生贄合評スレ[358]
2016 02/02 08:27
高橋良幸

暗くなるまで待って
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=313439

<1>
詩だと提出されているものに対して、これは詩ではないとあまり言いたくはないですが、以前読んだときの印象もそうでしたし、今回再読してもこれは(私にとっては)詩ではないと思えるので、今回はなぜ詩ではないのかを述べたいと思います。

<2>
これは詩ではないと言うときには、詩の定義が必要です。
「批評の生理/谷川俊太郎・大岡信著(思潮社)」p24に大岡氏の発言で、
>詩というものは単に或る瞬間の感情の定着ではなくて、多くの体験をずうっと蒸留していった末に一行だけ書かれるような種類のものだ、ということをリルケが言ってるもんで、
とあります。この定義は結構好きなので、これを使いたいと思います。
「暗くなるまで待って」はこの言葉を借りるならば「単に或る瞬間の感情の定着」が羅列されているだけに思えます。なぜなら、作者の視点のままで、時間の次元に沿ってことがらが述べられており、日記やエッセイの域を出ていないと思うからです。(これは蛇足ですが、日記やエッセイ【だから】詩ではないと言っているのではありません。ミスプリントにでさえ詩を見ることもあるようですし(KETIPAさん「【HHM2参加作品】すべてはネット詩に回収され、しかしここはまだ砂漠だ」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288298 )、日記が詩になることもあると思います。)
博物館の場面、夢の場面、夜を歩く場面。これらは一見だんだんと蒸留されていくように見えますが、それぞれの場面での思いが述べられているだけで、前後の因果関係はあっても、記述されているものそれ自体は蒸留されたそのものではないように思えました。

しかし、そんなことは散文詩全般に言えてしまうのではないか、という気も少ししてきます。そこで、そうではない、という点についても述べておきたいと思います。散文調の詩で、私が詩だと思ったものは例えば
馬野ミキさん「金(キム)」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62375
吉岡ペペロさん「放課後の家族」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=311622
などです。「金(キム)」は行わけで書いてありますが「なぜ散文カテゴリに投稿しなかったのか」というコメントがあります。つまり、これらを詩ではないと判定する読者もいる、ということでしょう。そのような人にはこれらの詩が、私が「暗くなるまで待って」に対して思ったのと同じように、「或る瞬間の感情の定着」が羅列されているようにみえるかもしれません。しかし詩である、と受け取る人間にとっては、そこに記述されている「体験」は「多くの体験」を蒸留させたもの、言い換えれば多世界解釈的に重ね合わされた叙述可能なあらゆるバージョンの場面を、詩を目指して収束させたように見えるのではないかと思います。そして、その中には読者の日常体験が蒸留された時におなじ記述となる場面も含まれており、それが読者に詩情をもたらすはずだと思います。
翻って、「暗くなるまで待って」は「詩と象徴」と題された散文をもとに構成されており、先にそれを読んだ印象もあるかもしれませんが、作者のペースで作者の語りがなされている印象が強く、これが共感を呼びづらい原因になっていると思います。以上です。
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