生贄合評スレ[354]
2016 01/21 12:01
るるりら

タイトル:静物 -nature morte-
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=310904




副題の- nature morte -についてですが、フランスでは静物画のことをnature morteというようですね、直訳すると「死んでいる自然」と検索ではでてきました。

この詩の構成についてですが、最後の連以外すすべての連の冒頭は かならず否定形で書かれています。
一連目 ぼくが告げるまで 言葉はなかった
二連目 あれは雨ではなく
三連目 きみの手で受けとるまで 目を閉じてはいけない
四連目 あれは小鳥たちではなく
五連目 おそれが失せるまで 触れなかったのだ
六連目  これは銀のピストルではなく


ほとんど全文にわたって否定の形で強調する形をとっておられます。
特に なにも詩文のない冒頭の一行から、否定形です。そのことによって
読者は下記のように 思うことでしょう。

一行目 つまり この一行目以降は 言葉が有るということですよね。
二行目 否定するけど つまり雨であることを表現していますよね。
三連目 目は開けられているので、生きているということですよね。
四行目 鳥がいるのですね。
五連目 つまり 何かに触れているのですね。
六連目 ピストルがあるのですね。

おそらく、これらの表現によって作者は 話者の動揺を表現しようとしていると 思いました。
静物画で良く用いられる果物や死んだ生き物のイメージやナイフやこの詩の場合はピストルなどのガジェットは 中世以降静物画で良く描かれてきたモノです。それらのガジェットによって 中世でも もののあわれを表現されてきました。ヨーロッパでも日本でも 飽食のあとの時代くらいに もののあわれとも言えそうな一種の感慨のこのような芸術が 流行したようです。

この詩は、そのころに 絵画や劇が行おうとしたことを 辿っているような気が 私は いたしました。
最後の締め方も 詩という枠の中で行われた劇中劇のような印象を持ちました。
ほぼ全行にわたる否定表現によって 読者に映像をみせようという方法も 
劇ではありそうです。

たとえば、ベルサイユの薔薇という名作がありますが、あの内容を アレンジした劇などのセリフとして、
この詩は ふさわしいように個人的には感じました。
別の言い方をするなら この詩には演者がほしいと思いました。

>ぼくのひかりが奪われるまで 冬を開けてはいけない 
つまり、話者は 瀕死の状態を示している。
おそらく瀕死だから 冒頭で ながい沈黙があったのでありましょう。
たぶん死ぬ前になって はじめて 美しいものを観ようとする心境を得たということなのでありましょう。
この詩は  瀕死の状態の話者が誰かに やさしく看取られて やっと とても美しい心境を得るという詩だと思いました。

だれかが死に接することと向き合う人間の心境は、あらんかぎりの情報 つまりほんとうに死にそうなのか
顔色はどうかとか まわりの人間は 切なる おもいで情報収集するのが普通だと思います。
ところが この詩編は 題名からして静物画という形骸化された形です。

一遍の詩編として独立して 人々の心をうごかすには、リアリティが無くて共感をよびにくいと感じました。
最後の連の赤い実は、血液を比喩していると思いました。そう考えるとなおのこと劇みたいです。
なので、演じ者が もしおれば この詩は魅力的だろうなと思います。
スレッドへ