批評しましょ[16]
08/06 03:24
ボッコ

批評というよりは、解釈になってしまいますが。

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=1568

読んでみてぱっと思ったのは、石原吉郎みたい!ということ。命令形、断定、君という呼びかけ。カッコいい、って思った。

「位置」とかと何となく似てる気がした。「しずかな肩には/声だけがならぶのではない/声よりも近く/敵がならぶのだ/・・・/無防備の空がついに撓み/正午の弓となる位置で/君は呼吸し/かつ挨拶せよ/・・・」

内容的には自分への呼びかけに見える。駐車場の切符切りっていうのか、そんな仕事をしている。

駐車場とか働いたことないからわからないけど、単純労働、暇、ずっと外にいなくちゃならない、だるい、どうせ誰も見てない、等々、割と自分との闘いのいる仕事のような感じがする。

ああいうところにいるおじさんとか、何かイメージ的に大体もそっとしてだれている。客が来ても愛想悪かったり、役立たなかったり、怠けてたり、横柄だったり。だれてこうと思えばどんどんだれていくような仕事な訳で。そうならないように、自分に呼びかけてる、自分を戒めてる、って感じなのかな。心との闘い、っていうか。

>撤退までの持久

「撤退」は、とりあえず、「仕事が終わるまで」と取った。あるいはもっと、「この仕事をやめるまで」というような感じかもしれない。下手すると一生かも。だけどそこまで深読みできる根拠はあんまりないような気がする。やっぱり「仕事が終わる/この仕事をやめる」というようなことだと思う。
「持久」は、さっき言ったような、だれないように持ちこたえるというか、ピシッとし続けるというか。

>その黒ずんだ石塀より
>実は君のほうが長く生きている

「石塀」って相当長く外にいるはず。それこそ風雨にさらされ続けて変色したり黴生えたり、それでもずっと外でさらされたままで耐えている。厳しい状況にさらされて、それでも忍耐し続けてきてる、それが「石塀」。
人は見てないかもしれないけど、「石塀」が私を見ている。石塀は凄い、ずっと外に立ったままで居る。
でも、あんな奴らよりも、私の方がずっと長生きなんだ。生きている年月の実際の長さは分からないけど(というより実際のところは大して関係ないと思う)、私はこんな駐車場ができるより、多分ずっと前に生まれてる。そんな若造に負けてたまるか。石塀が凄いって、そんな、そんな石ころなんかに、負けてたまるか。私の方がずっと長い年月さらされて生きてきたんだ。もっとずっと立派に立って(仕事して)てやる。
こんな感じで、「石塀」との比較というか、その架空のまなざしを意識することで、(下手すればだれてしまいそうな、つまらないと自分で思ってしまいそうな)自分を奮い立たせているように見える。

実際に駐車場の「石塀」を見ながら思いを固めているシーンととると、馬鹿馬鹿しいかもしれないけど、カッコいい。

でもそのカッコよさは端から見れば、単に塀を見つめているだけの惨めなおじさんかもしれなくて、

>みにくさのまま立っていよ

石塀はいかにもそれらしい、駐車場に似合ったものだけど、さえないおじさんの私が、いくら頑張って駐車場にいたって、しょうがないだろ。恥さらしだよ。こんなの適当にちょいちょいやって日銭稼ぎになればそれでいいんだよ。いい年してこんな仕事しかできないで、そんな自分が気張って仕事して、一体どうなるんだよ。手抜きしてしまえばいいんだよ。
そう湧いてくる弱気な/卑屈な/怠惰な思いに、いや、その醜さを受け入れろと。私は私でしか居られないんだ。さえない駐車場の切符切り、それだけでしかないんだ。醜くたって、心まで負けてしまってどうするのか。無様だって、ここで働き続けなきゃならないんだ。

つまらない職業だ、みっともない仕事だ、そう感じてしまう心を、引き締めようとしているというか。
それでも仕事なんだ、それをりっぱな仕事にするもしないも自分次第なんだ、というように、倫理的に自己を奮起している、そんな感じがする。

>朝一台も居ないパーキングは華やか

舞台は勿論同じ駐車場。「朝」だから仕事が始まる前。まだ誰も来ていない。
「華やか」って確かに違和感があったりなかったり。
でも、自分の仕事の場所、晴れ舞台だから、やっぱり「華やか」なんでしょう。
人っ子一人居ない、まだ誰も来てない、それでもここは私の仕事場だ。
客みんなが私を見てる。来る車みんなが、私を頼りにここに停まるんだ。
職場意識の高揚みたいな感じなんだと思う。
自分の晴れ舞台と感じればぱりっと気持ちも引き締まってくるところがあるはず。
本当に「朝」なのかは分からないけど、少なくとも気持ちを新たにするという意味では、「朝」なんでしょう。でも実際にも「朝」の方がしっくりくるような感じはする。仕事の意識高揚とか、大体朝にやるわけだし。自分ひとりの「朝礼」。他に誰も同じ職場の人とか上司とか居なくても、見てなくても、それでも私一人だけの、心の「朝礼」。

>力尽きるまで
>ひとりで立っていよ

だれも見てなくたって、最後まで、自分にまけずに、だれずにやりとおせ。
私だけの孤独なたたかい。負けようとおもったら、いつでもすぐ負けられる、自分だけの心のたたかい。
同僚とかいるのか居ないのか不明だけれど、居ても、その人はその人、私は私。その人がだれてたりするのなら、余計だと思う。私は私だけで、自分のピシッとした気持ちを保ち続けなきゃならない。誰にも頼れない。一度気を抜いてしまったら、すぐにだらけた、それこそその辺のイメージの悪い駐車場のおじさんのようになれる、そうした仕事。誰がなんだろうと、私は、私のために、決して気を緩めてはいけない。いつでもピシッとしていなければならないんだ。

自分への決意というか、これまで「石塀」とか「華やか」とかで徐々に高揚させてきた自分の心を、ここでまた確認する。よし、やるぞ!といった感じかもしれない。或いはそこまでいかなくて、何があったって、負けるな。という、静かな闘志かもしれない。

駐車場の仕事を馬鹿にする者がいたって、だらけた同僚ばかりだとしたって、そんなものに負けたり呑まれたりせずに、私の人生なんだから、私の仕事なんだから、私は私で、ピシッとしなければならない。そういう静かな決意を固めようとしているんだと思う。

「朝礼」というタイトルも、普通のある程度きちんとした会社の、人がわさわさいる騒がしい朝礼じゃなくて、誰も居ないがらんどうの駐車場での、しかもさえない自分だけの「朝礼」なわけで。
普通イメージされる「朝礼」と違う、「ひとりの朝礼」が実は描写されているという辺り、ちょっといい意味でタイトルの予想を裏切っていると思う。


若干難があるとすれば、どこの部分から「朝礼」が具体的に始まっているのか、分かり難い感じがする点。いくら心の「朝礼」でも、「石塀」を見つめたり、「一台も居ないパーキング」を見つめたり、やっぱり一定の「行為」を伴っているから、朝礼と言うか儀式といいうるわけで。儀式である以上どこかの時点にその始まりがあるはず。それが具体的にどこなのか分かり難い。

或いは別の言い方をすれば、「朝」という言葉の出方として、
内容的に、「朝」と言えば「決意」を固めたり固まったり、そういう場面で出てきている言葉だと思うので、タイトルにあるなら本文から削るか、或いは最初もしくは最後に「朝」という言葉が来る方が、理屈上の、決意との関係ではしっくりくるはず(これから決意を固めるぞ、あるいはここで決意は固まりました、というのを示すための語としての「朝」)。一番まんなからへんで「朝」という語が出てきているのは、語呂の関係とかあるにせよ、如何にも中途半端で、そこで一旦話が切れてしまっているような印象を与えかねないと思う。

でも、違う見方としては、「撤退までの持久」とか「石塀」とか、一瞬暗そうで後ろ向きっぽい語が頭に並んでいるせいで、途中の「朝」とか、最後の決意の凛とした感じが引き立っているようなころもあるような気がする。例えば冒頭から「朝」で最初から最後まで凛としてさわやかだったら、大して面白くなかったかもしれない。じゃあ最後に「朝」を入れればいいのかというと、例えば

朝が来た
力尽きるまで
ひとりで立っていよ

といわれても、何か合わない感じがする。決意は固まっても、実際に仕事をするのはこれからなのだから。朝が来たからで終わったしまったら、やっぱり中途半端になってしまうわけで。
決意と朝を、仕事が終わるまでの間ずっと続くように保たなければならない。そうした意味では、今の形も、暗い語→朝意識を新たに→決意定まる・仕事の終わりまで、と言った感じで、実は上手い具合に仕組まれているのかもしれない。


全体に張り詰めた空気を感じさせて、個人的には、結構好きかも。
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