されるのも 今後とも完全にお断りします。はい。 by 一番絞り 参照先不明 横レスですみませんが。 >>93 ついでの部分を読んでいて少々気になったこと。 > 谷川が、哲学的な断章を詩の形式を借りて書くこことにより、ある意味、 > 戦後日本人に共通の > ものごと全般に対する姿勢や態度の「あいまいさ」を > 詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ。 > なんとなれば詩とはそもそも行と行の間に「未だ見ざるもの・あらざるもの」を創り上げる作業であり > 行間から「未だ見ざるもの・あらざるもの」を読みとる作業だと思うからだ。 > 哲学とは、「いまだ見えざるもの」をだれにでもわかるコトバ(指示表出)によって > 現前化させることだとわたしは思っている。 …ここまで(1) > 哲学は行間に言葉を埋め込むような作業ではあってはならない。 > それらは明らかにだれにでも理解できるかたちで「すでにあるもの」として現前化させねばならない。 …ここまで(2) > しかし、谷川は詩の形式を借りて哲学的な洞察を書くことにより、 > 哲学的にも中途半端、かといって詩も中途半端なものを書き続けてきた。 > その詩の構造はある意味で「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい。 曖昧で大雑把ではあるんだろうけど、この文章自体はそれほど無論証的なものではないですよね。全体として、論証の形式を取っています。小前提等の部分を立証する証拠を、事細かに提出してはいないというだけの話です。 この(1)とか(2)は少しきり方が変で、引用文だけから言えば、 「詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ」までが(A) 「なんとなれば詩とは」から「読み取る作業だと思うからだ」までが(B) 「哲学とは」から、「現前化させねばならない」までが(C) 「しかし、」から、「「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい」までが(D) と区分した方がいいんじゃないかと私は思います。 (A)までは、谷川俊太郎が「哲学的断章を詩の形式を用いて書いた」という(一番絞りさんの思うところの)「事実」が指摘されている部分。 (B)までは、「詩」とはどのようなものであるか、という、一番絞りさんなりの「定義」が示されている部分。 (C)までは、「哲学」とはどのようなものであるか、という、一番絞りさんなりの「定義」が示されている部分。 (D)までは、(B)(C)の定義に照らして、どっちから見ても谷川俊太郎の書いたものは中途半端であり、それゆえに何れの側面からも「ある意味で非論理的」であるという「結論」を示している部分。 (B)(C)の定義に、(A)の事実を当てはめると、(D)という結論が導かれると言うわけで、論証として形式上おかしいということはないように思います。 (B)とか(C)の、詩や哲学の定義の部分について、争いが生じうることは確かですが、この辺は個々人の相違が当然に大きいところです。一番絞りさんはその点この部分について自分なりの定義をはっきりさせているわけで、議論を提起するにあたって最低限必要な誠実さは(暴言等指摘されていることは措いて、この部分に限定した「議論」としてみた場合には)示されているのではないでしょうか。それに、(B)の方は分かりませんが、(C)の方は結構普通の認識だと思います(存在と無とか、普通だったら全然気にしないようなほんの少しの単語の意味をよく見えるようにするために、何百ページもの大著を書いたりするわけですからね、哲学では)。 ということで、これに反論するには、(A)の事実認識、もしくは(B)か(C)の定義の両方或いはいずれか片方、を、論駁しなければならないわけですが、午睡機械さんの反論はそうではなくて、 「これでは谷川俊太郎の全体像は捕まえられない」という反論です。けれどもこれは少し公平を欠いているかなとも私は思います。ある詩人の全てを追及することなど、大抵のアマチュア読者には、かなり困難な仕事だからです。どんな批評をするにせよ、大抵の場合、自分が切り取った一断面を前提に、論述を進めざるを得ないはずです。そして、一番絞りさんは、(A)の事実認識において、谷川俊太郎の「どの側面」を取り上げるかを、ある意味最初から限定しているともいえるわけです。 (A)が谷川俊太郎の全ての側面ではない、という批判は勿論可能でしょう。けれども、(A)を取り上げるトピックの前提として規定し、(B)(C)の自分なりの定義が示されている限り、(D)という結論は、「論理的な」「論証」だと私は思います(哲学としても詩としても中途半端だから、良くない、というのは成立可能な批判でしょう。勿論反論は可能ですが。このどっちつかずさこそがいいんだ、とか。けれどもそれを主張するならそれにも「論証」が必要でしょう)。谷川俊太郎の他の側面もある、この他の側面について議論してくれ、というのなら、それがどのような部分なのかは、反論を提起するほうがある程度具体的に限定して、指摘する方が良い(議論をスムーズにするものでもあるでしょうし、その方が親切でしょう)と私は感じます。漠然と、「谷川俊太郎はそれだけじゃない」と言われても、それでは谷川俊太郎の全てを論じ尽くさない限り一番絞りさんは何も主張ができないことになるわけで、それはちょっと不公平かなと。何となく思いました。 by ボッコ 掲示板という機能には限界があって まとまった谷川論を展開しろと強要されてもなかなかむつかしい。 「エセ詩人」というのは心の中でぼんやり思っていたことを吐き出してしまったもので 主張というほどのものではありません。 谷川のひとつふたつの詩を挙げて詩論を展開すれば、それはまさしく谷川の固有の詩の作品論になり かれの作家としての位置づけから逸脱してしまうことになるかと思い、 あえて具体的作品は出しませんでした。 それなら何もわからんぜ、というのならそれこそ掲示板の与太話の延長と受け止めて軽くスルーなさればいいのです。 たしかに精密な論証プロセスを欠いたものであり、正当性がないといわれればそうであることを認めざるをえない 雑なものです。しかし、 「谷川はエセ詩人」「谷川のような詩人もどき」という与太発言について大雑把すぎるかもしれませんが、 わたしなりにデッサン的な感想は書きました。 これを一読して、感じる人もいれば感じない人もいる。 その程度のものでしょう。 ピンと感じる人はああ、なるほどなと受け取って自分の知見の中で吟味するでしょうし 感じない人は「何をいってやがる」で十分でしょう。 わたしはこのような限られた板のなかで相手に完璧を強要するその姿勢が気に入りません。 もちろん、力不足もあるかもしれませんが、掲示板における感想や論理の展開というのはそれこそゆっくり、 じわーっと広がってゆくものなんです、わたしの場合は。 一週間あるいは二ヶ月かかるかもしれません。 そのとき書けるものができれば書くし、書くにはまだ熟していなければ書きません。 まえの谷川についての感想は確かに雑ですが、いわば覚書のような断片です。 これから発展してゆくところの端緒です。 それをいちいち重箱のすみをつっつくような反論を返してくるようでは応答すらできません。 まず太いラインで読み、ぼんやりした主張の要点の核心を突いた質問が欲しかった。 そうすればわたし自身にとっても勉強になったわけです。 罵声はお互いさまでしょう。ボルカが、一番絞りがどれほど酷いことを言ったか、なんてことを いちいち持ち込んでいれば書くことそのものができません。 よって、今後とも谷川のことをここで書くとしても、山田スレの延長ではなくあくまでの自分の気分で書きます。 また、書かないかもしれない。 こういう形式で書け! と己のスタイルで書くことを強要する相手には今後とも一切関与する気はないことを申し上げておきます。 #追加 ただし、谷川俊太郎の名誉のためにも、ちゃんとした谷川エセ詩人論は書くつもりです。 by 一番絞り >94 ボッコさん、こんなつまらない雑文をていねいに読んで下さりありがとう。 書き込むのもたいへんだったと思います。 by 一番絞り 横からすみません。こういうところでは基本的にはROMな自分ですが、さすがに酷いと思ったので。 一番絞りさん、あの、何であれ、もう少しことばに気をつけませんか。 ネットだから許されると思われているのか、リアルでもそういう方なのかは存じ上げませんが、 「ボケ!」と連呼してみたり、人の名前を呼び捨てるのみならず名前や作品名のもじりで呼びつけてみたり、 プロフィールを茶化してみたり、などなど、挙げればキリがありませんが、 正直、気分のよいものではありません。 少しなら面白いかもしれませんが、さすがに、やりすぎです。 あなたは、自分が言いたいように言うだけだ、とか、お前の気分を良くするために書いている わけじゃない、とか、仰るかもしれませんが(勝手な想像ですので違ったらスルーしてください)、 なんだかコミュニケーションとして、あまりに幼稚な感じがします。 どんなに素晴らしい内容のことを書かれていても、 「太い線で」以前に、それでは読む気がおこりません。 キャラとして敢えてやられているのかもしれませんが、 山田さんのような(勝手に引き合いに出してすみません)スマートさもないため、 あまり成功しているとは思えません。 多分、同じように感じられている方も多いと思いますので。 すこしだけ気に留めていただければ幸いです。 by nm6 #いろいろ書き直しましたがこれで完了です。(笑) >107 午睡機械さん、やはり何を仰っているのか支離滅裂で、読むのに苦労しますよ。 こちらでひとつひとつ納得するのに、つまり読み込むのに時間がかかりました。 >?私は、あなたがその「説明」をなんらかの理由で忌避しているように思いました。 説明を忌避しているかどうかはともかく、 「なんらかの理由」で「思いました」とはまた、曖昧な言い回しではないでしょうか。 どうして「なんらかの理由で忌避している」と思うのか、ちゃんと説明するのが最低限の議論の礼儀でしょう。 直感からですか? 偏見からですか? 侮蔑からですか? >?発言をするからには、説明を求められればできる限り答える、そうでなければ納得は得られない、というのは、当たり前のことではありませんか。 説明を求められれば得とくできるまで答える、そのような関係が、あなたとわたしの間にあるとは思えません。 わたしが谷川俊太郎を「エセ詩人」と感じることについて、あなたが得とくするまで答える義務も、 あなたがわたしに答えさせる関係もあなたとの間にはない。例に挙げたような上司と部下の関係でもなければ あなたは谷川本人でもない。互いに顔も見知らぬ間柄だからというわけではなく答えるレベルには おのずと限界があります。 それは、ほら、あなたご自身がわたしの発言に介入してきた、みずからの限界を仰っているじゃないですか。 >対外的に、マニフェスト的な主張を批判の根拠にしたところで、それでは「説明」を求めているひとにとっては >納得のできないものなのだ、ということを述べようとしていました のなら、むしろ一般論として、わたしの主張を例に挙げながら、あなたの論旨を展開すればいいのですよ。 そうではなく、すべてを、都合よく、自分の主張のために、わたしに語らせようというのですか? >?、「何故その立場からなら太いラインで読み込む必要がないのか」ということのほうをいうべきだったのではありませんか あなたがどのような立場からわたしの主張に反論をくわえるのであれ、まずわたしの主張の論旨を 大筋で読み取る誠意なしには話は進展しません。あたりまえのことです。 それはわたしの意見を「共有しろ」ということではなく、論旨と文章の組み立てとは一体のものだから 論旨を無視してことば使いの不整合性(たとえば語尾の使い方)だけを非難しても意味がないということです。 言語学の問題を扱っているのではないのですから。 by 一番絞り 議論って難しいですよね。 全部分からせようとしますと、どんどん紛糾しますし。 議論に即効性を期待してしまうことも多いですけど、実際そんなわけにも行かないでしょうし。 ほんの少し、1割でも2割でも、言いたいことが伝われば大成功だと思います。 伝わらなくても仕方ない、もとより全然違った生き方をしてきた他人同士なんですから、 (同じ人間だから、分かり合えるはずだ、と、そういうわけにはいかないかと) と私は思っています。(たまたま通りすがっただけの、何億分の1なんですから。) いろんな人が居ます。 なんだろう、なんか上手くかけませんけれど、 どこまで説明するか、説明できるかは、その人、その時々で、本当にさまざまでしょうし。 意見っていうのは多分、 大抵の場合統一する必要のあるものじゃない、のかなとも思いますし、 思い思い論じたいことを論じればいい、 思い思い、それぞれの思いを交換すればいい、 そんな感じかなと、 私は勝手に思っています。 ところで、私は谷川俊太郎、これまであまり興味をもってこなかったので、 どの辺が面白いのか、素敵なのか、 いいところや作品を引き合いに出して、評論してくれる方がいたら、 嬉しいなぁとか、思います。 by ボッコ 佐々宝砂さん、吉増はわたしも嫌いです。 てか、既成の詩人はすべて全否定してます。(笑) ぼくは大阪の某、詩の学校に三年ほど通ったんですけど、 一年目は若手哲学者で詩人の細見和之が講師でした。 で、この学校は、もともと合評主体の授業なんです。毎回、生徒が 書いた詩を持ち寄って、批評して欲しい人が提出し、全員に配る。 それを批評したいものが批評する。そういうシステムでした。 ところがこの人は、他の講師と違ってその前に三十分ほど、 有名詩人の詩を読んで、それを解説するんです。 これがわたしには苦痛で苦痛で仕方がなかった。いらいらした。 どれほど凄い詩だ、凄い詩人だといわれても全然面白くない。 全然ピンとこない。 べつに反発しているのでもなければ、ひがんでいるのでもない。 ほんとうに面白くないのです、既成の有名詩人の詩が。 これは何故だろうと思いました。 ひとつには既成の詩人の詩は「もうすでに書かれそこにある」ということ、 それがなぜか「死体」のように思われたんです。 ぜんぜん新鮮じゃないんです。 そういう意味では、同じ教室の数十人の素人玄人入り混じった「目の前の」 人たちの、「今書かれた」詩がとても新鮮で、 それがいくら稚拙でも巧妙でも、上手さに関係なく、すべてに、 ドキドキするほどの興奮を感じました。 その興奮に比べれば既成の詩人たちの詩のなんと色褪せたことか、とぼくには映ったのです。 それはポエトリーリーディングというやつの否定にもつながってます。 すでにして書かれたものを舞台に持ち寄って朗読したって、それは演劇行為以外のなにものでも ないよ、という考えです。 ポエトリーリーディングというのなら、ぼくが「マンドリンのスネカジリ」を書いた ように、 その場で、即興で書かなきゃ。即興で頭に描いたものを舞台上で朗読しなきゃと思います。 だからそういう演劇行為をポエトリーなにがしといって「闘わせて」いる 谷川らの姿勢が気に入らないことも「エセ詩人」発言のなかにあったのです。 (*そういえば数年前、谷川がアメリカの詩人たちを前に演台上から「ポエトリーリーディング」した映像を見ましたが これはまさに強烈に印象に残っているほんものの「ポエトリーリーディング」でした。 谷川は突然、演台上で即興詩の朗読を求められ、即興で詩を作りつつ謳いあげたんですが、 まるでそれは知能障害者のように 「かー。か・か・か・かっか、かー、かー」というひどくテンションの高い吃音の繰り返しでした。 ひとまとまりの詩句になってないのです。 ぼくは、「やった!」と思いました。初めて谷川が詩人をあらわにした瞬間でした。 満座は谷川が緊張のあまり気が狂ったのかと、シーンと静まりかえりました。 でも、これが谷川のほんとうの姿なんです。 書斎で気の利いた台詞ばかり書いていたひとが、即興で詩をその場で謳えと要請されて出てくるのは ほんとうに押し迫ったぎりぎりの「圧力」だけなんです) ともかくも、 あいや、おまえのような素人には詩がわからんのだよ、と言われれば それまでですが、ぼくには、ぼくの詩に対する姿勢があってしかるべきだと いまでも思っているのです。 そうですね、近々、吉増のパロディでも上梓しましょうか。 批評詩ってことで。 by 一番絞り お盆休みも終わった。 それにしてもくそ暑かった。 ひとつ発見したのは「ダイエットビール」という発泡酒。 ロング缶でわずか25?カロリーしかないのだが、どうやら個人的にかもしれないが 便秘効果がある。てか、排便効果というべきか。 前の晩、ビールのあとに食ったものが翌日の朝あたりにぜーんぶ、出てしまう。 これは快調なり、快腸なり! 団扇ぱたぱたと、これまで一番搾り一本やりだったのを 発泡酒に転換。 安くて、快腸で、お味もさっぱり爽やかとくれば、たまらない発見でし。 *ほかのひとにも同じような効果があるかどうか。 たぶん、小生だけだと思う。買って、飲んで、騙されたとの 苦情を受けても 関知せずである。 by 一番絞り つくづく批評するというのは怖いものだ。 おのれのアホさ加減がぜーんぶ出てしまう。 等身大のおのれが、すっぽんぽんになって、あらわになる。 そこが詩や詩論と違うところじゃなかろうか。 薄みっともない裸をさらし、人さまに笑ってもらう覚悟がいる。 わたしの場合は、批評なんてものじゃない、批評もどきだが 恥じ知らずに書いている。 それでも、ときに赤面することしきり。穴に入ることしきりだった。 そういう意味で批評をしたOhatuさんやボルカさんは勇気があると思った。 内容はともかく、その度胸には心底、賞賛を禁じえない。 小生は吉増剛造、読んだことがなかったので今日のお昼買ってきた。 『吉増剛造詩集』(ハルキ文庫)。760円也。ブックカバーは付けてもらわなかった。 「付けますか?」なんていわないで「できれば付けたくないんですけど」と言えばいいのに。 おれはやさしいのだ。相手のいわんとするところを酌んであげる。 「頭脳の塔」の「朝狂って」を一読。「合わない!」と思った。 ぼくの趣向とはまるで合わない。ぜんぜんつまんない。意味もわからん。 味もそっけもない。これを批評するとすれば、これは大変だぜ。 うっとおしいぜ。 ただ、あれだな、すぐにピンときたのはこの人の孤独は精巧にできた 作り物の孤独だなってこと。 それこそ詩篇の表題とおり「頭脳の塔」だ。頭によって精密につくられた孤独だ。 こんなものは、もう、うんざり。 戦後、偏差値教育、受験システムの申し子たちによって量産されてきた詩に 表現を競いあった作り物の孤独や絶望や夢や反戦などがある。 もう、いいよ、って感じだ。 これに比べると中原中也なんか、ほんとうの孤独の中にいて、 シュールだけど人の心をつかむ詩を書き、それゆえに、ふつうの読者を獲得したのじゃなかろうか。 よくわからんが、そんなことを思った。 吉増剛造詩集、ひとつ効果があった。数ページも読まないうちにうとうとして ぐっすり昼寝したことだ。いや、夕寝か。 by 一番絞り 雑談スレッド5の540からこっちへ移ってきました。石畑由紀子さん「足」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12200 起こっていることの、ずっと描写だなあ、と思いました。淡々と描写、それも作者さんのオリジナリティだ、と考えれば、そうなんでしょうけれども、言葉の跳躍が見られないというか。 途中、「飛ばした思いが~かえってくる」と、話手の気持ちに戻りますがそこにも話手の考えがあまり私には伝わらなくて、私から見て、脚本ぽいと。 批評と言うより作者さんに質問なんですが、脚本?と見られることは狙いかなあ?と。もし、「恋人とこの先歩いていく」ことを言いたかったのであれば、一般的考えとして、「恋人」ならいずれいなくなるものであって、存在が。夫でもいなくなりますが。その存在と、これからも歩いていくのであれば、その難しさや、そう宣言する理由、それでも歩いていく、と読む側を納得させること、がここには見られなくて、それもどうして書かれないのかなあ、と。もしここで、それが問題ではないのなら、やはり、気持ちが私には伝わらなくて、日記ぽく見えます。 他の作品についてもおききしたいことがたくさんあって、また書かせてください。 by 山内緋呂子 石畑由紀子「足」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12200 これにリアリティをもたせるため、ぜひ、お風呂から上がったあと 男の血圧を測ってほしかった。 「ケ、ケツ圧、きょうはな、なんぼあったぁ〜?」 と男にいわせてほしかった。 せっかく静謐な香り漂う詩篇に、無粋なしちゅえーしょんは興ざめかもしれないけれど、 そもそも女の足を洗うというのは、これは、この男性の精神はかなり幼児化していることを ぼくなんかにはうかがわせるものでして。 人の足、とくに足の裏というのはこれはもっとも身体で敏感なところでして、 ゴマ粒ほどのものでも、すぐにわかるほど感受性が強い。 そこは本来なら大地といつも接触している。そういう器官です。 いわば地球的な生命を感じる器官です。 こういうところに女体への関心が下がっていくというのは、これは、もう〈老人〉といってよい。 〈若い〉ときには、むしろ関心は上へ上へとあがってゆくのじゃないかな。 ま、いつまでもヘソの下あたりにとどまっている者もいるようだが。 この男性は、ほんとうに老人かもしれない。だからセックスのあと夕方まで腰が立たなかったのかもしれない。 とすると男の血圧はかなり上がっていて、最後の見納めに相手の女性の足に関心がいったのかもしれない。 にしても夕食がカルピス入りの牛乳とは、歯の悪い老人とはいえ遠慮しすぎだ。 もっとも、このようにしめやかなセックスと休息とお風呂のあとで老人が牛丼など食らえば この書き手がつくり上げようとした静謐なふたりの世界はだいなしだろう。 しかし、「みつめあって笑う」のは、だれかが書いていたようにあまりに映画のシーンを意識しているので この二人の演技性がかえって将来、危うく思えるしね。 きれいきれいにしてもらった足で、きれいきれいに歩いていってもらいたいのだが。 どーかなー。うーん。血圧だな、モンダイは。 by 一番絞り >>138 いんや、そういう「地に足をつける」風なリアリティならいらない。 タイトルが「足」で、男が「私」の足を洗うという行為を詩の中心に据えるのなら、繰り返しになるけれど、その「愛の証」として洗われた足はけして地に触れてはならない。マグダラのマリアに足を洗われ、香油で清められたイエスキリストの足は、湖を渡ってもけして濡れることはなかったのだから。 川元緋呂子の指摘する(どうでもいいけど川元よ、作者に「さん」をつけるのはやめてくれ、いやそれは単なる個人的な好みだけれども)「脚本的」「淡々とした描写」は、俺としては「足を洗う」行為を象徴として描くために意識的に抑制しているのだ、と捉えたい。「足を洗う」行為は、「二ヶ月ぶり」の「しばらく動けなくなるほどのセックス」に勝るのだ。いや、勝っているからこそこれは「詩」なのだ。 by 山田せばすちゃん 石畑由起子「足」 [http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12200]について。最後の連が鍵だと思った。私はこういうのもありふれた関係の一コマだと感じ、あるフェテイシュも感じた。男にとり、多分この女体は物神だが、つまり人形だが、それを愛の時と感じる所に絶望的に愛されたいのかと感じた。しかし人形になり愛撫される感覚も快楽なのかも。ただ、そういうツルツル滑る愛の行為の後奇妙に生活がある。だが、最後でいきなり飛躍。胸が熱くなるのが、妙に迫る。多分こんな幸せもあるだろう。 by 石川和広 お三人さんに大体共通しているのは、「静謐」「抑制」であって、最終連が、飛躍していたり、詩的だ、と。なるほど自分の考える「言葉の跳躍」が、そう捉えると不要なのかもしれません。でも私には、ラストに意外性が感じられないというか、女ごころだなあ、と少し共感します。それ、恋人の男性に言ってそれで終わっていいのでは?と。そういう意味で言葉の跳躍が感じられないと。 そして、静謐や抑制を見せるにしても、作者独特のものを書かれる方の詩はあるので、石畑さん、これはどう考えてらっしゃるのか、と。 #せばさん、批評って書きなれてなくて、紙媒体なら作者、と言ったかもしれないけど、何だかネットだと近しい気がして、「さん」つけた気がします。いや、その前に「作者」なんて言葉用いて批評みたいなこと言ってる自分に違和感。ほんのすこし自責。「さん」つけてもつけなくても同じだ! by 山内緋呂子 >>140 うわぁ、えらいところにまで落とされてるぞ、イシハタ氏(笑) 男は君のこと一人前の人間だと思ってなくって「物神」「人形」として「しか」愛してないのに、それを愛だと感じたいほど絶望的に愛されたいのか、と来たもんだ(笑)それってほとんど中島みゆき「捨てるほどの愛でいいから」じゃん(苦笑) 「足を洗う」という行為の解釈の多様性といってしまえばそれまでだろうが、俺はイシハタ氏の足を洗ったことはないけれど、うちの愛人ちゃんとお風呂に入って、愛人ちゃんの足を洗うことはあるよ。うちの愛人ちゃんも俺の足洗うの好きみたいだし。んでもって俺たちはそういう時にはそれこそこの詩のようにボディソープの泡を丁寧に立てて足の指の間まで丹念に洗ったり洗われたりしてるんだけれど、そこに石川氏の言うような「フェティッシュ」=「物神化」みたいな感覚は少なくとも俺にはないな。もちろんキリストが弟子の足を洗ったり、マグダラのマリアがキリストの足を洗ったりという聖書の出来事をもじっているほどに、俺たちはクリスチャンでもなんでもないのだけれど。やはりそこにあるのは「いとおしさ」という感覚で、俺は自身のその「いとおしい」感情をこの詩に呼び起こされながら読んでいて、 なかなかお互い時間が取れなくってそれこそ >二ヶ月ぶりに会って >しばらく動けなくなるくらいのセックスをした なんていう冒頭フレーズなんて、泣くほど身につまされちゃったりしているのだけどね。 (今月末に会うのよー、なんて俺の近況はこの際どうでもいいけれど) で、だ。 この詩に出てくる「あなた」と「私」が俺と愛人ちゃんの関係に準じているのかどうかはアレなんだけれども、あくまでも俺はその線で読み込んじゃってるので、どうしても最終連が邪魔なのだ。ごめんね、愛人ちゃん、一緒に歩くのは君と一緒にいるわずかな時間だけなのよ、それ以外の時間って俺は夏休みの宿題を見てやって、工作なんか半分以上俺が作っちゃうような三児の父だし、お布団干し組み立てて頂戴といわれたら二つ返事で庭に出て夏の日差しの下でステンレスパイプ製の布団干しを汗だくになって組み立ててる夫だし、そういうの全部かなぐり捨ててきみと一緒に歩いていくわけにはいかないのだよ、もちろんきみだって、家に帰れば貞淑な人妻なんだろうしさ。ずっと一緒には歩けないから、今こうやって一緒にいられるときだけは互いのいとおしさで精一杯愛し合う二人でいようね、なんて、そろそろ誰に向かってなに書いてんだかあやしくなってきちゃったぞ、おい(笑) 石川氏も川元氏もそれぞれがそれぞれの理由で、この最終連に引っかかっているみたいだけれど、それってつまりはこの最終連がそれまでの一連の詩の構造から突出してしまっているってことの証明だと、俺は思う。一連の構造があるからこそ、読者はそれぞれの解釈を一連のものとして成立させている=それぞれの充填したい内実を作品の空隙に充填していくのだろうけれど、どうしてもみんな最終連でひっかかってる=一連の内実をそこに充填できていないってことは、この最終連がそれまでの一連のこの詩の構造とは違うってことなのじゃないかな? 俺は、だから、あえてこの最終連は不要だ、なんて思い切ってしまいたいところではあるのだけれど。 by 山田せばすちゃん >142 えっ、 愛の証として洗われたのかい? 書き手の足は。 たんなる相手の男のスケベの発露としか思われないな〜、おれには。 それも 幼児返り的老人性の。 足を洗うくらいで、かんたんに愛の証なんて安っぽい解釈は、おれはそんなワンパターンはとらない。 それより、ここにあるわざとらしい演技性のほうが注目だし、面白いと思うがな。 映画なんかでも必ずあるパターンだしね。フランス映画あたりで。最近は日本の映画も真似しだしたか。 セックスのあと、風呂に入って足を洗い、向かい合って簡単な食事をとり、無言で微笑みあう。 どこにでもみかける映画的光景だし、これをかっこいいと思えば現実にそれを なぞってみるだろう。 でも、こういう演技の裏にあるものってとてもさびしいものだろうと思うよ。 最終の連が余計というより、それまでの雰囲気を台無しにしているのは、やはり、倫理スローガンのなかに 中規模の演技性を埋没させちまったてことだろう。 最後にしめくくるというのは、あまりにNHK青年の主張コンクール的で興ざめてこと。 by 一番絞り >144 そおか〜? もう少し映画を沢山見ることだな。仕事に精を出すのもいいが。(笑) 最近ではちょっと気取った映画やドラマにはこの手のシーンは枚挙にいとまがないほど 出てくるぜ。 スケベ男が女の足を洗うシーンを別にすれば。(笑) by 一番絞り >140静謐や抑制を見せるにしても、作者独特のものを書かれる方の詩はあるので どういうのがそれなのか、わかりにくいですよね。今、浮かぶ例として、そういったものですごいなあと思うのは、 horohoroさん「夏の水族館」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=16648 sekitaさん、「車窓」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9263 あまり的確な引用ではないかもしれませんが、淡々と描写でも、オリジナリティがあるというか。あまりここでも言うと、こちらの作品の批評になってしまい、何と申したらよいかわからなくてすみません。 石畑さんの他の作品 「上海された」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=11699 これはすばらしいと思いますよ。「上海される」という即ゴルさんからの意味つけにくいお題だから、というわけではなく、ありえない設定だからそこに「言葉の跳躍」がある、と言ってるのでもなく、5連、別々のお話なのに、つながっているよう。 ちょっと今会社の昼休みで書いていて、つたなくてすみません。で、考えすぎて、家に帰ってからだと携帯からになるので、多分疲れて寝ます。ちょっとおやすみ。2日ぐらい。もう脳みそのアッパーカット。部位によるカットアップ。おいしいのはどこだ? ちょっともう体こわしたりとか、いえなくなるかもしれないので、今言っておきますが、石畑さんは、よく作品の中に「セックス」「自慰行為」「視姦」「ヤッタヤラナイ」とかかれますが、私も性的なことを、自分の文章で書いていて、それを、ふくらませたりとか、笑いに変えたりとか、で、性的なことはありふれていて、もっとふくらますことで、楽しいことだったり、残酷だったり、そういうように読めれば、なんて考えていました。最初にかいた、「もっとたくさんおききしたい」という中の一番おききしたかったのはここであって、例えば「視姦」された女性が、その「文字」そのままを見た場合に、思い出して傷ついたり、もう考えるのをやめたりするのでは?と。それで、逆に、「文字そのまま」を出すのは、逆に女性を辱める危険がないですか?なんておききしたかったです。 by 山内緋呂子 >ある作品を評価するにあたって一番レベルの低い(つまり他者に通用しない)意見は >「俺の好みじゃない」という意見だと僕は思う。 だからね、この意見も「思う」に終わっているわけでしょう? てめえの好み、主観をまず表明している。 「俺の好みじゃない」ということを最初に表明することが、どうして一番レベルの低い意見になるのか、 論理的に説明もしないでね。 天に唾をするようなものだ。 わたしゃね、こう見えても佐々さんに宣言したとおり、いやなやつの退屈な詩でも いま、一生懸命読み込み中なんだ。 あまりに短絡じゃねーの? しかし、余計なチャチャが好きだね、おたくも。 せっかく「自由」さを感じさせてくれるスレッドがあったので気に入っていたら 早速やってきて、当人がいうところの一番レベルの低い意見を吐く。 困ったものだ。 by 一番絞り >>一番絞りさん もうすこし、読者の気分がよくなる文章を書いてくださいませんか。 罵詈雑言は面白けりゃいいと思うけど(そう思わない人もおりますが) 最近の一番絞りさんの文章は、読んでて面白くないしスカッとしません。 これは一読者としての希望であって、ひひょーや佐々の言葉ではありません。 by 佐々宝砂 大きなお世話で言うと、 詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加すれば、石畑さんのも、ほかの方々のも、単なる感情吐露、事実や風景の過剰描写なのだから、日記の1ページよね。 川元さんが言うように、世界と当たって、新たな発見や認識をコトバにしたものや展開にしたものではないものね。コトバも立たない。発見も展開もない。 詩だと思ってまことしやかに、しかも偉そうに評論とか批評をしてるって、息巻いてるのおかしいね。わたしもこれをどういうつもりで書いたのか、聞いてみたかったわ。もう聞くつもりはないけど。 詩の最終行に「と思う今日この頃でった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。と言っているのは、わたしだけが言っているのではありません。入沢さんも言っているわけ。明治大学の講義やユリイカ投稿欄や、いろんなことで言ってらっしゃるの。。反論があったら、どうぞ真正面からお受けしますけど。それほどわたしもヒマじゃないので、まともな方としかお話するつもりはありませんけど。 批評っ?てゆうか、詩を読みこめない方が偉そうに言わないでほしいのよねぇ。あんたたち、それぞれの自閉の地平で、世界と当たって、触ってみて、コトバにならないものをコトバにしてゆく格闘や思考を続ける姿勢がみられないわ。その姿勢がない限り詩人とは言いません。あんたたち詩を書く行為においても批評する上においても凡そ社会の隔絶したところの世界で、地に足がつかないままね。ウラサビシイ話だわ。また、もう一つしつこく、踏み込んで言うと、 歌うことと、詩のコトバを書く行為は根本的に異なります。敢えてどれも詩だといってかまいませんが、既視感のある退屈なコトバ、世俗に塗れたコトバ、韻律に支配されたコトバ、よね。わたしたちは、もっとわたしたちの言語を解放しなければならないはずです。それが近代以降の詩の歴史でもあったはずでは?そういった意味では、 一番搾りさんの言ってらっしゃる「権威とか権力」というのは、コトバが既存の規範の体系から解放されない不自由なものであることを言いたいのでしょうね。その自由を獲得するためには、ちょっと、あんたたち、命がけなのよ。ま、言っても、多分、認識できないわね。コピーライターのコピーみたいな詩だと称する詩や、オバカなタレントが余技に書いたような歌詞のような詩を詩と称するのを、まともな詩論や比較文学的手法で批評できるわけないじゃん。それらは文学の対象ではなく社会学の対象ね。 みなさん、わたしたちもっとお勉強がたいせつだわね。 by 有井いずみ 休むって言ったけど頑張る! >Ohathさん 全くだ。そこを説明するには、自分が女であるんだけど、性を出すことの書いてるときの暗さ、ポップさ、同じく出来て発表することのそれ。考えると非情に重く、自らこれ、この先私が書くことの死亡、のようになって疲れ。これをまとめてからこのスレッドで言えばよかったのです。雑談スレッドから、突っ走ってしまいすみません。どうもありがとう。ちょっと待ってもらえるとありがたいです。 有井さん有井さん 本当にどうもありがとう。 自分はまだまだいろいろと足りず、批評とかそんなの言う時に、こうだ!と確定することの恐れ、とか「まだわかんないんですけど」と言うことが許されていると言うか、もっとちゃんとした方ならきっと、こうだ!と確定しなければならなくなるのでしょうね。 日記ノーサンキュー。加えて言えば、出来れば言いたくないが、私は自分のサイトの日記も、人様向けに面白くしているつもりです。最近出来てないんですが。 ありがとうございました。 安藤そらさん 携帯からだとポイント入れられないですが、そういう読みもあるのですね。共感はしませんけども。 皆様ありがとうございました。 by 山内緋呂子 >みなさん、わたしたちもっとお勉強がたいせつだわね。 それはそうだけど、どういう勉強をするかが大事だと思う。 大学でチシキとして教えているような批評理論を、いくらチシキとして学んでもザルみたいなもんだ。 網の目から大事な、小さなものが、ことごとくもれていく。 あなたがいうように、稚拙な、日記のような詩らしきものにはまるで使えない。 それは象牙の塔で教えているさまざまな批評理論が悪いのであって、稚拙な詩や批評が悪いのではない。 詩人として通っている谷川俊太郎の詩でも、おしなべて、鉄腕アトムみたいな作詞と同じレベルじゃないか。 現代詩といっても劇画チックなものばかりだ。 象牙の塔ではぐくまれた批評理論を 勉強することによってますます権威や権力の構造に組み込まれていくことになり、結果、少々の異和や異変を 許せなくなる。ここがいい例だ。 フェミニズム批評だってそれをぎゃーぎゃー言ってる女ってのが東大という権威のなかで言ってちゃね。 戯画だ。 そんなことなら、勉強しても意味がない。むしろ、勉強の仕方から始めるべきざんしょ。 それよりあなたの詩、三連目あたりで、読み込むのにとても日数がかかってる。 ヒントが欲しいんだけど、「水尾のしぶく..千切れ方云々」って、ひよっとしておしっこのときの、しずくの切れ方のこと? by 一番絞り 参照先不明 >>170 さてさて。 ポイント入れましたが、別に、有井さんの言うところの「詩」に、 全面的に賛同しているわけではありません。んー、違うか? んと、上手く言えないな、 有井さんの発言は、ある面から見て正論であると思っています。 少なくとも自分の詩作スタンスの“ひとつ”として、 できているかどうかはともかく、念頭にあるものです。 で、ダブルスタンダードなんですよ。結局。 他の人の詩を読む場合に、それをあてはめてどうこうしているわけではありません。 そして、有井さんの発言も、誤解を受けやすい言い方をしているとは思いますが、 これが詩でこれが詩じゃないと区分して非難するのが発言の本意ではなく、 詩の言葉、というものをもっと大切に扱いましょうという、提言であると、 俺自身は把握してます。だからこそポイントを入れました。 そのへん、わかっていただければ幸いです。 ちなみに、俺は、「足」、好きです。 そして、この詩は、批評すべきものではない、あるいは批評しても意味のない作品だと思っています。 そういう部類に属する作品も、あると思ってる。 by いとう 参照先不明 >172 塚本いちごさんのコメント、はじめてこの掲示板でまともな意見を読んだ気がした。 これまでは、あまりに凄惨すぎる。あまりにどろどろすぎる。 また、そのことに本人たちが気づいてないことが、あまりにひどすぎる。 有井さん、つまんねえ発言にコメントすることはないすよ。(ま、わたしの発言も含めてだが) にしても、いちいち星印を入れた理由を開陳しなければならんような、そういう雰囲気をつくる そういう輩たちによる掲示板のあり方ってどうかと思うよ。 暗黙の脅迫に屈しないで、星印を入れた理由なんか開陳することないよ。 by 一番絞り >僕は、有井さんのコメントに☆をつけた人の面々を忘れない。 >彼らが何をもって詩とし、詩としないか、今後の作品や発言を >注意深く、多少の恨意をもって見ていくつもりです。(Ohatu) こんなねちこい脅迫なんかしないで、有井本人に正面から挑めよ! もっともおたくの今のような批評の技術、批評の視点では相手にされないだろうが。 だからといって、星を入れた人を脅迫するなんて、 まったく気がしれねえよ。 >繰り返しになりますが、僕にとって詩人とは「詩を書ける人」ではなく >「詩を見つけることができる人」のことです。 よくわからん。それこそトンチンカンだ。同じことを別の言葉でいってるだけじゃないの。 こういう誤魔化しはあまり感心しないな。 by 一番絞り >別に詩である、と他者に認められようが認められまいが >いっさい気にする必要はないと思います。 おっしゃる通りね。 みなさんが書かれたものが、良いとか悪いとかを 書いたのではありません。また、これは詩で、これは詩では ないというようなことを不遜にも決めつけているのでもありません。 わたしもみなさんと同じく、書くことに精進している一人です。 もう少し、わたしは親切に書かなければなりませんね。少し 反省して、少し丁寧に、できる限り分かりやすく 書きましょうか。 --------------------------------------- 作品において、ほんとうに心に残ったり居座ったりするコトバと、 出会うということは実に幸せなことです。ぜいたくを言えば、 日々、生きる上においても、浮かんでくるようなコトバはもっと ステキね。それだけのことです。 現代詩の将来が明るいとか暗いとかは、まったく別問題なので あって、それほどに難しい話ではないでしょう。 谷川さんがダメとかいいとか、さぁ、どうなんでしょう?わたしは わたしの詩的な空間を広げてくれた詩人として、その仕事は 尊敬するものがありました。大阪文学学校近くの「すかんぽ」や、 東京のある集まりで、何度か真正面から議論したこともあるけれど、 大した詩人です。詩のコトバの広がりを確実に広げた、詩史に残る お一人なんでしょうかね?否、そんなことも恐らく関係している のですが、否、そうかな、やはり真剣に考えれば、大いに関係の あることではないかしら。まぁいいや、長い話になるもん。 誰をも責めるものでもないのに結局、 わたしを憎っき「酷評おばちゃん」のように思う人もいたりして、 それは、冗談じゃないわって思う。 詩に、何らかの「レベル」や「基準」のようなものがあると 勘違いしているのは、ひょっとして実は、 貴方たち(ここで誰とは言いません)なのではないかしら? わたしはコトバで世界の実相に出会いたいと思って読む。 それだけなのに。 「自閉の地平で、世界と当たって、触ってみて、コトバにならない ものをコトバにしてゆく格闘や思考を続ける姿勢がみられないわ。 その姿勢がない限り(詩)詩人とは言いません。」と書きました。 それが言いたかったのに、「と思う今日この頃」のところばかり 話題になって、そんなもんかしらね。 誰もが、それぞれの人生をこの世界に生きている。 ある人は平平凡凡に生きていると言うかもしれない。またある人は 辛く、苦しくそれこそ生死をかけて日々を生きるのが精一杯かも しれない。いろんな人が生きている。どこかでは泣いてる人が いる、またどこかでは笑う人がいる、いろんな人が生きている。 あの空の下や、あの窓の部屋。 そんな中で人は、コトバにしたい。コトバにせざるを得ない。 コトバを発する唯一の生き物です。で、本題。 ------------------------------------------- どうしてこうも似たような箱庭を不用意に作ってしまうのだろうか と思う。閉じられた箱庭の中で、コトバをのっぺらと平らかに、 あるいは予定調和的に納めてしまう理由はどうしてなんだろう? 類型的な意味と、文脈で、無理矢理継いで押し込んで、 何をそんなに急いでいるのでしょう?ステレオタイプとも言いがたい。 説明描写ばかりに力が入るのね。あるいは過剰な情緒を額縁のように 提示して、退屈やメランコリを、少しだけ神経症的・人格障害的に (わたしも精神疾患や人格障害の傾向を多少持っていますが)に 書くと、それらしいコピーライティングの平面に定着できると 思うのでしょうか?それに誰もが安易に共感できると思うので しょうか?如何なんでしょう?いえ、共感できるなら、それは それでいいじゃないですか。それはあなたの共感ですね。 ただ、この複雑で巨大な現実世界に、この厳しい現代社会に耐えうる コトバとして誰のこころにも居座るようなコトバに成り得るので しょうか?大袈裟な話を持ち出せば、飢餓に苦しむアフリカの人や、 不条理なエイズの感染者や、イラクで死んで行く、イラク人の子供 たちやアメリカ人の若者たちの中で、脳天気に歌える詩のコトバ なのでしょうか。戦争反対の詩を書けなんて云ってないのよ。 いえいえ、リアルに感じられないならば、もっと身近で、隣にいる 苦しみや喜びの渦中にある人のこころを揺さぶるようなコトバなの でしょうか? わたしの詩のコトバは、到底、それらの人たちにとっては読むに 耐えないヘタレ詩です。けれどもわたしは数十年来の自分のこころを 圧してきた何か分からないものの姿を、または越えることのでき ないわたしの世界の壁を、手探り、まさぐり、コトバに表わさざる を得ない何かを拾い集めるようにして、コトバを叫び、コダマする コトバをまた紡いで、投壜のように押し込めて流してきました。 その結果、見ての通り、屈折して、さっぱり分からないものに なってしまうわけね。有井の書くものは、なんだかさっぱり わからんから、放っておけてなことで、だれもその投壜を拾うもの さえいないじゃないか?ってコトバも聴こえますが、ま、そういう こともあるのね。(一人ツッコミのお笑いね。負け惜しみ言ってる) でも、わたしはありふれたコトバや借り物のコトバで書けません でした。わたし自身の苦しみや喜びや、ことあるごとに頭を ぶつける世界は、ありふれたコトバではわたしの中で不満ばかり 募るんです。 でもそれって、誰もがそうじゃないの?誰もがそれぞれの生を コトバにするのに、それぞれにぶつかる世界をコトバにするのにさ、 ありふれたアユの歌のような一節で満足できるのかしら? (アユでもなんでもいいんだけど。) ご自分の生やアイデンティティーを獲得するのに精一杯の中で、 一人一人が、自分のコトバで世界をあたり世界に表さざるを得ない ことがあるものよ。 それで歌っていていいのでしょうか?それじゃわたしたちの生や 世界が、すなわちコトバが、不自由で仕方ないでしょうに。。。 既成の、商業メディアの、トレンドに乗るのは全て悪いとは言わ ないけれども、その中に溢れかえるコトバのコピー的なコトバと なんら変わるところのない、既視感をおぼえずにはいられない。 それらは、現代の複雑で巨大なシステムに対して、力強い詩の コトバになり得ない。そうした意味で、 お手軽な「現代詩」(多分、批判され易いキツイ言い方?)は 痛々しい。それを「詩手帖」風に批評するのもなんだかね。 余程、規範や体制に無頓着か従順なんでしょう。あなたのコトバを 解き放ってみたいとは思いませんか?思考されないから薄っぺらで ぺちゃんこで、貧しく、品がなくなるのかもしれない。打ち破って、 もっと立体にひねり出したいと思うの。じゃあどうしたら良いの だろう?時には、ひん曲げてみるのもいんじゃない?屈折はないの でしょうか?逆立ちしてみたり、男の人だったら大きくて勃起する ばかりで、行かせられると思ってたら大間違いよ!足の踝を後頭の 窪みとショートさせるとかさぁ。コトバのアクロバットが良いなんて 思っちゃいないけどさ。そうしてみたら外の見え方も、そのコトバ を当たる手つきも変わるんじゃないかしら。って思うのです。 これがもっと切実に圧し出されて切羽詰ってくると、 ひん曲がらざるを得ない、多少なりとも複雑ではないでしょうか、 わたしたちの生きる世界は。あるいは世界の実相とよばれるものは。 ご免なさいね、好き勝手云って。 芸術の高踏なんかじゃないわよ、批評も、理論も、読む行為も、 詩作も、みんな【書くこと】に関わる切っても切れないこと。 【書くこと】と【生きること】の連続に生きること、その思考へと 牽引する【生きる日常】なんだと思う。たぶん、 詩のコトバは幅広い。言い換えるとポエジーは歌の中にも、ある。 それを否定するものではありません。けれども近代以降の現代詩へ の歩みは、わたし今、お勉強中なの。 生きる中で、幅広く、深く読んで、書く、生きる、読む、 若い詩の書き手のみなさんたち、 ここの片野さんたちが、どんな思いをして、どんな努力をして、 あのFPOからNIFTY現代詩フォーラムを経て、そしてこの サイトづくりに尽力されてこられたのか、思いを至らせたことが おありでしょうか? わたしも、どんな詩も一編一編の詩を、たいせつに、たいせつに 扱い、読ませていただいて、育てられ、連なってきた一人です。 このフォーラムで「批評」している人たちへ、感じることを 書き手として、書いてみただけ。 by 有井いずみ >184 有井さん、ごくろうさま。 伝わらない相手に伝えようとすること、 オリンピックの水泳選手よりしんどかったんじゃないですか? 反省しきりであります。 ま、わたくしめも、コンゴ、簡単お手軽批評は、ひかえることにいたしましょう。 とうぶん、雲隠れだ。 by 一番絞り 参照先不明 参照先不明 >うつむいて >うつむくことで >君は私に問いかける >私が何に命をかけているのかを >よれよれのレインコートと >ポケットからはみ出したカレーパンと >まっすぐな矢のような魂と >それしか持っていないものの激しさで >それしか持とうとしないものの気軽さで >「詩集・うつむく青年/巻頭歌第一連」 >この詩集に特に強く感じられることだと思うのですが、谷川俊太郎には、運命と >対決するスタンスが常にキープされていると思う。 >それが彼の「幻」のありかたの、不思議な優しさに繋がっているのではないかなあ、 >と思うのですが、僕にはまだ、きちんと語りきることはできません。(ボルカ) ぼくはこの詩集読んだこと無いので、目の前にあるフレーズからのみお手軽な感想を述べさせて もらうと、この詩は一言で言って「劇画」です。 若いひとがこういう劇画的美学に惹かれるのが悪いとか、バカだとかいっているのではなく 事実をいってるだけですので誤解なきよう。 「何に命をかけているのか」と他者に問いかけることは、これはかなり相手のプライバシーに 踏み込んだ問いかけです。 もし、見知らぬ相手にこんなきついことを問いかけたりすれば冗談じゃない、脅迫めいたことを言うな、と 無視され突っ返されるでしょう。 ですから、「私」に向かってこのような問いかけをする相手は、「私」にとってただの他人ではなく、 なんらかの関係にあるものでしょう。 仮にその関係を「私」=詩人の谷川、という設定にしてこれを読めば、うつむく青年は谷川の 熱烈な読者ということがひとつ考えられる。 「おまえ、真面目に詩ぃ書いていんのかよー」 「おれたちの気持ちわかってんのかよー」 「真剣に読んでんだけどよ、おまえ、真剣に生きてんのかよー」 ま、わたしのようなカラミタイプのファンてとこです。(笑) これが「私」(いちおう谷川)の設定した想像上のファンであっても構わないし、現実にそういう 青年がいたとしても構わない。 いずれにせよ、「私」はそう「問いかけられている」と感じている。 しかし、その「問いかけ」は「激しい」けど、結論としては「気軽」なんだ。 なんとなれば相手はカレーパンしかもっていない立場から「問いかけ」ているのだから。 「私」のように社会的立場があり複雑な人間関係の谷間に閉塞してないかわりに、責任も義務も少ない、 貧乏な青年の問いかけは「激しい」けれど、「お手軽」なんだと、言っている。 よれよれのレインコートを着て「うつむ」いてしか、ということはほぼ黙っている青年に そういう態度をとらせる立場にある「私」は そういうことを連想し感じている。 そういうメッセージです。 それがボルカさんのいうように、どうして「運命と対決するスタンス」になるのか? そこは詩集をとおして読んでないのでわからないけれど、 フレーズの選び方、転換の仕方、改行のし方などからある種の青春アクション映画ないし 劇画調に意図的に構成している感はまぬがれない。そこに若い人は一種の美学を感じてしまうのだろうけど しかし、このような設定、カレーパンとよれよれのレインコート、うつむく青年...は谷川が仕掛けた もうひとりの自分、つまり自分を見つめている自分、として設定していることは十分わかっているつもりだけど。 (だから、表題の青年が、どうして「うつむい」ているのか、そこに谷川のなんともいえぬ、うしろめたさみたいなもの を感じるのだけど...) で、このあとボルカさんはカレーパンとわたしの詩もどきにあるアンパンとを対比しているわけだが。 その前に、こんなことを書いている。 ところで、このスレッドには、一番絞り氏の「マンドリン」がアプされているけれ ども、彼がこのモデルを「すねかじり」と呼んだのは、別スレで、自分と対立する 論を展開しているモデル氏が学生である、ということ知った瞬間でした。 すなわち、氏にとっては<学生=すねかじり>なわけで、それ以上の人格を彼に認め る必要を氏は少なくともその瞬間、感じなかったわけです。 こういうスタンスは、谷川のこの詩集における青年への語りかけとは好対照をなし ているように僕は思いました。 マルクスもどき批評をすれば経済的土台関係が観念的上部構造を規定するわけで、ほんとかどうかしらないけど(笑)、ぼくは基本的に学生というのは社会人ではないから、「スネカジリ」です。「スネカジリ」が社会人に大きい口を開くときは、それなりの礼儀をわきまえろということです。そういう古風な儒教観がまだあるものでね、ぼくは。 で、谷川のこの「青年」への語りかけは、このフレーズを見る限り、自分自身への語りかけでもあるわけです。ほぼ、自己弁護の。最終行で青年のその質問が「気軽さ」に拠っていると述べているわけですから。ま、どーでもいいですけど。 このサイトには彼の「あんぱん」がアップされているけれども、わずかに塩見の利い た、しかし基本的に甘いアンコの味が空腹にもたらす優しい自己肯定と、引用した 「青年へ」の青年がポケットに突っ込んだ、カレーパンのオイルまみれの辛味は、これ もまた好対照を成すものだ、と僕は思います。 あんぱんのアンコはそっとなめて甘みを味わうものですが、カレーパンはまさに丸かじりする類のものです。 前者には品があります。後者は生活そのものです。 脂臭くて手が汚れるカレーパンは詩には不向きです。 あるいは一番絞り氏は、自己肯定のアンコを片手にしか、青年であることができなかっ たのかもしれないし、それはあえてカレーパンをポケットに突っ込む青年より、厳し い状況にあったということなのかもしれない。 そういうことは僕には分からないけれども、僕はアンパンを<自分のために>もつ旅行 者より、カレーパンをポケットに突っ込んだ青年の方が好きです。 谷川の「青年へ」というこの詩集がサンリオから出版されていることは僕を別の連想へ 誘うのですが、あるいは砂漠をゆく飢えた旅人に、アンパンを、<僕を食べて>と差し 出すあの有名なヒーローの方が、一番絞りさんより詩人だと、僕は思います。 この『青年へ』はなかなか面白そうだよね、たしかに。 今度読んでみますよ。 by 一番絞り 参照先不明 参照先不明 >>211 >事務仕事に似ている作業は、僕にはもともと体質的にできないんだな。 これよく分かりますわ。 嫌いな課目の授業は、もう全く頭に入らないし(これは今でもそうですね)、 部屋も昔はもう凄まじかったですし。 それを支えるのだけで、他人にとっては当り前の事が倍気力を使う、と言う。 流れに乗るとか意識しなければ割合大丈夫なんですけどね。 事務的な事は殺人的に嫌いですね(笑)。 まあ世の中、事務的な事が多いので、その適正に気付いていない人が、 病気を悪化させる事もあるんでしょうし。 余計な揉め事も起きるんでしょう。 まあ、そこの感覚が分からないと、結果全体にとってもマイナスになるんでしょうね。 まあ、それを私は無理矢理やってみましたが、 やはり陰惨な結果になりましたし。 まだ、ボーっとしている方がマシ、と言う(笑)。 要は、こまごまと動きたい人は元々そう言う性格なだけで、 それが適正だし好きなんだ、と言う事で。 by 汰介 参照先不明 >210 >狙いととられることは私が意図するところではありません。 >ちなみに、どうして書かれないのかなあ、というのは川元さんの読みを通じて浮かび上>がった疑問である そうですね。私は「これは日記ととれる」と、断定して言うことが、怖かったのだと思います。自分の批評がつたないものであること、また、過去の石畑さんとの私信のやりとりから、使う言葉に気を使わなければならないと思ったこと。それで、「作者に聞く」という誠に方向外れな書き方になりました。また、「狙いなんですか?」という私の言葉もどこか「狙いのつもりでもそれにしてもなっていない」だとか、「日記程度のものしか書けない」というようにもしかしたら石畑さんは受け取られたのかもしれません。しかし、そういう気持ちではありませんでした。あくまで私の不安からです。 >“言葉の飛躍”が感じられないことが詩にとってよくない要素だとは必ずしも思ってい>ません。もちろん作者の個性は大きな魅力のひとつです。しかし詩作において・また読>み手としても私はそこだけに終始するつもりはないので 同感です。私も、「言葉の跳躍」が見られないことがいい詩か、よくない詩であるかに、大きく関わっているとは思いません。 >暗に表現することもあれば文字そのままを用いることもあり、さまざまです。 それは理解しているつもりです。また、「視姦」という言葉が出てきた詩が、「未詩・独白」であったこと、きちんと確かめもせずに、言及してしまい、もうしわけありませんでした。 >文字そのままであることのインパクトという点をおっしゃっているのかと受け取りつつ そうです。 >暗に表現されたものでも現にそこに“表現”されているのならば危険は同様であると私>は考えています。 これは意見の相違です。これについては後に述べます。 >想いを言葉にする際、また構成上、作中に必要な言葉ならば私は使います。 それは私もそうです。皆さんそうだと思います。(←これも嫌味で言っているのではありません) >衝動に任せるのではなく、できることならきちんとご自身の中で思考をまとめてからに>していただきたかったです。互いの認識が異なるままその枝葉の部分でまた議論をしな>くてはならないような状態はなるべく避けたいのです。 全くその通りです。精神的に参っていたことを理由にして申し訳ありませんが、感情的なままで、意見を述べ、申し訳ありませんでした。 少し長くなります。 >文字そのままであることのインパクトという点 これは、女性の作者が作中で「セックス」「濡れる」「ヤル」等、文脈からではなく、はっきり「性」と受け取られる言葉、インパクトのある言葉を使って書いた作品の読者の中に、 「こういう言葉を使う女はヤラせてくれる」「ヤリタイんだろ」という稚拙な感想を持つ方がいらっしゃることは事実です。そして、私が言った「女性を辱める」というのはこういう読者が「結局女というものは、エロいんだ。薄汚い」→「女なんて下劣」という狭い意見に達する読者が実際にいるのです。これは、ごく一部のことかもしれません。それで、「女性を辱める危険性がありませんか、とお聞きしたかった」という言葉を使いました。それで、「暗に表現されたもの」よりも、「インパクトのあるもの」の方が、その危険性が高いという意味で使いました。しかし今は、単に、「こういう読みをする読者もいる」というだけのことであると、私は考えています。 >確信できる要素は、しかしどこにもないのではないでしょうか。人の心とは、表現する>者の想像範囲内にいつでもあるものとは限りません。 全くその通りです。私もそう考えます。自分の作品コメントにも書いていますが、(これも、「あなたは何も読んでいない」という意味ではありません)書いて発表したら、読んだ方のものになると考えています。これも、書いたものに責任を持たないとか、修正をしないという意味ではありません。読まれた方の感想が、全く自分の範疇外であることは、とても興味深く、嬉しいものです。 また、説明する為に、私的なことをお話しなければなりませんが、ご了承ください。かって私は「書く時」に使う言葉をとても選んでいました。自分にとって許せない言葉がありました。それはとても細かいこと、例えば助詞、過去形か、そうでないか、といったものから、名詞までありました。それは、自分が書く上で、禁じていればよかったことです。ただ、石畑さんにもかっての私信でお伝えした通り、諸事情により、その、自分が禁じていた言葉を当時使ってらっしゃった石畑さんに、矛先を向けてしまったこと、大変もうしわけ有りませんでした。 前述のおかしな感想を持たれる読者のように、「作品」=「作者」と捉える方がまだまだ多いのです。そして、私自身も、「書く時」に、使う言葉を非常に選んでいたこと、また、「書かない時」でも、言葉に敏感でした。簡単な例でいうと、ラジオで好きな歌手が、リスナーに対して「うるさーい」と言うのを聞いて、もう好きではないと思ったりしていました。しかし、「書く時」はある程度作者の制限があるとして、「書かない時」の「作者」というのは「人」です。言葉は動いています。現在は、人がどんな言葉を使ったからと言って即、その人を嫌いになったり、好きになったりすることはありません。また、そう考えることで私自身も「作者」と「作品」をはっきり独立して、やっと考えられるようになり、最近では、書く時に使う言葉、言い回し、が随分自由になってきた、と自分なりに考えています。 石畑さんは、「書く人」である前に「人」です。それで、今回、気をつけたつもりでしたが、他の問題で精神的に参っていたこともあり、冷静になれず、石畑さんを傷つけてしまい、申し訳ありませんでした。 私に対する書き込みを拝見する限り、感情を高ぶらせてしまっているようで、全く、自分のしたことからによるものですが、早く、精神的に落ち着いてくれることを願います。 また、この件に限らず、何か、私の発言で石畑さんが、疑問に思うことがございましたら、遠慮なく、お聞きください。その際、私信はお控えになりたいということですし、私も私信でお答えするのは恐縮ですので、雑談スレッド等、お使いくださるとよろしいと思います。白糸さん、片野さん、度々の失礼、お許しください。 by 山内緋呂子 セクシャリティのお話。 (先にお断りしてしまうが、以下に書くのは批評ではなさそうだ。しかも思いつきだ。 御甘受あれ。もしくは無視する方向で。) かつて「女性詩」なるものがもてはやされて以来、ではわれわれの性のとらえは何も変 わっていないのか、というと、否そんなことはないのである。なぜというにたとえば 「奥主氏の言うように〈「やらせたくない」女とか「やりたくない」女が存在するのが別に構 わないのと同じように、「やらせてくれる」女とか「やりたい」女がいても良い〉程度のこと は普通に言えるしあたりまえじゃん」 というような言説もまた流通しうるし、それを女が言っても、言う女を無効化する傾向の 「倫理」はもはやない。嫌悪する向きはあるであろうが、嫌悪を「倫理」にすり替えて発 言者を責めようものなら、むしろ責めた人間が「偏狭」と見なされるほどに。 性が禁忌の領域に追い込まれたのはたかだか近代じゃねーかと怒っていたのはフーコー だったと思うが、しかし彼が暴き、そして死に、 21世紀に到っても、詩を書く女同士の間 で性を「露わに書く」態度に対するせめぎ合いがあり、そしてそれに強い関心を抱く私(詩 を書く女)がまた存在する。われわれはいまだ近代に生きているのか。あるいはセクシャ リティの禁忌は、やはりもっと根深いのか。 バタイユのいうエロティシズム? それは 死につながるから禁忌なのだ…というあの話を思い出す。 どちらかというとこれは昔馴染みのジェンダーの発現だ。女が、性的描写を言語作品(と いう言い方に逃げておく)に著すことと、自身で発語することの違いは何か、あるいは違 いなど存在するのか、ということを考える。酒の席でのエロ話はいくらでもかまわないが、 詩に性的描写を入れるのは疑問だ、という意識を持つ者がいる。逆に、作品に書くのはO Kだがエロ話はやめようぜ(聞くに堪えない)、という向きもある。どちらも御免こうむ るという場合も、どっちも気になんないけどなー…てか好きだけど、という場合もある。 むろんそこに善し悪しなどない(とポストモダン風に言っておく)。そして、ぶっちゃけ どの立場であっても、所詮は近代の性享受のからくりの手中にある。というか、多くの場 合、女物書きはそれを利用するのだ。 女の言葉に含まれる性的描写は、その内容よりも、「女によって語られる女の性」とい う妙な磁力によって付加価値を得る。禁忌とされているがために、負の力にさからって引 きずりだされた「女の性」は、禁忌の力を得てエロティシズムを帯びる。いやむしろ「女 が(主として)語る」ということにこそ禁忌のフィルタはかけられており、語る女も、聞 く男たち女たちも、ここに産まれたエロティシズムを、中空に結ばれたエロスの幻影を、 最重要視する(だから「女教師もの」の人気が高いし女子アナはもてはやされる)。驚き と罪悪感と隠微さ。いまとなっては、セクシャリティ発現の禁忌の各段階は、プレゼント にかけられたリボンと薄紙のようなものだし、意外にも話題となる「女の性」のスタイル は限定的だ。つまり私的であるような描写、日常的であり、一般的ヘテロセクシャリティ の嗜好から大きく外れていないこと…要は市場は大きいほうがよいというネオリベラリズ ム…「表現の自由」(笑)と引き替えに、新しい性の禁忌が産まれつつあるのだろうか。 (おかしなことに、書店にずらりと並ぶ「女が書いた架空の男の性」−いわゆるBL系− については、多くの男は関心を示さないし、そのような女の性の発露の、さらなるねじれ を気にしない。) あ、疲れた。 自分の立場を表明しないのはフェアでないかもしれないので、ちなみに私は「言ってし まえ」派である。からくり利用だ。驚かせてやりたいと思い、驚くという近代人の反応を アテにしているに過ぎない。「視線」にまじる下劣さなどは、こちらも持ち合わせている 程度のもので、作品は作品として屹立していてくれれば、卑小なる私など置き去りに、エ ロティシズムという至上の力を、わずかにでも帯びるのである。まあそんな作品を書けれ ば、いいね、みたいな。 いろいろ見落としていることがあるはずだ。何か思いついた方はここでご指摘ください。 この件で私信をいただいても、当方がここでまるごと曝すことを前もってお断りしておき ます(笑) by 田代深子 参照先不明 んだば、そろそろ次の詩でもやるべえか。 というわけで、チアーヌさんの「チャームポイント全調査」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=19252&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D764 のっけからもう言っちゃおう、あーやだ。 何がやだといって、モデルオーディションという現場自体がやだ。 それってまるで奴隷市場みたいなもんでさ、売り場に並んだ奴隷たちがそれぞれの用途にどれほどふさわしいかを語らされるように、「モデルちゃん」たちは自らの「チャームポイント」について語っている/あるいは語らされているわけで、それは「商品」としての「モデルちゃん」たちには至極当たり前のことではあるのかもしれないけれど、その「商品」としての美点であるそれぞれの属性、つまりは「目がきれい」だとか、「天然ボケ」だとか「足」がきれいだとか言うのは、実は彼女たちが己が身に備えていると信じている、「女」として好ましいとされる属性で、その虚構性をいちいちこの詩の語り手はさも得意げに突っ込んで見せているわけだ。でも実はこの「チャームポイント」の持つ虚構性は、「モデルちゃん」たちが自らそう思い込んでいる、あるいは自らを商品にしてしまうことでそう言わされている、というだけの問題ではなく、それらの属性が「女」にふさわしいとされている事自体にあるのだけれど、狂言回したる語り手の彼女がその点にまで思いが至ってないことは明白だったりするのでそこで俺はがっかりしちゃうんだよなあ。 「チャームポイントは」「ふつうは調べたり、申告したりするもんじゃないんだ」というフレーズから、かろうじて彼女はチャームポイントを申告させるということ自体の虚構性に気がついているようには見えるのだけれど、そこから導き出されるのは「チャームポイントは見えないところにある」というつまんねー結論だけであって、つまりは「チャームポイントは外面ではなく内面なのだ」という、虚構性をさらに誤解して、内面という「見えないところ」に美徳を求める退屈な倫理に着地するところまでしか、彼女の考えは及ばない。及ばないからこそ、彼女は「上司」が自分に向けた質問に対して笑って答えてしまえるわけだ。 要はこの「彼女」は徹頭徹尾上司=「おっさん」の思考に自らをシンクロさせてしまってるわけだな。んでもって、自分がそうなっちゃってることに対して何も考えないくらいに鈍感なんだ。だからこそ、「足」が自信の「モデルちゃん」に(よし、見せて、付け根までね)なんて、てめえがいわれたら寒気がするであろうに違いないようなセクハラまがい、いやセクハラそのものでしかないような突込みができちゃうんだろう。んでもって平気でおっさんたちの品定めに参加ができて、「世の中はキビシイ」なんておっさんそのものの感想を漏らして、着地地点は「チャームポイントは見えないところ」だなんて、これまたおっさん好みの倫理性だ。 実は構成からいうと、「上司」が「ふいに」彼女のチャームポイントはどこだ?なんて聞いてきたときに、この詩はすごい展開をすることだってできたはずなんだ、と俺は思う。 たとえばこのシーンは、アウシュビッツの収容所でドイツ兵の下働きをさせられている小利口な(でも決して利口ではない)ユダヤ人が、ガス室に連れ込まれるユダヤ人たちを一列に並ばせて選別してる場に立ち会わされて、ドイツ兵があれこれと価値判断して「こいつはガス室」、「こいつは収容所」、「こいつは農場」とか選別したのをその通りに列を作って並ばせて、「「全員足踏み。前へ進め!」なんて号令かけた後でさ、さて今日も一仕事終わりましたね、なんていってドイツ兵にお愛想笑いかなんかして見せてるときに、「ふいに」当のドイツ兵から「お前も明日からあっちの列に並べよ」って言われたに等しいんだぜ?(かなり長いたとえになったけど、ごめん) おっさんの思考にシンクロして、おっさんと同じ品定めに参加して、で最後の最後に「お前だって女じゃん?」って当のおっさんから突きつけられてやがんの、笑ってる場合じゃないでしょう?何で気がつかないんだろう?どうして自分は「モデルちゃん」(大体この「ちゃん」付けがすでにあれだよな、小馬鹿にした物言いだったりするよな)とは違う人種なんだって勝手に決めちゃうんだろう、同じ女なのに。 これがフェミニズムの間違った到達点である「女性にも男性並みの職権を」の帰結点なんだ、とか言うと、話が大きくなりすぎちゃうのかも知れないし、どっちにしたって彼女が鈍感であることには違いはなかったりするのだ、あーやだやだ。 by 山田せばすちゃん >>235 反論。こういう批評は山田さんの芸風なのかねえ…。 この詩に対して、山田さんが嫌悪感をあらわにするのは正しい。 なぜなら、そういう意図を持った詩だから。 最終部での彼女と上司との笑いはけして調和的なものではなく、ヨソ行きの御愛想と皮 肉が混じった、乾いた「大人としての」笑いなんですよ。 つまり彼女は鈍感ではなくて、山田さんの言及しているオーディションの欺瞞に気付い ているんです(アウシュビッツ云々まではよう知らんが)。 だから上司のセクハラまがいの質問に答えて「みた」んです。上司の考えてる(だろ う)ことに答えを合わせた。それはいわゆる「結論」ではなくて、もちろんのこと品定 めをする側の優越感でもなくて、まあせいぜい、ちょっと謙遜の混じった処世なんで す。 彼女が「モデルちゃん」をバカにしてるとはぼくは思えないけどなあ。 by 角田寿星 >>自分がひっかかった作品に関して、自分が言いたいことを便乗して書いているだけのような気がして 俺の感じた「違和」を、作品世界に即して言語化する過程で、俺の世界認識が提示されてるということですよ、奥主さん。俺があくまでもやりたかったのは「違和」の分析と言語化で、フェミニズムのプロバガンダじゃなかった・・・とは言うものの、所詮フェミニズムも「イズム」ですから、そう受け取られてもしょうがないっちゃあしょうがない類の物件ではありましたけどね。 >>「こういう発想を受け止めてくれる社会というものが厳然として存在しているに違いない」という弱さが、やっぱり漂っていると思うのだ。 ええ、それを「弱さ」というか「鈍感さ」というかはそれこそ個人的な語彙の問題ではないでしょうか? ついでに言えば奥主さんに「無理やり捩じ込んで」といわれた俺の批評態度は、かつて佐々宝砂に「強姦魔」といわれたこともあったりするのですが(苦笑)、たとえそれが「無理やりに捩じ込む」もんであろうと「優しく口説き落として、前戯おさおさ怠りない潤滑な挿入」であろうとも、小倉千加子http://www.logico-philosophicus.net/profile/OguraChikako.htmに言わせりゃ「すべてのヘテロセックスは強姦である」わけですし、大体俺は前提として作者そのものを強姦しようと企てたことは一度としてなく、作品を強姦してるのですが、ついぞ作品そのものからの「痛い」という悲鳴は聞いたことはありません。 by 山田せばすちゃん 議論するつもりはありません。だから、他のスレッドに書き込もうかとも考えましたが、話の流れからそれもおかしいと感じましたので、ここへ書き込みます。 作者だからと出てくるな、とか一読者として参加すればいい、とか、意見の押し付けはやめていただけませんか?批評も自由ですが、この場所(ここ現代詩フォーラム)はわたしも共に参加する場所です。わたしが思ったことを言うのも自由なはずです。 ついでに、わたしはわたしの詩の、一読者ではありません。あくまでも書いた本人です。 考えや感覚は、違って当たり前ですから、自分の詩の「一読者」になれる人もいるのでしょう。しかしわたしは違います。とりあえず、今は違います。わたしの詩は、最近書いたものが多いですから、もしかして年数がたてば、心境も違うかもしれませんが。 それから。わたしの姿勢に関することにだけは、きちんとしておかなくては、と思いましたので、これだけははっきりと申し上げておきます。 >ひとつだけ個人的な感想を言わせてもらっていいならば、ああ、この人は人前に自分の>書いたものを投稿して載せるという行為については、この程度に無責任で、この程度に>覚悟のない人なんだなあ、ってところですが、むろんその感想と投稿された作品の評価>を連動させるつもりもありません。 わたしはこの発言を読んで、非常に嫌な思いをしました。 簡単に人を侮辱するのはやめてください。 「この程度」などと、嫌味な前フリをつけてまで・・・・。 わたしも、長く文章を書いています。「何か」を書くことを、やめられずにここまできた人間です。その場その場で、真摯に書いてきたつもりです。 批評は自由ですから、ご勝手にどうぞ。しかし、人を貶める発言はご遠慮ください。山田さんの言う「責任と覚悟」とわたしの思う「責任と覚悟」の種類は違うかもしれませんが、それを議論するつもりはありません。 わたしは自分の産み出した詩や小説に責任を持っています。 人のあげ足を取るような発言はやめてください。 最後に。 山田さんが本気で、わたしのことを無責任で覚悟のないもの書きだと思うのであれば、どうぞわたしの詩など読まないでください。わたしはどの詩もわたしなりに本気で書いていますが、そう感じられないのでしょう?だからそんな風に言うのでしょう?それならば、そんなもの読んでもしょうがないでしょう? 本当は、こんなことこんな風に書いて書き込むのも嫌です。 わたしは詩についてだったら、「議論」なんかじゃなく「会話」がしたいです。感想だけじゃなく。わたしの好きな詩人の方のサイトで、「会話」をしているのですが、文章のことを、話したり、聞いたり、話し合ったり、それでいろんな風に感じたりして、「会話」はすごく、有意義だと思いました。たとえ、最初は意見が合わなくとも、相手の言っていることの意味がわからなくとも、わかりあえるようになることがあるし、もしわからないとしても、「会話」したことが、後で、自分の腑に落ちてきたりする。 そういうことは、山田さんとのこんな風なやり取りでは、わたしは生まれてこないような気がする。山田さんのスタイルは、結局のところ、詩評した相手に対し(読者に対しても)嫌な気分を残すだけなのではないだろうか?(例外もあるかもしれないけど、大抵の場合。)同じことを話すのでも、もう少し、(せめてもう少し)静かに、穏やかに、話せないのだろうか。 (わたしだって、本当は穏やかな人間だとは言えませんが、でも。) なんだか、嫌な書き方になってしまったと、自分でも思います。 少し過敏な反応だったかなとも思います。 しかし、わたしはそれぐらいショックでした。 我慢しようと、一度は思いましたが、我慢がなりませんでした。 きつい書き方をしたことで、不快な思いをされた方がいれば、本当にすみません。 話は変わります・・・。 奥主さんの、一連の発言、こころに残りました。考えさせられました。わたしはわたしの思うものを書いていくしかありませんが、「考えること」を続けるうちに、いつか腑に落ちて、自分の血肉になればいいと思います。わたしは、何かを考えるとき、頭だけで考えただけでは理解ができず、腑に落ちるまで時間がかかります。 考えるヒントを与えてくださったこと、感謝いたします。 石川さん 一連の最初のご発言、興味深く読みました。無意識の部分を指摘されたような気がしました。ただ、時折、自分は無意識を言葉にしているのではないか、と思うこともあります。少し説明が変ですけど・・・。うーん、むずかしいです。ごめんなさい。 by チアーヌ >石川さん わたしもそう思います。 >山田氏は彼の感受をもう少しく明らかにした後読みに入って欲しいと願う。 正直言って、山田さんがわたしの詩をここで「ドトール」「チャームポイント」と続けて取り上げている意味をわたしは判りかねていますし、また、わたしはここに詩を多数、投稿していますが、わざわざこの二つを取り上げる意味が判らない。 まぁどれを取り上げようと、それは山田さんの自由だから、かまいませんが、理由を説明してもらえると、意図がわかりやすくなります。 わたしは、「ドトール」「チャームポイント」での一連の山田さんの発言から、山田さんはわたしの詩など殆ど読んでいないか、または読んでいても嫌っているのだろうと思っていますが。それはもちろんちっともかまいませんけれども。でも理由は知りたいです。 あと、この際ですから、もうひとつ、過去にスルーできない発言がありましたので、ここに書いておきます。 以前「ドトール」の批評の際、 >いや、大体、俺が出入りしてる同人誌のレベルがどうだ、とか、こんな詩が同人誌に載>ってるのだとしたらその同人間の見識がどうなんだとか、いろいろ突っ込みどころもあ>るでしょうがね の発言を読んだときは、かなり不快さを感じました。しかしそれを書くのは、そのときの本題からずれていると思い、あのときは書き込みはしませんでしたが、今この場で申し上げておきます。山田さんは、わたしだけでなく、過去の同人仲間まで侮辱してくれたのですよ。山田さんがどんなに敷居の高い同人誌にいらっしゃるのか知りませんが、わたしは過去の仲間を今も大事に思っていますし、そのときの同人の主催の方を今も尊敬しています。そして、わたしがいた同人誌は、けしてレベルの低いところではなかった、と自負もしています。小説がメインの同人誌でしたが、詩を載せたこともあります。「こんな詩」を。 何でも言っていいのだと、思っていませんか? わたしだけでなく、過去の同人仲間まで侮辱することはやめていただきたいです。 わたしは山田さんと「議論」も「会話」もしたくありません。さきほどの発言の最初にそう書きましたでしょう?それに、山田さんにとっては「議論」も「会話」も同じものなのでしょう?わたしにとってはまったく違うものです。大体、言葉の意味が違うじゃないですか。「どうせ同じなので」という方とは「会話」はできません。 それに、「会話」というのは、あくまでも「会話」であって、山田さんのいつものスタイルでなさるお話はわたしにとって「会話」とは100万キロくらい離れています。 それに、わたしが言ったことは「文句」なのでしょうか? あれを「文句」と受け取るのであれば、その時点でお話はできません。わたしはわたしの姿勢にかかわることだけをお話しました。これだけはスルーできない、と思いましたので。山田さんに対して「文句」など言っていませんよ。批評についてはご自由にどうぞ、と言っているじゃないですか。今回は批評の内容にも触れていませんし。 でも、わたしとしては、山田さんからみて「こんな詩」を、わざわざ批評なさらなくても、と思いますけれど。それこそ、時間の無駄、でしょう? 山田さんにとって批評しなければならない詩は、もっとほかにあるのでは? わたしは侮辱されたことに対しての怒りを述べているだけです。そして貶められたわたしの創作に対する姿勢を表明しました。まぁでもそれを、山田さんは「文句」というのでしょうね。 そもそも、「会話」というのは、こじれていない状態でするものです。ニュートラルな状態で行うものです。わたしは山田さんに対して、考えや姿勢を固めつつあります。心無い発言について怒りの念も持っています。それに、批評のスタイルも、好きではありません。今後、「会話」が成り立つとはとても思えません。わたしと山田さんとの間で、発言がかわされるにしても、それは「会話」とは違うものであるとわたしは考えます。 by チアーヌ 作者が作者自身の作品を解説する、このことはまったく信用のおけないこと、うしろめたいことですが、それから導いてみれば、作品の批評の現場に作者自身が入り込むことは、論じられていることがたとえどんなことであろうと、やってはならんことなのです。固まっていない生コンに足を踏み入れるようなものです。批評形成段階において批評の的となる本人が現れる、つまりそこに信憑性の欠落を招き入れることは、批評そのものの完成には害だと考える訳ですよ。いいとか、わるいとか、そういうことではなく、間違っていると言いたい訳ですな。 by 黒川排除 (oldsoup) 「この料理は美味しくないなあ」ではなく、 「あー。やだやだ。この店はこんなくそまずいもん食わせんのか。料理人は何考えてんだ? こんな食材をこんなふうに扱うなんて、鈍感なんじゃねーの?」みたいに、店の中で大声でわめきちらされたら、やっぱイヤだなぁ(笑)。 それは、美味しくない、と言われたことに対してではなく、ね。 昔、吉野家で、「この牛丼まずいよ? タイ米でも使ってるんじゃない?」と、ネチネチ店員に絡んでる人がいて、 それを見て、すごくイヤな気分になったことを思い出した。 流れとは全然関係ありませんが。 by いとう 前のほうに「emotion過ぎるスレ」という意見があったけどまさにそのとおりで、情緒的、感情的なコトバのぶつかり合になってしまっている気がする。 もともと最初の切り口から違っているんじゃないだろうか。書いてある内容について咎めていくと、結局、詩の良し悪しの話から離れていってしまう気がする。たとえば、ある詩が面白い感じ、その理由が単に、書いてある内容によってであって、詩の表現によって特段にそれが際立っているわけでもない場合、「これって別に詩として書かなくても、エッセイでも短編小説でもよかったんじゃないの」と感じることもあります。そうした時、その違和感(ある意味、不満感か)を内容のほうへぶつけてもしょうがないのであって、むしろ、詩表現に注目するほうが前向きかな、と思います。 by 片野晃司 皆さんこんにちは! ざっとここのスレ読ませてもらいました。すごく長くて疲れました。 で、今って、山田さんは悪か善かみたいな論議されてますよね。個人的な解釈ですが。 おそらく、批評をするということはその作品自体に魅力があることだから、その時点でほめられてるんですけどね。山田さんくらいの人が批評するときって。たぶん。読んでて思いました。 その書き方が、乱暴だとかどうとかってことですよね? 自分の意見から言わせてもらえば、乱暴ですね。でも、礼儀正しいと思いますよ。すごく。言葉を書くという行為に当たって、僕はへらへらしてるのが好きだからなんとも言わないけど、まじめな人になればなるほど、礼儀がない人って許せなくなるもんじゃないですかね。 言葉書く上で、どこまで覚悟してんの?みたいな感じ。僕でさえ、持ってしまったりするときがある。でも、そう思うって、単純に何か引っかかるものがあるからで。 「世界の中心で愛を叫ぶ」が売れたのって、少なからず誰かがすごい好きだったからだと思う。でも、誰かの好きは誰かの嫌いであって、売れれば売れるほど批判したくなるでしょ。嫌いな人って。その時点ですでに僕は感情論だと思う。 で、山田さんの場合はその感情論をさらに逸脱しようとして、結局転んじゃったみたいな感じかなあ。奥主さんの文章読んで、僕はそう思いました。それを、反対派の人たちは非難するわけで、そりゃおかしいぞ!って僕は思いますね。確か発端はチアーヌさんの詩だったと思いますが、そこで、やっぱり話さないと。 そして、山田さんの書き方がまずいのは、丸裸なことですね。たぶん。愛する二人じゃないんだからさすがに、丸裸の山田さんを抱くことは出来ないんじゃないですかね?でも、そういうところも、僕は、礼儀正しいとは思うんですけど、いきなり、素っ裸で現れたら、強姦ですからね。たとえ愛の告白をしようとしていたとしても。 言葉のマナーを守りすぎると、社会のマナーがおっつかないみたいな。いっそ、ヒッピーみたいに同じ思想の人だけ集まっちゃえばいいのかもしれないけど、それじゃ意味ないですからね。混濁した社会でしか批評は意味を成しえない。てか、批判が生まれないし。 話を戻します。 単純に、批評する人は嫌われるのだ。なぜならば、大体そういう人は人の倍も本を読んで、あらゆる角度から、物事を見ようとして、そのあらゆる角度から見た結果で、(個人的なアンケート調査ですよね)物事を述べるから。やっぱり、物書きは批評家と戦うには想像力が邪魔しすぎて、本を読まなさ過ぎるのだ。「僕はそれでいい」と思うなら、罵倒されることを良しとしなければいけない。「僕はこうじゃない」と思うならば、書く事をやめて、本を読み始めるしかない。 文化論とか、トリックスター論とか、この世にある本が何冊、文章が何億存在するというのだろう。だとしたら、山田さんの鼻をくじける、本と出会える可能性は高いのだ。たとえ、ニーチェやバジュラール、孔子みたいな、有名な人を読まずとも。 結局、僕は、山田さんの批評見て「うわ、こいつ感じわりいなあ」って思ったけど、いえてるし、なにより、反撃できない。それこそ、自分を甘えさせてしまうようなそんな文章になってしまう。いつか、俺は、山田さんを根本からひっくり返したいと思うのです。 by チャオ >>297チャオさん、こんにちは。 これは山田さんのことを置いといてなのですが、 >単純に、批評する人は嫌われるのだ。なぜならば、大体そういう人は人の倍も本を読んで、あらゆる角度から、物事を見ようとして、そのあらゆる角度から見た結果で、(個人的なアンケート調査ですよね)物事を述べるから。やっぱり、物書きは批評家と戦うには想像力が邪魔しすぎて、本を読まなさ過ぎるのだ。「僕はそれでいい」と思うなら、罵倒されることを良しとしなければいけない。「僕はこうじゃない」と思うならば、書く事をやめて、本を読み始めるしかない。 >文化論とか、トリックスター論とか、この世にある本が何冊、文章が何億存在するというのだろう。だとしたら、山田さんの鼻をくじける、本と出会える可能性は高いのだ。たとえ、ニーチェやバジュラール、孔子みたいな、有名な人を読まずとも。 ぼくは、知識の問題でないと思っている。そして、批評家は、物知りで、嫌われるということも思いません。なぜなら、たくさんの作家を、読み込んで、勉強は本を読まずとも、 色んな形でして、語り合い、育てあう批評家も、いるだろうし。後者の発言は、ケースバイケースだろうと ぼくは、山田さんを感じ悪いとは、思えない。むしろ、もっともっと、気持ちを出せば、感情論から、潜り抜けて、より、挑発的な批評を書けると思う。 僕が、チアーヌさんから、感じたものは、初期に書いて、本人の創作の一助になったらしいし、ぼくは、それ以上の世間的に技巧的な問題が、あまりに無さ過ぎて、奥主さんとそこは、同じで、かの作品に対しては物足りなさすら感じた。そこは確かに山田さんの発掘が無かったら、そもそも出会えてなかったもので、その点に山田さんの慧眼は見た。しかし、そこからが、少しずつ濁ったような。 しかし、チアーヌさんは、少し、あの作を見る限り、ある生きる、現場、感情の描写であり、スケッチしたものかと思う。彼女には、深い無力感からにじみ出る抒情を書こうとする他作での試行も認められる。 少なくとも、僕のような世界のくくり方より、生活の匂いがするという僕からの感想はあり、それは、とりあえずは、長いタイムスパンで変わっていくだろうと思われる。 ま、そんなところです。 by 石川和広 ≫298 石川さん早速のお言葉ありがとうございます。 もしかしたら、石川さんはすごい才能がある人なのかもしれない、けど、ない人なのかもしれない。だから、きっと、勉強するんですよね。 評論家は嫌われるってのはちょっと言い過ぎかもしれないですが、でも、それは、少なくとも、あたらずとも遠からずです。たぶん。 ただ、僕が言いたいのは、評論家は創作が出来ない(簡単にという意味を込めて)人たちだと思うんですよ。もちろん例外的な人もいますけど。 単純に言葉への不信って感じたことありますか? 僕は、すごくあるんです。で、何で、僕の感じる思いは「愛」なんだろうとか「憎しみ」なんだろうって。まあ、普通に感じますよね。で、そこを乗り越える経験、もしくは、放棄してしまう人もいるだろうし、とにかく、今の現状がどうなのかってことが問題だとは思うんです。 才能があるってのはやっぱり、感性が鋭い分いろんな痛みを生じるとは思うんです。だからこそ、その痛みと富に言葉が生まれて、そこへ言葉への不信が消えていく。単純に考えればそんな感じだと思うんです。 でも、批評家は違う。彼らは才能がない。だが、彼らには、根気と、熱意がある。不信感を抱いたままの言葉の群れを、彼らは用いて、表現する行為を好んで選び、その言葉たちが、真実であるように示さなければいけなかったとき、やっぱり、個人的な感情は、極力排除してやろうと思うんです。 僕が好きな言葉なんですが、「文学のゼロ度地点」。そこへ、意識が向かうんです。ただの記号としての言葉、そこに、何らかの意味が入る。っていう作業。そうすることで、ようやく、彼らは、ことばを作り出していくのです。 (というよりも、言葉だけに限らず、その人自身もそんな感じだったりするとは思うんですが。)そうやって作り上げた言葉を、なぜ簡単に使うのか?それが批判ですよね。本当にそうだったのか考えてみた?っていいたくなって当然です。でも、それが僕には才能だと思う。 個飛べの意味を、自分の体ひとつで受け入れられるってのはすごい。それが出来ないから、やっぱり批評家は作品がなかなか出来ない。僕もそう。言葉への畏敬が強すぎて、引っ込み思案になってしまう。 そこが、物足りなさを感じたところだと思います。 はっきりいって、臆病な人間でも、何とか一歩を踏み出す意志はあるのです。気持ちが強い弱いは、才能の問題だと思う。気持ちの問題こそが決して敗れぬ問題でもある。 そうみていけば、僕には、山田さんのあのちゃかした言い方は嫌悪を覚えるが同時に、尊敬さえも抱く。 弱い犬ほどよくほえる。 だから、僕は、いつまでもほえ続けたいのです。強い犬と戦いたいけど、臆病な心が邪魔する。だから、強い犬をいらだたせようとしていっぱいほえる。 ちなみに、石川さんが書いて、一助になったというのはほんとうに偶然だと思う。でも、偶然の半分は意志によって決められることなのだから、もちろん自慢すべきものだと思う。だから、山田さんの批評と石川さんの批評は第三者から見れば全く同一のものに過ぎないのです。だけど、それらの行為はすべて、結果が判断してしまう。 僕は、それだけで世の中が動くのはいやだ。だから、どうしても、批評という形で言葉を発し続ける人たちに同情してしまう。 絶対に、感情論へ走りたいはずなのだから。だとしたら、結構、違う見方も出来るような気がする。 嫌な事スパって言う評論家だけじゃなく、とりあえず、命令する上司だったり、いうことの聞かない部下だったり。 by チャオ 参照先不明 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=4402 車 4つタイヤがあって ぶうっと、 走る これはボルカさんの作品です。 ボルカさんがこのフォーラムに投稿されたさいしょの詩です。 べつにこれといってどーってこともない、衒いも気取りもない詩です。 読んでおもしろいかと問われれば、 うーん、.... わたしが鈍いせいかもしれませんが とくにおもいきり感嘆するほどの詩ではない、でしょう。 ただ、この作品は、わたしにとって「いいところ」が、ふたつばかりあります。 それは「短い」ことと、「わかりやすい」ことです。 ごかいしないでもらいたいのですが、わたしが「わかりやすい」というのは 表面上書かれてある事がらを 字面とおり理解するのにそれほど苦労しないですむというていどの意味です。 でも、短くてわかりやすいのに、この詩を批評するとなると、とても難しいものを感じてしまう。 どうしてだろう。 たぶん、作者がある作品を「詩」として押し出すことのなかに、その難しさのみなもとがあるのではないか。 と、わたしはにらんでいます。(にらむほどのことではないですが) たとえばどこにでもある道路の標識をもってきて、フォーラムに発表してもいいのです。 「題名:標識/作者:一番絞り/内容:横断注意」。 道を歩いていて「横断注意」という垂れ幕なり標識なりをみても、それを「詩」ではないと断定するのはたやすい。 (いや、ちがうな。まれに詩人はそれを「詩」と感じるかもしれない。それは一応棚上げということで) しかし、フォーラムに発表された、たった一行の「横断注意」という作品を「それは詩でない」と決定するのは なかなか骨の折れることだ。 まずもって作者によって「選択」が行われ、発表するという「決断」が行われている。 そして発表された「場」が時代の最先端をゆく「現代詩フォーラム」であるとすると....。 ひとこと。「あ」でも、やはり現代詩ではないか? ということになる。 あ、こんなことを言っていると、おまえは、なにをごちゃごちゃいうとんのやと叱られるかもしれないな。 そんなたわごとをいうてるひまがあったら、さっさと詩を吟味せんかいと。 「テクスト」を解読せんかいと。 このさいはっきりいっておくけど、わたしは「テクスト」なんていうコトバは決して知らないのです。 いまのところ決して知る必要にも、せまられていないようなんです。 「シニフェ」だの「シニファン」だの「エクリチュール」にも興味なし。 わたしはあくまでも詩の作者と詩作品と詩の読者(わたし)を直線でつないだ批評しかしたくないし、それ以外のやりかたは いまのところわたしには考えられていませんのです。ご容赦。 で、なにをくどくどしゃべっているのかというと、じつは有井泉さんが詩について、こういうものは詩とは認めませんという発言をした。 《詩の最終行に「と思う今日この頃でった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。》>>163 この発言に、少なからずはんぱつがあった。 >別に詩である、と他者に認められようが認められまいが >いっさい気にする必要はないと思います。 というような怒りの声もかえってきた。また、 >誤解を受けやすい言い方をしているとは思いますが、 >これが詩でこれが詩じゃないと区分して非難するのが発言の本意ではなく、 >詩の言葉、というものをもっと大切に扱いましょうという、提言であると、 >俺自身は把握してます。 と有井発言をフォローすることばもあった。 しかし、果たして、そうだろうか? 「題名:標識/作者:一番絞り/内容:横断注意」。 という詩がべつに他人に認められようが認められまいがいっさい気にする必要はないのだろうか。 詩でないとか詩であるとかいう区分はないのだろうか。 わたしたちが詩を書くとき、素朴に「詩とは何か」なんてことを考えていないのだろうか? いや、そもそも「詩」を書こうとして「机にむかう」ときにすでにしてそれは考えられているからわたしたちは 「詩」を書けるのじゃなかろうか? 詩を書く行為のなかに、すでにして「詩とは何か」があるはずだ。 べつのことばでいえば「詩でないものとは何か」が必ずあるはずだ。 (ビールの酔いがまわってきたので、《つづく》) だから、みなそれぞれ「おれは詩ってものをこう考える」 「あなたはそういうものを詩とおもわないけど、おえはこういうものを詩とは思わない」 そいう議論になればよかったのだろう。 ところが「なんでも本人が詩といえば詩なんだ」みたいな感情的なところに走った。 冗談ではないでしょう。 なんでも詩だと言えば詩なら、詩はそこで水溜りのように死んでしまいますよ。 成長も発展もない。べつに成長も発展もなくてもいいけど、詩の新鮮さというものは確実になくなる。 有井さんはあえて、勇気を出して詩でないものに言及した。それは大事なことです。 by 一番絞り 参照先不明 >325 これはこれは当方の不見識たいへん失礼いたしました 有井さんに関わる批評の途上とは まったくもって 気づきませんでしたので 理解力のなさも甚だしいものですねぇ お恥ずかしい限りでございます 当方が傲慢にも差し出口をいたしましたのは 当方も有井ファンでございまして あの方のお名前が出てくると神経質になってしまい 現在このフォーラムに1編も作品を置いておられない有井氏の発言について まるで さも 俺は完全に理解している と ゆーよーな 固有名詞とそれに伴うイメージの私物化 を感じてしまったわけです ええ 当方の不見識により いやいや ほんとうに失礼いたしました ふかぶかと陳謝いたしまして 差し出口の始末とさせていただきます 重ねて申し訳ございませんでした by 田代深子 同じ文章を違う板にコピペするのは、その文章がいかなるものであれ、あまりよろしくないことではないかと思われます。マルチペーストと呼ばれてネチケットに反します(どうでもいいけど私個人は「ネチケット」という言葉が嫌いです)。 で、同一人物が続けて投稿すると、その板はトップにあがりません。誰が投稿しても同じ仕組みです。それから、sageと入力すると、その板はトップにあがりません。なのでこの発言を投稿してもこの板はトップにあがりません。批判はよろしいかと思いますが、サイトの仕組みはきちんと覚えておくべきでしょう。 sage by 佐々宝砂 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 佐々よ。 ぬ様の >>音数律を逸脱する場合にも、5句および/または31音はきびしく意識されていて、音数律に合った歌は合う快感を味方につけて歌の力をアップさせ、音数律を外れる時にはそこに生じる軋轢を詩の力とする、ものだと常日頃私は思っていて、わたしゃまあへたくそなヒデェ歌書いてますけどいちおうその軋轢を自分なりに楽しみながら苦しみながら書いていて、人のを読む時にも、その律に沿った快感、沿わない快感、両方味わいながら鑑賞してるんですけど。 という書き込みにたいして >>音数律5句31音というのはなんぞやということで見てきました。とりあえず読んでみると音数律多少オーバーしても(多少足りなくても?)57577にほぼ沿ってればいいのですかね?でもお陰さまで何となくこういうルールなのか、ということがわかりました。どうもでした。 と返してくる無神経な輩には、「俺は短歌を書いてみたらいかがでしょうか。」なんてことは勧めないほうがいいと思うぞ。 by 山田せばすちゃん 兎の毒さんが帰って来た!いやーよかったよかった。 by 山内緋呂子 どこに書こうか悩んだけど、ここにしときます。ex.人間氏の、 誰それの顔シリーズ(しりーずかな?だよな)。 一度なら面白いかもしんないけど、二度三度やると退屈であります。 ちなみに下のリンク、うちの猫ね。 ここのサーバスペースを使うのはやめて自分とこに置きました。 http://www2u.biglobe.ne.jp/~sasah/nangi.html by 佐々宝砂 >377 そこまでばっさりと…。僕にはそんな勇気はないです…(笑 ええと、僕が管理している板だと、広告まがいの書き込みは問答無用で削除します。 機種依存文字や半角ひらがな、半角カタカナで書き込まれたら、「使わないで下さい」と注意します。 そしてもしブラウザが表示できない文字で書き込まれても「使わないでくれ」と言います。 不愉快だからではなく、マナーの問題です。…と僕は思っている訳で。 確かにマナー違反していなくても消したくなる書き込みはありますけどね(笑 ま、僕が管理人ではないんで、やっぱりどっちでもいいです。佐々さんにならえっと。 by クリ 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 >>402 私のくらいは残しておいてくれてもよかったんですけど(笑 まあ全部消すのは潔くていいのかもしれません。 焚き火して頭を冷ましてきたので、冷静にレスしようと思います。いささか頭が尖った状態で矢継ぎ早にレスしてしまい、不快になった方がいらしたかもしれません。ごめんなさい。素直に謝っておきます。で、http://www.tinami.com/の問題について・・・私は、自分がオススメリンクとして紹介したこのサイトに、問題が全くないとは思っていません。むしろ問題を提起するサイトであると考えています。そして、問題提起をするサイトをおすすめリンクとして紹介することは、けっして悪いことではないと考えています。その問題について語り合うことも、です。ですから、サイトに対する批判はしてもらって構わないのです。 児童に対する性的欲望は、実際問題として、存在するものです。なぜ存在するようになったのかは、私にはわかりません。もともと人間にはそのようなものがあるのかもしれません。幼児にも性欲はある、とフロイトは言いました。念のため言っておけば、私はフロイトが好きじゃありませんし彼の言い分が正しいかどうかもわかりません。わかりませんが、自分の経験に基づいて言えば、小学生の少女にも性欲はありますし、ちゃんとしたテクニックで触られれば快感を覚えます。それは紛れもない現実です。男性側の欲望については、私にはほとんどわかりません。わかりませんが、子どもに対してのみ欲望を感じる人がいるらしいのは確かで、そして私はそのような人を不憫だと思います。なぜそのような幼児性愛者が存在してしまったのか、彼等をいちがいに否定せず考えるべきだと思います。そして性的被害を受けた子どもの将来をも、きちんと考えるべきです。あってはならない、という言い方をする人がよくありますが、あってはならないことは、実際にはよくあることなのです。実際にあることを、目くじらたてて否定してもしかたありません。なぜそのようになったのか、今後どうしたらいいのか、考えねばなりません。 性的な悪戯を受けた側は、自分の身体やセックス行為を汚れたものだと考える傾向にあります。私もそうでした。しかし、身体やセックスそのものは悪ではありませんし、汚れたものでもありません。大人の男性といやらしいことをした、という事実が変わらなくとも、そのいやらしいことが「悪」だったのか、「秘密だけど楽しいこと」だったのかで、子どもの将来は大きく変わります。きっぱり言ってしまえば、幼児性愛が悪か善かは文化によって違うものです。たとえば、谷川俊太郎に少年少女同士(たぶん10歳前後)の性愛を肯定的に描いた詩があります。アフリカかどこかの部族の子どもたちがセックスしていた事実に基づいてかかれたものです。中学生ころの私は、その詩のおかげでかなり精神的に救われました。 私は、レイプを肯定しません。レイプ被害者として、レイプを強く憎みます。けれども、レイププレイが好きな個人を否定はしません。結局はお互い同意のもとにしているのですから、それは単にプレイ、和姦であって、本当はレイプではありません。恋人でも同意がなければレイプですけど、レイプされるのが好きな女性なら話は別。そのような女性の存在が、レイプを増やすわけではありません。現実問題、話は逆なのです。レイプされるのが好きな女性は、レイプ体験によって生まれることが多いのです。レイプトラウマの症状のひとつとして、暴力的なパートナーとの交際があげられています。 性暴力情報センター(http://www.macska.org/saic/ このリンクも見ておいてください、レイプトラウマについても載ってます)によれば、レイプに関する迷信というものがあるそうです。迷信第一が、『レイプは被害者が加害者を挑発した結果起きる。』 。この迷信こそが、被害者の心を傷付けます。 五月さんと吉祥寺ゆづルさんを非難するつもりはつゆありません。正しい理解を求めるのみです。タヒちゃんも性暴力情報センターをよく読んで下さい。加害者はたいてい普通の男性なのです。 by 佐々宝砂 参照先不明 1.性的メディア内の表象は現実の等価物ではない独立のものであり 2.それは当該モチーフの現実化を助長するのではなくむしろ抑制し 3.法的にも保護される正当性がある という主張をする文章の例 http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20030502 1.性的メディア内の表象は現実にそれが行われていることに等しく 2.それは当該モチーフの現実化をも助長・追認するがゆえに 3.法的に規制されないのは心外である という主張をする文章の例 http://www.app-jp.org/voice/2002/02.04.17.html >>380 こうして比べてみると、前者が資料と統計、合理性に基づいて論理が大局的に構成されるのに対し、後者が呪術的連想とレトリックによって情緒が性急に噴出されていく、というはっきりとした対照性が見て取れる。後者のタイプというのは必ず、呪術的になる宿命を負っているらしい。 なんでかというと、要はこういう種類の言説というのは、“不安”を教義とし、“子供”を傀儡の教祖として、社会現象の因果関係を独自のやり方で短絡するフィルタリングの儀式により、ローカルな<内/外>差異をつくって安心する、という一種のカルトなんだな。自分達ではそのことに気づけないわけだが。 で、こういう場合、その本人達が「良かれと思って」いればいるほど恐いわけだ。教義のためなら人権なんかポイだ!という傾向を必ず帯びる。そういう態度が善意の形をとって満ちていく社会は恐い。 無論、現実の児童虐待やレイプは絶対に許されることではないが、それらの近似を含む欲望をヴァーチャルなメディアで融通すること、もっと広く言えば、人間がすべからく倒錯的な欲望を交易して生きているしこれからも生きていく、ということを受け入れるだけの共感の筋肉を切り捨てるのであれば、けっきょくこの世にはできるだけ面白そうなものは無い方が良いということになり、それは子供に受け渡す未来の社会像として凄くダメだろう。 また、もっと具体的な話として、ヴァーチャルな性的メディアの規制や社会的監視・警備の強化といった主張が、"むしろ逆に"性犯罪を増やしてしまうメカニズムのシミュレーションが社会学や哲学の方面から提出されており、子供を大切にしたいならそういう理論にも通じていなければならないだろう。 五月さん、本気で子供たちの未来を語るんだったら、子供や女性の立場を盾に自分個人の情緒的噴出だけを垂れ流すのではなく、もっと真面目に理屈を勉強しなさいな。今までの五月さんの一連の言動こそが、子供や女性を自分の都合の良いように“消費する”ということに他ならないということ、それに気づくだけの合理的な知識を身につけてください。 by ひかげ 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 私は五月さんと喧嘩したくないです。 by 佐々宝砂 参照先不明 参照先不明 >>490 兎の毒さんへ お帰りなさい。また現代詩フォーラムに戻っていらしたことを喜んでおりました。こうしてわざわざ批評スレに挨拶をくださったことも、とても嬉しく有難く思います。 兎の毒さんの作品が話題になった時は、私がいつもとてもレスが遅くてそれでこのスレで殆ど発言ができていないことで、フォローができず申し訳なく思っていました。兎の毒さんの発言は当時、まじめなものと思いました。「短歌とはなんぞや?」という話になった時に、「短歌」の定義に関する知識やこだわりが発言者同士で違い、いきちがいが生じて兎の毒さんにはしんどい思いをさせてしまったろうと気になっていました。 これからもよろしくお願いします。 by 白糸雅樹 参照先不明 おもしろいし、ネタもなかなかだと思いますよ。QAのとこでもっといけると思うけど。 普通に小市民自虐ネタなのでまともに反論されても特になんもないけどなーってところ で、こういうネタはまともな反論がこないようにしながらもある程度の毒は吐いておく ところのバランスが大変なところです。 また小市民ネタなのであまり奇抜なことを書いても笑いにつながらない。出来るだけ ステレオタイプ、典型的なところを突きつつ、あんまり枯れてるネタは当然NGなので ここらへんが腕のふるいどころです。 でもこの「詩人の飼い方」がおもしろいのは小市民ネタ一つ一つの力というよりは、そ れを飼い方HowTo、巻末付録QA集でまとめたところですな。「ああ、いいとこ持ってた なー」と思ってポイントした。 田代さんはこれがネタになっちゃう現状がヤなんですよね。なるほどー。 ちなみにこのネタは現Fで投稿するメリット・デメリットが微妙っすな。詩人ネタなので そうでない人にはわかりづらいネタが含まれているのだが、逆に詩人はまともな反論す る可能性もあるんで。 僕も詩作の実況中継ってネタを書いたけど、ここには投稿しなかった。 > さぁ序盤は季節の移り変わりに対する繊細な描写で無難にリードを保ってきたわけです > が、ここで「名も知らぬ少女」の登場だぁぁ。解説の久留米沢さん、この少女の役割 > は果たしてどの様なものだと見られますか? > > そうですねー、この展開からすると昔死んでしまった幼い妹の写し身だと考えられますねぇ。 って感じの。イヤがる人が少なからずいるだろう。笑う人もいるんだけどね。 by Monk 参照先不明 意味を与えたつもりはない。便利なフレーズだなあ。おれも使おう。 「関西人の〜」以降から次の句点まで意味が与えられていないならそれらは字面だけの罵倒であり大変しつれいだと思うんですが、これには意味を与えたつもりはありません。 ひかっかって、じゃなくてひっかかって、だよ落ち着けと言いたいんですがこれには意味を与えたつもりはありません。 「コレにひかっかって(注:ひっかかって、だと思われる)くるだろう」と説明してるのに「なんでつけくわえたかは、」と書いてあるのはそれこそ無意味なはずなんですが、これには意味を与えたつもりはありません。 意味を与えたかどうかはともかくあなたのせいで関西人のイメージが悪くなるのでやめてください! これには意味を与えたつもりはありません! これらには意味を与えたつもりはありません。 by 黒川排除 (oldsoup) 参照先不明 >fukaさん 将来の才能とか言われても…30代も半ばでねぇ(笑) 別のスレで書いたけど わたしはいつも「自分の詩はすごい」と言ってますから いまさらです たとえ返ってくるのが嘲笑だとしてもね まぁ精進し続けます(いまはまず卒論…) わたし自身の才能がどうとか言って褒め殺されるより 作品それぞれそのものを ちゃんと読んでもらいたいですね そんで批評とかしてほしい 底意地の悪さについては人格の一部として自分でうんざりすることはあるんですが それが書くことにどう影響しているかはよくわかりませんね それを批評的に生かしきれているかどうかはあやしいしですし fukaさんは自分の詩作とかをあまり卑下しないほうがいいと思いますよ そうやって他人のことをあてこするのもね やっぱり不快だし まぁ不快だからやめろとも言えないので これは感想として言います では by 田代深子 参照先不明 参照先不明 参照先不明 すごいいきおいだね。遅読遅筆の私は、ついていくのがたいへんだわ。とりあえず、#503まで読んだところで、頭の中に沸いた考えを、#515まで一応読んだ時点で書き記しておきます。(少しは#515までの発言を踏まえるかも。) >503 >>生真面目すぎます つかハマりすぎです という田代さんのご指摘はけっこう当たっています(笑) 私がなんで、この詩のゲームに乗れないかといえば、そりゃぁ私が遊びベタだからですとも。(田代さんはご存知でいまさら私が弁解しなくても。と思うだろな。でも私と旧知の人ばかりじゃぁないので、敢えて言及。) ただね、ケムリさんのこの作品で、私がどうしてもひっかかって我慢できないのは、「〇〇は詩人ではない」という否定のニュアンスなのね。ここに、幼かった頃の私が持っていた、変な優等意識、選民意識と共通するものを感じとってしまうんだな。(だからハマりすぎてしまうんだが。) 中学時代の私は、「ウェルテルは、もっと無邪気な頃に読みたかった。読んだのが遅すぎた」とほざいていたし、高校時代は『ノルウェイの森』がベストセラーだという理由で、一読すらせずに村上春樹を軽蔑していた(いまは違うよ)。村上龍も一読もしないまま、軽侮していた(あ、村上龍はいまだに一冊も読んでいないや。) まぁ、自分が詩を書くとはその頃想像もしていなかったし、乱読家でありながら詩集だけは読まないジャンル、だったが、思い出したぞ。嫌な記憶思い出したぞ。詩集一冊も読まなかったわけじゃないな。授業中ってのが、あんまり興味のない本でもともかくなんか本読みたい時は読む、という時間だったが、国語の授業中、机の下に隠した(つもり)本を読んでいて、他の生徒から「先生、白糸さん、授業中なのに本読んでいます」。先生、答えていわく「おまえら、ランボーって、〇〇しか知らないんだろう」って会話があったこと。 〇〇に入るのがなんて意味だったかは、その頃もよく判らなかったし、今はすっかり忘れた。そういう芸能人の名か、バンド名でもあったのかなぁ。ともかく、その時も、「ほらね、私は先生だって授業中に勝手に他の本読んでいたって黙認するような本を読む人間なのよ」って優越感感じていたんだよな。あー、やだやだ。はなもちならねぇ。 別にその頃、詩人のヒナだったわけじゃぁないんだが、そういう意味で、たしかに「詩人の飼い方」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=51717はつぼにははまるのね。 私が「詩人の飼い方」に反発を覚えるのが、単に、自分のうちなる選民意識(への憎しみ)の投影であって、この作品や、それにポイントを入れる人のなかに、優等意識のかけらもないのだったら、これは、私が過剰反応しただけということで、謝罪するしかない。 しかしなぁ、どうも、ゴスロリとか、環境活動かぶれとか、新聞スクラップする優等生よりも、詩人のヒナの方を優等とするかのような意識が見え隠れして見えるんだよなぁ。。。。。私のひがみにすぎないなら、それでかまわないのだけれども。 by 白糸雅樹 おれもあんまり横滑りしちゃアレだと思うのけど引き合いに出されちゃったので短めに。 >>523 ……>>513も関西人に意味を与えたのは、彼なんだけど。 はあ? すごい虚脱したんですけど。 by 黒川排除 (oldsoup) 参照先不明 参照先不明 >>533 まあ、気持ちも分からないでもないですけど。 例えば「詩」と言う限定される様な枠組みがたまらなく嫌なんでしょう? でもそう言う「詩」であるとか「芸術」であるとかのダサい枠組みを取り去っても、 (逆の人によっては「骨抜き」にされた状態) 結局はそこにも何らかのある共通するような感覚は流れていますからね。 by 汰介 >>531僕はどの位置にありますか? fukaさん。 それで批評ですがこの作品の存在形態はまだわかっていないし、批評の糸口も言語化されていないと思います。 ええと、カテゴリーを作っちゃうとどうしても、そこにゲームが生じる。そして、その外部があるわけですからね。しかも、ケムリさんの分身として詩人が出てきますから、実存に関わる問題がでてきますね。書き手は無垢というか、ゲームを作ったから後は好きにやってとはいえないと思う。そこいらあたりの半端さがいかで書き方を変えようとしても、処理しきれないわけで。 だからみんないろんなツッコミを入れるのは書き手が気になる余地を作品に残しているわけです。『詩人の飼い方』はそういう問題から逃れられないと思う。 この際ゲームに入っているいわゆる「詩人か詩人じゃないか」という問題は、本質的になくなって、作品として批評の線に乗ってくる。 そうすると、詩人を自虐させて楽しいのかとか、そういうゲームに安住しているままならいかがなものかとか、そもそも、この詩の外部の人はどうアクセスできるのか? そういう書き手の倫理が、書き手の意図しない不用意さからでてくるわけです。つまり、更に外部からの批評が可能になる。 うちわネタにもスキがあるわけです by 石川和広 参照先不明 参照先不明 参照先不明 #中二病という言葉は見たところ殴り合いに飽きた人間が持ち出す鈍器のようなものだなあ。転がしても転がしてもよろしくない展開が待っている気がする。予想だけど。sage by 黒川排除 (oldsoup) 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 批評は、他人の作品に関する文章、だと言っていいんだと思う。 それを前提として。 いま私は、詩で詩を批評するという、見方によっては、ひとによっては、 非常に「詩を汚す」ととりそうな行為に出ている。 賛否両論あるだろう(否定の方が多そうだなあ)。 「揶揄」や「批判」はあかんぜという意見もあるだろう。 もちろん異論は受けて立つ。受け流す可能性大だけど。 「詩ではない」気もするので「未詩・独白」においてあるが、 書いた本人は「批評」カテゴリにおきたい。 でも、散文じゃないからなあ・・・ by 佐々宝砂 ケータイ小説に興味がわいてきた…でも読むのつらい(^^; #参考 http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/0506/10/news100.html http://bunko.shueisha.co.jp/column/index0701.html さっそくケータイ小説のサイトにアクセスしてホラー小説を読んでみました。なるほど。本ではスカスカに見える文章が、携帯電話の画面では読みやすい。1頁ごとに興味を引っ張ると読者はアクセスし続けることになり、頁を読み進むたびに広告が入れ込まれ、通話料とパケット代が跳ね上がる。こういうミニマムなところできっちり稼ぐわけなんですね。 ケータイ小説の読者は、時間がかかればそれだけお金がかかるから、効率的に、前に読んで面白かった作家から当たるでしょう。人気作家の新作がぱーっと読まれて、すぐにラッシュは終わる。古くて読まれないデータはどんどん消される。だから人気作家は、安定した質の小説をかなりのピッチで書ける人ということでしょう。アクセス数は作品の価値そのもの。現代詩フォーラムにもそうした傾向はありますが、ケータイ小説の場合、アクセス数がお金と結びつく。そのメディアに適した作品を提供するという意味で、ケータイ作家達には特別な技能が求められているのでは。もっとも、適度な質でコンスタントに配給されるものが評価されるというのは、どんなものでも同じですが… とはいえ小説です。大衆文学の新形態です。しかし出版物としては、まとまった数量を安めに刷って、ちょっと派手に売って、売り切り御免にしてしまうのが常道でしょう。出版社にとって在庫を抱えたくない類の書籍だからです。継続して売れたり重版をのぞめるものではない。本を買うタイプの読者にあの文量は物足りないし、ケータイ小説の読者にとっては1冊1000円のハードカバーの本は割高に感じられるのではないでしょうか。書籍で儲けるのは、「ハリー・ポッター」や「世界の中心」くらい難しい。 というわけで、ケータイ詩を売ろう!と思うなら、それなりの方法を思いつきます。出版はコストがかかりすぎるから携帯電話で会員制有料サイトを立ち上げる。そして現在、現代詩フォーラム上で読みやすく人気のある詩をコンスタントなペースで書かれている書き手さん達に声をかけ… しかし、詩は選択的に読まれるのでしょうか? むしろそれが問題です。 by 田代深子 うん、「売れる詩を書く」ことはたいへんなことだと思いますよ。だから私の意見は暴論なのです。 そして私が本当に言いたかったことは、「売れてみろ!」ではなく、ケータイ小説の擁護でもなく、器で中身を判断してはいけないというごくごく当たり前のことだったのです。そう書けばよかったのだけれどね、本当はね。はっきり言えばいいんですよね。ちくちくしないで。今激しく後悔しているのですが、相変わらずはっきり言えません・・・orz よい作品が売れるとは限らない(むしろその逆であることも多い)からといって、売れる作品がくだらないとは限らない。売れる売れないというのは、田代さんおっしゃるごとく「営業努力と偶然が多くを担っている」。現フォのトップ10にしても似たようなもので、営業努力と偶然によってかなり決まってしまうものです。トップ10に入っているからいい作品とは限らない。トップ10に入っていないからといっていい作品とも限らない。まあ当たり前のことです。そして、図書館のかたすみのある特定の一家にしか読まれていない本がいい本であると限らない。インターネットのかたすみにある一握りの人にしか読まれていない文章がいい文章であるとは限らない。もちろんその逆で、図書館のかたすみのある特定の一家にしか読まれていない本が悪い本であるとは言えない。インターネットのかたすみにある一握りの人にしか読まれていない文章が悪い文章であるとは言えない。 書物とインターネットとケータイは、全く同一のものを入れることができる容器に過ぎないのだと私は思います。容器で内容を判断することはできません。もちろん容器の違いは流通の違いとなりますけれども。 by 佐々宝砂 孤蓬さんへ ねじまき鳥きどりの私にコメントありがとうございます。 私も大村浩一さんのスレッドを荒らしたくなかったので こちらに移してくださったことにもありがたく感じます。 孤峰さんのご指摘は、一段落を除いては、一般的に正しい認識だと思います。 誤変換の定義も辞書の通りでよろしいのでは思います。しかし、いみじくも ここは創作系サイトなわけであり孤峰さんもお読みになっているわけですが、 「誤変換劇場」ですよね。孤峰さんが読み手の私に伝えたい事がわかりません。 「 貴台が対峙していらっしゃるのは、私自身ではなく、貴台の心中に幻出した虚像。 貴台の感情が生み出した、歪んだ錯覚(イリュージョン)を、あたかも私であるかのように誤認していらっしゃるのではないでしょうか? 」 この一段落は、否定しておかなくてはと思います。私個人への質問でしょうか? 私ではなく、別の読者のことを決めつけで想定していないことを信じたいです。 私個人への孤峰さんのとらえ方でしたら、ごめんなさい、全然、思い当たりません。 〉貴台が対峙していらっしゃるのは、私自身ではなく、貴台の心中に幻出した虚像。 この1行目は孤峰さんの私への決めつけ以外なにもないし、笑っちゃうけど、えへ、 この1行目から繋がる次行以降も、孤峰さんの描く私に対しての捉え方に読み手を 誘導して、最後に質問調にしているだけの文章にしか思えません。私には頑張って も、孤峰さんのオリジナリティー溢れる、私には書く真似すらできない段落ですね。 私個人はニフティーのころから、無意味な論破サイトにはうんざりしていますので、 自分がその渦に入って渦を大きくしないよう努めたいものだと思ってます。 追伸 大村浩一さんのことは、孤峰さん達以上に、同じ釜の飯を食べてきた仲間だと 思っています。孤峰さん達は、あまりいじらないでやってくださいませ。 by 足立らどみ 参照先不明 弧篷さん 平行線のままですね。 辞書そのものの使い方ですら、弧篷さんと私では違うようです。 by 足立らどみ 孤蓬さん 〉この一事を以てしても、らどみ氏のお人柄が、一目瞭然に露呈していると言えるでしょう。 孤蓬さんのお名前が、間違っていたのですね。 孤蓬さんは読みづらい長文の書ける方だなーと、思っていましたが、 読み飛ばしていました。 今まで、私にとっては、読みづらい孤蓬さんの文章をどう思ってきたのか、 わかっていただけたようなので、少しは、安心しましたよ。 「辞書」とか、「事実」とか、「根拠」だとか、読んでいて、 なんだか違和感しか感じない孤蓬さんのいつもの単語の使い方ですが、 平行線でなくてよかった。 〉>辞書そのものの使い方ですら、弧篷さんと私では違うようです。 〉具体的な根拠を以て、どのように違うのか説明して戴きたいものです。 〉さもなくば、単なる言いっ放しに過ぎません。 私には、この3行だけでも、お腹いっぱいですわ。 読みづらい長文の書ける孤蓬さんの文章は、こんな感じの文章が多いよ。 〉>平行線のままですね。 〉平行線というのは事実ではないと思います。 〉事実としては、私が根拠を以て真摯に説明しているのに対し、らどみ氏は何の根拠 〉にも基づかず、自身の妄想や決めつけを単に言い放っていらっしゃるに過ぎないと 〉いう所だと思います。 相変わらずのいつも通りの論破系サイトで良く見てきた、とても偉そうな文章^^ 孤蓬さんって、相手の言葉を利用して、且つ具体的な説明責任を相手に押し付けて、 それでも、相手がより頑張って返答したら、揚げ足とってくるパターンが多いです。 ここは創作系サイトだよ。 一緒に歌おうよ。 by 足立らどみ 孤蓬さんへ 創作するって、なんなのでしょうね by 足立らどみ 参照先不明 参照先不明 まあ、下手な感想を書かれた、とはいえ、ろくに返事もしないでこういった空間で姑息に反論しているところが君、孤蓬という石像のような人物像でもある。ところでわたしはアラガイsである。これで書き込みをしているのだ。繰り返し過去の宛名を並べておられるようだが、わざわざ嫌味を込めて文字数を増やすこともあるまいに、と思う。このようなあてつけをするのは貴方くらいだろう。改めてほしうんいものだが、まあ、その性質では何を言っも無理だろう。孤蓬という人物は正真正銘の大馬鹿者であるのだから。 by アラガイs これはこれは大馬鹿者であると断言しては趣味の古い人には失礼だ。大馬鹿者であろう。の見解に訂正いたしましょう。改めてほしいものだが。 by アラガイs 薬は飲んでるか? 君(孤蓬)という人物が当サイトにおいてどのような位置に居られ何を占めてきているのかは知らない。知る由もないが古株のつもりで若頭のような顔をしてきたのは事実だろう。君は実は怖い人物なのか?以前より過激な文言を吐く人物を妙に応援してきた様子もある。君は若頭の位置にあるのか?ならばはっきりと言いたまえ。 「わたしに逆らうと執拗に酷い仕返しを被ることになりますぞ〜」それでもよろしいか、と。怖い怖い。ああ性根の曲がった仕事氏は厭だ。ならば遠慮しときましょう。そのような人物はいままで厭というほど見てきている。 しかし、世の中は狭いものですな。 by アラガイs おい、黒猫狐のちょんまげ孤蓬くん。レス違いでもあるし、二人とも会話が尽きないようなら今度から君の、なんて書いてあったか?なんてタイトルだったか覚えてない、詩に付けたコメントに書き込むからな。戯け者。 by アラガイs 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照
一つの読みに対して、他の多くの異論が交わされることを願って。。。。。。 評を書く際は、該当発言(または作品)のURLを明記してください。 以下の文章は「山田せばすちゃんの大根斬り」スレッド[78]あをの過程[08/08 23:32] さんのものです。 これはわたしが谷川俊太郎のことを「エセ詩人」といったことにボルカさんが反論され、 それを「あをの過程」さんがわかりやすく書き直したものです。 ごく簡単なことなんですが、谷川も寺山もやなせたかしも中島みゆきも 松任谷由美も、僕やあなたの個人的意思にかかわらず、詩人だと僕は思 います。なぜなら、彼らは<世間>に詩人として受け入れられているか ら。あなたが彼を詩人と思わなくても別にいいけど、それとは関係なく、 詩人であるかどうかは結局<世間>がきめることであって、あなたとか 僕とか誰か個人が決めることではありません。 これ、ぼくにはちょっと面白いので、にんしき論的に考えてみたいと思います。 私的な視点からの断定は唯我的であり、客観性がなく無効だということですが、 では客観的な世界を記述するとはどういうことでしょう。 私を離れて、私が正確な客観性を記述できるものといえば〈数〉のみでしょうか。 みかんの数、帯の長さ、ビルの高さ。などなど。 客観的にある事柄を事実として発言するには、定量的関係を複数の私的意識の主体の間で確認する手続きが 与えられている必要がある。 谷川を「詩人」と決めるのは、私ではなく〈世間〉というのならば、「谷川は詩人である」という認定が 〈世間〉の間で数量的に確定していなければならない。 さて、こうなると疑問が残る。 〈世間〉とはグローバルな世界のことではないだろうことはすぐにわかる。 世界規模で谷川俊太郎といってもだれも知らないに等しい。 また日本的な世界でもない。 日本人の全人口のなかで「谷川俊太郎は詩人である」と、ほんとうに心の中で認定する人 はどれくらい居るのものだろうか。 詩というものに親しみが無い人が多い今日の傾向性からみれば、詩に親しむ人は人口比的に かなり少い詩ファンに限られる。 また極少数の詩ファンのなかにもわたしのように「あんなのは詩人とは認められないよ。人気はあるみたいだけど」 という人もいるには違いない。 とすると、私を離れて、谷川を詩人と決定する〈世間〉とは、案外とても狭い世界ではないか。 たとえば、わたしが私的に「谷川は詩人ではない」と考えているとする。しかし、それはわたしの勝手な想念であり 〈世間〉の評価の外にあるものであるというのならば では、わたしと同じように考えている人とわたしが意気投合して互いに同じ認識を共有しあった場合、 そこには最小単位の〈世間〉が発生していることはどう説明するのだろう。 翻って、 谷川が詩人であることは〈世間〉が認めていることだ、というのはじつは谷川は詩人だと思い込んでいる人の 強固な手前勝手ではないだろうか? 蛍は科学的、客観的には昆虫の一種だが、ある人が墓参の帰りに見れば死者の魂の移りかわりと 見ることもある。 この場合、「おまえが蛍をいくら死者の魂の移りかわりだ」と主張しても、〈世間〉は蛍としか見ないぜと 〈世間〉論者は言うのだろうか。 そうならば、詩人とはいったいなんなのだろう? そういう世間論者が詩を書いているということが、わたしには不思議でしょうがないのだ。 だから痴話喧嘩だって言ってるじゃん、あ、ここは嘘専用スレッドではなかったか(笑) ―なぜ、有るものがあって、無ではないのか? という言葉が確かハイデガーのものだったと思います。 一番絞りさんが書きたかった本は、んーと「存在と時間」でしょうか? >あと、わざとかもしれないけど、「存在と無」ってサルトルの本ですよね。 そうなんですか、それは知りませんでした。 ほんとうに。 即興のおもしろさをねらって今日のお昼にぱっぱと書いてしまったので 隠し味を入れるのを忘れたりいろいろ悔いが残ります。 かといって推敲していると即興のテンポが 台無しになると思いました。 さて、ハィデッガーの著書はなんなのでしょうかね。 >>57 批評詩ってよくわからないけれど、パロディ? たまたま目に入ったので読んだ感想を書いてみます。 なんか色々語呂が良くて好きです。マンドリンのスネカジリってちょっと語呂的に楽しい。 でも硬い文章並んでる中で見るから面白いのかなぁ。単品で読んでどう思うのかはわからない。 ラストはかなりイマイチな気がするなぁ。やっぱり最後は自分がコケて終わるのが王道じゃないだろうか。それか、最後止めないで勢いだけで突っ走っちゃうか、そんな感じで。 あと、わざとかもしれないけど、「存在と無」ってサルトルの本ですよね。 >>54 ご意見拝聴。 一番絞りさん、あなたの状況把握は、ある程度、妥当なものに思われる。 ボルカさんとのことも、私が見ても、そう思う。 ただ、私がわからないのは、<予定調和 という言葉の意味です。 私は、言い方は、混乱していたけれども、同じ穴の狢、といった。 私が気になったのは、彼らの、天皇制議論や、(それに端をほっした)批評論争が、見事なまでに、五十五年体制式の、懐かしの二項対立にしか、見えなかったことだ。 まさに、それが、予定調和的なのだ。 私は、彼らが、これから、関係修復するかどうか、あまり関心は無い。 異質な意見を持ったものが、本質的に対立することが、ちがいを確かめ合うことが、議論だと私は考える。 ひとつ言いたいのは、悪い部分を、指摘しあうだけでなく、いいところは、ちゃんと褒めることも、批評の力だと思う。 日本の映画批評を確立した淀川長治は、どんな悪い映画でも、いい所は、ひとつあるから、そこから批評を始めるといっていた。 その点から、あなたの愛という言葉には、理があると思う。感情や印象も、深いところで、何らかの論理、その人なりのものの掴み方があるからね。 あと、ひとつ、谷川は、あまり本質的な批判者をもたないから、あなたの詩には、理があると感じるが、谷川がある種の権威から、デビューしたのは、事実だとしても、谷川が あの当時、独力で、書いたことは間違いないし、その孤独の深さは、やはり心打つものだったと思う。 世間知ラズは、ぼくの買った初めての詩集だった。あれが、朔太郎賞を取ったことを、 あなたは、書いているのかもしれないが、谷川の、孤独は、お坊ちゃんならではの、孤独は、朔太郎に匹敵すると思う。しかし、ぼくだって谷川の嫌いな詩だって、たくさんあるからな。 ただ、あの詩集の始まりが、父の死の影から逃れられない谷川の、裸の情けなさと、不安だったことはいっておきたい。まさしく見苦しさをまた、文にしてしまうかっこ悪さ。 これも文学だと私は感じる。 >>57 社交辞令抜きで言います。あんまり面白い詩ではないと思います。この詩が自由詩として投稿されていたら、私はポイントを入れません。強いて言うなら、谷川シュン太郎(あえてこう表記しておきます)の台詞部分は面白いです。ええ、「おもしろい」と叫んでいるところは気に入りました。でも「ミツバチもどきどもの運ぶ養分を食らって」という部分はつまんないです。なぜここでまた「もどき」が出てくるのでしょうか。一人の印税生活者としての谷川シュン太郎は、本を買った読者やらテレビ出演を依頼したテレビ局やらからお金(養分)を頂いて暮らしてるのであって、ほっといても養分を運んでくるようなミツバチに養われているわけではありません。ミツバチまたはミツバチもどきという比喩は的確な比喩ではないと思います。谷川シュン太郎最後の台詞は、面白いと言えば面白いけど、この台詞、一番絞りさんの自己弁護だなと気付いてしまうと面白く感じられません。 私憤として書かれたにしては、誰に憤っているのかこれまでのレスを読んでも不明です。ま、実言えば名前が出てる部分はわかりますけど、私憤を抱くほどの被害を一番絞りさんが受けているかどうか? いえ、こういう詩に登場させられた面々の方こそ憤ってしかるべきなのでは? しかし私憤を抱くかどうかは個人の性格によりますので、私はどうこう言う立場にありません。「マンドリンのスネカジリ」という言葉から私が連想するのは「谷川俊太郎」ではなく、また谷川を擁護している掲示板の常連でもなく、むしろ「萩原朔太郎」だったりします。詩人は数おりますけれども、萩原朔太郎ほど「マンドリンのスネカジリ」という言葉が似合う人はおりますまい。 私憤でブンガクを書くタイプというのは日本のブンガク史上まれではない、と思います。たとえば佐藤春夫など私憤のカタマリのような人だし、こないだ亡くなった中島らもが某作家をめちゃくちゃ嫌っていたのも有名な話。要は、私憤であろうと義憤であろうと悪口雑言罵詈誹謗であろうと、面白ければいいのではないかと私には思われます。しかし悪口雑言罵詈誹謗でひとさまを喜ばせるのは非常に困難ですし、一番絞りさんの詩作>>57を読む限りでは、ひとさまを喜ばせる精神を拒んでいるようにも思えます。なにしろ「世間に媚びる快楽」を批判なさっていますから。では一番絞りさんは、こうして私憤を詩にすることによっていったい何をしたいのでしょうか。ご自分を表現したいのでしょうか。私憤をあからさまにしてすっきりしたいのでしょうか。この掲示板の読者を不快な気分にさせることで、溜飲を下げようというのでしょうか。そのあたりが私にはわかりかねます。あるいは私の読解力が足りないのかもしれません。 どうでもいい話をつけくわえておきます。あまりにどうでもいいことですけど。私は田舎の公立高校の出で、それも出席日数がやばかったので、センセーに頭を下げ学期末にレポートを提出し追試をいくつか受けた上で、どーにかこーにか卒業したのです。小学校高学年〜中学校二年までは不登校でほとんど学校に行ってません。さらに無関係なことを言えば私の夫は中卒です。谷川俊太郎は確か高卒でした。学歴や知識に関するコンプレックスは、私も充分にもちあわせております。かつては私もそうしたコンプレックスをさらけ出していたものです。あとで自分でみても格好いいものではないと気付いたので、そうしたものを出さぬよう気をつけることにしたのですが、今も気を抜くと劣等感丸出しになります。ああ気を付けねばと自戒するワタクシです。 さて、詩による批評というものを試みてみよう。それも私憤にもとづく批評詩というものを。(笑) そうだな...表題は「マンドリンのスネカジリ」。(爆笑 マンドリンのスネカジリ 舞台裏からマンドリンのスネカジリ登場 ぽろん〜と楽器を爪弾く ご大! ご大さま! どこにおいでですか、ご大さま! ああ、昏くてよくみえませぬ 昏くてよくみえませぬ 蛍光灯もこれだけ暗ければ世も末 いや、もはや法滅 何も見えませぬ 何も感じられませぬ そうだ! ...テツガクせねば! マンドリンのスネカジリ、ポケットからハイデガーの 『存在と無』を取り出し、膝の上において マンドリンを 「ぽろ〜ん」 谷川シュン太郎 天幕の上より (顔面神経痛に耐えながら) 親のスネカジリ、いや七光りでこの壇上に出現したおれは おまえらミツバチもどきどもの運ぶ養分を食らって もはや単純に詩人なんかぁーじゃないのだ だれにも届かぬところへ押し上げられ変容してしまった このおれを それでもけなすものがこの世ににいるとは おもしろい! おもしろいことだ! マンドリンのスネカジリのマンドリン、舞台の板張りに落ち マンドリンのスネカジリの頭が天に向かって仰がれるや ぼるカ、四輪車のオモチャに乗って横手より現れる 「ぶー」 黙らせたいんだ 夜もおちおち眠れんのよ 許せないなんだ あんな愚劣な詩論の持ち主がぬけぬけとあなた様の悪口をいい ぬけぬけと詩の批評なんかするなんて どうしても許せないんだ これは 詩への冒涜です だからつきまとってやるんだ 消してやる きっと ぼくのディスプレイの液晶画面上から あいつを ぼるカ 「ぶー」と去る 一番絞りを捕まえた〜♪ 一番絞りを捕まえた〜♪ お初、舞台右手より登場。 《シュン太郎さま、詩に神さま、ついにこのアホを捕まえました》 マンドリンのスネカジリ、瞠目する さっそくマンドリンを構えて 「ぽろ〜ん」 《ハイデッガーも理解できぬ無学なアホが〜 ご大さまの悪口をいいふらすなんて〜 気の利いた返事のひとつも〜 返せぬ間ぬけが! 一番絞りにやにやしている お初、にじりより、にじりより、一番絞りのほおをハッシと打ち 《世間様に歯向かって 世間様に背を向けて 世間様を嘲笑って それでおまえはまだ詩を書こうってのかい! このトウヘンボク! この成り上がり! この世間知らず! この大甘ちゃん! 詩はおまえのような 詩はおまえのような ノータリンのアホがやるもんじゃーないのよっ! さあ世間様にお詫びしな さあ世間様に頭を垂れな 世間様がみとめるご大さまにひれ伏しな 一番絞りにやにやしている 谷川シュン太郎突如顔面神経痛激しく、天井より顔しかめて あいたいたいたー あいたたたたー おれは詩人だ あいたたたたー おれは詩人に間違いないのだー あいたたたー どうしておまえはそれを認めぬ 世間が怖くないのか 世間に媚びる甘味な快楽をしらぬか 権威だぞ 権力だぞ あー、なんだその目は なんだその目は おまえ、ゆるせぬ 殺す たたき出すぞっ! この世から! マンドリンのスネカジリ! こやつにスネをカジる愉悦を説いてやれ! 親のありがたさを説いてやれ! 権威のすごさを説いてやれ! その上でまだわからねば 「まだわからねば?」 追放だ 一番絞り 「あー、つまんねー。出演者がつまらなさすぎる」 「おれはこの舞台、途中で降りるぜ」 谷川シュン太郎 「や〜んぺだと? おいおい、けなすお前がいなければおれはどうなる」 >でも、わざわざ喧嘩腰になる必要もないのでは、と思います。[55]ミント ミントさん、このご発言、よく承りました。 たしか羊羹なんか作るときにも、少し塩を入れますよね。 でも、塩が多すぎると不味い。 隠し味は、ほんの少しがいいのですよね。 ハンセイ。 石川和広さん >同じ穴の狢なので、平行線をたどるの当たり前だよ。対話不成立! ぼくはこういう断定がよくわからんのですよ。 あなたとだれとの間の対話が不成立なんですか? 他人のあいだに対話が成立しているかどうか、そんなことを第三者が断定するのは 余計なことじゃないでしょうか。 というのは、じつはわたしは※さんと山田さんの間には、なごやかな対話はそりゃ無いけど 底流には関係修復を求めて対話を交わしているのだなと思えるところがあるのです。 確かに、山田さんは「つばをかけてやる」と※さんに発言し、※さんはそれに対して当然の 感情的反応を返した。 しかし、もしもほんとうに山田さんが※さんを相手にしたくないのなら、詩の批評をしたりしない。 それも※さんにとって一番程度の悪い詩をわざわざ選んで批評するというのは、逆に言えば 相手の感情を逆撫でして関心を向けさせる所業でしょう。関心があるのですよ。 また※さんも、もう山田さんに関心がないのならいちはやくその批評に反応はしたりしない。 そこには底流になんらかの修復を求める動きがあったのだと思う。 だから、なんだかんだといいながら、わたしは両者のやりとりを微笑ましく眺めていた。 対話というのはなあなあムードで、予定調和的になごやかに進むものばかりが対話とは限らない。 現にわたしは山田の大根斬りでしつこくボルカさんらに、からまれている。 わたしもそれなりに、からみ返している。 傍目から見ればなんて低劣なやり取りをしているんだろう、と見えるだろう。 しかし、わたしは内心、考えている。 ボルカさんはわたしをクソみそに言いながら、どうしてこうもしつこく関わってくるのだろうか? と。 そこで、じつはかれがわたしにとても関心をもっていることがわかる。 おそらくかれは憎しみと同じくらいにわたしに一種の愛情を抱いているのだろう。 それがわかるから、わたしもそれなりに対応している。これは決して「対話不成立」ではないと思っているからですよ。 対話なんてのはそんな奇麗事ばかりでは済まない事もある。 もしも、和やかムードの対話ばかりが要求されるのだとすれば、そこにはうそが混じることになるだろうと 思う。 話は変わるが、私憤としての批評があるのなら、私憤としての詩作ってのもあるだろう。 一度、そういう詩を書いてみようと思っている。 対話を拒否されたら、ほとんど何も言うことができない。多くの場合、相手が求めるものつまりは賞賛か慰めか共感だけを聴いてもらえる。そのほかには、何を言っても聴いてはもらえまい。それでも、黙ったまま相手の話を聞いていることはできる。なので私は黙ろうと思うのだが、私は黙っているのが得意ではない。 私は口を半分ふさがれたお喋り機械だ。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=3878 「LOVE SONG」あをの過程 世の中には「詩みたいなもの」というのがある。 「詩みたいなもの」というのは何だろう? たぶん、それは歌と未分化なものだとわたしは思う。 いや、歌そのものといってよい。 多少の世界との違和があるからといってなにがなんでも現代詩などに 手をそめることもないのだ。 このように、マンドリンを鳴らし、歌を口ずさむのもよいではないか。 おいおい、マンドリンを抱えた親の脛かじりさんよ。 おれだって真面目に議論したいのはやまやまだよ。 しかしねえ、発端がいいがかりにもとづくものだったものに、 途中でまともな議論をせよと強要するのは、ちんぺらの所業だぜ。 わだかまりの残ったまま肩に手をまわして、ま、いいから話を聞けよと、 そんなわけにいくか、ぼけ。 てめえのように、てめえでメシを食ったこともねえ〈世間〉知らずが おれに一端のクチをきくのは100年早いんだよ。 てめえのこの詩をみてみろ。 そんなことだから、抽象的な箸にも棒にもひっかからねえ 生活実感のないものしかけねえんだ、ぼけ! 出直して来い! なんてことを言ってはダメだ。 この[詩みたいなもの]を読んで、深く反省するのだよ、ぼくは。 ※さん、山田さん、あんたがた、いい加減になさい。 批評が、私憤から始まってるか、どうかなぞ、議論の体裁めいたものを言うておるが、 単なる意地の張り合いにしか見えませんぞ。 ※さんも、山田さんも、硬直した自分の正義をぶつけあって、 単なる言いがかりの付け合い! こういう不毛な議論は、つらい。そんなしてても、昔の与党と野党の関係みたいで、なんか堂々巡り。 山田さんの「唾」云々もそう。皇后に、代理母を使ったらと提案した※さんもそう。 ふたりとも、他人事だと思って、酷いことばかりいってる。 同じ穴の狢なので、平行線をたどるの当たり前だよ。対話不成立! 追記。 山田さん、私は貴方の批評を私憤まみれなどとは思っていない。ただ、発端にそれがあったのではないかと睨んでいる。勿論これは想像の域を出ない。発端は批評に根ざすところにあるべきだと思っている。が、これは「終わりよければ〜」の考え方を否定し兼ねないので、絶対悪とは言えない。・・・結局グレーの話だな。これも。 部分、訂正すべき個所があったので、ここに記す。 以前「批評とは私憤を含むものであってはならない」と書いたが、これを「批評とは私憤が主であってはならない」に訂正する。 勿論、実際にそれを主として書かれておりながらも高い評価を得るものがあるのも承知の上。それは何故か。読みへの偏りが出る怖れがあるからである。これに関してへの反論に何が出るのかは想像に難くないが、敢えて申し上げておく。 フォーラムが山田さん特有の罵声や切り捨ての批評に対して開かれた場であることは承知しているが、ともすれば余計な「いさかい」の一因ともなりかねないのであれば、本末転倒だと思っている。それは過去に私自身が批評を行ってきた上で身を以って体験していることだし、これによる圧轢に苦心された方も大勢いると思う。こんなこと書いたところで、彼からしてみれば「発表することへの覚悟の無さ」で片付けられるような問題なのだろう。が、皆、今一度「批評することに無駄な傲慢さが出てはいないだろうか」を問いただす必要はあると思う。たとえ強く自覚しているつもりであっても、だ。 (私は以前、自分のサイトで批評を行っていた経緯がある。批評の〆に、親しみを持たせた言葉(それでは、を、ほいたら、と記したように認識している)で締め括ったところ、それを「不真面目で不謹慎な行為」だと激怒されたことがあった。言葉とは、かように難しいものなのである。また、添削又はそれに順ずる行為も、同程度かそれ以上の危険性を有している。) 最後に繰り返すが、これはグレーの話である。彼は黒ではないので、この話をすればするほど、私が損をするだけである。自分がどんどん落下しているのが分かる。それでも敢えて言っている、この意図について考えて戴けたら、と思う次第である。(以上で、これに関する話は終わりにする。勝手に終わって申し訳無いが、これ以上は反芻にしかならない為である。) 安藤さんへ。彼の意見の中にも、私のイメージを下げるものは含まれております。それに対して、私も反論しない。この問題は彼にとっちゃ解決してるようなもの(論じること自体がどうでもいいレベルなもの)ですから、それ以外の方々に対して発信したいのです。 >43 >一方的な主張ならよそでやってください。 どうもこういう言い方ってのはカチンとくるな、他人事ながら。 一方的な主張というけれど、読み手が必ずいるんだろう? 読むということは、つまりは交流だ。返答を返す人がいるかもしれないし いないかもしれない。それはだれにもわからない。 しかし、何事かが、一方的であろうと書かれたということは一方的ではない。 かならずだれかの反論なり、反証なりに返答することを義務付けるべきでないし 一方的だとかどうだとか、それこそ一方的な価値判断だ。 じゃあ、いままでわたしがここに書いた批評は一方的なものだけど、メールでやれと いうのか? こんな意見に同意するひとちたも含めてちょっとおかいしんじゃないか? どうして場というものを、そう息苦しく息苦しくしてゆくんだい? まったく、気がしれないよ。 どうしても俺の評論を私憤まみれのものだと決め付けたいのね、少なくとも疑惑は拭い去れないってその線だけは死守したいのね? んじゃ、俺は最初に取り上げたミントさんにどういう私憤があるの?君の詩の批評もミントさんの詩の批評も同じスタイル、同じ手法だぜ? どうして君の詩にだけ私憤をこめてる、と君は確信できるの?こめられてなくちゃならないという哀しい負の自覚があるの? つか、私憤をこめるも何も俺は最初っからそんなめんどくさいことしなくったって君のこと差別者め!って糾弾して唾はきかけてるんだからさ(笑)私憤は私憤で健全に吐き出させてもらってますよ。なのに今更なんでそんな巧妙な技をつかわなくちゃならないのよ(笑) 別にもういいよ、君の非論理的な返答は。 天皇制擁護のときと一緒じゃん、どうしてもそうでなくちゃいけないものなのだって、それで終わりなんでしょ?それで押し通すんでしょ? こっちはフォーラムの中での君の立場まで考慮して、忠告してるのに、どう受け止めるかだけの問題だって、↓安藤君みたいに受け止められてますよーそれでいいんですかー? ボルカさん、僕は、実際かつて有井さん見たこともしゃべったこともあるけど、作品に対する姿勢はきびしかったー! 一番搾りさんのいうように、かっこいいかった。でもガハハしたりもして不思議な人だった。 ここは、批評をするところだから、これぐらいにして。 一見肉感的にみえて、タッチは繊細で淡い。抽象と具体の微妙なあわいを描いてるけど、実は、一貫して、分裂よりは、葛藤や対象への戸惑いを痛みを描く、関係性の詩ではないだろうか?彼の生を賭けた… >36 いかに挑発されようと、そこに印象操作までされようと、貴方と重箱の隅の突っつき合いをする気など、更々ありませんので。ましてや、これは黒ではなくグレーの話なのですから、尚のことでしょう。 貴方が公的な問題だと理解している部分は、そのスタイルに依存することで私憤をぼやかしているのではないのか。私には、そう思えてならないのだが。ま、それは受け取る側の見方に任せよう。 繰り返し言うが、貴方からの回答など要らない。このような出来事があった、それを提示したいだけであり、あとは読んだ方々がどう受け止めるかの問題だと思っている。 sage 作品の一番下にあるカメラのアイコンをクリックすると作品そのもののURLがわかりますよ〜>一番絞りさん sage http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9786「ひとふさの乳房を」 苦情、苦笑、罵倒、怒号の嵐のなか、[22]のつづき。 大阪にある、その詩の学校に入ってすぐのことだった。 有井いずみさんの作品の合評があった。作品はここにも掲載されている http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9245「水母市」だった。 これまた難解な詩です。 わたしはそれまで現代詩を読んだことがないし、書いたことも無かった。 読み込めるわけがないのだ。 しかし、偉そうに振舞っていた手前、そうそうたるメンバーを前に、いかにもそれらしいことを 言わねばならなかった。 発言の順番が巡ってきて、内心汗をかいているわたしは突如、この作品の助詞に注目した。 それは天啓のひらめき? ともいえる苦肉の策だった。 そして、無知が幸いして口からでまかせを滔滔と並べ立てた。 いまでは何を喋ったかよく覚えてないが、よくもまあ、まるっきりの素人がプロを前にあれだけ 出鱈目をぺらぺら喋れたものだと自分で感心している。 助詞というのはもちろん、「てにをは」(「てにはを」?か)のことだが、この助詞がかれの詩表現を 固く縛っており、ふわふわとした表現が勝手にどこかへとんでいかないように 強引に方向性をもたせようとしている(多分) ことに注目した。 で、わたしは大勢の前で宣言したのだった。 「かれは、何かわからないけれども、どっちつかずの意識にふたつに引き裂かれており、非常に不安定な 股裂きの精神状態の中にいる」と。 まったくのあてずっぽうだったが、これは詩の批評を離れてある意味的を射ており、少 なからず有井いずみさんの表情を青ざめさせるものがあった。 当時、有井いずみさんは豊川悦司そっくりで、スマートで男らしく、頭はよく、歌は上手いし 踊りはうまいしで 女にモテモテだった。 わたしは大阪の「トヨエツ」にあやかりたいと、かれのあとを金魚の糞のように付いて歩き、 ときどき、といっても二、三回だが酒席を同伴させてもらう栄与にあずかった。 しかし、多分わたしの批評の一撃によって、かれは自らのなかにある女性性にはっきりと目覚めたのである。 この合評のあとから数年してかれはジェンダーであることを表明し、厳しい逆風に耐えて女性になってしまった。 男のなかの男として畏敬し、また、現代最高の詩人として尊敬していた方が、あれまあ、妙齢の女性に 孵ってしまったのだ。 これは、まったく何も気がつかなかったわたしにとっては衝撃だった。 詩からはたしかにそういう分離を感じてはいたが、まさか、だった。 翻って思うと彼女のかつての詩にはそういう個的な肉体と精神の相克という主題がいつも 精神の破綻の瀬戸際に危うく存在していたのだ。 そういう位置からあらためて「ひとふさの乳房を」を読むと、やはり「生理」と「ことば」の綱引きが 相変わらず行われており、しかし、とうとう彼女の詩のコトバは書き手から離れてゆくのだなと 感慨深いものがある。 つまりこの詩は、書き手の、かの詩のコトバとのお別れの歌ではないかと思われる。 (続く) >貴方に逐一の反論など求めていない。 出たよ(笑) 自サイトでは削除すれば済むけれどもさすがにここではそうもいかなかったが故の「お前のいうことなんか聞く気はない、一方的に書き込むだけだ」攻撃ってやつですか? >事実を示す必要性があると実感したので 事実誤認を指摘しているんだが、確認してくれたかね?確認してくれたら訂正を入れてくれたまえ。いや別に謝罪をしろとまでは言わないよ、俺は寛容だから(笑) で結局なんだね? みんな誤解のないように気をつけて評論書こうよ、とその程度の公的問題だったのかよ、疲れるなあ、まったく(苦笑) そんなことは多分みんなわかってるよ、俺だってわかってるもん。 俺はわかった上でスタイルの問題としてこういう書き方を選択してるの。もちろんこのスタイルに伴うリスクだって覚悟の上で、の話だけどね。このスタイルが気に入らない人も、面白がってくれる人も両方いるであろうことも認識してます。で、このスタイルが気にいらねえという意見にはいちいち個別で対応していくんだよ、今回みたいに。だから君にご納得いただくまで説明はやめねーぞ(笑)見ないのはそっちの勝手だが、書くのもこっちの勝手ってもんさ。 俺としてはこのあと批評に私憤が含まれているとどうしていけないのか?という話についてもやりたいのだが、どうやらそっちは君の言う「公的」な問題ではなかったみたいなのね、残念だわ。 それでもって※くん。 >何よりも、状況ってのは刻々と変わるんだから、昔のプロフを持ち出してきて今を論じるなよ。 と賜った君だから、最新の発言に基づいて提案するんだけどさ、だったら正しい異議の述べ方は、「山田さん、あなたが意識的にやってるそのスタイルで、私は傷ついたから、今後は私の作品を扱わないでくれ。」なんじゃねえの? 全然公的じゃねえじゃん(笑)下手すりゃ私信で済む問題だぜ? 私はこんな目にあった、あんな目にあったって、そんなことでピーピーピーピー騒ぐなよ、みっともない。そんなこと言っても誰も同情してくれねえぞ?つかもしかしたら同情されたくってここで書いてるのか?山田にこんな目にあった、こんなにも言われたとか書いといて、俺からの直接の回答はいらない、ってことはどういう了見なんだかねえ。 有井いずみ「ひとふさの乳房を」について 自分の身体の一部に、違和を感じる場合がある。たとえば痺れ きった足や切ったばかりの髪など、いくども指で触って確かめる。 それが自分の輪郭の一部だということは承知のうえで、むしろその 違和感を確認する。 乳房の重さとはいかなるものであろうか。それを持たなければ手 に余る大きな存在であろう。が、湯に浸かり、自分のそれを両手で 持ち上げるとき、むしろ軽さ、それから掌に乗るほどの小ささに、 すなわち自分の身体に収まる程度の存在であることに驚く。指は身 体の輪郭をいくどもなぞるだろう。エロティシズムが、この違和感 にともなって生まれてくる。 指が触れていると思っている乳房は、愛撫する女のそれではない が、自分のものであるとも確信できない。確信できない身体は、で は何者なのか。「自意識の器」か、最初の性愛対象か。いずれで あったとしても、違和感を確認したのち同一化を図るためには、エ ロティシズムは経由せざるをえない。 ぼくの/は/女の/息子に/抱きしめたい。 その毛髪にしたたる精をしたたか吸っただろうに、掬いあげただろうに てのひらを合わせ、接吻をくりかえすので、母のようでした 最中には、やわらかな指が 指もまた唇の、わたしの行方でした しかしここには倒錯、もしくは錯誤がある。乳房を持つ母として息 子を抱き、違和を感じる息子として母の身体を指でなぞり続ける。 観念は女=母、男=息子という近代の構造にいまだ深々と囚われて いることを露呈しながら、すでにしてその身体はとうに男女の性、 そして自己の同一性の混迷の場と化しているのだ。(だからこそエ ロティシズムは過剰に存在する。)違和へ同一性をもたらすため に、たとえば夢に描くような美しい乳房を導入しもしよう。だが、 傷みをともなうけれども、破かれる終章など ありはしなかった のである。カタストロフィはなく、むしろ乳房は違和感のかたまり として「ぽっかりと浮か」び続ける。 「コトバ」「モノガタリ」と片仮名で表象されるところの言語が、 この乳房に似ているようだ。それらは「やわらかい」、「雲のよう に」「浮かべられ」るものであって、「わたしをはなれ」てしまう。 異物をなぞって「これはこれこれです」と形=言葉にしてみれば、 とたんにやってくる違和感。言語とはそのようなものだ、と言い放 つこともできる。言語は、おのずから発したのちは、他者との間隙 に立ち、他者の言語としても共有されるはずのものであるのだから、 同一性にくみするものではありえない、と。 だがこの作者は逃れがたく希求している。その違和する身体が、 そして言語が、やわらかくしっかりとした重みと熱を持ち、「自己」 を確たる存在たらしめることをである。あるいは、初めて発見され ることをか。しかし希求が悲哀を帯びるのも事実だ(それこそが有 井作品に美と品格を与えるところのものでもあるのだが)。現にな いもの、ありえないかもしれないものを求める、その欠如のなかで こそ想念は分岐し、さまざまに言語が変容し、ときに詩となる。 詩を欠如の表象だなどと言ってしまったら、有井いずみは怒るだ ろうか、笑うだろうか。 2004.8.7 (有井作品評なんて...びびるって...) ということで、どうぞ、有井いずみさんを続けて下さい。お目汚し失礼しました。 >32 貴方に逐一の反論など求めていない。 貴方も理解している通り、これは自衛手段の宣言である。 それを宣言すると共に、非常にグレーな批評が起きていた事実を示す必要性があると実感したので、掲載に至ったまでのことだ。 貴方は繰り返し黒じゃないことを主張するが、今までの一連の出来事がある以上、貴方の批評姿勢から、それを演出と見るか私憤と見るかは難しい判断となる。(繰り返しになるが、だからこそ構造さんの「これは、どうしようもない」旨の発言が出ていた。) で、結局のところ何が言いたいのかと言えば、もうちょっと考えて批評すべきでは、と。安易に疑われるような文章(部分)の書き出し方は控えるべきなんじゃないのか、と。勿論これは山田さん個人に向けた言葉ではなく、この出来事を見知った皆様方に自覚して貰いたい言葉(批評姿勢)である。(・・・これ、私が書けば要らぬ誤解を招くだろうから、書きたくなかった部分なんだけどね。) 有井いずみ進行中だが、すまん! 白糸氏がこっち使ってもかまわん、といってくれた上に※君もここを離れたくなさそうなので雑談スレッドの発言をこっちに移動する。 やれやれ、まず発言19のほうの >しかし、ただ一人、山田さんだけが、彼を援護し続けていた。非難や難色、嫌悪等は一切表していない。 についてはニューススレッドの俺の発言[371][373][547][567][568][571]を参照していただきたいのだが、俺は一貫して作家論そのものを規制するような真似に反対しているだけであって一番絞り氏を擁護した覚えは一切ない。非難や難色を一切示してないというのも事実誤認である。 >己ずから関係を絶っておきながら、何故、私の詩を批評し始めたのか。そこに私憤が一切無かったと、誰が言い切れるだろうか。(ちなみに山田さん、唾吐き行為に対する謝罪が無いので、私のサイトへの書き込みが禁止されていることも、付け加えておく。) 己ずから、はいうまでもなく、自ら、の誤用だと思われる。一切なかった、とは誰にも言い切れないだろうけれど、じゃあ、あった、と言い切っているのは誰なのか、君だけだよ(笑)俺は目の前に突っ込みどころ満載の詩があったのでつい飛びついてしまいました、といってるじゃないか、ついでに言うと俺は君に評価されてもうれしくはないのでやめてくれ、とは言ってるが君の詩を批評しないとは言ってないけどね。ああ君の作家論をやるつもりはないと明言してるか、でも俺は君の詩を単品で取り上げて、しかも批評に当たっては君の幼稚な思想等になるべく言及しない、と「自ら」ルールを設けているんだが、「赦す」の解釈に天皇を持ち出したのがそんなに気に入らなかったか?俺は字義を明らかにしただけで、君の天皇制擁護の思想の是非には一切触れてない、批評中に君を差別者と糾弾してもいないし、それどころかわざわざ天皇という言葉を権力と言う言葉に読み替えた上で、字義からしても作中の「赦す」の定義には違和感を覚える、その違和感の内容はたとえ話をすればこれこれだ、と述べているに過ぎない。作品の機能分析においては、触れるべきではないことには触れないのだ。なんかこの「赦す」の字義解釈については白糸女史が辞書引いて、ついでにてぐすね引いて何か言うべくスタンバってるようなので俺としてはそちらにちょっと期待もしてるんだが。で、「ちなみに」以降の括弧書きを俺の批評が私憤に満ちているという傍証にしようというのだろうが、俺が君のサイトで書き込みを禁止されていることが、なぜ、俺の批評が私憤に満ちていることの論理的証拠となるのかわかりやすく説明してはくれないか?君のサイトに書き込めないことを俺がそんなに憤っているとでも言うのか?だから、意趣返しに君の書き込みを制限できる自身がスレッドオペレーターを務めるスレッドで君の悪口を書いているのだ、とでも?ゲスのかんぐりはやめてもらいたいものだ。大根斬りスレッドは、印象批評ではなくて、詩の作品における言葉の機能について論評することを目的としている、俺自身にとっても非常に重要なスレッドであり、重要であるからこそ、サイト管理者を含めた議論を重ねた上で創設したのだ。いちいち君の悪口を書くためにあるスレッドではないので、そこのところをよく承知してくれ。 以降は俺が「有罪」(苦笑)であることの確証がないことを自ら認めた上で、自衛のためにこういう手段をとる、と宣言しているようだが、そんなもんなぜわざわざ白糸スレッドまで出張して宣言しなくちゃならないのか、その必然性はなんなんだ?もともとの土俵である大根斬りスレッドでさえ、俺は未詩には手を出さない旨明言しているのだし、実際に当該作品の批評を公けにすることは中断している。 これが公的な問題であるというのならば君は「思想糾弾を目的とした詩の批評には承服できないので、以降、批評を制限される未詩カテゴリーにおくことにする」と宣言すればいいだけではなかったのか?俺がどうしたこうした、だの、一番絞り氏がどうしたこうしただのと書き出した時点ですでにそれは君の私的な問題でしかなくなっているし、むしろ、そういうことを書くこと自体が君の私憤の現れである、ということになぜ気がつかないのか、俺には不思議でしょうがないんだが。 > 詩への批評がどのような形態にあっても構わないが、個人的な私憤を含むものであってはならないと思っている。 ってじゃあ全然どのような形態であっても構わない、とは思ってないんじゃん(笑) ついでに言うと「個人的な私憤」というのも表現が重複してるよ。 批評が私憤を含んでいいのかいけないのか、という問題に関する俺の見解は先ほどの発言[547]ならびに[567]を参照されたい。などと書くと、それが今回の批評に私憤が入ってることの間接的証拠だ!なんて鬼の首とったみたいにはしゃがれても困るのだが、俺は批評の動機はいかなるものも等価であるから認めねばなるまいよ、という一般論を申し上げているだけなのでそこのところ誤解ないようにね。 あー忘れてた。 >あと、人様のサイト運営を揶揄するのは止めて貰いたい。貴方が自身の唾吐き行為を謝罪すれば、書き込み削除は解除される。それだけのことだ。 って、君自分自身のこと「人様」って書くんだ?やーね(笑)尊大にして、権力的だわ(笑って感じで、俺が揶揄したい点といえばそれだけだね。ところで俺のその前の発言のどこがサイト運営を「揶揄」してる部分になるのかな?俺は「禁止されています」といういかにも客観性を装ってるような物言いに「反発」してるだけで別段そのことを「揶揄」してるつもりは全然ないんだけど・・・ところで君、「揶揄」ってどんな意味だか本当にわかってる? やゆ 1 【▼揶▼揄】 (名)スル からかうこと。なぶること。 「政治を―した戯評」 三省堂提供「大辞林 第二版」より だよ? ちゃんと辞書引いてねって、何回目だろうね、君にこれ言うの。 それからね、別に書き込み削除されてても俺はなんら痛痒を感じてはいないし、はなっから謝罪しないよって言ってるじゃん、そんなに俺が君のサイトに書き込みたがってるとでも思ってるの?本当はね、いやだけど、一回一回それぞれの必要性に駆られて口出ししてただけのことなので、別に削除措置を解除してもらおうなんて思ってません、したがって繰り返しになるけれど、俺が君のサイトで書き込み制限をされているという事実は、俺が君の詩の批評に私憤をこめたことの傍証とはなりえませんので、念のため。 >28 一方的な非難ではなく、ニューススレでの一連の出来事を拾いあげただけですよ。 >25 批評の在り方への議論であり、発端も批評なのだから、決して場違いでは無いと思われますが。 うーん、長々と例え話を書いてるけど、弱音を吐いて逃げを打ってるようにしか見えないなぁ。>>27一番絞りさん http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9786「ひとふさの乳房を」 もともと、詩は詩人のみが読むためにあるものではないので、読者としてもっと気楽に批評すればよいのではないかな。といっても、知り合いだとか友達だとか、いろいろしがらみもあるので書きにくいこともあるとは思うけど。 [21]※さん >いかなる批評であれ、私憤・思想糾弾等を含むものであってはならないと考えている。 とのことですが、わたしの感じでは批評というのは私憤や思想糾弾を本来含むものですよ。 含まれてもいいし、含まれているほうが面白い。 たとえばあなたのここでの発言、「批評しましょ」に書いているからには一種の批評ととれますが 私憤が混じってませんか? 思想糾弾、ありませんか? ま、そんなことはどうでもいいんだけど、おれがあなたの考え方の根本にちぐはぐなものを感じて より詳しく知りたいからあなたの詩を読んでその辺りを読み解きたいと発言したのを 一方的に、非難するのはどうかと思うよ。 また、山田さんがわたしの味方をした!? ようなことを言っているがそれはおかしいよ。 おれは終始山田さんには批判的だし、山田さんもおれなんかを相手にしておらんだろう。 >23 >ここから具体的な作品分析に入るにしてもこの前振りだけで読む >気がなくなっちゃいますよ。 いや、それはそうでしょう。あなたのご指摘のとおりです。 わたしも昨夜はビールを相当数飲んでいてちょっとつまらないことを書いたと 反省している。 でも、 べつに弁解するわけじゃなくてね、わたしのようなズブの素人が現代詩の最先端と渡り合える可能性を しこしこ試みるってのが、他のズブの素人のひとにとっても大事なんであって、 現代詩が一握りの言語ゲームに達者な人たちのものである限り 現代詩はますます狭い場所に嵌ってゆくんじゃないかという思いがあるわけだ。 だから、ズブの素人であるわたしがこのような最先端の作品を批評する場合、数学で言えば 高等数学を微分積分みたいなレベルに解体し、 さらにそれを連立方程式に変換してから、いわゆる掛け算足し算のレベルに広げて語る ということが大事だし、それによってズブの素人であるわたしには得るものもあるわけだ。 わたしにとっては批評とは、どこぞのえらい人がやるような高等数学的なやり方がすべてではなくて ズブの素人にもできるさまざまな可能性を試してみたいと思ってやっている。 高等数学の公式で、さっと解ける問題を、 足し算引き算レベルで長々とやられると見苦しい点もあるかもしれない。 それは申し訳ないが、ま、ここはスレッドオペさんもいうように様々な試みを許してくれているので 長い目でなんとかよろしく頼みます。 >>20 >>25 批評ってしんどいんだよね。時間かかるし、難しいし。スレッド立てといてこういうこと言うのもなんだけどさ。だから、人がどんどん書いてくれるのを読んで、喜んで読んでます。 というわけで私はあまり書きこまない(爆)が、この部屋を使えることなら利用しちくりぃ。 信用失うのも恥をさらすのも、発言者の自己責任だと私は思ってる。(私自身だって、発言するたびに怖いわさ。)※さんとのやりとり、雑談スレで話進めたいならそれもいいけれど、このスレッドの主旨に反するやりとりとは私は思わないので、おおいにやれやれ、と思ってますでし。(雑談スレに場を移しての発言も読んだ。) あたしゃ、全ての発言に対して、全て思ったことを書くことはできないので、放置プレイになるかもしれんが。(「放置プレイ」って語を使うのは大村さんからのパクリ) んでは。「赦」「許」についての発言はちょと待ってね。運悪くめちゃ忙しい時期に同人誌の批評の順番(名簿のアイウエオ順で回している)がめぐってきてしまって、そっち先に書いて入稿しなくてはならないので。 基本的に私は亀カメの人なので、コメントリンク使えないこの会議室で、話題が読みづらくなることに関してはごめんなさい>おおる なるべく参照先は明記するようにしますので。 ※くんへ いい加減にしないと本当に信用失うぞ、俺のスレッドだと書き込み削除されるからいやだ、というんなら、雑談スレッド来いよ。このスレッドは実際批評が行われるべき現場であって批評そのものの総論をやるべき場ではないんだから。 私は、有井さんから、4年ほど前に、何度か、作品の批評を受けたことがあります。 しかし、その当時から、ご本人も様々変化があったと思います。 一番搾りさんの紹介した作。語の用法にはとても厳密な考えを持っているように、それは以前と変わらず、感じられます。とはいえ、それが現代詩的と云ってしまうと、有井さんは、どう思うのか、いささか危惧します。有井さんは、私の実感では、ひりひりとした痛みを感じるという事が、他者との接触のきっかけであり、それへの恐れと、合一へのあこがれが切なさを作るむしろ古典的な感じかな。 http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=732&from=menu_u.htm 『ひとふさの乳房を』有井いずみ >批評するんなら大向こうを相手にしなきゃ というご発言を受けて、大村さんの知り合いであるらしい会津の和合亮一さんと親しいとかいう 有井いずみさんの詩をちょっと、おさわり批評。 ま、これぐらいのひとの詩になると、正直言って歯が立たない。 ま、だれも歯が立つ人はいないだろう。 それは当然であって、「現代という高度に複雑、かつ困難な状況が その時代にふさわしい呼吸法に向けて現代詩の書き手を圧し出している」のだとすれば この書き手は、まさしくその最先端にいるのだから、 その表現は、だれもにも届かないコトバにならざるをえないのだ。 大昔、どこかの高山の単独登頂に成功した登山家の航空写真をみたことがあったが 尖った頂上にしがみついた登山家は背に酸素ボンベを背負い、酸素マスクをしていて、 顔もみえなかった。 「現代」詩の表現の最先端によじ登って、しがみついている詩人の姿も、それにふさわしく、孤独で厳しいものだ。 さて、歯が立たない詩をどうやって批評するか。 まず、断っておくがわたしは、最終学歴は中卒である。 また、四十の声を聞くまで詩には縁がなかった。読んだことも無い。詩誌にいたっては今日までいっさい読んでない。 読んでもわからん。 そんなわたしが急に詩に目覚め、詩を学びたいと思って大阪にある某文学学校詩クラスの門を叩いた。 詩について何事かを教えてくれるかと思ったら、いきなり、あたまから合評である。 何も知らないわたしは、だからこそ徹頭徹尾、知ったかぶりで通した。 意外に、これは功を奏したかもしれない。 結局、この学校に三年ほどいて詩の研究科にまで進めた。研究科は日高てるさんが先生をしているクラスだった。 生徒はといえば、今から思うと、そうそうたる面々だった。 鮎川信夫の最後の弟子といわれる、あの川上明日夫までが生徒の中にいた! 川上明日夫はわざわざ電車で北陸から授業に通っていた。 まったくの素人、出鱈目なてんぷら学生はわたしひとり。 ま、その中に今回取り上げた詩の作者、有井いずみさんもいたわけだ。 正直言って、日高てる先生も有井さんの詩にはお手上げだった。 皆目、読解できない。 さて、ど素人、中卒、ど無知のわたしは徒手空拳で現代詩の最先端の詩編を、どうやって 読み解けただろうか? 読み解けなくとも、どうやって、それらしく振舞えたのだろうか? >20 貴方にとっては私的なゴタゴタ程度の取るに足りない出来事なのかもしれないが、私からすれば、これは詩において公的な意味合いをも含むものでもあると判断、ここに掲載するに至った。削除対象となるかも、と書いたのは、そちらのスレの趣旨に反するだろうと考えた故でもある。 あと、人様のサイト運営を揶揄するのは止めて貰いたい。貴方が自身の唾吐き行為を謝罪すれば、書き込み削除は解除される。それだけのことだ。 さて。繰り返しになるが、>19の書き込みは、批評全体にも関わりのあることだと考えている。それ故、こちらが最適であると判断した。いかなる批評であれ、私憤・思想糾弾等を含むものであってはならないと考えている。 >※くん ・・・ったく、俺が自スレで「白糸スレッド行け」って連呼してるのなんて誰が見たって冗談に決まってるだろうが(苦笑) そんなもん真に受けて俺のスレッドのごたごたを人様の立てたスレッドまで持ち込むんじゃないよ、公私の区別のつかないやつだな、まったく。みっともないからやめなさいよ、こういうの。 俺は、大根斬りスレッド上で、「この手の書き込み」=「論理的に回答する気がない書き逃げ」に関しては適宜削除すること「も」ありますと書いただけで、お前さんみたいに人の発言徹頭徹尾削除=排除するつもりはないんだ、なにが「禁止されています」だ、禁止してるのは君自身なのに、まるで公平な第三者がそうしているかのような書き方だよな。 俺は逃げも隠れもしないから文句があるなら大根斬りスレッドに来い。二度とこの手の書き込みで人様に迷惑かけるような真似はするな。 >白糸様、ならびに当スレッドにお立ち寄りの皆様 俺の不徳のいたすところとはいえ、スレッド趣旨になんら関わりのない書き込みでお目を汚しましたこと、深く深くお詫び申し上げます。まことに申し訳ありませんでした。 山田さんによる批評への拒否について。 数日前、山田さんは大根切りスレにて私の詩を批評し、それを私が未詩だからという理由で拒んだ。この「拒み」にはそれなりの理由があって、本来なら拒むべくも無かったろうが、そうするに至った経緯をここに記載する。今更ですが、御容赦のほどを。 以前ニューススレにおいて、一番搾りさんが私の詩を私憤から糾弾批評してやると宣言した。これに対しては複数の方々が非難や難色、嫌悪を表明した。しかし、ただ一人、山田さんだけが、彼を援護し続けていた。非難や難色、嫌悪等は一切表していない。 そんな山田さんは、ニューススレにて私に「詩人としては絶交だから俺の詩は評価してくれるな」とまで言ってきていた。己ずから関係を絶っておきながら、何故、私の詩を批評し始めたのか。そこに私憤が一切無かったと、誰が言い切れるだろうか。(ちなみに山田さん、唾吐き行為に対する謝罪が無いので、私のサイトへの書き込みが禁止されていることも、付け加えておく。) 彼は、ニューススレとは無関係だ、それは被害妄想だろうと連呼する。しかし批評の中には、しっかりと「天皇→権力」という読みが出て来ていて、それをニューススレと関連付けて考えることは非常に容易である。勿論、彼は、これを批評に絡めて行っているが故、それは証拠にはならない。「批評を利用しての合法的な思想糾弾」だと判断するか否かは、まさに人それぞれ。非常に微妙で曖昧な問題となる。まさに、一番搾りさんが「やるぞ!やるぞ!」と連呼しておきながら実行に移せなかったことを、彼は見事に実行して見せた、と言えなくもない。(ここ、重要。だからこそ、構造さんも「どうしようもない」旨の発言をしていた。) これを回避する為に、私は「未詩」という言葉を持ち出した。 今、彼が私の詩を批評する中で、そこに思想を絡めた発言をしようものなら、それが私憤によるものなのか、演出によるものなのか、の違いは誰にも分からない。 ということで当分の間、思想に繋がりそうな詩はフォーラムにおいては「未詩」として発表することにする。 合法的な私憤・糾弾行為に見えなくもない批評を、回避するが為に。(場違いかもしれませんが、大根切スレでは削除対象となるかもしれない故、こちらにて記します。御理解戴きたい。) 詩への批評がどのような形態にあっても構わないが、個人的な私憤を含むものであってはならないと思っている。その可能性が顕著な場合において、これを回避することでその行為が防がれるのであれば、これは為されるべき事なのだと思っている。(ちなみに、過去に私個人の日記において「最初は批評を認める気でいた」と記していた。一転して、そうじゃなくなったのは、最初のレス以降の彼の発言を読むにつけ、より私憤等である疑念が深まった為である。) >この詩の書かれた日付けを見ると、去年のお盆になっています.[14]ミント http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=1568 あ〜、お盆か。 なるほど! ミントさんの指摘とボッコさんの解釈で、 少しづつこの詩の情景と、それに重ね合わせた書き手の心象風景が見えてきたような気がしますね。 お盆で閑散とした朝のバーキングに一人の年老いた受付係がしょぼくれて突っ立っている。 それを車から垣間見た書き手は、そのしょぼくれた「みにくい」受付係に自分を重ね合わせて、共感し、 こころのなかで「朝礼」を交わすのだな。 「撤退までの持久」だ、がんばれと。 しかし「みにくい」のはもちろん、その受付係ではなく書き手の自己内省であるし 「力尽きるまで ひとりで立っていよ」というのもどこかの現場で同じような孤軍奮闘をつづける 自身への檄なんだろう。 しかし、これだけじゃやっぱり短歌や俳句やコピーもどきだな。 短い詩ってむずかしいな。 批評というよりは、解釈になってしまいますが。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=1568 読んでみてぱっと思ったのは、石原吉郎みたい!ということ。命令形、断定、君という呼びかけ。カッコいい、って思った。 「位置」とかと何となく似てる気がした。「しずかな肩には/声だけがならぶのではない/声よりも近く/敵がならぶのだ/・・・/無防備の空がついに撓み/正午の弓となる位置で/君は呼吸し/かつ挨拶せよ/・・・」 内容的には自分への呼びかけに見える。駐車場の切符切りっていうのか、そんな仕事をしている。 駐車場とか働いたことないからわからないけど、単純労働、暇、ずっと外にいなくちゃならない、だるい、どうせ誰も見てない、等々、割と自分との闘いのいる仕事のような感じがする。 ああいうところにいるおじさんとか、何かイメージ的に大体もそっとしてだれている。客が来ても愛想悪かったり、役立たなかったり、怠けてたり、横柄だったり。だれてこうと思えばどんどんだれていくような仕事な訳で。そうならないように、自分に呼びかけてる、自分を戒めてる、って感じなのかな。心との闘い、っていうか。 >撤退までの持久 「撤退」は、とりあえず、「仕事が終わるまで」と取った。あるいはもっと、「この仕事をやめるまで」というような感じかもしれない。下手すると一生かも。だけどそこまで深読みできる根拠はあんまりないような気がする。やっぱり「仕事が終わる/この仕事をやめる」というようなことだと思う。 「持久」は、さっき言ったような、だれないように持ちこたえるというか、ピシッとし続けるというか。 >その黒ずんだ石塀より >実は君のほうが長く生きている 「石塀」って相当長く外にいるはず。それこそ風雨にさらされ続けて変色したり黴生えたり、それでもずっと外でさらされたままで耐えている。厳しい状況にさらされて、それでも忍耐し続けてきてる、それが「石塀」。 人は見てないかもしれないけど、「石塀」が私を見ている。石塀は凄い、ずっと外に立ったままで居る。 でも、あんな奴らよりも、私の方がずっと長生きなんだ。生きている年月の実際の長さは分からないけど(というより実際のところは大して関係ないと思う)、私はこんな駐車場ができるより、多分ずっと前に生まれてる。そんな若造に負けてたまるか。石塀が凄いって、そんな、そんな石ころなんかに、負けてたまるか。私の方がずっと長い年月さらされて生きてきたんだ。もっとずっと立派に立って(仕事して)てやる。 こんな感じで、「石塀」との比較というか、その架空のまなざしを意識することで、(下手すればだれてしまいそうな、つまらないと自分で思ってしまいそうな)自分を奮い立たせているように見える。 実際に駐車場の「石塀」を見ながら思いを固めているシーンととると、馬鹿馬鹿しいかもしれないけど、カッコいい。 でもそのカッコよさは端から見れば、単に塀を見つめているだけの惨めなおじさんかもしれなくて、 >みにくさのまま立っていよ 石塀はいかにもそれらしい、駐車場に似合ったものだけど、さえないおじさんの私が、いくら頑張って駐車場にいたって、しょうがないだろ。恥さらしだよ。こんなの適当にちょいちょいやって日銭稼ぎになればそれでいいんだよ。いい年してこんな仕事しかできないで、そんな自分が気張って仕事して、一体どうなるんだよ。手抜きしてしまえばいいんだよ。 そう湧いてくる弱気な/卑屈な/怠惰な思いに、いや、その醜さを受け入れろと。私は私でしか居られないんだ。さえない駐車場の切符切り、それだけでしかないんだ。醜くたって、心まで負けてしまってどうするのか。無様だって、ここで働き続けなきゃならないんだ。 つまらない職業だ、みっともない仕事だ、そう感じてしまう心を、引き締めようとしているというか。 それでも仕事なんだ、それをりっぱな仕事にするもしないも自分次第なんだ、というように、倫理的に自己を奮起している、そんな感じがする。 >朝一台も居ないパーキングは華やか 舞台は勿論同じ駐車場。「朝」だから仕事が始まる前。まだ誰も来ていない。 「華やか」って確かに違和感があったりなかったり。 でも、自分の仕事の場所、晴れ舞台だから、やっぱり「華やか」なんでしょう。 人っ子一人居ない、まだ誰も来てない、それでもここは私の仕事場だ。 客みんなが私を見てる。来る車みんなが、私を頼りにここに停まるんだ。 職場意識の高揚みたいな感じなんだと思う。 自分の晴れ舞台と感じればぱりっと気持ちも引き締まってくるところがあるはず。 本当に「朝」なのかは分からないけど、少なくとも気持ちを新たにするという意味では、「朝」なんでしょう。でも実際にも「朝」の方がしっくりくるような感じはする。仕事の意識高揚とか、大体朝にやるわけだし。自分ひとりの「朝礼」。他に誰も同じ職場の人とか上司とか居なくても、見てなくても、それでも私一人だけの、心の「朝礼」。 >力尽きるまで >ひとりで立っていよ だれも見てなくたって、最後まで、自分にまけずに、だれずにやりとおせ。 私だけの孤独なたたかい。負けようとおもったら、いつでもすぐ負けられる、自分だけの心のたたかい。 同僚とかいるのか居ないのか不明だけれど、居ても、その人はその人、私は私。その人がだれてたりするのなら、余計だと思う。私は私だけで、自分のピシッとした気持ちを保ち続けなきゃならない。誰にも頼れない。一度気を抜いてしまったら、すぐにだらけた、それこそその辺のイメージの悪い駐車場のおじさんのようになれる、そうした仕事。誰がなんだろうと、私は、私のために、決して気を緩めてはいけない。いつでもピシッとしていなければならないんだ。 自分への決意というか、これまで「石塀」とか「華やか」とかで徐々に高揚させてきた自分の心を、ここでまた確認する。よし、やるぞ!といった感じかもしれない。或いはそこまでいかなくて、何があったって、負けるな。という、静かな闘志かもしれない。 駐車場の仕事を馬鹿にする者がいたって、だらけた同僚ばかりだとしたって、そんなものに負けたり呑まれたりせずに、私の人生なんだから、私の仕事なんだから、私は私で、ピシッとしなければならない。そういう静かな決意を固めようとしているんだと思う。 「朝礼」というタイトルも、普通のある程度きちんとした会社の、人がわさわさいる騒がしい朝礼じゃなくて、誰も居ないがらんどうの駐車場での、しかもさえない自分だけの「朝礼」なわけで。 普通イメージされる「朝礼」と違う、「ひとりの朝礼」が実は描写されているという辺り、ちょっといい意味でタイトルの予想を裏切っていると思う。 若干難があるとすれば、どこの部分から「朝礼」が具体的に始まっているのか、分かり難い感じがする点。いくら心の「朝礼」でも、「石塀」を見つめたり、「一台も居ないパーキング」を見つめたり、やっぱり一定の「行為」を伴っているから、朝礼と言うか儀式といいうるわけで。儀式である以上どこかの時点にその始まりがあるはず。それが具体的にどこなのか分かり難い。 或いは別の言い方をすれば、「朝」という言葉の出方として、 内容的に、「朝」と言えば「決意」を固めたり固まったり、そういう場面で出てきている言葉だと思うので、タイトルにあるなら本文から削るか、或いは最初もしくは最後に「朝」という言葉が来る方が、理屈上の、決意との関係ではしっくりくるはず(これから決意を固めるぞ、あるいはここで決意は固まりました、というのを示すための語としての「朝」)。一番まんなからへんで「朝」という語が出てきているのは、語呂の関係とかあるにせよ、如何にも中途半端で、そこで一旦話が切れてしまっているような印象を与えかねないと思う。 でも、違う見方としては、「撤退までの持久」とか「石塀」とか、一瞬暗そうで後ろ向きっぽい語が頭に並んでいるせいで、途中の「朝」とか、最後の決意の凛とした感じが引き立っているようなころもあるような気がする。例えば冒頭から「朝」で最初から最後まで凛としてさわやかだったら、大して面白くなかったかもしれない。じゃあ最後に「朝」を入れればいいのかというと、例えば 朝が来た 力尽きるまで ひとりで立っていよ といわれても、何か合わない感じがする。決意は固まっても、実際に仕事をするのはこれからなのだから。朝が来たからで終わったしまったら、やっぱり中途半端になってしまうわけで。 決意と朝を、仕事が終わるまでの間ずっと続くように保たなければならない。そうした意味では、今の形も、暗い語→朝意識を新たに→決意定まる・仕事の終わりまで、と言った感じで、実は上手い具合に仕組まれているのかもしれない。 全体に張り詰めた空気を感じさせて、個人的には、結構好きかも。 大村 浩一 「朝礼」 http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=303&from=threadshow.php%3Fdid%3D16825 なかなか引き締まった詩だ。 そりゃそうだ、短いからな。下手の打ちようもないくらい。 しかし、短すぎる。 詩としてはもうこれだけで致命的といえる。だが、 商業コピーには使えるかも。 それにしても余計なものが頭にくっつきすぎるのは何故だ? 撤退までの持久 その黒ずんだ石塀より は君のほうが長く生きている みにくさのまま立っていよ 余計なお世話かもしれないが、 黒ずんだ石塀より きみは長く生きている 立っていよ で、いいんじゃないの? 朝一台も居ないパーキングは華やか これも説明がすぎる。 朝であることの説明、一台も駐車がないことの説明、バーキングは、でも華やかであるという 押し付けがましい説明。説明だらけだ。 朝礼という題があるのだから朝の説明はいらないだろう。 で、一台も居ないパーキングはどうして華やかなのか、わからない。 ま、ここは苦労したのだろうけど だいなしだな。 力尽きるまで ひとりで立っていよ どうして立っていなければならないのか、短すぎてわからないが、 なんらかの、凛とはりつめた気分は伝わってくるな。 覚悟といってもよいし、決意といってもよい。 案外、この詩、冒頭の一行と、この二行だけでよかったかも。 しかしそれではあまりに...か。 むずかしいな、詩は。 つくづく。 あ! そうだ、「みにくい」って語を添削で削ってしまったな。 あれが重大だったかも。しかし、もともと本人にとってしか意味はない自覚だから ま、いいか。 あらら! さらにそうだ! 「パーキング」に意味をこめてたか! ま、いいか。もともと本人にしか意味はない意味だから。 つまり短すぎて、もともと展開する気もないのだろうからさ。 斯界の最後の希望の星と敬愛するポエム王子こと大村兄。 兄が別段このスレッドのこれまでの展開のみを指して「ラクしてる」と賜っておられるのではないことを、敢えて承知の上で申し上げます。 これまでの展開ですが、言いだしっぺの俺としてはまさかここまで「豊かな」議論になろうとは、想像だにしてませんでしたぜ?少なくとも俺が顔出してる同人誌の合評会だって、ここまでこの詩に豊かな内実を吹き込んで見せる試みができたかどうかは疑問だし(いや、大体、俺が出入りしてる同人誌のレベルがどうだ、とか、こんな詩が同人誌に載ってるのだとしたらその同人間の見識がどうなんだとか、いろいろ突っ込みどころもあるでしょうがね)確かに「扱いやすい」詩であったことは認めるし、ここで今まさに展開されてるのが「大向こう」を唸らせたり「詩の世界の問題」を解決するにはそもそもの構造上から無理のある「印象批評」であることも承知の上で、それでも俺は兄に申し上げたい、俺たちは別段「大向こう」のためだとか、「詩の世界の問題」のためにここにいて、詩を書いたり読んだりしているのではないのです。そりゃあ確かにそういう問題が重大じゃないとは申し上げますまい。フォーラムに身を置かれながらもそれらの問題のために日夜心を砕かれている御仁もまったくいませんとも申し上げますまい。はたまた、正直に申し上げれば俺自身が投稿される一つ一つの詩に苛立つことも、フォーラム内で得票が集まる詩の傾向からそれが決して大向こうを唸らせるベクトルを持ちえていないことに舌打ちすることも、まま、あるのはまごうかたなき事実ではありますが、それでも、現象としてのネット詩、相対としてのネット詩に、かくあるべきだという箍をはめ込む気には、俺はどうしてもなれないのです。 大村です。いとうさんへ横レス。批評でもなんでも無いんですが。 #俺って結構まじめなんだよ オレ、キャバクラでこのセリフ言った事あります。(悶) 説得力全くナシ。(悶々) 向こうにすりゃ「帰ってくれ」だったんだろーなー。(汗) 男が口にする以上に、女はいつだってマジメだと思う。相手に対しては。 だってしまいにゃ入れなきゃなんないんだから。(もろ) ま、「冷める」ってな現場としては、こういうもんでしょう。 内田春菊がよくやるイヤ〜な描写を、連想してみたりして。(笑) あと発言の流れを見ていて思ったのは、得点するにしろ批評するにしろ、 ネットでは扱い易い作品のほうにコメントが集まるものだという事。 なんだか皆んなラクしてるなァ、と思う。 でなきゃ「樽の中の魚を撃つようなもんね」みたいな。(<ルーシー・ヴァンペルト) 下向きに撃ってる奴ばっかって感じがする。 薄っぺらになるのは、作品の本質に沿った批評が出来てないからで、 それはむしろ批評する側の能力不足だと思うよ。 それに批評するなら大向こうを相手にしなきゃ。詩の世界の問題解決にゃなるまい。 それで説得力あるものが書けたなら、その人は大したもんだと思うけどね。 #なんとも興ざめな横ヤリ[11]が入ったから、削除。 わはははは。 みんなそれぞれがそれぞれに作品の空隙に充填したい内実を豊かに抱え込んでいるのね、何よりもそれが一番すごいことのような気がしちゃったよ。 というわけで、APAホテル片町VILAをチェックアウトして2分歩いてラブロ片町ビル1Fのスターバックスで女と朝食とって、駅方面に行く女がそのまま店の前のバス停から駅ゆきのバスに乗るのを見送ったあと、グランデで頼んでしまってもてあまし気味のタゾチャイ飲みながらぼおっと窓の外の通行人を眺めていました、女といるときもそれはそれで楽しいし、つかその女が好きでしょうがないので家族に嘘ついてでもそうやって一晩一緒に過したかったにもかかわらず、女と一緒のときよりも一人でぼおっとしてるときのほうがある意味解放された気分でした山田です(ほとんど金沢在住の人間めがけて限定して飛ばしてるネタだな) いや壮観だ。 作品は読者によって作られるという文芸批評理論が実体化してる様をここで見たような気がするのは俺だけか?提示されたテキストに対して読者がそれぞれの個人的体験やら願望から培われた内実を、テキストの空隙に充填してそれぞれにとっての作品を作り上げていってますな、不倫だとか、過去につらい恋愛をしたんだとか、こういうところに図らずも析出しちゃうもんなんだなあ。とかね。どさくさにまぎれてバカ女口説きにかかっちゃってるのと、作者=バカ女ではないとあれほど俺が言ってるにもかかわらず、作者が実はまんざらでもなさそうなのには笑いましたが。 あと、ああそうか、と思ったのは男のバカさ加減についての解釈と分析がなされていた点でしたね、つか俺はこの作品の中のバカな男には全然まったく興味がなくって、つまんない男、って言っちゃったそれきりまるで眼中に無かった。これは多分俺がこの手のバカな男を見飽きているというか、この手のバカな男の話を女友達からいっぱい聞かされていたりするのですでに男のほうを改めてバカ、と言うことすら忘れていた、ということなのでしょうか、それとも俺は男が基本的に嫌いなのでバカでも何でもどうでもいいと思ってるってことなんでしょうか、発見でした。 それからいとうさんとはっきり女の好みが棲み分けてるのを改めて確認できたのも収穫です。これでいとうさんとは少なくとも女でバッティングすることはなさそうだ(笑)もし万が一この手のバカ女といとうさんと三人で酒飲んじゃうような羽目になっても、円満なまま俺は安心して一人でおうちに帰れそうです(笑) いや、たとえばの話、この手のバカ女と二人っきりで酒なんか飲んじゃった日には、俺って内心葛藤しちゃう(爆)ような気がするのよ、ああ、やだなあ、こんなバカと寝たくないなあ、でも、女と二人で酒飲んでて何にもなしで帰しちゃったりするのは山田の名が廃るってもんだしなあ、どうしようかなあ、なんて考えてて、終電なくなり際に態度をはっきりさせねばならない俺としては、待てよ、そうだ、俺はこの女と寝るのがいやなんじゃなくってバカな女と寝るのがいやなんだから、この女がバカじゃなければ口説くのもやぶさかではないというもんだ、そうだそうだ、この女がバカじゃなくなればいいんだ、とおもむろに女に説教始めてしまいそうな気がするのよ。 うわあ、びっくりした、批評されてる!しかも、「ドトールに行きたい」で・・・。うーん、どうせなら、他ので、と思ってみたりもしましたが、読んでくださった方の琴線に触れたということで、とりあえずみなさん、ありがとうございます。「批評しましょ」の栄えある第一弾がわたしの「ドトールに行きたい」で、なんだか、申し訳ないような。 >山田さん 読んでくださり、批評までしてくださり、ありがとうございます。山田さんの批評は、辛口ですが、違う見方をしめしてくださるようで、面白いです。 金沢には友達が住んでいるので、何回か遊びに行っております、町の名前までは覚えがないですが、いいところですよね、金沢。わたしも日本海側の生まれです。 そうですか、金沢のドトールで。 わたしが「ドトール」を選んだのは、全国にあって、イメージがしやすいかなと思ったからです。もちろん、経験も踏まえて、ですけれど。 何かを書くとき、それは、最初、「ぼやー」っと出てきます。そして、ぱちんと、情景やセリフが浮かんだりします。それは、いつか自分が聞いたセリフだったり、見た情景だったり、心の状態だったりします。 この「ドトールに行きたい」に関しては、わたしは、デッサン的な気持ちで書きました。ときどき、そういう詩を書きます。そうじゃないこともあります。 で、 >どんなつまんない男と寝たのかしらないけれど、白っ茶けた後朝の朝とはいえ、本気で>こんなこと考えてる女なんているのかしら?もしいるのだとしたら、なんでこんなこと>考えてしまうんだろう、とか言う内省がどうしてこの女にはないのかしら? >つまんない男とでも寝てしまう女というのは確かにいるし、俺も何人かその手の女を知>らないわけでもないけれど、でも俺の知ってる彼女たちは「前提」としてつまんない男と>でも寝ちゃう女なんて一人もいなかった。彼女たちはみんな彼女たちなりの理由で「結>果」としてつまんない男とでも寝ちゃう女、だったりあるいは「とりあえずこの男の前>ではそういう女だってことにしておこう」女、だったりした。つまり、俺の知ってる限>りのこういう感じの女たちは、それぞれがそれぞれの事情なり理由なりを豊かに内包し>ていて、その事情や理由を考慮に入れてこそ、彼女たちが遠い目をしてため息つきなが>ら氷ばっかりのアイスコーヒーをすする様はそれなりに魅力的だったりするのだけれ >ど、悪いけどこの詩の中の女にはそういう過程が見えない。んでもってさらに言っちゃ>えば、結果として、ではなく、前提として、つまんない男と寝ちゃえる女であることを>是としていう節が見えなくもなかったりする。要は「あたしバカなことやってるなー」>と言う内省がなくって、自分がやってることがバカなことだということにすら気がつい>ていない、それどころかむしろそれがバカな振る舞いどころかなんかかっこいいとでも>思ってるんじゃないかしら、などと思わせてしまうバカな女が、この詩の中にはいるよ>うな気がする。もちろんこの詩に出てくる女=作者だなんて、俺は全然思ってないし、>むしろ、作者にこういう体験がなかったからこそ、平板な描写しかできなかったんじゃ>ないかな、などと、そんなことも思ったりする。 の部分に関しては、「なるほどー、そういう見方もあるなあ」と素直に思いました。 感覚の違いが大きいかも、とは思いましたが、わたしの表現が平板だったせいかなと、思うところもありました。ただ、この詩に関しては、そういう書き込みをしたいと思わなかったので、うーん、難しいですね。上手くいえない。 >たかぼさん 読んでいただき、ありがとうございます。 リアリティ感じてくださり、うれしいです。 はい、そういう心情もあったと思います。 >安藤そらさん 読んでくださり、ありがとうございます。 あ、これもありますね。なかなかスルドイです。 この詩は、(というか、わたしの詩に関しては)ひとつの状況からのことを書いたわけじゃなくて、経験の一部を取り出して、書いている、という部分があります。 もちろん、そのまんまひとつの状況だけを書くこともあるのですけれど・・・。 >ミントさん 読んでくださり、ありがとうございます。 そうですねえ、そういうこともあるかもしれませんね。こういうことに関しては、わりと複合的に考えちゃうのが女というもので。醒めてるけど、かなしい部分もどっかにあるという。 >一番絞りさん ああ、ありがとうございます。なんだか素直にうれしい批評です。 わたしの書きたかったことがそのまま伝わっているような。 >いとうさん はい、そうです。そういう思いを込めて、そういうことを含めたつもりで書いてます。 いずれにしても馬鹿なんです。 もちろん、内省のない(?)考えようとしない女も含めて馬鹿は一緒なのですが、 「考えると崩れる何か」がある、という読みは深いし、この詩の女性に関しては、当たってる、と思います。 そう、「わたしはぼんやりしたい」と二回繰り返したのは、そこを強調したかったからです。感じる人はそこで感じるんじゃないかと思ったから。 で、(笑) >「自暴自棄で馬鹿と寝て内省もしない女はバカだ」と言われればそうだが(笑)、 >俺はそういうバカ、好きだな(笑)。 >そういう女性は、「バカが伝染る」と言って敬遠するのではなく、 >どうしてそんなバカをするのか、それを探り当てて、 >そしてふんわり抱きしめてあげたい。 そーいうことをするときは、あの、よほど、決意してかからないと(笑)。 中途半端にかまったりすると、後がたーいへんですよ。 なんだか、ちゃんとしたコメントになっていませんが、許してください。 読んでくださったみなさん、ありがとうございました。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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