批評しましょ[309]
2004 09/24 11:04
一番絞り

辺見庸 抗暴三部作(『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論』)
【読後架空批評座談会】2

(一)(308のつづき)...こんなことをいうと「お前は善良な人々が頭から川に飛び込むようなことを望んでいるのか!」と、尊敬する詩人からきついお叱りをうけましたがね、違うんです。
ぼくは今回のロシア小学校襲撃事件にはもうほんとうに腹が立ってるんです。いままで黙ってたけど、こんなことは金輪際やめさせなきゃならないと。そのためには、鍋の底を逆さにぶちまけてね、それこそほんとうのことを、洗いざらいぶちまけなくちゃと思うんです。それで世界が凍ろうが、世界の底が抜けようが知ったことじゃない。
9.11事件のときもそうですよ。キャンドル持って死者の追悼なんかしてる場合じゃないだろうってんです、ぼくは。
お前ら、こんなこと、ほんとうに二度と繰り返したくないのかよ、それならどうしてまずブッシュに怒りをぶっつけないのか? どうして自分たちの国が外国で行っている有様の全貌を知ろうとしないのか? どうして「なぜ」の一言がでてこないのか? キャンドルで追悼なんていう情緒的なパフォーマンスってのは、結局、殺戮の再生産のための儀式にしかなってないんだよって。ほんとうは、それって、また、人を殺す思想的態度だよ、って。
...それがわからないんだな。
どうしてこうも人間てのは、類としては爬虫類以下の脳みそになってしまったのか。

(辺) まあ、おさえて、おさえて。(笑)
    気持ちはわかるがね、ま、落ち着きなさい。...シュポッ!o*-(ー.ー) ¨_)y-~~~プカプカ〜...きみが冒頭に引用した吉本のことばだけど、あれは吉本が太宰治の『黄金風景』という小説について論じた一節なんだよね。季刊『リテレール』の1993年夏号所載ってことになっている。
「もともと人間の大部分の振る舞いは、善でもなければ悪でもないことから出来上がっている。だから大部分の人たちは、自分を善でもなければ悪でもない存在だとみなすことで、健常さを維持している」と。
で、吉本はそう語った後、太宰の倫理観を取り上げて、太宰は「人間は善でなければ悪であるしかほかならない存在」のように思い込んでいたと書き、吉本はそんな太宰が「倫理に敏感になっていた」といっている、と。
うーん。人間じゃなくて生物一般だったらね、そりゃたしかに悪も善もないよ。非善・非悪だよ。そりゃ当たり前だ。強い猫が弱いネズミを殺して食うのは自然の摂理さ。だけど人間だから善悪の意識が働くのであってね、いまわれわれの政府やわれわれの政府が支援している国のやっていることを吉本のいう非善・非悪としてわれわれが意識処理できるとすれば、それは犬や猫らの生物レベルの行いだわな。ヒト科ニンゲンのすることではない。
やっぱりそれぞれが、それぞれの善・悪をきちっと立てて、ものを言わなければもうどうしょうもない時代なんだよね。非善・非悪なんて都合のいい場所はもうないんだよって。
こういう言い方に反発して、非善・非悪でも、それでもわたしたちは十分に人間なんだというのならね、アフガンやチベットやチェチェンやイラクやでの、大国の民族浄化殲滅戦略という非人間的な殺戮行為にたいして猛烈な抗議行動の渦が世界規模で自然発生的に沸き起こらなきゃ。
それがないということは、キャンドルで犠牲者の追悼なんていう、どうしょうもなく情緒的なふわふらムードしか起こらないのなら、これはもう人類が生物のレベルに堕ち込んだということにほかならないわけだ。

(一) 非常に不気味です。世界のこの静けさは。ただ、デモといってもね、それは自発的に、世界規模で湧き上がらなければ意味がない。でないとぼくなんかは喜べない。
主催者のあるデモなんて結局はいつのまにか党派性に溶解されてしまう。だからぼくは一人でデモをしょうと思ってね。プラカードを作ってゼッケンをシャツに張って、ある集会(浄土真宗僧侶の仏教研究会)に出かけていきました。大国の小国に対する大量虐殺に反対することをそれぞれ書き、一人一人が自分のことばを表明しょうと書いてね。ところが集会場でも坊主からは何の反応もないんです。まるで醒めているというかね。がっくりしました。病人扱いです。カスミに顔をつっこんでいるみたいな気分。ま、いまどきの坊主なんてのはまったくあてにするもんじゃないですが。

(辺) 辺見庸も三部作で小さなデモに参加したことを書いていたけど、あれは辺見がいけないんだ。焦燥感、無力感、脱落感、退屈さにさいなまれてがっかりして帰途についたということだけど、デモをやるんだったら一人でやらなけりゃね。それこそピエロだけど、いまはそういうことしかできないし、それがぼくたちメディアをもたない者の唯一の、ほんとうの政治行動なんだ。
ところが辺見庸は一人で銀座でも日比谷でもいいけど手製のプラカードをもって練り歩くことが恥ずかしくてできなかった。そりゃあダメだよ。後ろめたさにさいなまれるさ。

(一) キャスターの筑紫哲也批判がありましたね。

(辺) ああ。辺見庸はよく言ってくれたよ。筑紫のようなソフトなスターリン、ああいう手合いが一番いけない。人間性としてはブッシュやプーチンよりも恐ろしいね。 

(一) どうしてあんなのが進歩的文化人なのか。『週刊金曜日』みたいなのを好んで読んでいるような奴らが、もっとも卑しい人種だとぼくも思いますよ。その理由は面倒くさいのでここでは今回は展開しませんが。

(辺) いや、そんな断定だけではあまりにも乱暴だから、ちょっと付け加えておくとね、『週刊金曜日』的文化人の言説というのは「彼らのファッシズム」を攻撃する視座ばかりで、自分たちもその「彼ら」の一部であり、ゆえに辺見庸のいうところの「私のファシズム」を見つめる目が決定的に欠けているんだよ。
自分たちだけは「彼ら」とは違う特別の存在だと最初から決め付けている。自分たちの内部にもファシズムがあるとは夢にも思わない。自己批判がないという構造。これは、規模こそ違うけども、中国共産党やロシア恐怖政府やアメリカ狂人政権とまったく同じ構造なんだ。つまり、かれらの言説は「思索」ではなくて「党派的な闘争行為」なんだ。そんなところから深い洞察が生まれるわけでもあるまい。それどころか、自己正義の闘争に勝つためにはどんな論理のねじ曲げでもやりかねないし、自己欺瞞など屁とも思わなくなる。
そういう連中がうようよしている。そういうことです。

(一) それにしても、ことばを扱う特権にある立場の人たちが何も言えなくなっていますね。

(辺) いまの日本やアメリカで物を書いてメシを食うということは、それだけ大変なことになっているということだよね。文学だけじゃなくてジャーナリストだってね。ちょっと反体制的な、アメリカ批判的なことを書いたらもう病人扱い、すぐにとばされてメシが食えなくなる。
かと思うと、うまくできたもので抑圧を抱えている庶民のガス抜き専門文化人がいて、筑紫のようなね、けっこう体制を支えている。いくらなんでもこんなところに落ち込むぐらなら正規の御家人のほうがいいということで、もはや権力に対抗するような物書きは存在しなくなるという寸法だ。
(つづく)
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