批評しましょ[305]
2004 09/21 09:17
一番絞り

山田せばすちゃん『ハンバーグをめぐる冒険』について
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 【ちょっぴし長い前座】
>詩の最終行に「と思う今日この頃であった」という一行を付加して、成り立つものは、詩ではありません。(有井いずみ)

このことばの意味をちょっと考えつづけていたのだけど、それはつまり
「事前」と「事後」の差ってことではなかろうか。
「事前」と「事後」って何か整形前と整形後、あるいはやせ薬の使用前と使用後っていう女性週刊誌巻末のあやしげな広告の文句みたいだけど
状況(権力や権威、体制といってもいいが)に飲み込まれる前と後の発話行為の違いってことではなかろうか。
つまり体制や権威や権力に立ち向かわないで(積極的にあるいは無意識あるいは消極的にであれ)飲み込まれてしまった後の
悲哀とか孤独とか不安を歌っている。
それは権威や権力のみならず〈恋愛〉でもいいし〈受験〉でも〈障害〉でも同じことだが。
そういう意味では現在、あまりにも「事後」の歌が多い。そういう歌には末尾に「と思う今日この頃であった」という一行が
不思議にぴったりとおさまるのだ。
たしか瀬尾育生が吉本隆明『母型論』の解説文で1960年末〜70年代にかけての時代状況をさし
「あたりを強迫的な命令形が埋め尽くしていた」と書いていたが、いまはそうじゃない。
あたりは「事後」の、「受動的な自発的命令形」で埋め尽くされているといってもよい。
「教育ひとつを考えても一切が反人間的な時間に組み込まれており、いわば他人を蹴落とす方法を研修する受験教育のシステムを軸にして
構成されている」(井上光晴)。そういう時代だ。
当然のことながら既成知識人によるウソと出鱈目な言説が吹き荒れている。
たとえば60年、70年アンポ闘争が「挫折」だったというウソ。この政治的に仕組まれた言説はまさにその後につづく若者たちの意気込みを
完璧に粉砕してしまったといえる。
実際、最近になって米国の元高官はテレビ・インタビューに答えて、あのアンポ闘争があったからベトナムへの協調介入を日本に要請できなかったと
吐露している。
ほんとうは、あの「アンポ闘争」は日本の軍国化を抑え、何万人もを人たちの命を救い、ベトナムの勝利につなげているのだ。
そういう闘争が無意味だという迷妄を垂れ流したのはだれか。責任の一端はことばを扱える立場の者にある。
その結果はどうであるか、いまの日本の際限なき出鱈目さを見れば一目瞭然だろう。

現代詩というものが、事が成り、終わった後の、状況への従属の悲哀や不安や違和を歌うのなら、それはやはり歌でしかない。
ぼくたちは事を始めなければならないし、事を成さねばならない。それが現代詩というコトバではないか。
うまくいえないけれど、有井さんの批判からそんなことを考えたな。

 【ちょっぴし短い本論】
さて、セバスちゃんさんの詩の批評の本論。
のっけからもう言っちゃおう、あーやだ。

何がやだといって、ファミリーレストランという現場自体がやだ。
それってまるで奴隷市場みたいなもんでさ、レストランで働かされているロボットのようなウエィトレスたちが
それぞれの用途にどれほどふさわしいかを語らされるように、ウエイトレスたちは自らのマニュアル言語について語っている/あるいは語らされているわけで、
それは資本主義効率化のための奴隷としてのファミレス・ウエィトレスたちには至極当たり前のことではあるのかもしれないけれど、
その「商品」としての美点であるそれぞれの属性、つまりはマニュアル言語だとかは、実は彼女たちが
生活のためにやむを得ずロボットとして自己を疎外しているのだという背後の苦痛にはごうも想像がいたらず、
ほんとうは己が身に備えていると信じている彼女たちの人間性とロボット言語を発話させられていることの相克に思いも寄せず、ときには性的な対象として
ときにはマニュアル言語を話すロボットとして、その虚構性をいちいちこの詩の語り手はさも得意げに突っ込んで見せているわけだ。
でも実はこのマニュアル言語を話す「ロボット」の持つ虚構性は、「ウエィトレスの姉ちゃん」たちが自らそう思い込んでいる、
あるいは自らを商品にしてしまうことでそう言わされている、というだけの問題ではなく、
それらの属性がウエィトレスにふさわしいとされている事自体にあるのだけれど、狂言回したる語り手の
体制にへこまされてしまった「事後」としてのオヤジが、ウエィトレスの複雑な分断された存在の点にまで思いが至ってないことは明白だったりするので
そこで俺はがっかりしちゃうんだよなあ。

【ちょっぴしのあとがき】
本論は山田せばすちゃんさんのチアーヌさんへの批評、その第一連目の文脈をそのまんま使わせてもらいました。
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