詩と散文を作る手段全般についての情報と意見交換 part2+α[54]
2011 11/12 10:40
中川達矢

>51
かのっぴさん

表現の受け取り方の差異は、読者のコンテクストに委ねられているのでは、と僕は考えています。
ロラン・バルトの「作者の死」以降、読者の数だけ作品が存在するなどと言われ、しかし、スタンリー・フィッシュは「解釈共同体」という概念によって、無責任な読書体系を読者の集合体によって解決しようとしました。
ただ、それは、個人的な読みの排除にも繋がりそうなことです。
自分では平易なつもりでも読者には難しい、とありますが、これは批判でもなく、かのっぴさんが書く時は、読者の存在を意識しますか?
(この表現は伝わらないだろうな〜、とかそんな想定のことですね)

>52
蛙さん

出た、蛙さんの嫌悪感!
あ、いや、悪いとかじゃなくて、蛙さんの姿勢らしいな、と思います。
僕なんかは嫌なことを嫌だという勇気もなく、しかも、大学で詩をやっている人間だから自分のことを言われた感じですね。
まあ、それも踏まえて、作品がそのような背景があるかないかで判断されてしまってはむなしいのです。
大学で内輪でやって褒められている作品の中にもいいものはいいものとしてあるのではないでしょうか。
詩の賞がつまらないのは、はっきり言ってしょうがないです。
(それでも、自分は、実力がなければ賞は取れないとかんがえていますが…)
なぜなら、選考委員の手によって委ねられているからです。
単に選考委員の趣向と合わなければそれまでです。
ただ、詩の賞のおもしろさ(詩だけに限らず)は、選考委員が違えば、全く違う作品が評価されるということです。
もちろん、一つの詩集が二つの賞を獲得することはありますが、そんなことはめったにありません。
(今年は、福間健二『青い家』(思潮社、2011)が歴程賞、萩原朔太郎賞を受賞しましたが、福間さんは賞を取るのが遅すぎたというか、なんというか、取るべくして取った存在ですね)
その中でも、なぜその作品が評価されるのかどうか、そういったことを書評を読み解くことから、作品を読み解くこともおもしろいかもしれません。


#議題が「メタファー(表現)による詩作品の評価」なのか「詩そのものの評価のされ方」なのか
#もう少し、皆様の反応を見てから方向づけたいと思います。
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