放課後の家族
吉岡ペペロ

初めてってなんだろう。
わたしの父は、父を初めてしているような感じのひとだった。人生を初めて経験しているようなひとだった。
わたしだってそうだ。小学校の頃、いつもふしぎに思っていた。放課後はまいにち来るのに、わたしがわたしをやるのは初めてで、それもたった一回だけなんだ。

掃除当番が当番どうしでもめている。わたしは淋しくなる。教室のカーテンが風に揺られる。もめごとがいつの間にかおさまっている。淋しくなっているのはわたしだけ。なんだって言うんだ。みんな人生初めてみたい。

子供に言うことだろうか。
「浮気するようなおとことだけは結婚したらだめよ」
母はわたしになん十回もひょっとしたらなん百回もそう言った。アイロンをかけているときも、ねぎを刻んでいるときも、わたしが靴下をはいているときも。
わたしはそのたびに目が動かなくなる。寝るまでそのままだ。目が動かなくなると手もとまってしまう。だからわたしは小学校の頃宿題をやったことがなかった。

放課後がやってくる。帰り道、わたしは放課後といっしょにあるいている。たとえばあじさいをみつける。
あじさいはいつもマイクのように見えた。芸能人や有名人に向けられるマイクのように見えた。それがなんだか唐突で華やかで、楽しい気持ちになる。その楽しさには光が射していたり、影が落ちていたりしている。
まいにち来るおなじ放課後。なのに、わたしはまざりあう光や影にいちいち戸惑っていた。わたしも人生初めてだったから。

母はいまだに父から、「おとこが浮気するのは仕方がない」と言われたことにイラついている。
父は芸能もやってるけれどなにをやっているのかよくわからない会社で働いていた。週に一度しか家に帰って来なかった。弟は父とよく将棋をさしていた。将棋には興味がなかったけれどわたしは横からそれを見ていた。弟がそのことを書いた作文を父が破いたことがあった。
わたしたちに現状を説明するより破くほうがマシだったのだ。

父はいちどだけ母の代わりに参観日に来たことがある。廊下から教室のわたしに向かって大声で名前を呼んで手を振った。弟にもそうしたのだろうか。友達がくすくすと笑った。恥ずかしすぎてしんどかった。
週一くらいしか家に帰って来なかったし、帰って来てもひどく酔っぱらっているのが嫌だった。
父は羽振りがよかったのかも知れないけれど、家にはお金を入れていなかったから母がパートで働いて工面していた。カードの履歴で家具を買ってたと母が言ってたから他に家があったのだろう。

わたしは家に帰ると、友達の家にいったり探検や鬼ごっこをして外で遊んだ。
母はわたしが友達を家に連れてくることを禁じていた。弟が小学生になると、わたしが遊びに出かけるようなとき弟も連れていくように母は言った。友達に対してなんだか恥ずかしかったけれど、みんな弟を可愛がっていっしょに遊んでくれた。
そのわりに母はわたしの友達についてうるさかった。あそこの親は性格がわるいから、水商売をしているから、その子供も良くない子だから遊ばないように言ってきた。わたしはその子たちが好きだったから、遊んだ。

父の職場にいちどだけ行ったことがある。母が父にわたしを連れていくように言ったからだった。理由はおぼえていない。おぼえていないけれど父の監視みたいなことだったような気がする。
職場事務所には音楽スタジオがあった。父は知らない演歌歌手のマネジャーをしているらしかった。でも会社は芸能がメインではないような感じだった。
その会社がしている喫茶店でわたしはメロンソーダを飲んだ。横のテーブルでは父が演歌歌手と打ち合わせをしている。喫茶店では3人くらいたぶん20代くらいの女のひとが働いていて、3人でひそひそ話している。わたしは父の娘ということで視線を浴びていた。しんどかった。

あの頃わたしは憂鬱だった。友達や勉強が理由だったのではなくて、父や母が理由だったような気がする。
そう言えばふしぎなことがあった。
わたしは学校からの帰り道、田んぼ道を通って近道していた。真夏で雨の日だった。
向こうから真夏なのにスタジャンを着た男のひとがあるいてきた。すれちがって人気のない細い道にさしかかったとき持っていた傘が吹っ飛んだ。口をふさがれ道横の空き地に引きずられて投げ倒された。
さっきの男のひとだった。叫ぼうとしたら少しも声がでなかった。男がわたしのお腹をげんこつで殴っていた。でもまるで触れていないかのように痛くなかった。
男を見つめていると男が逃げていった。わたしは起き上がってダッシュで家に向かった。途中駄菓子屋さんのおばちゃんが泥だらけのわたしにどうしたのと声をかけてきた。「転んじゃって」と笑顔をつくってまた家に急いだ。母にも「転んじゃって」とうそをついた。

その夜わたしは高熱をだした。いつもは弟と寝ていたけれど母が心配してわたしは母の寝室で寝かされていた。
夜中目がさめて横を見ると母がいなかった。リビングから父のくぐもった声が聞こえて、母が泣いているような声もした。
わたしはふらふらと立ち上がってカーテンをあけた。
母の寝室から見る外の夜は初めてだった。外にはまばらな竹やぶがあってその向こうには平屋のちいさな家があった。平屋には窓があって部屋明りがもれている。人影はなかったけれど壁に絵がかけられているのが見えた。

つぎの日わたしは学校を休んだ。朝早く父と母はけんかをしながら家をでた。
父の会社が倒産した。父は保証人になっていて借金を背負い、父と母は父の両親にお金を借りに行ったというのは後で母から聞いた話だ。
わたしはきのうの男のひとが家にやってきはしないか怖かった。だから弟にも学校を休んでもらうことにした。
弟にはきのうあったことを話した。弟に話しながら、男のひとにげんこつで殴られても痛くなかったことがふしぎに思えてきた。お腹には痛みもなんの跡もなかった。
だれかに、なにものかに、わたしは護られてでもいたのだろうか。

弟はひますぎてわたしの寝ている横にごろんして漫画を読んでいた。
「窓から竹やぶが見えるでしょ」
きのうの夜初めて見た母の寝室からの外の様子を思い出して弟に聞いてみた。
「竹やぶ?」
弟が立ち上がって窓を見る。
「生け垣しかないよ」
弟が少し揺れながらあたりを見回した。
「ちいさなおうちがあるでしょ」
わたしは熱でしんどくてめんどくさいなと思った。
「そんなの知らないよ」
弟はそう言ってまた寝転んで漫画を読み出した。
「うそ」と言ってわたしはふらふらと起き上がった。外を見た。生け垣いがいなにも見えなかった。
「……ない」わたしは絶句した。竹やぶもなかった。もちろん平屋もなかった。でもちいさな家の窓明かりを見ながら父と母の話し声をたしかに聞いていた。
「お姉ちゃんおかしいよ。きのう殴られたのだって幻じゃないの」
そう言われて熱がひいていくのがわかった。なにかがわたしのまわりでうごめいている。こんな感じ初めてだ。

父と母が暗くなっても戻ってこなかった。こんなことは今までいちどもなかった。
初めてってふしぎなことなんだ。熱もひいて元気を取り戻していたわたしはいちにちそんなことを思っていた。初めてはいっぱいある。二回目だって二回目としては一回目だ。初めてってとまどうことばかり。とまどうことってふしぎなことばかり。
きょうは弟も学校を休んでいたから朝から放課後気分だった。ゆうべからの熱もひいていた。真夏ではあったけれど部屋にさす光がなんだか涼やかだった。

夜7時をすぎても父と母は戻ってこなかった。電話いっぽんもなかった。どこでなにをしているのだろう。二人して朝早く出かけるのだからわたしたちにとっても深刻なことなのだろう。
父と母は用事のなかみをなにも言わないで家をでた。
でもわたしだってきのう男のひとに殴られたのを「転んじゃって」とうそをついた。ほんとうのことなんかいちいち言う必要ないのだ。ちいさな家のことだって、弟に「ほんとにほんとに見たんだから」とは主張しなかった。

夜8時をすぎてふと思い立って弟に駅まで行こうと言った。弟は素直についてきた。
駅の改札はあの頃まだちいさくて蛍光灯はたくさんついているけれど薄暗かった。
その夜は涼しかった。弟のうでがたまにわたしの腕にふれてくる。弟の心細さが伝わってくる。
改札からまばらに出てくるひとはいろんな顔をしてわたしたちをちらっと見てはよけていった。改札をでるとみんなのいつもの帰り道。そこにわたしと弟が障害物のように立っていた。
一時間くらいして父と母が改札から出てきた。
母はイラついていた。父は心が遠くにあるみたいで抜け殻ぽかった。
4人で帰り道をあるいた。みんな無言だった。でもそれぞれが考えごとをしているようだった。弟もなにか考えごとをしているようだった。抜け殻だった父も唇を軽く噛んであるいていた。いやなことがあった放課後の帰り道みたいだ。
4人いっしょに家に帰るのなんて久しぶりだった。動物園、映画、デパート、遊園地、お食事、父が週一になるまえはなんども駅からみんなで帰った。でも数えられそうなぐらいの回数のような気もした。きょうはなんかいめだろう。なんかいめであろうと、初めてだと思った。
わたしは初めてならそうすることがふさわしいとひらめいて、きのうあったふたつのふしぎなことを父と母に話しはじめた。







自由詩 放課後の家族 Copyright 吉岡ペペロ 2015-10-22 08:26:06
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