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詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α (創作系)スレッドオペレーター:中川達矢
情報のタネローン

part1はこちら
http://po-m.com/forum/threadshow.php?did=217908


このスレッドのテーマは詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換です。

テーマ別レスマップ

下記アドレスの右側に番号を付ければレスを開くことが出来ます。
http://po-m.com/forum/thres.php?did=241016&did2=

<トピック1(詩に直結すること)>
普遍性(75 90)
詩情・抒情性(70 84)
記号・意味(の解体)(71 95)
イメージ・メタファ・象徴(67 71 75 81 83 95)
レトリック(65 71 73 81)
読者との関係性(65 71 73 81)
詩作・推敲(64 67 70 72 83 96 99)

<トピック2(フリートピック 巡りめぐって詩に?)>
恋愛(79 80 84 86-90 94 96 97 98 99 100)
ジェンダー(97 99 100)
同性愛(97 98)

<人名>
尾崎亜美(80)、小田和正(90)、西野カナ(94 96)、木下牧子(91)
入沢康夫(82)、宮沢賢治(82)、新川和江(86 88 89 91)、石垣りん(88 89)
白石かずこ(88 89)、茨木のり子(88 89)

<キーワード>
美意識(64 67)、作者と作品の関係性(65)、現代詩の閉鎖性(65)、多義性(67 71 72)
限定・無限定(67 71 73)、わかりやすさ(75)、慣用句(75)、発話者の視点(82)
二人称(84 90)、物語性(87)、ラ・メール(88)、寓意(92)
デノテーション(95)、コノテーション(95)、マナ識(95)、アラヤ識(95)
『真夜中の野次さん喜多さん』(しりあがり寿)(98)
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)(100)
ジェンダークィア(99)

<書籍>
『レトリック感覚』佐藤信夫著 講談社学術文庫(81)
『詩のこころを読む』茨木のり子著 岩波ジュニア新書(89)
『言葉・狂気・エロス』丸山圭三郎著 講談社学術文庫(95)

<過去のレスマップ>
1番から61番まで(62)
63番から100番まで(101)

[82]……とある蛙[2011 11/28 13:17]
隠喩の問題は重要な問題だと思います。かのっぴさんに議論の展開を期待します。

ところで、詩作品と視点という問題はどうでしょうか。この問題も面白いと思いますが。

詩について発話者という視点及び概念を導入して、その構造を説明することが多い(入沢康夫など)。実際には視点が変化する場合が多々あり、、その点散文とは基本的に異なる部分がある、散文は語の意味を限定して作者が意図する作品世界を構築する。もちろん視点があり、その変化することはあるが、明確に視点の変化が場面の変化のようになされていて混乱はしない。
詩に関しては次の通り多様な変化がある。
?微妙に視点をずらす。
?主観と客観を入れ替える。
?客観の裏側から眺める世界という視点を設定する。
?主観的な視点ではあるがいろいろな視点を設定する。
?記号あるいは単純化した世界の視点
?客観的視点の中の物体などに入れ子式に主観的視点をいれる。

ex宮沢賢治など青森挽歌はリンゴの内側からの視点?
ほか

まぁ余裕があったらということで。
 

[81]深水遊脚[2011 11/28 11:03]
 前の話題で書きそびれているかな、と感じることを書いておきます。

 散文に書く、という約束をいつも守れない私なのであまりこれを言いたくないのですが、隠喩のことは一度きちんとした散文にまとめたほうが良いので、取り組んでみたいです。詩とは切っても切れないことなので、それについて書かれた書籍も莫大な量でしょう。私がいま読んでいるのは下記書籍です。

『レトリック感覚』 佐藤信夫著 講談社学術文庫

このフォーラムでも、広田修さんが書かれた散文がとても参考になります(「現代詩の記号論」1〜2、「隠喩と論理形式」など)。

 特に難解な詩でなくても隠喩は使われています。当たり前すぎて注目されないだけです。ここでの議論を振り返ると、隠喩の複雑さの度合いと、詩の良し悪しの問題が一定の関係(比例、あるいは反比例)として結び付けられてしまうような危うさを感じます。両者は全く別のものとして考えないと、詩を見る前、詩を書く前の先入観の部分を強化する方向にしかレトリック論は働きません。この意味でレトリック論には毒があります。先入観を抱く前に、その言葉を用いてしか言い表せないものが何なのかをまず探ることが、読むことであり、書くことでもあるのだと思うのです。

 読者の問題は興味深いのですが、「読者に届く詩を」との主張がヒステリックであればあるほど、「読者」と呼ばれる、年齢も性別も職業も住む場所も多種多様で、それぞれに日々の生活を営んでいる人たちに対して目配りができているのか不安になることが多いです。結局自分に都合の良い読者(自分の嫌いな詩を嫌い、自分の好きな詩を好む、ともに居て心地のよい人たち)を想定してしか「読者」という言葉を使えないなら、読者論は無意味です。他者をまきこまずに自分の詩論を自分の責任で堂々と述べれば良いのだと思います。
 

[80]深水遊脚[2011 11/26 23:03]
>>79 中川さん
 いや、気にする必要も無理する必要もないっす。週3は努力目標にしてもハードル高すぎますよっ。ここ最近の話題って、詩と絡める限りずっとつきまとう問題じゃないですか。たとえば恋文なんて比喩のオンパレードになるし、ニュースの発信主体のマスコミもニュースの対象になる政治や経済もレトリックで溢れかえっている。非詩と詩の境は本当に紙一重です。だから折に触れて中川さんの得意な話を語ってもらって全然かまわないと思います。それも好きなときに好きなペースで。じっくり煮つめたほうが美味になるトピックばかりなのですから。私も好きにやるので。たまたま今回、気まぐれで恋愛をぶち上げましたが、突然現れなくなるかもしれません。つい数日前まで書記(レスマップ係)に徹しようかなと思っていたくらいですから。

 んで恋愛。

 けっこう書いていたのですが、枯れてしまっているのは否めない。もてないくせに惚れっぽい性格だったので失恋ばかりでした。でも、正しいか間違っているかにかかわらず世の中には思い通りにならないことがある、ということが骨身にしみたのは、いい経験だったと思います。

「疲れ果てたあなた 私の幻を愛したの」
(『オリビアを聴きながら』 尾崎亜美 作詞)

自分のことしか頭になかったことに気づかせてくれた、大切な言葉です。
 

[79]中川達矢[2011 11/26 22:28]
毎回同じ展開になってしまってますね、ごめんなさい。
来週からは最低でも週に3回現れることを約束…、目指したいと思います。

伊藤さんから投げていただいた隠喩の話は、僕のせいか、次第に読者の存在について語られてしまいましたね…。

とりあえず今後の流れをかのっぴさんにお任せします。
もちろん、自分も参加していきますが。

恋愛。
自分は長くお付き合いをしている方がいますが、
今まで詩を書いてきた中で本当に1度ぐらいしか詩のネタにしたことがありません。
書けないと言えばそうなのかもしれませんが、書こうとも思わないですね。
多分、個人的すぎることをあまり書きたくないという僕の信念が邪魔をしているのでしょう。
 

[78]深水遊脚[11/26 21:04]
 抒情といえば恋愛を思い浮かべる私は単純かもしれませんが。テキスト論やレトリックについて濃く深くやるのもいいけれど、少し殺伐としてしまうので、こんな要素も入れてみたいです。

 いまどきの恋に稀薄になってしまった情が、古い恋愛の詩には濃厚に残っていたりし
ます。そういう詩について語るのもいいし、いまのかたちについても知りたい気がする。なんだかんだで、詩を書くきっかけが恋愛の人はけっこういるのでは?

#中川さーん、話題変えていいかーい?
#ダメならもう少しの間静かにしてまーす。
 

[77]……とある蛙[2011 11/22 10:09]
>>75
「落ち込み」「持ち直し」「足踏み」の用例は比喩ではなく可能な意味の範囲であるような気がします。輸出→輸出量(額)とすべき記事ではありますが。
 

[76]深水遊脚[2011 11/21 18:01]伊藤透雪
 下記は詩のなかで使われる比喩とは、おそらく全く違います。新聞には公のことを誰にでもわかりやすく書くという目的があります。ミスリードの危険性というのを書きましたが、本当にミスリードしてしまうようなダメな記者は一面記事は書かないだろうし、万一書いてしまったら各方面からものすごく叱られます。社会的責任の重さが全く違います。

 公に誠実であるべき新聞に対し、文学は私に誠実であろうとするのでしょう。そこには別の切実さが現れます。私は、目の前の作品を理解できるか、楽しめるかは別にして、作者の切実さは疑わないようにしています。作者にとってその言葉でなければならなかった、ということは前提に詩を読みます。用意された言葉のなかにその人が使うべき言葉はなかった。言葉の意味のみならず、改行、余白、連分けなど文字の配列についてもです。比喩も切実な言葉の選択の結果です。成功と失敗を判断するのはせいぜい文学賞の選考委員でよいのだと思います。あとは同人の間での合評会にも、その判断は必要です。好きな詩を好きなときに読んでいる私は、ジャッジするのではなく、むしろ異空間の遊びに参加するような気持ちで読むことにしています。どうせ読むなら楽しく、がいいです。
 

[75]深水遊脚[2011 11/21 17:32]
 隠喩にしても直喩にしても、当たり前のものとして我々は使っています。詩ではなくても。新聞が使うのは、わかりやすく伝える比喩ですね(ここで新聞をひっくり返してさあ比喩を捜そうとした瞬間、目に飛び込んできた文が下記です。びっくりしました@笑)。

「東日本大震災後の落ち込みから持ち直し傾向にあった輸出が足踏みしている。」

 本日付の日経新聞夕刊一面トップ記事本文の一文目がこれです。「落ち込み」は輸出の減少を指し、「持ち直し傾向」は減少した輸出が再び増加しつつあることを指し、「足踏みしている」は再び減少したことを指しています。2文目以下で本文中に出てきた輸出が「輸出額の前年同月比」を指すことが明らかになります。前年と比較することが妥当か?という疑問を挟む余地はあると思います。でも「輸出3ヶ月ぶり減」という見出しと、「落ち込み」「持ち直し」「足踏み」の3つの比喩で何となく皆が納得してしまうような輸出額の変化を読む人にイメージさせてしまう力は持っています。これは正確さを犠牲にして経済がどうなっているかをわかりやすく伝えるレトリックです。ちゃんと勉強するときは、数字の意味を正確に読み取って、イメージは払拭しないと、いま起きている経済現象を正確に理解することはできません。でも専門外の人にはあたらずとも遠からずの雰囲気が伝わればよいのだと思います。

 わかりやすく、というのはこういう構造をもっていると思います。予備知識がない人にも感覚的に受け入れられやすい代わりに、ミスリードの危険が伴います。2文目以下に正確な数字の説明は確かにあるし、記事に差し込まれたグラフの目盛が「%」だし、よく見れば「前年同月比」とグラフにも書いてあります。でも「落ち込み」「持ち直し」「足踏み」がイメージさせるのは今年の動きだけです。増加か減少か?増加又は減少の幅はどれくらいか?そもそも何に対する増加又は減少か?そういったことを確かめる方向には、この新聞記事は人を促さないでしょう。

>>77
可能な意味の範囲であることと、比喩であることは矛盾しません。もっとも、すでに辞書に登録されてしまったような比喩(「衛星都市」「猫の手も借りたいくらい」「星の数ほどある」「反故にする」「年貢の納め時」などなど)は慣用句など比喩とは別の名前で呼ぶでしょう。でもその生成過程は比喩をひねり出すのと同じ心の動きがあったのではないでしょうか。そして、定着した比喩は可能な意味の範囲だからこそ定着したといえるかもしれません。蛙さんの言葉でいえば普遍性があったから受け入れられ、気の利いた表現として重宝されたのでしょう。
 

[74]……とある蛙[2011 11/17 12:32]
 少し読者サイドと創作者のサイドの問題について、書き方の混同があったかも知れません。読者がどう解釈するかは自由です。しかし創作者側が何の意図もなく文章を創作することはあり得ないし、当然それに対する配慮も必要だと思います。これは姿勢だけではなく技術的に当然必要なことだと思います。

 語の多義性と隠喩とはほとんど別物であるにも拘らず混同して議論してしまった気もしますが(笑)。
 

[73]深水遊脚[2011 11/17 09:43]
 限定、無限定の話でもうひとつ。

 たしかに作者は詩の言葉を発するごとに限定をかけて行きますね。複数の意味を含ませる場合も(その実力のある作者がいたとすれば)作者が含ませた意味のオプションの範囲で読者が選び取るという構図も生まれてしまいそうです。私が読者であれば、そういったあからさまな選択肢を嫌います。

 あくまでこれは詩を書いたり読んだりの話。お笑いの場合、ある程度の「お約束」は嫌うところか、むしろそれを期待してしまうし、気分の浮き沈みの激しいときに、即効性のあるJポップを聴くこともあります。ごく個人的な話で恐縮ですが、刑事ドラマ「相棒」が大好きなのですが半分以上は「お約束」の展開です。上層部は隠蔽体質でみょうな空威張りをしている。捜査一課と特命係はいがみ合っている。そんな状況で特命係の杉下右京が事件の見逃された部分を拾い上げて冷静に真実に迫る。そのお約束がなければあのドラマは見ないと思うし、最近そのお約束の部分が微妙に変わってきていて違和感を覚えることが多々あります。

失礼。個人的過ぎました。

 多かれ少なかれ、先入観からは誰も逃れられないと思うのです。読者もまったく無限定なわけではない。何か期待するものがあると思うのです。最近の傾向として、期待通りのものを求める基準が厳しくて、それ以外のものに対する許容範囲が狭くなってきているように感じます。そんななか、外からの基準に素直に従いたくない気持ちが増してきていることも、私の気持ちが現代詩に向かう理由のひとつです。
 

[72]深水遊脚[2011 11/17 09:10]
>>67 中川さん
 ありがとうございます。
 美意識というのも何だかおこがましく、私はまだ目指しているものを実現する力を持たない段階です。その段階では読者のことを云々するより以前に私自身の表と裏を隅々までつぶさに観察すること、ごまかさず言葉にすることが私にとっては先決です。余裕がない、というのはそういうことです。
 つい数年前までは私も現代詩に対する違和感をもっていました。でも、時に励まされ、時に完膚なきまでに打ちのめされる、そんな詩に出会って以来、何か分からないことに対し、先入観をもとに安易な結論を出すことをやめました。分からないまま名前だけ覚えておいて、その名前を目にするごとに一度はきちんと向き合う、そんなことを無理のない範囲で繰り返しています。私が出会った詩も、最初はわからなくはないけれど印象に残らない詩の一つでした。その最初の印象だけで二度と向き合うことがなかったならば、大げさでなく、人生はまったく別のものだったと思います。多義性は、読者が作品にふれた一時点で発現するものでなくてもよいのだと思います。私の以上の体験は、時点の差が作り出す多義性の証明になっているかと思います。あまり強弁するつもりもないのですが。
 メタファーがここで話題になって以来、レトリックの本をいくつか読んでいます。自分の詩にそれと意識しないまま使っていたものがいくつかあってけっこう面白く読めました。でも、先に読んでしまうと私の場合、詩が書けなくなりそうです。

#トップのテーマ別レスマップ、いくつか分類違いがあるみたいです。50レスに1回くらい私がまとめて中川さんに私信で送ろうと思っているので、次回に修正します。レスアンカはトップにやってもリンクが形成されないみたいなので、次回から数字だけ書くようにします。URLを書いてもリンクは可能ですが、とっても見苦しくなると思うので。
 

[71]……とある蛙[2011 11/15 13:00]
語の多義性について

ビルエバンストリオのポートレイトオブジャズを聴きながら、電車の中で書き始めました。スコットラファロ良いなぁ。天才です。ビルエバンスとの掛け合いがすごい。完全にソロ楽器的なものとしてベースを扱っています。

それはそれとして、語の多義性について少し思うところを述べます。
参考文献がないので記憶に基づいて書きます。

 詩が言葉というそれ自体意味を持つ素材を扱う創作物であることがいろいろことを難しくしているようです。
 もともと言葉は多義性を有しています(文章語に限定して書きます)。しかし、社会あるいは国家(近代においては国家が人工的に統一言語を作っているようです。ー実は日本語における国語が典型のようです)が言葉における可能な意味を与えています。これを習得してそれぞれあまり意識せず会話したり文章を書いたりしています。もちろん言葉はもともと多義性を有しているのですから、実用的に用いようとすればその意味を限定するためには言葉それ自体の外の要素,
 受け手との関係性、文脈の中の言葉の位置などが斟酌され意味が限定されて行きます。しかし、あくまでも実用性を考えれば可能な意味(社会的)での拡張のみが言葉の機能の限界です。それ以上ごく狭い世界での符牒などは言語というよりは記号として言葉を使いますが、これは別の問題です。

 かかる言葉のとしての理解を前提とした場合、詩における言葉の多義性はどのように考えるべきでしょうか。ただ放り投げて読者の解釈に委ねるというのはあまりにも乱暴な議論だと思えます。極端な話「石」と一文字書いても詩になりえます。石という字は可能な意味では路傍に転がる鉱物及びその周縁部の物質。あるいは堅い固まり状の物体。ある人には堅いことの譬え、ある人には何ものにも影響されない(その前提が正しいかは別)こと。等どこからかは隠喩いや換喩になっておりますが(笑)。

 先ほども述べた実用的な言語の世界では、意味の限定が重要なので、可能な意味の拡張までは認められても類推解釈は強い合理性と文脈の中で慣例化されていて初めて例外的に認められるだけで基本的には認められません。

 詩の世界では多義性が要求されるとまでは言えなくとも多義性が必要だとも考えもありますが、本当に詩の語として多義性が必要なのかは疑問です(受け手側が苦痛を感じる場合もあります)。可能な意味の拡張であればある程度は放り投げて使われても十分詩作品になるでしょうが、ある程度イメージの関連性の中で他の意味を持たせないととばし読みしてしまいます(あくまでも私ですが)。
 また、明らかにインチキなことを前提にして気取って書かれてもしらけます。詩でも絶対的に取材あるいは観察は必要です。それを指摘しても普通でいられる人はどうかと思います。
 結局、言葉の意味を越えてその言葉に違う意味を持たせるためには、その語以外の要素が必要と成らざるを得ません。
 読者との関係性に依存することは余りよい方法ではないと考えます(このあたり結社ないでの評価が少し世間ズレするのはやむを得ないと思いますが)。
 また、読者に期待するのはお門違いと言わざるを得ません。自分と同じような頭脳構造している人間は世間的にはごく少数です。
 詩も含めて文章を書く場合はモチーフなり言いたいことは大事にしたいので。
 やはり、文脈の中で作られたイメージとの関連性あるいは意味を規定するテキストの存在が必要だと思います。イメージというのは便利な言葉で、私が考えるに写生の積み重ねによってイメージというのは表現できるものと考えています。イメージ自体が浮かばない詩もありますが、その場合は論理性があれば救われます。イメージを上手に作れない詩はやはり受け入れられないし、ごくごく私的な物と言わざるを得ません。それが悪いと言ってはいませんが、自分では読む気はしません。まぁランダムに書き過ぎかも知れませんごめんなさいね。
 

[70]伊藤透雪[2011 11/14 19:55]
>>5 こんな感じで良いのかな?
私らしくというと、型が付いてしまいそうなのですが、叙情性は気にしている方だと思っています。
それは時に美しくなく、ざらざらした嫌悪感を思い起こさせるものも含みます。
人の心を書こう、特に恋愛詩が多くなるとそういう感じですね。
淡々と言葉を連ねながら、一つ一つの言葉、並び、音に注意しています。
SF的な世界観にも叙情性を持ち込んで見ると、面白いです。
#スレッドの付け方間違っていたら直します。
 

[69]伊藤透雪[2011 11/14 19:52]
中川さん、レスは好きなときでいいと思いますよ。
体の方が参ったら書けませんし(^_^;
必ずしも全員にレスは必要ないんです。一人として書けば楽になりますよ^^
 

[68]中川達矢[2011 11/14 17:35]
僕なんか、まじめすぎる、ってか、あたまがかたいから、こう、僕のレスに負けじと、簡単で、やわらかいレスしてくれる人がいて、中和してほしいなあ、なんて。
 

[67]中川達矢[2011 11/14 17:34]
かのっぴさん

かのっぴさんのレスと詩を読み、考えたのは…、
読者は作品を読む上で、作品の言葉からイメージを限定していくのでしょう。
読者自体はもともと広がりを持った存在であり、詩の言葉が持つイメージが読者を限定していく、って同じことを2回言ってますね。
多義性のまま、放り込む、というのは賛同できます。
自分もそんな感じで書こうとは意識しています。
その上で、どう書いていくかとなると難しい。
さきほどの伊藤さんへのレスでいえば、「多義性のまま」というのはかのっぴさんの作者としての美意識であって、読者がそこに辿りつくことはない。
それよりも最初に述べた、詩の言葉によってイメージが限定されていく方向に近いのでは。

一つの作品に対して、多様な解釈ができることを証明するために、簡単にできることは、数多の読者を用意して、その作品について感想を述べさせれば、その作品は必然的に多様な作品なんだということがわかるでしょう。
しかし、一つの作品に対して、一人しか読者がつかないのだとしたら、その作品は果たして多様的であると言えるのかどうか。
その場合、鍵を握っているのは、作品であるより、その読者ではないでしょうか。
つまり、作者の方向性が問われるのではなく、読者の方向性(読み方)も問われているように思います。

#合いの手、ありがとうございます!
 

[66]深水遊脚[11/14 17:32]
合いの手
 

[65]中川達矢[2011 11/14 16:52]
蛙さん

蛙ワールド炸裂ですね。
現代詩への嫌悪感は前々から感じていました。
現代詩の閉鎖性は同意できます。
詩が当たり前に読まれる時代(ソースなし)からマイナー文学へと陥ったという風に感じてしまうのです。

「結局中身の無い人間が、中身のあることが書けないのは当たり前だというのが結論です」
というのも一時期、僕は考えていました。
ただ、この考えって実に私小説的な考えだと思うんですね。
作者と作品の関係性が強く、僕自身、作品を書く上で、経験していないことを具体的に書く時に苦しむものだと思っております。
書けないことはないとも思うのですが、果たして、とある作者が経験していないこと、つまり、フィクション全体を読者が読んだ時に、その作品の価値基準がそこにあるのかどうか、と問われた時に、作者の人間性が疑われるものなのか。

作品が読者を選ぶのかどうか。
その一つとして、伊藤さんが投げかけてくださったメタファーの問題は、一つの問題としてつきものだと思います。
 

[64]中川達矢[2011 11/14 16:46]
伊藤さん

「そういう学びは必要ない、自分のやり方で良い」
という言葉、僕もそうだとは思います。
ただ、「自分らしく書く」ということが当たり前のようでいて難しい。
そのことを具体的に言語化するならば、
「自分の美意識を書く」ということでしょうか。
これはあくまでも一つの例です。
自分らしく書くというのは、自分が思考した、もしくは、感じた何かを書くということ。
それを踏まえた上で、他者の作品からの影響はないと言えども、無意識にでも自分が何かを美しいと感じるものがあるかもしれません。
別に美しくなくても、汚くても詩は書けますね。

あくまでも「自分らしく」を言語化した一つの事例にすぎませんが、「自分の美意識を書く」など、「自分らしく」の中にもある程度の方向性は持っているものだと思います。
そのようなものが、伊藤さんの創作の糧であったり、メタファーの問題にも繋がっているのではないでしょうか。
 

[63]中川達矢[2011 11/14 16:38]
かのっぴさん、ありがとうございます!
ご丁寧な分類ですね。
これ、今後もやっていくとなると相当手間がかかるような…。

ちょっと体調が悪く、おとといときのうと泊まりがあったりしてレスが遅れました。
今からちょっとずつですが、レスしていきたいと思います。
 

[62]深水遊脚[2011 11/14 09:45]中川達矢
 初期みたいにこんなものがあるといいんじゃないかと思って作ってみました。よかったらスレッドのトップに貼ってください。分類に関しての異論、もれの指摘などありましたらお知らせください。
 ひとつの事象がひとつの価値観とべったり結びついたままの状態だと、「情報のタネローン」としての使い勝手は悪いと思うので、こうすることで使いやすく、参加しやすくなるのではないかとも思います。

<トピック1(詩に直結すること)>
詩の仕組み、構造、成立条件
 >>4 >>6 >>7 >>56 >>57
普遍性
 >>5
詩情、抒情性
 >>4 >>5 >>6 >>7
写生 叙景
>>9
記号、意味(の解体)
 >>5 >>7 >>8
イメージ メタファ 象徴
>>9 >>50 >>53 >>55 >>56 >>57 >>60
読者との関係性
 >>5 >>7 >>51 >>54 >>57 >>59
詩史 芸術史
 >>7 >>9
詩作 推敲
 >>7 >>50 >>51 >>52 >>55 >>58
評価
 >>50 >>54 >>57

<トピック2(フリートピック 巡りめぐって詩に?)>
ニュース
 震災、原発、放射線 >>16 >>29 >>36
 経済 >>40 >>46 >>48
ニュースの本質 >>22 >>25 >>36 >>43 >>49
 ネタ、語源他 >>32 >>40 >>46

<人名>
岩成達也 >>4 >>6
山本陽子 >>8
正岡子規 >>9(写生)
斎藤茂吉 >>9(実相観入)
長野隆 >>9(萩原朔太郎論)
萩原朔太郎 >>9
ロラン・バルト >>54(作者の死)
スタンリー・フィッシュ >>54(解釈共同体)
デリダ >>56(文字言語の特質)
飯島耕一 >>57 (詩集「バルセロナ」)
ロバート・ブライ >>57(詩作品「トウモロコシ畑にキジを撃ちにきて」)
天沢退二郎 >>57
安藤元雄 >>57
山本太郎 >>57

<キーワード>
写生 >>9
寄物陳思 >>9
実相観入 >>9
作者の死 >>54
解釈共同体 >>54

<書籍>
岩成達也『詩の方へ』(思潮社、2009) >>4
福間健二『青い家』(思潮社、2011) >>54

<言葉や詩の引用>
ギンズバーグ >>5
「主観的真実が読者あるいは鑑賞する者を得て客観化して初めて詩という名に値する芸術が成立する」(言葉)

山本陽子 >>8
「とらじいえあつく寵めいであつく於ろうつく」(詩作品タイトル レス中に作品の引用)
 

[61]伊藤透雪[2011 11/13 11:15]
>>60
かのっぴさん、何の意識もせずに読みました。
たぶんあなたのご心配は全然当たりませんです。
人は風景のように意識される「清浄な」「水」の外縁にしか読み取れませんでした。
だから、満たされながら揺れる心が浮かび上がって感じました。
読み手というのはわからないから、書き手は心配性になるのでしょうか。
具体的な例を挙げていただけて、とてもわかりやすいです。
 

[60]深水遊脚[2011 11/12 22:31]
 隠喩の意味するところが、なにか「ひとつのこと」を別の言葉でほのめかすことであれば、それは私の目指すところではありません。たとえば私が書いた下記の詩ですが、

http://po-m.com/forum/thres.php?did=239442&did2=90

スレッドのルール上、直前の詩からの連想で書く必要があり、「じゅうしい」からの連想で清潔な、水で満たされたあるものを想像して書き上げました。これを「何か閉鎖的な集団におとなしく属している私」というひとつのイメージにしか行き着かないとしたら、私としては失敗作です。そして、4連目に「人」という文字を使ってしまったことで、意味が限定されてしまい、失敗したと私は考えています。湖の深いところのイメージは、表現したい対象そのものであり、何かを訴えるための手段ではありません。


2011.11.14 10:00追記
>>61 伊藤透雪さん
 感想ありがとうございます。丁寧に読んで下さったのが伝わり嬉しかったです。言葉の受け取り方については、口に出るものと出ないものがあり、出ないものが大部分だと思うのです。出ないものをどう見つめるかは、それこそ様々なものに対する自分のものの見方をみつめたり、時には自分と異なる考え方、振る舞い、言動について何故そうなのかを考えてみたり、そんなことを繰り返して、積み重ねることで見つめる目を養い、心を耕して行くしかないと思うのです。詩読みは自分にとってそんな営みの一つです。詩作は多分その延長上にあります。
 

[59]深水遊脚[2011 11/12 22:11]
>>54 中川さん
下記にだけお答えしておきます。

>自分では平易なつもりでも読者には難しい、とありますが、これは批判でもなく、かのっぴさんが書く時は、読者の存在を意識しますか?
(この表現は伝わらないだろうな〜、とかそんな想定のことですね)

 読者を意識しません。これは尊大に振舞うわけではなく、その余裕がないだけです。平易で正確な主張を誰かに伝えるときは、詩以外の手段を選びます。それでは伝えられないものが確かにあると感じるときに、私は詩を書きます。多義性のまま投げ出すのは私の追求するスタイルです。禁じられても変えません。

2011.11.14 10:00追記
 正確にいえば、内なる読者との自己内対話で詩を作っている部分があります。日によって気分によって自分の書いた言葉でも感じ方が違ってきます。ものを書くときはそれを利用します。
 

[58]伊藤透雪[2011 11/12 20:18]
「自称詩人」とは如何なる者なのか、その境目を私は知りません。
ただ、普遍性や非普遍性を超えて世界観を表現し、それを灯台として
読み手を引き込んで行こうとする書き手の努力は必要だと思います。

自分の作品をより発展させたいと思う者として「手段」「手法」を
論題にして言いっ放しで言い合うことに、それほど無駄とは私は思いません。
誰かがこう言った、ということには興味も意味も感じないのと同時に。
#喧嘩をふっかけてるみたいで申し訳ないです。
 

[57]……とある蛙[2011 11/12 19:00]
基本的な考え方は去年考えていたことと変わらず、次のとおりです。

何となく最近書く気がしないので、改めてに最近詩について考えていることをアトランダムにかつ文体において統一性無く書いてみます。

飯島耕一の詩集「バルセロナ」を読んで

題材は身辺の見聞、私的個人的な記憶→語法も日常的
伝達性のみの日常的な散文に近い形で書かれています。
日常に対する感想を 詩を形成する素材としています。

詩的な素材 非詩的な素材という区別がそもそも無いと思います。
詩的な言語 詩的で無い言語という区別も無いと考えます。
そんな区別が存在する訳も無い。

日常的な出来事こそ、
たとえば夫婦兄弟など親族間の出来事は普遍性をもちます。
ロバートブライも普遍性に関して親族間の出来事を述べているが当たり前のことです。また、日常接する風景、自然などに普遍性はあります。芸術と呼ばれるためには時間的普遍性と空間的普遍性が必要だとさうれば日常想起する出来事、日常接する自然風景こそ題材とすべきでは無いかという考えに行き着きます。

詩における飛躍した言語など

天澤退二郎など執拗なリフレインによるリズムなどによって言葉の伝達性の希薄化を図ろうとしているようです。
独りよがりのメタファはごく例外を除けば、詩のもつ普遍性を抹殺するもので、詩を第二芸術にしてしまう元です。

口語の中に文章語が既に成立しています。
 文章語とは書き言葉→近代になって発達して来た第二言語
 本質的に実証的な言葉で「自然主義者、学者、法律家、自然科学者など」によって開拓され、科学的、社会学的な文章又は政府や報道機関などが用いる散文などがこの言葉で書かれている。
 日本語もこのような傾向にある。現代詩は現代死語と呼ぶべき一連の文章語を屈指している。物事の外面を書くのには適していて内面を書くには適さない事は自明である。
 しかし、文章語で内面を書こうとするので無理なレトリックというか造語にすらならない暗喩に彩られるのではないか。詩人以外興味を示さないような言い回しのオンパレード。そのような詩は詩ではなく、独白以下である

ポオのように緻密に組み立てるのも一つの手であろうし、構成を考え上、一気に感性に委ねて書くのも一つの手だろうとはおもいますが。

ロジックの裏付けの無いメタファもどきは単なる独りよがりであることを留意すべきです。

 安藤元雄の「詩の初心」をめぐって と題するエッセイの中で 山本太郎ー「スサノオ」などで有名ーの東京新聞に書いた現代詩に対する批判、山本は現代詩の病弊としているが「詩壇の詩、同人誌の詩にはびこる三悪ーワカラナサ、オモシロクナサ。ナガッタラシサーつまりヒトリヨガリ」を指摘している。この方法でしか表現できないというものもあるかも知れないという理屈もなりたつ。しかし、」それはその表現のための語法書法用語の選択など根底から見直さずに怠惰にしているものの屁理屈に過ぎないとも言えよう。
決して自己正当化には成らないと安藤は指摘するが、他方別の怠惰を正当化する可能性もある。

としています。

 読み手を選ぶなどというよまい言をいっている人もいるようです。
 しかし、読み手を小ばかにしたものに何の芸術性があるでしょうか。
 音楽において聴衆を小ばかにしたものは120パーセントあり得ないし、絵画も同様である。一部下劣な評論家がうぬぼれて芸術の受け手をばかにしているだけです(芸術作品を発掘、紹介するのが批評家の役割だ)。そんな批評を前提とすれば芸術何ぞは一握りの知ったかぶりの持ち物になり、普遍性は獲得できない。詩は宗教上の神に対する特殊言語ではないし、秘密結社の暗号では無いのだから。

※詩作する者は自らを過去の基準で評価してはならない。評論論評など過去の基準で論評するものです。創造的評論家が出れば別です。
芸術としての詩を標榜する以上ね


 私は常々反詩的な平明さの中に anti-poeticにより内面的な深みを表現することが課題と考えてきました。つまり、芸術に要求されるのは 時間的普遍性と空間的普遍性をもち かつ感動を与えることだと考えてきました(感銘力ある詩)。全く普遍性のないものは独り言だと考えているわけです。
 少ない言葉によって言葉の外側にある感動を人に与えなければならないと思ている。(感動とはいっていますが、感心する程度のモノも含みます)
 そのためには 現段階では何でもないような情景を詩にすることが必要であり、そのための修練も必要です。
 単純さと平明さの中に(もちろん言葉も語法も含めて)内面の世界と現実世界の自分との合一が一瞬でも出来れば と思って書く必要があります。

と考えています。

 ※一つの目安としての目標はロバート・ブライの「トウモロコシ畑にキジを撃ちにきて」の世界です。
 

[56]……とある蛙[2011 11/12 18:45]
現代詩フォーラムに投稿したての頃は他の人の詩が面白くなくてもすばらしい物と思っていました。しばらくして、なぜ現代詩は自称詩人も含めて、詩人と呼ばれる人たちにしか読まれないだろうかという疑問が生じました。今では詩人にしか読まれないのが当たり前と思えて来ました。読むことより書くことの楽しさで書いていてよいのだと思うようになりました。結局中身の無い人間が、中身のあることが書けないのは当たり前だというのが結論です。書くのを楽しんでしまえと思っています。ただ書くのではつまらないからネットで公開しているのです。

文字言語と口語言語との区別、特質の理解は文学創作者に必要な資質だと思います。

※メタファーについてのひとこと
大体、文字言語のメタファーは誰に向かって発せられているか 不明ないかがわしさを感じるます。
デリダに言わせると文字言語の特質は?距離?遅延?不透明さ?両義性のあいまいさだとしています。
 この辺を曖昧な理解のまま作っているので現代詩は分かりづらく、つまらないのではないだろうか? 
 等と考えていた時期もありましたが、どうでもいいこってす(笑)。

 つまらないもの書いて、誰も理解されないで、かまわないとは思います。狭い世界ですもの。
 ただ他人と議論するとき、基礎的概念のいい加減さ、両義性どころか多義性のまま垂れ流した議論するのは何とかして欲しい。自称詩人達さんにありがちな部分です。議論になるわけ無いので、そのあたりが夜郎自大です。エクスキューズだらけで人と議論しようとするので創造的な議論にならないのではないかと思います。
 これもどうでもいいことですが、たまにフラストレーションがたまるのです(笑)。
 

[55]伊藤透雪[2011 11/12 17:40]
メタファーの扱いを、たくさん使うか平易な言葉に隠すか。
私は後者を使っていますが、気づく人は少ないのですよね(^_^;
作風については、誰かに影響されたことはありません、
ネットでリアルで、お知り合いになった人の作品に発憤はしますが、
ある詩人さんに
「そういう学びは必要ない、自分のやり方で良い」と言われたこともあります。

読解が難しくても、音として美しい詩だと引き込まれますし、
何度も読んで考えることもできると思うので、
だからこそ悩むのですね(^_^;

でもうまい表現の言葉、暗喩とも言えないけど柔らかく着地する言葉、
私は石畑さんの言葉にいつも感嘆するんですが、
そういう引き込める何かを探している所です。

あーこういう討論でさえ上手く言えない所も悔しい。
 

[54]中川達矢[2011 11/12 10:40]
>51
かのっぴさん

表現の受け取り方の差異は、読者のコンテクストに委ねられているのでは、と僕は考えています。
ロラン・バルトの「作者の死」以降、読者の数だけ作品が存在するなどと言われ、しかし、スタンリー・フィッシュは「解釈共同体」という概念によって、無責任な読書体系を読者の集合体によって解決しようとしました。
ただ、それは、個人的な読みの排除にも繋がりそうなことです。
自分では平易なつもりでも読者には難しい、とありますが、これは批判でもなく、かのっぴさんが書く時は、読者の存在を意識しますか?
(この表現は伝わらないだろうな〜、とかそんな想定のことですね)

>52
蛙さん

出た、蛙さんの嫌悪感!
あ、いや、悪いとかじゃなくて、蛙さんの姿勢らしいな、と思います。
僕なんかは嫌なことを嫌だという勇気もなく、しかも、大学で詩をやっている人間だから自分のことを言われた感じですね。
まあ、それも踏まえて、作品がそのような背景があるかないかで判断されてしまってはむなしいのです。
大学で内輪でやって褒められている作品の中にもいいものはいいものとしてあるのではないでしょうか。
詩の賞がつまらないのは、はっきり言ってしょうがないです。
(それでも、自分は、実力がなければ賞は取れないとかんがえていますが…)
なぜなら、選考委員の手によって委ねられているからです。
単に選考委員の趣向と合わなければそれまでです。
ただ、詩の賞のおもしろさ(詩だけに限らず)は、選考委員が違えば、全く違う作品が評価されるということです。
もちろん、一つの詩集が二つの賞を獲得することはありますが、そんなことはめったにありません。
(今年は、福間健二『青い家』(思潮社、2011)が歴程賞、萩原朔太郎賞を受賞しましたが、福間さんは賞を取るのが遅すぎたというか、なんというか、取るべくして取った存在ですね)
その中でも、なぜその作品が評価されるのかどうか、そういったことを書評を読み解くことから、作品を読み解くこともおもしろいかもしれません。


#議題が「メタファー(表現)による詩作品の評価」なのか「詩そのものの評価のされ方」なのか
#もう少し、皆様の反応を見てから方向づけたいと思います。
 

[53]中川達矢[2011 11/12 10:29]
>50
伊藤透雪さん

投げかけありがとうございます。
隠喩(メタファー)については僕も頭を悩ませる議題です。
単純に詩のわかりやすさを失わせるものではありますが、メタファーに対しての嫌悪感は、もしかしたらうまいメタファーに出会っていないことから起きるのかもしれません。
それはおそらく僕にもあてはまることでしょう。

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=236940
これは「めだまやき」というメタファーについて書いた僕の詩です。
新書で 瀬戸賢一『メタファー思考』(講談社、1995)を読み、そこから着想をいただきました。

思えば、世の中には無意識のメタファーが転がっています。
「あの人と私は距離が近い」
たとえば、北海道と沖縄にいる人がネットで繋がり、性格や趣味が合うことから、物理的に距離は近くなくとも、その相性を表す言葉として用いれば、これはこれでメタファー。

メタファー自体は、本来は物の見方を問われるべき修辞ではありますが、伊藤さんが悩んでいることは、それをどう詩に昇華させるかということ。

自分の作品が読者の読みによって左右されてしまう、ぶれてしまう。
メタファーを用いようか、簡単な言葉にしようか…。

どちらに美学を感じるかは、人の価値観に左右されますが、伊藤さんがどのような詩が好きなのか、もしくは、どのような詩人が好きなのかによって、その趣向が決まってくるのではないでしょうか。
 

[52]……とある蛙[11/11 23:53]
大学の先生も含めて仲間同士で受ける詩を一生懸命書いているからしょうがないのです。何たら賞の詩の詰まらんこと、(>?<)?*もない(笑)。書きたいように書くしかない。最低限のスキルを持って。ばかばかしいけど。そんなもんだと割り切っています。ただ、上目線で芸術などと言って欲しくないとは思っています。仲間ではない人から見ると意味不明。はっきり言えばゴミみたいな物で。まぁそんな物だとおもいながら、何とか良いものを書こうと努力するしかなでしょう。自分はそんな水準では無いこと勿論です。
 

[51]深水遊脚[11/11 23:00]
目指すところは納得できる詩。そこはシンプルです。言葉の使い方は自分で思うのと他人が見るのとでは印象が違います。私の書くものは自分では平易なつもりですが、人にはひどく難しいようです。それでも、納得できる詩を目指すことは変わりません。

説明するよりは言葉の感じかたを読み手に委ねる部分を残すこと、謎は謎のまま残すことは多いです。難しがられるのはそのせいかもしれません。
 

[50]伊藤透雪[2011 11/11 18:26]深水遊脚只野亜峰
真面目に悩んでいます。
隠喩を散りばめて作品とするか、平易な使い古した言葉を使って
作品を作るか、どちらがいいのかと。
評価されるのが素晴らしいとは思いませんが、
納得できるにはどちらだろうと詩作するときいつも考えます。
皆さんはいかがでしょう。
 

[49]中川達矢[2011 11/10 19:48]深水遊脚
なかなか現れなくて、ごめんなさい…。

そして、顔文字さんがいなくなってしまわれた…。
いずれ戻ってくると信じて、ちゃんとオペレートしないとだめですね。

ニュースについて様々考えさせられることがあったと思います。
僕なんかが気になるのは、
ちょっと前にも述べましたが、ニュースが思想を伴うということ。
それを踏まえて、その受容者(視聴者)が
ニュースを鵜呑みにするのか
ニュースを思考・解釈するのか
ニュースは一方的に伝えられるもので
それ自身に反論はできません。
デモという形で反論するころ、そのニュースの出来事はとっくの前に起きていること。
それを事前に防げるかどうか、それは視聴者にはできないですよね。
要は情報を持っているマスコミが動くどうか。
いや、マスコミは動く媒体ではなく、伝える媒体。

何か、思うがままにすらすらと書いてみましたが
ニュースを鵜呑みにするのか
解釈するのか

ニュースを見て、詩を書くという一連の流れを考えるならば
ニュースは解釈されるものだろう。
ニュース自体は視聴者に対して画一的に伝わるはずなのに
それにまつわる詩は多様的になる。
それは解釈が多様であることと切り離せない関係でしょう。

こんな感じでニュースの受容を考えました。


レスも50ぐらい来たので、次の話題に行ってもいいのかと思っています。
どうでしょう。

あと、自分が言う資格がないのも重々承知ですが、
リアクションがあることが勢いづけるのだと思います。
リアクションをしていこうと思います、ごめんなさい…。
 

[48]深水遊脚[2011 11/10 15:04]
 今これをやっておけば、今は苦しくても後が楽、ということが人はなかなか出来ないみたいだ。ギリシャやイタリアは増税なり公費の削減なりをもっと早くやっておくべきだった。難しいことだけれど先送りすればするほどもっと難しくなる。日本は大丈夫かな?
 オリンパスの損失隠しも、損失が生じたその場で明らかにしたほうが、そのときはダメになるようにみえても長い目で見てはるかに良い結果になっただろうと思う。膿みを出し切って経営に臨めば、製品に対する信頼は絶大なのだから必ず立ち直れたと思うし。逆にいまから信用を取り戻すのは難しいかもしれない。
 これは結果論だから、本当に膿みだししておいたほうがよかったかどうかはわからない。口に苦い良薬をあえて飲む人たちに、マスコミも投資家もかなり冷たいのが本当のところかも知れない。ここぞとばかりに貶めてしまう傾向があるように見える。でも長い目で見てそれが良いことならば、それを見抜いて評価してこそ資本主義はいいシステムであることができると思う。
 TPPは口に苦い良薬なのか、ただの毒なのか。正直今はよく分からない。

(スレオペに必要な条件は多分、消えないこと。中川さん、頑張れ!)
 

[47]花形新次[11/10 13:59]
なんだ?消えてる!
やべぇ、俺ふざけ過ぎたかな?
 

[46]花形新次[11/09 17:23]
イタリアも大変みたいだ。夕刊フジに載ってたぞ。
ベルトハズスーニ首相が自慰表明だって。さすが、エロ首相!
それにしてもナポリターノ大統領って美味そうだ。
 

[43]中川達矢[2011 11/04 09:35]
あ、スレオペ降格の危機、;(
どうしましょ。

ニュースって、実は記事を書く人の裁量も反映されていて…、
○○新聞は右だ、左だ、など、そんなこと僕にはわからない。

ニュース自体そのものが思想と切り離せないんじゃないかなって。

それは歴史も同様。
[hi]storyはstoryとしての物語。
これはギャグとかじゃなくて、一時期哲学だか文芸批評だかでそういう見方がされた。
ある意味、歴史も受容の仕方次第で書き換えが可能なんですよね。

WW?という出来事は、一つしかないはずなのに
それに対する歴史の捉え方は国や地域の数ほどある。

正しい歴史なんてないんじゃ。
 

[40]花形新次[11/03 12:26]
パパハドレイ首相よ、古代ギリシャの少年愛について俺は聞きたいことがあるんだ!

#これでいいかな、とりあえず
#と言って気付いた
#ヤバイ、俺単なるアホだ
#まあいいか、事実アホだし
 

[36]……とある蛙[2011 10/30 12:30]
>>35
正直なところ、情報が錯綜というより基準が不明なのでますます被害者意識だけが拡大して不安だと叫んでいるのでしょうね。

ただニュースってこの程度だと自分では考えています。

新聞記事を始めとする報道記事は単なる詳しめの目次だということです。
真実の報道なんて言葉を使いますが、報道記事は所詮一つの視点から見た粗雑なノンフィクション文章と考えるべきだということです。興味があることは多数の視点で書かれた何冊かの書籍あるいは記事を読まなければ理解できません。そもそも定義すらイイ加減な記事が多いのには閉口します。興味のないことは読み飛ばしますが、興味のある記事、あるいはある程度詳しく真相を知っている事件については憤りすら感じます。注意しましょう(笑)。
 

[32]中川達矢[2011 10/29 19:25]
なんかこの雑談っぽいノリがいい感じでやんす。

僕はサッカー・野球・相撲・なんやら・かんやらといったスポーツが大好きで、もちろん大迫君も高校生時代から知ってました。
それだけです。

ニュースの都市伝説として
North East West Southの4つの方角の頭文字を合わせて、ありとあらゆる方面からの情報という語源という説がありますね。

ところで、ニュースを耳に、もしくは、目にする機会の媒体は何が多いんでしょう。
なんだかんだ言ってテレビが一番多いような気がします。
もちろん最近ではネットも多くなってきているのでしょう。

「現代詩フォーラム」という場で語る場合、どうしてもネットを使っているユーザーが集まっているため、ここには自然とネットで情報を集めている人がつどいそうですが…。
無意味なアンケート、「Yahoo!を使っている人に聞きました。あなたは一日どれくらいネットを使いますか?」みたいな。
それって前提条件おかしいじゃん、みたいな。

あれ、なんだか話がそれてるじゃん、みたいな。
 

[29]……とある蛙[10/29 14:19]
>>22
井戸端会議大好きですよ。それを自覚していればね(笑)。
中川さん うざキャラでOKです。
>>27
放射線量の問題はなんか政府も含め胡散臭くて仕方がない。なんか意味が分からない。
 広島や長崎はどんなデータ残しているのだろうか?農産品や水産物への影響のない原爆だったのだろうか?あっという間に半減してしまう放射能だったのだろうか?
またモンスターペアレンツのようにヒステリックに携帯線量測定器持って、うろうろしている人たちがなにか楽しげに見えるのはなぜだろうか?
 

[25]花形新次[2011 10/29 12:39]
温めた牛乳に酢を混ぜると分離して
チーズのようなものができる。
これを私たちデブ業界では「乳酢(にゅうす)」と呼ぶ。

#わきゃねえだろう!
 

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