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感想スレ (創作系)スレッドオペレーター:片野晃司
ここは、「批評」というほどではないけれど一言作者に伝えたい人のためのスレッドです。
ポイント、ひとことコメントに対する作者側のお礼、お返事にもお使いください。
(6/28追記)「未詩・独白」カテゴリの作品は批評しないようお願いします。

[102]いとう[02/10 17:19]
あー。詩、読み返したら、なんか違うっぽい(笑)。
そういう詩じゃないな。すみません。忘れてください(笑)。
 

[101]山田せばすちゃん[02/10 16:21]
>>100
んーでも、書いた本人も自分がかきわけた「奥さん」と同じであるという自覚がないとおっしゃっているので。。。
どうなんでしょう。。。
 

[100]いとう[02/10 15:50]
合評のログ読んだけど、
ふぃおさんの「伝説」、あれって、
およめさんになる(なった)つもりが、
じつは奥さんになる(奥さんである)ことに気づいて
還らなかった、という詩だと思いました。
 

[96]佐々宝砂[01/31 17:40]
さらに思い出したのでちょっとつけくわえ。

「供儀」または「人身御供」関連の話でもひとつ思い出すのは、マンガなのですけど『検証 四谷怪談・皿屋敷』(永久保貴一/朝日ソノラマ)。かなりいい本です。人身御供関連なのは、「四谷怪談」ではなく「皿屋敷」のほう。非常に綿密な調査と、折口信夫がちょこっと漏らしたという「皿屋敷のお菊さんはククリヒメと関連がある」という言葉などをヒントに結論される「人身御供」としての「くくられた女」説は、ちょっと他では味わえない面白さを持ってると思います。永久保は『カルラ舞う!』など民俗学っぽいファンタジーマンガを代表作とするマンガ家で、そうした創作マンガ自体も、かなり詳しい調査に基づいて描かれています。だいたいその手のものを描く人は、水木しげる御大からしてすごく調べまくるひとばかりです。京極夏彦がいろいろ調べまくってるのはご承知でしょうが、今市子あたりもかなり調べまくってるタイプのマンガ家ではないかな?などと『百鬼夜行抄』を読むと思います。

詩人も、もしかして、そのくらい綿密に何かを調べて書いたほうがいいのかもしれません。といきなり反省するわたくしでした。
 

[95]佐々宝砂[01/31 16:57]
>94
そういや私の専門は本来、虫でも詩でもなく実は民俗学だった、ということを憶えてらっしゃるかたはまだいるでしょうか・・・

国語学ではタブー視されてる語源研究ですが、民俗学じゃそれほどタブー視されてはおりません。国語学者と違って、民俗学者はけっこう乱暴な私説を発表してきました。きっと柳田国男が悪いのです(笑)。だって、柳田は、有名な『妖怪談義』に出てくる「モモンガ」語源説をはじめ、かなーり自由な語源説を発表しちゃってますからねー。

蛇=「カカ」説については、講談社学術文庫収録の『蛇 :日本の蛇信仰』(吉野裕子) という民俗学関連の本で読むことができます(もしかしてクリさんが読んだのと同じ本かもしれません、タイトルが違うだけで)。それによれば、蛇は「鏡」や「ほおずき」とも関連するそうなのです。鍛冶技術と民俗学については、おそらく内藤正敏が最初に提唱した「金属民俗学」というものがあって、内藤の著作ちくま文庫『遠野物語の原風景』で詳しく読めます。柳田国男が書かなかった(あるいは無視した)セクシュアルな民俗についても書かれていて、面白い本です。「斐伊川=ヤマタノオロチ」説についても、いとうさんがお書きになったこととほぼ同一な文章をどこかで読みました。『遠野物語の原風景』にあったと思うのですけど、もしかして荒俣宏御大が書いてたことかもしれません。だって、風水からみたら河はみんな龍ですから(笑

あとわりと最近の本では、六車由実の『神、人を食う』(新曜社)がすごくスリリングでした。これはいわゆる「人身御供」のことを書いた本です。ヤマタノオロチの話というと、怪物神であるヤマタノオロチと、英雄神スサノオと、草薙の剣のことばかりに目がゆくけれど、人身御供にされたクシナダ姫という存在があることもお忘れなく。「人身御供」というのはそれこそ民俗学ではある意味タブー視されてきたテーマでして、あえてそれを研究してる六車さんはすごいなと思います。六車由美さんはHPを持っていて、いくらかの論文はそこで読むことができます。興味があったら読んでみて。面白いです。ちなみに六車女史は、今は東北にお住まいですが、出身はわたくしと同じ静岡県でありまする。

六車由美さんのページはこちら
http://muguyumi.hp.infoseek.co.jp/


そうそう、関係ないけど私のHN「佐々」はスサ系の名前なんですよん。スサノオというのは、まあいちばんふつーに考えれば「スサのオトコ」という意味ですから、さしずめ私は「スサノメ」? なんかウオノメみたい・・・
 

[94]いとう[01/30 18:03]
クリさんのキングギドラ仮説に寄せて。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=6421


「朝鮮から渡ってきた技術者が斐伊川(ひいかわ)の灌漑事業を行った」という説も聞いたことがあります。「スサ」は朝鮮系の名だとか。スサノオノミコトの「オ」を「尾」とすれば、渡来人説もありそうかなと。このへん、「スサ」をどう捉えるかで変わると思います。

で、斐伊川は天井川&暴れ川で洪水被害のメッカです。以前は日本海に流れていたけれど、室町だったかな? そのあたりの洪水で今は宍道湖に流れてます。そのくらい暴れる。

>そしてもう一つの系図がある。「チ」だ。「チ」は、古語で原始的霊格を示した。「血=チ」「命=イノチ」
>そして「ヲ」を峰、峯、尾根(ヲネ)、「ロ」を助詞として、全体的に「峯の霊」とする。
>「ヤマタ」は、「八股」で、「ヤ=8」は、一桁で「たくさん」を表す唯一の数だから、「たくさん分岐した」という意味になる、と思う。

これを、たくさんに分岐する峰の霊と捉えると、「斐伊川=ヤマタノオロチ」とも考えられなくもない。雨のたびに暴れて分岐する(あるいは、川の向きなどが目まぐるしく変化していく)山からのチ。チは血であり霊格であり、血からは流れるものを連想する(これは私説)。そして斐伊川は霊格的に位置付けることができるのですが、これは当時、斐伊川で砂金が取れて、かつ鍛冶で栄えていたんですね(ちなみに砂金は今でも取れます)。手のつけられない川なのだけれど、生活する、生きていくうえでは非常に大切な川だったのです。斐伊川は、人の力では制御できない、けれども必要とされる、自然の力でした。

そう考えると、ヤマタノオロチを成敗したあと、体内からクサナギノツルギが出てきたってのも、灌漑で鍛冶の設備&能力が向上した、あるいは渡来人の指導で鍛冶技術が向上して名剣が生まれたと考えれば、けっこう信憑性があるかな、と。


ま、でも、国語学的には日本語の語源は手付かず、というか文献などがほとんど存在しないため手が付けられない状態で、語源研究は、学会ではほぼタブー視されてます(笑)。
 

[93]麻草郁[01/29 12:04]
ありがとうございます、はじめまして、麻草です。
このサイトは、最近利用しはじめました、よろしく。
感想を頂いて、とてもうれしいですよ、ありがとう。
頭はあまりよくないです、会ったらがっかりしますよ、たぶん。
 

[92]鏡文字[01/29 00:00]
麻草耶さん、ポイントありがとうございます。初めてださせていただいたものなのでとても嬉しいです。
麻草耶さんの作品も読ませていただきました。まだざっとですが、私にとってとても感じのいいものです。
飄々としていて、毒もある。でもネガティヴさがなくてさらっとしている。とても頭のいい方なんだな、という印象を受けました。
私は麻草耶さんの詩が好きなようです。もっとじっくり、今から読んでみます。散文の方も。
こんなことしか言えなくてすみません。とにかく、ありがとうございました。
 

[91]いとう[01/21 11:18]
言葉が足りなかったかもしれないので補足。
下記の文章は、小夜さんの詩がどうこうというのではなく、むしろ、
俺の詩の読み方についての自己所感です。
 

[90]いとう[01/21 01:50]
小夜さんの、最近のはいいなぁと思うのがあまりなかったんだけれど、
なんかもしかしたら、何かの“過程”あるいは“途上”なのかもしれないと、
新しいのを読んで思った。(「日暮れ前」)
特に最終連、その過程の先がちらっと見えたような気がしたのは、
やっぱり俺の思い込みなのかもしれない。(よくわからない日本語で申し訳ない)
 

[89]山内緋呂子[01/10 22:44]いとう
[88]をすこし修正。お名前を出した方々のことを、これでは、「頭でっかち」みたいに言ってしまってるようではないでしょうか?訂正します。「詩に対して熱情のこもった方」「骨のある方」「ご自分の技法がしっかりある方」みたいなことを言いたかったのであります。失礼しました。
そして、読んでいただくのはありがたいのですが、「雑談スレ」で話題にもなっているような、どんな妄想のどんな私信でも喜ぶわけではないのです。
重ね重ね失礼いたしました。
 

[88]山内緋呂子[01/10 18:46]
>[87]へレスです。
石原さん、「作者コメント」欄での私の質問にわざわざお答えいただきありがとうございます。

>説得力が違う

全く意外でした。自分の言葉は、たいてい独りよがりで、こちらではそれにすこうし気をつけていましたが、あんまり、「わかっていた抱きたい」と思って何かをかいていないのです。読んでいただいた時点で、その方のものになる、と思っている故。

>自分の持っている言葉や使いたい言葉をきっぱりわかっていらっしゃるのだろう。

私は「わかっている」のだろうか?と、シバシ考えました。こちらでの言葉は、寝る前とかに、ポコポコ出てきて、「はいはいわかりました」とか言ってノートに連ね、後、客観的に見直します。客観的と言っても「人にわかりやすく」と考えてかくと、私の場合は、まことにおもしろくなくなる気がします。それは、大学の卒論などで書けばいいや、と思っています。でも、「この方がサラッと読める」「こっちがおもしろい」などと、考え、直します。よって、客観的じゃないかも知れん。が、「独りよがり」は、ソレですこうし消しているつもりです。

>持っている言葉しか使わない

そうですね。やっぱり客観的ではないのでしょう。

>想像力ではなく、フットワーク

バレていますね。そうです。ありがたいことに、「詩の技法」とか「何を勉強すれば意々ですか?」」という、質問をよくいた抱くのですが、それはきっと、狸亭さん、ボルカさん、いとうさん、岡村明子さん、宝砂(しかしいいお名前だ)さん、たもつさん、みつべえさん、奥主さん、など、(拝読不足故、もっとたくさんいらっしゃるのでしょうが、)たくさんたくさん詩の知識が豊富な方が丁寧にお答えくださるだろう、と勝手に推測します。私は、「詩について勉強、と身を硬くするより、ご自分の好きなことをするといいですよ。で、それで出てきた言葉はいかがですか?」とか、お答えします。ああ誠に勝手。皆様ごめむなさい。

>月面にまで基地がある日にゃあ、ほとんど一生遊んで暮らせるというものだ。

という、あなたのお言葉がおもしろいです。自分は、「基地がある」とは、全く考えておらず、このように、読んでくださった方が、妄想してくださってお言葉をくださるのが、とてもおもしろいです。どうもありがとうございました。

 

[87]石原大介[01/09 21:44]
山内緋呂子さんの「独房独居許可局」の感想です。
ゆるぎない文体で説得力が違う。 そっけないというか、踏みとどまっている感じがする。 自分の持っている言葉や使いたい言葉をきっぱりわかっていらっしゃるのだろう。 持っている言葉しか使わないのに面白い。 これは想像力ではなく、フットワークの賜物に違いない。 なにしろ月面にまで基地がある日にゃあ、ほとんど一生遊んで暮らせるというものだ。
 

[86]ポロリ[01/09 20:55]
「たとえそれが何の変哲もない日常であっても(つまり、どんなにヒーロー的でなくても)、そうした日常を送ることそのものをためらわない。それってその生活への愛」「ヒーローがヒーローたる原点である、ささやかなものへの愛」
そういう意図ならば、そうまとめて欲しかったです(w。ただ、ささやか過ぎて・・・あと、切り捨てられたものが・・・
まあ、いいだろう!今回は俺の負けだー!だが、覚えていろ!次こそは悪の帝国を!

Thank you

PS1:補語(目的語?)は「」より前の文章と連動しています(糞と同様)。また、PS2でも述べますが、補語が特定された線は補語が特定された点の集合と考えると、今まで生きてきた全ての行為が補語の対象になることになります。しかも何本も。
PS2:おっしゃられるとおり、「ためらわない」「くやまない」とはある状況において選択的に行われる判断です。なので、何も判断しないでよい時は選択は無いと思います。それは選択しているのではなく、選択の余地が無いのです。したがって、その領域は「点」で表現できません(無論線でも。ある行為をしてそれをずっと悔やまないというのは変です。何年もの全ての行動を脳が完全に記憶していることになります。いったん判断したら終了と考えたほうが簡単じゃないでしょうか。だから、解答としては、「全ての物事に対するスタンス」として望んでいました。一瞬一瞬の行為に対する態度ではなく、状態的な信念として。だから補語にこだわること自体、私は疑問です。)。また、これと感情の話も連動します。「感情」という言葉ではちょっと微妙な気もしますが。男脳・女脳というのが一時期はやりましたが、まさにこの問題でしょう。同時にいくつもの問題を考えられるかどうか。結局複数の思考は可能なわけですが、それとは微妙に違います。無意識的な領野で後悔していないという選択を個人は延々と続けているとは私は思いません。
PS3:ちなみに感想を述べたのは、現在、私の問題関心が「愛」だからです。ギャバンの「愛」がいまひとつ「愛」という感じじゃないので、残念です。でもそれが「ギャバンの愛」なんだから仕方ないですね(ギャバンの「愛」は、「愛」という語で、個人の精神的安定のために、個人の「割り切り」及び「切捨て」を隠蔽しているというふうに、私には見えることになります。私の愛の定義からは。)。結局、対象が無いあるいは抽象的な「愛」になるのでしょうね。
PS4:いってらっしゃーい。


PS5:あら?今、補語を調べたら、どうやら私が理解していなかったということがわかった。つまり、この場合は「〜に」ってことで、対象となる人・物を指すのかな?とかんがえたら・・・別に変わんないか。問題は生じないな。(「私は生きることをためらわない。」だと、「生きることを」が客語(目的語)になって補語いらないんじゃないのかな?絶対必要な文の成分なのかしらん?よくわからん。)
じゃあなんで、れつらりゅいち様は、「愛する」からむりやり「施す」にしたんだろう?(「人に愛を施す」だと、「人に」が補語だよね。「愛を」は客語?で、「人に」って必ず必要なのかな?「愛を施す。」・・・駄目だ。わかんねぇや。)「愛する」との関係では、目的語を考えればいいだけじゃないのか?これって中学の国語?やばいな。次回までには勉強してきます。スゴスゴ
 

[85]れつら[01/09 18:41]
ええと、まず、なにをくやまないのか、なにをためらわないのか、それをはっきりしないことには話が進みません(笑)詩じゃないんだから補語をつけてください(笑)
ぶつくさ言ってる人ですが、前者はくやまないということをそれだけ常に意識しているということは、逆説的にくやむようなことを常に行っているということですねえ。くやまないという気持ちは別に、ぶつくさ言うべきことでもないのです。ポロリさんは自分で何の間違いもないと確信しているときも常に「自分は間違ってないぞ」とぶつくさ言っておられますか(笑)?
で、後者。うんこをためらわないひと。これは確かにためらうべきことではございません。ぶつくさ言うかどうかは別として、この心理自体は愛に適っていると言えます。たとえそれが何の変哲もない日常であっても(つまり、どんなにヒーロー的でなくても)、そうした日常を送ることそのものをためらわない。それってその生活への愛がないとできないことなんではないでしょうか。ね。くやまないことも同様です。ごく当たり前のことをごく当たり前にこなす、そのことを愛しているということが、くやむ必要自体を抹消するのではないかしら。
そこがヒーローがヒーローたる原点である、ささやかなものへの愛だとしたら、万々歳じゃないですか。

若干論点のすり替えが行われていますが、時間が無いので勘弁してください。
ご不満でしたら時間があるときに再度レスさせていただきますのでー。

それから、これは余談かもしれませんが。人間は常に一種類の感情で動いているとお考えですか?
ここでYESといわれるとすでに交渉決裂なのですが(笑)、僕はそうは考えません。私達は常に様々な種類の感情を抱えており、その比率は時によって様々に変わるものだと思っています。表象化しているのはそのうちのいくつかだけで、内側にはいくつもの感情の混合物があります。だから、それを言い表すために言葉を尽くすのだし、たとえば詩をかくのだと思っているのですけれど。
点と線もおなじです。大きな点もあれば、ちいさな点もある(ちょっと語弊ありやけど)。細い線もあれば、太い線もある。そういうもんです。きっと。
ではバイト行ってきます。飽きずにレス下さってほんとに感謝。
 

[84]ポロリ[01/09 20:11]
線は点の集合、ちょっとセンスの無い逃げ方ですね。
それだと、歩いてる時も、映画に涙してる時も、飯食ってる時も、寝てる時も、「俺はく悔やんでない、俺は悔やんでない、俺は悔やんでない・・・」とぶつくさ言ってる、やばい人になりませんか(笑)?
起きて、歯を磨き、糞をしてても「俺はためらわない、俺はためらわない、俺はためらわない・・・」
これって、ヒーロー?
そして、愛?
などという、いちゃもん。
すいません。
Thank you

追記:この場合、れつらりゅいち様か、他の方が、「ぶつくさ言ってる人」や「糞してる時に俺はためらわないと言っている人」に愛があり、かつ、ヒーローと少しでも思わせると勝ち(私の負け)です。。
あるいは、ぶつくさ言うのではない、別の「点」の表し方を示すと、私の批判を無効化できます。

次回も楽しみにしてます。戦隊物かー。ウキウキ
 

[83]れつら[01/09 13:19]
ほんとに感想貰ってるしw
ポロリさん、ありがとうございます。

で、反論というか言い訳というか。
時間の捉え方でありますが、まず、線というものが点の集合であるということを表明せねばならないでしょう。前半部で時間を線で捉え、後半部ではそれを踏まえて点で捉えているといるということは、前半部では人生そのものにおけるヒーローとしての指針を書いていたのに対し、後半部「愛」に関してはより即時的な行動指針の話に転換しているということなのです。
「愛」というものに関して僕の考えをここで言うにはあまりに僕のなかでの「愛」の定義が不明瞭なのですが、通常はどう思われているかどうかに関しては、文中でも言及しているようにこの際どうでもいいのです。むしろ、刹那的な行動の連続そのものが「ためらわないこと」「くやまないこと」のなによりの根拠なのではないかと考えており、その点が連続して生に寄り添って線となったときに、ポロリさんがおっしゃる持続的な概念としての「愛」のかたちを為すのではないでしょうか。

まあ、実際後半筆が滑りまくっていたのも事実ですし(というか大してなんにも考えずにかきはじめていたんですもの)、それゆえ構成・論理等に穴が多いのも事実です。時間と精神に余裕があれば修正を加えたいところではあります。ご指摘ありがとうございました。

もちろん第2回もありますよ。候補曲もすでに数曲挙がっております。次は戦隊もの。
 

[82]ポロリ[01/08 23:38]
ギャバンについてのチャバンあるいはイチャモン(そういえばポケモンデジモンドラえもんが・・・)〜はじめまして。れつらりゅいち様〜

朝は急いでてすっかり見過ごしちゃったけど、改めて読むと、論理的におかしい。というか、なんだか残念なところが多いような気がします。というのは、この論考には1つ重大な欠点があるように思うのです。
それは時系列に関する問題です。前半部は非常に良いと思います。もちろん事象の一側面しか語られていないので、私としては不満はありますが、なにせ勢いが素晴らしい。筆が滑る滑るといった感じです。書いていらっしゃって爽快だったんじゃあなかろうかなんて思ってしまいます。
これに対して、後半部はスピードが落ちる落ちる、そして、曲がる曲がる、という感じで、なんだか四苦八苦なされていらっしゃるようにさえ思えてきます(F様も冗長とおっしゃっていらっしゃいましたね。)。
時系列に関する重大な欠点と申しましたが、前半部はいわば時間を線で捉えていらっしゃるのに対して、後半部は点で捉えていらっしゃいます。しかし、後半部は「愛」の話であって、それこそ持続的な概念(あるいはもっと常態的なもの)と通常思われているものですから、線あるいは線以上で捉えなければならないと思うのです。(愛を刹那的に考えるのであれば、今の路線でも問題は無いかもしれませんが)
実際、「英断即決」以上の話が出てきません。これではヒーローの条件ではあるかもしれませんが、「愛」との結びつきが無いように思います。関連性の点では言語の形式的結びつきしか提示されていないのではないでしょうか。なので、この点をもうちょっとまとめていただきたいなと思うしだいです。
(次回あるいは今回の修正バージョンも熱い雄たけびを楽しみにしています。セクシーーー!!!ホントは知らないセクシーコマンド。ボソ)
Thank you
 

[81]佐々宝砂[12/31 11:27]
白糸さんありがとです。

まずデータベース。短歌だとひとつひとつは短いのでエクセルで済むのですが、詩だとひとつひとつが長い場合も多いので、なかなか用途に適したソフトがない。自分のHP上でCGIが動くようにサーバ化し、自分好みにカスタマイズしたCGIを必死になって動かし、フリーソフトやいろんなヒトの助けを助けを得て自分の詩をようやくお片づけしたので、これから他の人の詩作群をなんとか個人的にデータベース化しようとしているところてす。まずは個人的にシステム構築、って感じでしょうか。少なくとも、私のPCの中身、私の部屋よりはお片づけが進んでいます。年の瀬だってのに、私の部屋はあいかわらずぐちゃぐちゃのささほーさなのでした。

で、「テクスチュアル・ハラスメント」。私が書いたものは本当は書評ではなく「この本読め」という紹介……というか正直にいえば、ありゃアジビラ(笑)にすぎませんので、実際に本をほう読んで読んでくださると嬉しいです。この本後半部には、訳者小谷真理の筆になる論考が掲載されており、明治の俳人、沢田はぎ女がいかに消されていったかのドキュメントを読むことができます。このような女性作家に対する抑圧、あえて現代の話ではないような書き方をしましたが、実際には現代日本でも引き続いている話です。「テクスチュアル・ハラスメント」を読んでいただくとおわかりになると思いますが、訳者小谷真理(女性で、SF&ファンタジー評論家)は、その夫、巽孝之(男性。アメリカ文学者、SF評論家)のペンネームであり、本人は男性である、とある本の中で断定され、裁判を起こし、四年後に勝訴しました。その経緯は『叩かれる女たち』(長谷川清美)という本の中で詳しく説明されています。つまりまさしく「いま」の話なんですよ。昔の話ではない。 とゆーか、いまさらこんな『テクスチュアル・ハラスメント』みたいな本を紹介して反響があるということ自体、詩の世界がほかの文学に比べていかに後れているかの証拠のようにすら思います。

また、『テクスチュアル・ハラスメント』にたいしては、たとえば下記のような、ラスの方法論に対する反論をはらんだ意見があることも紹介しておきます。私よりはるかにまとも、かつ刺激的でおもしろい論考ですので、読んでみてください。佐藤亜紀のこの意見にも私はかなり納得しました。

http://www.flet.keio.ac.jp/~pcres/gender/reviews/textual.html
 

[80]山田せばすちゃん[12/31 10:04]
>>76
からふさんありがとうございます、別に怖くはないので(苦笑)私信もください、噛み付きゃしません。
おい、なんか俺怖がられちゃってるみたいだよ、普段の言動には気をつけなくちゃいけないのかな?俺もそろそろそういうこと考える歳かもな、などと反省することしきりでしたが(嘘かも知れない)
それでもねえ、せばすちゃん、怖がられているのと避けられているのは似ているけれど違うのよ、と
さっき、俺の天使ちゃんが耳元でそう囁いていってくれました。
いや、天使と言ってもただの人間で、ただの人妻で、そんでもってただの俺の愛人なんですけどね。
 

[79]白糸雅樹[12/31 04:06]
 さて、眠れぬままに佐々さんに連続コメ。書評「テクスチャル・ハラスメント」を読んで思ったこと。先日私は、医者に「どんな本を読んでいるの?」と訊かれて答え、「女性ばかりね」と指摘された。ちなみに、あげたのは江国香織、川上弘美、吉本ばなな、栗本薫、新井素子。いや、男性の作品だって読んでいないわけではない。村上春樹だって、阿刀田高だって読んでいる。しかし、全作品ではない。ほぼ網羅したといえるのは、芥川竜之介、久米正雄、中島敦、夏目漱石といったところか。ここで顕著な特徴があらわれる。好きな女性作家は圧倒的に現代の、同時代の作家が多いのだ。しかもそれを読んだのは殆どが思春期を過ぎてからである。高校時代まで、私はこれらの作家を殆ど読んでいなかった。人格形成期にモデル・ケースにしたのは、圧倒的に男性作家であり、男権主義的な考え方に疑義を差し挟むことがなかったのだ。吉行淳之介と開高健の対談に共感して赤線復活論に賛成し、ハインラインにセックス・モラルを形成され、立原正秋にかっこよさを感じていた。十代の私は、理想の自分は蛮カラだった。オンナノコが蛮カラを気取っても、できあがるのはオバタリアンに過ぎないということに気づいたのは、迂闊にも二十代も後半になってからだった。
 勿論、これは、単に「私がそうだった」ということに過ぎないのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか? ある年代よりも上の世代は、やはり、圧倒的多数の「男性の作り出した世界」にどっぷりつかって育ったのではないだろうか? その世界に、自分とはそぐわないものを感じるのが、早いか遅いかの違いだけではないだろうか?
 勿論、女性がモデルにするべきなのが女性だけだと主張する気はないし、実際、私は自分が今でもけっこう好きだ。また、女性作家の台頭が男性作家より遅いというのも、おおまかにいってにすぎず、与謝野晶子と与謝野鉄幹では、私は晶子の作品を先に読んだ。しかしそれでも、ある時代までは、佐々さんの指摘にあるように、女性作家の作品は人目に触れることが少なく過ぎ、それが時代のモデルを形成していたのではないかという念に駆られる。
 今、十代、ニ十代前半の人はどうなのだろうか?
 

[78]白糸雅樹[12/31 03:02]
えと、佐々さんの「カテゴライズ・二流詩人7つの条件捕逸3」のポイント入れた時のコメントがちょんぎれてしまったので続きをこっちに。
 と私は人の仕事の上にあぐらをかきたいのだ。高柳蕗子さんという私が尊敬する歌人も、大量の短歌をエクセルでデータベース化していて、それを下敷きにした批評や比評論を展開し、しかもそれが的確なので、羨ましくてしょうがない。佐々さんもそれだけデータ収集しているならば、きっとおもしろいものが書けると思うので、期待しています。
 

[77]黒川排除 (oldsoup)[12/29 23:50]石原大介
笑った後で悪いのですが、
最後の一行は笑う所で良かったんでしょうかーわははは
という感想が。
 

[76]からふ[12/29 21:23]
山田せばすちゃんさんカッコいいです。
前々から雑談スレッドを見ていて、怖いというイメージしか膨らまなかったのだけど、
「Please Mr.Postman」を読んでから、
怖いというイメージと同じくらいに優しいというイメージが膨らんでます。
私信で送るべきだったのかもしれませんが、
私信は怖くて送れなかったので。
 

[75]佐々宝砂[12/25 23:43]
小池 房枝さんの詩がいい、と思う。
最初地味に「木々は光をまた土にゆずる。」が発表されたとき、
わたしは、ああこのひとは詩人だなあと変な感想をいだいた。
今回の短歌も、とてもいいと思う。
 

[73]いとう[11/24 11:41]
浅野すみれさんの詩が不思議でしょうがない。
ものすごく、本当にものすごくバラバラで、
でもその、バラバラであることがまとまりを作ってる。
完結した広がりみたい。そんな。
強い個性だと思う。
 

[72]たもつ[11/18 11:19]
いとうさんが管理されている「poenique」(http://poenique.jp/)「他薦作置き場」の
「たもつのオススメ」に、この現代詩フォーラムでも登録されている佐々宝砂さんの
「アキアカネ」をアップさせていただきました。
 

[71]アンテ[11/08 09:00]
益野大成さんへ。わたしの投稿した「宛て先」にひとことコメントを頂き、
それが普段から詩を書く時にわたしが考えていることだったので、こちらの
方に書かせていただきます。

「分からない所が無いというタイプの詩ですね。ただ、余計なことですがアンテさんは
 それを望まれますか?」

前半はYESで、後半はYESでありNOです。
わたしは、各行の言葉の意味が「判る」よう、極力平坦な表現を選びます。以前、大村
浩一さんと話をしたことがあるんですが(勝手に引き合いに出してすいません)、
大村さんは、たとえば「夢」というような、ありふれた言葉はできるだけ使わないよう
にしているとおっしゃっていました。
わたしはすこし違っていて、意味ははっきりしているのに、人によって感じること、
イメージの違う言葉が好きです。「欠片」「手」「風」「眠り」「手紙」・・・
そんな言葉をたくさん組み合わせることで、読む人によって感じることがまったく違う
ような詩を書きたい。というのが、わたしが寓話的な詩を書く理由です。
だから、全員に強い想いを伝えられる詩ではありえないでしょうね。どちらかというと、
たくさんの人に読んでいただいた時に、一人か二人に、ぐさっと内側にまで入り込めれ
ばいい、と思いながら書いています。
そういう詩を書く者が一人くらいいてもいいかな、と。まあ、そういうオリジナリティ
もありかな、と心の片隅では思っていたりしますが。。
ですので、益野さんの後半の言葉については、分からないという所がないことを望んで
いるのではなく、手法として、分からない所がないように心がけています。

平坦な言葉で、ぐっとくる表現をされる詩人はたくさんいらっしゃいますよね。
詩学で掲載されている大下さなえさんなど、すごいなとおもいます。
(ひらがな詩がどちらかというと多いですね)
わたしも、そういうのをどどっと書いていた時期もありますが、どうもしっくりとこな
くて(時々書こうとしますが、あまりうまくいかない)、今のところは寓話詩のほうが
落ち着きます。ただ、どうも最近はうまくいかないことが多いのですが。。

長くなってしまいすいません。
感想ありがとうございました。
 

[70]岡村明子[10/09 22:21]
ひかるさん。
どうもありがとうございます。しかし学ぶだなんて、そんな中身は持ち合わせて
おりませんゆえ詩人の皆様方の手前恥ずかしさのあまり身が縮こまってしまいます。恐れ入ります。
どんな詩を読んでいるか、については私信に書かせていただきました。
 

[68]佐々宝砂[09/30 23:45]
本によって違うみたいです。
大昔のライナーノートはいいかげんなので、間違ってる可能性大。
最近のものを見ると?’ll trap a rideではなく、
おっしゃるとおり?’ll drop a line。
ご指摘ごもっともです。
 

[67]石原大介[09/28 17:54]
こんにちは。
佐々宝砂さんへ。
批評・エッセー欄のドアーズの詩の引用ですが、最終行の
?’ll trap a ride
というのは
?’ll drop a line
の間違いであると思います。それとも別ヴァージョンがあるのかな?
 

[66]岡村明子[09/28 13:59]
今まで一人きりで「イツカシジンニナッテヤル」と机に向かって没入するのが
詩人だとおもっておりましたが、こんな場があってこんな素敵な
詩の相互作用があることに私自身世界が開かれる思いです。
読むこと、読まれることの大切さをいつもかみしめております。
>いわぼっけさま
「無題」へのご指摘ありがとうございました。なぜタイトルを「無題」としたのか、
私なりの答え(言い訳??)を作者メッセージのほうに書かせていただきましたのでよろしければごらんください。
それにしてもタイトルをつけるのは非常に難しいです。。。実は全部「無題」に
したいくらい!
>狸亭さま
いつもコメントをありがとうございます。
「蝶」へのコメント、そういうふうに返してくださると作者としてはほんとうにうれしいです。
 

[64]nm6[09/12 01:20]
>山内緋呂子さん
たしかに、「ほんとに」っておかしいですね。「ここのカレー、ほんっといい匂いだよね」とか「千駄木の往来堂っていうとこ、ほんとにいい本屋だよ」とか「おれ、マジでほんとに金ないんだけど」の「ほんとに」です。こちらの古いものにも目を通してもらったみたいで、嬉しいです。どうもありがとう。
 

[63]山内緋呂子[09/11 09:48]
もうだいぶ前になりますけど、こちらで、私の作品への感想を述べてくださった渦巻二三五さん、石原大介さん、どうもありがとう。「もっと読みたいです」と言われると「もっと書きたいです」と思います。
あと、「ほんとに」と感想をくださったnm6さん、「ほんとに」って何ですか「ほんとに」って、うれしいじゃないですか。どうもありがとう。
 

[62]佐々宝砂[09/10 23:17]
よだかいちぞうさんの「ウエハース島」連作、たいへんによかったです。なんとゆーか、いちばんすてきなものを書くときの寺山修司の作品……とりわけ彼の童話を、すこしだけど彷彿とさせる。これは、まとまったかたちで(できれば書物のかたちで)読みたいものだと思いました。ただし、勢いに任せて書かれたせいでしょうか、いささか推敲不足のきらいがあります(ちょっとした誤字脱字もあるような……)。勢いを削がないように推敲するのはなかなか難しいと思うのですが、それだけの価値はある作品のように思います。
 

[61]片野晃司[09/04 12:12]
詩であることの定義って、いろいろな詩人が書いているけれど(あんまり読んでない^^;)、難しいですよね。
詩のようなエッセー、エッセーのような詩、椅子のような芸術作品、芸術作品のような椅子。。。
 

[60]佐々宝砂[09/03 23:30]
>喜多川KO壱さん
いや、そんなに謝られても困ってしまうのですが。
私はただ、ちょーっと疑問に感じただけなんですもん。
>片野さん
「批評・散文・エッセイ」と「自由詩」をわけるものが何か、
真剣に考えるとわけがわからなくなりそうです。
sage
 

[57]片野晃司[09/03 11:59]
「批評・散文・エッセイ」の投稿欄に注意書きを明示してみました。なんだかなぁ、という感じですが^^;
 

[56]片野晃司[09/03 09:09]
喜多川さん、了解です〜
自由詩へ移動しときましたyo!
sage
 

[55]蒼空と緑[09/02 23:24]
そうです、分類を間違えたってことです、大変申し訳ありません
 

[54]片野晃司[09/02 17:45]
ええと、つまり分類を間違えた、ってことでOKですか?>喜多川KO壱さん
分類の変更は喜多川さん自身でもできますし、もしわからなければ僕のほうでやっておきますけれど。
 

[53]蒼空と緑[09/02 13:22]
佐々宝砂さんへ、
佐々さんが思ってるとおりです、申し訳ありませんでした
 

[52]美柳 章[09/01 00:03]
乙汐あゆみさんへ
いつもあったかいコメントありがとうございます。
歳が近いので親近感。とまでは言えませんが、(笑)
乙汐さんの詩はわかりやすいので結構好きです。
「ファン」には驚きましたが(汗)
かなり失礼な質問になりますが、「乙汐」と書いてなんて読むんですか?
入力するときは「おつしお」で入力してるのですが・・・すみません。
 

[51]葉月えりこ[08/31 21:50]
こんばんわー。新入りです(笑)
ゆういちろう サンの作品に「胸きゅん」です!でも御自分のことは何も書いてらっしゃらないので分かりません。どうしたら、あんなに切ない心理をさっぱりと、まとめることが出来るのでしょうか?とても気になります。もし見てらしたら、何んか教えてくださーい。
 

[50]佐々宝砂[08/30 20:02]
喜多川KO壱さんの文章を読みつつ、うーむ?と疑問を抱いています。作品内容や質の問題ではなくって、分類の点で。
たとえば、「批評・散文・エッセイ」のカテゴリに投稿された「春と夏と秋と冬」。私にはどうしても詩に見えます。散文にはみえません。行分けされていて、句読点がない、「来たる春/ラベル貼る」のように韻を踏んでいる箇所がいくつもある……などなどを考えると、どーも詩だと思えるのです。喜多川KO壱さんのこうした作品が、いくら批評的な内容を持っているとしても、「春と夏と秋と冬」のような作品は、散文じゃなくて、詩だと思います。批判精神を持った文章を「批評・散文・エッセイ」に分類しなくてはならないとしたら、私の詩も、詩ではないと考えなくてはならない。とゆーか、詩が批判精神を持ってるのは当たり前。
「春と夏と秋と冬」より詩らしくない詩は、世間にいっぱいあると思うのですが、どうして喜多川KO壱さんは、こうした作品群を「批評・散文・エッセイ」に投稿されるのでしょうか。これは批判として書いてるのじゃなくて、ほんとに、ただ疑問だったので、訊ねてみたのです。
 

[49]石原大介[08/29 22:13]
同感です。 なんか俳句のような断面のような世界で面白いです。
 

[48]渦巻二三五[08/28 22:54]
今までうっかり読み逃していたのですけれど、山内寛子さんって、なんか気になる雰囲気のものを書かれる方ですねぇ。どんな方なのでしょう。もっとたくさん読みたいです。
 

[47]渦巻二三五[08/28 22:50]
佐々さん
なるほど。
「紙の世界の方」で自分を名乗るようになったら、真性?ネット詩人ではないような気もしなくはないのですが、…戦略的な感じなのかしらん。
逆に「印刷詩人です」って名乗る人が出てきたら…なんて妄想をしてしまいました(笑)( いや、印刷詩人は変か。…何言ってるんでしょ、私ったら)
 

[45]佐々宝砂[08/27 17:36]
最近爆裂に時間がないので、大急ぎの返事です、言葉足らずだったらごめんなさい。
えっとですね。紙の詩とネットの詩に質的な差がそんなにあるわけじゃないという当たり前の認識が(ネット界にすら)浸透していなかったころ、「あえて」ネット詩人を名乗ることには多少なりとも意味があったと思うんです。いまネット詩人と名乗ってどんな意味があるかというと、たぶん、ネットの世界では意味があんまりなくて、むしろ、紙の世界の方でネット詩人と名乗ってこそ意味がある。なぜって、山田せばすちゃん氏が書いているごとく、紙の世界にはまだ古い考えを抱いてらっしゃる方がいるわけです。そうした古い方々なんてほっぽっといてどんどん新しい方向に進んだっていいのですが(とゆーか、進んだ方が面白いに決まってる)、私としては古い方々をほっぽっとくのがどうもいやだなあという気持が、いえ、正直にいや古い方々をつっつくほうが面白いに決まってるじゃんという不遜な気持が(笑)。
わかりにくかったらごめんなさいなのですが、私が「古い方向に行きたがる」のは、私が少数者でいたいひねくれもんだからです。ネット詩の問題でなく、私の問題っぽいです(笑)。
 

[44]渦巻二三五[08/27 10:09]
佐々さん
感想ありがとうございます。
「ネット詩」という言葉には懐かしさを感じてしまうけれど、でも、「ネット詩人」を自称するのが古いのかというと、そうとも思えなくて、なんとも奇妙なねじくれた感じがしますね。うーん。佐々さんが「古い方向に行きたがる」というのと、それでネット詩人を自称なさる、というのがどうつながっているのかよくわからない、ってことなんですが。
 

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