サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(244) 連座 萬草庵 参軒目(237) Youtube配信スレ(301) ながしそうめん10軒目(102) 全自動一行物語シアター(755) 谷川俊太郎さんの好きな詩について教えてください(6) 雑談スレッド7軒目(625) ことことひとこと。その2。(886) システム関連スレ3(768) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(94) 題名だけのスレ12(748) 恋文(699) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示] ボルカさんの「自由の幻想」についての感想。 僕に無いものを持っていらっしゃって、立体的な物語りの仕方や、詩学としてのモラル、など個人的に惹かれました。 素敵だ!と思うのは第一連とラストですが、そのあいだは少し雑然とした感じを受けます。 「北朝鮮」「永遠」とかのモチーフが生きてないなぁなんて。 自分自身を棚にあげて申し上げました。 by EnoGu 山田せばすちゃんさんカッコいいです。 前々から雑談スレッドを見ていて、怖いというイメージしか膨らまなかったのだけど、 「Please Mr.Postman」を読んでから、 怖いというイメージと同じくらいに優しいというイメージが膨らんでます。 私信で送るべきだったのかもしれませんが、 私信は怖くて送れなかったので。 by からふ 小夜さんの、最近のはいいなぁと思うのがあまりなかったんだけれど、 なんかもしかしたら、何かの“過程”あるいは“途上”なのかもしれないと、 新しいのを読んで思った。(「日暮れ前」) 特に最終連、その過程の先がちらっと見えたような気がしたのは、 やっぱり俺の思い込みなのかもしれない。(よくわからない日本語で申し訳ない) by いとう 合評のログ読んだけど、 ふぃおさんの「伝説」、あれって、 およめさんになる(なった)つもりが、 じつは奥さんになる(奥さんである)ことに気づいて 還らなかった、という詩だと思いました。 by いとう あー。詩、読み返したら、なんか違うっぽい(笑)。 そういう詩じゃないな。すみません。忘れてください(笑)。 by いとう 参照先不明 「作者の資質を考慮」というのは、ちょっと傲慢な響きがしますね。 でも意味を探る上で、作者について(資質とまで言わなくても)どんな時代に生きた人かなどは重要な手がかりになったりするのは間違いないわけで(時には、作者の私生活に関する情報も詩を読み解く上での手がかりになることもあり)、まったく詩人その人を無視して詩そのものだけを見るべきだとは考えませんけれども。 書き手としての自分を考えたときには「詩人は詩のみで勝負」と思っているから、そこは矛盾があるかもしれないっ by 片野晃司 最近チアーヌさんの詩が面白くて注目中。 あとさっき佐々宝砂さんの 「感想妄想批評妄想」(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=10188)にあった 六崎杏介さんの詩を読んだんだけど、この人のも面白いですね。 あとでちゃんと読んでみます。 ささほーさん、いい人紹介してくれてありがとー。 で、たもつさん。 (他のサイトの話になって申し訳ないのですが) 「そういうシステムでしかできないキャッチボールがあります。」 という言葉は、趣旨をよく汲み取っていただいていて、 とても有り難いです。感謝。 by いとう 参照先不明 こういうこと書いていいのかわからないのだけれど、「短歌」カテゴリのことはぬさまが黙ってるからいいにしようと思ってたんだけど、あるいは私信で書くべきかもとも思ったのだけれど、どうしても気になって眠れないので(それでなくとも不眠症なのだが)、書くことにした。 たとえば雷 小龍さんの「花のウタ・春」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=10854 別に中身が悪いとかいいとかそういうことではない。「花のウタ・春」は、どうしても私には俳句にしか見えない。誰がなんといおーとこれは短歌だと雷さんが言い張るならそれでもいいにはいいけど、私には俳句だと思える。どー見ても五七五ではないですか? ちいと悩んでしまっている私である。 それともうひとつ、七海月香さんの「四首」。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=9829 短歌といやあ短歌なのかもしれない。でも私にはよくわからない。特に最初の作品「昼酒飲んで サクラ見て 空がざわめく 風匂い 懐かしくなる ふたり酒」は、リズムが757575で、どうも短歌のような気がしない。うるさいこと言うつもりはないけど。私が同じ内容で短歌にするなら「花見酒 空はざわめき 風匂い 懐かしくなる ふたり酒」にする。私は基本的に五七のあいだに空白を入れないが、わかりやすくするためにいれてみた。 こういう感想はだめでしょうか、片野さん、だめなら削除願います。 by 佐々宝砂 >こういう感想はだめでしょうか、片野さん、だめなら削除願います。 いえいえ、大丈夫です。 雷 小龍さんのは単に間違えただけでしょうかね。七海さんのは。。。沼谷に感想を聞いてみよう^^; by 片野晃司 参照先不明 あ、ごめんなさい。雷 小龍です。 カテゴリ間違えております。 教えて下さってありがとう御座いました。 by 花田春菜 nm6さんの最近の作品、いいなぁと書きかけたら、いとうさんも書いていた。なんかスコーンと突き抜けた青空みたいに、すてきにスタイリッシュなのに男前の俗っぽさも効いている。ただこのポジションはバランスがむずかしいなぁと思ったりする。男前を意識しすぎると男前でなくなっちまうから。 by 川村 透 こちらでははじめまして。 147いとうさんありがとうございます。うれしいです。 nm6さんの詩、わたしも好きです。いいなと思いました。男性でいらっしゃる のでしょうか? たしかに男前な雰囲気ですね。 最近、m.qyiさんの詩も気に入っています。無題 2004/04/15が、なんでかすごく クルものがあって、何度も読んでいます。 どこかに感想を書きたいなと思って書きこみました。 by チアーヌ ぶんぶん、ぶん、はちがとぶう〜 ぼくわbunさんがすきなのだ。 というのわ、とても短い、ご当人に言わせれば詩じゃないかもしれない詩で、短いのでなにもいう事はないのに、いくつかよむと、すききらいわちゃああんとあるのわ、ふしぎだなあ。 by m.qyi 「続・風のうしろに風はない」(佐々宝砂)かんそう 禅坊主には、坊主の、三文文士には、三文文士の、そしてちんぴらにはちんぴらの、そういう意地があるんだろう。それは動かせない線っていうことでもあろうし、そういうやつだから、坊主や、文士や、ちんぴらになったのだろう。そうじゃなかったら違うものになっていたに違いない、だから、ぼくはそういうものは、ほうっておく、どうでもいいんだ。 ところが、どうでもよくないものってのがある、愛とか、さ。これが実はどういうものかゼンゼンわからない。なのに、大切だってなんでいえるかといえば、どうでもイイヨって言わせない頑固な愛だからだろう。 こういう頑固ものは後先見ない、だからってそれは信念じゃあない。信念は努力している、そんなもんはぼくの思う愛とは余程遠い。そういう愛は得てして嫌われ者だけれど、ときどきふと後ろに立っていることがある。そして、小さな包みをくれる。なぜだかはしらないが。渡すほうも、渡されるほうも。 まあ、それにしたってさ、愛を渡されれば悪い気はしない、さ。幸せになる。瓢箪から駒がでるっていうが、愛ってのはそういうものだろう(駒を分析しても瓢箪はでてこない)。 まあ、何にしても転んでひざっ小僧をすりむいている時に起こしてもらっても、膝の痛みはかわらないだろうが、それでも、読んでよかった、起こしてもらえてよかった、道にへばって痛みがきえるまで泣くよりかよかった。 誠に申し訳ないけれど、この題で扱われた詩や評論などぼくは読んでいない怠け者なのだ。 by m.qyi いえいえ、そういうつもりはないです。 宝砂さんの文章を読んだとき、読者の観点というような見方を強調されているような気がして、宝砂さんはそれをどうにか大切にしたいという印象を受けました。理屈はいろいろあるでしょうけれど、まあ、そういう印象を読者のぼくとしては受けた。なるほど、本人はそうなんだろうなあとおもいました。そこに感動したんだと思います。もしかしたらですが、それは具にもつかない宝砂さんの小理屈かもしれない。ぼくにはその辺はよく解りません。ぼくは、それほど多く宝砂さんの散文評論を読んだことはないのですが、以前にも拝見したことがあり、宝砂さんの文章のイメージというのは持っていて、その作品のイメージの比較をすると、この評論というか文章には感動しました。そういう感動を作者に伝えたかったんだと思います。 宝砂さんの文の冒頭に反論だと名言されているので、ちょっと熱い批判文でしょう。まあ、ぼくは、失礼に聞こえるかもしれないですが、理屈としてどっちが正しくてもいいです。あまり、その議論には興味がなかったので読んでいないと強調しすぎてるかもしれません。 ただ、そいう意味で本当に読んでいません。 そういう意味ではなければ、実は読んでいるのですが、それは作者に失礼のない程度、つまり参考文献として提出されている範囲で読もうとはしています。しかし、一つは削除されているようですし、主題になっている詩作品も読んでみましたが、ぼくにはあまりよくわかりませんでした。そういうもんかと思います。実はぼくも批評めいたもの書いてい見たんですが誰にも相手にしていただけなくて。STAYと言います、読んでみてください。こっちは命をかけて書いているつもりなんだけど、まあそういう結果です。 まあ、そういう良いかどうか抜きにして、これえいいじゃん、とか、ぼくの言葉でいうと、なんかかっくいいなってのはぼくには大切です。そのかっくいいなって感じを書こうと思うとぼくの感想もそうですけれどちょっと長くなります。 ぼくは、ぼくなんかにあなたの書いたものは良いよ、なんて言われたら書いた人は可愛そうじゃないか、俺もなんかは作者に大分失礼なやつだよなあって思います。そういうぼくでも多少ともでも良し悪しを考えることはあります。そういう観点からいうと別に良いかどうか。でもね、たとえ悪かったにしても、ぼくから見て、あるいは世界からみて、そうだとしたとしてもですよ、かっくよかった、おれいつも不義理してあんまりよんでないけど、あら、よまされちゃった、よ、って、言いたかったんだと思います。 by m.qyi あらら、、、 またずっこけてしまったなあ。 mizu Kって影女がいて、とってもお化けなんですよ。もしかしたら、お化けじゃないかもあしれない、おOカかもしれない。ひややっこかもしれない、もしかしたら、ひややっこの怨霊かもしれない、こわあああい、かもしれない。 by m.qyi いま、ohatuさんという人の詩を初めてよんだけれど、まったくさっぱりわからない。 なのに感動するんだよ、なあ。 皮肉とかじゃなく、真面目に。 ぼくの読んだohatuさんという人の詩はすーと薄荷の優しさがあるんだけれど。冷たい水のような優しさなんだけれど。当然、ぼくの勝手な感想だけれど。 by m.qyi 172のコメント有難う御座いました。 確かに誤解を招いて収拾がつかなくなるかも知れません。ご注意有難うございます。 ただ、他のような書き方があまりできません。 感想スレのコメントを控えようかと思います。お読みになった方へ:ぼくにはうまく言えないけれど印象的だったなあ、すてきだったなあと言いたかったんだと思います。できましたら、よく取ってくださるとありがたいです。 読者としてまたここに来させていただきます。 by m.qyi たもつさんへ 『たもつの文責のもとで「『山田せばすちゃんの投稿詩大根斬り!』を滅多切る!」というスレッドもOKなわけですよね?もちろん、僕はそんな子供の喧嘩みたいなことはしませんが』とのことですが、もちろん、それをさせない権利などというものは私にはありません。それはむしろ主宰であるところの片野氏の判断を仰ぐことであると存じます。 また『何故「批評・散文・エッセイ」のカテゴリーではなく新たにスレッドを立てたのか。その必要性について』に関しましては、繰り返しになるかもしれませんが「相互信頼の元で築かれた双方向性」を私が重視したかったからであるとともに、ランダムにカテゴリーの中で生起する一回性のものでなく、多少なりとも系統立てた形で批評を行いたかったからだ、と申し上げれば、ご理解いただけるでしょうか? 「公開されたものを削除するという行為と密室でチョイスするという行為」という対比に関しましては、その「密室」という用語にいささかの山田に対する不信感を感じるのですが(笑)たとえば、山田宛に私信、もしくはメールにてご意見を送りくださった方は、私がそのご意見の再掲を怠った場合には、当サイト内で「山田に私信を送ったが、あいつは無視しやがった」と書き込むことが当然、できるわけですので、その点からも定義の如く完全なる「密室」ということは出来ないのではないでしょうか? 「グロテスク」というご述懐に関しましては、あるいはたもつさん以外にもそのようなネガティブなご感想をお持ちの方も多数いらっしゃるであろうことは容易に想像が付きます。むしろ当サイト内に多少なりとも「殺伐」たる風を起こせれば、というのが私の本意とするところでありますので、そこいらはまあ(笑)何も申し上げません。 Fiorinaさんへ いや別に(苦笑)全部を全部酷評してくそみそにけなそうというわけではないのでそのあたりご理解いただければ幸いです。 なおご投稿の際、「*酷評希望*」などとお書きになるのはけっこうですが、もしかしてそういう作品に限って「激賞」したりなんかする事態も十分考えられますので(笑)その点ご了承ください。 bunさんへ 「純粋に投稿を楽しむ」とのお言葉ですが、お使いになってらっしゃる「純粋」という言葉の意味がよくわかりません。「純粋」を「ただ単に」と読み替えれば「ただ単に投稿するその自己表現の欲望を満たすことのみに執心して、読者のことなぞ一切考えないで楽しむ」という風に解釈したいと存じますがそれでよろしいですか? by 山田せばすちゃん 山田さんへ 僕が持っている疑念をシンプルに説明すると、あをの過程さんの 「それをやることにどういう利点があると思ったからやるのか」に尽きると思います。 小泉さんが、よく「痛み」と言いますよね。僕もそれには同感です。でも僕は小泉さん を信用することはできない。何故なら、その「痛み」を乗り越えた向こうにあるプラン を全然見せてくれないから。 それと同じで、山田さんが言うところの「殺伐たる風」が吹いた後に何が残るのか。 そこを示して欲しい。 それはこの場でなくてもいいです。「山田せばすちゃんの〜」で示してくれれば。 「その批評は必ず、詩、に対して有益であるはずだと確信いたしております」という言 葉の真偽を「山田せばすちゃんの〜」で検証していくしかないでしょう。 by たもつ 管理人さんへ。 これを実行される以上は、「このサイトに投稿された詩は山田さんによって批評・酷評・絶賛される可能性があります。そのことを御了承の上、投稿して下さい。尚、批評・酷評により受けた精神的苦痛等につきましては、当サイトでは一切その責を負いません。」といった旨の注意書きをサイトTOPに掲載されるのでしょうか。 山田さんへ。 貴方がbunさんの「純粋に投稿を楽しむ」を、184のように解釈されることには疑問が残ります。これ、貴方が現代詩フォーラムの管理人であれば構わないとは思いますが、そうではありませんよね。 現代詩フォーラムに投稿される全てのものを規定に沿って管理し、それらによって起こる場の責務を負う立場にあるのが原則として貴方ではない以上、投稿なされている方々の姿勢に関する意見を、貴方なりの(語弊を怖れずに言えば、貴方にとって都合の良い)解釈で呑み込んでしまうことには、同意できません。 そういった、つっぱね方を取られるのであれば、貴方自身が独立した投稿先を設けた上で、そこに投稿された詩への批評なり何なりを行うべきだと思います。 by ※ スレッドを管理者以外の人が立てられる仕組みを作った時点で、管理者には、そのスレッドを削除するか削除しないかの判断に迫られます。そのとき、もし削除するとしたら、充分に説得力のある理由を説明しなければならないのですが、今回のスレは、削除するとしたら説得力のある説明は僕にはできない。リアルタイム会議室で山田さんに相談された時、正直言って、困った、と思った。このスレがきっかけでフォーラムを辞める人も出てくるだろうと思った。別に、会員数が減ろうと増えようと収入にならないが、会員が減るのは寂しい。「会員が減りそうだからそんなスレは立てないでくれ」なんていうのは説得力のある説明ではない。だからそんな説得はしない。 個人的には、私信で受け付け、という方式よりは、もっとオープンにしたほうがいろんな禍根がのこらないんじゃないかなと思うし、たしかリアルタイム会議室でもそう言ったと思う。でも、どんなスレを立てるかは僕が決めることではないし、もし僕が全て決めるんだったら、会員がスレを立てられる仕組みの意味がない。 批評に関しては、作者と読者の距離のなさがネット上の詩の場の特徴であり、そのことが批評での表現を抑制していると思う。目の前にいる人には角の立つことは言わないのが人間関係をうまくやっていくコツだけど、こういう作者と読者が密着している場で、そのコツがわからない人が距離感もわからずにザックリと思いやりもなく、しかも説得力のない批評をやってしまうと、ただ傷つけるだけで何も生み出さないことにもなる。だから、ほとんどの人はネガティブな批評はしない。それは、いわゆる「ネット詩をネット詩たらしめている何か」とつながっていると思う。ネットだからネガティブな批評は駄目、なんていうのはネットならでは甘えと受け取られかねない。 読者は読めば何か言いたくなるものだ。批評のそもそもの衝動はそこからくるので、作者の側が自作の批評を禁止するなんていうのは、「読め、しかし感じるな」と言っていることと同じくらい乱暴な話だとおもう。だから、「批評禁止マーク」みたいなシステムを導入することは僕はしない。でも、批評に値するものではないと自覚していても書かずにはいられない衝動はあるものだし、そういう作品に対しては「未詩・独白」というカテゴリを用意している。 批評は批評というカテゴリでじっくり書いてもらいたいけれども、いろいろやってみることもいいだろうし、やる気のあるのを押さえつけたくもない。山田さんが立てるスレなので、山田さんがもしそのことでめちゃくちゃ嫌われてもそれは本人のせいだ。嫌気がさして辞めていく会員がいても僕には止めようがない。 by 片野晃司 参照先不明 196片野さんへ 当初のたもつさんや、あをの過程さんの発言を見ていると、山田さんに批評を受ける(山田さんが自由に発言する)という事に対する反感だけでなく、山田さんの批評に発言する場合にはその発言は制限されるという事に対する反感が常にあると思います。片野さんは前者を強調されますが、後者はなぜ無視されて山田さんの個人裁量にあると考えるんですか。本来同じ問題でしょう。自由に発言は許されるべきだという。 198Ohatuさんへ あまり、ここを知りません。ですから、理解が浅いのです。ぼくは誤解を正解として理解したほうです。 ただ、現実に、努力しないとつぶせないわけでしょう、ただ無視しただけじゃいけないわけでしょう。それって、リアリテイあるわけですよ、ね。 by m.qyi 考えてみると、山田さんのスレッド >山田が当現代詩フォーラムに投稿された詩、散文をどんどん勝手に批評するという と重複するスレッド、というのは山田さん以外には作れないので、たとえば、「ふつうの批評スレッド」とか^^; 批評スレッドが別にあっても重複にはならないと思います。ので、立てたい方はどうぞ^^ by 片野晃司 参照先不明 参照先不明 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12093 >自分が生きていること抜きに書いてしまえるものは、ときどきおもしろいこともあるからそういうのを悪いとはいわないんだけど、よく見ているとただの口先だけかポーズだったりすることもあるし、鼻持ちならないこともある。 対比するためとはいえ、(さらに特定していないとはいえ)、他者の作品を「鼻持ちならないこともある」と述べることに、引っ掛かりを覚える。 もっと別の書きようがあるのでは? もしこういった表現が「批評」として通用するのなら、俺はいらない。 少なくとも俺の理想とする場所ではない。 (単に自分がこの手の表現に神経質なだけという話もある) もちろん、この一部分だけを取り沙汰して内容全体を批判しているわけではありません。 単に表現が気になっただけです。 by いとう 参照先不明 無色昼寝さん、こんにちは。 文章の精度の問題として考えても良いのかな、と思います。 特定の作品を論ずる中で、他の作品を引き合いに出し、こっちの作品は こんなところが悪いのだけど、と言い始めてしまうと、話のベクトルが 変な方に向かってしまうと思います。 下手をすると、その特定の作品を論じているのが、その引き合いに出し た作品を貶したいがために、その特定の作品を論じている、ともとられ かねない。 この場合でいうと、「ぼく自身も含めて若い詩の書き手」の注意を喚起 するために、船田さんの作品を論じているともとられかねない。 僕はこの評の中に、そのような意図は感じられないのですが今後も評を 書きつづけるのなら、そういう恐れがあるということは頭の片隅にでも あった方が良いのかな、と思います。 もちろん、酷評を恐れていては詩を書けないように、批評に対する意見 も恐れていては批評は書けないので、萎縮しないで、これからも批評を 書いて欲しいのですが。 by たもつ いとうさんの指摘した部分も、また、翻って、いとうさんの >>208 の文章そのものも、お互いさまだと思います。つまり、どんな文章の部分でも、ある誰かにとって絶対に不快ではない、とは言い切れない、ということです。いとうさんの指摘した部分は、もしかしたら他の多くの人も不快に思う「かも」しれないし、もしかしたらいとうさんお一人しか不快に感じない「かも」しれない。それはわからない。いとうさんの文章そのものについても、不快に感じる人がいる「かも」しれないし、いない「かも」しれない。 僕には、いとうさんの今回の指摘はいまいちピンときません。 by 片野晃司 参照先不明 >209 無色昼寝さんこんにちは。初めまして。 >ただの毒 と思われたかったのであれば、もっとイカした毒になさればよかったのだと思います。前後に納得出来る文があったり、文と文の連結にすべりこませたり(わかりにくいですねこれ。私の場合はそれがしゃれであったりします)なさるとよかったと、私は思います。 ただの毒、とおっしゃるのであれば、毒など吐かないほうがいいのです。 毒をなめたらあきまへん。なめたら死ぬやもしれませぬ。 私もたもつさん同様、これからも批評を書いて欲しいです。では。 #単に自分のしゃれを言いたかっただけかも・・・。死んだのは私か・・・。 by 山内緋呂子 無色昼寝さんへ 要は「何を伝えたいか」だと思うんですね。僕は批評を書くときは、「何を伝えたいか」 ということを大切にしています。したがって伝えたいことを正確に伝えるために言葉を 選びます。 だから、もし、自分が、「ぼく自身も含めて若い詩の書き手」の注意を喚起するために、船田さんの作品を論じている」ことを意図していないのに、そのように伝わってしまっ たら、僕の場合は、ああ、しまったと思って、そのための釈明もするし、今後はそんな ことがないように、書き方を考えます。 あくまで、僕の場合は「そういう読み方もありだよな」とは決して思えません。 僕が人の作品を批評するときは、その作品を預かりものだと思ってます。時には厳しい ことも書きますが、何を根拠にそのようなことを書いたのかが伝わらなかった場合、人 様の預かりものに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。 誤解されているみたいなのですが、僕は人の意見を封殺しようなどとは思ってません。 だから、「そういう読み方もありだよな」と思うことも、もちろん尊重します。 だからこそ、210で「萎縮しないで」と書いたのですが、やっぱり書き方が悪かったよう で、うまく伝わらなかったようです。 自分自身、もう少しきちんと書け、と反省しています。 by たもつ 参照先不明 >>220 あらら。私の発言に対してでしたか。 もちろん、おっしゃるように、そんなつもりは全然ありません。 「裏付けなくあらかじめ批評を限定するような」意図はまったくありません。 そのように受け取られたのであれば、こちらの書き方がまずかったのだと思います。 自分のスタンスはこうで、そこから見ると気になった部分があったので、そのへんどう? といったニュアンス、あるいは意見の提示として捉えていただければ幸いです。 (そのニュアンス自体を封殺と言われれば返す言葉がないのですが。。) 決して他の人のスタンスを否定するものではありません。 また、それに対する返答も、最初のもの(>>209)で納得しています。 by いとう 発言が前後してしまいました。 221の発言をしたのとほぼ同時に220の発言があったもので… 「預かりもの」云々、については、やりとりの中で、発展した発言です。 自分なりの考え方も示しておくべきだと思ったので。 それと、221をもう一度繰り返しますが、無色昼寝さんが変な意図をもっ て書かれたのではないことは理解しているつもりです。 それは210でも書いています。 寧ろ、良い評論だったと思ってます。だからこそ、僕はポイントを入れま した(ちょっと、いやらしいものの言い方ですが、本心です)。 自分の発言がとっちらかっているのでまとめます。 ○文章の精度を考えても良いのではないか(210) ○誤解をうけるような書き方を僕は慎んでいる。きちんと伝えたいから。(219) これは210の話の過程の中で発展的に出てきた言葉ですが、210の発言をするため の自分自身の根拠で、本来なら、210の中できちんと述べておくべきことでした。 これは、ぼくのチョンボです。 これらの発言については、無色昼寝さんから ○自分の意図していなかったことが相手のなかで起こったとしても、それが何らかの根 拠をもった「いけないもの」でない限り(たとえば金銭的あるいは名誉的な問題を引き 起こすものなどでない限り)、ぼくはおよそ許容するつもりでいます(220) という見解をいただきました。 一人で熱くなって恥ずかしい感じもします。 それと、218の独白部分の誤読に対しては、謝ります。ごめんなさい。 by たもつ 参照先不明 参照先不明 佐々宝砂氏「外に出るためのリスカ」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=12154&from=menu_d.php?start=0 ネットにおける「権力闘争」とは具体的にどのような状況を言っているのでしょうか。 そして「ネット詩における膿」とは何なのでしょうか。 もし「権力闘争」というものがあるのなら、「批評」がその道具になり得ることもある のではないでしょうか。 by たもつ 参照先不明 参照先不明 参照先不明 シャッターコーンさんが素晴らしい。まだ2作だけだけど。 http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=904 なんでポイント入んないんだ。みんな阿呆か? 同じ人のばっか読んでたら腐るぞ〜。 …と誰かが言ってました。:razz: by クリ Fiorinaさんの http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13378 を受けて上文を批評した午睡さんの http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13450&from=menu_d.php?start=30 と、おそらく午睡さんの反応の仕方の焦点のずれを指摘したと思われるTAKEさんの http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=13471&from=menu_d.php を読みました。 率直な感想としては、たぶん午睡さんは自身の問題意識として大きいポエジーの話に かなり強引に引き付けて、Fiorinaさんの文章を解釈してしまっているな、 という感じを受けました。 純粋にポエジーについての批評としては、うんうん、とうなずけるけれども その題材にFiorinaさんの文章を使ったことは、 ちょっと素材として適切じゃないんじゃないかなと。 >しかしいまだ明らかでないのは、「詩的時間」と、「そうでない時間」の差異だ この午睡さんのFiorinaさんに対する一番重要な問題提示は、 ポエジーを念頭に置いているからこそ生まれた問いかけで Fiorinaさんが述べている文章の主眼は、平たくいえば 「時間をかけないと身につかない感覚がある」という、えらく当たり前のことだと思う。 (お手軽に自分の感情をマスターベーションする書き手読み手に対する警句ともとれるが) Fiorinaさんは詩を文学のジャンルという意味で用いていないようだけど まあ何でもいいや、うまい鮨に詩を感じても、小野のゴールシーンに詩を感じても。 たとえば、鮨づくりを、サッカーを長年厳しく継続している一流のひとたちは(だらだら時間だけ長くやっているだけのひとは別よ) Fiorinaさんがここで「詩的時間の蓄積」と呼ぶものと同じことをやっているだろうし 鮨が好きで食い続けているひと、サッカーが好きで見続けている人は やはり、より広く深い味わいを得ることができることも確かだと思う。 (これがジャンルに閉塞したオタク的なものに行きつくことがある、というのもまた難しいところだけれども) (ポエジーの話も、その辺のことをついたという意味では、ナットクなんだけど、Fiorinaさんの文章の主眼はそこではないと思うんだ) だからこそ、そういうひとたちが為す事に「詩」を感じることがあるとも思うし、 Fiorinaさんが文中で「詩」と呼ぶのは、Fiorinaさんの動機がそう言うことであってことで Fiorinaさんの文章の根本は、ポエジーうんぬんよりも、 「継続の力(鍛錬)がなす普遍的な感覚」というものが書かれている。 それをFiorinaさんがこだわっている詩の話で語っているということではないでしょうか。 そう読むことが一番自然なような気がするのです。 TAKEさんの言葉は、至極まっとうなことが書かれていて ぜんぜん話は変わるけれども、 共同幻想っていうのは、公私問題なんかを考えるときに、 それは確かに幻想なんだけど、意外と実はその幻想を生理的なものとして ひとは生きてるんじゃないかって最近は考えていて (国家は今や当たり前のように幻想だって言えるけど、その幻想がとても生理的なものなんだよね) 幻想自体よりも、その生理化されたものをどう超克していくのか、という問題意識は重要だと思う。 午睡さんが批判するポエジーのことなんて、まさにこの生理化された幻想のことで、 その生理化された幻想を受けてに、ニーチェやベルクソンじゃないけど ひとつのものの取り組みから体現的ひらかれていく普遍的な身体感覚 っていう、幻想とは違う普遍的可能性について考えたりします。 そして、この話はFiorinaさんの話にも、午睡さんが批判の先に言いたかっただろうことにも近いと思う。 2人の向けている視線は、ちょっと午睡さんの批判でややこしくなったけど 同じところを向いているとぼくは思っているぜ(握手) あ、なんかちょっと話がしりきれとんぼ。 by ワタナbシンゴ 参照先不明 午睡機械さん(なんかこう呼ぶのよそよそしい気がするけど、午睡ちゃんじゃ変だしね・笑) うーむ。再掲示がどうのこうのの事情はよくわからないけれども、 >一番の重心は、再掲時に新たに追加された、TAKEさんの一連の作品あるいは文章の賛美の部分でしょう。 というよりは、むしろそれらの作品を通してFiorinaさんが体験した 「詩的時間の蓄積」が述べられていることが、文章の主眼で ぼくが受け取った、「詩的時間の蓄積」の「詩的」という部分は 午睡さんが受け取ったようなポエジーの話とはずれがあると感じました。 そして、午睡さんの批評の感想としては、Fiorinaさんの批評について、ポエジーを切り口にして読むことは 読めないこともないけれど、ぼくにとっては、説得力がなかった。 もちろん、あったというひともいると思うし、ひとそれぞれといってしまえばそれまでだけど >あの文章をぼくが恣意的に読み替えて(=自分の問題にしたい文脈に引き付けて)批判しているというご指摘は、逆にあの文章は恣意的に読み替えられうるということを追認しているだけに過ぎないと思います。ぼくに読み替えられるなら他の誰かにもそう読める可能性があるということです。特に、詩に、あるいはわれわれに関係のないひとたちにとっては、なおさらでしょう。 という問いに対しては、 >しかしいまだ明らかでないのは、「詩的時間」と、「そうでない時間」の差異だ という午睡さんの問題提起(視点提示)の説得力を、 ぼくが午睡さんの批評文から感じられなかった、ということで述べています。 Fiorinaさんのいう詩的という言葉を、ぼくは午睡さんのように受け取れなかった。 午睡さんのように受け取れる可能性は少ないとはいえないが、 バランスとして、かなりの確率でそう読まれる程のことではない、と思うので 慎重に考えて、ポエジーというひとつの切り口だけで語ってしまうには、ちょっと強引かなという感想でした。 ぼくは、Fiorinaさんが感銘を受けた作品に同じような感銘を受けていないので Fiorinaさんの真の批評文が待たれるところですが(批評の力でその作品に対する感銘の手がかりを得たい) 少なくとも、Fiorinaさんは「詩的」なことに賭けてるんじゃないかな。 ぼくは、そこまで「詩的」なことに賭けていないから「詩的」とは呼ばないけど 「ブルース的時間の蓄積」となら、同じような意味で使うと思う。 でも、ぼくが「ブルース的時間の蓄積」というときに 擦り切れた「ブルース」や「ブルース的」なことをマニアに語っているのではなく むしろそういうものを、自分が動かされたブルースの体験を通して撃ちたいのであって 「すべてのものにブルースが宿る」と思っているその意味を正確に伝えたいと思う。 そしてそれは、Fiorinaさんが詩的なものでしか現せないのと同じように、 ぼくにとっては、ブルースをやることでしか現せない。 だから、マニアなポエジーを否定するところは、午睡さんの意見とは同じなのだけれども、 違うところは、Fiorinaさんの「詩的」(ぼくにとってはブルース的)の解釈を 午睡さん的な視点よりも、Fiorinaさん側の感覚で読んだんだ、ということです。 おそらく、その真偽は、Fiorinaさんの今後の批評で明らかにされるだろうし その姿でしか明らかにはならない。 ぼくは、肯定的なものにこそ、批評(批評に限ったことじゃないけど)の真髄があると思うんだ。 自分がout of 眼中(否定的)に思うものなど、ほうっておけばいいと思う。 音楽(恋愛)でいえばさ、たとえば、ゆず(ひろみ)はこういうところが面白くないとか、くるり(みか)はこういうところがつまんないとか そんな自分が惹かれていないものを語る暇があったら、 ゆず(ひろみ)やくるり(みか)を引き合いに出すことなく、ジュニアウェルズ(スーザン)の素晴らしさをぼくは語りたいし、 サニーボーイ(たまこ)のこういうところはジュニアウェルズ(スーザン)も至らないけど、 明快なセクシーさは圧倒的なんだ、とかさ。(スーザンって誰だよ・笑) 自分が、本当に動かされたものを批評する姿勢で、 自分が真に肯定的に動かされたものを語っていれば out of 眼中(否定的)なものなどわざわざ語らなくても、お釣りがくるくらい 読み手は、ほんものを見る選択眼を持っていくのだと思うよ。 out of 眼中(否定的)なものに時間を割いて、ひとの心が動くくらいならば 自分が信じる、肯定するものの強度で、ひとの心が動いてくれればとぼくは思う。 もしひとの心が動かなければ、それは自分のそのものに対する肯定的な強度が足りないからだと。 肯定することとは、厳しい過程を経てたどり着くものだと思うんだ。(たとえば恋愛なんかを考えるとわかりやすいよね) 否定がいけないとかいう次元の話ではなくてね。 やっぱり、愛だよ、愛。(対象に対する愛があってはじめて、否定も肯定もできる) 自分を動かすものも、結果的にひとが動かされるものも 愛がなくてはだめなのら(笑) おいらは、愛じゃなくてずっとエロばかりだからよくわかる(笑) どんなに言いたいことがあっても、そこまでまだ愛せない作品、愛さない人を語ることは とがってしまうし、まず愛のない状態の自分の眼を疑ってしまうから 慎重であるべきだと思うんだ。 とにかく、これらのやりとりを経て、Fiorinaさんが書かれる新たな文章が 一段と濃度の濃いものになって、ぼくらの心をとらえることになれば、 みんながうれしい、とぼくは思っています。 現代詩フォーラムに参加するひとりとして、そのような場所であって欲しい、そうありたいとも思っています。 by ワタナbシンゴ 参照先不明 >山田さんのスレができたときに巻き起こった議論には過剰な反応が含まれていなかったとは言い切れないと思う。 はあ? だれが議論が「過剰」反応かどうかを決めるんですか? ほどのよい議論てはなんなんですか? 「愛」のある議論ですか? たとえば批評にとって一番大事なのが愛だと思っているのなら、 決して「批評にとって一番大事なのは愛だ」とは言明しないで、愛をもって ただ黙々と人はそれを書くでしょう。 そうではなくて、そのことを指示表出するというのはいったいなんでしょう?(笑) わたしには理解できましぇ〜ん。 だいたいこれまでの経緯を読んだけど、リンゴがすきかバナナが好きかというハナシに 終始している。 Fiorinaさんは「わたしは詩的時間を蓄積している」という思い込みを表明なさっているだけだから、 「はあ。そうですか」としか本来反応できないことだ。 午睡機械さんも要は「ポエジー」という語彙が気に入らんといっているだけ。 これも「はあ。そうですか」が正しい反応。それ以外に何をいえるのか? TAKEさんにいたっては何をいっているのか、ぱっぱり理解に苦しむ。共同幻想って あの、ラベルでしょう? 単なる。そのラベルの意味とかを云々してもそこに盛られた 思想内容を云々したことにはならない。 ワタナbシンゴさんの「肯定的なものに批評の真髄がある」も何の意味内容も言いあてていない。 これもただただ「はあ、そうですか」というよりほか何をいえというのか? そもそも、批評ってものはバナナが好きかリンゴが好きかってものではなかろう。 そういうことに終始するこれまでの一連のお話のなかに、いきなり山田さんのコーナーに 噛み付いた人たちの件を持ち出しても的外れもいいところだと思う。 by ドジ >>255 OK。いつもどおり昇平ちゃん(←午睡機械さんのことです)でいこう(笑) ちょっとここから先は、感想スレの範疇を超えそうですが、話の流れ上ここで続けますね。 (もし都合が悪いようでしたら、オペレータさん、その旨を指摘ください) このやりとりは、昇平ちゃんとの信頼関係に基づき 彼が批評に対して真摯なことは、もちろん知っている上でのレスポンスです。 ぼくは、昇平ちゃんの肯定的な批評が好きだし、この対話を通して お互いにとってそれぞれ見落としていた視点を気づくことができるようだったたらうれしい。 >批評に対してナイーヴすぎるひとが多い。 確かにそれはぼくも感じます。でも、人と人との関係ってとてもナイーブだから ぼくは発言(批評)を書くときとても慎重になる。もし書くとすれば、 その人に対して責任を取れるか取れないか、ということに軸を置くと思う。 昇平ちゃんに対して、昇平ちゃんとの関係に責任をとれるかどうか。 だから、信頼関係を築けないと予想される場合は、(無視するのではなく)沈黙します。 その場合は、直接的なやり取りではなく、自分の取り組みの中で答えていくと思う。 >ただ、肯定的なものに批評の真髄があるというのはぼくも基本的に以前から思っていたことですが、果たしてそればかりでいいのでしょうか。 >ぼくが批評を擁護するのは、批評が暴力になりうるように、作品もまた暴力になりうるからです。 >批評は、批評を受けることを回避しようとするひとたちにとってはほとんどテロのようなものに見えるのかもしれない。だけどそんな見方をするなら作品だって十分すぎるくらいテロになりえます。そのひとつの「力」に対しての、何らかの批判的言及をあらかじめ受け付けない態度というのはどう考えたっておかしい。批評というのはそうしたひとつの「力」への唯一の、真っ向からの対抗力だとぼくは思うんです。 うーん、難しいところだね。今回のFiorinaさんの文章は昇平ちゃんにとってテロだった、か。 昇平ちゃんが、言葉の世界をとても大事にしていて、細部を積み重ね検証していく姿勢は ぼくにない部分なので(ぼくはとてもアバウトやからね・笑)尊敬してるとこのひとつです。 この場合、同じような状況でのぼくの立場をいえば、 詩や批評から(無自覚的なものであれ、自覚的なものであれ)暴力的な働きかけを受けても、 そこから肯定的なものを生み出せないのならば、その暴力に対して対抗しないと思う。 それは、暴力に対抗することよりも、肯定的なものを生み出せるかどうか、それがぼくにとっての基本軸だから。 だから、暴力に対抗する動機で動かされることはない。鈍感なのかなんなのか、あまり暴力にひるまないし(笑) ただ、昇平ちゃんの態度表明もよくわかる。それは昇平ちゃんの生き様からくることだから ぼくがどうこういうことでもないし、自分の価値を押しつけても意味がない。(もちろんきみを信頼しているから) ただ、そうであるならば、 >ぼくだって批評に賭けている。ぼくはFiorinaさんの文章がぼくにとって食い込んでくるものであったからこそここまで反応したし、今も以前も敬意を払っているし、ぞんざいに扱ったつもりはない。 >(もうひとつついでに。そういう力に対する批評においては、ぼくは自分の書く普段のものと区別する意味合いでタイトルのつけ方を変えています。「批判的断章」なんて、ほとんど機能的な側面ばかりを強調して批判以外の何ものにも受け取られないようにあえてしています。) 批判的断章などとしないで、もっと腰を据えて書いたほうが、より誠実だと思う。 そういう書き方をすることは、もう昇平ちゃんに必要ないのでは? 批評にかけているのならば、昇平ちゃんの読み手であるぼくをもっと唸らせてほしい。(これはぼくの思い入れだけど・苦笑) 今回はFiorinaさんの文章を受けて書かれているので、どうしても書かれ方が対抗的側面になってしまうと思うけど もっとトータルな視点でポエジーの正体を探っていけば、バランスは今よりよくなってくると思うし そのバランスのなかから、昇平ちゃんがどの立場を選択し、そこにどう生きているのか よりクリアーに伝わっていくと思うんだ。 だから、対抗的な動機でかかれる文章よりも、自分の内なる肯定的な声に従って書かれたほうが 慎重で説得力のある文章が生まれてくると思うんだ。 自分の人生かけて、腰据えたものを書いてみたらどうだろう?ぼくはそれを読んでみたい。 批評にかけているのならば、昇平ちゃんが今書くべきことは、もう断章なんかではない、と思うよ。 お互い、自分が人生かけてやるべきことにどっしりとした魂を注いでいこうぜ。 ぼくたちにはまだ、人生かけるほどのことでないものに、色気を出してる暇もないしね。 by ワタナbシンゴ 参照先不明 >『ヤサシイ救急車のオジサンと一緒に』川村 透 いかんよ、こういう詩は。 こういう詩がもてはやされ、得点されるようなことでは。 どうしょうもなく暗愚なことだよ。 これは、 ほんとうは.....人を殺す詩だよ。 おそらく、そのことに気がつくには、この豊穣で飽食の時代を 通過せねば、たれにもわからないことだろうが。 by 一番搾り >281の感想はとても悲しいし、何も知ろうとしていないんだな、と思えます。 何も知ろうとしないのはあなたですよ。 この詩の「背」景は知ってますが、それとは別でしょ。詩から感受するものというのは。 もしも、今という時期が、このような詩が大多数に受け入れられるような世の中だとすれば ぼくなんかが息を吸える場所はもう、どこにもなくなる。 ぼくにとって詩の絶滅ですよ、こんな詩がもてはやされる世の中というのは。 ブッシュの、アフガンやイラクでの大虐殺を背後で支援した米国民の情念や倫理というのは、まちがいなくこのような情念や倫理であったとぼくは思ってます。 もっとも進化した、あたらしいカタチのファシズムですよ、これは。 だれにも抗うことの出来ない価値(最愛の幼子の病気)でもって、それ以外のすべてをなぎ倒すことが可能になるわけですから。 (じじつ、この詩を読んだ多くのひとたちは市長の言い分や、モンダイの冷静な検討を抜きに、この最愛の幼子の病気という一事によって なんとなく市長が悪い、工場移転が悪い...じっさい悪いかどうか知らないが...という心情になってしまっているでしょう?) この詩に得点を付けた方々の心情というのはおそらく9.11にマンハッタンの川辺にキャンドルをもってあつまり、死者に慰霊を捧げた人たちの心情と同じものです。 最愛の隣人の死。 それはすなわちブッシュにより、すべての疑わしき者たちを殺戮し、絶滅することを容認する前提になる価値基準や倫理と似通ったものですよ。 ま、それがわかるには、あまりに豊かな社会に生きてますけどね、ぼくたちは。 たぶん理解されないだろうとは思いましたが、 ぼくが徹底的に戦わなければならないのはこういうファシズムだから。 by 一番搾り >319 生田さん ここに御礼書いていいのかしらとちょっと思い悩みつつ。 「腕」は今んとこ生田さんと他すこしの人からしか評価されず、まあ世の中なんかそんなもんさと開き直っていたところに感想をいただき、嬉しかったのでした。詩らしくないのは意図的です。叙事詩とゆーか行分け時代伝奇モノを目指していた時期に書きました。なので詩と呼ぶに躊躇うのは当然かと思います。一応、史実を調べたうえで、その史実を無視して(笑)、前後のストーリーを考え、その前後を切り捨て、ひとつのシーンだけを描くというめんどくさい書き方をしています。手間をかけても評価されることは少ない、という好例(笑 生田さんありがとうございました。励みになります。 by 佐々宝砂 >>323はじめまして。偶然なのですが、私も「無罪放免」という題の詩を出したことが、ありまして、、僕は、たくさんの詩の中から、ごくわずかしか読めませんが、自分が 書いたことのない、または、書けないものに、ポイントしたりします。 関係ない横レスだったら、すんません。 、 by 石川和広 >>324 私も読んでいる量は多くないほうですよ、半ばランダムにログをさらって目がとまった作品を読む、そして抱いた感想を形にすることで自分の糧にしようとしてるのです。でも長いのだと一作、短いので三作までしか書けない。書く体力が少ないんです。それも、ポイントをつけた作品全てに感想を書くことで体力をつけていきたいと思っています。 感想を書く理由としてはどうにも不純ですが、欲張っていこうと思うんです。 by 生田 すごいんだ。 ジンライムさん。 朗読お聞きして、好きでした。 文章で読んでも。 おすすめです。 http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=1203 by 山内緋呂子 参照先不明 いや、違ってたら本当に申し訳ないんだけど、 http://po-m.com/forum/thres.php?did=20661&did2=82 の締めって http://www.google.com/search?client=opera&rls=ja&q=%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%8C%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%94%E3%81%96%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F&sourceid=opera&ie=utf-8&oe=utf-8 じゃないの? by ピッピ 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 参照先不明 馬野幹氏 「表現者について」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=123682&filter=date&from=menu_d.php%3Fstart%3D0 言いたいことはほとんどコメント欄でいとう氏が言ってしまっているのですけれども。散文、批評にして投稿しようとも思いましたが、そこまでする労力が惜しまれますのでここに書かせていただきたいとおもいます。労力が惜しまれるというのは単純に書かれている内容があまりに短絡的であるからです。それに対して、散文、批評という形で自分の考えを書き起こすことに意義を感じません。こういうスレを使わせていただいて反論するのが適当のようにおもわれました。前置きはこれくらいにして。 まずこの文章は「表現者について」書かれたものではありません。 「ある一部のネット詩人」について書かれたものです。まぁ題名の揚げ足取りは蛇足でした。詩を書く人間云々のくだりはどれほどの知識、経験にもとずいて筆者が詩を書く人間はこうである、しかしほかの分野はそうでない。としているのかがわかりません。いい大人が中学生のポエムを馬鹿にするというくだりについてもなにを根拠にそう言っているのかがわかりません。 と、更に前置いて。 僕が一番いやだったのは、その目線です。すべてを見てきたような目線。根拠の提示がない以上、文中でなされている批判はすべて筆者の経験則によって語られているとしか判断せざるを得ません。その筆者の主観、経験、をもとにして詩人はどうだ、いい大人がどうだ。その目線。思い上がりもはなはだしいと感じ、嫌悪感を感じました。簡単にいうと、この類の人間はうざいし、氏の言葉を借りるならば、いい大人が詩を書く人が自分のことを重要人物として思い込みすぎていると馬鹿にするのはなぜか。と同じ文によって反論することも可能です。 それと、こういった、自分だけのものさしによって、自分の目線によって これこれこうであると定義づけしてしまう文に同調する方々。 要は安易に共感してポイントを入れてしまう人間すべてを憎みます。 わたしはこの作品によせられたポイント一覧を忘れることはないでしょう。 一生憎むべき人間として。 by ワタナベ ここではスレ違いになってしまうでしょうから。可能な限り簡潔に。 かのっぴ様。 そうですね。またひとつ勉強させていただきました。本当にありがとうございます。お寄せ頂いた文は、なにかの折には戒めとして、また初心に立ち返り勉強するきっかけとして、大切にしようと思います。 風鎮子さん はじめに感じた強烈な憎しみの感情は消えました。 それゆえに「ポイントつけただけ」という発言が残念でかなしいですが、 ここでポイントに対する考え方を述べるつもりもありません。 きっとこれからも相容れないのでしょうが、同じ詩を書くというステージに立つものとしてささやかなエールを送ります。 by ワタナベ >詩っていうのはこんなに豊かなんですよと それは、 人っていうのはこんなに豊かなんですよ 世界っていうのはこんなに豊かなんですよ っていうのと同じ意味で捉えていいですか? と、じゃあ文学極道っていうのは何をしてるんですか? by 馬野ミキ >>454 そんないきなりけんか腰で来られても困りますけど(笑)。 他のサイトの話をここでするのもどうかと思いますが、 サイトの話として限定して話をするならば、 文学極道には文学極道の理念があると思いますよ。 それはそれでひとつのあり方としてあるわけで、 それとは別に、例えば詩極とか脳ミソ気球団とかも俺は好きですし、 それぞれにそれぞれの理念があっていいと思いますが。 そういうのを、まとめてひっくるめて豊か、という意味です。 どこがどうだからとか、そういう批判をしても、仕方ないんじゃないでしょうか。 文学極道の本質としては、 別にポエムなんかを嫌ってるわけじゃなく、それが目的でもなく、 そうじゃないもののを極めていこうとしているだけで、 ただ、罵倒OKみたいなオプションが付いているので、 誤解されがちなんだろうなと個人的には思っています。 あと、他のスタッフの方々がどう考えているかは知りません。 ちなみに文学極道では俺は年間の選考委員をさせてもらってるだけで、 運営に携わっているわけではありません。 例えば詩誌の投稿欄の選者とか書評欄の人に、 この詩誌のコンセプトがおかしいと思うが何故なんだ?とか聞かれても、 その人は答えに困ると思うのですが、いかがでしょう。 by いとう いとうさんへ そうですよね ですから >現代詩がどうとかポエムがどうとか、それぞれに言い合うんじゃなく、 じゃなくて、 僕も「豊かさ」を求めての問題提起です。 ぼくも、現代詩やネット詩人を嫌っているわけではありませんよ。 ただ、少なくとも「表現」に携わっている現代詩人やネット詩人の既得権益を守ろうとは思いませんが。 もっとまとめてひっくるめて人類が「豊か」になればと思うからの問題提起です。 アルタ前で「詩っていうのはこんなに豊かなんですよ」って叫んでても誰も立ち止まらないでしょう。 だから内部に向かって 今ならこの「現代詩フォーラム」に向かって 俺たちって実際どうよ?って、語りかけているわけです。 けんか腰ではないですよ 真摯なんですよ(・∀・) by 馬野ミキ 参照先不明 参照先不明 参照先不明 いきなり失礼。 ひとことダイアリーにも書いたけれど。 好き嫌いを交えた批評は、批判や推薦でしかないのでは? こういう考えがあって、そしてそれとは全く違った自分の考えがある。それで良いではないですか。 これ以上騒ぎたてても、何も生まないと思います。 では。 by 山中 烏流 こんにちは、小池と申します。わけあってこちらにおじゃまします。突然ですが、ほかに書き出しようもなく、ええと、昨年大晦日に投稿された作品の、その半月ほど後の作者コメントの中に、反戦詩とはどのような場所からいかなるこえを発したときになにがしかになり得るものだろうか、という一文があって、ずっとひっかかっています。「直球でwebに書き込む」のならば、フィクションでもノンフィクションでもレトリックとしてでも(他に例えば共感を表明しやすくするための免罪符としてでも)わかるような気がするのですが、でも、なにがしかになりえるのかどうか。誰にとって、何について。ずっと考えていました。白井明大さんの「聖地より」。 最近フォーラムでお見かけしていないのですが、クリさん、という方にこんな投稿があって、詩にできることとひとがなすべきこととは違うのかもしれません。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=44461 #1.20の神奈川新聞で、国連WFP協会がガザ地区への緊急食料支援のための募金を受け付けていることを知りました。WFP、国連世界食料計画、だそうです。http://www.wfp.or.jp/index.php ユニセフもあります。http://www.unicef.or.jp/index.html #自分の投稿ならいざしらず、ひとの作品のコメント欄での募金紹介は差し出がましいにもほどがあると思い感想スレッドを使わせていただきました。この書き込み自体、ある意味ひとの作品をダシにして、であることは重々承知していますが、あまりに人通りのないpbよりも。 #昨日、図書館で「三つの願い/パレスチナとイスラエルの子どもたち」という本を見ました。新刊ではないのに、若い人向けおすすめ本のコーナーに置かれていました。 by 小池房枝 sage 寄付を募る詩。すっとその気になるような。うん。はい。わかります。ただ、それはそれとして、詩にはそんな詩もある、ありえる。ありだろうと、その上で、例えば志願兵を募る詩というのも十分あり得るのだろうと、実際あるしあったのだろうと、人を動かすためのレトリックとか、もう十分な研究の蓄積とかも。でもそういうのはそれこそ詩人がしてみせればいい。反戦詩も戦争美化詩も同じ人がさらさらと見事に書いてみせて読み手に思い知らせてくれればいい。ほらどっちだって言えるんだよって。ほらどちらにだってある程度ならひとを誘導することなんて簡単なんだよって。それでその上で君はどうする?って。 by 小池房枝 sage 逆効果なのはよいのです。説得力なんてないにこしたことはないとさえ思います。でも、効果、逆効果、というからには目的がある詩ということになります。わたしは普段、詩とは何かとかあまり悩まないたちなのですが、目的がある詩というのはなんなんでしょうか。やっぱり詩なのでしょうか。やっぱり詩なのでしょうし。目的がある詩もあればない詩もある。目的にもまた色々ある。たとえば仮に個人的な目的と社会的に影響力を持とうとする詩に分けて考えてみようかと思えば、そんなの、わけられっこないとも思うわけです。 #あとすみません。no.484に>>no.483とあるのは特に私宛てということではなく私も含めて483に関連してということだと思うのですが、何にせよ「頭ごなしにがなりたてるような詩は決して」というのもまた所謂"正義"、孤蓬さんが信じる"正義"なのではないだろうかと"私には"思えました。いみじくもご自身で「ひとつ私が確信するのは」と書いていらっしゃるように。 #もう一つ話の流れからあえて旗幟鮮明をはかれば、私は私がno.480でふれた白井さんの作品そのものは「空爆を止めろ」とがなり立てているような詩ではなかったと今でも読み返せばそう思います。たとえ「止めろ」が命令形であっても。数多コメントのやりとり、もちろん命令形だからどうだとかそういう話ではなかったことは見ていましたが。 by 小池房枝 sage 孤蓬さんお久しぶりです。四日ぶりです。485を書き込んでから毎日いくどとなく此処、確かめていました。「頭ごなしにがなりたてるような詩は決して」と、「がなり立てるような詩は、決して説得力を持ち得ない」「頭ごなしにがなり立てても、逆効果」については申し訳ありませんでした。私は相手の発言をコピーしながらのやりとりを自分の側ではしたくないのでよりいっそう気をつけることにします。 彼の地の人たちの気持ちをイメージしてみてくださいとのこと。書き込まれた文字の通りには「イスラエル人の気持ちをイメージしてください。」ですね。非当事者として尚、書き送ればno.488になるはずのこの文章を書いている今でも、私は白井さんの作品は「空爆を止めろ」とがなり立てているような詩ではないと思います。あの土地の人たちの立場になれるつもりになるつもりはありません。またあくまでもその上で、あの詩に共感する人はあの土地のどちらの側にいる人たちの中にもごく少数であれいるはずだと思います。このことでどうか私を説得しないで下さい。私はそう思うのです。説得してくださっても結構ですが、私がそう思っている、ということだけでも孤蓬さんに伝わるようにこの文章が書けていると良いのですが。 by 小池房枝 sage ふるるさんコメントどうもありがとう。いや、私自分で483と485では話そうとしてること変わってると思います。でもちょっと今、力使い果たしてしまったのでお話しするのまたにさせてください。ぱふ。 #またって、もしかするとまた何年後かとかになってしまうかもしれませんが、またお話する機会きっとあると思いますので。ぱふ。 by 小池房枝 未来への参照 未来への参照 未来への参照 未来への参照
ポイント、ひとことコメントに対する作者側のお礼、お返事にもお使いください。 (6/28追記)「未詩・独白」カテゴリの作品は批評しないようお願いします。 あー。詩、読み返したら、なんか違うっぽい(笑)。 そういう詩じゃないな。すみません。忘れてください(笑)。 合評のログ読んだけど、 ふぃおさんの「伝説」、あれって、 およめさんになる(なった)つもりが、 じつは奥さんになる(奥さんである)ことに気づいて 還らなかった、という詩だと思いました。 さらに思い出したのでちょっとつけくわえ。 「供儀」または「人身御供」関連の話でもひとつ思い出すのは、マンガなのですけど『検証 四谷怪談・皿屋敷』(永久保貴一/朝日ソノラマ)。かなりいい本です。人身御供関連なのは、「四谷怪談」ではなく「皿屋敷」のほう。非常に綿密な調査と、折口信夫がちょこっと漏らしたという「皿屋敷のお菊さんはククリヒメと関連がある」という言葉などをヒントに結論される「人身御供」としての「くくられた女」説は、ちょっと他では味わえない面白さを持ってると思います。永久保は『カルラ舞う!』など民俗学っぽいファンタジーマンガを代表作とするマンガ家で、そうした創作マンガ自体も、かなり詳しい調査に基づいて描かれています。だいたいその手のものを描く人は、水木しげる御大からしてすごく調べまくるひとばかりです。京極夏彦がいろいろ調べまくってるのはご承知でしょうが、今市子あたりもかなり調べまくってるタイプのマンガ家ではないかな?などと『百鬼夜行抄』を読むと思います。 詩人も、もしかして、そのくらい綿密に何かを調べて書いたほうがいいのかもしれません。といきなり反省するわたくしでした。 >94 そういや私の専門は本来、虫でも詩でもなく実は民俗学だった、ということを憶えてらっしゃるかたはまだいるでしょうか・・・ 国語学ではタブー視されてる語源研究ですが、民俗学じゃそれほどタブー視されてはおりません。国語学者と違って、民俗学者はけっこう乱暴な私説を発表してきました。きっと柳田国男が悪いのです(笑)。だって、柳田は、有名な『妖怪談義』に出てくる「モモンガ」語源説をはじめ、かなーり自由な語源説を発表しちゃってますからねー。 蛇=「カカ」説については、講談社学術文庫収録の『蛇 :日本の蛇信仰』(吉野裕子) という民俗学関連の本で読むことができます(もしかしてクリさんが読んだのと同じ本かもしれません、タイトルが違うだけで)。それによれば、蛇は「鏡」や「ほおずき」とも関連するそうなのです。鍛冶技術と民俗学については、おそらく内藤正敏が最初に提唱した「金属民俗学」というものがあって、内藤の著作ちくま文庫『遠野物語の原風景』で詳しく読めます。柳田国男が書かなかった(あるいは無視した)セクシュアルな民俗についても書かれていて、面白い本です。「斐伊川=ヤマタノオロチ」説についても、いとうさんがお書きになったこととほぼ同一な文章をどこかで読みました。『遠野物語の原風景』にあったと思うのですけど、もしかして荒俣宏御大が書いてたことかもしれません。だって、風水からみたら河はみんな龍ですから(笑 あとわりと最近の本では、六車由実の『神、人を食う』(新曜社)がすごくスリリングでした。これはいわゆる「人身御供」のことを書いた本です。ヤマタノオロチの話というと、怪物神であるヤマタノオロチと、英雄神スサノオと、草薙の剣のことばかりに目がゆくけれど、人身御供にされたクシナダ姫という存在があることもお忘れなく。「人身御供」というのはそれこそ民俗学ではある意味タブー視されてきたテーマでして、あえてそれを研究してる六車さんはすごいなと思います。六車由美さんはHPを持っていて、いくらかの論文はそこで読むことができます。興味があったら読んでみて。面白いです。ちなみに六車女史は、今は東北にお住まいですが、出身はわたくしと同じ静岡県でありまする。 六車由美さんのページはこちら http://muguyumi.hp.infoseek.co.jp/ そうそう、関係ないけど私のHN「佐々」はスサ系の名前なんですよん。スサノオというのは、まあいちばんふつーに考えれば「スサのオトコ」という意味ですから、さしずめ私は「スサノメ」? なんかウオノメみたい・・・ クリさんのキングギドラ仮説に寄せて。 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=6421 「朝鮮から渡ってきた技術者が斐伊川(ひいかわ)の灌漑事業を行った」という説も聞いたことがあります。「スサ」は朝鮮系の名だとか。スサノオノミコトの「オ」を「尾」とすれば、渡来人説もありそうかなと。このへん、「スサ」をどう捉えるかで変わると思います。 で、斐伊川は天井川&暴れ川で洪水被害のメッカです。以前は日本海に流れていたけれど、室町だったかな? そのあたりの洪水で今は宍道湖に流れてます。そのくらい暴れる。 >そしてもう一つの系図がある。「チ」だ。「チ」は、古語で原始的霊格を示した。「血=チ」「命=イノチ」 >そして「ヲ」を峰、峯、尾根(ヲネ)、「ロ」を助詞として、全体的に「峯の霊」とする。 >「ヤマタ」は、「八股」で、「ヤ=8」は、一桁で「たくさん」を表す唯一の数だから、「たくさん分岐した」という意味になる、と思う。 これを、たくさんに分岐する峰の霊と捉えると、「斐伊川=ヤマタノオロチ」とも考えられなくもない。雨のたびに暴れて分岐する(あるいは、川の向きなどが目まぐるしく変化していく)山からのチ。チは血であり霊格であり、血からは流れるものを連想する(これは私説)。そして斐伊川は霊格的に位置付けることができるのですが、これは当時、斐伊川で砂金が取れて、かつ鍛冶で栄えていたんですね(ちなみに砂金は今でも取れます)。手のつけられない川なのだけれど、生活する、生きていくうえでは非常に大切な川だったのです。斐伊川は、人の力では制御できない、けれども必要とされる、自然の力でした。 そう考えると、ヤマタノオロチを成敗したあと、体内からクサナギノツルギが出てきたってのも、灌漑で鍛冶の設備&能力が向上した、あるいは渡来人の指導で鍛冶技術が向上して名剣が生まれたと考えれば、けっこう信憑性があるかな、と。 ま、でも、国語学的には日本語の語源は手付かず、というか文献などがほとんど存在しないため手が付けられない状態で、語源研究は、学会ではほぼタブー視されてます(笑)。 ありがとうございます、はじめまして、麻草です。 このサイトは、最近利用しはじめました、よろしく。 感想を頂いて、とてもうれしいですよ、ありがとう。 頭はあまりよくないです、会ったらがっかりしますよ、たぶん。 麻草耶さん、ポイントありがとうございます。初めてださせていただいたものなのでとても嬉しいです。 麻草耶さんの作品も読ませていただきました。まだざっとですが、私にとってとても感じのいいものです。 飄々としていて、毒もある。でもネガティヴさがなくてさらっとしている。とても頭のいい方なんだな、という印象を受けました。 私は麻草耶さんの詩が好きなようです。もっとじっくり、今から読んでみます。散文の方も。 こんなことしか言えなくてすみません。とにかく、ありがとうございました。 言葉が足りなかったかもしれないので補足。 下記の文章は、小夜さんの詩がどうこうというのではなく、むしろ、 俺の詩の読み方についての自己所感です。 小夜さんの、最近のはいいなぁと思うのがあまりなかったんだけれど、 なんかもしかしたら、何かの“過程”あるいは“途上”なのかもしれないと、 新しいのを読んで思った。(「日暮れ前」) 特に最終連、その過程の先がちらっと見えたような気がしたのは、 やっぱり俺の思い込みなのかもしれない。(よくわからない日本語で申し訳ない) [88]をすこし修正。お名前を出した方々のことを、これでは、「頭でっかち」みたいに言ってしまってるようではないでしょうか?訂正します。「詩に対して熱情のこもった方」「骨のある方」「ご自分の技法がしっかりある方」みたいなことを言いたかったのであります。失礼しました。 そして、読んでいただくのはありがたいのですが、「雑談スレ」で話題にもなっているような、どんな妄想のどんな私信でも喜ぶわけではないのです。 重ね重ね失礼いたしました。 >[87]へレスです。 石原さん、「作者コメント」欄での私の質問にわざわざお答えいただきありがとうございます。 >説得力が違う 全く意外でした。自分の言葉は、たいてい独りよがりで、こちらではそれにすこうし気をつけていましたが、あんまり、「わかっていた抱きたい」と思って何かをかいていないのです。読んでいただいた時点で、その方のものになる、と思っている故。 >自分の持っている言葉や使いたい言葉をきっぱりわかっていらっしゃるのだろう。 私は「わかっている」のだろうか?と、シバシ考えました。こちらでの言葉は、寝る前とかに、ポコポコ出てきて、「はいはいわかりました」とか言ってノートに連ね、後、客観的に見直します。客観的と言っても「人にわかりやすく」と考えてかくと、私の場合は、まことにおもしろくなくなる気がします。それは、大学の卒論などで書けばいいや、と思っています。でも、「この方がサラッと読める」「こっちがおもしろい」などと、考え、直します。よって、客観的じゃないかも知れん。が、「独りよがり」は、ソレですこうし消しているつもりです。 >持っている言葉しか使わない そうですね。やっぱり客観的ではないのでしょう。 >想像力ではなく、フットワーク バレていますね。そうです。ありがたいことに、「詩の技法」とか「何を勉強すれば意々ですか?」」という、質問をよくいた抱くのですが、それはきっと、狸亭さん、ボルカさん、いとうさん、岡村明子さん、宝砂(しかしいいお名前だ)さん、たもつさん、みつべえさん、奥主さん、など、(拝読不足故、もっとたくさんいらっしゃるのでしょうが、)たくさんたくさん詩の知識が豊富な方が丁寧にお答えくださるだろう、と勝手に推測します。私は、「詩について勉強、と身を硬くするより、ご自分の好きなことをするといいですよ。で、それで出てきた言葉はいかがですか?」とか、お答えします。ああ誠に勝手。皆様ごめむなさい。 >月面にまで基地がある日にゃあ、ほとんど一生遊んで暮らせるというものだ。 という、あなたのお言葉がおもしろいです。自分は、「基地がある」とは、全く考えておらず、このように、読んでくださった方が、妄想してくださってお言葉をくださるのが、とてもおもしろいです。どうもありがとうございました。 「 山内緋呂子さんの「独房独居許可局」の感想です。 ゆるぎない文体で説得力が違う。 そっけないというか、踏みとどまっている感じがする。 自分の持っている言葉や使いたい言葉をきっぱりわかっていらっしゃるのだろう。 持っている言葉しか使わないのに面白い。 これは想像力ではなく、フットワークの賜物に違いない。 なにしろ月面にまで基地がある日にゃあ、ほとんど一生遊んで暮らせるというものだ。 「たとえそれが何の変哲もない日常であっても(つまり、どんなにヒーロー的でなくても)、そうした日常を送ることそのものをためらわない。それってその生活への愛」「ヒーローがヒーローたる原点である、ささやかなものへの愛」 そういう意図ならば、そうまとめて欲しかったです(w。ただ、ささやか過ぎて・・・あと、切り捨てられたものが・・・ まあ、いいだろう!今回は俺の負けだー!だが、覚えていろ!次こそは悪の帝国を! Thank you PS1:補語(目的語?)は「」より前の文章と連動しています(糞と同様)。また、PS2でも述べますが、補語が特定された線は補語が特定された点の集合と考えると、今まで生きてきた全ての行為が補語の対象になることになります。しかも何本も。 PS2:おっしゃられるとおり、「ためらわない」「くやまない」とはある状況において選択的に行われる判断です。なので、何も判断しないでよい時は選択は無いと思います。それは選択しているのではなく、選択の余地が無いのです。したがって、その領域は「点」で表現できません(無論線でも。ある行為をしてそれをずっと悔やまないというのは変です。何年もの全ての行動を脳が完全に記憶していることになります。いったん判断したら終了と考えたほうが簡単じゃないでしょうか。だから、解答としては、「全ての物事に対するスタンス」として望んでいました。一瞬一瞬の行為に対する態度ではなく、状態的な信念として。だから補語にこだわること自体、私は疑問です。)。また、これと感情の話も連動します。「感情」という言葉ではちょっと微妙な気もしますが。男脳・女脳というのが一時期はやりましたが、まさにこの問題でしょう。同時にいくつもの問題を考えられるかどうか。結局複数の思考は可能なわけですが、それとは微妙に違います。無意識的な領野で後悔していないという選択を個人は延々と続けているとは私は思いません。 PS3:ちなみに感想を述べたのは、現在、私の問題関心が「愛」だからです。ギャバンの「愛」がいまひとつ「愛」という感じじゃないので、残念です。でもそれが「ギャバンの愛」なんだから仕方ないですね(ギャバンの「愛」は、「愛」という語で、個人の精神的安定のために、個人の「割り切り」及び「切捨て」を隠蔽しているというふうに、私には見えることになります。私の愛の定義からは。)。結局、対象が無いあるいは抽象的な「愛」になるのでしょうね。 PS4:いってらっしゃーい。 PS5:あら?今、補語を調べたら、どうやら私が理解していなかったということがわかった。つまり、この場合は「〜に」ってことで、対象となる人・物を指すのかな?とかんがえたら・・・別に変わんないか。問題は生じないな。(「私は生きることをためらわない。」だと、「生きることを」が客語(目的語)になって補語いらないんじゃないのかな?絶対必要な文の成分なのかしらん?よくわからん。) じゃあなんで、れつらりゅいち様は、「愛する」からむりやり「施す」にしたんだろう?(「人に愛を施す」だと、「人に」が補語だよね。「愛を」は客語?で、「人に」って必ず必要なのかな?「愛を施す。」・・・駄目だ。わかんねぇや。)「愛する」との関係では、目的語を考えればいいだけじゃないのか?これって中学の国語?やばいな。次回までには勉強してきます。スゴスゴ ええと、まず、なにをくやまないのか、なにをためらわないのか、それをはっきりしないことには話が進みません(笑)詩じゃないんだから補語をつけてください(笑) ぶつくさ言ってる人ですが、前者はくやまないということをそれだけ常に意識しているということは、逆説的にくやむようなことを常に行っているということですねえ。くやまないという気持ちは別に、ぶつくさ言うべきことでもないのです。ポロリさんは自分で何の間違いもないと確信しているときも常に「自分は間違ってないぞ」とぶつくさ言っておられますか(笑)? で、後者。うんこをためらわないひと。これは確かにためらうべきことではございません。ぶつくさ言うかどうかは別として、この心理自体は愛に適っていると言えます。たとえそれが何の変哲もない日常であっても(つまり、どんなにヒーロー的でなくても)、そうした日常を送ることそのものをためらわない。それってその生活への愛がないとできないことなんではないでしょうか。ね。くやまないことも同様です。ごく当たり前のことをごく当たり前にこなす、そのことを愛しているということが、くやむ必要自体を抹消するのではないかしら。 そこがヒーローがヒーローたる原点である、ささやかなものへの愛だとしたら、万々歳じゃないですか。 若干論点のすり替えが行われていますが、時間が無いので勘弁してください。 ご不満でしたら時間があるときに再度レスさせていただきますのでー。 それから、これは余談かもしれませんが。人間は常に一種類の感情で動いているとお考えですか? ここでYESといわれるとすでに交渉決裂なのですが(笑)、僕はそうは考えません。私達は常に様々な種類の感情を抱えており、その比率は時によって様々に変わるものだと思っています。表象化しているのはそのうちのいくつかだけで、内側にはいくつもの感情の混合物があります。だから、それを言い表すために言葉を尽くすのだし、たとえば詩をかくのだと思っているのですけれど。 点と線もおなじです。大きな点もあれば、ちいさな点もある(ちょっと語弊ありやけど)。細い線もあれば、太い線もある。そういうもんです。きっと。 ではバイト行ってきます。飽きずにレス下さってほんとに感謝。 線は点の集合、ちょっとセンスの無い逃げ方ですね。 それだと、歩いてる時も、映画に涙してる時も、飯食ってる時も、寝てる時も、「俺はく悔やんでない、俺は悔やんでない、俺は悔やんでない・・・」とぶつくさ言ってる、やばい人になりませんか(笑)? 起きて、歯を磨き、糞をしてても「俺はためらわない、俺はためらわない、俺はためらわない・・・」 これって、ヒーロー? そして、愛? などという、いちゃもん。 すいません。 Thank you 追記:この場合、れつらりゅいち様か、他の方が、「ぶつくさ言ってる人」や「糞してる時に俺はためらわないと言っている人」に愛があり、かつ、ヒーローと少しでも思わせると勝ち(私の負け)です。。 あるいは、ぶつくさ言うのではない、別の「点」の表し方を示すと、私の批判を無効化できます。 次回も楽しみにしてます。戦隊物かー。ウキウキ ほんとに感想貰ってるしw ポロリさん、ありがとうございます。 で、反論というか言い訳というか。 時間の捉え方でありますが、まず、線というものが点の集合であるということを表明せねばならないでしょう。前半部で時間を線で捉え、後半部ではそれを踏まえて点で捉えているといるということは、前半部では人生そのものにおけるヒーローとしての指針を書いていたのに対し、後半部「愛」に関してはより即時的な行動指針の話に転換しているということなのです。 「愛」というものに関して僕の考えをここで言うにはあまりに僕のなかでの「愛」の定義が不明瞭なのですが、通常はどう思われているかどうかに関しては、文中でも言及しているようにこの際どうでもいいのです。むしろ、刹那的な行動の連続そのものが「ためらわないこと」「くやまないこと」のなによりの根拠なのではないかと考えており、その点が連続して生に寄り添って線となったときに、ポロリさんがおっしゃる持続的な概念としての「愛」のかたちを為すのではないでしょうか。 まあ、実際後半筆が滑りまくっていたのも事実ですし(というか大してなんにも考えずにかきはじめていたんですもの)、それゆえ構成・論理等に穴が多いのも事実です。時間と精神に余裕があれば修正を加えたいところではあります。ご指摘ありがとうございました。 もちろん第2回もありますよ。候補曲もすでに数曲挙がっております。次は戦隊もの。 ギャバンについてのチャバンあるいはイチャモン(そういえばポケモンデジモンドラえもんが・・・)〜はじめまして。れつらりゅいち様〜 朝は急いでてすっかり見過ごしちゃったけど、改めて読むと、論理的におかしい。というか、なんだか残念なところが多いような気がします。というのは、この論考には1つ重大な欠点があるように思うのです。 それは時系列に関する問題です。前半部は非常に良いと思います。もちろん事象の一側面しか語られていないので、私としては不満はありますが、なにせ勢いが素晴らしい。筆が滑る滑るといった感じです。書いていらっしゃって爽快だったんじゃあなかろうかなんて思ってしまいます。 これに対して、後半部はスピードが落ちる落ちる、そして、曲がる曲がる、という感じで、なんだか四苦八苦なされていらっしゃるようにさえ思えてきます(F様も冗長とおっしゃっていらっしゃいましたね。)。 時系列に関する重大な欠点と申しましたが、前半部はいわば時間を線で捉えていらっしゃるのに対して、後半部は点で捉えていらっしゃいます。しかし、後半部は「愛」の話であって、それこそ持続的な概念(あるいはもっと常態的なもの)と通常思われているものですから、線あるいは線以上で捉えなければならないと思うのです。(愛を刹那的に考えるのであれば、今の路線でも問題は無いかもしれませんが) 実際、「英断即決」以上の話が出てきません。これではヒーローの条件ではあるかもしれませんが、「愛」との結びつきが無いように思います。関連性の点では言語の形式的結びつきしか提示されていないのではないでしょうか。なので、この点をもうちょっとまとめていただきたいなと思うしだいです。 (次回あるいは今回の修正バージョンも熱い雄たけびを楽しみにしています。セクシーーー!!!ホントは知らないセクシーコマンド。ボソ) Thank you 白糸さんありがとです。 まずデータベース。短歌だとひとつひとつは短いのでエクセルで済むのですが、詩だとひとつひとつが長い場合も多いので、なかなか用途に適したソフトがない。自分のHP上でCGIが動くようにサーバ化し、自分好みにカスタマイズしたCGIを必死になって動かし、フリーソフトやいろんなヒトの助けを助けを得て自分の詩をようやくお片づけしたので、これから他の人の詩作群をなんとか個人的にデータベース化しようとしているところてす。まずは個人的にシステム構築、って感じでしょうか。少なくとも、私のPCの中身、私の部屋よりはお片づけが進んでいます。年の瀬だってのに、私の部屋はあいかわらずぐちゃぐちゃのささほーさなのでした。 で、「テクスチュアル・ハラスメント」。私が書いたものは本当は書評ではなく「この本読め」という紹介……というか正直にいえば、ありゃアジビラ(笑)にすぎませんので、実際に本をほう読んで読んでくださると嬉しいです。この本後半部には、訳者小谷真理の筆になる論考が掲載されており、明治の俳人、沢田はぎ女がいかに消されていったかのドキュメントを読むことができます。このような女性作家に対する抑圧、あえて現代の話ではないような書き方をしましたが、実際には現代日本でも引き続いている話です。「テクスチュアル・ハラスメント」を読んでいただくとおわかりになると思いますが、訳者小谷真理(女性で、SF&ファンタジー評論家)は、その夫、巽孝之(男性。アメリカ文学者、SF評論家)のペンネームであり、本人は男性である、とある本の中で断定され、裁判を起こし、四年後に勝訴しました。その経緯は『叩かれる女たち』(長谷川清美)という本の中で詳しく説明されています。つまりまさしく「いま」の話なんですよ。昔の話ではない。 とゆーか、いまさらこんな『テクスチュアル・ハラスメント』みたいな本を紹介して反響があるということ自体、詩の世界がほかの文学に比べていかに後れているかの証拠のようにすら思います。 また、『テクスチュアル・ハラスメント』にたいしては、たとえば下記のような、ラスの方法論に対する反論をはらんだ意見があることも紹介しておきます。私よりはるかにまとも、かつ刺激的でおもしろい論考ですので、読んでみてください。佐藤亜紀のこの意見にも私はかなり納得しました。 http://www.flet.keio.ac.jp/~pcres/gender/reviews/textual.html >>76 からふさんありがとうございます、別に怖くはないので(苦笑)私信もください、噛み付きゃしません。 おい、なんか俺怖がられちゃってるみたいだよ、普段の言動には気をつけなくちゃいけないのかな?俺もそろそろそういうこと考える歳かもな、などと反省することしきりでしたが(嘘かも知れない) それでもねえ、せばすちゃん、怖がられているのと避けられているのは似ているけれど違うのよ、と さっき、俺の天使ちゃんが耳元でそう囁いていってくれました。 いや、天使と言ってもただの人間で、ただの人妻で、そんでもってただの俺の愛人なんですけどね。 さて、眠れぬままに佐々さんに連続コメ。書評「テクスチャル・ハラスメント」を読んで思ったこと。先日私は、医者に「どんな本を読んでいるの?」と訊かれて答え、「女性ばかりね」と指摘された。ちなみに、あげたのは江国香織、川上弘美、吉本ばなな、栗本薫、新井素子。いや、男性の作品だって読んでいないわけではない。村上春樹だって、阿刀田高だって読んでいる。しかし、全作品ではない。ほぼ網羅したといえるのは、芥川竜之介、久米正雄、中島敦、夏目漱石といったところか。ここで顕著な特徴があらわれる。好きな女性作家は圧倒的に現代の、同時代の作家が多いのだ。しかもそれを読んだのは殆どが思春期を過ぎてからである。高校時代まで、私はこれらの作家を殆ど読んでいなかった。人格形成期にモデル・ケースにしたのは、圧倒的に男性作家であり、男権主義的な考え方に疑義を差し挟むことがなかったのだ。吉行淳之介と開高健の対談に共感して赤線復活論に賛成し、ハインラインにセックス・モラルを形成され、立原正秋にかっこよさを感じていた。十代の私は、理想の自分は蛮カラだった。オンナノコが蛮カラを気取っても、できあがるのはオバタリアンに過ぎないということに気づいたのは、迂闊にも二十代も後半になってからだった。 勿論、これは、単に「私がそうだった」ということに過ぎないのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか? ある年代よりも上の世代は、やはり、圧倒的多数の「男性の作り出した世界」にどっぷりつかって育ったのではないだろうか? その世界に、自分とはそぐわないものを感じるのが、早いか遅いかの違いだけではないだろうか? 勿論、女性がモデルにするべきなのが女性だけだと主張する気はないし、実際、私は自分が今でもけっこう好きだ。また、女性作家の台頭が男性作家より遅いというのも、おおまかにいってにすぎず、与謝野晶子と与謝野鉄幹では、私は晶子の作品を先に読んだ。しかしそれでも、ある時代までは、佐々さんの指摘にあるように、女性作家の作品は人目に触れることが少なく過ぎ、それが時代のモデルを形成していたのではないかという念に駆られる。 今、十代、ニ十代前半の人はどうなのだろうか? えと、佐々さんの「カテゴライズ・二流詩人7つの条件捕逸3」のポイント入れた時のコメントがちょんぎれてしまったので続きをこっちに。 と私は人の仕事の上にあぐらをかきたいのだ。高柳蕗子さんという私が尊敬する歌人も、大量の短歌をエクセルでデータベース化していて、それを下敷きにした批評や比評論を展開し、しかもそれが的確なので、羨ましくてしょうがない。佐々さんもそれだけデータ収集しているならば、きっとおもしろいものが書けると思うので、期待しています。 笑った後で悪いのですが、 最後の一行は笑う所で良かったんでしょうかーわははは という感想が。 山田せばすちゃんさんカッコいいです。 前々から雑談スレッドを見ていて、怖いというイメージしか膨らまなかったのだけど、 「Please Mr.Postman」を読んでから、 怖いというイメージと同じくらいに優しいというイメージが膨らんでます。 私信で送るべきだったのかもしれませんが、 私信は怖くて送れなかったので。 小池 房枝さんの詩がいい、と思う。 最初地味に「木々は光をまた土にゆずる。」が発表されたとき、 わたしは、ああこのひとは詩人だなあと変な感想をいだいた。 今回の短歌も、とてもいいと思う。 浅野すみれさんの詩が不思議でしょうがない。 ものすごく、本当にものすごくバラバラで、 でもその、バラバラであることがまとまりを作ってる。 完結した広がりみたい。そんな。 強い個性だと思う。 いとうさんが管理されている「poenique」(http://poenique.jp/)「他薦作置き場」の 「たもつのオススメ」に、この現代詩フォーラムでも登録されている佐々宝砂さんの 「アキアカネ」をアップさせていただきました。 益野大成さんへ。わたしの投稿した「宛て先」にひとことコメントを頂き、 それが普段から詩を書く時にわたしが考えていることだったので、こちらの 方に書かせていただきます。 「分からない所が無いというタイプの詩ですね。ただ、余計なことですがアンテさんは それを望まれますか?」 前半はYESで、後半はYESでありNOです。 わたしは、各行の言葉の意味が「判る」よう、極力平坦な表現を選びます。以前、大村 浩一さんと話をしたことがあるんですが(勝手に引き合いに出してすいません)、 大村さんは、たとえば「夢」というような、ありふれた言葉はできるだけ使わないよう にしているとおっしゃっていました。 わたしはすこし違っていて、意味ははっきりしているのに、人によって感じること、 イメージの違う言葉が好きです。「欠片」「手」「風」「眠り」「手紙」・・・ そんな言葉をたくさん組み合わせることで、読む人によって感じることがまったく違う ような詩を書きたい。というのが、わたしが寓話的な詩を書く理由です。 だから、全員に強い想いを伝えられる詩ではありえないでしょうね。どちらかというと、 たくさんの人に読んでいただいた時に、一人か二人に、ぐさっと内側にまで入り込めれ ばいい、と思いながら書いています。 そういう詩を書く者が一人くらいいてもいいかな、と。まあ、そういうオリジナリティ もありかな、と心の片隅では思っていたりしますが。。 ですので、益野さんの後半の言葉については、分からないという所がないことを望んで いるのではなく、手法として、分からない所がないように心がけています。 平坦な言葉で、ぐっとくる表現をされる詩人はたくさんいらっしゃいますよね。 詩学で掲載されている大下さなえさんなど、すごいなとおもいます。 (ひらがな詩がどちらかというと多いですね) わたしも、そういうのをどどっと書いていた時期もありますが、どうもしっくりとこな くて(時々書こうとしますが、あまりうまくいかない)、今のところは寓話詩のほうが 落ち着きます。ただ、どうも最近はうまくいかないことが多いのですが。。 長くなってしまいすいません。 感想ありがとうございました。 ひかるさん。 どうもありがとうございます。しかし学ぶだなんて、そんな中身は持ち合わせて おりませんゆえ詩人の皆様方の手前恥ずかしさのあまり身が縮こまってしまいます。恐れ入ります。 どんな詩を読んでいるか、については私信に書かせていただきました。 本によって違うみたいです。 大昔のライナーノートはいいかげんなので、間違ってる可能性大。 最近のものを見ると?’ll trap a rideではなく、 おっしゃるとおり?’ll drop a line。 ご指摘ごもっともです。 こんにちは。 佐々宝砂さんへ。 批評・エッセー欄のドアーズの詩の引用ですが、最終行の ?’ll trap a ride というのは ?’ll drop a line の間違いであると思います。それとも別ヴァージョンがあるのかな? 今まで一人きりで「イツカシジンニナッテヤル」と机に向かって没入するのが 詩人だとおもっておりましたが、こんな場があってこんな素敵な 詩の相互作用があることに私自身世界が開かれる思いです。 読むこと、読まれることの大切さをいつもかみしめております。 >いわぼっけさま 「無題」へのご指摘ありがとうございました。なぜタイトルを「無題」としたのか、 私なりの答え(言い訳??)を作者メッセージのほうに書かせていただきましたのでよろしければごらんください。 それにしてもタイトルをつけるのは非常に難しいです。。。実は全部「無題」に したいくらい! >狸亭さま いつもコメントをありがとうございます。 「蝶」へのコメント、そういうふうに返してくださると作者としてはほんとうにうれしいです。 >山内緋呂子さん たしかに、「ほんとに」っておかしいですね。「ここのカレー、ほんっといい匂いだよね」とか「千駄木の往来堂っていうとこ、ほんとにいい本屋だよ」とか「おれ、マジでほんとに金ないんだけど」の「ほんとに」です。こちらの古いものにも目を通してもらったみたいで、嬉しいです。どうもありがとう。 もうだいぶ前になりますけど、こちらで、私の作品への感想を述べてくださった渦巻二三五さん、石原大介さん、どうもありがとう。「もっと読みたいです」と言われると「もっと書きたいです」と思います。 あと、「ほんとに」と感想をくださったnm6さん、「ほんとに」って何ですか「ほんとに」って、うれしいじゃないですか。どうもありがとう。 よだかいちぞうさんの「ウエハース島」連作、たいへんによかったです。なんとゆーか、いちばんすてきなものを書くときの寺山修司の作品……とりわけ彼の童話を、すこしだけど彷彿とさせる。これは、まとまったかたちで(できれば書物のかたちで)読みたいものだと思いました。ただし、勢いに任せて書かれたせいでしょうか、いささか推敲不足のきらいがあります(ちょっとした誤字脱字もあるような……)。勢いを削がないように推敲するのはなかなか難しいと思うのですが、それだけの価値はある作品のように思います。 詩であることの定義って、いろいろな詩人が書いているけれど(あんまり読んでない^^;)、難しいですよね。 詩のようなエッセー、エッセーのような詩、椅子のような芸術作品、芸術作品のような椅子。。。 >喜多川KO壱さん いや、そんなに謝られても困ってしまうのですが。 私はただ、ちょーっと疑問に感じただけなんですもん。 >片野さん 「批評・散文・エッセイ」と「自由詩」をわけるものが何か、 真剣に考えるとわけがわからなくなりそうです。 sage 「批評・散文・エッセイ」の投稿欄に注意書きを明示してみました。なんだかなぁ、という感じですが^^; 喜多川さん、了解です〜 自由詩へ移動しときましたyo! sage そうです、分類を間違えたってことです、大変申し訳ありません ええと、つまり分類を間違えた、ってことでOKですか?>喜多川KO壱さん 分類の変更は喜多川さん自身でもできますし、もしわからなければ僕のほうでやっておきますけれど。 佐々宝砂さんへ、 佐々さんが思ってるとおりです、申し訳ありませんでした 乙汐あゆみさんへ いつもあったかいコメントありがとうございます。 歳が近いので親近感。とまでは言えませんが、(笑) 乙汐さんの詩はわかりやすいので結構好きです。 「ファン」には驚きましたが(汗) かなり失礼な質問になりますが、「乙汐」と書いてなんて読むんですか? 入力するときは「おつしお」で入力してるのですが・・・すみません。 こんばんわー。新入りです(笑) ゆういちろう サンの作品に「胸きゅん」です!でも御自分のことは何も書いてらっしゃらないので分かりません。どうしたら、あんなに切ない心理をさっぱりと、まとめることが出来るのでしょうか?とても気になります。もし見てらしたら、何んか教えてくださーい。 喜多川KO壱さんの文章を読みつつ、うーむ?と疑問を抱いています。作品内容や質の問題ではなくって、分類の点で。 たとえば、「批評・散文・エッセイ」のカテゴリに投稿された「春と夏と秋と冬」。私にはどうしても詩に見えます。散文にはみえません。行分けされていて、句読点がない、「来たる春/ラベル貼る」のように韻を踏んでいる箇所がいくつもある……などなどを考えると、どーも詩だと思えるのです。喜多川KO壱さんのこうした作品が、いくら批評的な内容を持っているとしても、「春と夏と秋と冬」のような作品は、散文じゃなくて、詩だと思います。批判精神を持った文章を「批評・散文・エッセイ」に分類しなくてはならないとしたら、私の詩も、詩ではないと考えなくてはならない。とゆーか、詩が批判精神を持ってるのは当たり前。 「春と夏と秋と冬」より詩らしくない詩は、世間にいっぱいあると思うのですが、どうして喜多川KO壱さんは、こうした作品群を「批評・散文・エッセイ」に投稿されるのでしょうか。これは批判として書いてるのじゃなくて、ほんとに、ただ疑問だったので、訊ねてみたのです。 同感です。 なんか俳句のような断面のような世界で面白いです。 今までうっかり読み逃していたのですけれど、山内寛子さんって、なんか気になる雰囲気のものを書かれる方ですねぇ。どんな方なのでしょう。もっとたくさん読みたいです。 佐々さん なるほど。 「紙の世界の方」で自分を名乗るようになったら、真性?ネット詩人ではないような気もしなくはないのですが、…戦略的な感じなのかしらん。 逆に「印刷詩人です」って名乗る人が出てきたら…なんて妄想をしてしまいました(笑)( いや、印刷詩人は変か。…何言ってるんでしょ、私ったら) 最近爆裂に時間がないので、大急ぎの返事です、言葉足らずだったらごめんなさい。 えっとですね。紙の詩とネットの詩に質的な差がそんなにあるわけじゃないという当たり前の認識が(ネット界にすら)浸透していなかったころ、「あえて」ネット詩人を名乗ることには多少なりとも意味があったと思うんです。いまネット詩人と名乗ってどんな意味があるかというと、たぶん、ネットの世界では意味があんまりなくて、むしろ、紙の世界の方でネット詩人と名乗ってこそ意味がある。なぜって、山田せばすちゃん氏が書いているごとく、紙の世界にはまだ古い考えを抱いてらっしゃる方がいるわけです。そうした古い方々なんてほっぽっといてどんどん新しい方向に進んだっていいのですが(とゆーか、進んだ方が面白いに決まってる)、私としては古い方々をほっぽっとくのがどうもいやだなあという気持が、いえ、正直にいや古い方々をつっつくほうが面白いに決まってるじゃんという不遜な気持が(笑)。 わかりにくかったらごめんなさいなのですが、私が「古い方向に行きたがる」のは、私が少数者でいたいひねくれもんだからです。ネット詩の問題でなく、私の問題っぽいです(笑)。 佐々さん 感想ありがとうございます。 「ネット詩」という言葉には懐かしさを感じてしまうけれど、でも、「ネット詩人」を自称するのが古いのかというと、そうとも思えなくて、なんとも奇妙なねじくれた感じがしますね。うーん。佐々さんが「古い方向に行きたがる」というのと、それでネット詩人を自称なさる、というのがどうつながっているのかよくわからない、ってことなんですが。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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