08/07 15:52
一番絞り
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9786「ひとふさの乳房を」
苦情、苦笑、罵倒、怒号の嵐のなか、[22]のつづき。
大阪にある、その詩の学校に入ってすぐのことだった。
有井いずみさんの作品の合評があった。作品はここにも掲載されている
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9245「水母市」だった。
これまた難解な詩です。
わたしはそれまで現代詩を読んだことがないし、書いたことも無かった。
読み込めるわけがないのだ。
しかし、偉そうに振舞っていた手前、そうそうたるメンバーを前に、いかにもそれらしいことを
言わねばならなかった。
発言の順番が巡ってきて、内心汗をかいているわたしは突如、この作品の助詞に注目した。
それは天啓のひらめき? ともいえる苦肉の策だった。
そして、無知が幸いして口からでまかせを滔滔と並べ立てた。
いまでは何を喋ったかよく覚えてないが、よくもまあ、まるっきりの素人がプロを前にあれだけ
出鱈目をぺらぺら喋れたものだと自分で感心している。
助詞というのはもちろん、「てにをは」(「てにはを」?か)のことだが、この助詞がかれの詩表現を
固く縛っており、ふわふわとした表現が勝手にどこかへとんでいかないように
強引に方向性をもたせようとしている(多分)
ことに注目した。
で、わたしは大勢の前で宣言したのだった。
「かれは、何かわからないけれども、どっちつかずの意識にふたつに引き裂かれており、非常に不安定な
股裂きの精神状態の中にいる」と。
まったくのあてずっぽうだったが、これは詩の批評を離れてある意味的を射ており、少
なからず有井いずみさんの表情を青ざめさせるものがあった。
当時、有井いずみさんは豊川悦司そっくりで、スマートで男らしく、頭はよく、歌は上手いし
踊りはうまいしで
女にモテモテだった。
わたしは大阪の「トヨエツ」にあやかりたいと、かれのあとを金魚の糞のように付いて歩き、
ときどき、といっても二、三回だが酒席を同伴させてもらう栄与にあずかった。
しかし、多分わたしの批評の一撃によって、かれは自らのなかにある女性性にはっきりと目覚めたのである。
この合評のあとから数年してかれはジェンダーであることを表明し、厳しい逆風に耐えて女性になってしまった。
男のなかの男として畏敬し、また、現代最高の詩人として尊敬していた方が、あれまあ、妙齢の女性に
孵ってしまったのだ。
これは、まったく何も気がつかなかったわたしにとっては衝撃だった。
詩からはたしかにそういう分離を感じてはいたが、まさか、だった。
翻って思うと彼女のかつての詩にはそういう個的な肉体と精神の相克という主題がいつも
精神の破綻の瀬戸際に危うく存在していたのだ。
そういう位置からあらためて「ひとふさの乳房を」を読むと、やはり「生理」と「ことば」の綱引きが
相変わらず行われており、しかし、とうとう彼女の詩のコトバは書き手から離れてゆくのだなと
感慨深いものがある。
つまりこの詩は、書き手の、かの詩のコトバとのお別れの歌ではないかと思われる。
(続く)