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大村です。いとうさんへ横レス。批評でもなんでも無いんですが。 #俺って結構まじめなんだよ オレ、キャバクラでこのセリフ言った事あります。(悶) 説得力全くナシ。(悶々) 向こうにすりゃ「帰ってくれ」だったんだろーなー。(汗) 男が口にする以上に、女はいつだってマジメだと思う。相手に対しては。 だってしまいにゃ入れなきゃなんないんだから。(もろ) ま、「冷める」ってな現場としては、こういうもんでしょう。 内田春菊がよくやるイヤ〜な描写を、連想してみたりして。(笑) あと発言の流れを見ていて思ったのは、得点するにしろ批評するにしろ、 ネットでは扱い易い作品のほうにコメントが集まるものだという事。 なんだか皆んなラクしてるなァ、と思う。 でなきゃ「樽の中の魚を撃つようなもんね」みたいな。(<ルーシー・ヴァンペルト) 下向きに撃ってる奴ばっかって感じがする。 薄っぺらになるのは、作品の本質に沿った批評が出来てないからで、 それはむしろ批評する側の能力不足だと思うよ。 それに批評するなら大向こうを相手にしなきゃ。詩の世界の問題解決にゃなるまい。 それで説得力あるものが書けたなら、その人は大したもんだと思うけどね。 by 大村 浩一 斯界の最後の希望の星と敬愛するポエム王子こと大村兄。 兄が別段このスレッドのこれまでの展開のみを指して「ラクしてる」と賜っておられるのではないことを、敢えて承知の上で申し上げます。 これまでの展開ですが、言いだしっぺの俺としてはまさかここまで「豊かな」議論になろうとは、想像だにしてませんでしたぜ?少なくとも俺が顔出してる同人誌の合評会だって、ここまでこの詩に豊かな内実を吹き込んで見せる試みができたかどうかは疑問だし(いや、大体、俺が出入りしてる同人誌のレベルがどうだ、とか、こんな詩が同人誌に載ってるのだとしたらその同人間の見識がどうなんだとか、いろいろ突っ込みどころもあるでしょうがね)確かに「扱いやすい」詩であったことは認めるし、ここで今まさに展開されてるのが「大向こう」を唸らせたり「詩の世界の問題」を解決するにはそもそもの構造上から無理のある「印象批評」であることも承知の上で、それでも俺は兄に申し上げたい、俺たちは別段「大向こう」のためだとか、「詩の世界の問題」のためにここにいて、詩を書いたり読んだりしているのではないのです。そりゃあ確かにそういう問題が重大じゃないとは申し上げますまい。フォーラムに身を置かれながらもそれらの問題のために日夜心を砕かれている御仁もまったくいませんとも申し上げますまい。はたまた、正直に申し上げれば俺自身が投稿される一つ一つの詩に苛立つことも、フォーラム内で得票が集まる詩の傾向からそれが決して大向こうを唸らせるベクトルを持ちえていないことに舌打ちすることも、まま、あるのはまごうかたなき事実ではありますが、それでも、現象としてのネット詩、相対としてのネット詩に、かくあるべきだという箍をはめ込む気には、俺はどうしてもなれないのです。 by 山田せばすちゃん >※くん ・・・ったく、俺が自スレで「白糸スレッド行け」って連呼してるのなんて誰が見たって冗談に決まってるだろうが(苦笑) そんなもん真に受けて俺のスレッドのごたごたを人様の立てたスレッドまで持ち込むんじゃないよ、公私の区別のつかないやつだな、まったく。みっともないからやめなさいよ、こういうの。 俺は、大根斬りスレッド上で、「この手の書き込み」=「論理的に回答する気がない書き逃げ」に関しては適宜削除すること「も」ありますと書いただけで、お前さんみたいに人の発言徹頭徹尾削除=排除するつもりはないんだ、なにが「禁止されています」だ、禁止してるのは君自身なのに、まるで公平な第三者がそうしているかのような書き方だよな。 俺は逃げも隠れもしないから文句があるなら大根斬りスレッドに来い。二度とこの手の書き込みで人様に迷惑かけるような真似はするな。 >白糸様、ならびに当スレッドにお立ち寄りの皆様 俺の不徳のいたすところとはいえ、スレッド趣旨になんら関わりのない書き込みでお目を汚しましたこと、深く深くお詫び申し上げます。まことに申し訳ありませんでした。 by 山田せばすちゃん ※くんへ いい加減にしないと本当に信用失うぞ、俺のスレッドだと書き込み削除されるからいやだ、というんなら、雑談スレッド来いよ。このスレッドは実際批評が行われるべき現場であって批評そのものの総論をやるべき場ではないんだから。 by 山田せばすちゃん >23 >ここから具体的な作品分析に入るにしてもこの前振りだけで読む >気がなくなっちゃいますよ。 いや、それはそうでしょう。あなたのご指摘のとおりです。 わたしも昨夜はビールを相当数飲んでいてちょっとつまらないことを書いたと 反省している。 でも、 べつに弁解するわけじゃなくてね、わたしのようなズブの素人が現代詩の最先端と渡り合える可能性を しこしこ試みるってのが、他のズブの素人のひとにとっても大事なんであって、 現代詩が一握りの言語ゲームに達者な人たちのものである限り 現代詩はますます狭い場所に嵌ってゆくんじゃないかという思いがあるわけだ。 だから、ズブの素人であるわたしがこのような最先端の作品を批評する場合、数学で言えば 高等数学を微分積分みたいなレベルに解体し、 さらにそれを連立方程式に変換してから、いわゆる掛け算足し算のレベルに広げて語る ということが大事だし、それによってズブの素人であるわたしには得るものもあるわけだ。 わたしにとっては批評とは、どこぞのえらい人がやるような高等数学的なやり方がすべてではなくて ズブの素人にもできるさまざまな可能性を試してみたいと思ってやっている。 高等数学の公式で、さっと解ける問題を、 足し算引き算レベルで長々とやられると見苦しい点もあるかもしれない。 それは申し訳ないが、ま、ここはスレッドオペさんもいうように様々な試みを許してくれているので 長い目でなんとかよろしく頼みます。 by 一番絞り ボルカさん、僕は、実際かつて有井さん見たこともしゃべったこともあるけど、作品に対する姿勢はきびしかったー! 一番搾りさんのいうように、かっこいいかった。でもガハハしたりもして不思議な人だった。 ここは、批評をするところだから、これぐらいにして。 一見肉感的にみえて、タッチは繊細で淡い。抽象と具体の微妙なあわいを描いてるけど、実は、一貫して、分裂よりは、葛藤や対象への戸惑いを痛みを描く、関係性の詩ではないだろうか?彼の生を賭けた… by 石川和広 石川和広さん >同じ穴の狢なので、平行線をたどるの当たり前だよ。対話不成立! ぼくはこういう断定がよくわからんのですよ。 あなたとだれとの間の対話が不成立なんですか? 他人のあいだに対話が成立しているかどうか、そんなことを第三者が断定するのは 余計なことじゃないでしょうか。 というのは、じつはわたしは※さんと山田さんの間には、なごやかな対話はそりゃ無いけど 底流には関係修復を求めて対話を交わしているのだなと思えるところがあるのです。 確かに、山田さんは「つばをかけてやる」と※さんに発言し、※さんはそれに対して当然の 感情的反応を返した。 しかし、もしもほんとうに山田さんが※さんを相手にしたくないのなら、詩の批評をしたりしない。 それも※さんにとって一番程度の悪い詩をわざわざ選んで批評するというのは、逆に言えば 相手の感情を逆撫でして関心を向けさせる所業でしょう。関心があるのですよ。 また※さんも、もう山田さんに関心がないのならいちはやくその批評に反応はしたりしない。 そこには底流になんらかの修復を求める動きがあったのだと思う。 だから、なんだかんだといいながら、わたしは両者のやりとりを微笑ましく眺めていた。 対話というのはなあなあムードで、予定調和的になごやかに進むものばかりが対話とは限らない。 現にわたしは山田の大根斬りでしつこくボルカさんらに、からまれている。 わたしもそれなりに、からみ返している。 傍目から見ればなんて低劣なやり取りをしているんだろう、と見えるだろう。 しかし、わたしは内心、考えている。 ボルカさんはわたしをクソみそに言いながら、どうしてこうもしつこく関わってくるのだろうか? と。 そこで、じつはかれがわたしにとても関心をもっていることがわかる。 おそらくかれは憎しみと同じくらいにわたしに一種の愛情を抱いているのだろう。 それがわかるから、わたしもそれなりに対応している。これは決して「対話不成立」ではないと思っているからですよ。 対話なんてのはそんな奇麗事ばかりでは済まない事もある。 もしも、和やかムードの対話ばかりが要求されるのだとすれば、そこにはうそが混じることになるだろうと 思う。 話は変わるが、私憤としての批評があるのなら、私憤としての詩作ってのもあるだろう。 一度、そういう詩を書いてみようと思っている。 by 一番絞り >でも、わざわざ喧嘩腰になる必要もないのでは、と思います。[55]ミント ミントさん、このご発言、よく承りました。 たしか羊羹なんか作るときにも、少し塩を入れますよね。 でも、塩が多すぎると不味い。 隠し味は、ほんの少しがいいのですよね。 ハンセイ。 by 一番絞り さて、詩による批評というものを試みてみよう。それも私憤にもとづく批評詩というものを。(笑) そうだな...表題は「マンドリンのスネカジリ」。(爆笑 マンドリンのスネカジリ 舞台裏からマンドリンのスネカジリ登場 ぽろん〜と楽器を爪弾く ご大! ご大さま! どこにおいでですか、ご大さま! ああ、昏くてよくみえませぬ 昏くてよくみえませぬ 蛍光灯もこれだけ暗ければ世も末 いや、もはや法滅 何も見えませぬ 何も感じられませぬ そうだ! ...テツガクせねば! マンドリンのスネカジリ、ポケットからハイデガーの 『存在と無』を取り出し、膝の上において マンドリンを 「ぽろ〜ん」 谷川シュン太郎 天幕の上より (顔面神経痛に耐えながら) 親のスネカジリ、いや七光りでこの壇上に出現したおれは おまえらミツバチもどきどもの運ぶ養分を食らって もはや単純に詩人なんかぁーじゃないのだ だれにも届かぬところへ押し上げられ変容してしまった このおれを それでもけなすものがこの世ににいるとは おもしろい! おもしろいことだ! マンドリンのスネカジリのマンドリン、舞台の板張りに落ち マンドリンのスネカジリの頭が天に向かって仰がれるや ぼるカ、四輪車のオモチャに乗って横手より現れる 「ぶー」 黙らせたいんだ 夜もおちおち眠れんのよ 許せないなんだ あんな愚劣な詩論の持ち主がぬけぬけとあなた様の悪口をいい ぬけぬけと詩の批評なんかするなんて どうしても許せないんだ これは 詩への冒涜です だからつきまとってやるんだ 消してやる きっと ぼくのディスプレイの液晶画面上から あいつを ぼるカ 「ぶー」と去る 一番絞りを捕まえた〜♪ 一番絞りを捕まえた〜♪ お初、舞台右手より登場。 《シュン太郎さま、詩に神さま、ついにこのアホを捕まえました》 マンドリンのスネカジリ、瞠目する さっそくマンドリンを構えて 「ぽろ〜ん」 《ハイデッガーも理解できぬ無学なアホが〜 ご大さまの悪口をいいふらすなんて〜 気の利いた返事のひとつも〜 返せぬ間ぬけが! 一番絞りにやにやしている お初、にじりより、にじりより、一番絞りのほおをハッシと打ち 《世間様に歯向かって 世間様に背を向けて 世間様を嘲笑って それでおまえはまだ詩を書こうってのかい! このトウヘンボク! この成り上がり! この世間知らず! この大甘ちゃん! 詩はおまえのような 詩はおまえのような ノータリンのアホがやるもんじゃーないのよっ! さあ世間様にお詫びしな さあ世間様に頭を垂れな 世間様がみとめるご大さまにひれ伏しな 一番絞りにやにやしている 谷川シュン太郎突如顔面神経痛激しく、天井より顔しかめて あいたいたいたー あいたたたたー おれは詩人だ あいたたたたー おれは詩人に間違いないのだー あいたたたー どうしておまえはそれを認めぬ 世間が怖くないのか 世間に媚びる甘味な快楽をしらぬか 権威だぞ 権力だぞ あー、なんだその目は なんだその目は おまえ、ゆるせぬ 殺す たたき出すぞっ! この世から! マンドリンのスネカジリ! こやつにスネをカジる愉悦を説いてやれ! 親のありがたさを説いてやれ! 権威のすごさを説いてやれ! その上でまだわからねば 「まだわからねば?」 追放だ 一番絞り 「あー、つまんねー。出演者がつまらなさすぎる」 「おれはこの舞台、途中で降りるぜ」 谷川シュン太郎 「や〜んぺだと? おいおい、けなすお前がいなければおれはどうなる」 by 一番絞り だから痴話喧嘩だって言ってるじゃん、あ、ここは嘘専用スレッドではなかったか(笑) by 山田せばすちゃん 参照先不明 参照先不明 >>78及び>>82の方、失礼します の引用の二行の間に「詩人のふりはしているが」 という行が入ってました。 あんまり、谷川について、こだわる方がいて、僕もそうかな。 で、議論になっているんだけど、既に、谷川や、それを取り巻く世界 について、語られていて、谷川について、これだけ、「現代詩フオーラム」 で語られているのは、すごいなあと。 谷川はすごいなあ!まだまだ、詩人だねえ。 「詩人のふり」して、「詩人ではない」という作品を書く。 この作品を安易に、詩だと思うなという、概念化するなという 変な詩読み?たち、への警告と。 そして、いろんな人に、もっと詩は、詩よりすごいもの、ここでは、自然とか 家族への、自虐スレスレの賛歌が語られている。 谷川は、詩に敬意を払っていて、暗いけど、きもちいい。 でも、そんなこともどうでもいいやって感じにさせる力が怖い。 by 石川和広 えーと。 あまりに幼稚で、ひどい反論なので放置しておいたら、たぶんわたしが「逃げた」と 思ったのでしょう、 答えろ! 卑怯だ! 怯んだか! などとさまざまな揶揄が跳んできた午睡機械さんの問題のレスを ちょっと暇つぶしに、どこが「ひどい」か指摘して、わたしの議論に対する基本姿勢をみなさま (山田スレでワンワンうるさかった方々)にこの機会にお伝えしておこうと思います。 わたしのこの基本姿勢はニューススレにもURLを示して、そこを参照し、議論の基本姿勢をご勉強くださいるよう 広くご伝達申し上げているのですが、午睡機械さんや、あほの過程、いや、あおの過程さん、ボルカさんは ご存知なかったのでしょう。 さて、わたしの意見と午睡機械さんの反論を山田スレから引用して以下にコピーさせていただきます。 * これほど曖昧なかたちで書かれた批判はない。こんな文章なら私にもすぐに書けま すよ(いやな気持ちを抑えつつ、という条件つきですが あなたは > 谷川が、哲学的な断章を詩の形式を借りて書くこことにより、ある意味、 > 戦後日本人に共通の > ものごと全般に対する姿勢や態度の「あいまいさ」を > 詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ。 > なんとなれば詩とはそもそも行と行の間に「未だ見ざるもの・あらざるもの」を創り上げる作業であり > 行間から「未だ見ざるもの・あらざるもの」を読みとる作業だと思うからだ。 > 哲学とは、「いまだ見えざるもの」をだれにでもわかるコトバ(指示表出)によって > 現前化させることだとわたしは思っている。 …ここまで(1) > 哲学は行間に言葉を埋め込むような作業ではあってはならない。 > それらは明らかにだれにでも理解できるかたちで「すでにあるもの」として現前化させねばならない。 …ここまで(2) > しかし、谷川は詩の形式を借りて哲学的な洞察を書くことにより、 > 哲学的にも中途半端、かといって詩も中途半端なものを書き続けてきた。 > その詩の構造はある意味で「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい。 …ここまで(3) と、まず初めに「〜と思うからだ」「〜とわたしは思っている」というような語尾 を く用いていますね(1)。そして次に「ならない」 「ねばならない」というマニフェストめいた断言否定命題がくる(2)。最後にそこ を踏み台にして谷川批判を行う(3)。 しかし(1)はその語尾からも察しがつくようにあくまであなたの主観でしかないも のです。そしてまた(2)の断言否定もただ語勢が強 くなっただけで、(1)で示された主観の(あるいはマニフェストの)域を出ていな い(というか、あなたが、哲学を語るのですか?)。 したがって、文章の核であるはずの(3)などは、その論理の土台(1)(2)において まったく説得力がないばかりか、谷川の詩の具体的な一 部分(あるいは詩集の題名)の引用すらないため、読者はその批判の正当性を判断す ることができない。 あなたの文章はそういうものになっている。私はあなたがそれを確信犯でやっている のかどうかお伺いをたてようとして、前レス>>56に おいて「むしろ、説得しようというおつもりはもとよりさらさらないのかも知れませ んが、そのあたり、どうですか。」と書いたのです。 だが、あなたはそれに答えず(というよりは私の文意がわからなかったのでしょ う)、あまつさえ私を谷川のファンと決めつけ、まともに 取り合わなかった。 「あーたが腹が立とうが知ったことではありません」とのことですが、私は腹も立っ て いません。あなたに対して立てる腹などありませ ん。そうではなく、私はあなたの、批評における態度を問うているのです。もしもあ ら かじめ説得力を持たせようという気があなたにない のなら、私は今後あなたの全発言をスルーするつもりですが、もしあなたの周りがそ んな読者ばかりになってごらんなさい、そうなればあ なたの批評は機能不全なものになるのではありませんか。 (というわけで、きちんと書かれた谷川批判をお待ちします。) * この反論を読んで、わたしは改めて、本気で、「アホか!」と怒鳴りつけてやりたい気分なのです。実は。 しかしdisgustingなその気持ちをあえて抑えて、取り上げたくもないこの愚劣な反論をあえて取り上げ、わたしが なぜこの反論に反応することを拒否したか説明しておこうと思います。 まずわたしは、午睡機械さんのこの反論を一瞥して、すぐにいやーな気持ちになった。 どうして人の意見を 「太い線で」読もうとしないのか? ということだった。わたしはわたしなりにこの発言にかなり重い意味をこめている。いろいろ個人的不満がわたしにあろうと そこを抑えて、わたしのその考え方の核をなんとか読み取ってやろうという姿勢を見せずして、 この方は最初から! 形式論理的な揚げ足取りに終始している! 曰く。 >(1)はその語尾からも察しがつくようにあくまであなたの主観でしかないものです。 あたりまえだろうボケ! おのれの主観でなくして何を言えというのだ! 犬ころみたいにおたくの気に入った 芸当をしろというのか! とわたしは内心あきれ返った。 >(2)の断言否定もただ語勢が強くなっただけ >3)などは、その論理の土台(1)(2)において まったく説得力がない こういうった形式論理的な揶揄がつづく。 ニューススレで「議論のモデル」を示したように、議論というのはあくまでもその主張の妥当性を巡って 争われるものだ。日常の議論、公の場での議論、科学的議論と三つの段階があるとして 前二者は科学的議論のように数式を用いて完全な結論なり結果が実証できるタイプのものではないのだ。 〜と思う。〜と思わないレベルのものでしかない。しかしこのお方はこうのたわまく。 >読者はその批判の正当性を判断することができない。 正当性の是非? ふざけるな! と内心叫んでいたね、わたしゃ。 午睡機械さんは、まずわたしの意見の大筋を理解しようとしなかったか、出来なかった。 そのことによって、まずツールミンの議論モデルでいうところの「論拠」をわたしと共有できていない ことがわかる。 いままで、このトビでなされた議論の文脈であえていうとわたしとは「世間」を共有していないということがわかる。 ということは、まず議論がこのままでは成り立たないから、互いの論拠の、つまりは 「世間」の確認作業から始めるという 時間のかかる対話からはじめなければ成らないということを示していた。 また、かれがどういうレベルの議論をしているか本人に自覚がないことから、議論そのものについて 懇切丁寧に教えてあげるところから始めねば成らない面倒くささがあった。 だからわたしはかれの反論を無視したのだ。 相手の意見の「大筋を理解しよう」という姿勢が見えなかったし、そのような不誠実なやからが、 わたしの不誠実をなじっているという戯画もうっとうしかった。 それを「逃げた」ととったのか ワンワンとうるさくなったので、たまらなく、ほんとうに逃げ出した。 これらの方々に改めて言っておきます。 わたしは相手の意見を「太いラインで」読もうとしない連中から、議論を強要されるのも、返答を強要されるのも 今後とも完全にお断りします。はい。 by 一番絞り 参照先不明 横レスですみませんが。 >>93 ついでの部分を読んでいて少々気になったこと。 > 谷川が、哲学的な断章を詩の形式を借りて書くこことにより、ある意味、 > 戦後日本人に共通の > ものごと全般に対する姿勢や態度の「あいまいさ」を > 詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ。 > なんとなれば詩とはそもそも行と行の間に「未だ見ざるもの・あらざるもの」を創り上げる作業であり > 行間から「未だ見ざるもの・あらざるもの」を読みとる作業だと思うからだ。 > 哲学とは、「いまだ見えざるもの」をだれにでもわかるコトバ(指示表出)によって > 現前化させることだとわたしは思っている。 …ここまで(1) > 哲学は行間に言葉を埋め込むような作業ではあってはならない。 > それらは明らかにだれにでも理解できるかたちで「すでにあるもの」として現前化させねばならない。 …ここまで(2) > しかし、谷川は詩の形式を借りて哲学的な洞察を書くことにより、 > 哲学的にも中途半端、かといって詩も中途半端なものを書き続けてきた。 > その詩の構造はある意味で「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい。 曖昧で大雑把ではあるんだろうけど、この文章自体はそれほど無論証的なものではないですよね。全体として、論証の形式を取っています。小前提等の部分を立証する証拠を、事細かに提出してはいないというだけの話です。 この(1)とか(2)は少しきり方が変で、引用文だけから言えば、 「詩の世界にも、持ち込んでしまったと思うからだ」までが(A) 「なんとなれば詩とは」から「読み取る作業だと思うからだ」までが(B) 「哲学とは」から、「現前化させねばならない」までが(C) 「しかし、」から、「「非論理的」(な姿勢)であるといってもよい」までが(D) と区分した方がいいんじゃないかと私は思います。 (A)までは、谷川俊太郎が「哲学的断章を詩の形式を用いて書いた」という(一番絞りさんの思うところの)「事実」が指摘されている部分。 (B)までは、「詩」とはどのようなものであるか、という、一番絞りさんなりの「定義」が示されている部分。 (C)までは、「哲学」とはどのようなものであるか、という、一番絞りさんなりの「定義」が示されている部分。 (D)までは、(B)(C)の定義に照らして、どっちから見ても谷川俊太郎の書いたものは中途半端であり、それゆえに何れの側面からも「ある意味で非論理的」であるという「結論」を示している部分。 (B)(C)の定義に、(A)の事実を当てはめると、(D)という結論が導かれると言うわけで、論証として形式上おかしいということはないように思います。 (B)とか(C)の、詩や哲学の定義の部分について、争いが生じうることは確かですが、この辺は個々人の相違が当然に大きいところです。一番絞りさんはその点この部分について自分なりの定義をはっきりさせているわけで、議論を提起するにあたって最低限必要な誠実さは(暴言等指摘されていることは措いて、この部分に限定した「議論」としてみた場合には)示されているのではないでしょうか。それに、(B)の方は分かりませんが、(C)の方は結構普通の認識だと思います(存在と無とか、普通だったら全然気にしないようなほんの少しの単語の意味をよく見えるようにするために、何百ページもの大著を書いたりするわけですからね、哲学では)。 ということで、これに反論するには、(A)の事実認識、もしくは(B)か(C)の定義の両方或いはいずれか片方、を、論駁しなければならないわけですが、午睡機械さんの反論はそうではなくて、 「これでは谷川俊太郎の全体像は捕まえられない」という反論です。けれどもこれは少し公平を欠いているかなとも私は思います。ある詩人の全てを追及することなど、大抵のアマチュア読者には、かなり困難な仕事だからです。どんな批評をするにせよ、大抵の場合、自分が切り取った一断面を前提に、論述を進めざるを得ないはずです。そして、一番絞りさんは、(A)の事実認識において、谷川俊太郎の「どの側面」を取り上げるかを、ある意味最初から限定しているともいえるわけです。 (A)が谷川俊太郎の全ての側面ではない、という批判は勿論可能でしょう。けれども、(A)を取り上げるトピックの前提として規定し、(B)(C)の自分なりの定義が示されている限り、(D)という結論は、「論理的な」「論証」だと私は思います(哲学としても詩としても中途半端だから、良くない、というのは成立可能な批判でしょう。勿論反論は可能ですが。このどっちつかずさこそがいいんだ、とか。けれどもそれを主張するならそれにも「論証」が必要でしょう)。谷川俊太郎の他の側面もある、この他の側面について議論してくれ、というのなら、それがどのような部分なのかは、反論を提起するほうがある程度具体的に限定して、指摘する方が良い(議論をスムーズにするものでもあるでしょうし、その方が親切でしょう)と私は感じます。漠然と、「谷川俊太郎はそれだけじゃない」と言われても、それでは谷川俊太郎の全てを論じ尽くさない限り一番絞りさんは何も主張ができないことになるわけで、それはちょっと不公平かなと。何となく思いました。 by ボッコ 掲示板という機能には限界があって まとまった谷川論を展開しろと強要されてもなかなかむつかしい。 「エセ詩人」というのは心の中でぼんやり思っていたことを吐き出してしまったもので 主張というほどのものではありません。 谷川のひとつふたつの詩を挙げて詩論を展開すれば、それはまさしく谷川の固有の詩の作品論になり かれの作家としての位置づけから逸脱してしまうことになるかと思い、 あえて具体的作品は出しませんでした。 それなら何もわからんぜ、というのならそれこそ掲示板の与太話の延長と受け止めて軽くスルーなさればいいのです。 たしかに精密な論証プロセスを欠いたものであり、正当性がないといわれればそうであることを認めざるをえない 雑なものです。しかし、 「谷川はエセ詩人」「谷川のような詩人もどき」という与太発言について大雑把すぎるかもしれませんが、 わたしなりにデッサン的な感想は書きました。 これを一読して、感じる人もいれば感じない人もいる。 その程度のものでしょう。 ピンと感じる人はああ、なるほどなと受け取って自分の知見の中で吟味するでしょうし 感じない人は「何をいってやがる」で十分でしょう。 わたしはこのような限られた板のなかで相手に完璧を強要するその姿勢が気に入りません。 もちろん、力不足もあるかもしれませんが、掲示板における感想や論理の展開というのはそれこそゆっくり、 じわーっと広がってゆくものなんです、わたしの場合は。 一週間あるいは二ヶ月かかるかもしれません。 そのとき書けるものができれば書くし、書くにはまだ熟していなければ書きません。 まえの谷川についての感想は確かに雑ですが、いわば覚書のような断片です。 これから発展してゆくところの端緒です。 それをいちいち重箱のすみをつっつくような反論を返してくるようでは応答すらできません。 まず太いラインで読み、ぼんやりした主張の要点の核心を突いた質問が欲しかった。 そうすればわたし自身にとっても勉強になったわけです。 罵声はお互いさまでしょう。ボルカが、一番絞りがどれほど酷いことを言ったか、なんてことを いちいち持ち込んでいれば書くことそのものができません。 よって、今後とも谷川のことをここで書くとしても、山田スレの延長ではなくあくまでの自分の気分で書きます。 また、書かないかもしれない。 こういう形式で書け! と己のスタイルで書くことを強要する相手には今後とも一切関与する気はないことを申し上げておきます。 #追加 ただし、谷川俊太郎の名誉のためにも、ちゃんとした谷川エセ詩人論は書くつもりです。 by 一番絞り >94 ボッコさん、こんなつまらない雑文をていねいに読んで下さりありがとう。 書き込むのもたいへんだったと思います。 by 一番絞り 横からすみません。こういうところでは基本的にはROMな自分ですが、さすがに酷いと思ったので。 一番絞りさん、あの、何であれ、もう少しことばに気をつけませんか。 ネットだから許されると思われているのか、リアルでもそういう方なのかは存じ上げませんが、 「ボケ!」と連呼してみたり、人の名前を呼び捨てるのみならず名前や作品名のもじりで呼びつけてみたり、 プロフィールを茶化してみたり、などなど、挙げればキリがありませんが、 正直、気分のよいものではありません。 少しなら面白いかもしれませんが、さすがに、やりすぎです。 あなたは、自分が言いたいように言うだけだ、とか、お前の気分を良くするために書いている わけじゃない、とか、仰るかもしれませんが(勝手な想像ですので違ったらスルーしてください)、 なんだかコミュニケーションとして、あまりに幼稚な感じがします。 どんなに素晴らしい内容のことを書かれていても、 「太い線で」以前に、それでは読む気がおこりません。 キャラとして敢えてやられているのかもしれませんが、 山田さんのような(勝手に引き合いに出してすみません)スマートさもないため、 あまり成功しているとは思えません。 多分、同じように感じられている方も多いと思いますので。 すこしだけ気に留めていただければ幸いです。 by nm6 #いろいろ書き直しましたがこれで完了です。(笑) >107 午睡機械さん、やはり何を仰っているのか支離滅裂で、読むのに苦労しますよ。 こちらでひとつひとつ納得するのに、つまり読み込むのに時間がかかりました。 >?私は、あなたがその「説明」をなんらかの理由で忌避しているように思いました。 説明を忌避しているかどうかはともかく、 「なんらかの理由」で「思いました」とはまた、曖昧な言い回しではないでしょうか。 どうして「なんらかの理由で忌避している」と思うのか、ちゃんと説明するのが最低限の議論の礼儀でしょう。 直感からですか? 偏見からですか? 侮蔑からですか? >?発言をするからには、説明を求められればできる限り答える、そうでなければ納得は得られない、というのは、当たり前のことではありませんか。 説明を求められれば得とくできるまで答える、そのような関係が、あなたとわたしの間にあるとは思えません。 わたしが谷川俊太郎を「エセ詩人」と感じることについて、あなたが得とくするまで答える義務も、 あなたがわたしに答えさせる関係もあなたとの間にはない。例に挙げたような上司と部下の関係でもなければ あなたは谷川本人でもない。互いに顔も見知らぬ間柄だからというわけではなく答えるレベルには おのずと限界があります。 それは、ほら、あなたご自身がわたしの発言に介入してきた、みずからの限界を仰っているじゃないですか。 >対外的に、マニフェスト的な主張を批判の根拠にしたところで、それでは「説明」を求めているひとにとっては >納得のできないものなのだ、ということを述べようとしていました のなら、むしろ一般論として、わたしの主張を例に挙げながら、あなたの論旨を展開すればいいのですよ。 そうではなく、すべてを、都合よく、自分の主張のために、わたしに語らせようというのですか? >?、「何故その立場からなら太いラインで読み込む必要がないのか」ということのほうをいうべきだったのではありませんか あなたがどのような立場からわたしの主張に反論をくわえるのであれ、まずわたしの主張の論旨を 大筋で読み取る誠意なしには話は進展しません。あたりまえのことです。 それはわたしの意見を「共有しろ」ということではなく、論旨と文章の組み立てとは一体のものだから 論旨を無視してことば使いの不整合性(たとえば語尾の使い方)だけを非難しても意味がないということです。 言語学の問題を扱っているのではないのですから。 by 一番絞り 議論って難しいですよね。 全部分からせようとしますと、どんどん紛糾しますし。 議論に即効性を期待してしまうことも多いですけど、実際そんなわけにも行かないでしょうし。 ほんの少し、1割でも2割でも、言いたいことが伝われば大成功だと思います。 伝わらなくても仕方ない、もとより全然違った生き方をしてきた他人同士なんですから、 (同じ人間だから、分かり合えるはずだ、と、そういうわけにはいかないかと) と私は思っています。(たまたま通りすがっただけの、何億分の1なんですから。) いろんな人が居ます。 なんだろう、なんか上手くかけませんけれど、 どこまで説明するか、説明できるかは、その人、その時々で、本当にさまざまでしょうし。 意見っていうのは多分、 大抵の場合統一する必要のあるものじゃない、のかなとも思いますし、 思い思い論じたいことを論じればいい、 思い思い、それぞれの思いを交換すればいい、 そんな感じかなと、 私は勝手に思っています。 ところで、私は谷川俊太郎、これまであまり興味をもってこなかったので、 どの辺が面白いのか、素敵なのか、 いいところや作品を引き合いに出して、評論してくれる方がいたら、 嬉しいなぁとか、思います。 by ボッコ 佐々宝砂さん、吉増はわたしも嫌いです。 てか、既成の詩人はすべて全否定してます。(笑) ぼくは大阪の某、詩の学校に三年ほど通ったんですけど、 一年目は若手哲学者で詩人の細見和之が講師でした。 で、この学校は、もともと合評主体の授業なんです。毎回、生徒が 書いた詩を持ち寄って、批評して欲しい人が提出し、全員に配る。 それを批評したいものが批評する。そういうシステムでした。 ところがこの人は、他の講師と違ってその前に三十分ほど、 有名詩人の詩を読んで、それを解説するんです。 これがわたしには苦痛で苦痛で仕方がなかった。いらいらした。 どれほど凄い詩だ、凄い詩人だといわれても全然面白くない。 全然ピンとこない。 べつに反発しているのでもなければ、ひがんでいるのでもない。 ほんとうに面白くないのです、既成の有名詩人の詩が。 これは何故だろうと思いました。 ひとつには既成の詩人の詩は「もうすでに書かれそこにある」ということ、 それがなぜか「死体」のように思われたんです。 ぜんぜん新鮮じゃないんです。 そういう意味では、同じ教室の数十人の素人玄人入り混じった「目の前の」 人たちの、「今書かれた」詩がとても新鮮で、 それがいくら稚拙でも巧妙でも、上手さに関係なく、すべてに、 ドキドキするほどの興奮を感じました。 その興奮に比べれば既成の詩人たちの詩のなんと色褪せたことか、とぼくには映ったのです。 それはポエトリーリーディングというやつの否定にもつながってます。 すでにして書かれたものを舞台に持ち寄って朗読したって、それは演劇行為以外のなにものでも ないよ、という考えです。 ポエトリーリーディングというのなら、ぼくが「マンドリンのスネカジリ」を書いた ように、 その場で、即興で書かなきゃ。即興で頭に描いたものを舞台上で朗読しなきゃと思います。 だからそういう演劇行為をポエトリーなにがしといって「闘わせて」いる 谷川らの姿勢が気に入らないことも「エセ詩人」発言のなかにあったのです。 (*そういえば数年前、谷川がアメリカの詩人たちを前に演台上から「ポエトリーリーディング」した映像を見ましたが これはまさに強烈に印象に残っているほんものの「ポエトリーリーディング」でした。 谷川は突然、演台上で即興詩の朗読を求められ、即興で詩を作りつつ謳いあげたんですが、 まるでそれは知能障害者のように 「かー。か・か・か・かっか、かー、かー」というひどくテンションの高い吃音の繰り返しでした。 ひとまとまりの詩句になってないのです。 ぼくは、「やった!」と思いました。初めて谷川が詩人をあらわにした瞬間でした。 満座は谷川が緊張のあまり気が狂ったのかと、シーンと静まりかえりました。 でも、これが谷川のほんとうの姿なんです。 書斎で気の利いた台詞ばかり書いていたひとが、即興で詩をその場で謳えと要請されて出てくるのは ほんとうに押し迫ったぎりぎりの「圧力」だけなんです) ともかくも、 あいや、おまえのような素人には詩がわからんのだよ、と言われれば それまでですが、ぼくには、ぼくの詩に対する姿勢があってしかるべきだと いまでも思っているのです。 そうですね、近々、吉増のパロディでも上梓しましょうか。 批評詩ってことで。 by 一番絞り お盆休みも終わった。 それにしてもくそ暑かった。 ひとつ発見したのは「ダイエットビール」という発泡酒。 ロング缶でわずか25?カロリーしかないのだが、どうやら個人的にかもしれないが 便秘効果がある。てか、排便効果というべきか。 前の晩、ビールのあとに食ったものが翌日の朝あたりにぜーんぶ、出てしまう。 これは快調なり、快腸なり! 団扇ぱたぱたと、これまで一番搾り一本やりだったのを 発泡酒に転換。 安くて、快腸で、お味もさっぱり爽やかとくれば、たまらない発見でし。 *ほかのひとにも同じような効果があるかどうか。 たぶん、小生だけだと思う。買って、飲んで、騙されたとの 苦情を受けても 関知せずである。 by 一番絞り つくづく批評するというのは怖いものだ。 おのれのアホさ加減がぜーんぶ出てしまう。 等身大のおのれが、すっぽんぽんになって、あらわになる。 そこが詩や詩論と違うところじゃなかろうか。 薄みっともない裸をさらし、人さまに笑ってもらう覚悟がいる。 わたしの場合は、批評なんてものじゃない、批評もどきだが 恥じ知らずに書いている。 それでも、ときに赤面することしきり。穴に入ることしきりだった。 そういう意味で批評をしたOhatuさんやボルカさんは勇気があると思った。 内容はともかく、その度胸には心底、賞賛を禁じえない。 小生は吉増剛造、読んだことがなかったので今日のお昼買ってきた。 『吉増剛造詩集』(ハルキ文庫)。760円也。ブックカバーは付けてもらわなかった。 「付けますか?」なんていわないで「できれば付けたくないんですけど」と言えばいいのに。 おれはやさしいのだ。相手のいわんとするところを酌んであげる。 「頭脳の塔」の「朝狂って」を一読。「合わない!」と思った。 ぼくの趣向とはまるで合わない。ぜんぜんつまんない。意味もわからん。 味もそっけもない。これを批評するとすれば、これは大変だぜ。 うっとおしいぜ。 ただ、あれだな、すぐにピンときたのはこの人の孤独は精巧にできた 作り物の孤独だなってこと。 それこそ詩篇の表題とおり「頭脳の塔」だ。頭によって精密につくられた孤独だ。 こんなものは、もう、うんざり。 戦後、偏差値教育、受験システムの申し子たちによって量産されてきた詩に 表現を競いあった作り物の孤独や絶望や夢や反戦などがある。 もう、いいよ、って感じだ。 これに比べると中原中也なんか、ほんとうの孤独の中にいて、 シュールだけど人の心をつかむ詩を書き、それゆえに、ふつうの読者を獲得したのじゃなかろうか。 よくわからんが、そんなことを思った。 吉増剛造詩集、ひとつ効果があった。数ページも読まないうちにうとうとして ぐっすり昼寝したことだ。いや、夕寝か。 by 一番絞り 雑談スレッド5の540からこっちへ移ってきました。石畑由紀子さん「足」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12200 起こっていることの、ずっと描写だなあ、と思いました。淡々と描写、それも作者さんのオリジナリティだ、と考えれば、そうなんでしょうけれども、言葉の跳躍が見られないというか。 途中、「飛ばした思いが~かえってくる」と、話手の気持ちに戻りますがそこにも話手の考えがあまり私には伝わらなくて、私から見て、脚本ぽいと。 批評と言うより作者さんに質問なんですが、脚本?と見られることは狙いかなあ?と。もし、「恋人とこの先歩いていく」ことを言いたかったのであれば、一般的考えとして、「恋人」ならいずれいなくなるものであって、存在が。夫でもいなくなりますが。その存在と、これからも歩いていくのであれば、その難しさや、そう宣言する理由、それでも歩いていく、と読む側を納得させること、がここには見られなくて、それもどうして書かれないのかなあ、と。もしここで、それが問題ではないのなら、やはり、気持ちが私には伝わらなくて、日記ぽく見えます。 他の作品についてもおききしたいことがたくさんあって、また書かせてください。 by 山内緋呂子 石畑由紀子「足」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12200 これにリアリティをもたせるため、ぜひ、お風呂から上がったあと 男の血圧を測ってほしかった。 「ケ、ケツ圧、きょうはな、なんぼあったぁ〜?」 と男にいわせてほしかった。 せっかく静謐な香り漂う詩篇に、無粋なしちゅえーしょんは興ざめかもしれないけれど、 そもそも女の足を洗うというのは、これは、この男性の精神はかなり幼児化していることを ぼくなんかにはうかがわせるものでして。 人の足、とくに足の裏というのはこれはもっとも身体で敏感なところでして、 ゴマ粒ほどのものでも、すぐにわかるほど感受性が強い。 そこは本来なら大地といつも接触している。そういう器官です。 いわば地球的な生命を感じる器官です。 こういうところに女体への関心が下がっていくというのは、これは、もう〈老人〉といってよい。 〈若い〉ときには、むしろ関心は上へ上へとあがってゆくのじゃないかな。 ま、いつまでもヘソの下あたりにとどまっている者もいるようだが。 この男性は、ほんとうに老人かもしれない。だからセックスのあと夕方まで腰が立たなかったのかもしれない。 とすると男の血圧はかなり上がっていて、最後の見納めに相手の女性の足に関心がいったのかもしれない。 にしても夕食がカルピス入りの牛乳とは、歯の悪い老人とはいえ遠慮しすぎだ。 もっとも、このようにしめやかなセックスと休息とお風呂のあとで老人が牛丼など食らえば この書き手がつくり上げようとした静謐なふたりの世界はだいなしだろう。 しかし、「みつめあって笑う」のは、だれかが書いていたようにあまりに映画のシーンを意識しているので この二人の演技性がかえって将来、危うく思えるしね。 きれいきれいにしてもらった足で、きれいきれいに歩いていってもらいたいのだが。 どーかなー。うーん。血圧だな、モンダイは。 by 一番絞り >>138 いんや、そういう「地に足をつける」風なリアリティならいらない。 タイトルが「足」で、男が「私」の足を洗うという行為を詩の中心に据えるのなら、繰り返しになるけれど、その「愛の証」として洗われた足はけして地に触れてはならない。マグダラのマリアに足を洗われ、香油で清められたイエスキリストの足は、湖を渡ってもけして濡れることはなかったのだから。 川元緋呂子の指摘する(どうでもいいけど川元よ、作者に「さん」をつけるのはやめてくれ、いやそれは単なる個人的な好みだけれども)「脚本的」「淡々とした描写」は、俺としては「足を洗う」行為を象徴として描くために意識的に抑制しているのだ、と捉えたい。「足を洗う」行為は、「二ヶ月ぶり」の「しばらく動けなくなるほどのセックス」に勝るのだ。いや、勝っているからこそこれは「詩」なのだ。 by 山田せばすちゃん 石畑由起子「足」 [http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12200]について。最後の連が鍵だと思った。私はこういうのもありふれた関係の一コマだと感じ、あるフェテイシュも感じた。男にとり、多分この女体は物神だが、つまり人形だが、それを愛の時と感じる所に絶望的に愛されたいのかと感じた。しかし人形になり愛撫される感覚も快楽なのかも。ただ、そういうツルツル滑る愛の行為の後奇妙に生活がある。だが、最後でいきなり飛躍。胸が熱くなるのが、妙に迫る。多分こんな幸せもあるだろう。 by 石川和広 お三人さんに大体共通しているのは、「静謐」「抑制」であって、最終連が、飛躍していたり、詩的だ、と。なるほど自分の考える「言葉の跳躍」が、そう捉えると不要なのかもしれません。でも私には、ラストに意外性が感じられないというか、女ごころだなあ、と少し共感します。それ、恋人の男性に言ってそれで終わっていいのでは?と。そういう意味で言葉の跳躍が感じられないと。 そして、静謐や抑制を見せるにしても、作者独特のものを書かれる方の詩はあるので、石畑さん、これはどう考えてらっしゃるのか、と。 #せばさん、批評って書きなれてなくて、紙媒体なら作者、と言ったかもしれないけど、何だかネットだと近しい気がして、「さん」つけた気がします。いや、その前に「作者」なんて言葉用いて批評みたいなこと言ってる自分に違和感。ほんのすこし自責。「さん」つけてもつけなくても同じだ! by 山内緋呂子 >>140 うわぁ、えらいところにまで落とされてるぞ、イシハタ氏(笑) 男は君のこと一人前の人間だと思ってなくって「物神」「人形」として「しか」愛してないのに、それを愛だと感じたいほど絶望的に愛されたいのか、と来たもんだ(笑)それってほとんど中島みゆき「捨てるほどの愛でいいから」じゃん(苦笑) 「足を洗う」という行為の解釈の多様性といってしまえばそれまでだろうが、俺はイシハタ氏の足を洗ったことはないけれど、うちの愛人ちゃんとお風呂に入って、愛人ちゃんの足を洗うことはあるよ。うちの愛人ちゃんも俺の足洗うの好きみたいだし。んでもって俺たちはそういう時にはそれこそこの詩のようにボディソープの泡を丁寧に立てて足の指の間まで丹念に洗ったり洗われたりしてるんだけれど、そこに石川氏の言うような「フェティッシュ」=「物神化」みたいな感覚は少なくとも俺にはないな。もちろんキリストが弟子の足を洗ったり、マグダラのマリアがキリストの足を洗ったりという聖書の出来事をもじっているほどに、俺たちはクリスチャンでもなんでもないのだけれど。やはりそこにあるのは「いとおしさ」という感覚で、俺は自身のその「いとおしい」感情をこの詩に呼び起こされながら読んでいて、 なかなかお互い時間が取れなくってそれこそ >二ヶ月ぶりに会って >しばらく動けなくなるくらいのセックスをした なんていう冒頭フレーズなんて、泣くほど身につまされちゃったりしているのだけどね。 (今月末に会うのよー、なんて俺の近況はこの際どうでもいいけれど) で、だ。 この詩に出てくる「あなた」と「私」が俺と愛人ちゃんの関係に準じているのかどうかはアレなんだけれども、あくまでも俺はその線で読み込んじゃってるので、どうしても最終連が邪魔なのだ。ごめんね、愛人ちゃん、一緒に歩くのは君と一緒にいるわずかな時間だけなのよ、それ以外の時間って俺は夏休みの宿題を見てやって、工作なんか半分以上俺が作っちゃうような三児の父だし、お布団干し組み立てて頂戴といわれたら二つ返事で庭に出て夏の日差しの下でステンレスパイプ製の布団干しを汗だくになって組み立ててる夫だし、そういうの全部かなぐり捨ててきみと一緒に歩いていくわけにはいかないのだよ、もちろんきみだって、家に帰れば貞淑な人妻なんだろうしさ。ずっと一緒には歩けないから、今こうやって一緒にいられるときだけは互いのいとおしさで精一杯愛し合う二人でいようね、なんて、そろそろ誰に向かってなに書いてんだかあやしくなってきちゃったぞ、おい(笑) 石川氏も川元氏もそれぞれがそれぞれの理由で、この最終連に引っかかっているみたいだけれど、それってつまりはこの最終連がそれまでの一連の詩の構造から突出してしまっているってことの証明だと、俺は思う。一連の構造があるからこそ、読者はそれぞれの解釈を一連のものとして成立させている=それぞれの充填したい内実を作品の空隙に充填していくのだろうけれど、どうしてもみんな最終連でひっかかってる=一連の内実をそこに充填できていないってことは、この最終連がそれまでの一連のこの詩の構造とは違うってことなのじゃないかな? 俺は、だから、あえてこの最終連は不要だ、なんて思い切ってしまいたいところではあるのだけれど。 by 山田せばすちゃん >142 えっ、 愛の証として洗われたのかい? 書き手の足は。 たんなる相手の男のスケベの発露としか思われないな〜、おれには。 それも 幼児返り的老人性の。 足を洗うくらいで、かんたんに愛の証なんて安っぽい解釈は、おれはそんなワンパターンはとらない。 それより、ここにあるわざとらしい演技性のほうが注目だし、面白いと思うがな。 映画なんかでも必ずあるパターンだしね。フランス映画あたりで。最近は日本の映画も真似しだしたか。 セックスのあと、風呂に入って足を洗い、向かい合って簡単な食事をとり、無言で微笑みあう。 どこにでもみかける映画的光景だし、これをかっこいいと思えば現実にそれを なぞってみるだろう。 でも、こういう演技の裏にあるものってとてもさびしいものだろうと思うよ。 最終の連が余計というより、それまでの雰囲気を台無しにしているのは、やはり、倫理スローガンのなかに 中規模の演技性を埋没させちまったてことだろう。 最後にしめくくるというのは、あまりにNHK青年の主張コンクール的で興ざめてこと。 by 一番絞り >144 そおか〜? もう少し映画を沢山見ることだな。仕事に精を出すのもいいが。(笑) 最近ではちょっと気取った映画やドラマにはこの手のシーンは枚挙にいとまがないほど 出てくるぜ。 スケベ男が女の足を洗うシーンを別にすれば。(笑) by 一番絞り >140静謐や抑制を見せるにしても、作者独特のものを書かれる方の詩はあるので どういうのがそれなのか、わかりにくいですよね。今、浮かぶ例として、そういったものですごいなあと思うのは、 horohoroさん「夏の水族館」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=16648 sekitaさん、「車窓」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9263 あまり的確な引用ではないかもしれませんが、淡々と描写でも、オリジナリティがあるというか。あまりここでも言うと、こちらの作品の批評になってしまい、何と申したらよいかわからなくてすみません。 石畑さんの他の作品 「上海された」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=11699 これはすばらしいと思いますよ。「上海される」という即ゴルさんからの意味つけにくいお題だから、というわけではなく、ありえない設定だからそこに「言葉の跳躍」がある、と言ってるのでもなく、5連、別々のお話なのに、つながっているよう。 ちょっと今会社の昼休みで書いていて、つたなくてすみません。で、考えすぎて、家に帰ってからだと携帯からになるので、多分疲れて寝ます。ちょっとおやすみ。2日ぐらい。もう脳みそのアッパーカット。部位によるカットアップ。おいしいのはどこだ? ちょっともう体こわしたりとか、いえなくなるかもしれないので、今言っておきますが、石畑さんは、よく作品の中に「セックス」「自慰行為」「視姦」「ヤッタヤラナイ」とかかれますが、私も性的なことを、自分の文章で書いていて、それを、ふくらませたりとか、笑いに変えたりとか、で、性的なことはありふれていて、もっとふくらますことで、楽しいことだったり、残酷だったり、そういうように読めれば、なんて考えていました。最初にかいた、「もっとたくさんおききしたい」という中の一番おききしたかったのはここであって、例えば「視姦」された女性が、その「文字」そのままを見た場合に、思い出して傷ついたり、もう考えるのをやめたりするのでは?と。それで、逆に、「文字そのまま」を出すのは、逆に女性を辱める危険がないですか?なんておききしたかったです。 by 山内緋呂子 >ある作品を評価するにあたって一番レベルの低い(つまり他者に通用しない)意見は >「俺の好みじゃない」という意見だと僕は思う。 だからね、この意見も「思う」に終わっているわけでしょう? てめえの好み、主観をまず表明している。 「俺の好みじゃない」ということを最初に表明することが、どうして一番レベルの低い意見になるのか、 論理的に説明もしないでね。 天に唾をするようなものだ。 わたしゃね、こう見えても佐々さんに宣言したとおり、いやなやつの退屈な詩でも いま、一生懸命読み込み中なんだ。 あまりに短絡じゃねーの? しかし、余計なチャチャが好きだね、おたくも。 せっかく「自由」さを感じさせてくれるスレッドがあったので気に入っていたら 早速やってきて、当人がいうところの一番レベルの低い意見を吐く。 困ったものだ。 by 一番絞り >>一番絞りさん もうすこし、読者の気分がよくなる文章を書いてくださいませんか。 罵詈雑言は面白けりゃいいと思うけど(そう思わない人もおりますが) 最近の一番絞りさんの文章は、読んでて面白くないしスカッとしません。 これは一読者としての希望であって、ひひょーや佐々の言葉ではありません。 by 佐々宝砂 大きなお世話で言うと、 詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加すれば、石畑さんのも、ほかの方々のも、単なる感情吐露、事実や風景の過剰描写なのだから、日記の1ページよね。 川元さんが言うように、世界と当たって、新たな発見や認識をコトバにしたものや展開にしたものではないものね。コトバも立たない。発見も展開もない。 詩だと思ってまことしやかに、しかも偉そうに評論とか批評をしてるって、息巻いてるのおかしいね。わたしもこれをどういうつもりで書いたのか、聞いてみたかったわ。もう聞くつもりはないけど。 詩の最終行に「と思う今日この頃でった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。と言っているのは、わたしだけが言っているのではありません。入沢さんも言っているわけ。明治大学の講義やユリイカ投稿欄や、いろんなことで言ってらっしゃるの。。反論があったら、どうぞ真正面からお受けしますけど。それほどわたしもヒマじゃないので、まともな方としかお話するつもりはありませんけど。 批評っ?てゆうか、詩を読みこめない方が偉そうに言わないでほしいのよねぇ。あんたたち、それぞれの自閉の地平で、世界と当たって、触ってみて、コトバにならないものをコトバにしてゆく格闘や思考を続ける姿勢がみられないわ。その姿勢がない限り詩人とは言いません。あんたたち詩を書く行為においても批評する上においても凡そ社会の隔絶したところの世界で、地に足がつかないままね。ウラサビシイ話だわ。また、もう一つしつこく、踏み込んで言うと、 歌うことと、詩のコトバを書く行為は根本的に異なります。敢えてどれも詩だといってかまいませんが、既視感のある退屈なコトバ、世俗に塗れたコトバ、韻律に支配されたコトバ、よね。わたしたちは、もっとわたしたちの言語を解放しなければならないはずです。それが近代以降の詩の歴史でもあったはずでは?そういった意味では、 一番搾りさんの言ってらっしゃる「権威とか権力」というのは、コトバが既存の規範の体系から解放されない不自由なものであることを言いたいのでしょうね。その自由を獲得するためには、ちょっと、あんたたち、命がけなのよ。ま、言っても、多分、認識できないわね。コピーライターのコピーみたいな詩だと称する詩や、オバカなタレントが余技に書いたような歌詞のような詩を詩と称するのを、まともな詩論や比較文学的手法で批評できるわけないじゃん。それらは文学の対象ではなく社会学の対象ね。 みなさん、わたしたちもっとお勉強がたいせつだわね。 by 有井いずみ 休むって言ったけど頑張る! >Ohathさん 全くだ。そこを説明するには、自分が女であるんだけど、性を出すことの書いてるときの暗さ、ポップさ、同じく出来て発表することのそれ。考えると非情に重く、自らこれ、この先私が書くことの死亡、のようになって疲れ。これをまとめてからこのスレッドで言えばよかったのです。雑談スレッドから、突っ走ってしまいすみません。どうもありがとう。ちょっと待ってもらえるとありがたいです。 有井さん有井さん 本当にどうもありがとう。 自分はまだまだいろいろと足りず、批評とかそんなの言う時に、こうだ!と確定することの恐れ、とか「まだわかんないんですけど」と言うことが許されていると言うか、もっとちゃんとした方ならきっと、こうだ!と確定しなければならなくなるのでしょうね。 日記ノーサンキュー。加えて言えば、出来れば言いたくないが、私は自分のサイトの日記も、人様向けに面白くしているつもりです。最近出来てないんですが。 ありがとうございました。 安藤そらさん 携帯からだとポイント入れられないですが、そういう読みもあるのですね。共感はしませんけども。 皆様ありがとうございました。 by 山内緋呂子 >みなさん、わたしたちもっとお勉強がたいせつだわね。 それはそうだけど、どういう勉強をするかが大事だと思う。 大学でチシキとして教えているような批評理論を、いくらチシキとして学んでもザルみたいなもんだ。 網の目から大事な、小さなものが、ことごとくもれていく。 あなたがいうように、稚拙な、日記のような詩らしきものにはまるで使えない。 それは象牙の塔で教えているさまざまな批評理論が悪いのであって、稚拙な詩や批評が悪いのではない。 詩人として通っている谷川俊太郎の詩でも、おしなべて、鉄腕アトムみたいな作詞と同じレベルじゃないか。 現代詩といっても劇画チックなものばかりだ。 象牙の塔ではぐくまれた批評理論を 勉強することによってますます権威や権力の構造に組み込まれていくことになり、結果、少々の異和や異変を 許せなくなる。ここがいい例だ。 フェミニズム批評だってそれをぎゃーぎゃー言ってる女ってのが東大という権威のなかで言ってちゃね。 戯画だ。 そんなことなら、勉強しても意味がない。むしろ、勉強の仕方から始めるべきざんしょ。 それよりあなたの詩、三連目あたりで、読み込むのにとても日数がかかってる。 ヒントが欲しいんだけど、「水尾のしぶく..千切れ方云々」って、ひよっとしておしっこのときの、しずくの切れ方のこと? by 一番絞り 参照先不明 >>170 さてさて。 ポイント入れましたが、別に、有井さんの言うところの「詩」に、 全面的に賛同しているわけではありません。んー、違うか? んと、上手く言えないな、 有井さんの発言は、ある面から見て正論であると思っています。 少なくとも自分の詩作スタンスの“ひとつ”として、 できているかどうかはともかく、念頭にあるものです。 で、ダブルスタンダードなんですよ。結局。 他の人の詩を読む場合に、それをあてはめてどうこうしているわけではありません。 そして、有井さんの発言も、誤解を受けやすい言い方をしているとは思いますが、 これが詩でこれが詩じゃないと区分して非難するのが発言の本意ではなく、 詩の言葉、というものをもっと大切に扱いましょうという、提言であると、 俺自身は把握してます。だからこそポイントを入れました。 そのへん、わかっていただければ幸いです。 ちなみに、俺は、「足」、好きです。 そして、この詩は、批評すべきものではない、あるいは批評しても意味のない作品だと思っています。 そういう部類に属する作品も、あると思ってる。 by いとう 参照先不明 >172 塚本いちごさんのコメント、はじめてこの掲示板でまともな意見を読んだ気がした。 これまでは、あまりに凄惨すぎる。あまりにどろどろすぎる。 また、そのことに本人たちが気づいてないことが、あまりにひどすぎる。 有井さん、つまんねえ発言にコメントすることはないすよ。(ま、わたしの発言も含めてだが) にしても、いちいち星印を入れた理由を開陳しなければならんような、そういう雰囲気をつくる そういう輩たちによる掲示板のあり方ってどうかと思うよ。 暗黙の脅迫に屈しないで、星印を入れた理由なんか開陳することないよ。 by 一番絞り >僕は、有井さんのコメントに☆をつけた人の面々を忘れない。 >彼らが何をもって詩とし、詩としないか、今後の作品や発言を >注意深く、多少の恨意をもって見ていくつもりです。(Ohatu) こんなねちこい脅迫なんかしないで、有井本人に正面から挑めよ! もっともおたくの今のような批評の技術、批評の視点では相手にされないだろうが。 だからといって、星を入れた人を脅迫するなんて、 まったく気がしれねえよ。 >繰り返しになりますが、僕にとって詩人とは「詩を書ける人」ではなく >「詩を見つけることができる人」のことです。 よくわからん。それこそトンチンカンだ。同じことを別の言葉でいってるだけじゃないの。 こういう誤魔化しはあまり感心しないな。 by 一番絞り >別に詩である、と他者に認められようが認められまいが >いっさい気にする必要はないと思います。 おっしゃる通りね。 みなさんが書かれたものが、良いとか悪いとかを 書いたのではありません。また、これは詩で、これは詩では ないというようなことを不遜にも決めつけているのでもありません。 わたしもみなさんと同じく、書くことに精進している一人です。 もう少し、わたしは親切に書かなければなりませんね。少し 反省して、少し丁寧に、できる限り分かりやすく 書きましょうか。 --------------------------------------- 作品において、ほんとうに心に残ったり居座ったりするコトバと、 出会うということは実に幸せなことです。ぜいたくを言えば、 日々、生きる上においても、浮かんでくるようなコトバはもっと ステキね。それだけのことです。 現代詩の将来が明るいとか暗いとかは、まったく別問題なので あって、それほどに難しい話ではないでしょう。 谷川さんがダメとかいいとか、さぁ、どうなんでしょう?わたしは わたしの詩的な空間を広げてくれた詩人として、その仕事は 尊敬するものがありました。大阪文学学校近くの「すかんぽ」や、 東京のある集まりで、何度か真正面から議論したこともあるけれど、 大した詩人です。詩のコトバの広がりを確実に広げた、詩史に残る お一人なんでしょうかね?否、そんなことも恐らく関係している のですが、否、そうかな、やはり真剣に考えれば、大いに関係の あることではないかしら。まぁいいや、長い話になるもん。 誰をも責めるものでもないのに結局、 わたしを憎っき「酷評おばちゃん」のように思う人もいたりして、 それは、冗談じゃないわって思う。 詩に、何らかの「レベル」や「基準」のようなものがあると 勘違いしているのは、ひょっとして実は、 貴方たち(ここで誰とは言いません)なのではないかしら? わたしはコトバで世界の実相に出会いたいと思って読む。 それだけなのに。 「自閉の地平で、世界と当たって、触ってみて、コトバにならない ものをコトバにしてゆく格闘や思考を続ける姿勢がみられないわ。 その姿勢がない限り(詩)詩人とは言いません。」と書きました。 それが言いたかったのに、「と思う今日この頃」のところばかり 話題になって、そんなもんかしらね。 誰もが、それぞれの人生をこの世界に生きている。 ある人は平平凡凡に生きていると言うかもしれない。またある人は 辛く、苦しくそれこそ生死をかけて日々を生きるのが精一杯かも しれない。いろんな人が生きている。どこかでは泣いてる人が いる、またどこかでは笑う人がいる、いろんな人が生きている。 あの空の下や、あの窓の部屋。 そんな中で人は、コトバにしたい。コトバにせざるを得ない。 コトバを発する唯一の生き物です。で、本題。 ------------------------------------------- どうしてこうも似たような箱庭を不用意に作ってしまうのだろうか と思う。閉じられた箱庭の中で、コトバをのっぺらと平らかに、 あるいは予定調和的に納めてしまう理由はどうしてなんだろう? 類型的な意味と、文脈で、無理矢理継いで押し込んで、 何をそんなに急いでいるのでしょう?ステレオタイプとも言いがたい。 説明描写ばかりに力が入るのね。あるいは過剰な情緒を額縁のように 提示して、退屈やメランコリを、少しだけ神経症的・人格障害的に (わたしも精神疾患や人格障害の傾向を多少持っていますが)に 書くと、それらしいコピーライティングの平面に定着できると 思うのでしょうか?それに誰もが安易に共感できると思うので しょうか?如何なんでしょう?いえ、共感できるなら、それは それでいいじゃないですか。それはあなたの共感ですね。 ただ、この複雑で巨大な現実世界に、この厳しい現代社会に耐えうる コトバとして誰のこころにも居座るようなコトバに成り得るので しょうか?大袈裟な話を持ち出せば、飢餓に苦しむアフリカの人や、 不条理なエイズの感染者や、イラクで死んで行く、イラク人の子供 たちやアメリカ人の若者たちの中で、脳天気に歌える詩のコトバ なのでしょうか。戦争反対の詩を書けなんて云ってないのよ。 いえいえ、リアルに感じられないならば、もっと身近で、隣にいる 苦しみや喜びの渦中にある人のこころを揺さぶるようなコトバなの でしょうか? わたしの詩のコトバは、到底、それらの人たちにとっては読むに 耐えないヘタレ詩です。けれどもわたしは数十年来の自分のこころを 圧してきた何か分からないものの姿を、または越えることのでき ないわたしの世界の壁を、手探り、まさぐり、コトバに表わさざる を得ない何かを拾い集めるようにして、コトバを叫び、コダマする コトバをまた紡いで、投壜のように押し込めて流してきました。 その結果、見ての通り、屈折して、さっぱり分からないものに なってしまうわけね。有井の書くものは、なんだかさっぱり わからんから、放っておけてなことで、だれもその投壜を拾うもの さえいないじゃないか?ってコトバも聴こえますが、ま、そういう こともあるのね。(一人ツッコミのお笑いね。負け惜しみ言ってる) でも、わたしはありふれたコトバや借り物のコトバで書けません でした。わたし自身の苦しみや喜びや、ことあるごとに頭を ぶつける世界は、ありふれたコトバではわたしの中で不満ばかり 募るんです。 でもそれって、誰もがそうじゃないの?誰もがそれぞれの生を コトバにするのに、それぞれにぶつかる世界をコトバにするのにさ、 ありふれたアユの歌のような一節で満足できるのかしら? (アユでもなんでもいいんだけど。) ご自分の生やアイデンティティーを獲得するのに精一杯の中で、 一人一人が、自分のコトバで世界をあたり世界に表さざるを得ない ことがあるものよ。 それで歌っていていいのでしょうか?それじゃわたしたちの生や 世界が、すなわちコトバが、不自由で仕方ないでしょうに。。。 既成の、商業メディアの、トレンドに乗るのは全て悪いとは言わ ないけれども、その中に溢れかえるコトバのコピー的なコトバと なんら変わるところのない、既視感をおぼえずにはいられない。 それらは、現代の複雑で巨大なシステムに対して、力強い詩の コトバになり得ない。そうした意味で、 お手軽な「現代詩」(多分、批判され易いキツイ言い方?)は 痛々しい。それを「詩手帖」風に批評するのもなんだかね。 余程、規範や体制に無頓着か従順なんでしょう。あなたのコトバを 解き放ってみたいとは思いませんか?思考されないから薄っぺらで ぺちゃんこで、貧しく、品がなくなるのかもしれない。打ち破って、 もっと立体にひねり出したいと思うの。じゃあどうしたら良いの だろう?時には、ひん曲げてみるのもいんじゃない?屈折はないの でしょうか?逆立ちしてみたり、男の人だったら大きくて勃起する ばかりで、行かせられると思ってたら大間違いよ!足の踝を後頭の 窪みとショートさせるとかさぁ。コトバのアクロバットが良いなんて 思っちゃいないけどさ。そうしてみたら外の見え方も、そのコトバ を当たる手つきも変わるんじゃないかしら。って思うのです。 これがもっと切実に圧し出されて切羽詰ってくると、 ひん曲がらざるを得ない、多少なりとも複雑ではないでしょうか、 わたしたちの生きる世界は。あるいは世界の実相とよばれるものは。 ご免なさいね、好き勝手云って。 芸術の高踏なんかじゃないわよ、批評も、理論も、読む行為も、 詩作も、みんな【書くこと】に関わる切っても切れないこと。 【書くこと】と【生きること】の連続に生きること、その思考へと 牽引する【生きる日常】なんだと思う。たぶん、 詩のコトバは幅広い。言い換えるとポエジーは歌の中にも、ある。 それを否定するものではありません。けれども近代以降の現代詩へ の歩みは、わたし今、お勉強中なの。 生きる中で、幅広く、深く読んで、書く、生きる、読む、 若い詩の書き手のみなさんたち、 ここの片野さんたちが、どんな思いをして、どんな努力をして、 あのFPOからNIFTY現代詩フォーラムを経て、そしてこの サイトづくりに尽力されてこられたのか、思いを至らせたことが おありでしょうか? わたしも、どんな詩も一編一編の詩を、たいせつに、たいせつに 扱い、読ませていただいて、育てられ、連なってきた一人です。 このフォーラムで「批評」している人たちへ、感じることを 書き手として、書いてみただけ。 by 有井いずみ >184 有井さん、ごくろうさま。 伝わらない相手に伝えようとすること、 オリンピックの水泳選手よりしんどかったんじゃないですか? 反省しきりであります。 ま、わたくしめも、コンゴ、簡単お手軽批評は、ひかえることにいたしましょう。 とうぶん、雲隠れだ。 by 一番絞り 参照先不明 参照先不明 >うつむいて >うつむくことで >君は私に問いかける >私が何に命をかけているのかを >よれよれのレインコートと >ポケットからはみ出したカレーパンと >まっすぐな矢のような魂と >それしか持っていないものの激しさで >それしか持とうとしないものの気軽さで >「詩集・うつむく青年/巻頭歌第一連」 >この詩集に特に強く感じられることだと思うのですが、谷川俊太郎には、運命と >対決するスタンスが常にキープされていると思う。 >それが彼の「幻」のありかたの、不思議な優しさに繋がっているのではないかなあ、 >と思うのですが、僕にはまだ、きちんと語りきることはできません。(ボルカ) ぼくはこの詩集読んだこと無いので、目の前にあるフレーズからのみお手軽な感想を述べさせて もらうと、この詩は一言で言って「劇画」です。 若いひとがこういう劇画的美学に惹かれるのが悪いとか、バカだとかいっているのではなく 事実をいってるだけですので誤解なきよう。 「何に命をかけているのか」と他者に問いかけることは、これはかなり相手のプライバシーに 踏み込んだ問いかけです。 もし、見知らぬ相手にこんなきついことを問いかけたりすれば冗談じゃない、脅迫めいたことを言うな、と 無視され突っ返されるでしょう。 ですから、「私」に向かってこのような問いかけをする相手は、「私」にとってただの他人ではなく、 なんらかの関係にあるものでしょう。 仮にその関係を「私」=詩人の谷川、という設定にしてこれを読めば、うつむく青年は谷川の 熱烈な読者ということがひとつ考えられる。 「おまえ、真面目に詩ぃ書いていんのかよー」 「おれたちの気持ちわかってんのかよー」 「真剣に読んでんだけどよ、おまえ、真剣に生きてんのかよー」 ま、わたしのようなカラミタイプのファンてとこです。(笑) これが「私」(いちおう谷川)の設定した想像上のファンであっても構わないし、現実にそういう 青年がいたとしても構わない。 いずれにせよ、「私」はそう「問いかけられている」と感じている。 しかし、その「問いかけ」は「激しい」けど、結論としては「気軽」なんだ。 なんとなれば相手はカレーパンしかもっていない立場から「問いかけ」ているのだから。 「私」のように社会的立場があり複雑な人間関係の谷間に閉塞してないかわりに、責任も義務も少ない、 貧乏な青年の問いかけは「激しい」けれど、「お手軽」なんだと、言っている。 よれよれのレインコートを着て「うつむ」いてしか、ということはほぼ黙っている青年に そういう態度をとらせる立場にある「私」は そういうことを連想し感じている。 そういうメッセージです。 それがボルカさんのいうように、どうして「運命と対決するスタンス」になるのか? そこは詩集をとおして読んでないのでわからないけれど、 フレーズの選び方、転換の仕方、改行のし方などからある種の青春アクション映画ないし 劇画調に意図的に構成している感はまぬがれない。そこに若い人は一種の美学を感じてしまうのだろうけど しかし、このような設定、カレーパンとよれよれのレインコート、うつむく青年...は谷川が仕掛けた もうひとりの自分、つまり自分を見つめている自分、として設定していることは十分わかっているつもりだけど。 (だから、表題の青年が、どうして「うつむい」ているのか、そこに谷川のなんともいえぬ、うしろめたさみたいなもの を感じるのだけど...) で、このあとボルカさんはカレーパンとわたしの詩もどきにあるアンパンとを対比しているわけだが。 その前に、こんなことを書いている。 ところで、このスレッドには、一番絞り氏の「マンドリン」がアプされているけれ ども、彼がこのモデルを「すねかじり」と呼んだのは、別スレで、自分と対立する 論を展開しているモデル氏が学生である、ということ知った瞬間でした。 すなわち、氏にとっては<学生=すねかじり>なわけで、それ以上の人格を彼に認め る必要を氏は少なくともその瞬間、感じなかったわけです。 こういうスタンスは、谷川のこの詩集における青年への語りかけとは好対照をなし ているように僕は思いました。 マルクスもどき批評をすれば経済的土台関係が観念的上部構造を規定するわけで、ほんとかどうかしらないけど(笑)、ぼくは基本的に学生というのは社会人ではないから、「スネカジリ」です。「スネカジリ」が社会人に大きい口を開くときは、それなりの礼儀をわきまえろということです。そういう古風な儒教観がまだあるものでね、ぼくは。 で、谷川のこの「青年」への語りかけは、このフレーズを見る限り、自分自身への語りかけでもあるわけです。ほぼ、自己弁護の。最終行で青年のその質問が「気軽さ」に拠っていると述べているわけですから。ま、どーでもいいですけど。 このサイトには彼の「あんぱん」がアップされているけれども、わずかに塩見の利い た、しかし基本的に甘いアンコの味が空腹にもたらす優しい自己肯定と、引用した 「青年へ」の青年がポケットに突っ込んだ、カレーパンのオイルまみれの辛味は、これ もまた好対照を成すものだ、と僕は思います。 あんぱんのアンコはそっとなめて甘みを味わうものですが、カレーパンはまさに丸かじりする類のものです。 前者には品があります。後者は生活そのものです。 脂臭くて手が汚れるカレーパンは詩には不向きです。 あるいは一番絞り氏は、自己肯定のアンコを片手にしか、青年であることができなかっ たのかもしれないし、それはあえてカレーパンをポケットに突っ込む青年より、厳し い状況にあったということなのかもしれない。 そういうことは僕には分からないけれども、僕はアンパンを<自分のために>もつ旅行 者より、カレーパンをポケットに突っ込んだ青年の方が好きです。 谷川の「青年へ」というこの詩集がサンリオから出版されていることは僕を別の連想へ 誘うのですが、あるいは砂漠をゆく飢えた旅人に、アンパンを、<僕を食べて>と差し 出すあの有名なヒーローの方が、一番絞りさんより詩人だと、僕は思います。 この『青年へ』はなかなか面白そうだよね、たしかに。 今度読んでみますよ。 by 一番絞り 参照先不明 参照先不明 >>211 >事務仕事に似ている作業は、僕にはもともと体質的にできないんだな。 これよく分かりますわ。 嫌いな課目の授業は、もう全く頭に入らないし(これは今でもそうですね)、 部屋も昔はもう凄まじかったですし。 それを支えるのだけで、他人にとっては当り前の事が倍気力を使う、と言う。 流れに乗るとか意識しなければ割合大丈夫なんですけどね。 事務的な事は殺人的に嫌いですね(笑)。 まあ世の中、事務的な事が多いので、その適正に気付いていない人が、 病気を悪化させる事もあるんでしょうし。 余計な揉め事も起きるんでしょう。 まあ、そこの感覚が分からないと、結果全体にとってもマイナスになるんでしょうね。 まあ、それを私は無理矢理やってみましたが、 やはり陰惨な結果になりましたし。 まだ、ボーっとしている方がマシ、と言う(笑)。 要は、こまごまと動きたい人は元々そう言う性格なだけで、 それが適正だし好きなんだ、と言う事で。 by 汰介 参照先不明 >210 >狙いととられることは私が意図するところではありません。 >ちなみに、どうして書かれないのかなあ、というのは川元さんの読みを通じて浮かび上>がった疑問である そうですね。私は「これは日記ととれる」と、断定して言うことが、怖かったのだと思います。自分の批評がつたないものであること、また、過去の石畑さんとの私信のやりとりから、使う言葉に気を使わなければならないと思ったこと。それで、「作者に聞く」という誠に方向外れな書き方になりました。また、「狙いなんですか?」という私の言葉もどこか「狙いのつもりでもそれにしてもなっていない」だとか、「日記程度のものしか書けない」というようにもしかしたら石畑さんは受け取られたのかもしれません。しかし、そういう気持ちではありませんでした。あくまで私の不安からです。 >“言葉の飛躍”が感じられないことが詩にとってよくない要素だとは必ずしも思ってい>ません。もちろん作者の個性は大きな魅力のひとつです。しかし詩作において・また読>み手としても私はそこだけに終始するつもりはないので 同感です。私も、「言葉の跳躍」が見られないことがいい詩か、よくない詩であるかに、大きく関わっているとは思いません。 >暗に表現することもあれば文字そのままを用いることもあり、さまざまです。 それは理解しているつもりです。また、「視姦」という言葉が出てきた詩が、「未詩・独白」であったこと、きちんと確かめもせずに、言及してしまい、もうしわけありませんでした。 >文字そのままであることのインパクトという点をおっしゃっているのかと受け取りつつ そうです。 >暗に表現されたものでも現にそこに“表現”されているのならば危険は同様であると私>は考えています。 これは意見の相違です。これについては後に述べます。 >想いを言葉にする際、また構成上、作中に必要な言葉ならば私は使います。 それは私もそうです。皆さんそうだと思います。(←これも嫌味で言っているのではありません) >衝動に任せるのではなく、できることならきちんとご自身の中で思考をまとめてからに>していただきたかったです。互いの認識が異なるままその枝葉の部分でまた議論をしな>くてはならないような状態はなるべく避けたいのです。 全くその通りです。精神的に参っていたことを理由にして申し訳ありませんが、感情的なままで、意見を述べ、申し訳ありませんでした。 少し長くなります。 >文字そのままであることのインパクトという点 これは、女性の作者が作中で「セックス」「濡れる」「ヤル」等、文脈からではなく、はっきり「性」と受け取られる言葉、インパクトのある言葉を使って書いた作品の読者の中に、 「こういう言葉を使う女はヤラせてくれる」「ヤリタイんだろ」という稚拙な感想を持つ方がいらっしゃることは事実です。そして、私が言った「女性を辱める」というのはこういう読者が「結局女というものは、エロいんだ。薄汚い」→「女なんて下劣」という狭い意見に達する読者が実際にいるのです。これは、ごく一部のことかもしれません。それで、「女性を辱める危険性がありませんか、とお聞きしたかった」という言葉を使いました。それで、「暗に表現されたもの」よりも、「インパクトのあるもの」の方が、その危険性が高いという意味で使いました。しかし今は、単に、「こういう読みをする読者もいる」というだけのことであると、私は考えています。 >確信できる要素は、しかしどこにもないのではないでしょうか。人の心とは、表現する>者の想像範囲内にいつでもあるものとは限りません。 全くその通りです。私もそう考えます。自分の作品コメントにも書いていますが、(これも、「あなたは何も読んでいない」という意味ではありません)書いて発表したら、読んだ方のものになると考えています。これも、書いたものに責任を持たないとか、修正をしないという意味ではありません。読まれた方の感想が、全く自分の範疇外であることは、とても興味深く、嬉しいものです。 また、説明する為に、私的なことをお話しなければなりませんが、ご了承ください。かって私は「書く時」に使う言葉をとても選んでいました。自分にとって許せない言葉がありました。それはとても細かいこと、例えば助詞、過去形か、そうでないか、といったものから、名詞までありました。それは、自分が書く上で、禁じていればよかったことです。ただ、石畑さんにもかっての私信でお伝えした通り、諸事情により、その、自分が禁じていた言葉を当時使ってらっしゃった石畑さんに、矛先を向けてしまったこと、大変もうしわけ有りませんでした。 前述のおかしな感想を持たれる読者のように、「作品」=「作者」と捉える方がまだまだ多いのです。そして、私自身も、「書く時」に、使う言葉を非常に選んでいたこと、また、「書かない時」でも、言葉に敏感でした。簡単な例でいうと、ラジオで好きな歌手が、リスナーに対して「うるさーい」と言うのを聞いて、もう好きではないと思ったりしていました。しかし、「書く時」はある程度作者の制限があるとして、「書かない時」の「作者」というのは「人」です。言葉は動いています。現在は、人がどんな言葉を使ったからと言って即、その人を嫌いになったり、好きになったりすることはありません。また、そう考えることで私自身も「作者」と「作品」をはっきり独立して、やっと考えられるようになり、最近では、書く時に使う言葉、言い回し、が随分自由になってきた、と自分なりに考えています。 石畑さんは、「書く人」である前に「人」です。それで、今回、気をつけたつもりでしたが、他の問題で精神的に参っていたこともあり、冷静になれず、石畑さんを傷つけてしまい、申し訳ありませんでした。 私に対する書き込みを拝見する限り、感情を高ぶらせてしまっているようで、全く、自分のしたことからによるものですが、早く、精神的に落ち着いてくれることを願います。 また、この件に限らず、何か、私の発言で石畑さんが、疑問に思うことがございましたら、遠慮なく、お聞きください。その際、私信はお控えになりたいということですし、私も私信でお答えするのは恐縮ですので、雑談スレッド等、お使いくださるとよろしいと思います。白糸さん、片野さん、度々の失礼、お許しください。 by 山内緋呂子 セクシャリティのお話。 (先にお断りしてしまうが、以下に書くのは批評ではなさそうだ。しかも思いつきだ。 御甘受あれ。もしくは無視する方向で。) かつて「女性詩」なるものがもてはやされて以来、ではわれわれの性のとらえは何も変 わっていないのか、というと、否そんなことはないのである。なぜというにたとえば 「奥主氏の言うように〈「やらせたくない」女とか「やりたくない」女が存在するのが別に構 わないのと同じように、「やらせてくれる」女とか「やりたい」女がいても良い〉程度のこと は普通に言えるしあたりまえじゃん」 というような言説もまた流通しうるし、それを女が言っても、言う女を無効化する傾向の 「倫理」はもはやない。嫌悪する向きはあるであろうが、嫌悪を「倫理」にすり替えて発 言者を責めようものなら、むしろ責めた人間が「偏狭」と見なされるほどに。 性が禁忌の領域に追い込まれたのはたかだか近代じゃねーかと怒っていたのはフーコー だったと思うが、しかし彼が暴き、そして死に、 21世紀に到っても、詩を書く女同士の間 で性を「露わに書く」態度に対するせめぎ合いがあり、そしてそれに強い関心を抱く私(詩 を書く女)がまた存在する。われわれはいまだ近代に生きているのか。あるいはセクシャ リティの禁忌は、やはりもっと根深いのか。 バタイユのいうエロティシズム? それは 死につながるから禁忌なのだ…というあの話を思い出す。 どちらかというとこれは昔馴染みのジェンダーの発現だ。女が、性的描写を言語作品(と いう言い方に逃げておく)に著すことと、自身で発語することの違いは何か、あるいは違 いなど存在するのか、ということを考える。酒の席でのエロ話はいくらでもかまわないが、 詩に性的描写を入れるのは疑問だ、という意識を持つ者がいる。逆に、作品に書くのはO Kだがエロ話はやめようぜ(聞くに堪えない)、という向きもある。どちらも御免こうむ るという場合も、どっちも気になんないけどなー…てか好きだけど、という場合もある。 むろんそこに善し悪しなどない(とポストモダン風に言っておく)。そして、ぶっちゃけ どの立場であっても、所詮は近代の性享受のからくりの手中にある。というか、多くの場 合、女物書きはそれを利用するのだ。 女の言葉に含まれる性的描写は、その内容よりも、「女によって語られる女の性」とい う妙な磁力によって付加価値を得る。禁忌とされているがために、負の力にさからって引 きずりだされた「女の性」は、禁忌の力を得てエロティシズムを帯びる。いやむしろ「女 が(主として)語る」ということにこそ禁忌のフィルタはかけられており、語る女も、聞 く男たち女たちも、ここに産まれたエロティシズムを、中空に結ばれたエロスの幻影を、 最重要視する(だから「女教師もの」の人気が高いし女子アナはもてはやされる)。驚き と罪悪感と隠微さ。いまとなっては、セクシャリティ発現の禁忌の各段階は、プレゼント にかけられたリボンと薄紙のようなものだし、意外にも話題となる「女の性」のスタイル は限定的だ。つまり私的であるような描写、日常的であり、一般的ヘテロセクシャリティ の嗜好から大きく外れていないこと…要は市場は大きいほうがよいというネオリベラリズ ム…「表現の自由」(笑)と引き替えに、新しい性の禁忌が産まれつつあるのだろうか。 (おかしなことに、書店にずらりと並ぶ「女が書いた架空の男の性」−いわゆるBL系− については、多くの男は関心を示さないし、そのような女の性の発露の、さらなるねじれ を気にしない。) あ、疲れた。 自分の立場を表明しないのはフェアでないかもしれないので、ちなみに私は「言ってし まえ」派である。からくり利用だ。驚かせてやりたいと思い、驚くという近代人の反応を アテにしているに過ぎない。「視線」にまじる下劣さなどは、こちらも持ち合わせている 程度のもので、作品は作品として屹立していてくれれば、卑小なる私など置き去りに、エ ロティシズムという至上の力を、わずかにでも帯びるのである。まあそんな作品を書けれ ば、いいね、みたいな。 いろいろ見落としていることがあるはずだ。何か思いついた方はここでご指摘ください。 この件で私信をいただいても、当方がここでまるごと曝すことを前もってお断りしておき ます(笑) by 田代深子 参照先不明 んだば、そろそろ次の詩でもやるべえか。 というわけで、チアーヌさんの「チャームポイント全調査」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=19252&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D764 のっけからもう言っちゃおう、あーやだ。 何がやだといって、モデルオーディションという現場自体がやだ。 それってまるで奴隷市場みたいなもんでさ、売り場に並んだ奴隷たちがそれぞれの用途にどれほどふさわしいかを語らされるように、「モデルちゃん」たちは自らの「チャームポイント」について語っている/あるいは語らされているわけで、それは「商品」としての「モデルちゃん」たちには至極当たり前のことではあるのかもしれないけれど、その「商品」としての美点であるそれぞれの属性、つまりは「目がきれい」だとか、「天然ボケ」だとか「足」がきれいだとか言うのは、実は彼女たちが己が身に備えていると信じている、「女」として好ましいとされる属性で、その虚構性をいちいちこの詩の語り手はさも得意げに突っ込んで見せているわけだ。でも実はこの「チャームポイント」の持つ虚構性は、「モデルちゃん」たちが自らそう思い込んでいる、あるいは自らを商品にしてしまうことでそう言わされている、というだけの問題ではなく、それらの属性が「女」にふさわしいとされている事自体にあるのだけれど、狂言回したる語り手の彼女がその点にまで思いが至ってないことは明白だったりするのでそこで俺はがっかりしちゃうんだよなあ。 「チャームポイントは」「ふつうは調べたり、申告したりするもんじゃないんだ」というフレーズから、かろうじて彼女はチャームポイントを申告させるということ自体の虚構性に気がついているようには見えるのだけれど、そこから導き出されるのは「チャームポイントは見えないところにある」というつまんねー結論だけであって、つまりは「チャームポイントは外面ではなく内面なのだ」という、虚構性をさらに誤解して、内面という「見えないところ」に美徳を求める退屈な倫理に着地するところまでしか、彼女の考えは及ばない。及ばないからこそ、彼女は「上司」が自分に向けた質問に対して笑って答えてしまえるわけだ。 要はこの「彼女」は徹頭徹尾上司=「おっさん」の思考に自らをシンクロさせてしまってるわけだな。んでもって、自分がそうなっちゃってることに対して何も考えないくらいに鈍感なんだ。だからこそ、「足」が自信の「モデルちゃん」に(よし、見せて、付け根までね)なんて、てめえがいわれたら寒気がするであろうに違いないようなセクハラまがい、いやセクハラそのものでしかないような突込みができちゃうんだろう。んでもって平気でおっさんたちの品定めに参加ができて、「世の中はキビシイ」なんておっさんそのものの感想を漏らして、着地地点は「チャームポイントは見えないところ」だなんて、これまたおっさん好みの倫理性だ。 実は構成からいうと、「上司」が「ふいに」彼女のチャームポイントはどこだ?なんて聞いてきたときに、この詩はすごい展開をすることだってできたはずなんだ、と俺は思う。 たとえばこのシーンは、アウシュビッツの収容所でドイツ兵の下働きをさせられている小利口な(でも決して利口ではない)ユダヤ人が、ガス室に連れ込まれるユダヤ人たちを一列に並ばせて選別してる場に立ち会わされて、ドイツ兵があれこれと価値判断して「こいつはガス室」、「こいつは収容所」、「こいつは農場」とか選別したのをその通りに列を作って並ばせて、「「全員足踏み。前へ進め!」なんて号令かけた後でさ、さて今日も一仕事終わりましたね、なんていってドイツ兵にお愛想笑いかなんかして見せてるときに、「ふいに」当のドイツ兵から「お前も明日からあっちの列に並べよ」って言われたに等しいんだぜ?(かなり長いたとえになったけど、ごめん) おっさんの思考にシンクロして、おっさんと同じ品定めに参加して、で最後の最後に「お前だって女じゃん?」って当のおっさんから突きつけられてやがんの、笑ってる場合じゃないでしょう?何で気がつかないんだろう?どうして自分は「モデルちゃん」(大体この「ちゃん」付けがすでにあれだよな、小馬鹿にした物言いだったりするよな)とは違う人種なんだって勝手に決めちゃうんだろう、同じ女なのに。 これがフェミニズムの間違った到達点である「女性にも男性並みの職権を」の帰結点なんだ、とか言うと、話が大きくなりすぎちゃうのかも知れないし、どっちにしたって彼女が鈍感であることには違いはなかったりするのだ、あーやだやだ。 by 山田せばすちゃん >>235 反論。こういう批評は山田さんの芸風なのかねえ…。 この詩に対して、山田さんが嫌悪感をあらわにするのは正しい。 なぜなら、そういう意図を持った詩だから。 最終部での彼女と上司との笑いはけして調和的なものではなく、ヨソ行きの御愛想と皮 肉が混じった、乾いた「大人としての」笑いなんですよ。 つまり彼女は鈍感ではなくて、山田さんの言及しているオーディションの欺瞞に気付い ているんです(アウシュビッツ云々まではよう知らんが)。 だから上司のセクハラまがいの質問に答えて「みた」んです。上司の考えてる(だろ う)ことに答えを合わせた。それはいわゆる「結論」ではなくて、もちろんのこと品定 めをする側の優越感でもなくて、まあせいぜい、ちょっと謙遜の混じった処世なんで す。 彼女が「モデルちゃん」をバカにしてるとはぼくは思えないけどなあ。 by 角田寿星 >>自分がひっかかった作品に関して、自分が言いたいことを便乗して書いているだけのような気がして 俺の感じた「違和」を、作品世界に即して言語化する過程で、俺の世界認識が提示されてるということですよ、奥主さん。俺があくまでもやりたかったのは「違和」の分析と言語化で、フェミニズムのプロバガンダじゃなかった・・・とは言うものの、所詮フェミニズムも「イズム」ですから、そう受け取られてもしょうがないっちゃあしょうがない類の物件ではありましたけどね。 >>「こういう発想を受け止めてくれる社会というものが厳然として存在しているに違いない」という弱さが、やっぱり漂っていると思うのだ。 ええ、それを「弱さ」というか「鈍感さ」というかはそれこそ個人的な語彙の問題ではないでしょうか? ついでに言えば奥主さんに「無理やり捩じ込んで」といわれた俺の批評態度は、かつて佐々宝砂に「強姦魔」といわれたこともあったりするのですが(苦笑)、たとえそれが「無理やりに捩じ込む」もんであろうと「優しく口説き落として、前戯おさおさ怠りない潤滑な挿入」であろうとも、小倉千加子http://www.logico-philosophicus.net/profile/OguraChikako.htmに言わせりゃ「すべてのヘテロセックスは強姦である」わけですし、大体俺は前提として作者そのものを強姦しようと企てたことは一度としてなく、作品を強姦してるのですが、ついぞ作品そのものからの「痛い」という悲鳴は聞いたことはありません。 by 山田せばすちゃん 議論するつもりはありません。だから、他のスレッドに書き込もうかとも考えましたが、話の流れからそれもおかしいと感じましたので、ここへ書き込みます。 作者だからと出てくるな、とか一読者として参加すればいい、とか、意見の押し付けはやめていただけませんか?批評も自由ですが、この場所(ここ現代詩フォーラム)はわたしも共に参加する場所です。わたしが思ったことを言うのも自由なはずです。 ついでに、わたしはわたしの詩の、一読者ではありません。あくまでも書いた本人です。 考えや感覚は、違って当たり前ですから、自分の詩の「一読者」になれる人もいるのでしょう。しかしわたしは違います。とりあえず、今は違います。わたしの詩は、最近書いたものが多いですから、もしかして年数がたてば、心境も違うかもしれませんが。 それから。わたしの姿勢に関することにだけは、きちんとしておかなくては、と思いましたので、これだけははっきりと申し上げておきます。 >ひとつだけ個人的な感想を言わせてもらっていいならば、ああ、この人は人前に自分の>書いたものを投稿して載せるという行為については、この程度に無責任で、この程度に>覚悟のない人なんだなあ、ってところですが、むろんその感想と投稿された作品の評価>を連動させるつもりもありません。 わたしはこの発言を読んで、非常に嫌な思いをしました。 簡単に人を侮辱するのはやめてください。 「この程度」などと、嫌味な前フリをつけてまで・・・・。 わたしも、長く文章を書いています。「何か」を書くことを、やめられずにここまできた人間です。その場その場で、真摯に書いてきたつもりです。 批評は自由ですから、ご勝手にどうぞ。しかし、人を貶める発言はご遠慮ください。山田さんの言う「責任と覚悟」とわたしの思う「責任と覚悟」の種類は違うかもしれませんが、それを議論するつもりはありません。 わたしは自分の産み出した詩や小説に責任を持っています。 人のあげ足を取るような発言はやめてください。 最後に。 山田さんが本気で、わたしのことを無責任で覚悟のないもの書きだと思うのであれば、どうぞわたしの詩など読まないでください。わたしはどの詩もわたしなりに本気で書いていますが、そう感じられないのでしょう?だからそんな風に言うのでしょう?それならば、そんなもの読んでもしょうがないでしょう? 本当は、こんなことこんな風に書いて書き込むのも嫌です。 わたしは詩についてだったら、「議論」なんかじゃなく「会話」がしたいです。感想だけじゃなく。わたしの好きな詩人の方のサイトで、「会話」をしているのですが、文章のことを、話したり、聞いたり、話し合ったり、それでいろんな風に感じたりして、「会話」はすごく、有意義だと思いました。たとえ、最初は意見が合わなくとも、相手の言っていることの意味がわからなくとも、わかりあえるようになることがあるし、もしわからないとしても、「会話」したことが、後で、自分の腑に落ちてきたりする。 そういうことは、山田さんとのこんな風なやり取りでは、わたしは生まれてこないような気がする。山田さんのスタイルは、結局のところ、詩評した相手に対し(読者に対しても)嫌な気分を残すだけなのではないだろうか?(例外もあるかもしれないけど、大抵の場合。)同じことを話すのでも、もう少し、(せめてもう少し)静かに、穏やかに、話せないのだろうか。 (わたしだって、本当は穏やかな人間だとは言えませんが、でも。) なんだか、嫌な書き方になってしまったと、自分でも思います。 少し過敏な反応だったかなとも思います。 しかし、わたしはそれぐらいショックでした。 我慢しようと、一度は思いましたが、我慢がなりませんでした。 きつい書き方をしたことで、不快な思いをされた方がいれば、本当にすみません。 話は変わります・・・。 奥主さんの、一連の発言、こころに残りました。考えさせられました。わたしはわたしの思うものを書いていくしかありませんが、「考えること」を続けるうちに、いつか腑に落ちて、自分の血肉になればいいと思います。わたしは、何かを考えるとき、頭だけで考えただけでは理解ができず、腑に落ちるまで時間がかかります。 考えるヒントを与えてくださったこと、感謝いたします。 石川さん 一連の最初のご発言、興味深く読みました。無意識の部分を指摘されたような気がしました。ただ、時折、自分は無意識を言葉にしているのではないか、と思うこともあります。少し説明が変ですけど・・・。うーん、むずかしいです。ごめんなさい。 by チアーヌ >石川さん わたしもそう思います。 >山田氏は彼の感受をもう少しく明らかにした後読みに入って欲しいと願う。 正直言って、山田さんがわたしの詩をここで「ドトール」「チャームポイント」と続けて取り上げている意味をわたしは判りかねていますし、また、わたしはここに詩を多数、投稿していますが、わざわざこの二つを取り上げる意味が判らない。 まぁどれを取り上げようと、それは山田さんの自由だから、かまいませんが、理由を説明してもらえると、意図がわかりやすくなります。 わたしは、「ドトール」「チャームポイント」での一連の山田さんの発言から、山田さんはわたしの詩など殆ど読んでいないか、または読んでいても嫌っているのだろうと思っていますが。それはもちろんちっともかまいませんけれども。でも理由は知りたいです。 あと、この際ですから、もうひとつ、過去にスルーできない発言がありましたので、ここに書いておきます。 以前「ドトール」の批評の際、 >いや、大体、俺が出入りしてる同人誌のレベルがどうだ、とか、こんな詩が同人誌に載>ってるのだとしたらその同人間の見識がどうなんだとか、いろいろ突っ込みどころもあ>るでしょうがね の発言を読んだときは、かなり不快さを感じました。しかしそれを書くのは、そのときの本題からずれていると思い、あのときは書き込みはしませんでしたが、今この場で申し上げておきます。山田さんは、わたしだけでなく、過去の同人仲間まで侮辱してくれたのですよ。山田さんがどんなに敷居の高い同人誌にいらっしゃるのか知りませんが、わたしは過去の仲間を今も大事に思っていますし、そのときの同人の主催の方を今も尊敬しています。そして、わたしがいた同人誌は、けしてレベルの低いところではなかった、と自負もしています。小説がメインの同人誌でしたが、詩を載せたこともあります。「こんな詩」を。 何でも言っていいのだと、思っていませんか? わたしだけでなく、過去の同人仲間まで侮辱することはやめていただきたいです。 わたしは山田さんと「議論」も「会話」もしたくありません。さきほどの発言の最初にそう書きましたでしょう?それに、山田さんにとっては「議論」も「会話」も同じものなのでしょう?わたしにとってはまったく違うものです。大体、言葉の意味が違うじゃないですか。「どうせ同じなので」という方とは「会話」はできません。 それに、「会話」というのは、あくまでも「会話」であって、山田さんのいつものスタイルでなさるお話はわたしにとって「会話」とは100万キロくらい離れています。 それに、わたしが言ったことは「文句」なのでしょうか? あれを「文句」と受け取るのであれば、その時点でお話はできません。わたしはわたしの姿勢にかかわることだけをお話しました。これだけはスルーできない、と思いましたので。山田さんに対して「文句」など言っていませんよ。批評についてはご自由にどうぞ、と言っているじゃないですか。今回は批評の内容にも触れていませんし。 でも、わたしとしては、山田さんからみて「こんな詩」を、わざわざ批評なさらなくても、と思いますけれど。それこそ、時間の無駄、でしょう? 山田さんにとって批評しなければならない詩は、もっとほかにあるのでは? わたしは侮辱されたことに対しての怒りを述べているだけです。そして貶められたわたしの創作に対する姿勢を表明しました。まぁでもそれを、山田さんは「文句」というのでしょうね。 そもそも、「会話」というのは、こじれていない状態でするものです。ニュートラルな状態で行うものです。わたしは山田さんに対して、考えや姿勢を固めつつあります。心無い発言について怒りの念も持っています。それに、批評のスタイルも、好きではありません。今後、「会話」が成り立つとはとても思えません。わたしと山田さんとの間で、発言がかわされるにしても、それは「会話」とは違うものであるとわたしは考えます。 by チアーヌ 作者が作者自身の作品を解説する、このことはまったく信用のおけないこと、うしろめたいことですが、それから導いてみれば、作品の批評の現場に作者自身が入り込むことは、論じられていることがたとえどんなことであろうと、やってはならんことなのです。固まっていない生コンに足を踏み入れるようなものです。批評形成段階において批評の的となる本人が現れる、つまりそこに信憑性の欠落を招き入れることは、批評そのものの完成には害だと考える訳ですよ。いいとか、わるいとか、そういうことではなく、間違っていると言いたい訳ですな。 by 黒川排除 (oldsoup) 「この料理は美味しくないなあ」ではなく、 「あー。やだやだ。この店はこんなくそまずいもん食わせんのか。料理人は何考えてんだ? こんな食材をこんなふうに扱うなんて、鈍感なんじゃねーの?」みたいに、店の中で大声でわめきちらされたら、やっぱイヤだなぁ(笑)。 それは、美味しくない、と言われたことに対してではなく、ね。 昔、吉野家で、「この牛丼まずいよ? タイ米でも使ってるんじゃない?」と、ネチネチ店員に絡んでる人がいて、 それを見て、すごくイヤな気分になったことを思い出した。 流れとは全然関係ありませんが。 by いとう 前のほうに「emotion過ぎるスレ」という意見があったけどまさにそのとおりで、情緒的、感情的なコトバのぶつかり合になってしまっている気がする。 もともと最初の切り口から違っているんじゃないだろうか。書いてある内容について咎めていくと、結局、詩の良し悪しの話から離れていってしまう気がする。たとえば、ある詩が面白い感じ、その理由が単に、書いてある内容によってであって、詩の表現によって特段にそれが際立っているわけでもない場合、「これって別に詩として書かなくても、エッセイでも短編小説でもよかったんじゃないの」と感じることもあります。そうした時、その違和感(ある意味、不満感か)を内容のほうへぶつけてもしょうがないのであって、むしろ、詩表現に注目するほうが前向きかな、と思います。 by 片野晃司 皆さんこんにちは! ざっとここのスレ読ませてもらいました。すごく長くて疲れました。 で、今って、山田さんは悪か善かみたいな論議されてますよね。個人的な解釈ですが。 おそらく、批評をするということはその作品自体に魅力があることだから、その時点でほめられてるんですけどね。山田さんくらいの人が批評するときって。たぶん。読んでて思いました。 その書き方が、乱暴だとかどうとかってことですよね? 自分の意見から言わせてもらえば、乱暴ですね。でも、礼儀正しいと思いますよ。すごく。言葉を書くという行為に当たって、僕はへらへらしてるのが好きだからなんとも言わないけど、まじめな人になればなるほど、礼儀がない人って許せなくなるもんじゃないですかね。 言葉書く上で、どこまで覚悟してんの?みたいな感じ。僕でさえ、持ってしまったりするときがある。でも、そう思うって、単純に何か引っかかるものがあるからで。 「世界の中心で愛を叫ぶ」が売れたのって、少なからず誰かがすごい好きだったからだと思う。でも、誰かの好きは誰かの嫌いであって、売れれば売れるほど批判したくなるでしょ。嫌いな人って。その時点ですでに僕は感情論だと思う。 で、山田さんの場合はその感情論をさらに逸脱しようとして、結局転んじゃったみたいな感じかなあ。奥主さんの文章読んで、僕はそう思いました。それを、反対派の人たちは非難するわけで、そりゃおかしいぞ!って僕は思いますね。確か発端はチアーヌさんの詩だったと思いますが、そこで、やっぱり話さないと。 そして、山田さんの書き方がまずいのは、丸裸なことですね。たぶん。愛する二人じゃないんだからさすがに、丸裸の山田さんを抱くことは出来ないんじゃないですかね?でも、そういうところも、僕は、礼儀正しいとは思うんですけど、いきなり、素っ裸で現れたら、強姦ですからね。たとえ愛の告白をしようとしていたとしても。 言葉のマナーを守りすぎると、社会のマナーがおっつかないみたいな。いっそ、ヒッピーみたいに同じ思想の人だけ集まっちゃえばいいのかもしれないけど、それじゃ意味ないですからね。混濁した社会でしか批評は意味を成しえない。てか、批判が生まれないし。 話を戻します。 単純に、批評する人は嫌われるのだ。なぜならば、大体そういう人は人の倍も本を読んで、あらゆる角度から、物事を見ようとして、そのあらゆる角度から見た結果で、(個人的なアンケート調査ですよね)物事を述べるから。やっぱり、物書きは批評家と戦うには想像力が邪魔しすぎて、本を読まなさ過ぎるのだ。「僕はそれでいい」と思うなら、罵倒されることを良しとしなければいけない。「僕はこうじゃない」と思うならば、書く事をやめて、本を読み始めるしかない。 文化論とか、トリックスター論とか、この世にある本が何冊、文章が何億存在するというのだろう。だとしたら、山田さんの鼻をくじける、本と出会える可能性は高いのだ。たとえ、ニーチェやバジュラール、孔子みたいな、有名な人を読まずとも。 結局、僕は、山田さんの批評見て「うわ、こいつ感じわりいなあ」って思ったけど、いえてるし、なにより、反撃できない。それこそ、自分を甘えさせてしまうようなそんな文章になってしまう。いつか、俺は、山田さんを根本からひっくり返したいと思うのです。 by チャオ >>297チャオさん、こんにちは。 これは山田さんのことを置いといてなのですが、 >単純に、批評する人は嫌われるのだ。なぜならば、大体そういう人は人の倍も本を読んで、あらゆる角度から、物事を見ようとして、そのあらゆる角度から見た結果で、(個人的なアンケート調査ですよね)物事を述べるから。やっぱり、物書きは批評家と戦うには想像力が邪魔しすぎて、本を読まなさ過ぎるのだ。「僕はそれでいい」と思うなら、罵倒されることを良しとしなければいけない。「僕はこうじゃない」と思うならば、書く事をやめて、本を読み始めるしかない。 >文化論とか、トリックスター論とか、この世にある本が何冊、文章が何億存在するというのだろう。だとしたら、山田さんの鼻をくじける、本と出会える可能性は高いのだ。たとえ、ニーチェやバジュラール、孔子みたいな、有名な人を読まずとも。 ぼくは、知識の問題でないと思っている。そして、批評家は、物知りで、嫌われるということも思いません。なぜなら、たくさんの作家を、読み込んで、勉強は本を読まずとも、 色んな形でして、語り合い、育てあう批評家も、いるだろうし。後者の発言は、ケースバイケースだろうと ぼくは、山田さんを感じ悪いとは、思えない。むしろ、もっともっと、気持ちを出せば、感情論から、潜り抜けて、より、挑発的な批評を書けると思う。 僕が、チアーヌさんから、感じたものは、初期に書いて、本人の創作の一助になったらしいし、ぼくは、それ以上の世間的に技巧的な問題が、あまりに無さ過ぎて、奥主さんとそこは、同じで、かの作品に対しては物足りなさすら感じた。そこは確かに山田さんの発掘が無かったら、そもそも出会えてなかったもので、その点に山田さんの慧眼は見た。しかし、そこからが、少しずつ濁ったような。 しかし、チアーヌさんは、少し、あの作を見る限り、ある生きる、現場、感情の描写であり、スケッチしたものかと思う。彼女には、深い無力感からにじみ出る抒情を書こうとする他作での試行も認められる。 少なくとも、僕のような世界のくくり方より、生活の匂いがするという僕からの感想はあり、それは、とりあえずは、長いタイムスパンで変わっていくだろうと思われる。 ま、そんなところです。 by 石川和広 ≫298 石川さん早速のお言葉ありがとうございます。 もしかしたら、石川さんはすごい才能がある人なのかもしれない、けど、ない人なのかもしれない。だから、きっと、勉強するんですよね。 評論家は嫌われるってのはちょっと言い過ぎかもしれないですが、でも、それは、少なくとも、あたらずとも遠からずです。たぶん。 ただ、僕が言いたいのは、評論家は創作が出来ない(簡単にという意味を込めて)人たちだと思うんですよ。もちろん例外的な人もいますけど。 単純に言葉への不信って感じたことありますか? 僕は、すごくあるんです。で、何で、僕の感じる思いは「愛」なんだろうとか「憎しみ」なんだろうって。まあ、普通に感じますよね。で、そこを乗り越える経験、もしくは、放棄してしまう人もいるだろうし、とにかく、今の現状がどうなのかってことが問題だとは思うんです。 才能があるってのはやっぱり、感性が鋭い分いろんな痛みを生じるとは思うんです。だからこそ、その痛みと富に言葉が生まれて、そこへ言葉への不信が消えていく。単純に考えればそんな感じだと思うんです。 でも、批評家は違う。彼らは才能がない。だが、彼らには、根気と、熱意がある。不信感を抱いたままの言葉の群れを、彼らは用いて、表現する行為を好んで選び、その言葉たちが、真実であるように示さなければいけなかったとき、やっぱり、個人的な感情は、極力排除してやろうと思うんです。 僕が好きな言葉なんですが、「文学のゼロ度地点」。そこへ、意識が向かうんです。ただの記号としての言葉、そこに、何らかの意味が入る。っていう作業。そうすることで、ようやく、彼らは、ことばを作り出していくのです。 (というよりも、言葉だけに限らず、その人自身もそんな感じだったりするとは思うんですが。)そうやって作り上げた言葉を、なぜ簡単に使うのか?それが批判ですよね。本当にそうだったのか考えてみた?っていいたくなって当然です。でも、それが僕には才能だと思う。 個飛べの意味を、自分の体ひとつで受け入れられるってのはすごい。それが出来ないから、やっぱり批評家は作品がなかなか出来ない。僕もそう。言葉への畏敬が強すぎて、引っ込み思案になってしまう。 そこが、物足りなさを感じたところだと思います。 はっきりいって、臆病な人間でも、何とか一歩を踏み出す意志はあるのです。気持ちが強い弱いは、才能の問題だと思う。気持ちの問題こそが決して敗れぬ問題でもある。 そうみていけば、僕には、山田さんのあのちゃかした言い方は嫌悪を覚えるが同時に、尊敬さえも抱く。 弱い犬ほどよくほえる。 だから、僕は、いつまでもほえ続けたいのです。強い犬と戦いたいけど、臆病な心が邪魔する。だから、強い犬をいらだたせようとしていっぱいほえる。 ちなみに、石川さんが書いて、一助になったというのはほんとうに偶然だと思う。でも、偶然の半分は意志によって決められることなのだから、もちろん自慢すべきものだと思う。だから、山田さんの批評と石川さんの批評は第三者から見れば全く同一のものに過ぎないのです。だけど、それらの行為はすべて、結果が判断してしまう。 僕は、それだけで世の中が動くのはいやだ。だから、どうしても、批評という形で言葉を発し続ける人たちに同情してしまう。 絶対に、感情論へ走りたいはずなのだから。だとしたら、結構、違う見方も出来るような気がする。 嫌な事スパって言う評論家だけじゃなく、とりあえず、命令する上司だったり、いうことの聞かない部下だったり。 by チャオ 参照先不明 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=4402 車 4つタイヤがあって ぶうっと、 走る これはボルカさんの作品です。 ボルカさんがこのフォーラムに投稿されたさいしょの詩です。 べつにこれといってどーってこともない、衒いも気取りもない詩です。 読んでおもしろいかと問われれば、 うーん、.... わたしが鈍いせいかもしれませんが とくにおもいきり感嘆するほどの詩ではない、でしょう。 ただ、この作品は、わたしにとって「いいところ」が、ふたつばかりあります。 それは「短い」ことと、「わかりやすい」ことです。 ごかいしないでもらいたいのですが、わたしが「わかりやすい」というのは 表面上書かれてある事がらを 字面とおり理解するのにそれほど苦労しないですむというていどの意味です。 でも、短くてわかりやすいのに、この詩を批評するとなると、とても難しいものを感じてしまう。 どうしてだろう。 たぶん、作者がある作品を「詩」として押し出すことのなかに、その難しさのみなもとがあるのではないか。 と、わたしはにらんでいます。(にらむほどのことではないですが) たとえばどこにでもある道路の標識をもってきて、フォーラムに発表してもいいのです。 「題名:標識/作者:一番絞り/内容:横断注意」。 道を歩いていて「横断注意」という垂れ幕なり標識なりをみても、それを「詩」ではないと断定するのはたやすい。 (いや、ちがうな。まれに詩人はそれを「詩」と感じるかもしれない。それは一応棚上げということで) しかし、フォーラムに発表された、たった一行の「横断注意」という作品を「それは詩でない」と決定するのは なかなか骨の折れることだ。 まずもって作者によって「選択」が行われ、発表するという「決断」が行われている。 そして発表された「場」が時代の最先端をゆく「現代詩フォーラム」であるとすると....。 ひとこと。「あ」でも、やはり現代詩ではないか? ということになる。 あ、こんなことを言っていると、おまえは、なにをごちゃごちゃいうとんのやと叱られるかもしれないな。 そんなたわごとをいうてるひまがあったら、さっさと詩を吟味せんかいと。 「テクスト」を解読せんかいと。 このさいはっきりいっておくけど、わたしは「テクスト」なんていうコトバは決して知らないのです。 いまのところ決して知る必要にも、せまられていないようなんです。 「シニフェ」だの「シニファン」だの「エクリチュール」にも興味なし。 わたしはあくまでも詩の作者と詩作品と詩の読者(わたし)を直線でつないだ批評しかしたくないし、それ以外のやりかたは いまのところわたしには考えられていませんのです。ご容赦。 で、なにをくどくどしゃべっているのかというと、じつは有井泉さんが詩について、こういうものは詩とは認めませんという発言をした。 《詩の最終行に「と思う今日この頃でった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。》>>163 この発言に、少なからずはんぱつがあった。 >別に詩である、と他者に認められようが認められまいが >いっさい気にする必要はないと思います。 というような怒りの声もかえってきた。また、 >誤解を受けやすい言い方をしているとは思いますが、 >これが詩でこれが詩じゃないと区分して非難するのが発言の本意ではなく、 >詩の言葉、というものをもっと大切に扱いましょうという、提言であると、 >俺自身は把握してます。 と有井発言をフォローすることばもあった。 しかし、果たして、そうだろうか? 「題名:標識/作者:一番絞り/内容:横断注意」。 という詩がべつに他人に認められようが認められまいがいっさい気にする必要はないのだろうか。 詩でないとか詩であるとかいう区分はないのだろうか。 わたしたちが詩を書くとき、素朴に「詩とは何か」なんてことを考えていないのだろうか? いや、そもそも「詩」を書こうとして「机にむかう」ときにすでにしてそれは考えられているからわたしたちは 「詩」を書けるのじゃなかろうか? 詩を書く行為のなかに、すでにして「詩とは何か」があるはずだ。 べつのことばでいえば「詩でないものとは何か」が必ずあるはずだ。 (ビールの酔いがまわってきたので、《つづく》) だから、みなそれぞれ「おれは詩ってものをこう考える」 「あなたはそういうものを詩とおもわないけど、おえはこういうものを詩とは思わない」 そいう議論になればよかったのだろう。 ところが「なんでも本人が詩といえば詩なんだ」みたいな感情的なところに走った。 冗談ではないでしょう。 なんでも詩だと言えば詩なら、詩はそこで水溜りのように死んでしまいますよ。 成長も発展もない。べつに成長も発展もなくてもいいけど、詩の新鮮さというものは確実になくなる。 有井さんはあえて、勇気を出して詩でないものに言及した。それは大事なことです。 by 一番絞り 参照先不明 >325 これはこれは当方の不見識たいへん失礼いたしました 有井さんに関わる批評の途上とは まったくもって 気づきませんでしたので 理解力のなさも甚だしいものですねぇ お恥ずかしい限りでございます 当方が傲慢にも差し出口をいたしましたのは 当方も有井ファンでございまして あの方のお名前が出てくると神経質になってしまい 現在このフォーラムに1編も作品を置いておられない有井氏の発言について まるで さも 俺は完全に理解している と ゆーよーな 固有名詞とそれに伴うイメージの私物化 を感じてしまったわけです ええ 当方の不見識により いやいや ほんとうに失礼いたしました ふかぶかと陳謝いたしまして 差し出口の始末とさせていただきます 重ねて申し訳ございませんでした by 田代深子 同じ文章を違う板にコピペするのは、その文章がいかなるものであれ、あまりよろしくないことではないかと思われます。マルチペーストと呼ばれてネチケットに反します(どうでもいいけど私個人は「ネチケット」という言葉が嫌いです)。 で、同一人物が続けて投稿すると、その板はトップにあがりません。誰が投稿しても同じ仕組みです。それから、sageと入力すると、その板はトップにあがりません。なのでこの発言を投稿してもこの板はトップにあがりません。批判はよろしいかと思いますが、サイトの仕組みはきちんと覚えておくべきでしょう。 sage by 佐々宝砂 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 佐々よ。 ぬ様の >>音数律を逸脱する場合にも、5句および/または31音はきびしく意識されていて、音数律に合った歌は合う快感を味方につけて歌の力をアップさせ、音数律を外れる時にはそこに生じる軋轢を詩の力とする、ものだと常日頃私は思っていて、わたしゃまあへたくそなヒデェ歌書いてますけどいちおうその軋轢を自分なりに楽しみながら苦しみながら書いていて、人のを読む時にも、その律に沿った快感、沿わない快感、両方味わいながら鑑賞してるんですけど。 という書き込みにたいして >>音数律5句31音というのはなんぞやということで見てきました。とりあえず読んでみると音数律多少オーバーしても(多少足りなくても?)57577にほぼ沿ってればいいのですかね?でもお陰さまで何となくこういうルールなのか、ということがわかりました。どうもでした。 と返してくる無神経な輩には、「俺は短歌を書いてみたらいかがでしょうか。」なんてことは勧めないほうがいいと思うぞ。 by 山田せばすちゃん 兎の毒さんが帰って来た!いやーよかったよかった。 by 山内緋呂子 どこに書こうか悩んだけど、ここにしときます。ex.人間氏の、 誰それの顔シリーズ(しりーずかな?だよな)。 一度なら面白いかもしんないけど、二度三度やると退屈であります。 ちなみに下のリンク、うちの猫ね。 ここのサーバスペースを使うのはやめて自分とこに置きました。 http://www2u.biglobe.ne.jp/~sasah/nangi.html by 佐々宝砂 >377 そこまでばっさりと…。僕にはそんな勇気はないです…(笑 ええと、僕が管理している板だと、広告まがいの書き込みは問答無用で削除します。 機種依存文字や半角ひらがな、半角カタカナで書き込まれたら、「使わないで下さい」と注意します。 そしてもしブラウザが表示できない文字で書き込まれても「使わないでくれ」と言います。 不愉快だからではなく、マナーの問題です。…と僕は思っている訳で。 確かにマナー違反していなくても消したくなる書き込みはありますけどね(笑 ま、僕が管理人ではないんで、やっぱりどっちでもいいです。佐々さんにならえっと。 by クリ 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 >>402 私のくらいは残しておいてくれてもよかったんですけど(笑 まあ全部消すのは潔くていいのかもしれません。 焚き火して頭を冷ましてきたので、冷静にレスしようと思います。いささか頭が尖った状態で矢継ぎ早にレスしてしまい、不快になった方がいらしたかもしれません。ごめんなさい。素直に謝っておきます。で、http://www.tinami.com/の問題について・・・私は、自分がオススメリンクとして紹介したこのサイトに、問題が全くないとは思っていません。むしろ問題を提起するサイトであると考えています。そして、問題提起をするサイトをおすすめリンクとして紹介することは、けっして悪いことではないと考えています。その問題について語り合うことも、です。ですから、サイトに対する批判はしてもらって構わないのです。 児童に対する性的欲望は、実際問題として、存在するものです。なぜ存在するようになったのかは、私にはわかりません。もともと人間にはそのようなものがあるのかもしれません。幼児にも性欲はある、とフロイトは言いました。念のため言っておけば、私はフロイトが好きじゃありませんし彼の言い分が正しいかどうかもわかりません。わかりませんが、自分の経験に基づいて言えば、小学生の少女にも性欲はありますし、ちゃんとしたテクニックで触られれば快感を覚えます。それは紛れもない現実です。男性側の欲望については、私にはほとんどわかりません。わかりませんが、子どもに対してのみ欲望を感じる人がいるらしいのは確かで、そして私はそのような人を不憫だと思います。なぜそのような幼児性愛者が存在してしまったのか、彼等をいちがいに否定せず考えるべきだと思います。そして性的被害を受けた子どもの将来をも、きちんと考えるべきです。あってはならない、という言い方をする人がよくありますが、あってはならないことは、実際にはよくあることなのです。実際にあることを、目くじらたてて否定してもしかたありません。なぜそのようになったのか、今後どうしたらいいのか、考えねばなりません。 性的な悪戯を受けた側は、自分の身体やセックス行為を汚れたものだと考える傾向にあります。私もそうでした。しかし、身体やセックスそのものは悪ではありませんし、汚れたものでもありません。大人の男性といやらしいことをした、という事実が変わらなくとも、そのいやらしいことが「悪」だったのか、「秘密だけど楽しいこと」だったのかで、子どもの将来は大きく変わります。きっぱり言ってしまえば、幼児性愛が悪か善かは文化によって違うものです。たとえば、谷川俊太郎に少年少女同士(たぶん10歳前後)の性愛を肯定的に描いた詩があります。アフリカかどこかの部族の子どもたちがセックスしていた事実に基づいてかかれたものです。中学生ころの私は、その詩のおかげでかなり精神的に救われました。 私は、レイプを肯定しません。レイプ被害者として、レイプを強く憎みます。けれども、レイププレイが好きな個人を否定はしません。結局はお互い同意のもとにしているのですから、それは単にプレイ、和姦であって、本当はレイプではありません。恋人でも同意がなければレイプですけど、レイプされるのが好きな女性なら話は別。そのような女性の存在が、レイプを増やすわけではありません。現実問題、話は逆なのです。レイプされるのが好きな女性は、レイプ体験によって生まれることが多いのです。レイプトラウマの症状のひとつとして、暴力的なパートナーとの交際があげられています。 性暴力情報センター(http://www.macska.org/saic/ このリンクも見ておいてください、レイプトラウマについても載ってます)によれば、レイプに関する迷信というものがあるそうです。迷信第一が、『レイプは被害者が加害者を挑発した結果起きる。』 。この迷信こそが、被害者の心を傷付けます。 五月さんと吉祥寺ゆづルさんを非難するつもりはつゆありません。正しい理解を求めるのみです。タヒちゃんも性暴力情報センターをよく読んで下さい。加害者はたいてい普通の男性なのです。 by 佐々宝砂 参照先不明 1.性的メディア内の表象は現実の等価物ではない独立のものであり 2.それは当該モチーフの現実化を助長するのではなくむしろ抑制し 3.法的にも保護される正当性がある という主張をする文章の例 http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20030502 1.性的メディア内の表象は現実にそれが行われていることに等しく 2.それは当該モチーフの現実化をも助長・追認するがゆえに 3.法的に規制されないのは心外である という主張をする文章の例 http://www.app-jp.org/voice/2002/02.04.17.html >>380 こうして比べてみると、前者が資料と統計、合理性に基づいて論理が大局的に構成されるのに対し、後者が呪術的連想とレトリックによって情緒が性急に噴出されていく、というはっきりとした対照性が見て取れる。後者のタイプというのは必ず、呪術的になる宿命を負っているらしい。 なんでかというと、要はこういう種類の言説というのは、“不安”を教義とし、“子供”を傀儡の教祖として、社会現象の因果関係を独自のやり方で短絡するフィルタリングの儀式により、ローカルな<内/外>差異をつくって安心する、という一種のカルトなんだな。自分達ではそのことに気づけないわけだが。 で、こういう場合、その本人達が「良かれと思って」いればいるほど恐いわけだ。教義のためなら人権なんかポイだ!という傾向を必ず帯びる。そういう態度が善意の形をとって満ちていく社会は恐い。 無論、現実の児童虐待やレイプは絶対に許されることではないが、それらの近似を含む欲望をヴァーチャルなメディアで融通すること、もっと広く言えば、人間がすべからく倒錯的な欲望を交易して生きているしこれからも生きていく、ということを受け入れるだけの共感の筋肉を切り捨てるのであれば、けっきょくこの世にはできるだけ面白そうなものは無い方が良いということになり、それは子供に受け渡す未来の社会像として凄くダメだろう。 また、もっと具体的な話として、ヴァーチャルな性的メディアの規制や社会的監視・警備の強化といった主張が、"むしろ逆に"性犯罪を増やしてしまうメカニズムのシミュレーションが社会学や哲学の方面から提出されており、子供を大切にしたいならそういう理論にも通じていなければならないだろう。 五月さん、本気で子供たちの未来を語るんだったら、子供や女性の立場を盾に自分個人の情緒的噴出だけを垂れ流すのではなく、もっと真面目に理屈を勉強しなさいな。今までの五月さんの一連の言動こそが、子供や女性を自分の都合の良いように“消費する”ということに他ならないということ、それに気づくだけの合理的な知識を身につけてください。 by ひかげ 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 私は五月さんと喧嘩したくないです。 by 佐々宝砂 参照先不明 参照先不明 >>490 兎の毒さんへ お帰りなさい。また現代詩フォーラムに戻っていらしたことを喜んでおりました。こうしてわざわざ批評スレに挨拶をくださったことも、とても嬉しく有難く思います。 兎の毒さんの作品が話題になった時は、私がいつもとてもレスが遅くてそれでこのスレで殆ど発言ができていないことで、フォローができず申し訳なく思っていました。兎の毒さんの発言は当時、まじめなものと思いました。「短歌とはなんぞや?」という話になった時に、「短歌」の定義に関する知識やこだわりが発言者同士で違い、いきちがいが生じて兎の毒さんにはしんどい思いをさせてしまったろうと気になっていました。 これからもよろしくお願いします。 by 白糸雅樹 参照先不明 おもしろいし、ネタもなかなかだと思いますよ。QAのとこでもっといけると思うけど。 普通に小市民自虐ネタなのでまともに反論されても特になんもないけどなーってところ で、こういうネタはまともな反論がこないようにしながらもある程度の毒は吐いておく ところのバランスが大変なところです。 また小市民ネタなのであまり奇抜なことを書いても笑いにつながらない。出来るだけ ステレオタイプ、典型的なところを突きつつ、あんまり枯れてるネタは当然NGなので ここらへんが腕のふるいどころです。 でもこの「詩人の飼い方」がおもしろいのは小市民ネタ一つ一つの力というよりは、そ れを飼い方HowTo、巻末付録QA集でまとめたところですな。「ああ、いいとこ持ってた なー」と思ってポイントした。 田代さんはこれがネタになっちゃう現状がヤなんですよね。なるほどー。 ちなみにこのネタは現Fで投稿するメリット・デメリットが微妙っすな。詩人ネタなので そうでない人にはわかりづらいネタが含まれているのだが、逆に詩人はまともな反論す る可能性もあるんで。 僕も詩作の実況中継ってネタを書いたけど、ここには投稿しなかった。 > さぁ序盤は季節の移り変わりに対する繊細な描写で無難にリードを保ってきたわけです > が、ここで「名も知らぬ少女」の登場だぁぁ。解説の久留米沢さん、この少女の役割 > は果たしてどの様なものだと見られますか? > > そうですねー、この展開からすると昔死んでしまった幼い妹の写し身だと考えられますねぇ。 って感じの。イヤがる人が少なからずいるだろう。笑う人もいるんだけどね。 by Monk 参照先不明 意味を与えたつもりはない。便利なフレーズだなあ。おれも使おう。 「関西人の〜」以降から次の句点まで意味が与えられていないならそれらは字面だけの罵倒であり大変しつれいだと思うんですが、これには意味を与えたつもりはありません。 ひかっかって、じゃなくてひっかかって、だよ落ち着けと言いたいんですがこれには意味を与えたつもりはありません。 「コレにひかっかって(注:ひっかかって、だと思われる)くるだろう」と説明してるのに「なんでつけくわえたかは、」と書いてあるのはそれこそ無意味なはずなんですが、これには意味を与えたつもりはありません。 意味を与えたかどうかはともかくあなたのせいで関西人のイメージが悪くなるのでやめてください! これには意味を与えたつもりはありません! これらには意味を与えたつもりはありません。 by 黒川排除 (oldsoup) 参照先不明 >fukaさん 将来の才能とか言われても…30代も半ばでねぇ(笑) 別のスレで書いたけど わたしはいつも「自分の詩はすごい」と言ってますから いまさらです たとえ返ってくるのが嘲笑だとしてもね まぁ精進し続けます(いまはまず卒論…) わたし自身の才能がどうとか言って褒め殺されるより 作品それぞれそのものを ちゃんと読んでもらいたいですね そんで批評とかしてほしい 底意地の悪さについては人格の一部として自分でうんざりすることはあるんですが それが書くことにどう影響しているかはよくわかりませんね それを批評的に生かしきれているかどうかはあやしいしですし fukaさんは自分の詩作とかをあまり卑下しないほうがいいと思いますよ そうやって他人のことをあてこするのもね やっぱり不快だし まぁ不快だからやめろとも言えないので これは感想として言います では by 田代深子 参照先不明 参照先不明 参照先不明 すごいいきおいだね。遅読遅筆の私は、ついていくのがたいへんだわ。とりあえず、#503まで読んだところで、頭の中に沸いた考えを、#515まで一応読んだ時点で書き記しておきます。(少しは#515までの発言を踏まえるかも。) >503 >>生真面目すぎます つかハマりすぎです という田代さんのご指摘はけっこう当たっています(笑) 私がなんで、この詩のゲームに乗れないかといえば、そりゃぁ私が遊びベタだからですとも。(田代さんはご存知でいまさら私が弁解しなくても。と思うだろな。でも私と旧知の人ばかりじゃぁないので、敢えて言及。) ただね、ケムリさんのこの作品で、私がどうしてもひっかかって我慢できないのは、「〇〇は詩人ではない」という否定のニュアンスなのね。ここに、幼かった頃の私が持っていた、変な優等意識、選民意識と共通するものを感じとってしまうんだな。(だからハマりすぎてしまうんだが。) 中学時代の私は、「ウェルテルは、もっと無邪気な頃に読みたかった。読んだのが遅すぎた」とほざいていたし、高校時代は『ノルウェイの森』がベストセラーだという理由で、一読すらせずに村上春樹を軽蔑していた(いまは違うよ)。村上龍も一読もしないまま、軽侮していた(あ、村上龍はいまだに一冊も読んでいないや。) まぁ、自分が詩を書くとはその頃想像もしていなかったし、乱読家でありながら詩集だけは読まないジャンル、だったが、思い出したぞ。嫌な記憶思い出したぞ。詩集一冊も読まなかったわけじゃないな。授業中ってのが、あんまり興味のない本でもともかくなんか本読みたい時は読む、という時間だったが、国語の授業中、机の下に隠した(つもり)本を読んでいて、他の生徒から「先生、白糸さん、授業中なのに本読んでいます」。先生、答えていわく「おまえら、ランボーって、〇〇しか知らないんだろう」って会話があったこと。 〇〇に入るのがなんて意味だったかは、その頃もよく判らなかったし、今はすっかり忘れた。そういう芸能人の名か、バンド名でもあったのかなぁ。ともかく、その時も、「ほらね、私は先生だって授業中に勝手に他の本読んでいたって黙認するような本を読む人間なのよ」って優越感感じていたんだよな。あー、やだやだ。はなもちならねぇ。 別にその頃、詩人のヒナだったわけじゃぁないんだが、そういう意味で、たしかに「詩人の飼い方」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=51717はつぼにははまるのね。 私が「詩人の飼い方」に反発を覚えるのが、単に、自分のうちなる選民意識(への憎しみ)の投影であって、この作品や、それにポイントを入れる人のなかに、優等意識のかけらもないのだったら、これは、私が過剰反応しただけということで、謝罪するしかない。 しかしなぁ、どうも、ゴスロリとか、環境活動かぶれとか、新聞スクラップする優等生よりも、詩人のヒナの方を優等とするかのような意識が見え隠れして見えるんだよなぁ。。。。。私のひがみにすぎないなら、それでかまわないのだけれども。 by 白糸雅樹 おれもあんまり横滑りしちゃアレだと思うのけど引き合いに出されちゃったので短めに。 >>523 ……>>513も関西人に意味を与えたのは、彼なんだけど。 はあ? すごい虚脱したんですけど。 by 黒川排除 (oldsoup) 参照先不明 参照先不明 >>533 まあ、気持ちも分からないでもないですけど。 例えば「詩」と言う限定される様な枠組みがたまらなく嫌なんでしょう? でもそう言う「詩」であるとか「芸術」であるとかのダサい枠組みを取り去っても、 (逆の人によっては「骨抜き」にされた状態) 結局はそこにも何らかのある共通するような感覚は流れていますからね。 by 汰介 >>531僕はどの位置にありますか? fukaさん。 それで批評ですがこの作品の存在形態はまだわかっていないし、批評の糸口も言語化されていないと思います。 ええと、カテゴリーを作っちゃうとどうしても、そこにゲームが生じる。そして、その外部があるわけですからね。しかも、ケムリさんの分身として詩人が出てきますから、実存に関わる問題がでてきますね。書き手は無垢というか、ゲームを作ったから後は好きにやってとはいえないと思う。そこいらあたりの半端さがいかで書き方を変えようとしても、処理しきれないわけで。 だからみんないろんなツッコミを入れるのは書き手が気になる余地を作品に残しているわけです。『詩人の飼い方』はそういう問題から逃れられないと思う。 この際ゲームに入っているいわゆる「詩人か詩人じゃないか」という問題は、本質的になくなって、作品として批評の線に乗ってくる。 そうすると、詩人を自虐させて楽しいのかとか、そういうゲームに安住しているままならいかがなものかとか、そもそも、この詩の外部の人はどうアクセスできるのか? そういう書き手の倫理が、書き手の意図しない不用意さからでてくるわけです。つまり、更に外部からの批評が可能になる。 うちわネタにもスキがあるわけです by 石川和広 参照先不明 参照先不明 参照先不明 #中二病という言葉は見たところ殴り合いに飽きた人間が持ち出す鈍器のようなものだなあ。転がしても転がしてもよろしくない展開が待っている気がする。予想だけど。sage by 黒川排除 (oldsoup) 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 批評は、他人の作品に関する文章、だと言っていいんだと思う。 それを前提として。 いま私は、詩で詩を批評するという、見方によっては、ひとによっては、 非常に「詩を汚す」ととりそうな行為に出ている。 賛否両論あるだろう(否定の方が多そうだなあ)。 「揶揄」や「批判」はあかんぜという意見もあるだろう。 もちろん異論は受けて立つ。受け流す可能性大だけど。 「詩ではない」気もするので「未詩・独白」においてあるが、 書いた本人は「批評」カテゴリにおきたい。 でも、散文じゃないからなあ・・・ by 佐々宝砂 ケータイ小説に興味がわいてきた…でも読むのつらい(^^; #参考 http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/0506/10/news100.html http://bunko.shueisha.co.jp/column/index0701.html さっそくケータイ小説のサイトにアクセスしてホラー小説を読んでみました。なるほど。本ではスカスカに見える文章が、携帯電話の画面では読みやすい。1頁ごとに興味を引っ張ると読者はアクセスし続けることになり、頁を読み進むたびに広告が入れ込まれ、通話料とパケット代が跳ね上がる。こういうミニマムなところできっちり稼ぐわけなんですね。 ケータイ小説の読者は、時間がかかればそれだけお金がかかるから、効率的に、前に読んで面白かった作家から当たるでしょう。人気作家の新作がぱーっと読まれて、すぐにラッシュは終わる。古くて読まれないデータはどんどん消される。だから人気作家は、安定した質の小説をかなりのピッチで書ける人ということでしょう。アクセス数は作品の価値そのもの。現代詩フォーラムにもそうした傾向はありますが、ケータイ小説の場合、アクセス数がお金と結びつく。そのメディアに適した作品を提供するという意味で、ケータイ作家達には特別な技能が求められているのでは。もっとも、適度な質でコンスタントに配給されるものが評価されるというのは、どんなものでも同じですが… とはいえ小説です。大衆文学の新形態です。しかし出版物としては、まとまった数量を安めに刷って、ちょっと派手に売って、売り切り御免にしてしまうのが常道でしょう。出版社にとって在庫を抱えたくない類の書籍だからです。継続して売れたり重版をのぞめるものではない。本を買うタイプの読者にあの文量は物足りないし、ケータイ小説の読者にとっては1冊1000円のハードカバーの本は割高に感じられるのではないでしょうか。書籍で儲けるのは、「ハリー・ポッター」や「世界の中心」くらい難しい。 というわけで、ケータイ詩を売ろう!と思うなら、それなりの方法を思いつきます。出版はコストがかかりすぎるから携帯電話で会員制有料サイトを立ち上げる。そして現在、現代詩フォーラム上で読みやすく人気のある詩をコンスタントなペースで書かれている書き手さん達に声をかけ… しかし、詩は選択的に読まれるのでしょうか? むしろそれが問題です。 by 田代深子 うん、「売れる詩を書く」ことはたいへんなことだと思いますよ。だから私の意見は暴論なのです。 そして私が本当に言いたかったことは、「売れてみろ!」ではなく、ケータイ小説の擁護でもなく、器で中身を判断してはいけないというごくごく当たり前のことだったのです。そう書けばよかったのだけれどね、本当はね。はっきり言えばいいんですよね。ちくちくしないで。今激しく後悔しているのですが、相変わらずはっきり言えません・・・orz よい作品が売れるとは限らない(むしろその逆であることも多い)からといって、売れる作品がくだらないとは限らない。売れる売れないというのは、田代さんおっしゃるごとく「営業努力と偶然が多くを担っている」。現フォのトップ10にしても似たようなもので、営業努力と偶然によってかなり決まってしまうものです。トップ10に入っているからいい作品とは限らない。トップ10に入っていないからといっていい作品とも限らない。まあ当たり前のことです。そして、図書館のかたすみのある特定の一家にしか読まれていない本がいい本であると限らない。インターネットのかたすみにある一握りの人にしか読まれていない文章がいい文章であるとは限らない。もちろんその逆で、図書館のかたすみのある特定の一家にしか読まれていない本が悪い本であるとは言えない。インターネットのかたすみにある一握りの人にしか読まれていない文章が悪い文章であるとは言えない。 書物とインターネットとケータイは、全く同一のものを入れることができる容器に過ぎないのだと私は思います。容器で内容を判断することはできません。もちろん容器の違いは流通の違いとなりますけれども。 by 佐々宝砂 孤蓬さんへ ねじまき鳥きどりの私にコメントありがとうございます。 私も大村浩一さんのスレッドを荒らしたくなかったので こちらに移してくださったことにもありがたく感じます。 孤峰さんのご指摘は、一段落を除いては、一般的に正しい認識だと思います。 誤変換の定義も辞書の通りでよろしいのでは思います。しかし、いみじくも ここは創作系サイトなわけであり孤峰さんもお読みになっているわけですが、 「誤変換劇場」ですよね。孤峰さんが読み手の私に伝えたい事がわかりません。 「 貴台が対峙していらっしゃるのは、私自身ではなく、貴台の心中に幻出した虚像。 貴台の感情が生み出した、歪んだ錯覚(イリュージョン)を、あたかも私であるかのように誤認していらっしゃるのではないでしょうか? 」 この一段落は、否定しておかなくてはと思います。私個人への質問でしょうか? 私ではなく、別の読者のことを決めつけで想定していないことを信じたいです。 私個人への孤峰さんのとらえ方でしたら、ごめんなさい、全然、思い当たりません。 〉貴台が対峙していらっしゃるのは、私自身ではなく、貴台の心中に幻出した虚像。 この1行目は孤峰さんの私への決めつけ以外なにもないし、笑っちゃうけど、えへ、 この1行目から繋がる次行以降も、孤峰さんの描く私に対しての捉え方に読み手を 誘導して、最後に質問調にしているだけの文章にしか思えません。私には頑張って も、孤峰さんのオリジナリティー溢れる、私には書く真似すらできない段落ですね。 私個人はニフティーのころから、無意味な論破サイトにはうんざりしていますので、 自分がその渦に入って渦を大きくしないよう努めたいものだと思ってます。 追伸 大村浩一さんのことは、孤峰さん達以上に、同じ釜の飯を食べてきた仲間だと 思っています。孤峰さん達は、あまりいじらないでやってくださいませ。 by 足立らどみ 参照先不明 弧篷さん 平行線のままですね。 辞書そのものの使い方ですら、弧篷さんと私では違うようです。 by 足立らどみ 孤蓬さん 〉この一事を以てしても、らどみ氏のお人柄が、一目瞭然に露呈していると言えるでしょう。 孤蓬さんのお名前が、間違っていたのですね。 孤蓬さんは読みづらい長文の書ける方だなーと、思っていましたが、 読み飛ばしていました。 今まで、私にとっては、読みづらい孤蓬さんの文章をどう思ってきたのか、 わかっていただけたようなので、少しは、安心しましたよ。 「辞書」とか、「事実」とか、「根拠」だとか、読んでいて、 なんだか違和感しか感じない孤蓬さんのいつもの単語の使い方ですが、 平行線でなくてよかった。 〉>辞書そのものの使い方ですら、弧篷さんと私では違うようです。 〉具体的な根拠を以て、どのように違うのか説明して戴きたいものです。 〉さもなくば、単なる言いっ放しに過ぎません。 私には、この3行だけでも、お腹いっぱいですわ。 読みづらい長文の書ける孤蓬さんの文章は、こんな感じの文章が多いよ。 〉>平行線のままですね。 〉平行線というのは事実ではないと思います。 〉事実としては、私が根拠を以て真摯に説明しているのに対し、らどみ氏は何の根拠 〉にも基づかず、自身の妄想や決めつけを単に言い放っていらっしゃるに過ぎないと 〉いう所だと思います。 相変わらずのいつも通りの論破系サイトで良く見てきた、とても偉そうな文章^^ 孤蓬さんって、相手の言葉を利用して、且つ具体的な説明責任を相手に押し付けて、 それでも、相手がより頑張って返答したら、揚げ足とってくるパターンが多いです。 ここは創作系サイトだよ。 一緒に歌おうよ。 by 足立らどみ 孤蓬さんへ 創作するって、なんなのでしょうね by 足立らどみ 参照先不明 参照先不明 まあ、下手な感想を書かれた、とはいえ、ろくに返事もしないでこういった空間で姑息に反論しているところが君、孤蓬という石像のような人物像でもある。ところでわたしはアラガイsである。これで書き込みをしているのだ。繰り返し過去の宛名を並べておられるようだが、わざわざ嫌味を込めて文字数を増やすこともあるまいに、と思う。このようなあてつけをするのは貴方くらいだろう。改めてほしうんいものだが、まあ、その性質では何を言っも無理だろう。孤蓬という人物は正真正銘の大馬鹿者であるのだから。 by アラガイs これはこれは大馬鹿者であると断言しては趣味の古い人には失礼だ。大馬鹿者であろう。の見解に訂正いたしましょう。改めてほしいものだが。 by アラガイs 薬は飲んでるか? 君(孤蓬)という人物が当サイトにおいてどのような位置に居られ何を占めてきているのかは知らない。知る由もないが古株のつもりで若頭のような顔をしてきたのは事実だろう。君は実は怖い人物なのか?以前より過激な文言を吐く人物を妙に応援してきた様子もある。君は若頭の位置にあるのか?ならばはっきりと言いたまえ。 「わたしに逆らうと執拗に酷い仕返しを被ることになりますぞ〜」それでもよろしいか、と。怖い怖い。ああ性根の曲がった仕事氏は厭だ。ならば遠慮しときましょう。そのような人物はいままで厭というほど見てきている。 しかし、世の中は狭いものですな。 by アラガイs おい、黒猫狐のちょんまげ孤蓬くん。レス違いでもあるし、二人とも会話が尽きないようなら今度から君の、なんて書いてあったか?なんてタイトルだったか覚えてない、詩に付けたコメントに書き込むからな。戯け者。 by アラガイs 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照
一つの読みに対して、他の多くの異論が交わされることを願って。。。。。。 評を書く際は、該当発言(または作品)のURLを明記してください。 辺見庸 抗暴三部作(『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論』) 【読後架空批評座談会】3 (一) えーと、最後になりましたが、この三部作で辺見庸が問題としていた現在の文学状況ですね。コトバの在り様といいますか。こんな状況でコトバは可能性なのかというか。そのへんですが。 (辺) 辺見庸がこの本で描いて見せた、いまの国家世界の有り様てのはとてもグロテスクなイメージだよね。 外部に向かって毒針のようなものを伸ばし、さかんに小生物を攻撃して栄養を吸いとっている強固な殻があって、その中に、痛覚を麻痺された卵の黄身のように柔らかい液状の「健全なる」モノが、へその緒のように養分を補給されながらかろうじて息をしている。これがわたしたちなんだけど、 そういうイメージなんだよ。もう、これだけでも鬱陶しいかぎりなんだけどね。 この卵の黄身のようにふわふわしたもの、辺見の言い方を借りるなら「透明なぼうふら」のどこまでも内に向かった意識はね、「半径十メートルほどの 生活圏における精神の自閉を綴った」コトバばかり吐き出している。 たしかに詩と現実世界とは何の関係もないけどさ、 どんなものにでも影はあるのだよ。、その影を見ようとしないで、つまり外部に向かって黒々と伸びた己の影を見ないで、「健全」で「和やか」で「無垢」なものをどこまでも自閉的にもとめているわけだよ。 影の無い透明なぼうふらの世界が、いま文学をやっているヒトの世界状況だよ。 どうしても自分たちを包んでいる邪悪な殻を正視できないでいる。あるいは正視できないように痛覚を麻痺させられている。 それはもう、文学の作り手だけじゃなくて、ちょっとビデオレンタル屋に言ってみれば、ここ三、四年の日本映画新作の気の抜けそうなヒューマン自閉映画のラッシュをみれば、もうほんとうに、甘い甘い砂糖漬けという感じで、こんなことでこいつら大丈夫かと思ってしまう。大丈夫じゃなくてほとんど脳みそのないロボットなんだけど、そういう状況なんだよ。 (一) ぼくがこんな架空座談会を開いたのは、有井さんの「詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。」という言葉の意味をいまだに探っているからなんです。 (辺) しつこいね、きみも。 (一) 受験システムでならされた精神というのは即効性のある答えを求めるのでしょうが、ぼくは、わからないならわからないでいつまでも池の周りを会得行くまで回っていたいのです。何年かかろうともね。そういう意味ではまだ例の「一房の乳房を」の批評途中でもあるんです。これもその一環です。十年後にまだここがあれば、急に続きをやりだすかもしれませんよ、ぼくは。 (辺) おれは詩は皆目なんだけど、なんかこの、内側にばかり向いたコトバ、こういうところから抜け出ていこうという気配はいまのところ、まるで感じられないね。逆に、どんどん自閉していっているような気がする。 (一)岩成達也という人が、こんなことを言っているそうです。 -詩作品めいたものを書く人はいまでも数多いが、 「詩人」 に巡り会うのはいまやかなり希有のことになりつつある。詩作品を書く人と詩人との差──それは最近私が気づいた言い方で言うなら、前者が世界内でただ言葉を転がしているのに対して、後者は世界の外に身をさらして 「他者」 という烈風に八つ裂きにされている。- (辺) なるほどね、きみにはとても励みになることばだよね。 (一) 今日はありがとうございました。 辺見庸 抗暴三部作(『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論』) 【読後架空批評座談会】2 (一)(308のつづき)...こんなことをいうと「お前は善良な人々が頭から川に飛び込むようなことを望んでいるのか!」と、尊敬する詩人からきついお叱りをうけましたがね、違うんです。 ぼくは今回のロシア小学校襲撃事件にはもうほんとうに腹が立ってるんです。いままで黙ってたけど、こんなことは金輪際やめさせなきゃならないと。そのためには、鍋の底を逆さにぶちまけてね、それこそほんとうのことを、洗いざらいぶちまけなくちゃと思うんです。それで世界が凍ろうが、世界の底が抜けようが知ったことじゃない。 9.11事件のときもそうですよ。キャンドル持って死者の追悼なんかしてる場合じゃないだろうってんです、ぼくは。 お前ら、こんなこと、ほんとうに二度と繰り返したくないのかよ、それならどうしてまずブッシュに怒りをぶっつけないのか? どうして自分たちの国が外国で行っている有様の全貌を知ろうとしないのか? どうして「なぜ」の一言がでてこないのか? キャンドルで追悼なんていう情緒的なパフォーマンスってのは、結局、殺戮の再生産のための儀式にしかなってないんだよって。ほんとうは、それって、また、人を殺す思想的態度だよ、って。 ...それがわからないんだな。 どうしてこうも人間てのは、類としては爬虫類以下の脳みそになってしまったのか。 (辺) まあ、おさえて、おさえて。(笑) 気持ちはわかるがね、ま、落ち着きなさい。...シュポッ!o*-(ー.ー) ¨_)y-~~~プカプカ〜...きみが冒頭に引用した吉本のことばだけど、あれは吉本が太宰治の『黄金風景』という小説について論じた一節なんだよね。季刊『リテレール』の1993年夏号所載ってことになっている。 「もともと人間の大部分の振る舞いは、善でもなければ悪でもないことから出来上がっている。だから大部分の人たちは、自分を善でもなければ悪でもない存在だとみなすことで、健常さを維持している」と。 で、吉本はそう語った後、太宰の倫理観を取り上げて、太宰は「人間は善でなければ悪であるしかほかならない存在」のように思い込んでいたと書き、吉本はそんな太宰が「倫理に敏感になっていた」といっている、と。 うーん。人間じゃなくて生物一般だったらね、そりゃたしかに悪も善もないよ。非善・非悪だよ。そりゃ当たり前だ。強い猫が弱いネズミを殺して食うのは自然の摂理さ。だけど人間だから善悪の意識が働くのであってね、いまわれわれの政府やわれわれの政府が支援している国のやっていることを吉本のいう非善・非悪としてわれわれが意識処理できるとすれば、それは犬や猫らの生物レベルの行いだわな。ヒト科ニンゲンのすることではない。 やっぱりそれぞれが、それぞれの善・悪をきちっと立てて、ものを言わなければもうどうしょうもない時代なんだよね。非善・非悪なんて都合のいい場所はもうないんだよって。 こういう言い方に反発して、非善・非悪でも、それでもわたしたちは十分に人間なんだというのならね、アフガンやチベットやチェチェンやイラクやでの、大国の民族浄化殲滅戦略という非人間的な殺戮行為にたいして猛烈な抗議行動の渦が世界規模で自然発生的に沸き起こらなきゃ。 それがないということは、キャンドルで犠牲者の追悼なんていう、どうしょうもなく情緒的なふわふらムードしか起こらないのなら、これはもう人類が生物のレベルに堕ち込んだということにほかならないわけだ。 (一) 非常に不気味です。世界のこの静けさは。ただ、デモといってもね、それは自発的に、世界規模で湧き上がらなければ意味がない。でないとぼくなんかは喜べない。 主催者のあるデモなんて結局はいつのまにか党派性に溶解されてしまう。だからぼくは一人でデモをしょうと思ってね。プラカードを作ってゼッケンをシャツに張って、ある集会(浄土真宗僧侶の仏教研究会)に出かけていきました。大国の小国に対する大量虐殺に反対することをそれぞれ書き、一人一人が自分のことばを表明しょうと書いてね。ところが集会場でも坊主からは何の反応もないんです。まるで醒めているというかね。がっくりしました。病人扱いです。カスミに顔をつっこんでいるみたいな気分。ま、いまどきの坊主なんてのはまったくあてにするもんじゃないですが。 (辺) 辺見庸も三部作で小さなデモに参加したことを書いていたけど、あれは辺見がいけないんだ。焦燥感、無力感、脱落感、退屈さにさいなまれてがっかりして帰途についたということだけど、デモをやるんだったら一人でやらなけりゃね。それこそピエロだけど、いまはそういうことしかできないし、それがぼくたちメディアをもたない者の唯一の、ほんとうの政治行動なんだ。 ところが辺見庸は一人で銀座でも日比谷でもいいけど手製のプラカードをもって練り歩くことが恥ずかしくてできなかった。そりゃあダメだよ。後ろめたさにさいなまれるさ。 (一) キャスターの筑紫哲也批判がありましたね。 (辺) ああ。辺見庸はよく言ってくれたよ。筑紫のようなソフトなスターリン、ああいう手合いが一番いけない。人間性としてはブッシュやプーチンよりも恐ろしいね。 (一) どうしてあんなのが進歩的文化人なのか。『週刊金曜日』みたいなのを好んで読んでいるような奴らが、もっとも卑しい人種だとぼくも思いますよ。その理由は面倒くさいのでここでは今回は展開しませんが。 (辺) いや、そんな断定だけではあまりにも乱暴だから、ちょっと付け加えておくとね、『週刊金曜日』的文化人の言説というのは「彼らのファッシズム」を攻撃する視座ばかりで、自分たちもその「彼ら」の一部であり、ゆえに辺見庸のいうところの「私のファシズム」を見つめる目が決定的に欠けているんだよ。 自分たちだけは「彼ら」とは違う特別の存在だと最初から決め付けている。自分たちの内部にもファシズムがあるとは夢にも思わない。自己批判がないという構造。これは、規模こそ違うけども、中国共産党やロシア恐怖政府やアメリカ狂人政権とまったく同じ構造なんだ。つまり、かれらの言説は「思索」ではなくて「党派的な闘争行為」なんだ。そんなところから深い洞察が生まれるわけでもあるまい。それどころか、自己正義の闘争に勝つためにはどんな論理のねじ曲げでもやりかねないし、自己欺瞞など屁とも思わなくなる。 そういう連中がうようよしている。そういうことです。 (一) それにしても、ことばを扱う特権にある立場の人たちが何も言えなくなっていますね。 (辺) いまの日本やアメリカで物を書いてメシを食うということは、それだけ大変なことになっているということだよね。文学だけじゃなくてジャーナリストだってね。ちょっと反体制的な、アメリカ批判的なことを書いたらもう病人扱い、すぐにとばされてメシが食えなくなる。 かと思うと、うまくできたもので抑圧を抱えている庶民のガス抜き専門文化人がいて、筑紫のようなね、けっこう体制を支えている。いくらなんでもこんなところに落ち込むぐらなら正規の御家人のほうがいいということで、もはや権力に対抗するような物書きは存在しなくなるという寸法だ。 (つづく) 辺見庸 抗暴三部作(『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論』) 【読後架空批評座談会】 出席者 辺見酔宇 せんせい(辺) 一番搾りくん(一) (一) せんせい、今日は忙しいところ、ようこそおいでくださいました。 (辺) うん、そりゃいいけどさ、どこなんだい? ここ? (一) 現代詩フォーラムの『批評しましょ』掲示板です。 (辺) 現代詩か。(渋い顔をする)。ぼくは現代詩はからっきしだよ。 (一) 詩人というのはたしかに難解な文学理論をあやつるのは巧みですが党派性と政治性の違いもわからず、ごっちゃにしているような政治的見識の持ち主が多いもので。 ここはひとつ、せんせいの辛口発言で腐った脳みそを叩き直してやってください。 (辺) いやぁ、お宅、ハッキリいうね。 (一) ところで本論に入りますが、抗暴三部作。中心テーマというか、辺見庸がこれを書いたモチーフにもつながるかと思うのですけど、単なる政治的アジテーションでは当然なくて、けっきょく一つの文学的というか人間的というか、永遠のテーマに収斂してますよね。 (辺) うん、うん。 (一) 『抵抗論』にも『いま、抗暴のときに』にも引用されているのが詩人で評論家の吉本隆明の発言です。「もともと人間の大部分の振る舞いは、善でもなければ悪でもないことからできている」「だから大部分の人たちは、自分を善でもなければ悪でもない存在とみなすことで、健常さを維持している」。あいもかわらず吉本らしい、自分を棚にあげたというか、なんかいらいらするような発言なんですが、作者の辺見庸はここにこだわっている。つまり人間の究極的なテーマである善・悪の問題。 (辺) そこなんだよね。戦争とか暴力とかいった重い問題を取り上げる場合にね、吉本のそのような態度でいいのかって。善でも悪でもない人間意識の中間領域を設定して、それを健常とする精神はどこかおかしいと思うな。というか、もう通用する時代じゃないと思うんだよ。 (一) はい、はい。おっしゃることはとてもよくわかります。そこはとても大事なところですよね。もともとぼくがこの三部作を読む気になったのはロシアの北オセチア共和国 で起こった小学校襲撃事件なんです。居てもたってもいられない憤りと焦りが、過激にいまの状況を批判しているこの本を読ませました。 この本が執筆されたころにはまだこの事件は起こっていませんでしたが、どうしてわざわざロシアの外れにある小さな「平和」な町の、入学式という「和やかな」場所で「罪もない」子供たちが殺されなければならなかったか。 これは偶然ではありませんよね。 (辺) ああ、うん、うん。 (一) こうういうシチュエーションが現代史の必然によって、選ばれるべくして選ばれたんですね。 (辺) うん、うん。あんな事件、考えたくもない。思考停止にしたいという人が多いんだけど、じつはそれがね、大きな意味を含んでいるんだよ。 (一) 吉本の言う「善・悪」の中間領域という意識、大国のほとんどの人たちはこの意識によって実際、健常に生活しているんでしょうけど、じつは「健常」でもなんでもなくて、とんでもない悪の本質と同値なんだぞということを知らしめる必要があった。 ブッシュやプーチンやシャロンや江沢民や小泉、...いま気がつきましたが、どうして現在の大国の指導者ってこんなに貧相な顔してんですか(笑) こういう連中の為している悪、それこそ巨大な底知れぬ悪ですよね、それによって世界中に大量虐殺が蔓延しているわけですが、じつは、それに見合うだけの質的に凝縮した中間領域の「健常」なるもの、いや、「健常」といわれている「善でも悪でもない」ものが天びんの片方に分銅のようにぶらさがっているのですよ。 ただ、国家の巨大悪だけが暴走しているわけではない。二輪車なんです。国家悪と「健常さ」(平和、のどか、罪のない無垢さ)は。 だから、「何の罪もない」子供たちは、「襲われなければならなかった」。 (辺) たとえばチェチェンでもチベットでもイラクでもアフガンでもいいけど、大きな国の強大な軍事力によって、何万という人たちが生命やら財産やら身体の一部やらを失い、精神的にも八つ裂きにあっているちょうどそのときにね、その大きな国の中では、野球観戦するなごやかな親子がおり、デートを楽しむ恋人たちがおり、また、たとえばきみの読んだ辺見庸のような反体制的檄文を消費して反体制的憤懣をガス抜きして日常を支えている人たちも居る。 (一) あらら、これは一本とられました。たしかにそうですよね。辺見庸までが大きな国では「消費材」にすぎず、これを読んで反体制的な抗暴気分をガス抜きさせるのに役立っている。(笑) (辺) 資本主義ってのはどこまでもしたたかだよ。 でもだな、米国でも日本でも良いが、この平和な、吉本のいう「健常」意識の支配する日常がそれを維持するために、それに見合うだけの殺戮(さつりく)を必要としていることも事実だと思うんだ。とんでもないカラクリであり、システムだよ。人類はとうとう自らの手を汚さないで他者を殺戮し収奪することによって、それでも「健常」でいられる装置を作り上げたといえる。 それによって逆に、いまや世界中に「罪のない子ども」も「平和な村」も「善男善女」も居なくなったといってよいだろう。そういうコトバはとほうもないウソだ。ということを指摘することは、それこそ「世界を凍らせる」所業かもしれないけどね。 (一)「健常さ」だなんてね、吉本って人は、なんていうのかな、どーしょうもなくダメですね。 わたしはあの人、まったく信用してないんです。阪神大震災のとき吉本は「ダイエー」を持ち上げましたよね。唯一、店を開いていて被災者を援けた、なんて。出鱈目もいいところです。わたしは震災の直後、大阪から神戸まで歩いていったんです。たしかに、もぬけの殻のなかでダイエーだけは店を開いてました。たいしたものだと思いました。しかし翌日、買い物に行ってみると、買えないのです。特定の金持ちしか。たった一晩で会員制になってしまい一般の人、会員になるための金のない人はシャットアウトでした。そういう現実をね、何も知らないで勝手なことを言っている、そういうところがとても嫌です。文学理論には素晴らしいものがあるんですけど、政治的状況的な発言は幼稚そのものです。 (辺) あはは。小沢一郎を持ち上げたりね、ま、自由だけど。(笑) (一) だから詩人って奴らの政治意識はダメだっていったんです。 ま、それはともかく、9.11にしても「罪のない人々が」って言われましたよね。 でも、もはやアメリカに在住しているだけで、赤ん坊だろうが、外国人観光客だろうが、アメリカが大量虐殺している相手の国によって反抗を受け、殺されてもしようがないという責を負っていると考えるべきなんですよね。 「悪でも善でもない中間領域にいるんだ」なんていう詐欺はもう通用する時代ではないですよ。生まれたばかりの赤ん坊でもそこにいるだけで悪であり、罪になる時代に突入しているのだということですよね。 (つづく) >>304 このスレッドの発言を「批評・散文・エッセイ」に移動することに問題はないと私は考えます。 評をきっちり書けば長文になるというのはしばしば起こることなので、長文の発言だからといってスレッド会議室を遠慮する必要はありませんが、移動は自由だと思います。 また、田代さんの今回の件とは違うことですが、やや関連するので書き添えておけば、スレッドに埋もれさせず長く自分の作品として残したい評なので批評散文カテゴリーに書いたけれども、他の人の評も聞いてみたいという場合は、批評散文カテゴリーに投稿し、そのurlとともにここに一言書き添えておくというスレッドの使い方もありだと思っています。 まことに勝手ながら、発言304はカテゴリー「批評・散文・エッセイ」に 単独で移動させていただきます。(これってありなのかなー?) http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=20024&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26cat%3D5 を、ご参照ください。 ポイントを入れてくださった方、続けてくださった一番絞りさん、 申し訳ありません。 しかし一番絞りさんの発言は304がなくても成立するかと思います。 何卒ご容赦ください。 なにしろ304は長いんで......(笑) もし問題があるようでしたら、ご指摘くださいませ。復帰させます。 山田せばすちゃん『ハンバーグをめぐる冒険』について http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=18777&from=listbytitle.php%3Fenctt%3D%25A5%25CF%25A5%25F3%25A5%25D0%25A1%25BC%25A5%25B0%25A4%25F2%25A4%25E1%25A4%25B0%25A4%25EB%25CB%25C1%25B8%25B1 【ちょっぴし長い前座】 >詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。(有井いずみ) このことばの意味をちょっと考えつづけていたのだけど、それはつまり 「事前」と「事後」の差ってことではなかろうか。 「事前」と「事後」って何か整形前と整形後、あるいはやせ薬の使用前と使用後っていう女性週刊誌巻末のあやしげな広告の文句みたいだけど 状況(権力や権威、体制といってもいいが)に飲み込まれる前と後の発話行為の違いってことではなかろうか。 つまり体制や権威や権力に立ち向かわないで(積極的にあるいは無意識あるいは消極的にであれ)飲み込まれてしまった後の 悲哀とか孤独とか不安を歌っている。 それは権威や権力のみならず〈恋愛〉でもいいし〈受験〉でも〈障害〉でも同じことだが。 そういう意味では現在、あまりにも「事後」の歌が多い。そういう歌には末尾に「と思う今日この頃であった」という一行が 不思議にぴったりとおさまるのだ。 たしか瀬尾育生が吉本隆明『母型論』の解説文で1960年末〜70年代にかけての時代状況をさし 「あたりを強迫的な命令形が埋め尽くしていた」と書いていたが、いまはそうじゃない。 あたりは「事後」の、「受動的な自発的命令形」で埋め尽くされているといってもよい。 「教育ひとつを考えても一切が反人間的な時間に組み込まれており、いわば他人を蹴落とす方法を研修する受験教育のシステムを軸にして 構成されている」(井上光晴)。そういう時代だ。 当然のことながら既成知識人によるウソと出鱈目な言説が吹き荒れている。 たとえば60年、70年アンポ闘争が「挫折」だったというウソ。この政治的に仕組まれた言説はまさにその後につづく若者たちの意気込みを 完璧に粉砕してしまったといえる。 実際、最近になって米国の元高官はテレビ・インタビューに答えて、あのアンポ闘争があったからベトナムへの協調介入を日本に要請できなかったと 吐露している。 ほんとうは、あの「アンポ闘争」は日本の軍国化を抑え、何万人もを人たちの命を救い、ベトナムの勝利につなげているのだ。 そういう闘争が無意味だという迷妄を垂れ流したのはだれか。責任の一端はことばを扱える立場の者にある。 その結果はどうであるか、いまの日本の際限なき出鱈目さを見れば一目瞭然だろう。 現代詩というものが、事が成り、終わった後の、状況への従属の悲哀や不安や違和を歌うのなら、それはやはり歌でしかない。 ぼくたちは事を始めなければならないし、事を成さねばならない。それが現代詩というコトバではないか。 うまくいえないけれど、有井さんの批判からそんなことを考えたな。 【ちょっぴし短い本論】 さて、セバスちゃんさんの詩の批評の本論。 のっけからもう言っちゃおう、あーやだ。 何がやだといって、ファミリーレストランという現場自体がやだ。 それってまるで奴隷市場みたいなもんでさ、レストランで働かされているロボットのようなウエィトレスたちが それぞれの用途にどれほどふさわしいかを語らされるように、ウエイトレスたちは自らのマニュアル言語について語っている/あるいは語らされているわけで、 それは資本主義効率化のための奴隷としてのファミレス・ウエィトレスたちには至極当たり前のことではあるのかもしれないけれど、 その「商品」としての美点であるそれぞれの属性、つまりはマニュアル言語だとかは、実は彼女たちが 生活のためにやむを得ずロボットとして自己を疎外しているのだという背後の苦痛にはごうも想像がいたらず、 ほんとうは己が身に備えていると信じている彼女たちの人間性とロボット言語を発話させられていることの相克に思いも寄せず、ときには性的な対象として ときにはマニュアル言語を話すロボットとして、その虚構性をいちいちこの詩の語り手はさも得意げに突っ込んで見せているわけだ。 でも実はこのマニュアル言語を話す「ロボット」の持つ虚構性は、「ウエィトレスの姉ちゃん」たちが自らそう思い込んでいる、 あるいは自らを商品にしてしまうことでそう言わされている、というだけの問題ではなく、 それらの属性がウエィトレスにふさわしいとされている事自体にあるのだけれど、狂言回したる語り手の 体制にへこまされてしまった「事後」としてのオヤジが、ウエィトレスの複雑な分断された存在の点にまで思いが至ってないことは明白だったりするので そこで俺はがっかりしちゃうんだよなあ。 【ちょっぴしのあとがき】 本論は山田せばすちゃんさんのチアーヌさんへの批評、その第一連目の文脈をそのまんま使わせてもらいました。 いちおう、ここ、「批評しましょ」ってことになってるんだが。 >>300 チャオさん、どうも。 >ちなみに、石川さんが書いて、一助になったというのはほんとうに偶然だと思う。でも、偶然の半分は意志によって決められることなのだから、もちろん自慢すべきものだと思う。だから、山田さんの批評と石川さんの批評は第三者から見れば全く同一のものに過ぎないのです たぶん、そうだと思います。ただ、ぼくの考えでは、批評は、作品や作者と時には、真剣勝負をしながら、お互いを高めあおうとしているとも、考えるので、山田さんと僕は、チャオさんの言うところの、同一に見える存在だと思う。作者からの反応は素直にうれしい >単純に言葉への不信って感じたことありますか? 不信というか、どういうたらええか、どんな僕の言葉も、世界に対して無効とか、、単純に、本当に何を語って良いかわからない時期がしばらくあったりして。ちょっと、その時は、少し病的だったと思います。 今は、死んだ爺さんに、言うことはいわなあかんと言ってもらい、間違えてもいいし、でも妙なお節介も入り、思いは、少し語れるように、、とはいえ、自分の気持ちから、離れたりすることが、いつもいつもあるように思え、しゃべり過ぎたりそこいらは、考えなならんなと。 語りにくさを噛み締めるのは、誠実さです。そして、語る誠実さもあると思います、チャオさんの言うように。 追記、ちなみに拙いものかもしれないけど、僕も詩作を試みています。 このところ、『批評しましょ』で取り上げられた二作品を振り返ってみると、いわゆる戯曲の中からモノローグだけを取り出したようなものだったように感じられる。 べつに詩なんだからどのような形式だろうとかまわない。 ただ、テーマがあって、ストーリがあって、モチーフがあるようなものを詩として書き込むなら、最低限そのような書き方について しかるべき敬意というものを払ってもいいのじゃないかと思う。 散文だって斬れば血が流れるのだ。 そういう詩の場合、テーマ、モチーフ、ストーリーが同じであるという単調なものは賞味するには退屈なのである。 しかもそのうえ、この二作品、発話者のキャラクター(性格)とシチュエーション(場面の特性)が、作者を越え、勝手に動き出す気配さえないというていたらくだった。 何度もいうが散文だからってバカにしてはいけない。 標識やスローガンじゃあるまいし、 ことばを使って書かれたものは斬れば血が流れるべきだ。そういう詩を書いて欲しいものだ。 と、北村想『高校生のための実践劇作入門』を読みながら考えたのだけど、じゃあおまえはどうなんだ、とおのれを振り返れば情けない限りだ。 批評するひとをさして実作者のほうから「ひょーろん家」という揶揄の仕方がある。しかし、そうだろうか? ちょっと早急に結論だけをいうけれど、 批評というのも作品=詩ではなかろうか。わたしの場合はまだまだ「もどき」だが、斬られれば血の流れ出るような詩や批評を書きたいものだと神様にお祈りする日々であります。 ≫298 石川さん早速のお言葉ありがとうございます。 もしかしたら、石川さんはすごい才能がある人なのかもしれない、けど、ない人なのかもしれない。だから、きっと、勉強するんですよね。 評論家は嫌われるってのはちょっと言い過ぎかもしれないですが、でも、それは、少なくとも、あたらずとも遠からずです。たぶん。 ただ、僕が言いたいのは、評論家は創作が出来ない(簡単にという意味を込めて)人たちだと思うんですよ。もちろん例外的な人もいますけど。 単純に言葉への不信って感じたことありますか? 僕は、すごくあるんです。で、何で、僕の感じる思いは「愛」なんだろうとか「憎しみ」なんだろうって。まあ、普通に感じますよね。で、そこを乗り越える経験、もしくは、放棄してしまう人もいるだろうし、とにかく、今の現状がどうなのかってことが問題だとは思うんです。 才能があるってのはやっぱり、感性が鋭い分いろんな痛みを生じるとは思うんです。だからこそ、その痛みと富に言葉が生まれて、そこへ言葉への不信が消えていく。単純に考えればそんな感じだと思うんです。 でも、批評家は違う。彼らは才能がない。だが、彼らには、根気と、熱意がある。不信感を抱いたままの言葉の群れを、彼らは用いて、表現する行為を好んで選び、その言葉たちが、真実であるように示さなければいけなかったとき、やっぱり、個人的な感情は、極力排除してやろうと思うんです。 僕が好きな言葉なんですが、「文学のゼロ度地点」。そこへ、意識が向かうんです。ただの記号としての言葉、そこに、何らかの意味が入る。っていう作業。そうすることで、ようやく、彼らは、ことばを作り出していくのです。 (というよりも、言葉だけに限らず、その人自身もそんな感じだったりするとは思うんですが。)そうやって作り上げた言葉を、なぜ簡単に使うのか?それが批判ですよね。本当にそうだったのか考えてみた?っていいたくなって当然です。でも、それが僕には才能だと思う。 個飛べの意味を、自分の体ひとつで受け入れられるってのはすごい。それが出来ないから、やっぱり批評家は作品がなかなか出来ない。僕もそう。言葉への畏敬が強すぎて、引っ込み思案になってしまう。 そこが、物足りなさを感じたところだと思います。 はっきりいって、臆病な人間でも、何とか一歩を踏み出す意志はあるのです。気持ちが強い弱いは、才能の問題だと思う。気持ちの問題こそが決して敗れぬ問題でもある。 そうみていけば、僕には、山田さんのあのちゃかした言い方は嫌悪を覚えるが同時に、尊敬さえも抱く。 弱い犬ほどよくほえる。 だから、僕は、いつまでもほえ続けたいのです。強い犬と戦いたいけど、臆病な心が邪魔する。だから、強い犬をいらだたせようとしていっぱいほえる。 ちなみに、石川さんが書いて、一助になったというのはほんとうに偶然だと思う。でも、偶然の半分は意志によって決められることなのだから、もちろん自慢すべきものだと思う。だから、山田さんの批評と石川さんの批評は第三者から見れば全く同一のものに過ぎないのです。だけど、それらの行為はすべて、結果が判断してしまう。 僕は、それだけで世の中が動くのはいやだ。だから、どうしても、批評という形で言葉を発し続ける人たちに同情してしまう。 絶対に、感情論へ走りたいはずなのだから。だとしたら、結構、違う見方も出来るような気がする。 嫌な事スパって言う評論家だけじゃなく、とりあえず、命令する上司だったり、いうことの聞かない部下だったり。 「チャームポイント全調査」(チアーヌ) http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=19252&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D764 山田さんが、この詩をそれこそ「オヤジの心性・倫理」丸出しで、(でなければどうしてこの「上司」のオヤジ性=それもかなりステレオタイプの、を感受し反発憤慨できるのかわからない)批評されたわけですが わたしはこのステレオタイプなオヤジの心性(ということはかなり観念的な、現実には、ほんとうには在り得ない=なんとなればいまどきの審査員(会社員)は、もっと仕事上のプレッシャーがあり、それぞれ必死で点検、審査に余念がないのだろうから)に「違和」をぶちまけるほどの感受性が欠けておりますので 主に作文技術面で気のついたところを取り上げてみたいと思います。 まず、『チャームポイント全調査』という表題。 これはあきらかに詩の内容・場面とはそぐわない表題です。 「全」というのはこの詩の広がりの範囲からみて大げさに思えますし 「調査」というのも合わないような気がする。 ここは「調査」というより「審査」でしょう。 「調査」という語感には、隠されたものを積極的に暴き出し、あらわにするという意味がありますが 「審査」は、自己申告されたものをそのまま受容し、その範囲で評価するという響きがありますから、むしろこのほうがこの詩には、しっくりすると思います。 「チャームポイント審査」のほうがこの詩の表題には、しっくりするとは言っても、詩の批評というのは、表題が作文的にはしっくりしないにもかかわらず 『チャームポイント全調査』という腰の座りの悪い表題がなぜ選ばれたかというところに着眼し、それが意味するところを明らかにすることでもありますので ここは、この表題のつけ方自体が詩全体を不安定にさせている要因としてあることをとりあえず指摘しておきます。 次に一連目。の、第一行。 当たり前だけど 「性格がいい」なんてことや 「思いやりがある」なんてことは 二の次三の次 この冒頭一行目「当たり前だけど」って句の使い方が、まったく不用意に思えます。 つまり「彼女」の思想傾向がこれでまったく「当たり前」だってことがはっきりわかるほどに最初にどーんと「あたりまえ」が強要されて押し出されてしまい その後を読む気力を無くしてしまいます。 自分のこれから語ろうとすることが「当たり前」なら、書くことはあまり必要ないような気がしてしまうものですから。 この不用意さは六連目の第四行にも続いています。 チャームポイントってなんだろう とりあえず 調べたりするもんじゃないだろう ふつうは 「ふつう」のことを書くのなら書くことはないと思うのです。 いや、というより、「彼女」にとっては「ふつう」として世間に流通している思想(大げさにいえば)が問題なのか? わたしなど、この「彼女」の世界観の扁平さに、まずもって読む気力をなくしてしまいます。「違和」どころの騒ぎじゃないのです。 「違和」なんか感じている人はほんと、やさしいというか、ドンカンというか。いわゆる「いい人」なんでしょう。(マジ) 二連目。 目の前にズラーっと並ぶ モデルのお姉ちゃんたち さあ始まるよ 審査審査オーディション やや、投げやりな「大根の叩き売り」というニュアンスで書いてますね。 なんか、怠惰な情感さえ漂う。「やってらんねーよ、こんなの」っていう雰囲気と劇画的なセリフ回しはキライじゃないです。 これが最後まで「大根の叩き売り」的べらんめー調 &「やってらんねーよ」だったらとても面白い詩になる可能性があったと思います。 ま、オーデションが終わってからの検討会議とかの描写もその雰囲気でいってますが。 ひょっとしてそういう無為な男女の営為を描いているのか! おお! これは目からウロコだ! って感じもないでもありませんな。う〜む。ずずずーっ(鼻水をすする音) あらら七連目。また「ふつうは」だ。これはイケナイような、あるいはなんらかの罠!か。 「お前のチャームポイントはどこだろう?」 不意に話しかけてくる上司の声に、 「見えないところにあるんですよ」 と笑って答えてみた 上司も笑った この会話はたぶん、実際にあったのでしょう。で、この会話を思い出して作者は即席にこの詩をつくられたのでしょう。 わたしは別にこの会話、悪いとは思わないな。ほんとうの美は内面に隠されている。これは、こんな怠惰で無為な営為を続けている、うっとおいしい日常にあって、それを知るものが冗談めかして、かすかに確認しあう素晴らしいひと時ですよ。 「オヤジの倫理」だなんて、とんでもないと思うな。ぼかあ。 >>297チャオさん、こんにちは。 これは山田さんのことを置いといてなのですが、 >単純に、批評する人は嫌われるのだ。なぜならば、大体そういう人は人の倍も本を読んで、あらゆる角度から、物事を見ようとして、そのあらゆる角度から見た結果で、(個人的なアンケート調査ですよね)物事を述べるから。やっぱり、物書きは批評家と戦うには想像力が邪魔しすぎて、本を読まなさ過ぎるのだ。「僕はそれでいい」と思うなら、罵倒されることを良しとしなければいけない。「僕はこうじゃない」と思うならば、書く事をやめて、本を読み始めるしかない。 >文化論とか、トリックスター論とか、この世にある本が何冊、文章が何億存在するというのだろう。だとしたら、山田さんの鼻をくじける、本と出会える可能性は高いのだ。たとえ、ニーチェやバジュラール、孔子みたいな、有名な人を読まずとも。 ぼくは、知識の問題でないと思っている。そして、批評家は、物知りで、嫌われるということも思いません。なぜなら、たくさんの作家を、読み込んで、勉強は本を読まずとも、 色んな形でして、語り合い、育てあう批評家も、いるだろうし。後者の発言は、ケースバイケースだろうと ぼくは、山田さんを感じ悪いとは、思えない。むしろ、もっともっと、気持ちを出せば、感情論から、潜り抜けて、より、挑発的な批評を書けると思う。 僕が、チアーヌさんから、感じたものは、初期に書いて、本人の創作の一助になったらしいし、ぼくは、それ以上の世間的に技巧的な問題が、あまりに無さ過ぎて、奥主さんとそこは、同じで、かの作品に対しては物足りなさすら感じた。そこは確かに山田さんの発掘が無かったら、そもそも出会えてなかったもので、その点に山田さんの慧眼は見た。しかし、そこからが、少しずつ濁ったような。 しかし、チアーヌさんは、少し、あの作を見る限り、ある生きる、現場、感情の描写であり、スケッチしたものかと思う。彼女には、深い無力感からにじみ出る抒情を書こうとする他作での試行も認められる。 少なくとも、僕のような世界のくくり方より、生活の匂いがするという僕からの感想はあり、それは、とりあえずは、長いタイムスパンで変わっていくだろうと思われる。 ま、そんなところです。 皆さんこんにちは! ざっとここのスレ読ませてもらいました。すごく長くて疲れました。 で、今って、山田さんは悪か善かみたいな論議されてますよね。個人的な解釈ですが。 おそらく、批評をするということはその作品自体に魅力があることだから、その時点でほめられてるんですけどね。山田さんくらいの人が批評するときって。たぶん。読んでて思いました。 その書き方が、乱暴だとかどうとかってことですよね? 自分の意見から言わせてもらえば、乱暴ですね。でも、礼儀正しいと思いますよ。すごく。言葉を書くという行為に当たって、僕はへらへらしてるのが好きだからなんとも言わないけど、まじめな人になればなるほど、礼儀がない人って許せなくなるもんじゃないですかね。 言葉書く上で、どこまで覚悟してんの?みたいな感じ。僕でさえ、持ってしまったりするときがある。でも、そう思うって、単純に何か引っかかるものがあるからで。 「世界の中心で愛を叫ぶ」が売れたのって、少なからず誰かがすごい好きだったからだと思う。でも、誰かの好きは誰かの嫌いであって、売れれば売れるほど批判したくなるでしょ。嫌いな人って。その時点ですでに僕は感情論だと思う。 で、山田さんの場合はその感情論をさらに逸脱しようとして、結局転んじゃったみたいな感じかなあ。奥主さんの文章読んで、僕はそう思いました。それを、反対派の人たちは非難するわけで、そりゃおかしいぞ!って僕は思いますね。確か発端はチアーヌさんの詩だったと思いますが、そこで、やっぱり話さないと。 そして、山田さんの書き方がまずいのは、丸裸なことですね。たぶん。愛する二人じゃないんだからさすがに、丸裸の山田さんを抱くことは出来ないんじゃないですかね?でも、そういうところも、僕は、礼儀正しいとは思うんですけど、いきなり、素っ裸で現れたら、強姦ですからね。たとえ愛の告白をしようとしていたとしても。 言葉のマナーを守りすぎると、社会のマナーがおっつかないみたいな。いっそ、ヒッピーみたいに同じ思想の人だけ集まっちゃえばいいのかもしれないけど、それじゃ意味ないですからね。混濁した社会でしか批評は意味を成しえない。てか、批判が生まれないし。 話を戻します。 単純に、批評する人は嫌われるのだ。なぜならば、大体そういう人は人の倍も本を読んで、あらゆる角度から、物事を見ようとして、そのあらゆる角度から見た結果で、(個人的なアンケート調査ですよね)物事を述べるから。やっぱり、物書きは批評家と戦うには想像力が邪魔しすぎて、本を読まなさ過ぎるのだ。「僕はそれでいい」と思うなら、罵倒されることを良しとしなければいけない。「僕はこうじゃない」と思うならば、書く事をやめて、本を読み始めるしかない。 文化論とか、トリックスター論とか、この世にある本が何冊、文章が何億存在するというのだろう。だとしたら、山田さんの鼻をくじける、本と出会える可能性は高いのだ。たとえ、ニーチェやバジュラール、孔子みたいな、有名な人を読まずとも。 結局、僕は、山田さんの批評見て「うわ、こいつ感じわりいなあ」って思ったけど、いえてるし、なにより、反撃できない。それこそ、自分を甘えさせてしまうようなそんな文章になってしまう。いつか、俺は、山田さんを根本からひっくり返したいと思うのです。 >>295 他の他人の書くものをそれだけ、乱暴にカテゴライズして、さあも、奥主さんだけの言葉だけが通る、あなたの繊細な感受性には、誰もうかつにタッチできないな。奥主さんにゆっくり話をしてもらってくださいね。残念ながら、僕は、あなたの高尚さを理解できない あなただけが、注文に答えることをしてる、いっしょうけんめい批評をしてる、さくしゃとはなしてるんだと思うなら、あなたのスレッドがせっかくあるんだから、そこでやってもよかったけど、そうできない深い理由があったんでしょうか? >奥主さん 面白い、まったく面白いです。 退屈であくびが出そうに凡庸な共同体の倫理でも、そろそろ賞味期限も切れそうな息絶え絶えの文化論的なトリックスター論でもない、読者としての邪悪なまでの貪欲さから俺に注文いれたのはあなたが初めてなのでした。 僕は、他の方のように、うまくは書けないのですが、なんか、話がずれてはいまいかな。 もちろん、書き手に、作品の著作権はあるが、占有はできない。読みは自由だからね。 ぼくは、それと、山田さんとちがうタイプなのかもしれないけど、「違和の分析」って、そういう言葉で語れる作業を、人間の脳みそは、やれるのか疑問です。 「言語化」は、あたりまえだよ。わかるよ。 それと、人間は、デカルトも言うように、情念があるのね。しかし、それをそのまま語ると、「ばか」とかになりかねない。でも、分析言語より、批評は、なにか、記述というか 作品の核をたどることカナと思うわけ。 それと、未分化に近いが、チアーヌさんは、人格攻撃だとおもってかいてるとは、あまり思えない。 それと、政治性とか、汚れ役とか、もちろん、そういうのも、プロレスとかではあるかも。でも、山田さんは、ネットでのフィクションの扱い方が、うまくいえんが、うまくいってない。パフォーマンスに意識をすり減らしている気がする。 人格を気にし、自分の発言に対する批判を、気にしすぎているのは、山田さんで、山田さんは、ナイーブで、素敵過ぎるのかもしれない。 チアーヌさんに、もっと自覚的に良い作品を書いて欲しいという期待があるなら、もう少し、じっくり、話しかけた方が良いと思うよ。 批評は、読み書きを相互に、切磋することで、ぼくは、残念ながら、奥主さんのように丁寧に、また、他スレだけど、よく批評を書いているあをのさんみたいに、ある種の目の細かい文章はかけないのだ。しかし、ネットだから、誤解を与えないように書くのは、大切だと思うが、あまりに、パフォーマテイブな言説は、素朴な批評への入口を閉ざすかもしれないと危惧する。洗練しすぎると、素人は、書きにくくなる。 僕は、山田さんの批評はまずいと思うが、もう少し洗練されていない批評があっても、それが丁寧に、詩表現の核にたどり着こうとするなら、それは、いい批評だとも思う。 >ボルカさん 俺は少なくともチアーヌさんの二作品に関してはそこをきちんと峻別して書いてるつもりだけどなぁ、語り手としての「彼女」は「ドトール〜」においては「バカ」と言い、「チャームポイント〜」では「鈍感」言ってはいるけれど、俺は批評内においては「チアーヌさん」が「バカ」だとか「鈍感」だとか決して言ってないもの。 それをわざわざ、「語り手としての彼女」=「私」だ、みたいなことをチアーヌさんが言ったりするものだから、話がややこしくなってるわけでね。まあ、そう思ってるんだから、俺の批評にも不愉快な思いを抱いたりするんだろうけれどね。 いっそ、「こんな女が実際にいるわけないじゃないの、釣られてやがんの、やーい」みたいなところまで突き抜けてくれれば、それはそれで俺としては却って爽快な気分になれると思うんだけど、どうだろう? emotionて、情念て訳すな。パッションは、何か垂直的なイメージかも。情念は、揺れてるけど、燃えつきても残るもの。消尽したもの。ドゥルーズは、その灰からも始まるものがあると云ってるね。解体したひと欠片の逆襲が、断片を融合させて詩が始まる。詩は死んだ、詩作せよと瀬尾育生はいったが、解体した断片を、寄生獣みたいに変形させ、複雑な変形態を構成させる。むずかしね。でも僕は北園克衛も好きだから、あんなデザイン詩を書いてみたいなと憧れはある。でも、なんか人生の事を書きたい今である。でも欠片の繋がりは僕のテーマかな。 前のほうに「emotion過ぎるスレ」という意見があったけどまさにそのとおりで、情緒的、感情的なコトバのぶつかり合になってしまっている気がする。 もともと最初の切り口から違っているんじゃないだろうか。書いてある内容について咎めていくと、結局、詩の良し悪しの話から離れていってしまう気がする。たとえば、ある詩が面白い感じ、その理由が単に、書いてある内容によってであって、詩の表現によって特段にそれが際立っているわけでもない場合、「これって別に詩として書かなくても、エッセイでも短編小説でもよかったんじゃないの」と感じることもあります。そうした時、その違和感(ある意味、不満感か)を内容のほうへぶつけてもしょうがないのであって、むしろ、詩表現に注目するほうが前向きかな、と思います。 >>たもつさん 簡単なことですよ、「俺が作者だから、この作品に関しては俺の言うことが正しいのだ、何せ作者だもんね」ってな根拠のない特権振りかざして批評の場に乱入するなってことです。すっこんでろ、とはいってない、自分の意見が他の「読者」のそれと等価であるという自覚を持って参入していただく分にはなんら問題はないと思いますよ、それこそオープンな場所なんだし。 >>いとうさん うはははははは、ちょっと耳に痛いコメントだな、それは。せいぜいポケットからゴキブリ出しておいて、「なんだよ、料理にこんなゴキブリが!」などとやらかすことのないよう、それだけは自戒いたします。 >>280 いとうさん巻き込んでごめんね。でも僕の「感受」ていう固い言葉を、簡単に云うとうまい、まずいだな。何と云うか僕は女の子好きだしね。それと批評が全く別かと云うとそうでもない。 そういう点で云うとチアーヌ氏のオヤジに同調する点を批評をしながら、男でフェミニストと云いつつ、騎乗位が好きとオヤジネタ的なことを云う山田氏のスタンスはかなりに複雑怪奇だ。僕が馬鹿なだけ?僕は女の子に甘えすぎるところがあり、だが今は鬱なので足腰もガタガタ。うつは体にくる!デートもしんどいと。ともかく山田氏の位置は不明だ。 すまん、追記。 ただ、個人的には、彼が何故敢えてこんな憎まれるようなこと(笑)やってるかってのも、 わかるので、少し、痛し痒しって気分もあります。 つぶやくのなら、「もうちょっと上手くやりゃーいいのに」ってところか? (痛し痒しってこういう使い方でよかったんだっけ?) まずは、かのさんに賛成。でも人としてというより僕は文章を書く人としてなんだな。それは、やはり初動での山田氏の書き方は自分の枠でさばきやすい相手を見つけてるようにしか見えんかった。批評形成過程という人もいるが、スタートで滑ってるわな。後、奥主さんは和らげていってるが後の文章も人の言葉を継ぎはぎして、まずいね。だから感受を自分の言葉で云ってと云うたのよ。作者の出現に批判を云う人もいるね。確かにチアーヌ氏の反応は批評から逃げてる部分はある。だけど不当だと感じたことを云って何が悪い?喧嘩に誘てたの山田氏に見えたしね 「この料理は美味しくないなあ」ではなく、 「あー。やだやだ。この店はこんなくそまずいもん食わせんのか。料理人は何考えてんだ? こんな食材をこんなふうに扱うなんて、鈍感なんじゃねーの?」みたいに、店の中で大声でわめきちらされたら、やっぱイヤだなぁ(笑)。 それは、美味しくない、と言われたことに対してではなく、ね。 昔、吉野家で、「この牛丼まずいよ? タイ米でも使ってるんじゃない?」と、ネチネチ店員に絡んでる人がいて、 それを見て、すごくイヤな気分になったことを思い出した。 流れとは全然関係ありませんが。 >>275 >作品の批評の現場に作者自身が入り込むことは、論じられていることがたとえどんな >ことであろうと、やってはならんことなのです。 「やってはならんこと」と言う意味がよくわかりません。 ここはオープンな場所ですよね。 オープンな場所には作者だっていますよ。 俺たちは好き勝手言うけど、お前はすっこんでろ、というのはどうかと思いますが。 その辺のところをすっかり無視して、書き手の心得論を振りかざすのはいかがなものか。 それがしたいのら、そういうルールを作ってからにしましょうよ。 たしか、そういうスレッドがあるはずです。 あのさあ…。 批評とは何かとか、詩書きとしての姿勢とかよりも、一連の発言が「ヒトとして」どう か、もう一回さ、胸にあてて考えてみようや。主に山田さんのこと言ってんだけど。 >>275 oldsoupさんへ こんにちは。よくわからなかったので質問です。『批評そのものの完成』とはどういった状態を示しているのでしょうか?ここ批評しましょのスレッドにおいての場合で結構ですので教えていただけますと幸いです。 作者が作者自身の作品を解説する、このことはまったく信用のおけないこと、うしろめたいことですが、それから導いてみれば、作品の批評の現場に作者自身が入り込むことは、論じられていることがたとえどんなことであろうと、やってはならんことなのです。固まっていない生コンに足を踏み入れるようなものです。批評形成段階において批評の的となる本人が現れる、つまりそこに信憑性の欠落を招き入れることは、批評そのものの完成には害だと考える訳ですよ。いいとか、わるいとか、そういうことではなく、間違っていると言いたい訳ですな。 >チアーヌさん 私はチアーヌさんの「痛み」をほとんど理解していません。 私は酷評に慣れすぎていますし、またそれを「反応」として考えることに慣らしてもきました。 私は私の作品の書き手ですが、権利者ではありません。 作品は、私が他者に向けて放った瞬間から、他者との間に違う世界(像)を結ぶものであって、 そこに私は介在しないのです。 それにたえるだけの強度を、私は作品に与えたいと願い、書いています。 まあ、これは批評ではなく、書き手としての私の意見なので、 これまでの話とは切り離して考えていただきたいのですが(笑) とりあえず「気に入らないなら読むな」は絶対やばいと思いますよ、本当に。 次に>>266について、ですが。 別にいちいち意図なんて考えてやってやしません、奥主さんへの返信>>255に書いたとおり「俺があくまでもやりたかったのは「違和」の分析と言語化」ですから。強いて言うなれば「俺の世界観」から見たときに「違和」でしかないことがチアーヌさんの「作品世界」には比較的たくさんあった、というだけのことで、別にチアーヌさん個人には好悪の感情も、もっと言えば興味すらありません。チアーヌさんの詩を酷評したから俺がこの世界でなんか立場がよくなるとかそういう政治的意図もないです、ないですというかそんなもんあるわけないでしょ(笑) 「違和の分析と言語化」についてもう少し説明が要るでしょうか?要る、という答えを想定して説明を続けます。 俺はその詩を読んだときに一番最初に口をついてでた言葉を、できるだけ批評の冒頭におくことにしています。チアーヌさんの作品の場合だとそれが「何だ?このバカ女」だとか「あ、なんかすげーいや、この女、鈍感」だったりするのが困りもんですけど(苦笑)それがつまりは「違和」の発見です。で、次に何でこの女がバカだと思ったんだろう、とか、なんでこの女のどこが鈍感なんだろうと改めて作品の中から「違和」の根拠を見つけ出すべく精読します。見つかるときもあれば見つからないときもありますし、勘違いだったりすることもたまにはありますが、さすがに最近はほとんどそれはなくなってきました。見つけ出したらそれは俺以外の他者にも理解可能な違和なのかどうかについて考えてみます、「それはそうだよね」といってもらえれば「僕らは友達」なので一番うれしいですがもしかしたら「そういうのもわからないではないけれども」という反応で終わるかも知れません。ともかくそこから違和の言語化が始まり、印象批評がスタートするのです、とか言うとまるで手順を追ってシステマティックに脳内作業が粛々と行われているかのような印象ですが、実は最初の違和を、まずメモ帳なりノートパッドに「この女バカ」とか書いて、「だって」とか書きながらすでにその作業の帰結は見えていたりもします、見えなかったら書きません。 そうやってこれらの批評は書かれていますが、その時点まで俺には誰が作者かは関係がないのです。書いたあとで「これ投稿しちゃっていいかなあ」などと一応ネット詩業界における政治性みたいなものもちょろっと脳裏をよぎりますが、すでに立場なんてないに等しいヨゴレなので、大概はそのまま投稿しております。 で次に >>山田さんは、わたしだけでなく、過去の同人仲間まで侮辱してくれたのですよ。 についてですが、それは誤読です。多様な解釈とかいったそう言った問題ではなく、明らかに事実関係の誤読です。この文章>>12は>>11の大村浩一氏へのレスですが、問題の箇所を前後も含めて引用します。 >>少なくとも俺が顔出してる同人誌の合評会だって、ここまでこの詩に豊かな内実を吹き込んで見せる試みができたかどうかは疑問だし(いや、大体、俺が出入りしてる同人誌のレベルがどうだ、とか、こんな詩が同人誌に載ってるのだとしたらその同人間の見識がどうなんだとか、いろいろ突っ込みどころもあるでしょうがね) ここで俺はチアーヌさんの詩に関してこのスレッド内で行われたさまざまな「読み」が、俺の出入りしている同人誌ネット21の合評会よりも高いレベルで展開されている、ということを述べています。( )内で書かれていることは その1 俺の同人誌よりレベルが高いとは言っても肝心の俺の同人誌のレベルが低かったら、相対的にレベルが高い、といっても絶対的には現代詩フォーラムの批評はレベルが低いんじゃないか、という突っ込み その2 こんな=大村氏言うところの「扱いやすい」詩ばかりをのっけちゃうような同人誌があったら、その同人のレベルも絶対的に低いので、同じように相対的にその同人誌より現代詩フォーラムの批評のほうがレベルが上だといっても絶対的にはどうなのか疑問が残るじゃないかという突っ込み が、大村氏の側からあるかもしれませんけれど、という付記でしかありません。決してチアーヌさんが前に属されていた同人誌とその同人を誹謗しているものではありません。大体、俺はこの文章書いた時点ではチアーヌさんのパーソナルな履歴などまるで知らないのですから、あなたがどこかの同人誌に属していたなんてことはまったく知らないわけで、いったいどうやったらその存在すら知るべくもない同人誌とその同人を俺が侮辱できるというのでしょうか? >石川さん ニヒリズムというものを、私は実に通俗的な意味でしか理解していません(勉強不足で すみません)。ニーチェも読んでいない。それで石川さんの「生きている虚しさ」という 最初の発言にムっとしたわけです。それはチアーヌさんの作品に対する評としてよりは、 ここで起きている〈出来事〉への、石川さんの嘲笑に感じられたからです。 しかし少しずつ書いていただいたことで、わかってきました。だが、さらにやっかいだ と思うわけです。そこへいってしまったら抜け出すのは困難だということしか今はわから ない。それを持ち出されてしまったら、もう何も言えない、という最終的態度でもある。 しかしニーチェは「よしわかった、もう一度!」と書きもした人ではなかったでしょうか ? 私は現在、岡真理の『記憶/物語』という本を読んでいます。彼女が模索しているのは、 物語の(不)可能性−語ること、表現することの〈出来事〉からの乖離−を自覚しつつ、 いかにその〈出来事〉を当事者と分有し、語っていくことができるのか、ということです。 物書きとしては、まさに歩くだけで血まみれになる針の山を進んでいる。(この私の書き 方もあまりにいい加減な物語ですが。) かつて岡真理の『彼女の「正しい」名前とは何か』を読んだとき、こうした態度に、私 は目から鱗が落ちたような気がしたし、同時に、それはあまりに困難で、自分を縛り、必 要な行動をすることすらおぼつかなくなるのではないかとも思ったものです。が、その自 覚は彼女を動けなくしてはいないわけです。彼女がひとかたならぬ強さを持っている、と いう個性にのみ依拠することがらなのでしょうか? あるいは私が、彼女に対し「物語」 を勝手に作っている? そうかもしれない。しかし諦めている場合ではない、ということ は、これは切らなくてもいい気がしている…これが物語であったとしてもです。 だから「わかんないから無視しとこう」とは思えませんでした。いまだとて、石川さん の苦痛を、私は何一つ理解していない。しかし、書いていただけたことは本当によかった と思います。 >268 ここで言われる「emotion」とはどのようなものなのだろうか? 言葉を尽くして語ろうとすることの後ろに、どれだけの精神的格闘があるか。 そのような愚直さに、むしろ涙ぐましいほど「emotional」を私などは感じるのだが...... しかし独自の「emotion」を振りかざし高踏的に言い捨てていくやりかたは、 どうも納得がいかない。そう言いたいなら、そう感じる理由を書けばよい。 やれやれ。 順番に行こうね、つか、すでにチアーヌさんは今後俺と言葉を取り交わすつもりもあんまりないだろうけどさ、こんな感情的なそれこそ「暴言」に、星入れちゃってる大向こうのためにも、言わなくちゃいけないことは言っとかなくちゃね。 まずは >>「この程度」などと、嫌味な前フリをつけてまで・・・・ ここら辺から行っとこうかな。 どこが「嫌味な前フリ」なんでしょう? ってか、「この程度」という言葉のどこが「前フリ」なのか俺にはわかりません。「前フリ」という言葉の語義にあってない気がします。「この程度」の「この」の内容はそれまでのお話の中にあったものばかりなので繰り返す必要もないかな、と思って指示語をおいて省略したのですが、もしチアーヌさんが指示語の指し示す内容がわからなくって、このような意味不明の抗議をなさるのなら、指示語をなくして、きちんと内容を明示した上で、この文章を再掲いたしますので、よくお読みになった上で、嫌味なのかどうかをもう一度ご自分の胸に手を置いてお考えになることをお勧めいたします。 ああ、この人は人前に自分の書いたものを投稿して載せるという行為については、「10分くらいで書いたものなので、自分で読んでも、あちこち直せるかな?直したほうがいいかな?とは思いますね。もう少し、書き込んでもよかったのかな、と。」って自分で思ってる作品でも平気で作品として投稿できちゃうくらいに無責任で、批評が載ったら載ったで今度はその作品としての成立の過程がいい加減であることを言い訳にしたがるくらいに覚悟のない人なんだなあ、ってところですが、むろんその感想と投稿された作品の評価を連動させるつもりもありません。 これで如何でしょうか? たとえば、どこかに食事をしに行って、頼んだ料理が美味しくなかった、とします。んでもって「この料理は美味しくないなあ」といったら奥から料理人が出てきて「これは今大急ぎで、有り合わせの材料を使って作ったものなのです、私ももう少し手をかけて出せばよかったと思うんですよ」なんて言ったとしたら、どうです?それに対して「そんなの言い訳にもなってないじゃん、無責任だなあ」とこちらがそう言ったら「そう思うんだったら、もう私の料理は食べないでください!」って逆ギレしちゃうんだもん。それでもってそう言った口で「私は料理人一筋で、ここまでやってきたのです、料理には責任を持ちます」って言われても、それはどういう類の責任なんでしょうね?そんな責任とか覚悟とか、果たして信頼していいもんなんでしょうかね? 確かに俺とチアーヌさんとでは「責任と覚悟の種類が違う」のでしょう、それでもって俺はチアーヌさんの言うところの責任と覚悟、なんてもんは絶対に信じません。それを「私に対する侮辱」だと受け取ったのだとしたら、チアーヌさん、あなたの自我は間違った方向に向かって肥大しています。俺だけでなく田代さんもおっしゃってるとおり「心してお書きください。そして思い切りよく手放す。」それが俺の言う責任と覚悟です。 んで揚げ足取ったと書かれてますが、揚げ足取るというのは人の言葉尻を捕らえてその人の意図していない解釈をするとか、茶々を入れる、とか言うことだと思うのですが、私がいつどこでどういう風にあなたの言葉尻を捕らえて意図してない解釈をしたり、茶々を入れたりしたのか、できればきちんと提示してください、それこそ、「何でも言っていいのだ」ってもんじゃありませんよ(ってこういうのを揚げ足をとる、というのです。) 次に「作者だからと出てくるな、とか一読者として参加すればいい、とか」の「意見の押し付け」についてですが、別にあなたが思ったことを言うのは自由ですよ、俺には書き込みをさせない権限も削除する権限もこのスレッドでは持ってませんから。押し付けはしませんよ。私や田代さんが言ってるのは「批評に対して作者がのこのこと言い訳しに出てくるな、みっともない。」ってことです。批評家の「読み」に異論があるのなら、「作者」ではなく「作品の一番最初の読み手」として、つまり「読者」として異論を述べなさい、と。しかしその「読み」はほかの読み手の「読み」と等価にして並列だよ、と。 そんなもん時間がたってないから客観視できないとか何とか、そういう問題じゃないでしょうが。自作を客観視できないのは、書き手としての自我が肥大しすぎているからです。 私は前回の「ドトールに行きたい」のときにもその問題についてそれとなくご注意申し上げたつもりですが、もしかしたらあんまりそれとなさ過ぎてお見逃しになったのかもしれませんね。あるいは俺の書いたもんなんか斜め読み、で終わらせてるのかもしれませんけど、どっちにしてももう一度申し上げておきます、わかるようにして。 前回あなたはいくつも並んだそれぞれの「読み」に対して、よせばいいのにコメントつけるような愚考を犯しましたね。曰く「はい、そういう心情もあったと思います。」「あ、これもありますね。なかなかスルドイです。」「そうですねえ、そういうこともあるかもしれませんね。」…何様のつもりなのですか?チアーヌさんは「作者」がその作品の一番の理解者だと、そう思い上がっていらっしゃる。そうでなければこのような一つ一つの読みについてまるで学校の先生が丸つけるみたいにして、これも正解、これも正解に近い、などと判断する根拠もないのにできるわけがない。いいですか?あなたの「読み」もほかの人の「読み」も読者の「読み」として等価なのです、あなたに○×つける権限などありません。俺が「批評のあるべき姿は、作者の知らなかったことまで作品の中から紡ぎだしてみせる事の成否とその手際とにかかっているのですから。」と書き、田代さんが「あなたがどういうつもりで書こうと、作者の「つもり」よりもっと面白い読み方を、われわれ読者は力を尽くしてすべきなのです。」と書いた、その意味を、残念ながらチアーヌさんはまったく理解していらっしゃらなかったみたいだ。 それでもって今回は同じように、作者として一段高い位置がご登場なさる、何が「わたしからもひとこと」ですか。その尊大な物言いもまた、「読者がどんな読みをしようとも作者の解説が一番作品の正解に近いのよ」という肥大した自我むき出しの醜悪さです。 以上が>>263に対する俺からのご返答です、何か一言でもあなたの中に突き刺さって、後にそれがあなたの作品の向上につながればいいな、と、俺は「勝手に」願っておきます。 言葉は少なからず相手の心にショックを与えるとは一般的なもの云いにすぎるだろか。批評の衝動はかなり本人にとっても、訳の分からないうずきのように私感じる。私もいつも冷静なわけでなく合評等で注意を受ける時もある。しかし私は根が馬鹿なのか、どうしても伝えたい時理を尽しても相手を傷付ける時がある。それは私は愛なのだが相手にはウザい時もある様だ。ガードの固い人もいて私の無神経とも取れる言葉に引っ掛かる方もいる。しかし、うずきは私の中にある、そこで悩みまた、同じ失敗を繰り返す時、私は絶望する。失語に固執。私はしつこいっす >石川さん わたしもそう思います。 >山田氏は彼の感受をもう少しく明らかにした後読みに入って欲しいと願う。 正直言って、山田さんがわたしの詩をここで「ドトール」「チャームポイント」と続けて取り上げている意味をわたしは判りかねていますし、また、わたしはここに詩を多数、投稿していますが、わざわざこの二つを取り上げる意味が判らない。 まぁどれを取り上げようと、それは山田さんの自由だから、かまいませんが、理由を説明してもらえると、意図がわかりやすくなります。 わたしは、「ドトール」「チャームポイント」での一連の山田さんの発言から、山田さんはわたしの詩など殆ど読んでいないか、または読んでいても嫌っているのだろうと思っていますが。それはもちろんちっともかまいませんけれども。でも理由は知りたいです。 あと、この際ですから、もうひとつ、過去にスルーできない発言がありましたので、ここに書いておきます。 以前「ドトール」の批評の際、 >いや、大体、俺が出入りしてる同人誌のレベルがどうだ、とか、こんな詩が同人誌に載>ってるのだとしたらその同人間の見識がどうなんだとか、いろいろ突っ込みどころもあ>るでしょうがね の発言を読んだときは、かなり不快さを感じました。しかしそれを書くのは、そのときの本題からずれていると思い、あのときは書き込みはしませんでしたが、今この場で申し上げておきます。山田さんは、わたしだけでなく、過去の同人仲間まで侮辱してくれたのですよ。山田さんがどんなに敷居の高い同人誌にいらっしゃるのか知りませんが、わたしは過去の仲間を今も大事に思っていますし、そのときの同人の主催の方を今も尊敬しています。そして、わたしがいた同人誌は、けしてレベルの低いところではなかった、と自負もしています。小説がメインの同人誌でしたが、詩を載せたこともあります。「こんな詩」を。 何でも言っていいのだと、思っていませんか? わたしだけでなく、過去の同人仲間まで侮辱することはやめていただきたいです。 わたしは山田さんと「議論」も「会話」もしたくありません。さきほどの発言の最初にそう書きましたでしょう?それに、山田さんにとっては「議論」も「会話」も同じものなのでしょう?わたしにとってはまったく違うものです。大体、言葉の意味が違うじゃないですか。「どうせ同じなので」という方とは「会話」はできません。 それに、「会話」というのは、あくまでも「会話」であって、山田さんのいつものスタイルでなさるお話はわたしにとって「会話」とは100万キロくらい離れています。 それに、わたしが言ったことは「文句」なのでしょうか? あれを「文句」と受け取るのであれば、その時点でお話はできません。わたしはわたしの姿勢にかかわることだけをお話しました。これだけはスルーできない、と思いましたので。山田さんに対して「文句」など言っていませんよ。批評についてはご自由にどうぞ、と言っているじゃないですか。今回は批評の内容にも触れていませんし。 でも、わたしとしては、山田さんからみて「こんな詩」を、わざわざ批評なさらなくても、と思いますけれど。それこそ、時間の無駄、でしょう? 山田さんにとって批評しなければならない詩は、もっとほかにあるのでは? わたしは侮辱されたことに対しての怒りを述べているだけです。そして貶められたわたしの創作に対する姿勢を表明しました。まぁでもそれを、山田さんは「文句」というのでしょうね。 そもそも、「会話」というのは、こじれていない状態でするものです。ニュートラルな状態で行うものです。わたしは山田さんに対して、考えや姿勢を固めつつあります。心無い発言について怒りの念も持っています。それに、批評のスタイルも、好きではありません。今後、「会話」が成り立つとはとても思えません。わたしと山田さんとの間で、発言がかわされるにしても、それは「会話」とは違うものであるとわたしは考えます。 私は、事実として仲間と実際に会って詩の合評をやる時には、作者本人の言葉も聞きます。まあ時間の関係上、読者の評をメインとする。もちろん云いたくない人もいる。しかし時に創作過程での興味深い話が聞けたりそうじゃなかったりする。 これは、ごく基本的なことだけど、作は一度様々な読みに晒される。だが、作はその後、作者読者を含め交流対話の土台になると思う。私は山田、チアーヌ両氏の話を聞いて、肩を持つ訳でもなく作者のレスは単純に読みを深めるに役立つ。山田氏は彼の感受をもう少しく明らかにした後読みに入って欲しいと願う。 さて。と。 チアーヌさん、お答えを差し上げたいところではありますが、私信がよろしいですか? それともここで公開で「会話」でも「議論」でもどっちでも、俺にはかまいませんが(どうせやることは同じなので)やりますか? まさか、文句いうだけ言っといて、「私は議論する気はありません」って耳塞いで眼をつぶるというのは、なし、でお願いしますよ。 議論するつもりはありません。だから、他のスレッドに書き込もうかとも考えましたが、話の流れからそれもおかしいと感じましたので、ここへ書き込みます。 作者だからと出てくるな、とか一読者として参加すればいい、とか、意見の押し付けはやめていただけませんか?批評も自由ですが、この場所(ここ現代詩フォーラム)はわたしも共に参加する場所です。わたしが思ったことを言うのも自由なはずです。 ついでに、わたしはわたしの詩の、一読者ではありません。あくまでも書いた本人です。 考えや感覚は、違って当たり前ですから、自分の詩の「一読者」になれる人もいるのでしょう。しかしわたしは違います。とりあえず、今は違います。わたしの詩は、最近書いたものが多いですから、もしかして年数がたてば、心境も違うかもしれませんが。 それから。わたしの姿勢に関することにだけは、きちんとしておかなくては、と思いましたので、これだけははっきりと申し上げておきます。 >ひとつだけ個人的な感想を言わせてもらっていいならば、ああ、この人は人前に自分の>書いたものを投稿して載せるという行為については、この程度に無責任で、この程度に>覚悟のない人なんだなあ、ってところですが、むろんその感想と投稿された作品の評価>を連動させるつもりもありません。 わたしはこの発言を読んで、非常に嫌な思いをしました。 簡単に人を侮辱するのはやめてください。 「この程度」などと、嫌味な前フリをつけてまで・・・・。 わたしも、長く文章を書いています。「何か」を書くことを、やめられずにここまできた人間です。その場その場で、真摯に書いてきたつもりです。 批評は自由ですから、ご勝手にどうぞ。しかし、人を貶める発言はご遠慮ください。山田さんの言う「責任と覚悟」とわたしの思う「責任と覚悟」の種類は違うかもしれませんが、それを議論するつもりはありません。 わたしは自分の産み出した詩や小説に責任を持っています。 人のあげ足を取るような発言はやめてください。 最後に。 山田さんが本気で、わたしのことを無責任で覚悟のないもの書きだと思うのであれば、どうぞわたしの詩など読まないでください。わたしはどの詩もわたしなりに本気で書いていますが、そう感じられないのでしょう?だからそんな風に言うのでしょう?それならば、そんなもの読んでもしょうがないでしょう? 本当は、こんなことこんな風に書いて書き込むのも嫌です。 わたしは詩についてだったら、「議論」なんかじゃなく「会話」がしたいです。感想だけじゃなく。わたしの好きな詩人の方のサイトで、「会話」をしているのですが、文章のことを、話したり、聞いたり、話し合ったり、それでいろんな風に感じたりして、「会話」はすごく、有意義だと思いました。たとえ、最初は意見が合わなくとも、相手の言っていることの意味がわからなくとも、わかりあえるようになることがあるし、もしわからないとしても、「会話」したことが、後で、自分の腑に落ちてきたりする。 そういうことは、山田さんとのこんな風なやり取りでは、わたしは生まれてこないような気がする。山田さんのスタイルは、結局のところ、詩評した相手に対し(読者に対しても)嫌な気分を残すだけなのではないだろうか?(例外もあるかもしれないけど、大抵の場合。)同じことを話すのでも、もう少し、(せめてもう少し)静かに、穏やかに、話せないのだろうか。 (わたしだって、本当は穏やかな人間だとは言えませんが、でも。) なんだか、嫌な書き方になってしまったと、自分でも思います。 少し過敏な反応だったかなとも思います。 しかし、わたしはそれぐらいショックでした。 我慢しようと、一度は思いましたが、我慢がなりませんでした。 きつい書き方をしたことで、不快な思いをされた方がいれば、本当にすみません。 話は変わります・・・。 奥主さんの、一連の発言、こころに残りました。考えさせられました。わたしはわたしの思うものを書いていくしかありませんが、「考えること」を続けるうちに、いつか腑に落ちて、自分の血肉になればいいと思います。わたしは、何かを考えるとき、頭だけで考えただけでは理解ができず、腑に落ちるまで時間がかかります。 考えるヒントを与えてくださったこと、感謝いたします。 石川さん 一連の最初のご発言、興味深く読みました。無意識の部分を指摘されたような気がしました。ただ、時折、自分は無意識を言葉にしているのではないか、と思うこともあります。少し説明が変ですけど・・・。うーん、むずかしいです。ごめんなさい。 補足。 自己の否定というのは当然自分の受け入れに難渋し、苛立つことであり、これは、外界や具体的な他者の受け入れを困難にすることがあると思う。 あまりに過敏だったニーチェは、たぶんそういう自分に耐えきれず三十才で教授になって、わずか五年で辞めて年金療養生活に入りました。通説では学会から追放なのですがニーチェの難しさが出たと思います。その後も自分に鞭打つように書き続けた彼。私は、病気を知る前から、彼をそう見ていました。 昨日精神科を転院することになり医師に大分怒っていた。そして今日になり僕は今このスレでの僕の発言が対話になっているか思い返していた。僕は医師に怒ってたし意味はあったのかもしれないが、果たして自分に苛立っていただけではないかと。同様に、僕の読みにも自分への異和が先にあり自分のニヒリズムを相手の作や発言に投影するのではないか?ニヒリズムは、まさに自己の否定であり、否定を通して生きていく。それをチアーヌさんや山田さんに読み込んでしまったかもしれない。しかし、その葛藤に飲まれながら赤面し読み書きする自分がいるのでした 先の言葉は「畏怖する人間」という初期論集でみずみずしいです。僕も人の言葉を借りて情けないばかりですが、でも、あの言葉は先行する批評に学びながら独自に放たれた感じがして、言葉のとどかなさを噛み締めた者にとっては比較的わかると勝手に推測します。批評はどこかで自他の本質をこすりあわせます。僕はチアーヌさんの作品を、ニヒリズムと読んだのは、相対的な価値秩序を奥主さんの言葉を借りれば、小咄にしてる感じ。つるつる滑る。でも鈍感なのか、そんな時代もあったので終わり。手応えなさはあまり興味なし。山田さんの違和の所在は? 僕は最近、あるサイトに、詩人の神尾さんの詩集について書いた。だが拙文が批評かは自難しです。>>255の「違和」という言葉大切と思った。柄谷行人が、前書いてたことを自戒を込め引用したい。「批評においても、いかに書くかということが問題である。例えば、怒りや悲しみがいかに真率なものであってもそれを言葉にすれば凡庸であり他人を感動させないのはそれらが本来伝えがたい失語の溝を一挙に飛び越えて社会化されたクリシェに頼ってしまうからだ」これは感受の核を残念な事に受取り難くすると…僕も固い言葉使い勝ちだから言葉を開く事かな 追記 通常「正常位」と言われる、あの男性が上で女性が下になる性交時の体位が「正常」であるとされたのはビクトリア王朝における性の抑圧期だったと思います。俺は決してフェミニズムが「正常」であるとは思っていません、俺にあってると思ってるだけのことです。ちなみに俺は騎乗位が好きですが(笑)それとフェミニズムとは基本的にはあんまりかかわりがないと思っています。 >>自分がひっかかった作品に関して、自分が言いたいことを便乗して書いているだけのような気がして 俺の感じた「違和」を、作品世界に即して言語化する過程で、俺の世界認識が提示されてるということですよ、奥主さん。俺があくまでもやりたかったのは「違和」の分析と言語化で、フェミニズムのプロバガンダじゃなかった・・・とは言うものの、所詮フェミニズムも「イズム」ですから、そう受け取られてもしょうがないっちゃあしょうがない類の物件ではありましたけどね。 >>「こういう発想を受け止めてくれる社会というものが厳然として存在しているに違いない」という弱さが、やっぱり漂っていると思うのだ。 ええ、それを「弱さ」というか「鈍感さ」というかはそれこそ個人的な語彙の問題ではないでしょうか? ついでに言えば奥主さんに「無理やり捩じ込んで」といわれた俺の批評態度は、かつて佐々宝砂に「強姦魔」といわれたこともあったりするのですが(苦笑)、たとえそれが「無理やりに捩じ込む」もんであろうと「優しく口説き落として、前戯おさおさ怠りない潤滑な挿入」であろうとも、小倉千加子http://www.logico-philosophicus.net/profile/OguraChikako.htmに言わせりゃ「すべてのヘテロセックスは強姦である」わけですし、大体俺は前提として作者そのものを強姦しようと企てたことは一度としてなく、作品を強姦してるのですが、ついぞ作品そのものからの「痛い」という悲鳴は聞いたことはありません。 くそ忙しくて、なんか書くヒマがございません。 ☆入れることで、私の意見にかえさせていただきます。 > 251 > 「こういうのは萎える、こういうのが好き」という自身の意見を述べているだけであって、 > 言語化を妨げようとしているわけではない 好悪を表明しているだけ、というのはその通りだろうと思う。しかしそれこそ問題のよ うな気がする。つまり「私はこれが好き」「えー俺はこっちが好き」「あたしどっちも嫌 いだなー」というような言いっぱなし、そしてもうその先はお互い干渉しないが善き振る 舞いなのだ、という態度は言葉を借りるが「萎える」。議論すること、紛糾しながら批評 をとりかわすことを馬鹿馬鹿しい、とするならば、そもそもこのスレッドすら存在理由が ないではないか。 山田氏のチアーヌ氏への噛みつき方が不快であったなら、そのことをきちんと追及すれ ばよいのだ。妙な緩衝材を入れ、「べつにあなたがそう思うならいいけどね」的な逃げを うち、相手の言語を無化したりせずに。 それが議論における、最低限のモラルではないのだろうか。 まあ、むろんどっちにしろ、山田氏は気紛れに怒ったり黙ったりするのだろう(笑) それは彼の責任でやってもらおう。 ああ! しかし上記文章は己にもはね返る! > 246 石川さん、ニヒリズムとシニシズムの違いはなんですか? あ。自分で書いててなんだけど、 奥主さんの発言、そうでもないような気がしてきた(笑)。 「理ばかり先に立って、セックスに理屈をつけるような批評というのは」とあるんで、 ちょっと違うかも。 でもまぁ、それでも、「こういうのは萎える、こういうのが好き」という自身の意見を述べているだけであって、 言語化を妨げようとしているわけではないと、感じます。俺は。 ニュアンスが難しいんだけど、 嫌いなものを嫌いって言うことと、その嫌いなものの存在を否定することは、 必ずつながっているわけではない、と思う。 おずおずと首を突っ込んでみる。。。コワイヨーーーw とまぁ、冗談はさておき、 山田せばすちゃん氏の批評の内容については、 あー、この人はそういうふうに読んだんだなぁ…程度の感想です。 少なくとも、彼の批評でこの作品が決定付けられるわけではなく、 作品の持つ、とある側面を、彼は浮き彫りにしたのだなぁと。 俺は俺で、件の作品に対しては少し異なった感触を持っている部分もあるし、 そのくらい目くじら立てずに許してあげなよ〜(笑)、みたいなところもある。 基本的に女の子には甘いのですよ(笑)。 山田せばすちゃん氏とは女の子の趣味がまるっきり違うとも言う(爆)。 奥主さんの発言は、たぶん、 山田せばすちゃん氏の発言の傾向、あるいは方法に対して、「萎えてしまう」と言っているのであって、 「これが正上位だぁ」とする、その内容に対して萎えているわけではないと、読んでいて思います。 「正上位だろうがなんだろうが、気持ちが良いのが好き」という意見の表明。 (さらに言えば、そんなことするなとは一言も言っていない。) ま、そんな感じなので、 田代さんは奥主さんの発言に対して >山田氏のチアーヌ氏に対する書きっぷりは、明らかに頭ごなしでそれこそ暴力的だった。しかし少なくとも真摯に何かを読みとり言語化していくという態度に、やんわりと素手で口を塞ぎにくるような、それこそエロス的接触によるからめとりは、ものを考えるということすら罪悪のように周囲を黙らせる。 と述べてますが、俺が言うなら、 山田氏のチアーヌ氏に対する書きっぷりは真摯に何かを読みとり言語化していくという行為の現れである。しかし明らかに頭ごなしでそれこそ暴力的な態度に、やんわりと素手で口を塞ぎにくるような、それこそエロス的接触によるからめとりは、ものを考えるということすら罪悪のように周囲を黙らせることはない。 となるのかなぁ。ちょっと違うけど(笑)。 んと、要は、真摯に何かを読みとり言語化していくという態度に対してではなく、 明らかに頭ごなしでそれこそ暴力的な態度に対する反応であって、 それは、口を塞ごうとする行為とは結びついていないと考えます。 言語化を妨げようとしているわけではないと思う。 山田せばすちゃん氏の(暴力的な)批評が、あくまでも作品に対する反応であって、 作者の詩作を妨げようとしているわけではないように。 ま、実際、こんなんで山田せばすちゃん氏の口が塞がれるわけはないしね(爆)。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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