2016 04/17 08:12
高橋良幸
コーヒースレッド密かに読んでます。所用で東京にいるのですが、なかなか好みのコーヒー豆を置いてる店に出会えずにいます。札幌では近所にとてもいい匂いのするエチオピアを売っている店があるのですが(あと、函館にもあるのですが・・・)。
それと、鈴木海飛さんのアイデアいいですね。
>>369
そういう構成の場合、(臭い)はそのまま5連目にかかると思うのですが、
・いい香りのするもの、ラップをして臭わないものを「臭い」と言うこと
・亡くなってしまった人間の存在を「在る」と感じること
これらを対比して書けそうな気もしました。
線路を隔てた迷子
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=314313
<1>
一読して、全体的に説明的すぎると思いました。そして、頭の中だけで組み立てられているように思いました。
「駅員不在のことも多い駅」と言った時点で利用客が少ないのは明らかではないでしょうか。「乗客の少ない」「駅員不在のことも多い」「少ない駅の利用客の全員」、これらは言葉を余計に費やしているように思いました。また、詩の情景描写にも寄与していないと感じました。迷子の孤独にとっては、知らない人がいくらいてもいなくても、さほど変わらないのではないでしょうか(これは5連目から推測されることです)。人の疎さはあまり詳述せず、できれば別の無機質なものなどで利用客の少なさを表していた方が良かったのではないかと思います。大きな駅と小さな駅を比較して、小さな駅にしか無いものなどで。
説明的すぎることはイメージを硬直させてしまうことにもなりかねないと思います。「モノクロームの静寂」は例えば「黄色いバナナ」と言っているのに等しくはないでしょうか。「静寂」だけの方がむしろ静寂な感じを受けると思いました。「黄色いバナナ」が実際には青い部分も黒い部分もあるバナナを単一色のイメージで想起させようとするように、「モノクローム」で修飾された「静寂」は静寂のしんとした音もなくしてしまう気がしました。
また、
・「所々『ママ』『ママ』の混じった」声
・「ほぼ聞き取れない」声
・泣きながらの声
これらは正確な描写になるのかもしれませんが、一息に言ってしまう必要はないと思います。上記3つを順に感じたのならその順を追って書くべきだと思いますし、一度に感じたのならそれを簡単に言える言葉を探すべきだと思います。さらに言えば、何かが「モノクロームの静寂を裂」いてきてからこれらを認識するのだと思うのですが、その観察の過程が不明のまま「モノクロームの静寂を裂く」につながるため、この描写が作り物である感じを受けてしまいます。
詩の後半にある駅員の作業内容にしても、この詩の主題にとっては些細なことではないでしょうか。ほかにも、電車が私の乗るべきものならそのことを書かなくてもいいと思います。枝葉はあるが幹が無い、といった印象でした。枝葉を書くよりも、幹の影が枝葉に投影された言葉が多い方が良かったのではないかと思いました。その言葉は説明的でなくて良いはずです。
私は作者コメントに書かれている「子供が幸せにみえた」という作者の印象をこの詩から感じることができませんでした。
<2>
迷子の子が静寂を裂くことで、それまでとその後とでは周囲のあり方はかなり変わっているはずだと思います。いかがでしょうか。それまでは「静寂」で「乗客の少ない」イメージだった駅が、静寂が裂かれたあと、迷子の子をかばう乗客の「ざわめき」と、また、気にかける乗客それぞれの「存在」とで、異なるイメージのものに変わっているはずです。迷子側から見た安心を与えてくれる人間の数にも変化があるはずです。しかしそれが詩に明確に現れることなく、淡々と書いてしまっているところも私には頭の中だけで組み立てられているように見えました。その点がもったいないと思いました。<1>で情景描写に寄与していない、と思った理由の一つかもしれません。
そして、一番悪い部分は「言葉を 声を 私は持てただろうか」という自問です。この自問自体が悪いわけでは無いですが、置かれている場所が非常に悪いと思います。なぜなら、ここまで読んできて頭の中だけで組み立てられている印象が強まっているところに置かれているこの自問は、ただ飾りとして置かれていて、本当に自分には問いかけていないように見えてしまうからです。その次の連にある回想がその自問に対する考察を含んだものであればその印象は和らぐのですが、回想で終わっており「安心させるような言葉」もでてこないため、自問が宙に浮いてしまっているように思えました。
以上です。