批評しましょ[308]
2004 09/23 13:07
一番絞り

辺見庸 抗暴三部作(『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論』)
【読後架空批評座談会】
 出席者
辺見酔宇 せんせい(辺)
一番搾りくん(一)

(一) せんせい、今日は忙しいところ、ようこそおいでくださいました。
(辺) うん、そりゃいいけどさ、どこなんだい? ここ?
(一) 現代詩フォーラムの『批評しましょ』掲示板です。
(辺) 現代詩か。(渋い顔をする)。ぼくは現代詩はからっきしだよ。
(一) 詩人というのはたしかに難解な文学理論をあやつるのは巧みですが党派性と政治性の違いもわからず、ごっちゃにしているような政治的見識の持ち主が多いもので。
ここはひとつ、せんせいの辛口発言で腐った脳みそを叩き直してやってください。
(辺) いやぁ、お宅、ハッキリいうね。
(一) ところで本論に入りますが、抗暴三部作。中心テーマというか、辺見庸がこれを書いたモチーフにもつながるかと思うのですけど、単なる政治的アジテーションでは当然なくて、けっきょく一つの文学的というか人間的というか、永遠のテーマに収斂してますよね。
(辺) うん、うん。
(一) 『抵抗論』にも『いま、抗暴のときに』にも引用されているのが詩人で評論家の吉本隆明の発言です。「もともと人間の大部分の振る舞いは、善でもなければ悪でもないことからできている」「だから大部分の人たちは、自分を善でもなければ悪でもない存在とみなすことで、健常さを維持している」。あいもかわらず吉本らしい、自分を棚にあげたというか、なんかいらいらするような発言なんですが、作者の辺見庸はここにこだわっている。つまり人間の究極的なテーマである善・悪の問題。
(辺) そこなんだよね。戦争とか暴力とかいった重い問題を取り上げる場合にね、吉本のそのような態度でいいのかって。善でも悪でもない人間意識の中間領域を設定して、それを健常とする精神はどこかおかしいと思うな。というか、もう通用する時代じゃないと思うんだよ。
(一) はい、はい。おっしゃることはとてもよくわかります。そこはとても大事なところですよね。もともとぼくがこの三部作を読む気になったのはロシアの北オセチア共和国
で起こった小学校襲撃事件なんです。居てもたってもいられない憤りと焦りが、過激にいまの状況を批判しているこの本を読ませました。
この本が執筆されたころにはまだこの事件は起こっていませんでしたが、どうしてわざわざロシアの外れにある小さな「平和」な町の、入学式という「和やかな」場所で「罪もない」子供たちが殺されなければならなかったか。
これは偶然ではありませんよね。
(辺) ああ、うん、うん。
(一) こうういうシチュエーションが現代史の必然によって、選ばれるべくして選ばれたんですね。
(辺)  うん、うん。あんな事件、考えたくもない。思考停止にしたいという人が多いんだけど、じつはそれがね、大きな意味を含んでいるんだよ。
(一) 吉本の言う「善・悪」の中間領域という意識、大国のほとんどの人たちはこの意識によって実際、健常に生活しているんでしょうけど、じつは「健常」でもなんでもなくて、とんでもない悪の本質と同値なんだぞということを知らしめる必要があった。
 ブッシュやプーチンやシャロンや江沢民や小泉、...いま気がつきましたが、どうして現在の大国の指導者ってこんなに貧相な顔してんですか(笑)
 こういう連中の為している悪、それこそ巨大な底知れぬ悪ですよね、それによって世界中に大量虐殺が蔓延しているわけですが、じつは、それに見合うだけの質的に凝縮した中間領域の「健常」なるもの、いや、「健常」といわれている「善でも悪でもない」ものが天びんの片方に分銅のようにぶらさがっているのですよ。
ただ、国家の巨大悪だけが暴走しているわけではない。二輪車なんです。国家悪と「健常さ」(平和、のどか、罪のない無垢さ)は。
だから、「何の罪もない」子供たちは、「襲われなければならなかった」。
(辺) たとえばチェチェンでもチベットでもイラクでもアフガンでもいいけど、大きな国の強大な軍事力によって、何万という人たちが生命やら財産やら身体の一部やらを失い、精神的にも八つ裂きにあっているちょうどそのときにね、その大きな国の中では、野球観戦するなごやかな親子がおり、デートを楽しむ恋人たちがおり、また、たとえばきみの読んだ辺見庸のような反体制的檄文を消費して反体制的憤懣をガス抜きして日常を支えている人たちも居る。
(一) あらら、これは一本とられました。たしかにそうですよね。辺見庸までが大きな国では「消費材」にすぎず、これを読んで反体制的な抗暴気分をガス抜きさせるのに役立っている。(笑)
(辺) 資本主義ってのはどこまでもしたたかだよ。
でもだな、米国でも日本でも良いが、この平和な、吉本のいう「健常」意識の支配する日常がそれを維持するために、それに見合うだけの殺戮(さつりく)を必要としていることも事実だと思うんだ。とんでもないカラクリであり、システムだよ。人類はとうとう自らの手を汚さないで他者を殺戮し収奪することによって、それでも「健常」でいられる装置を作り上げたといえる。
それによって逆に、いまや世界中に「罪のない子ども」も「平和な村」も「善男善女」も居なくなったといってよいだろう。そういうコトバはとほうもないウソだ。ということを指摘することは、それこそ「世界を凍らせる」所業かもしれないけどね。
(一)「健常さ」だなんてね、吉本って人は、なんていうのかな、どーしょうもなくダメですね。
わたしはあの人、まったく信用してないんです。阪神大震災のとき吉本は「ダイエー」を持ち上げましたよね。唯一、店を開いていて被災者を援けた、なんて。出鱈目もいいところです。わたしは震災の直後、大阪から神戸まで歩いていったんです。たしかに、もぬけの殻のなかでダイエーだけは店を開いてました。たいしたものだと思いました。しかし翌日、買い物に行ってみると、買えないのです。特定の金持ちしか。たった一晩で会員制になってしまい一般の人、会員になるための金のない人はシャットアウトでした。そういう現実をね、何も知らないで勝手なことを言っている、そういうところがとても嫌です。文学理論には素晴らしいものがあるんですけど、政治的状況的な発言は幼稚そのものです。
(辺) あはは。小沢一郎を持ち上げたりね、ま、自由だけど。(笑)
(一) だから詩人って奴らの政治意識はダメだっていったんです。
ま、それはともかく、9.11にしても「罪のない人々が」って言われましたよね。
でも、もはやアメリカに在住しているだけで、赤ん坊だろうが、外国人観光客だろうが、アメリカが大量虐殺している相手の国によって反抗を受け、殺されてもしようがないという責を負っていると考えるべきなんですよね。
「悪でも善でもない中間領域にいるんだ」なんていう詐欺はもう通用する時代ではないですよ。生まれたばかりの赤ん坊でもそこにいるだけで悪であり、罪になる時代に突入しているのだということですよね。
                              (つづく)
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