批評しましょ[66]
08/09 22:02
一番絞り

以下の文章は「山田せばすちゃんの大根斬り」スレッド[78]あをの過程[08/08 23:32]
さんのものです。
これはわたしが谷川俊太郎のことを「エセ詩人」といったことにボルカさんが反論され、
それを「あをの過程」さんがわかりやすく書き直したものです。

  ごく簡単なことなんですが、谷川も寺山もやなせたかしも中島みゆきも
  松任谷由美も、僕やあなたの個人的意思にかかわらず、詩人だと僕は思
  います。なぜなら、彼らは<世間>に詩人として受け入れられているか
  ら。あなたが彼を詩人と思わなくても別にいいけど、それとは関係なく、
  詩人であるかどうかは結局<世間>がきめることであって、あなたとか
  僕とか誰か個人が決めることではありません。

これ、ぼくにはちょっと面白いので、にんしき論的に考えてみたいと思います。
私的な視点からの断定は唯我的であり、客観性がなく無効だということですが、
では客観的な世界を記述するとはどういうことでしょう。
私を離れて、私が正確な客観性を記述できるものといえば〈数〉のみでしょうか。
みかんの数、帯の長さ、ビルの高さ。などなど。
客観的にある事柄を事実として発言するには、定量的関係を複数の私的意識の主体の間で確認する手続きが
与えられている必要がある。
谷川を「詩人」と決めるのは、私ではなく〈世間〉というのならば、「谷川は詩人である」という認定が
〈世間〉の間で数量的に確定していなければならない。
さて、こうなると疑問が残る。
〈世間〉とはグローバルな世界のことではないだろうことはすぐにわかる。
世界規模で谷川俊太郎といってもだれも知らないに等しい。
また日本的な世界でもない。
日本人の全人口のなかで「谷川俊太郎は詩人である」と、ほんとうに心の中で認定する人
はどれくらい居るのものだろうか。
詩というものに親しみが無い人が多い今日の傾向性からみれば、詩に親しむ人は人口比的に
かなり少い詩ファンに限られる。
また極少数の詩ファンのなかにもわたしのように「あんなのは詩人とは認められないよ。人気はあるみたいだけど」
という人もいるには違いない。
とすると、私を離れて、谷川を詩人と決定する〈世間〉とは、案外とても狭い世界ではないか。

たとえば、わたしが私的に「谷川は詩人ではない」と考えているとする。しかし、それはわたしの勝手な想念であり
〈世間〉の評価の外にあるものであるというのならば
では、わたしと同じように考えている人とわたしが意気投合して互いに同じ認識を共有しあった場合、
そこには最小単位の〈世間〉が発生していることはどう説明するのだろう。
翻って、
谷川が詩人であることは〈世間〉が認めていることだ、というのはじつは谷川は詩人だと思い込んでいる人の
強固な手前勝手ではないだろうか?
蛍は科学的、客観的には昆虫の一種だが、ある人が墓参の帰りに見れば死者の魂の移りかわりと
見ることもある。
この場合、「おまえが蛍をいくら死者の魂の移りかわりだ」と主張しても、〈世間〉は蛍としか見ないぜと
〈世間〉論者は言うのだろうか。
そうならば、詩人とはいったいなんなのだろう?
そういう世間論者が詩を書いているということが、わたしには不思議でしょうがないのだ。
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