連座 萬草庵 参軒目(244) ながしそうめん10軒目(111) サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(254) Youtube配信スレ(301) 全自動一行物語シアター(755) 谷川俊太郎さんの好きな詩について教えてください(6) 雑談スレッド7軒目(625) ことことひとこと。その2。(886) システム関連スレ3(768) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(94) 題名だけのスレ12(749) 恋文(699) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示] 参照先不明 参照先不明 みなさんの投稿をよんで、おおきく三種類あるなとおもいました。 詩でなくちゃならないひとと、詩でなくてもいいひとと、 たまたま詩であったひと、です。わたしは最後のタイプですが、 文章をかくいがいのことはあまり得意でなかったので文章をかいています。 小説でも評論でもよかったのですが、詩をかくのがいちばん巧くいったので、 詩をかきます。 (演奏と作曲はできないじゃないけどヘタ、絵や造形はおはなしにならない稚拙さ) なんで詩なのでしょう? 暇つぶしならゲームやパズルをやってもいい。 自己確立のためなら仕事でも勉強でも子育てでもできるはず。 自己顕示欲を満たすためなら演劇やカラオケでもいい。 文章をかくにしても、詩みたいな人気のないものよりエッセイを書いたほうがいい。 なのになぜ詩をかくのですか。 by 佐々宝砂 頭の中にあるコンプレックス(複合体という意味での)を他人に伝えようとする場合、私たちは「直結」されていませんので、 なんらかの「翻案」あるいは「ユニバーサル・ランゲージ」「暗黙の了解」が前提/最大公約数として必須なわけです。 つまり、どうしたって譲歩しなければならないわけです。 目の前で歌って聴かせるのではなく、CDで聴いてもらう、などの方法を採る、ということですね。 その方法として何を採用するか、という問題でしょ。 それを「文字」「言葉」で表現するというのは、精確なようでいて、とてもアンビバレントです。 だって、自分の思う「赤」と、他人の思う「赤」は、 同じであるはずがないのですから。 では何故詩人は言葉を選んだのか? 手っ取り早いから? 楽だから? いいえ。逆だと思います。 言葉は、メディアとしてはホントは落第生なのです。 でも、詩人などのアーティストは、抑制された範囲で、どれだけ力が発揮できるか、を知りたくてたまらんのです。 というか、ある枷、限定された手段だけを利用して何かを達成したいという、マゾ的な(サド的なのかな?)欲望保持者なんだと考えます。 あえて不自由な媒体を選んだのが詩人さんだと思います。 「手っ取り早いから」と「詩」の形態を採用した人は、まだまだ先は長いです、きっと。 by クリ あー、出会ってしまった というのが正直な所ですね。 あと、小説も、戯曲も書いてみましたけど、お話にならなかったし、音楽も、美術も人並みにさえ出来なかったんですね。で、詩だけが残ったわけです、俺の場合。 で、じゃあ詩は簡単かつーとそんなことはなくて、たぶん、リクさんの仰ったことに尽きるとおもいます。 ではなぜひつっこく書き続けているかといいますと、やはり言葉にどうしようもなく惹かれるからなんですね。救われたい とか 稼ぎたい とか モテタイ とかそゆーんじゃないんですね。 救われたい という時期もあったのは確かだけど、もうそんな時期はとっくに過ぎてしまったんです。それでも、書かなければ とおもっているのは ほとんど習慣なのかもしれません。常に書かなければ とおもっている 中毒みたいなもんかもしれません。 蛇足ですが・・・ 詩を表現の手段として、手っ取り早くて簡単で、効率がいいとおもっている人はそりゃあ多分勘違いですよ。 経験的にそうおもいます。 by 窪ワタル あ、こりゃ失礼 クリさんゴメンナサイ。 by 窪ワタル 何度かこちらのスレッドは目を通させてもらっていて 星もいくつか付けさせて貰っているのですが、 なんで俺が詩を書いているのか。 正直、よくわかりません。 理由が特に見当たらないし、使命感も義務感も優越感もないです。 なんでだろ。こういう書き込みはありでしょうか。 by 半知半能 問題提起ばっかしてて申し訳ない、のですが、えと。 小説はムービーだと北村さんは言うけれども、そして確かに大部分の小説はムービーなのだけれども、小説の中にはとんでもないものもあります。小説というものは非常にさまざまな形式を許してきた芸術です。手紙形式、カルテ形式、裁判記録の形式、アンケート形式、座談会形式などなどいろいろあります。ものすごく古くはいわゆるゴシック小説というものがありまして、これは物語を語ってはいるのですが断片からなりたっています。もう少し新しくなりまして日本のかんべむさしの「集中講義」「会議ひきのばし」、連想連想で言葉を連ねたストーリーのない奇妙な形式の小説です。最近でも(っていうほど最近でもないけど)津原泰水、牧野修の作品のような「これが小説なら詩はどーすりゃいいんだ!」と叫びたくなるようなシロモノもあります。単純に表記の面からみて、行分け・句読点なしという普通の行分け詩の体裁をとった小説もあります。とりわけJ・G・バラードが提唱し日本では筒井康隆が試していたコンデンス・ノベルという形態の小説、あーいうものは非常にデジタルで詩的な跳躍をするので、詩よりも詩的なくらいです。 したがって私には、小説と詩の見分けがつきません。なので私は、作者か批評屋が「これは詩だ」とか「これは小説だ」とか言うのをそのまま信じます。 私がみなさんに訊ねたいと思うのは、なぜ詩なのかってことでもあるんだけど、「なぜ自分の書くものが詩だと思うのか」ってことなのかもしれないです。もしも自分の書くものが詩ではないと思うなら、詩でなくってもいいやと思っているなら、「なぜ現代詩フォーラムという詩のサイトに投稿しているのか」ということも訊きたいなあと思います。 勘違いしてほしくないんだけど、なんていうのかな、詩じゃなくてもいいやと思いながら詩を書いてる人を糾弾するつもりはぜんぜんないです。むしろものすごく気軽に詩を書いてほしいなと思っています。詩というジャンルそのものはそんなに高級なものでもないと思っています。っていうかジャンルそのものに貴賤はないですわ。 なので、>>53みたいな書き込みに賛同する私なのでした。 by 佐々宝砂 ★はじめに ちょっと話の流れからは遅れますが。 モリマサ公さんが最初に、哲学を語った後で自分の事を語られたのが、私に はここでの象徴的な出来事に感じられました。 動機と哲学との乖離は、イメージが言葉を借りて表出され、詩が作者を蹴っ て世界に転生する時、すでに始まっている。哲学の先行が、詩に対する不誠実 さのごとく作者に直感された事に、私には詩の侮れなさ怖さの一面を見る思い がしました。 また同時に、そうした詩や世界への誠実さに殉じうる人の、すぐれた感受性 にも目を見張ります。…そういう人にしか、到達できない場所がある。 自分の論理や哲学に囚われて、表現のうちがわへ落ちてしまう詩の何と多い ことか。只の変換テーブルでは詩は作れないという事が分からずにいる人たち。 彼らは真実に迫る事なく言葉で言い訳めいた意識の壁をこしらえているだけで、 自分たちが詩の歴史を汚しているという認識すら無いに違いない、と私は肩を すくめます。 ★私のきっかけ 踏み絵を済ませておきましょう。 私じしん、決して美しい理由で詩を書き始めたのではなかった。実は大学に 入って東京に出てきた頃、イジメに遭ったのね。強くないと護れないものがあ るって事が、当時の自分には分かっていなくて。 それで何とか自分を建て直したいと思って、19になった正月から、ジョギン グなんかと同時に「週2編、詩を書く」という目標を突然立てて詩を書き始め た。日記では無かったけれど全くの我流。学校で教わった西脇順三郎と、D− day の暗号で知ったベルレーヌを掘口大学の訳で読んで。ベルレ−ヌ詩集から 恋仲だったランボーの事を知って、それも読んだ。でも勉強はそれっきりで半 年ぐらいは全く我流。結構恥ずかしい自己憐憫の詩も多かった。 で半年経って、こういう事をするからには専門雑誌も1冊ぐらいは読もうと、 厚木の有隣堂で現代詩手帖を買った。そこに平出隆さんが『胡桃の戦意のため に』を連載していて、強い感銘を受け現代詩へ転向して…という顛末は、以前 からあちこちに書いてきました。 ★いま書いている理由 いまは、やっぱり「面白いから書いている」のだと思う。 と言うか書き始めた当初から、自分や他人の文章表現の特異さに魅入ってし まうようなところが私にはあった。ナルシシズムとかお宅とか言われればそう かもしれないですけど。 それとともに、作文を通して世界の手応えを感じる事が出来るようになった からだと思います。自分に、他者や世界と張りあっていく自信を与えてくれた ものは詩だったし、社会的な使命感も充足出来て、それが最終的には私自身の 運命をも変えてきた。 ここまで生き延びられたのは詩を書いてきたからで、書いていなければ自滅 の顎から私は逃れられなかっただろうし、妻や仲間たちと出会う事も無かった。 ★私たちはほんとうにこの質問に応えているのか 私も不誠実のそしりを受けたくは無いし、詩を始めた動機や環境は決してキ レイゴトでは無かったので、敢えて踏み絵に参加させて頂いた次第です。 ただ、こうした類いの「私は貴方と違って不幸だから」的な体験の特異さを 詩をする理由として際立たせてしまうと却って読者をスポイルしてしまう、と いう吉田文憲さんの意見を、一色真理さんから教わった事がありました。 カワグチタケシさんはある合評の席で「誰でも、言葉を通じて他者と感情や 体験を共有する事が出来る」と断言していました。余りにも明快な答えに私は 驚きましたが、ことばにするという事は本来そういう事で。共有する困難さを 認めるにしても「あなたには分からない」で逃げる事は、言葉しかない詩人に とって許されない事ではないのか、と思うのです。 詩のボクシングで、癌患者だという中年男性の出場者が、ある少女詩人に敗 れる場面を見た事があります。敗れた相手が彼女で幸いだったと私は思いまし たが、実はそうした残酷さを前提に、表現の世界というのは成り立っている。 作者の動機や目的などは、読者・詩の受け手にとってはあとの話。まず自分 が関心を持てて楽しめる、或いは無視できない詩に出会えることが先であって、 むしろ『なぜ詩を読むのか』のほうが大事だと私には思えるのです。 『なぜあなたは詩を書くのか?』この設問に、なぜみんな「反射的に」自分の 理由ばかり書こうとするのだろう。私はこのスレッドに業界人的な自分の意見 を書くのは、実は「間違い」じゃないのかなと思う。 例えば古今東西の様々な詩人や評論家が語る『なぜ詩を書くのか』だとか、 あるいは詩に馴染みの無い人があなたに問う『なぜ詩を書くのか』と、それを 解き開かそうとする詩人の答えのほうをむしろ読みたい。そう私は願う者です。 2006/01/19〜23 大村浩一 by 大村 浩一 直接関係ないし、どうでもいいことなんやけど、 どうも「○○さんらしくて好きです」という類の感想が ひっかかってしょうがない。 それはその詩がすきなんじゃなくてそのひとがすきなんじゃないのか? あ、別にそれでもいいのか。 詩人も芸能人だからな。 by れつら 今夜、ドアーズの動画みてておもったこと。 私、これまでいろんなとこでいろいろとあれ読んだーこれ読んだーって書いたけど、 確かに私、たくさんのもの(割合からすると詩は少ない)を読んだけれど、 だけど、だけど、私、私が詩を書き始めたのは、谷川俊太郎のせいでも、 長田弘のせいでも、新川和江のせいでも、寺山修司のせいでもない。 まして入沢康夫や吉増剛造や田村隆一のせいでもない。 よく考えてみたら親のせいでもない。親に教わったっていやなことは続けない。 ジム・モリソンがわるいのだ。あの気狂い男のせいで私は詩なんて業に捕らわれた。 私は私を癒そうとして詩を書き始めたんじゃない。 さみしかったからじゃない。しんどかったからじゃない。辛かったからじゃない。 失恋したからじゃない。だけど、偉そうな理由さえ、ひとつもない。 ただ惚れたからだ。ほかに理由あるか。 私は好きなひとのようになりたかったのだ。 ううん過去形にするのは間違いだ。 私はあのひとのようになりたいのだ。無理だとしても。否、無理を承知で。 今夜、彼の"Texas Radio"を聴いておもった。あれは音楽に乗せてるけど、 歌じゃない。あれは詩の朗読だ。私はああいうものがやりたかった。 (なんで過去形にしてしまうんだろう、ほんとうは違うのに、違うのに) 私はああいうものがやりたいのだ、今も、わずかにでも、可能性があるのならば。 愛されるのはそもそも無理なのだし望んだこともない(相手はもう死んでる)。 好きなひとのようになりたいっていうのは、おかしいことだろうか? そんな理由で詩を書くのって、へんなのだろうか? by 佐々宝砂 理由をもうひとつ見つけたので書いておく。 願望充足のため。自分のためだけの天国を妄想だけでなくつくるため。 もっともそれは詩じゃなくてもいいと思われる。 むしろ詩じゃないほうがいいかもしれない、と最近思っている。 #感情吐露、独白、毒吐いてすっきり、オナニー詩というのとは違う。ねんのため。 #どっちかとゆーとオナニーのオカズを自分で作るのであるよ。 by 佐々宝砂 詩人だから。 by 大覚アキラ 個人的な無差別テロ計画のメモとして。 by れつら 私の病気は玉ネギ畑だから。 by 佐々宝砂 どうせ誰にでも書けるって知ってるから。 技量の違いはあれど、書けると思う。 けれどみんな書かないから。 敢えてをやりたいひねくれ者ですよんw by 雨流れ。 とりあえず現フォにきてる人は詩か詩に関するものを書くか読むかしてるんで、 「みんな」じゃないと思うんだよなあ。 by 佐々宝砂 ボケ防止 by 花形新次 未来への参照 未来への参照
ただ純粋に書きたいから? 書かずにはいられないからですか? それほど言葉があふれてくるのですか? 趣味で書いているのでしょうか? 書くことでは救われないと思います。 詩を書くことで、こうしたい、とか明確なビジョンをお持ちの方もいらっしゃるのでしょうか? 詩を書くことは楽しいことですか? ものすごく幸せな生活から、詩は生まれて来ない様に思うのは私だけですか? そんなこと考えもせず、詩を書いているのでしょうか? あなたの詩論、詩人論、ぜひ聞かせてくださいね。 >110 ごめんなさい(といきなり謝る それって、詩をバカにしているような気がするんですけど。 詩は小説より簡単、と言ってるみたいな。 小説がまだ書けないから、原型を詩の形でぶつけている。それだけです。 これしかないから。 もちろん「言葉」が重畳的に延べ広がった「世界」の眺望のなかで もっとも間近な前景にあるのは「私自身」でしょう しかし言葉は私が動かすのでしょうか それとも私の中でというか私を中継して言葉が動くのでしょうか 「私自身」もすでに「世界=風景」のなかに描き込まれてしまっているのですから 私は書く、とは言えても 私が書いたとは言えないのではないでしょうか それは、ある「自画像」におけると同様 〈私は書く〉を書いたということになるのではないでしょうか 言葉が溢れているのは「書く主体の側」ではなくて「世界」の側ではなかろうか モノも感情も人も「名前」があり「属性(辞書的な意味での)」がある それら言葉に埋め尽くされ構成された「世界」に 主体は後からやってきたものとして わずかに配置を譲ってもらうことで参入する その緊密さに対する異議申し立てとまでは言えなくても 息苦しさに対する「息継ぎ」みたいなものでしょうか ※「息継ぎの音階」というかぜきりさんの美しい詩のことを覚えておいででしょうか >>98 「○○さんらしくて好きです」って別にいいんじゃない?と個人的には思いますよ。 芸能人、とかじゃなくて絵画や映画の世界でもそれはあるんじゃないかしら。 ただ、問題なのは、それを受け取る方だと思うのですね。 正確には覚えてないけど、先日ジュテーム北村さんが「今後の課題は如何にジュテーム 北村を壊していくかだ」みたいなことを言ってました(そのような主旨)。 「○○さんらしくて好きです」って言うのはもの凄く恐い言葉だと思いますよ。 その言葉の恐さを知って発言して欲しい気もします。 少なくともフォーラムに登録している人は自分でも書いている人たちなのだから。 そして、その言葉を受け取る方も、それに甘えてのんべんだらりんと続けるのではなく 、自分を変えていくにしろ、頑なにスタイルを守るにしろ、そのような言葉に惑わされ ることなく、軸をきちんともつべきかもしれません。 あっ、余計なフォローかもしれないけれど、楽しみとして詩を書くなら「のんびり書く」っていう姿勢もありですよね。 空いている時間に、趣味として言葉を紡いでみる。 余暇の過ごし方として悪いことじゃないし、その姿勢は否定されるべきではない、とか。 少し話が乱雑になりましたが。 やっぱり、お金がかからないのがいい。重要。出先でも気分が乗ればこっそり書けるしね。 直接関係ないし、どうでもいいことなんやけど、 どうも「○○さんらしくて好きです」という類の感想が ひっかかってしょうがない。 それはその詩がすきなんじゃなくてそのひとがすきなんじゃないのか? あ、別にそれでもいいのか。 詩人も芸能人だからな。 自己表現欲がどこから出てくるのかは分からないのですが、 経済的な理由その他で失われていく景色を残したいという欲求を、絵が描けないので写真にすがった。 音は写真では残せないので、レコーダーにすがった。 しかし自分の気持ちを誤解無く直接的に伝えるには、ことばが便利だなと思った。 電話をかける。用件は通じたが、思いは十分伝えられなくて、言い足らない。 言い足らない言葉を日記に書こうとすると、詩の形になった。 それが書き出したきっかけだけど、現在書いている理由は分からない。 書きたくなると書くという状態が続いてる。 文学にも詩にも縁遠い親友たちに見せても恥ずかしくないもの、を書こうとしてきました。 その目標は今もかなりうまくいっています。 そして、文学にも詩にも興味のない親友たちをすら、引きつけてしまうものを書こうとしてきました。 幸運なことに、それも割とうまくいっています。 まず読者ありきの、狭くて広い目標めがけて書いている感じ。 目下のライバルは少年マンガかな。 何を語りたいかって人によって違う。おしゃべりな私が喋るのはたいていかなりどーでもいいこと。なめくじの聴覚とか、蝶の退化した脚とか。今日の月は赤いね、赤く見える理由はね、とか。 私、言ってもしかたない不満でもわりと相手に言ってしまう。文句は面と向かって言いたい。そういうの、私は詩にしない。文句を言うべきでない相手に言いたいときは、そだね、私は空を見るよ。 きれいごとに聞こえるかもだけど。私が語りたくて語れなくて詩に書きたいのは、なんていったらいいのかわからないままでいる、遠い遠いところにあるなにかのこと。 最近ときどき思うのは、 詩人というのは詩を産む人なのではないかというあたりまえの事実。 そしてそれは女性が子供を産むのとおなじように、 男性のかわりに世界とまじわった結果、ごく一部の幸福な出会いの結果 産めるものなのではないか。などという精神論。 そこに至ってなければ詩人というよりは詩作家なのでしょう。 と、今から思うことにします。 なお、現在自分は詩作家ときどき詩人って感じです。 基本的には演出家なんですけど。笑。 私はめっちゃくちゃおしゃべりです(本題に激しく無関係なのでsage 大人になると、子供の時のように、わーわー泣きたくても泣けない・・・。 だから、詩を書いているのかな。 私は、詩を書きたいとは思いません。詩を書く時間があれば、もっともっとやりたいことがいっぱいあるし、夜は眠りたい・・・。 詩を書くのは、私が正常でいるための手段なのかもしれません。 自分の感情を、正常に保つため、詩を書いているのかもしれません。 クレージーな部分が、体の中にあるんでしょうね? 詩を書くことで、言葉にすると安心するというか、気持ちが浄化された様な、エクスタシーを感じます。 皆さん、どちらかと言えば、無口な方ですか? 言葉を選びすぎて、日常生活、何も喋れなくなったりしませんか? 異様に疲れるとなぜか俳句と短歌を書きたくなると判明しました。 理由はよくわかりません。わかんないけど書きたいのです。 なぜ書きたいかが問題のような気がしてきました。 考え中なのでsage 最近なんで書いてんのかわかんなくなってきました。 sage http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=65356 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=67599 そんなたいそうなことはいえないけど、ゆっくりかいてみてます。 まあ、ご参考になれば。 ここあです。 私は中学一年の頃に友達と音楽活動みたいのやろうよっていうのが きっかけで詩を書くようになりました。 だからもとは歌詞みたいな感じでしたね。今は全く違いますが。 8年ほど書いてますが、だんだん作風が変わってきて今みたいなものになりました。 お話とか考えたりするのが好きで、そういう作品が多いです。 あとは、日記みたいな感覚で書いたり。 もともと、自分で創作することが好きだったんですよ。 お話書いたり、一人芝居考えたり。 将来歌の方をやっていきたいので、いつか歌詞も書けるようになりたいです。 がんばるぞ! 最近あがってこなくてさみしいです 第七弦様、書き込みありがとうございます。 私は、読んで下さるだけの方でもいい、と思っています。 読むだけでも意義のある内容だと思いますし、読んで下さるだけで、充分詩論に参加して下さっている、と思います。 そんなことはどうでもいいと思って、ひたすら書いている方は、このページは見もしないでしょうから。詩について、考えたい人がのぞいていたただければ、それでいいのです。 勿論、誰かが発言して下さることによって、成り立って行くのですが・・・。 またお越しくださいませ。 >>64の大村さんの話を読んでいて(大変面白かったです、特に最後の方)、ふと思った。 「あなたはなぜ詩を書くのか」そう問われて、いろいろ頭をひねる。きちんと答えるには「詩とは何か」という定義も必要になるのでますますヤッカイになる。 だが、ふと、本当にふと思った。 “あなたはなぜ詩を書かないのか?” なぜ自分で造ることをしないのか? 自由になりたくないのか? 造物主になりたくないのか? 決して犯されることの無い全き自分の世界にありたくないのか。 人と生まれてきて、幸せになりたく無いのか? 人と生まれてきて人と生まれてきた甲斐を 味わいたくないのか? 空を とびたくないか? ================ 無論答えになっていない。他人に通用するような代物ではない。単に自分に通用する感覚と言葉を並べただけだ。 だが、「あなたはなぜ詩を書かないのか?」という問いを逆に外に向かって発し得たその時、 俺の顔は一瞬だが燃えるようにあかく、あかくあかく真っ赤な喜びにギラギラと光ったろう。 久々にパソコンを開いたら、皆様の詩論が白熱していて、感激です! ものすごく重大なテーマすぎて、この先スレオペ務まるか心配だわ・・・。 で、陰のスレオペ?ささ様(いつもご意見ありがとうございます。)のおっしゃる様に、 「何故この現代詩フォラームに投稿しているのか?」、パソコンに詩を書くことで、皆様の詩的魂は、納得出来るものなのでしょうか?(なんて恐ろしい問題提議?!) 私は、小説は「拡大」で、詩は「凝縮」だと考えています! そう、伝えたいことはイコールなのです。言葉というのは、恐ろしいものです。言葉にしなければ、何も無いことが、言葉にすることで、世界が産まれる。このスレッドもまた然りですよね? 私は、考えることが好きです。考えて生きている人が好きです。 言葉を大事にしている人が好きです。そして、言葉の恐ろしさを知りながらも、言葉を探し続けたい。だから、詩を書いてきたのかもしれません。そのことが正しいことなのかは解りません。同じ様に、詩を書いている皆様が、そんなことを考えながら、書いていらっしゃるのか?、それとも表現したいという気持ちの方が強いのか?、書き続けることに迷いはないのか?、それがテーマです! これは、私個人への返答ではなく、ご自分自身と皆様への返答だと思って、ご意見お寄せ下さい。ただテーマがあまりに究極なので、否定的な意見より、建設的で明るく?語りあいましょうね。(はあ〜疲れた〜) 私は岡崎さんと逆で、何度この問いに答えても答えた気になりません。また私は他の人の詩論によって自分を変えたいと思うたちです。私はテツガクとリンリが非常に苦手です。ただ法律をはじめとするルールは守ります。その方が世の中うまくいくように思うからです。私はかように皮相な人間で、語義通りの意味でstylistでありたいと願っています。 私は、日本語の詩型の中でもっともルールが厳しい詩型「俳句」をこよなく愛しています。何度か書いたように、私が詩を書く理由は、単なる習慣でないとしたら正直わかりません。でも私が俳句をつくる理由なら書けます。俳句が詩の中ではおそらく最も短く、最もルールが明確であり、しかもルールからの逸脱を許すふところの広さを持つから、私は俳句をかくんです。私にとって自分に寄り添う感じがするのは俳句よりもソネット、ソネットよりも自由詩、自由詩よりもエッセイですが、私は普通の自由詩を書いてるとラクしてるような気がしてしまいます。自由詩が俳句よりラクなんてことはないのですが・・・ああ、でもエッセイはもしかしたら、ラクかも・・・いやそんなことないか・・・わからないや・・・ 要するにわからないので、何度答えても答えた気にならんのかもしれません。 ★はじめに ちょっと話の流れからは遅れますが。 モリマサ公さんが最初に、哲学を語った後で自分の事を語られたのが、私に はここでの象徴的な出来事に感じられました。 動機と哲学との乖離は、イメージが言葉を借りて表出され、詩が作者を蹴っ て世界に転生する時、すでに始まっている。哲学の先行が、詩に対する不誠実 さのごとく作者に直感された事に、私には詩の侮れなさ怖さの一面を見る思い がしました。 また同時に、そうした詩や世界への誠実さに殉じうる人の、すぐれた感受性 にも目を見張ります。…そういう人にしか、到達できない場所がある。 自分の論理や哲学に囚われて、表現のうちがわへ落ちてしまう詩の何と多い ことか。只の変換テーブルでは詩は作れないという事が分からずにいる人たち。 彼らは真実に迫る事なく言葉で言い訳めいた意識の壁をこしらえているだけで、 自分たちが詩の歴史を汚しているという認識すら無いに違いない、と私は肩を すくめます。 ★私のきっかけ 踏み絵を済ませておきましょう。 私じしん、決して美しい理由で詩を書き始めたのではなかった。実は大学に 入って東京に出てきた頃、イジメに遭ったのね。強くないと護れないものがあ るって事が、当時の自分には分かっていなくて。 それで何とか自分を建て直したいと思って、19になった正月から、ジョギン グなんかと同時に「週2編、詩を書く」という目標を突然立てて詩を書き始め た。日記では無かったけれど全くの我流。学校で教わった西脇順三郎と、D− day の暗号で知ったベルレーヌを掘口大学の訳で読んで。ベルレ−ヌ詩集から 恋仲だったランボーの事を知って、それも読んだ。でも勉強はそれっきりで半 年ぐらいは全く我流。結構恥ずかしい自己憐憫の詩も多かった。 で半年経って、こういう事をするからには専門雑誌も1冊ぐらいは読もうと、 厚木の有隣堂で現代詩手帖を買った。そこに平出隆さんが『胡桃の戦意のため に』を連載していて、強い感銘を受け現代詩へ転向して…という顛末は、以前 からあちこちに書いてきました。 ★いま書いている理由 いまは、やっぱり「面白いから書いている」のだと思う。 と言うか書き始めた当初から、自分や他人の文章表現の特異さに魅入ってし まうようなところが私にはあった。ナルシシズムとかお宅とか言われればそう かもしれないですけど。 それとともに、作文を通して世界の手応えを感じる事が出来るようになった からだと思います。自分に、他者や世界と張りあっていく自信を与えてくれた ものは詩だったし、社会的な使命感も充足出来て、それが最終的には私自身の 運命をも変えてきた。 ここまで生き延びられたのは詩を書いてきたからで、書いていなければ自滅 の顎から私は逃れられなかっただろうし、妻や仲間たちと出会う事も無かった。 ★私たちはほんとうにこの質問に応えているのか 私も不誠実のそしりを受けたくは無いし、詩を始めた動機や環境は決してキ レイゴトでは無かったので、敢えて踏み絵に参加させて頂いた次第です。 ただ、こうした類いの「私は貴方と違って不幸だから」的な体験の特異さを 詩をする理由として際立たせてしまうと却って読者をスポイルしてしまう、と いう吉田文憲さんの意見を、一色真理さんから教わった事がありました。 カワグチタケシさんはある合評の席で「誰でも、言葉を通じて他者と感情や 体験を共有する事が出来る」と断言していました。余りにも明快な答えに私は 驚きましたが、ことばにするという事は本来そういう事で。共有する困難さを 認めるにしても「あなたには分からない」で逃げる事は、言葉しかない詩人に とって許されない事ではないのか、と思うのです。 詩のボクシングで、癌患者だという中年男性の出場者が、ある少女詩人に敗 れる場面を見た事があります。敗れた相手が彼女で幸いだったと私は思いまし たが、実はそうした残酷さを前提に、表現の世界というのは成り立っている。 作者の動機や目的などは、読者・詩の受け手にとってはあとの話。まず自分 が関心を持てて楽しめる、或いは無視できない詩に出会えることが先であって、 むしろ『なぜ詩を読むのか』のほうが大事だと私には思えるのです。 『なぜあなたは詩を書くのか?』この設問に、なぜみんな「反射的に」自分の 理由ばかり書こうとするのだろう。私はこのスレッドに業界人的な自分の意見 を書くのは、実は「間違い」じゃないのかなと思う。 例えば古今東西の様々な詩人や評論家が語る『なぜ詩を書くのか』だとか、 あるいは詩に馴染みの無い人があなたに問う『なぜ詩を書くのか』と、それを 解き開かそうとする詩人の答えのほうをむしろ読みたい。そう私は願う者です。 2006/01/19〜23 大村浩一 あをの過程くんが云うことはもっともだとおもう。 俺が書いたことと矛盾するようだけど、納得できる。 俺が小説より詩の方が自由だとおもうのは、単にまともな小説が書けなかったからだけなんかも知れんし、小説も、多分そんなに多岐に渡って読んだわけでもないから、俺の小説観を打ち破る作品に出会うこともあるかもしれない。 だからって小説を書こうとはおもわないとおもうし、多分書かない、いや、書けないな。 両方やれる人って凄いと思うね。俺はやれる気がしないからやんないけど。 小説を書こうとしていたころ、ちょうど、二度と詩は書かないとおもっていて、今思えば、何か書きたくて、小説に目が行ったんだった。小説を書こうとしたことが、自分の詩をいい意味で変えてくれたとおもっている。当時、詩を書くよりもはるかに小説の方が難しいと感じたし、窮屈におもえた。そのことが詩に舞い戻った直接の原因ではないけれど、俺にとっては、詩の方が自然だったんだとおもう。もっと、色んな小説とであったら、考えが変るかもしれないけど、今は、詩がいい。 ずっと崖のようなものを登っている感じで生きているため、自分を上やら前(らしき方向)に進めるためには、やむを得ず言葉で崖にくさびを打って、それを手がかりに力を入れて自分をささえる、みたいな感じで、自分では「詩のようなもの」であるらしいあれこれを、ここ、に預け続けている。 >>54 「なぜ自分の書くものが詩だと思うのか」 結構短いし、レトリック(おおげさ)な行変えもあるので。イメージ的にはやはり詩なのか、みたいな。 あと「なぜ現ホに投稿するのか」 スレオペさんのおっしゃる「ものすごく幸せな生活から詩は生まれないように思う」というのとも重なりました。 インターネットをはじめたのは最近です。仕事以外にやったことがなかったです。 2003年から朗読のための詩作をやっていたのが子育てで生活が安定し外界との接触が少なくなり、あまり詩がかけなくなって、 そこで思いきって投稿をはじめました。そうすればかけるかも。みたいなかんじです。 あと話はかわりますが スレオペさんのいうには「書くことでは救われない」とあります。 救われないのは何だろうかということとか、反対に詩を書いて救えるものについても考えました。 なんといったらいいか、詩に動かされることってときどきあります。 必要なときとそうでないときと、それらのひびきかたによって現状を判断したりします。 追記:詩は、その字の通り、心の中に留まっている、言葉にしたいけど、言葉になり難いモノを言葉にしようとする行為の結果なんだ とおもう。まあ、受け売りなんだけどね。 でもそうおもう。 佐々宝砂さんの提起は非常に難しい問いです。 自由詩というジャンルの無規律性から来る問題なんだろうけど、それは「自由」だからそうなるわけで、この「自由」は、詩にとって、それこそ根幹とも云うべき大事な要素だと俺はおもうので、基本的に作者が詩だといえば詩だとしか言いようがないでしょうね。 俺は、小説を書いているつもりはまったくないわけです。すくなくとも、俺が読んできた小説と、詩は違ったもんだし、俺は小説に影響を受けるよりは、より多く詩に影響を受けている。もちろん、俺が小説だとおもっているものから影響をうけたり、その手法を使って詩を書くこともある。現に、ある詩人から「ロボさんの詩は、小説に近い。」と言われて納得した覚えがある。 散文というのは、かなりいい加減なもので、それが詩であるか、あるいは短編小説であるか、私小説や随筆であるかということを明確に定義することは難しい。ただ、多くの場合、小説は、イメージより、映像(ムービー)によって構成されているとはおもう。詩は、イメージなのだ。辻褄があうことよりは、イメージを押し広げることによって、世界を構成している。その意味では、詩の方が、小説よりはるかに自由度が高いのではないかとおもう。ストーリーである必要はないわけだ。ただ、小説よりは、音の雰囲気だとか、リズムを大事にするし、言葉の本来の意味の世界から、イメージを引き出す(押し広げる)ことに主眼があるようにおもう。 で、なんで詩を書くかだけれども、小説より自由だからだとおもう。俺は、小説も書こうとしていてどうしても書けなくて詩に戻ったんで、単に詩しか書けないからってこともあるけど、俺の感触では、小説よりも戯曲が、戯曲よりも詩の方が自由で、手軽に書ける。この手軽さは、そのまま簡単さとか、安易さに結びつくものではないことには注意が必要だが、詩の中で、言葉を通じて新たな視点、世界のカタチを発見する、あるいはたどり着くと、達成感がある。誰も足を踏み入れていない新雪を踏み汚すような、罪悪感や羞恥心に似た喜びがある。それが、そこにたどり着くまでの恐怖感や、孤独感に勝るとおもっているうちは書くだろうな 小説家もそんな風におもうのかもしれないんだけれど、俺は詩を書いてるから、小説家の心理は分からないし、わからなくていい。こういうと身も蓋もないけれど、究極的には、俺が詩だっていえば詩なんだとしか言えないな、それでいいとおもっている。 自分が書いた詩を読み返して見ました。 なぜ書くのか?ときかれると、 書かずにはいられなかった、と、こたえます。 そのときの気持ち、いつかはわすれてしまうだろうことたち、 行き場をなくした、わたしのカケラたち。 書かなくてもこまらないのに、何故書くのか、と言われれば、 わたしには「書く」という「方法」があって、 たまたまそれを「選んで」、気持ちをはきだした、のです。 つたない答えですが、いまのわたしの解答です。 問題提起ばっかしてて申し訳ない、のですが、えと。 小説はムービーだと北村さんは言うけれども、そして確かに大部分の小説はムービーなのだけれども、小説の中にはとんでもないものもあります。小説というものは非常にさまざまな形式を許してきた芸術です。手紙形式、カルテ形式、裁判記録の形式、アンケート形式、座談会形式などなどいろいろあります。ものすごく古くはいわゆるゴシック小説というものがありまして、これは物語を語ってはいるのですが断片からなりたっています。もう少し新しくなりまして日本のかんべむさしの「集中講義」「会議ひきのばし」、連想連想で言葉を連ねたストーリーのない奇妙な形式の小説です。最近でも(っていうほど最近でもないけど)津原泰水、牧野修の作品のような「これが小説なら詩はどーすりゃいいんだ!」と叫びたくなるようなシロモノもあります。単純に表記の面からみて、行分け・句読点なしという普通の行分け詩の体裁をとった小説もあります。とりわけJ・G・バラードが提唱し日本では筒井康隆が試していたコンデンス・ノベルという形態の小説、あーいうものは非常にデジタルで詩的な跳躍をするので、詩よりも詩的なくらいです。 したがって私には、小説と詩の見分けがつきません。なので私は、作者か批評屋が「これは詩だ」とか「これは小説だ」とか言うのをそのまま信じます。 私がみなさんに訊ねたいと思うのは、なぜ詩なのかってことでもあるんだけど、「なぜ自分の書くものが詩だと思うのか」ってことなのかもしれないです。もしも自分の書くものが詩ではないと思うなら、詩でなくってもいいやと思っているなら、「なぜ現代詩フォーラムという詩のサイトに投稿しているのか」ということも訊きたいなあと思います。 勘違いしてほしくないんだけど、なんていうのかな、詩じゃなくてもいいやと思いながら詩を書いてる人を糾弾するつもりはぜんぜんないです。むしろものすごく気軽に詩を書いてほしいなと思っています。詩というジャンルそのものはそんなに高級なものでもないと思っています。っていうかジャンルそのものに貴賤はないですわ。 なので、>>53みたいな書き込みに賛同する私なのでした。 何度かこちらのスレッドは目を通させてもらっていて 星もいくつか付けさせて貰っているのですが、 なんで俺が詩を書いているのか。 正直、よくわかりません。 理由が特に見当たらないし、使命感も義務感も優越感もないです。 なんでだろ。こういう書き込みはありでしょうか。 一呼吸で呟ける言葉の列 情景と見解 一行ずつの言葉の速度が 私の思考 感覚を追い越していかない ように感じる 詩とは どういうものかは別にして たとえば 叫びながら走るような感情であっても 息の詰まらない言葉 文の形態を好み 要点に線を引かないと見失うような あるいは一般に使われない学問的表現の過多は 敬遠 読書にも右脳と左脳 関係する気がするが その橋を渡る訓練と 橋の幅を広げる気合がないとだめだな 私 詩は 息切れしないでも 共に歩ける気がする >34 前に別サイトで書いたことなんですが、触発されたんで書き込みます。(笑) 私流の解釈では詩は不連続、小説や随筆は連続です。 のっけから変なことをのたまいましたが、小説等が心に浮かんだものをムービー撮影したもの、詩はそれらを一枚一枚写真に撮ってストーリーとして並べたもの、と思ってます。 ストーリーを完全なものとして伝えるなら前者が楽ですし、確実です。 しかし、それは読み手の再生産の作業の方向を制限してしまいます。実際にはそれでも色々な方向性があるのですが。 一方、詩は穴だらけです。行と行との間、あるいは組み合わせが不思議な言葉と言葉の間等、説明不十分な故に読者が描く像の方向性がより一層分散する可能性が高くなります。 私は合唱と、演劇を通してそれを感じました。合唱には当然スコアがありますが、スコアが全ての指示を出せているわけではありません。 指揮者の指示も更に再生産しなければなりません。 まず、歌う者がストーリーを組み立てなくてはいけません。そしてその作業が合唱の第一の面白さであったりします。 この可能性の広さにしびれました。 本来、言葉とはその存在そのものが不連続です。デジタルです。 心というアナログ、連続を完全に再現できるわけありません。そこに穴が存在するのは当たり前。 その穴をできる限り埋めようとする文章を埋める、あるいは超越するものを書くか、それとも穴を使って描いてみるか?私が選んだのは後者のつもりです。 そして生み出してみたものから、どんな再生産がされるんだろう?という妄想があったりします。 といっても理想からはかなり突きはなされていますが。 だからやっぱり詩を描きたいです。誰かに伝えたい、ではなく創らせたい詩を描きたいです。 1 2 3 4 5 6 7 8 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