批評しましょ[310]
2004 09/24 14:57
一番絞り

辺見庸 抗暴三部作(『永遠の不服従のために』『いま、抗暴のときに』『抵抗論』)
【読後架空批評座談会】3

(一) えーと、最後になりましたが、この三部作で辺見庸が問題としていた現在の文学状況ですね。コトバの在り様といいますか。こんな状況でコトバは可能性なのかというか。そのへんですが。

(辺) 辺見庸がこの本で描いて見せた、いまの国家世界の有り様てのはとてもグロテスクなイメージだよね。
外部に向かって毒針のようなものを伸ばし、さかんに小生物を攻撃して栄養を吸いとっている強固な殻があって、その中に、痛覚を麻痺された卵の黄身のように柔らかい液状の「健全なる」モノが、へその緒のように養分を補給されながらかろうじて息をしている。これがわたしたちなんだけど、
そういうイメージなんだよ。もう、これだけでも鬱陶しいかぎりなんだけどね。
この卵の黄身のようにふわふわしたもの、辺見の言い方を借りるなら「透明なぼうふら」のどこまでも内に向かった意識はね、「半径十メートルほどの 生活圏における精神の自閉を綴った」コトバばかり吐き出している。
たしかに詩と現実世界とは何の関係もないけどさ、
どんなものにでも影はあるのだよ。、その影を見ようとしないで、つまり外部に向かって黒々と伸びた己の影を見ないで、「健全」で「和やか」で「無垢」なものをどこまでも自閉的にもとめているわけだよ。
影の無い透明なぼうふらの世界が、いま文学をやっているヒトの世界状況だよ。
どうしても自分たちを包んでいる邪悪な殻を正視できないでいる。あるいは正視できないように痛覚を麻痺させられている。
それはもう、文学の作り手だけじゃなくて、ちょっとビデオレンタル屋に言ってみれば、ここ三、四年の日本映画新作の気の抜けそうなヒューマン自閉映画のラッシュをみれば、もうほんとうに、甘い甘い砂糖漬けという感じで、こんなことでこいつら大丈夫かと思ってしまう。大丈夫じゃなくてほとんど脳みそのないロボットなんだけど、そういう状況なんだよ。

(一) ぼくがこんな架空座談会を開いたのは、有井さんの「詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。」という言葉の意味をいまだに探っているからなんです。

(辺) しつこいね、きみも。

(一) 受験システムでならされた精神というのは即効性のある答えを求めるのでしょうが、ぼくは、わからないならわからないでいつまでも池の周りを会得行くまで回っていたいのです。何年かかろうともね。そういう意味ではまだ例の「一房の乳房を」の批評途中でもあるんです。これもその一環です。十年後にまだここがあれば、急に続きをやりだすかもしれませんよ、ぼくは。

(辺) おれは詩は皆目なんだけど、なんかこの、内側にばかり向いたコトバ、こういうところから抜け出ていこうという気配はいまのところ、まるで感じられないね。逆に、どんどん自閉していっているような気がする。

(一)岩成達也という人が、こんなことを言っているそうです。
 -詩作品めいたものを書く人はいまでも数多いが、 「詩人」 に巡り会うのはいまやかなり希有のことになりつつある。詩作品を書く人と詩人との差──それは最近私が気づいた言い方で言うなら、前者が世界内でただ言葉を転がしているのに対して、後者は世界の外に身をさらして 「他者」 という烈風に八つ裂きにされている。-

(辺) なるほどね、きみにはとても励みになることばだよね。

(一) 今日はありがとうございました。
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