生贄合評スレ[365]
2016 04/04 20:14
高橋良幸

 自分がどれくらいの日程感で書いていたか思い出そうとして過去ログを見ていたら、丘 光平さんが退会されていたことに気づきました。丘さんのスタイルは好みだったので残念です。

例え話。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=316622
 このような詩について述べることについて思うことはありますが、私もそこは割り切って書いている旨ご承知おきください。

<1>
 一読後にまず考える必要があるのはタイトルの「例え話。」とこの詩の内容の関係性だと思います。このタイトルはこの詩に暗喩がある、というメッセージだと思ったので私はそれを探しました。可能性の大きなパターンとして2つあるのではないかと思います。それは「猿たちの群れ」が何かの例えである場合とこの詩全体(父が死んだこと)が何かの例えである場合です。しかし、「猿たちの群れ」は「猿」になっている以上は割とどうでもいい存在でしょう。ステージに上がった時に観客をジャガイモだと思うのと同じことで、何かが「猿」になっていても大したことではない。そうするとこの詩全体が例え話である(そうではなく見えても)ということを考えざるをえません。しかし、そうは読めない。「例えば父が死んだとして、」ということが書かれているわけではない。なので、私はここで関係性を考えることを諦めました。

<2>
気になる言葉について述べたいと思います。
◆1連目
>(冷たい・硬い・重たい・臭い)
>別れを告げた父を表す
>最後の姿だ。
「姿」は名詞で、()内はいずれも形容詞です。この連を簡単に言うと「冷たい」=「父を表す姿だ。」となり、形容詞が「姿」だ、と読めますので違和感がありました。この表現が意図的なもので無いのであれば修正するべきだと思います。
「表す」という言葉が余計なので、

*(冷たい・硬い・重たい・臭い)
*別れを告げた最後の父の姿だ。

のように形容詞が全て「父の姿」にかかる構成にするべきだと思います。

◆2連目
>私は離れたくは無かったのだが
>参列者の手前
>抵抗するわけにも行かず
>黙って棺のあとを追う。

「離れたくは無かったのだが」->「棺のあとを追う」という表現に若干混乱しました。離れることと追うことは逆の方向に向かう言葉だからですが、それを効果的に言うのであれば「追っても離れてしまう」というふうに書いた方がいいのではないでしょうか。
たとえば、

*あとを追っても父は大きな瞳の向こう側に行ってしまう、私は離れたくなかったのに参列者のところまで引き返した

のように書いた方が親切ではないかと思います。ちなみにここで「大きな瞳」をだしたのは、これが火葬場の扉が並んでることの形容だったのではないか、とふと思ったからです。そうすると<1>で探していた例え話はここで見つけたような気がしますが、それだけでタイトルにまでするには弱い気もします。「火葬場の猿」のようなタイトルでもいいのかもしれません。

◆3連目
山のへりは、あの世に続く火葬場の壁の麓で、立ち並ぶ火葬場の扉の丸い印が猿の目玉のようだ、という表現に受け取りました。もしそうであれば、山と猿について少しそうとわかる(猿が死者の言葉を話すのでも、なんでも)説明を加えればいい表現だと思いました。

◆4連目
会話文に鉤括弧を使っているのが流れを悪くしていると思います。鉤括弧はとってしまってもいいのではないでしょうか。鉤括弧が流れを悪くする原因の一つは、読んでいるときに鉤括弧の話者を無意識に同定する必要があるためだと思います。それが効果的な場合もあるとは思いますが、ここでは回想での会話であることを考えると効果的でないように思います。ただし、父の実体をそこに表したいのであれば鉤括弧の置き方をもう少し工夫してもいいのかなと思います。
句点をとるだけでも流れがある程度すっきりするかもしれません。肉声感が薄れると思うからです。
前回の「麦藁帽子。」で使用されているぐらいの量であればそれほど気になりませんでした。

◆5、6連目
>「父はもう、嬉しそうに笑わない。」
自分への言い聞かせ、もしくは事実を自分から引き離した定義文として書かれているのでしょうか。詩の地の文は作者の言葉であることがほとんどであると思いますが、ここはその地の文に作者の言葉と思われる台詞が鉤括弧で上乗せされています。それはここだけ作者の言葉が構造的に厚みを持つということになりますが、どうもこの書き方はこの台詞を言わされているようで私は好みではありませんでした。そうであるからこそこの文は表現として効果を持っているのかもしれませんが、その厚みに至る5連目の駆け上がりが足りないように感じました。
以上です。
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