2016 04/04 09:29
るるりら
この作品は どこをどのように読んでも実際にお父様を亡くされた梓ゆいさんの実体験に もとずくものであることは間違えないだろうと思いながら読みました。
わたし自身も 父を亡くしておりまして わたしもその時に詩を書いています。わたしのときは 拙詩へ感想をくれた心ある詩友に対して あろうことか 良くない感情のぶつけ方をしてしまいました。その後 大変後悔し、私の感情の激しさに 耐えてくれた その詩友に対して 今も言葉ではいえない尊敬を感じているところです。
さて、このスレットのルールは 投稿者が批評者に対して意見を述べないというルールです。
わたし自身の不幸の際にしてしまった詩友に対する失礼を想うと、書いて良いものかどうかと迷いました。わたしだったら些細な反応がとても嫌でした。だから、つい梓ゆいさんは 大丈夫なのだろうかと心配せずにはいられません。
ただ作品投稿者は何も言えないという通常のネットコミュニケーションルールではない場所である このスレットに投稿したお気持ちは、詩に対する真摯なお気持ちだからこそであり、ただただ参加者の意見を受け取るお気持ちだと思います。だから私も私のできるかぎりの批評をもって応えさせていただこうと思います。
まずは、【題名について】(題名:例え話。)
題名が詩文と 合ってないと思いました。
たとえ話とは、複雑で分かりにくい内容を、比喩 によって具体的なものの話に置き換えたりして分かりやすく説明するお話のことですが、この詩は例え話なのだろうかと 首をひねりました。
例え話というからには、事実ではない表現で なにかを比喩しているはずなのですが、詩文のすべてが事実を列挙しておられるように 私には読めてしまうのです。
唯一、ここは比喩であろうと思えるのは 三連目の猿の群れの部分のみです。その箇所が、作者のもっとも言いたいことであるとは 思えないのです。だから、題名にこの題名を選んでおられるお気持ちが私には解りませんでした。
では この詩にふさわしい題名は、どのような題名かを考えてみました。「父の顔」という題名はいかがでしょうか?というのは高村光太郎も父の死に際しての詩を書いているのです。高村光太郎のその詩は梓ゆいさんの心の もっとも深くナイーブな部分に寄り添える友となりえるような詩のような気がします。
父の顔 高村光太郎
父の顔を粘土(どろ)にてつくれば
かはたれ時の窓の下に
父の顔の悲しくさびしや
どこか似てゐるわが顔のおもかげは
うす気味わろきまでに理法のおそろしく
わが魂の老いさき、まざまざと
姿に出でし思ひもかけぬおどろき
わがこころは怖いもの見たさに
その眼を見、その額の皺を見る
つくられし父の顔は
魚類のごとくふかく黙すれど
あはれ痛ましき過ぎし日を語る
そは鋼鉄の暗き叫びにして
又西の国にて見たる「ハムレット」の亡霊の声か
怨嗟(ゑんさ)なけれど身をきるひびきは
爪にしみ入りて瘭疽(ひやうそう)の如くうづく
父の顔を粘土にて作れば
かはたれ時の窓の下に
あやしき血すぢのささやく声……
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以上で引用終わり
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光太郎は、彫刻家でもあるので造形物を造る人独自の感覚があるのですが、
梓ゆいさんのこの詩の場合は 「匂い」に対する気づきがあるところが、凄いと一連目を読んだときに感じました。とても動物的な感覚で死を捉えようとしておられる。
だからこの詩には猿がでてくるのでしょうか?
この詩の題名は「例え話。」です。猿でたとえで なにを表現されようとしておられるのだろう。
お父さまは 亡くなられ 身体が失われたので笑顔も見せてはくれないかもしれない。
けれど、人が笑うとき 梓ゆいさんが笑顔になっておられるとき、お父さまも笑っておられる気が私は します。