批評しましょ[35]
08/07 13:34
田代深子

有井いずみ「ひとふさの乳房を」について


 自分の身体の一部に、違和を感じる場合がある。たとえば痺れ
きった足や切ったばかりの髪など、いくども指で触って確かめる。
それが自分の輪郭の一部だということは承知のうえで、むしろその
違和感を確認する。
 乳房の重さとはいかなるものであろうか。それを持たなければ手
に余る大きな存在であろう。が、湯に浸かり、自分のそれを両手で
持ち上げるとき、むしろ軽さ、それから掌に乗るほどの小ささに、
すなわち自分の身体に収まる程度の存在であることに驚く。指は身
体の輪郭をいくどもなぞるだろう。エロティシズムが、この違和感
にともなって生まれてくる。
 指が触れていると思っている乳房は、愛撫する女のそれではない
が、自分のものであるとも確信できない。確信できない身体は、で
は何者なのか。「自意識の器」か、最初の性愛対象か。いずれで
あったとしても、違和感を確認したのち同一化を図るためには、エ
ロティシズムは経由せざるをえない。


  ぼくの/は/女の/息子に/抱きしめたい。
  その毛髪にしたたる精をしたたか吸っただろうに、掬いあげただろうに
  てのひらを合わせ、接吻をくりかえすので、母のようでした
  最中には、やわらかな指が
  指もまた唇の、わたしの行方でした


しかしここには倒錯、もしくは錯誤がある。乳房を持つ母として息
子を抱き、違和を感じる息子として母の身体を指でなぞり続ける。
観念は女=母、男=息子という近代の構造にいまだ深々と囚われて
いることを露呈しながら、すでにしてその身体はとうに男女の性、
そして自己の同一性の混迷の場と化しているのだ。(だからこそエ
ロティシズムは過剰に存在する。)違和へ同一性をもたらすため
に、たとえば夢に描くような美しい乳房を導入しもしよう。だが、


  傷みをともなうけれども、破かれる終章など
  ありはしなかった


のである。カタストロフィはなく、むしろ乳房は違和感のかたまり
として「ぽっかりと浮か」び続ける。
 「コトバ」「モノガタリ」と片仮名で表象されるところの言語が、
この乳房に似ているようだ。それらは「やわらかい」、「雲のよう
に」「浮かべられ」るものであって、「わたしをはなれ」てしまう。
異物をなぞって「これはこれこれです」と形=言葉にしてみれば、
とたんにやってくる違和感。言語とはそのようなものだ、と言い放
つこともできる。言語は、おのずから発したのちは、他者との間隙
に立ち、他者の言語としても共有されるはずのものであるのだから、
同一性にくみするものではありえない、と。
 だがこの作者は逃れがたく希求している。その違和する身体が、
そして言語が、やわらかくしっかりとした重みと熱を持ち、「自己」
を確たる存在たらしめることをである。あるいは、初めて発見され
ることをか。しかし希求が悲哀を帯びるのも事実だ(それこそが有
井作品に美と品格を与えるところのものでもあるのだが)。現にな
いもの、ありえないかもしれないものを求める、その欠如のなかで
こそ想念は分岐し、さまざまに言語が変容し、ときに詩となる。
 詩を欠如の表象だなどと言ってしまったら、有井いずみは怒るだ
ろうか、笑うだろうか。

                          2004.8.7




(有井作品評なんて...びびるって...)
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